ゲームに直接関係ないけど、知っているとゲームが楽しくなったり艦娘への理解が深まったりするかもな知識
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目次
最近追加された項目
- 2017年冬イベントモデル海域 -- 2018-03-20
- イギリス駆逐艦史 -- 2018-03-03
※詳しい説明は Wikipedia などに任せてください。
皇紀(こうき)とは
神武天皇即位紀元(じんむてんのうそくいきげん)の略称であり、日本書紀の記述により系譜上の初代天皇である神武天皇が即位したとされる年を元年(紀元)とする日本の紀年法。
明治5年に制定され、翌6年に施行されたもので、皇紀元年は西暦紀元前660年にあたる。
つまり西暦に660を足せば、それが皇紀の数字となる。例をあげると、西暦1940年=皇紀2600年。
昭和生まれの日本軍の兵器の命名には皇紀が採用されているので、これを知っておくと採用された年代がわかる。
例を艦これ出演兵器で言えば九一式徹甲弾(91=皇2591→西1931)、九九式艦上爆撃機(99=皇2599→西1939)、零式艦上戦闘機(00=皇2600→西1940)など他多数。
大日本帝国の制式兵器は三八式歩兵銃(明治38年制式化)、三年式機関銃(大正3年制式化)のように当初は元号の年数をそのまま年式としてつけていた。
ではなんで皇紀が年式に採用されたかと言うと、大正が15年で終わってしまったので昭和元号だと大正期に採用された兵器と年式が被ってしまい、ならば西暦はというと明治後半に採用された兵器と被ってしまうためである。
式 | 皇紀 | 西暦 | 昭和 |
---|---|---|---|
九一式 | 2591年 | 1931年 | 昭和6年 |
九四式 | 2594年 | 1934年 | 昭和9年 |
九六式 | 2596年 | 1936年 | 昭和11年 |
九七式 | 2597年 | 1937年 | 昭和12年 |
九八式 | 2598年 | 1938年 | 昭和13年 |
九九式 | 2599年 | 1939年 | 昭和14年 |
零式 | 2600年 | 1940年 | 昭和15年 |
二式 | 2602年 | 1942年 | 昭和17年 |
三式 | 2603年 | 1943年 | 昭和18年 |
ただし、皇紀2600年に採用された陸軍機は零式ではなく一◯◯式の呼称を採用した(一◯◯式司令部偵察機など)。
この一○○の表記は陸軍だと(ひゃく)なのだが海軍だと(ひとまるまる)となる。
ちなみに、海軍は陸軍との対立もあってか、西暦1943年(皇紀2603年)以降は皇紀による命名は行われなくなった。
じゃあなんて呼べば良いんだよ
帝国海軍の病気性癖習性……である「とにかく敵にこっちの動き知られたくない病」により、航空機の皇紀呼称を廃止して軍艦並みに名称で呼ぶことにした。
(連合軍には皇紀だとTYPE-○○と整理されてしまうが、漢字名だと連合軍が混乱するだろうとかそんな屁理屈だったらしい。まぁ実際混乱してたんだが→翔鶴)
後述する紫電改や彗星、天山に「○○式」という名称が存在しないのはそのため。*1
なお、装備品などはこの後も普通に皇紀で制式化している(三式水中探信儀、五式三〇粍機銃など)。
また、漢数字が正式だが、海軍ではアラビア数字で書くこともあり、99艦爆、97艦攻といった書き方も間違いではない。
ただし、零式を0式と書いた例はないようだ。また、陸軍では使われない。
ただ、アラビア数字表記が敬遠される最大の理由は自衛隊と紛らわしいからである(自衛隊は西暦の下2ケタでアラビア数字が正式)。
軍艦とは
国際法的には、一国の軍隊に所属する全ての船舶。海洋法に関する国際連合条約にその定義が定められている。
旧日本海軍では独自の定義をしており、「菊の御紋」のついた艦、すなわち戦艦、巡洋艦、航空母艦、水上機母艦、潜水母艦、敷設艦、砲艦、海防艦が「軍艦」とされた。
「軍艦」を含めた戦闘艦は「艦艇」、国際法上の軍艦は「艦船」とされた。(但し厳密には昭和17年の規定変更により海防艦は軍艦から外される)
定義上「軍艦」ではない駆逐艦や潜水艦などでは「艦長」ではなく「長」と呼ばれるなど、扱いに差があった。
例えて言うと「軍艦」の「艦長」の階級は「大佐」または「中佐」だが、「駆逐艦」や「潜水艦」の「長」は「中佐」または「少佐」で1階級下。
「隊司令」が「大佐」で同格である。
もっとも、旧日本海軍が他国の駆逐艦を一等下に扱ったとか、「これは軍艦ではなく艦艇だ」と言って国際法の穴をつこうとしたとか、そういうことがあったわけではない。
海自や他国の軍艦をこの独自の定義に当てはめないよう注意*2。
これはあくまで「軍艦籍」という、帝国海軍の管理や階級のようなものであり、例えば日本の「軍艦一覧」などのような図では駆逐艦もちゃんと記されていた。
艦名の命名基準
軍艦の命名には基準があります。
日本艦名の命名基準
帝国海軍の命名基準はだいたいこんな感じ。(制定は1905年4月)
艦種類 | 基準 | 例 | 備考 |
戦艦 | 旧国名 | 大和、長門など | 「扶桑」もまた日本の別名 |
航空母艦 | 特殊名(主に空を飛ぶ瑞祥の動物) | 飛龍、翔鶴など | 昭和8年12月19日命名標準を「特殊名」として新たに追加、昭和18年6月4日以降、山岳名が追加 |
一等巡洋艦 (装甲巡洋艦) (巡洋戦艦) (重巡洋艦) | 山岳名 | 高雄、足柄など | 大正元年8月28日に類別「巡洋戦艦」が新設、昭和6年6月1日に金剛型の艦種変更に伴い消滅 |
二等巡洋艦 (防護巡洋艦) (軽巡洋艦) | 河川名 | 長良、川内など | |
練習巡洋艦 | 神社名 | 香取、鹿島など | |
一等駆逐艦(1000t~) | 気象に関するもの | 吹雪、雪風など | 昭和18年6月4日以降、甲型、乙型、丁型の各型で命名基準が変更となった |
二等駆逐艦(600~1000t) | 植物 | 栗、若竹など | 艦これ実装艦なし。昭和18年6月4日以降、一等駆逐艦のうち丁型*3も共通とされた |
潜水艦 | 排水量により等級分け+番号 | 伊168など | 等級は伊(1000トン以上)、呂(500トン以上)、波(500トン未満)に分かれる。 |
海防艦 | 島、島嶼、列島の名。 | 占守、択捉など | 戦争末期に建造された艦は番号名も使われ、丙型(第1号型海防艦:ディーゼルエンジン搭載)は奇数番号、丁型(第2号型海防艦:蒸気タービン搭載)は偶数番号とされている。 |
水上機母艦 | 過去の戦役における武勲艦名、抽象名詞 | 千代田、瑞穂など | |
潜水母艦 | 末尾に「~鯨」がつく名 | 長鯨、大鯨など | |
その他の補助艦艇など | 岬、海峡、名所・旧跡、かつて存在した艦艇の名ほか | 間宮、千歳など |
- なお上記のような命名基準が制定される前は、規則性も無く、非常に混沌としていた。
規定が決まる前の戦艦で例えると
・山の名前:「富士」「三笠」
・川の名前:「初瀬」*4
・日本の美称:「八島」「敷島」*5「扶桑」
・和歌からの引用:「朝日」*6
・神宮の名前:「香取」「鹿島」
・鹵獲以前の艦名を引き続き採用:「鎮遠」
と、多種多様であった。- 艦名のつけ方については、帝国海軍創建時は、1:幕府海軍や諸藩の艦艇からひきついだものはそのままの船名、2:新たに購入する艦船の名は海軍卿(後の海軍大臣)が名を選び太政大臣に提出して決定していた。
だが基準がないまま海軍卿が選名するのは不都合なところもあり、1874年(明治7年)8月、海軍大輔(次官)川村純義が基準案を太政大臣経由で天皇に上請奏聞し、同月31日治定(決定)した。
この際選ばれた基準が
・本邦に関わるものである
・名山
・大川
・旧国名
・著名な人名
の4つが選ばれている*7。 - その後内閣制度が始まった1885年(明治18年)12月より、海軍大臣が複数の候補名を選定して侍従長経由で天皇に奏聞し治定する形となり、これが基本となるが、規模が大きくなるにつれて多数の数を揃える小型艦艇にまで、態々天皇の治定を仰ぐのは大変になったので、1897年(明治30年)3月22日、まず水雷艇の命名は海軍大臣に委任され(後に新艦種として登場した駆逐艦もこれに加わる)、1905年(明治38年)8月1日には戦艦を国の名、一等巡洋艦を「山の名」とする命名標準および特別・特殊な名称の襲用に関する取り決め*8がなされ、1921年(大正10年)1月14日、戦艦、巡洋戦艦、巡洋艦以外の艦船の命名は全て海軍大臣に委任(1933年(昭和8年)12月19日、航空母艦の選名標準が定まるのと合わせて航空母艦も天皇の治定を仰ぐ艦種に追加)となり、天皇が選名するのは上記艦種のみとなる。
- なので、実をいうと上記のような艦種ごとの艦名の命名基準は、「治定する天皇との取り決め」で決められたのは「戦艦」「一等巡洋艦」「航空母艦」だけで、あとは海軍省内での「申し合わせ」のようなものである。
また初期のころは「著名な人名」も採用候補だったので、「楠木正成」とか「日本尊」という名の艦艇が竣役する事も可能ではあった。だが、どうも治定する明治天皇自身が、偉人の名を「沈む事態になることが普通の船よりも高い」軍艦に襲名する事は「沈んだ時に失礼」と考えておられたらしく否定的で、周囲もそれを察して候補名として挙げる事もなかったので、「著名な人名」が候補に挙がることはついになかったそうである。 - 戦利艦については、日清戦争での鹵獲艦は「本邦に関わる名」ではなかったが、同じ漢字圏でつけられた船名であることもあり、かつての幕府海軍艦艇をそのままの名で採用した先例に倣い、そのままの艦名で帝国軍艦に登録することで、明治天皇に裁定を得ている。一方で日露戦争での鹵獲艦は当然ながら漢字圏での船名ではないので、全艦艦名を本邦に関するものに置き換えている(なので某人気空想戦記で出てくるような鹵獲艦艇の名を漢字の当て字で命名*9することはありえない)。
- なので、実をいうと上記のような艦種ごとの艦名の命名基準は、「治定する天皇との取り決め」で決められたのは「戦艦」「一等巡洋艦」「航空母艦」だけで、あとは海軍省内での「申し合わせ」のようなものである。
- 艦名のつけ方については、帝国海軍創建時は、1:幕府海軍や諸藩の艦艇からひきついだものはそのままの船名、2:新たに購入する艦船の名は海軍卿(後の海軍大臣)が名を選び太政大臣に提出して決定していた。
いくつかの例外
- 艦名が決められた後、改装などで艦種が変更になった場合、引き続きその名が使われる時もあるので名前が命名基準と異なる艦も幾隻かある。例えば金剛型は竣工時は巡洋戦艦で一等巡洋艦のカテゴリーだったたが、その後改装を経て「巡洋戦艦」という艦種が消滅して戦艦になったため、山岳名の戦艦となった。
- 因みに巡洋戦艦は装甲巡洋艦の派生艦種であり、「戦艦」の単語が入っているがれっきとした「巡洋艦」である*10。
- 赤城は巡洋戦艦、加賀は戦艦の未成艦をそれぞれ航空母艦に変更しているのだが、当時は航空母艦の命名基準が存在しなかったため、そのままの艦名を使用している。*11
- 最上型および利根型は軍縮条約下の二等巡洋艦として計画されたため河川名だが、竣工後あるいは計画中に条約が失効し主砲を換装して扱いが一等巡洋艦になった。但し換装後も書類上は二等巡洋艦(軽巡洋艦)のままだったりする。
- 古鷹型2番艦加古は一等巡洋艦ながら河川名が使われている。これは元々長良型に続く5,500t型軽巡洋艦として4隻が計画され、加古*13、川内*14、那珂*15、神通*16の順で起工されたのだが、起工間もない3月17日にワシントン海軍軍縮条約の影響で加古は建造取りやめとなる。だが浮いた予算を同時計画していた7,000t級新造巡洋艦2隻のうちの1隻に回す事になり*17。その際、既に決められていた艦名も引き継ぐ事になったので、加古だけが命名基準制定後に河川名で一等巡洋艦に命名された例となった。
- 実はこの新造巡洋艦、既に名前が2隻とも決まっていた。それは「衣笠型一等巡洋艦」で一番艦衣笠、二番艦古鷹だったそうな。
- こうして加古はこの衣笠型一番艦に転用される事になり、晴れて加古型新造巡洋艦となる筈…だったのだが、工事中の事故で完成が遅れ、二番艦だった古鷹が先に完成、同型は「古鷹型巡洋艦」となり加古は二番艦となる。
因みに加古に譲った衣笠の名は準同型として計画された次級の一番艦に命名されたが、此方も加古と同様起工は早かったが完成が遅れ二番艦になっている。
- こうして加古はこの衣笠型一番艦に転用される事になり、晴れて加古型新造巡洋艦となる筈…だったのだが、工事中の事故で完成が遅れ、二番艦だった古鷹が先に完成、同型は「古鷹型巡洋艦」となり加古は二番艦となる。
- 実はこの新造巡洋艦、既に名前が2隻とも決まっていた。それは「衣笠型一等巡洋艦」で一番艦衣笠、二番艦古鷹だったそうな。
- 千歳・千代田は空母改装の際改名が検討されていたが、水上機母艦として戦功を挙げていること、名前が瑞祥動物である鶴を連想させること*18などから乗員に対し改名可否のアンケートを取ったところ、反対多数のため改名されなかった。
- 八八艦隊が計画された際、駆逐艦の大量建造も計画されたので艦名が不足する恐れがでてきた。そこで命名基準を改定して一等駆逐艦を奇数番号、二等駆逐艦を偶数番号で命名する事となり、其の1番艦は「第1号駆逐艦」とされた。その後計画八八艦隊計画自体が頓挫したので駆逐艦の大量建造は無くなり、それぞれが再度命名されている(第1号駆逐艦は神風と命名されている)。
- 戦争が始まると航空母艦の量産が予定されていたので、名前を考えるのが大変であることから、航空母艦に山の名前が追加された。雲龍型には就役したもので天城、葛城、未完成艦として笠置、阿蘇、生駒、鞍馬(いずれも未実装)がある。
- 因みに採用候補名として他に開聞、身延、岩木、妙義、乗鞍、那須、鮫龍などがあったという。
- 艦種変更等の際に改名が行われなかったことについては、帝国海軍では軍艦名は「天皇陛下から授かったもの」と考えられており、それを海軍の都合で変えるなど恐れ多いとされていたということもある。
小ネタ
- 日本を含む世界の海軍では、かつて存在した艦の名前を襲名することがよくある。
旧海軍で最も多く使われた艦名は『高雄』の4回。海上自衛隊を含めれば『千代田』が5回、『愛宕』『最上』『朝潮』『黒潮』『村雨』『春雨』『夕立』『雷』『電』『曙』『朝風』『対馬』『平戸』『有明』が4回。ただし、『高雄』『愛宕』は1隻の未成艦を含む。 - 外国では軍艦に人名や都市名を付けることは珍しくないが、日本では人名・都市名は使用しない。
前述しているように明治天皇が軍艦に人名を付けることを嫌ったためと言われている。都市名については、明治38年8月1日に明治天皇より侍従長を通じての御達しに、「都市名を付けちゃいけない訳じゃないけど、あまり面白くない*20」という言及がされている*21。- 『間宮』は間宮海峡からとられた艦名だが、間宮海峡が探検家の間宮林蔵に由来する名称のため、間接的に人名由来になったといえなくもない。『摩耶』も、元になった摩耶山が釈迦の生母の摩耶夫人に由来するので、間接的に人名由来である。
人名に由来する地名はそう多くはなく、艦名に採用までされたのは非常に珍しい例である。- 戦後も、白瀬矗陸軍中尉に由来する白瀬氷河から命名された南極観測船「しらせ」ぐらいしか例がない。
- 戦争中、「ロサンゼルス空襲」により国民の士気低下を恐れたアメリカは直後に戦艦「ヒラヌマ」を撃沈したと偽の報道をした。「ヒラヌマ」は平沼騏一郎のことであるが、当然旧海軍にこのような命名規則はない。
- 『間宮』は間宮海峡からとられた艦名だが、間宮海峡が探検家の間宮林蔵に由来する名称のため、間接的に人名由来になったといえなくもない。『摩耶』も、元になった摩耶山が釈迦の生母の摩耶夫人に由来するので、間接的に人名由来である。
ちなみに戦後
艦種類 | 艦種類の詳細 | 世界的な艦種 | 基準 | 例 | 備考 |
汎用護衛艦 (甲型警備艦) | DDのうち、主に近接防空戦・対水上艦艇戦・対潜任務を主とするもの。 | 駆逐艦・フリゲート | 気象に関するもの | むらさめ、ゆうだちなど | 旧軍の一等駆逐艦に相当。なおDDのうち、イージス艦の補完役として建造されたものは特に旧軍の秋月型駆逐艦から継承している。 |
ミサイル護衛艦 | DDGのうち、ターターシステムを搭載したもの。 | ミサイル駆逐艦 | |||
DDGのうち、イージスシステムを搭載したもの。 | ミサイル駆逐艦・巡洋艦 | 山岳名 | はるな、こんごうなど | 旧軍の一等巡洋艦*22に相当。DDHは当初海上自衛隊初の航空機搭載艦かつ満載5000トンを超える艦であったためこれに該当したが、イージス艦導入後は多目的護衛艦の一部とされている。 | |
ヘリコプター搭載護衛艦 | DDHの初期艦。 | ヘリコプター駆逐艦 | |||
DDHのうち、搭載機による戦闘や輸送を主眼としたもの。 | ヘリコプター航空母艦 | 旧国名 | ひゅうが、かがなど | 旧軍の戦艦に相当。排水量1万トン超の大型艦で、全通飛行甲板を備えているのが特徴。 | |
護衛艦 (乙型警備艦) | DEおよびFFM | フリゲート・駆潜艇 | 河川名 | いすず、きたかみなど | 旧軍の二等巡洋艦に相当。 |
潜水艦 | SS | 通常動力潜水艦 | 海洋に関する事象、水中動物、瑞祥動物 | くろしお、そうりゅうなど | 旧軍の一等駆逐艦、潜水母艦、航空母艦の一部に相当。平成11年11月5日から、瑞祥動物(龍)が追加された。*23 |
練習艦 | TVのうち、最初から練習艦として建造されたもの。 | 神宮・神社の名 | かとり、かしま | 旧軍の練習巡洋艦に相当。 | |
その他の補助艦艇 | 訓練支援艦、潜水艦救難艦など | 島、岬、海峡、名所・旧跡、かつて存在した艦艇の名ほか | てんりゅう、ちよだなど | 厳密に言うと軽巡の「天龍」は天竜川に由来するが、訓練艦の「てんりゅう」は渓谷名の天竜峡に由来している。とはいえ、こういったケースでも旧軍襲名を意識している場合がほとんど。 |
ドイツ艦名の命名基準
ドイツの軍艦名は、近代以降では人名や地名からとられている。また皇帝や著名な政治家、海軍功労者以外でも元来ドイツは陸軍国家であり海軍の伝統が浅いので陸軍軍人の名前を持つ艦も多かった。
- 第二次世界大戦時の艦艇だと
名称の種類 艦名 由来 人名 ビスマルク ドイツ帝国創設の功労者である鉄血宰相ビスマルクから プリンツ・オイゲン 17世紀末から18世紀初頭に活躍したオーストリアの軍人 グラーフ・ツェッペリン 硬式飛行船の実用化に成功したフェルディナント・フォン・ツェッペリン伯爵にちなむ*24。 レーベレヒト・マース 第一次世界大戦時の海軍少将 マックス・シュルツ 第一次世界大戦で戦死した水雷艇艇長 地名 ケーニヒスベルク 現在はロシア連邦領カリーニングラードとなっている都市「ケーニヒスベルク」より ケルン ドイツ西部の都市 シュレスヴィヒ・ホルシュタイン*25 牛の「ホルスタイン」の語源として知られるドイツ北部の州
- ちなみに「Z1」「Z3」等の呼称は、艦名とは別の「ナンバー」である。Z1のページの小ネタに詳しい解説があるので、そちらを参照のこと。
- 例外として「ドイッチュラント」、つまりドイツそのものを名前としている艦もある*26。ただし「ドイツそのものの名を冠したフネが沈められると国民の士気にかかわる」という理由でリュッツオウ*27に改名されている。
- 因みにこのリュッツオウという名は、同時期に建造されていたアドミラル・ヒッパー級重巡洋艦5番艦の名前でもあったが、1939年に独ソ不可侵条約が締結されたことで、350万トンの物資と引き換えに1940年2月11日に未完成のままソ連に売却されてしまったので、空いた名前を流用して命名された。
- ドイツ海軍の代名詞である潜水艦はドイツ語の潜水艦を意味するUnterseeboot(ウンターゼーボート、水の下の船)の頭文字の「U」と番号を合わせたものが名前で、等級ごとに伊呂波と分けてあとは番号を付けた日本海軍のと似ている。
イタリア艦名の命名基準
イタリア海軍はいずれの艦種も人名と地名が主であるが、日本のように山岳名や天象気象名を使ったりする時もあった。しかし古代ローマ時代からの歴史を持ち、各方面の偉人を多く輩出していることもあって人名艦の比率が高い。
実装艦娘だと
名称の種類 | 艦名 | 由来 |
---|---|---|
人名 | L.d.S.D.d.Abruzzi | イタリアの王族で海軍提督、登山家・探検家であるアブルッツィ公ルイージ・アメデーオ・ディ・サヴォイア=アオスタから |
G.Garibaldi | 「イタリア統一の三傑」の一人とされるジュゼッペ・ガリバルディから | |
Conte di Cavour | 「イタリア統一の三傑」の一人とされるカヴール伯カミッロ・ベンソから | |
Luigi Torelli | ミラノ反乱など反墺運動を指揮し、統一後は商工大臣を務めた元老議員ルイージ・トレッリから | |
C.Cappellini | 普墺戦争におけるリッサ海戦で砲艦「パレストロ」艦長として戦死したアルフレド・カッペリーニから | |
地名 | Italia | 国名から |
Roma | イタリアの首都ローマから | |
Zara | 第一次世界大戦後に編入された都市「ザラ」から*28 | |
Pola | 第一次世界大戦後に編入された都市「ポーラ」から*29 | |
動物名 | Aquila | 鷲のこと |
天象・気象名 | Maestrale級駆逐艦 | それぞれ北西の風(Maestrale)、北東の風(Grecale)、南西からの湿った強風(Libeccio)、初夏の南風(Scirocco)の意味 |
役職名 | Littorio | 古代ローマの役職「リクトル(ラテン語:Lictor)」のイタリア語名 |
- 人名艦の場合は古今東西のイタリアの偉人の名前が付けられており、軍人や政治家だけでなく、詩人や芸術家、科学者*30なども艦名にするのがイタリア流である。
- 重巡だけは全て都市名由来だが、実は第一次大戦でオーストリア=ハンガリー帝国から取り返した地域*31の都市名を付けている。これらの地域は第二次世界大戦敗戦後に取り上げられ、現在はクロアチア領になっている。
アメリカ艦名の命名基準
- 第二次世界大戦頃のアメリカでは艦種ごとに命名基準を決めており日本と同じである*32。
実装艦娘で見ると以下の通りとなる艦種名 基準 例 由来 戦艦 州名*33 Iowa アメリカ合衆国中西部にある第29番目の州「アイオワ州」より Colorado アメリカ合衆国西部にある第38遍目の州「コロラド州」より Washington アメリカ合衆国西海岸最北部にある第42遍目の州「ワシントン州」より South Dakota アメリカ合衆国の中西部にある第40遍目の州「サウスダコタ州」より Maryland アメリカ合衆国の中部大西洋岸にある「独立13州」の一つ「メリーランド州」より Massachusetts アメリカ合衆国の北東部の州で「独立13州」の一つ「マサチューセッツ州」より Nevada アメリカ合衆国西部にある第36偏目の州「ネバダ州」より 重巡洋艦
軽巡洋艦都市名 Houston テキサス州にある同州最大かつアメリカ有数の世界都市「ヒューストン市」より Northampton マサチューセッツ州の西部、ハンプシャー郡に位置する「ノーザンプトン市」より Tuscaloosa アラバマ州の西部にある、アラバマ大学を擁する学術都市「タスカルーサ市」より Brooklyn ニューヨーク州ニューヨーク市内の行政区の一つ「ブルックリン区」より Phoenix アリゾナ州の州都「フェニックス市」より Honolulu ハワイ準州*34オアフ島にある同州の州都「ホノルル市」より Helena モンタナ州の州都「ヘレナ市」より Atlanta ジョージア州の州都「アトランタ市」より 駆逐艦 海軍関係者の名
海軍に功績のあった人物名Fletcher 1914年にベラクルス上陸を指揮し名誉勲章を受章したフランク・F・フレッチャー提督*35に因む Johnston 南北戦争で活躍したジョン・V・ジョンストン大尉に因む Heywood L.E. 第二次大戦の緒戦でUボートに撃沈され戦死した駆逐艦「ルーベン・ジェームズ」艦長ヘイウッド・L・エドワーズ少佐に因む Samuel B.Roberts ガダルカナルの戦いで戦死し海軍十字章を受章したサミュエル・B・ロバーツより 潜水艦 海洋生物の名前 Scamp ハタ*36の一種スキャンプ・グルーパーに因む Salmon サケに因む Drum ニベ科*37の魚類数種に因む 航空母艦 古戦場
過去の武勲艦名
形容詞
地名
などIntrepid 元は「大胆不敵」を意味する形容詞。過去にあった武勲艦からの襲名 Lexington 独立戦争の契機となったイギリス軍とマサチューセッツ植民地民兵との戦い「レキシントン・コンコードの戦い」から命名された武勲艦からの襲名 Saratoga 独立戦争時の「サラトガの戦い」から命名された武勲艦からの襲名 Hornet スズメバチを意味する言葉から。過去にあった武勲艦からの襲名 Ranger 元は「徘徊する者」を意味する形容詞。過去にあった武勲艦からの襲名 Langley 元はアメリカの天文学者、発明家で航空の先駆者の一人の「サミュエル・ラングレー」。太平洋戦争序盤に撃沈された空母「ラングレー」からの襲名 Gambier Bay アラスカにあるアドミラルティ島のガンビア湾に因む - 装甲巡洋艦と大型巡洋艦は州名を使用している*38。戦後は都市名の他に古戦場名、海軍軍人などの人名も使われている。
- 潜水艦の名前については、当初は番号制で開発順にA~Sのアルファベットに番号が付く命名方法だった。戦後は海洋生物名の他に人物名もつけられるようになり、原潜が大規模に建造されるようになると都市名、そして現在では戦艦から州名を引き継いで命名されている。
- 巡洋戦艦はアメリカ海軍では長らく保有していなかったので規定はなかった。ようやく計画したレキシントン級も艦名は古戦場(レキシントン・サラトガ)やらアメリカ国旗の星を象徴する名(コンステレーション)だったり、アメリカそのものを指す名前(ユナイテッド・ステーツ)だったりとバラバラだった。
- なおレキシントンとサラトガはワシントン軍縮条約で巡洋戦艦から空母に改装されたため、名前がそのまま流用された。
- 航空母艦は米海軍最初の空母こそ人物名だが、続いて巡洋戦艦から空母となったレキシントン、サラトガがどれも古戦場名かつ過去のの武勲艦からの襲名だったこともあり、以後の艦はそれに準じた命名をされる事が殆どだった*39。戦後はそれに準じた艦(強襲揚陸艦など)にも戦場の名前を付ける事が一般化した*40。
戦後は大統領名*41や海軍関係者名*42からの襲名も多くなり、2022年時点で米海軍所属の空母は全て人名の由来の艦となっている*43。 - 戦争中大量に建造された護衛空母の場合は、とてもではないが艦名のネタが間に合わないということで、地図から適当に選ばれた湾の名前が付けられた例(「○○・ベイ」シリーズ。ガンビア・ベイ*44等)も存在する。
- アメリカ海軍において州名を冠された艦は「ステート・シップ」と通称され、特別な格を持つ存在として扱われる。戦艦に限らず、代々のステート・シップを見ていくと、その当時のアメリカ海軍がどの艦種を主力と見做していたかが判って興味深い。
なお、現在は原子力潜水艦がステート・シップである*45。- 日本人の中にはアメリカの「州」を日本の都道府県と同じような地方行政組織と思っている人も多いが全く違う。そもそもアメリカは「連邦国家*46*47」であり、「州」は連邦政府と国家主権を共有する「国家」である。各州に「州憲法」「州警察」「州軍」「州最高裁判所」などが独自に制定されているのもそれが理由である*48。そういった「国家」でもある州の名を冠する「ステート・シップ」という存在は、アメリカにとっては国の威信をかける艦種につけるにふさわしいものだった訳である。
- 戦後水上艦艇の中核の位置にあった空母がステート・シップになったことは実は一度もない。その代わり空母は“ステート・シップに並ぶ偉大な存在”と言うことで、原子力空母が主力となった1980年代以降は前述のように大統領や海軍提督、海軍に功績のあった政治家の名*49が使用されている。
- なお、第二次世界大戦後まで準州だったアラスカとハワイを除いて、唯一戦艦の艦名になったことがないのがモンタナ州。計画艦としては2回使われる筈だったが、いずれも条約や戦争のため未成止まり。(´・ω・) カワイソス
- 装甲巡洋艦や原子力潜水艦の艦名にはなっている。
小ネタ
- アメリカ海軍では、沈没艦の艦名を、直後に進水した新造艦に即座に襲名させることが多い。沈没艦が残した戦訓を記憶に留め、武勲を賞するためだという。
- 大戦中に進水した空母や巡洋艦の一部に至っては、本来予定されていた艦名を返上している。
- 例えば1944年10月24日にレイテ沖海戦で空襲を受けて沈んだインディペンデンス級軽空母「プリンストン」の艦名を、1か月も経たない11月21日に「ヴァリー・フォージ」の名で建造中だったタイコンデロガ級航空母艦(改エセックス級)に襲名させている。
いくらなんでも早すぎ…
- 例えば1944年10月24日にレイテ沖海戦で空襲を受けて沈んだインディペンデンス級軽空母「プリンストン」の艦名を、1か月も経たない11月21日に「ヴァリー・フォージ」の名で建造中だったタイコンデロガ級航空母艦(改エセックス級)に襲名させている。
- 逆に日本海軍は、事故や戦闘で失われた艦名は縁起が悪いとして殆ど襲名しなかった*50。
- 大戦時は、ヨークタウンやレキシントンなど、撃沈したはずの艦名がたびたび通信に登場するため、日本海軍は随分と混乱させられたそうである。
- 大戦中に進水した空母や巡洋艦の一部に至っては、本来予定されていた艦名を返上している。
- 同じ英語を第一公用語としている関係で、イギリスと艦名が被る事が少なくない。
「エンタープライズ」といえば米空母U.S.S.エンタープライズを思い浮かべるだろうが、同時期に軽巡洋艦H.M.S.エンタープライズが存在したりしている。 - また各国とも軍艦の名前に自国の雅称・別称を用いたり、国名をそのまま使うことが実は少なくない。
日本=大和、扶桑、敷島、秋津洲
イギリス=ブリタニア、アルビオン
イタリア=イタリア
フランス=フランス
ドイツ=ドイッチュラント
ソ連=ソヴィエツキー・ソユーズ
などなど
アメリカにも同様の命名はいくつか存在し、その中には「ユナイテッドステーツ」というのがある……のだが、どういうわけかこの名前を冠された船は軍民問わず碌な目に遭わないため、現在は不名誉欠番状態である。*51
他「コロンビア」は命名由来としては都市名からだが、アメリカ国家そのものの雅称でもあり、旧国名でもある「大和」と同種とも言える。またそのままズバリ「アメリカ」という名の艦も存在しており、最近ではアメリカ級強襲揚陸艦の1番艦に「アメリカ」*52と命名した事例がある。
イギリス艦名の命名基準
イギリス海軍の艦名は基本的に規則らしいものが無い襲名制のため、何から何まで混沌としている。
代表例として
艦種 | 艦名 | 名称の種類 | 由来 |
---|---|---|---|
戦艦 | Nelson | 人名 | アメリカ独立戦争・ナポレオン戦争などで活躍したイギリス海軍提督「ホレーショ・ネルソン」から |
Rodney | 人名 | 七年戦争・アメリカ独立戦争などで活躍し、下院議員も務めたイギリス海軍提督「ジョージ・ロドニー」から | |
Warspite | 古語 | 「戦争を軽蔑する」という意味の古い言葉 | |
Valiant | 形容詞 | 「勇敢な」や「勇気」という意味 | |
Prince of Wales | 称号 | 王位の法定推定相続人たる王子・王女に与えられる称号。所謂「王太子」 | |
巡洋戦艦 | Hood | 人名 | アメリカ独立戦争・フランス革命などで活躍したイギリス海軍提督「サミュエル・フッド」から |
Repulse | 形容詞 | 「撃退、反撃」という意味 | |
航空母艦 | Ark Royal | 物 | アークは「方舟」を意味し、特に旧約聖書に登場する「ノアの方舟」を指す。 |
Victorious | 形容詞 | 「勝利した」という意味 | |
Hermes | 神名 | ギリシア神話に登場する神、ヘルメースの英語読み | |
重巡洋艦 | Exeter | 都市名 | デヴォン州の都市「エクセター」から |
軽巡洋艦 | Sheffield | 都市名 | イギリス中部の工業都市「シェフィールド」から |
駆逐艦 | Jervis | 人名 | ナポレオン戦争時に海軍大臣を務めた初代セント・ヴィンセント伯爵「ジョン・ジャーヴィス」から |
Janus | 神名 | ローマ神話における出入り口と扉の神「ヤーヌス」(Ianus)から*53 | |
Javelin | 武器名 | 投げ槍を意味する |
などがある。
駆逐艦や潜水艦では等級内で頭文字が統一されていたり、一部の等級は艦名が規則性のある地名や形容詞に限定されるなど多少は統一されていたりはするが、それでも日米に比べればかなりわかりにくい。
- 韻を踏んだ命名としてはイ(ン)~ブルシリーズがある。これも帆船時代からの襲名が大半である。(インヴィンシブル、インドミタブル、インフレキシブル、インディファティガブル、イレジスティブル、インプラカブル、インコンパラブル)
- また、同じ英語文化圏である為時たまアメリカと被った*54。特に有名なのがエメラルド級軽巡洋艦エンタープライズ*55。
- 逆に、アメリカ海軍が意識的に被せた例もある。有名なのがボルチモア級重巡洋艦キャンベラ。これは第一次ソロモン海戦で撃沈されたオーストラリア海軍(友軍)のケント級重巡洋艦からの襲名である。
- 基本的には帆船時代からの襲名が多いのだが、中には過去の戦争でフランス海軍から鹵獲した艦のフランス語由来の名前を襲名させるという*56厚かましいにも程があるマネも度々やっている*57。
- 但し、1艦級の名前に統一性を持たせる事はよくしている。例えばクイーン・エリザベス級に続いて建造されたリヴェンジ級は艦名が全て「R」で始まるものに揃えられ、R級ともいわれている。
- なおリヴェンジ級は8隻計画*58されたが、6.7.8番艦は第一次世界大戦勃発により建造中止となる。だが6.7番艦は巡洋戦艦に設計変更され、艦名もそのまま引き継いで建造される。それがレナウン級巡洋戦艦であり、7番艦はマレー沖海戦で沈んだレパルスである。
- 更にいえば1921年に英皇太子の御召艦として来日したレナウンに因んで社名としたのが、日本のアパレルメーカー・レナウンであったりする。
- 特に大戦前後のイギリス海軍の駆逐艦はA級B級C級…と共通する頭文字で始められ、そのまま艦級名も表されている。例えば、ジャーヴィスはJ級駆逐艦である。
例外はトライバル級・ウェポン級・バトル級で名前の通り民族名・武器の名前・古戦場名をつけているが、これは嚮導駆逐艦としても考慮されていたため。 - 他にもアドミラル級戦艦(艦名が全て英海軍名提督)*59や、カウンティ級重巡洋艦(艦名が全て州名)、タウン級軽巡洋艦(艦名が全て都市名)、リバー級フリゲート(艦名が全て川の名前)、フラワー級コルベット(艦名が花の名前)等が有名どころ。
- 因みにギリシャ・ローマ神話由来の艦名が多いのは、18世紀後半に第一海軍卿(海軍大臣に相当)であった第4代サンドウィッチ伯爵*60が自分の趣味で新造艦に神話由来の艦名を多く付けたのを長年襲名してきたのが原因とされている。
ロシア帝国、ソヴィエト艦名の命名基準
- ロシア海軍の軍艦名はドイツと同様人名や都市名が多いが、イギリスのように形容詞を用いている場合もあり、駆逐艦クラスは形容詞の艦が多い*61。
名称の種類 艦名 由来 古戦場名 ガングート 大北方戦争時の「ガングートの海戦」にちなむ。因みに同海戦は「ハンゲの海戦」と呼ばれる方が一般的だが、戦場となったハンゲ半島 (Hangö udd ハンゲ・ウト) がロシアで訛ってガングートと呼ばれるようになった。 都市名 タシュケント ウズベキスタンの首都タシュケントに因むが、ロシア内戦時の武勲艦からの襲名 ノヴォロシースク ロシア連邦南部の都市で、クラスノダール地方にある黒海沿岸の主要港から。第二次世界大戦後にイタリアより賠償艦としてソ連に引き渡されたコンテ・ディ・カブール級2番艦ジュリオ・チェザーレなどが襲名 アルハンゲリスク ロシア北西部の白海に注ぐ北ドヴィナ川の河口近くに位置する都市アルハンゲリスクに因む。第二次世界大戦中にイギリスよりソ連に貸し与えられていたリヴェンジ級戦艦「ロイヤルサブリン」などが襲名 ムルマンスク コラ半島の北岸にある、ソ連最大の港湾都市に因む。第二次世界大戦中にアメリカよりソ連に貸し与えられたオバマ級軽巡洋艦「ミルウォ―キ―」などが襲名 人名・神名 アヴローラ ローマ神話に登場するアウロラのロシア語名に因む。防護巡洋艦「アヴローラ」は日本海海戦を生き残り、十月革命時でも重要な役割を務め、記念艦として現在も残っている。 マクシム・ゴーリキー 帝政ロシア時代の作家、社会思想家のマクシム・ゴーリキー*62*63に因む。第二次世界大戦時はマクシム・ゴーリキー級軽巡洋艦マクシム・ゴーリキーがバルト海艦隊に所属していた。 キーロフ 暗殺された革命家セルゲイ・キーロフ*64に因む。第二次世界大戦ではキーロフ級軽巡洋艦キーロフがバルト海艦隊に所属していた。暗殺後ウラル山脈の西側にある故郷のヴャトカはキーロフに改名され、近辺を含む州名にも採用された。 形容詞など ヴェールヌイ 意味は「真実の、信頼できる」。第二次世界大戦後に日本より賠償艦としてソ連に引き渡された特型駆逐艦響などが襲名した。 ヴネザープヌイ 意味は「突然の」。第二次世界大戦後に日本より賠償艦としてソ連に引き渡された秋月型駆逐艦春月などが襲名した。
- ロシア革命後は各種事情から多くの艦艇が革命に因む名に改名され、艦これでも実装されているガングートが改でオクチャブリスカヤ・レヴォリューツィヤ(十月革命の意味)に改名するのはそれが理由。他にもセヴァストポリがパリジスカヤ・コンムーナ(パリ・コミューンの意味)、エカテリーナ2世がスヴォボードナヤ・ロシア(自由なるロシアの意味)等に改名している。
- しかし、いくら革命に因んだ名前とは言え、「ムルマンスク青年共産党員*65」だの「トビリシ共産党青年部」だの「第二十六回共産党大会記念*66」だのは如何な物かと……
- ソ連成立後以降に起工された巡洋艦クラスでは「キーロフ」や「マクシム・ゴーリキー」などソ連の革命的偉人の名前をつけるようになるが、戦後にはこの命名基準は崩れている。
- 駆逐艦であっても巡洋艦との中間に位置する性格の嚮導駆逐艦にはタシュケントのように都市名がつけられた。
- 1939年に承認された艦隊整備計画によって、ソビエト連邦とその構成国の名*67を冠した「ソビエツキー・ソユーズ」級戦艦が整備される予定だったが、材料や技術の不足、そして独ソ戦の勃発によって中断。戦後に建造再開を模索したものの結局放棄された。
フランス艦名の命名基準
- イタリアやドイツと同じく人名や都市名などが多いが、形容詞*68等も使用されている。
代表的な例として
艦種 | 艦名 | 名称の種類 | 由来 |
---|---|---|---|
戦艦 | Richelieu | 人名 | ルイ13世の宰相を務め、絶対王政の確立に尽力した「リシュリュー」公爵アルマン・ジャン・デュ・プレシー枢機卿にちなむ |
Jean Bart | 人名 | 私掠船の船長として大同盟戦争で活躍し、ルイ14世により貴族に叙せられた「ジャン・バール」大尉にちなむ | |
Dunkerque | 地名 | フランス港湾都市「ダンケルク」にちなむ | |
航空母艦 | Béarn | 地名 | 当時スペインとの国境地帯にあった「ベアルン」州から |
水上機母艦 | Commandant Teste | 人名 | フランス初の空母『Béarn』の設計に関わり、初の離着艦にも成功した「ポール・テスト」少佐にちなむ |
軽巡洋艦 | Gloire | 名詞 | 「栄光」や「名誉」という意味 |
駆逐艦 | Mogador | 地名 | フランスの保護領だったモロッコの港湾都市「モガドール」*69にちなむ |
- アルジェリアン級駆逐艦のように、イギリス同様に世界の民族名を採用した例も存在する*70。
- 「ラ・~」「ル・~」「ド・~」といった艦名がいくつか見られる*71が、「ラ」「ル」はフランス語の定冠詞*72、「ド」は貴族称号の前置詞である。*73「シャルル・ド・ゴール」の「ド」もこれ。
- 影が薄いが、フランスにも国名を関した艦が存在する。弩級戦艦クールベ級の「フランス」である。
オランダ艦名の命名基準
- かつてイギリスと世界の海洋覇権を争ったオランダも、第二次世界大戦の頃までには植民地はインドネシアしかなく、もてる戦力の殆どを植民地に回していたので、足の長い巡洋艦や、植民地防衛のための海防戦艦を中心とした編成をとり、規模も列強に比べて貧弱だったが、歴史ある海軍国家であるため、その名前には著名な海軍提督の名を数多く使用していた。
代表的な例艦種 艦名 名称の種類 由来 軽巡洋艦 De Ruyter 人名 英蘭戦争の英雄「ミヒール・デ・ロイテル」提督にちなむ Java 地名 当時オランダの植民地だった「ジャワ」島にちなむ Tromp 人名 八十年戦争や英蘭戦争を戦ったマールテン・トロンプ提督と、その息子であるコーネリス・トロンプ提督にちなむ
- 艦これにも実装された『デ・ロイテル』は第二次英蘭戦争でイングランド海軍を、第三次英蘭戦争では英仏連合艦隊を、それぞれ撃退した英雄「ミヒール・デ・ロイテル」提督。同時期に所属していた艦艇にも、トロンプ級軽巡洋艦「トロンプ*74」「ヤコブ・ヴァン・ヘームスケルク*75」などがいる。
- また、他国にももれず、自国の美名を艦名にしたのもある。例えばデ・ロイテルらと同時期に在籍していた海防戦艦「デ・ゼーヴェン・プロヴィンシェン*76」などがいる。
オーストラリア艦名の命名基準
- オーストラリア海軍は、1901年にイギリスから事実上の独立を果たした後も、旧宗主国海軍との協力関係は続いており、艦艇も多くはイギリスで建造されたのを配備してもらったり、貸与されたりしていた。只、同じ英語圏ではあるがそれらの艦艇はイギリスで命名されたのとは別に、主にオーストラリアの都市の名を改めて襲名させている場合が主力艦などでは多い。2020年10月現在実装されているパースも、元の名はアンフィオン (HMS Amphion) で、改名したパースというのも、現西オーストラリア州州都からの襲名である。
代表的な例艦種 艦名
()内はイギリス海軍時の旧名名称の種類 由来 軽巡洋艦 Perth
(Amphion)地名 オーストラリア西岸の港湾都市「パース」から。なお旧名のAmphionは古代ギリシアの弁論家にちなむ - 駆逐艦などの小艦艇もイギリス海軍からの貸与が多いが、こちらはイギリス海軍時代からの名前を踏襲している場合が多い。
艦船接頭辞について
- 一部の海外艦娘の中には、自身の名前の前にアルファベット記号を名乗る者*77もいる。
これは「艦船接頭辞」というもので、軍用艦艇の場合は所属する国家を示す接頭辞である場合が多い。但し国によっては付けていない国も多く、大日本帝国海軍やナチスドイツ時代のドイツ海軍などは艦船接頭辞は付けていない- 接頭辞は時代や国によって異なるし、一つの国でも艦種で違うのを使っていたりもする。
- イギリス海軍は「His/Her Majesty's Ship」を略した「HMS」が有名。意味は「国王/女王 陛下の船」
しかし潜水艦艇の「HMSm(His/Her Majesty's Submarine:国王/女王 陛下の潜水艦艇)」や小型機動艇の「HMSML(His/Her Majesty's Small Motor Launch:国王/女王 陛下の小型機動艇)」もある。また陸軍も艦艇を持っていているので、その艦船接頭辞は「HMAV(His/Her Majesty's Army Vessel:陛下の陸軍艦艇)」となる - イギリスとの関係が深いオーストラリア海軍では「HMAS(His/Her Majesty's Australian Ship :国王/女王 陛下のオーストラリア艦艇)」が使用されている。
- アメリカ海軍は「United States Ship」を略した「USS」で、意味は「アメリカ合衆国船」。アメリカの場合は基本的には艦種に関わらず「USS」を使用している。
アイオワなどが出撃時に名前の前に述べている「BB-61」などは、実はこれはアメリカ海軍の「船体分類記号」でヨーロッパの「ペナントナンバー」に類似したもので、艦船接頭辞とは少し異なるもの。ペナントナンバーは元々、所属小艦隊や艦種を表すペナントに番号を組み合わせて各艦を特定できるようにしたもので、その後ペナント(三角旗)から記号に替わり、現在でも使われている。
アメリカ海軍の「船体分類記号」では、最初に艦種を表す記号がつき、その後に建造された順に番号が振られた*78。 - 大日本帝国海軍や、ナチスドイツ期のドイツ海軍では艦船接頭辞は使われていない。一部書籍では「HIJMS*79」や「IJN*80」(共に日本)や「DKM*81」「KMS*82」(ドイツ)が使用されているのがあるが、これは表記に一貫性を持たせるために便宜的につけられたもので、日本海軍とかが使用していた訳ではない。
尚、日本海軍の後身である海上自衛隊では「JDS(Japanese Defense Ship:日本護衛艦)」や「JS(Japanese Ship :日本艦艇)」が使用されている。
- イギリス海軍は「His/Her Majesty's Ship」を略した「HMS」が有名。意味は「国王/女王 陛下の船」
- 接頭辞は時代や国によって異なるし、一つの国でも艦種で違うのを使っていたりもする。
軍用機の命名基準
帝国海軍
帝国海軍機の命名基準は開戦時は『採用年(皇紀)下2桁 + 機種』で、例えば九七式艦上攻撃機)は皇紀25「97」年に正式採用された艦上攻撃機となる。さらに前*83は『元号下2桁 + 機種』。
陸軍も含め、あらゆる兵器は同様に命名される(例:三式通常弾)。
- なお1940年(皇紀2600年)は陸海軍で別の命名がされている。海軍はお馴染み零戦こと零式艦上戦闘機など「0」を用いているが、陸軍では一〇〇式司令部偵察機「新司偵」など「100」を用いていた。統一とは
- ちなみに。上記のように一定の法則で連番とならない数字を基にした場合の読み方は、二桁の数字ではなく一桁ごとの数字を別々に読む。なので「九三式」なら「きゅう-さん-しき」となる。
- これは現在の自衛隊でも、基準こそ西暦になったものの読み方の規準としては同じ。例えば「10式」が「じゅっ-しき」ではなく「ひと-まる-しき」なのはこのため。
- 「零戦のA6M2bとかってどういう意味?」とか解説すると非常に長くなるので詳しいことはwikipediaとかで調べてください。*84
- ちなみに。上記のように一定の法則で連番とならない数字を基にした場合の読み方は、二桁の数字ではなく一桁ごとの数字を別々に読む。なので「九三式」なら「きゅう-さん-しき」となる。
- 上記の命名基準は1942年途中より以下の様な類別による命名に変更された。具体的には『月光』以降の制式採用機が該当している。
機種 基準 例 備考 甲戦(制空戦闘機) 風 強風、烈風など 乙戦(局地戦闘機) 電 紫電、震電など 丙戦(夜間戦闘機) 光 月光、極光など 爆撃機 星 彗星、明星など 海軍で爆撃機とは基本的には急降下爆撃が可能な機体のこと 攻撃機 山 天山、深山など 海軍で攻撃機とは基本的には雷撃が可能な機体のこと 偵察機 雲 瑞雲、彩雲など 哨戒機 海・洋 東海など
- 艦上攻撃機『流星』は特例。本機は艦上攻撃機(雷撃機)と艦上爆撃機(急降下爆撃機)の統合機種だったため、「種別は艦上攻撃機」、「命名基準は艦上爆撃機」になっている。
同様の両用機には陸上爆撃機の『銀河』がある*85。 - 陸軍機にも『隼』のようなものがあるが、愛称(ペットネーム)に過ぎず制式名称は『一式戦闘機』*86。終戦まで命名基準が変わることはなかった。
- 但し、愛称自体は公募などで寄せられたものなどから陸軍に認可されたもの。「制式名」ではないが「公式名」ではある。
- なお、陸軍機のいわゆるサブタイプを示す「◯型」がつく場合だが、これらは漢数字で記されるのが正しく、ローマ数字やアラビア数字を使うのは誤り。
アメリカ海軍
第2次大戦当時のアメリカ海軍機の命名基準は、「(接頭記号)(機種記号)(通し番号)(メーカー記号)-(型番号)(設備記号)」で統一されており、
機種記号とメーカー記号によってどの会社が作ったどういう機体なのかすぐ分かるようになっていた。
例えばF6F-3の場合、それぞれF(戦闘機を表す機種記号)、6(設計の通し番号)、F(グラマン社のメーカー記号)-3(3番目の改良型を表す型番号)で、
「グラマン社が生産する6機種目の戦闘機の、3番目の改良型」という意味になる。
- 1機種目の場合、通し番号は省略される。
例:SBD。通し番号の1が省略されている(SB1Dとは表記しない)。 - 試作機は接頭記号として「X」を付け区別する。
例:XF6F-1、XF5Uなど。 - 同じ機体で製造メーカーが違うライセンス品はその都度メーカー記号と型番号を付けて区別する。この辺は日本海軍と異なる。
例:FM-1(ゼネラルモーターズ社によるF4F-4のライセンス品)。 - 設備記号は特殊な任務向けの機体や特殊な装備をした機体に付ける。
例:F6F-3P(武装偵察機型)、F6F-5N(夜間戦闘機型)など。
機種記号 | 例 | 備考 |
戦闘機(F) | F4F、F6Fなど | Fighterの略。 |
偵察爆撃機(SB) | SBD、SB2Cなど | Scout Bomberの略。 |
雷撃爆撃機(TB) | TBD、TBFなど | Torpedo Bomberの略。 日本海軍の攻撃機に相当する機種だが、急降下爆撃可能なものもあった。 |
観測偵察機(OS) 偵察観測機(SO) | SOC、OS2Uなど | OとSはそれぞれObservation、Scoutの略。 この2機種に明確な区分は無い。 |
メーカー記号 | 例 | 備考 |
ブリュースター(A) | F2A、SB2Aなど | |
ボーイング(B) | XF8Bなど | |
カーチス・ライト(C) | SB2C、SCなど | |
ダグラス・エアクラフト(D) | SBD、TBDなど | |
パイパー・エアクラフト(E) | HE-1など | |
グラマン(F) | F4F、TBFなど | |
グッドイヤー(G) | FG、F2Gなど | |
マクドネル・エアクラフト(H) | FH、F2Hなど | |
ゼネラルモーターズ(M) | FM、TBMなど | |
ロッキード(O) | ||
ライアン(R) | FR、XF2Rなど | |
ノースロップ(T) | ||
チャンス・ヴォート(U) | F4U、OS2Uなど | |
コンソリデーテッド・ヴァルティ・エアクラフト(コンベア)(Y) | PBY、XFYなど |
アメリカ陸軍
大戦期のアメリカ陸軍は現在の統一規則に近く、「(機種記号)-(通し番号)(モデル)」の順である。
故に「B-25」は、「B(Bomber、爆撃機)」の「25(25番目)」となる。設計変更が行われる度にAから順にアルファベットが付与され区別されていた(例外有り)。
なお、当時の米陸軍において戦闘機は「追撃機(Pursuit)」と呼称されており、戦闘機の機種記号も同様に「P」であった(P-38など)。
ドイツ兵器の命名基準
陸軍、海軍、空軍で異なるものもあるが、ゲーム内に実装されている装備に関連(共通)するものを紹介する。
略語 | 原語(読み方の参考) | 意味 | 備考 |
FlaK | Flugabwehrkanone (フルークアプヴェーアカノーネ) | 対空砲 | 3.7cm FlaK M42など。高角砲・機関砲・機銃を含む |
SK | Schnelladekanone (シュネルラーデカノーネ) | 速射砲 | 38cm連装砲(38cm SK C/34)など |
Schiffskanone (シフスカノーネ) | 艦砲 | 15cm連装副砲(15cm SK C/28)など | |
C/xx | Constructionsjahr (コンストルクツィオーンスヤール) | xx年式(設計年) | SKC34 20.3cm連装砲(20.3 cm SK C/34)など 西暦下2桁で表す。「C/」無しで数字のみで表記する場合も(2cm 四連装FlaK 38など) |
L/xx | Länge in Kaliber (レンゲ イン カリーバ) | xx口径(口径長) | 口径の数え方が他国と異なる |
Ju xx | Junkers (ユンカース) | (ユンカースの製造者コード) | Ju87、Ar196など。詳しくはWikipediaへ |
Ar xx | Arado (アラド) | (アラドの製造者コード) | |
Bf xx | Bayerische Flugzeugwerke (バイエリッシュ・フルークツォイクヴェルケ) | (バイエルン航空機製造(メッサーシュミットの前身)の製造者コード) | |
Fw xx | Focke-Wulf(フォッケヴルフ) | (フォッケウルフの製造者コード) | |
Me xx | Messerschmitt(メッサーシュミット) | (メッサーシュミットの製造者コード) |
各隊、戦隊、艦隊
日本海軍の各隊を参照。
プレイヤーの呼称・役職
艦娘の台詞に出てくるプレイヤーの呼称。
特記のない場合は旧日本海軍に準じて解説する。
呼称 | 階級(標準) | 解説 | 使用艦娘 |
提督 | 大将~少将 | 海軍の将官の総称、敬称。提督という役職・階級があるわけではなく、海軍将官なら誰でも提督と呼べる(陸軍での同義語は「将軍」)。 国によっても違いはあるが海外艦娘の一部が使う「Admiral」とほぼ同義である。*87ないし現地語で同様の意味を表す単語が使われている。)) 提督とは「提綱監督」の略称で、中国清朝の軍団「緑営」の武官職名*88から借用し、江戸時代末期*89に広く使われ始めた。 何故かというと、本来当てるべきであろう「将軍」という名称は、当時の常識で「征夷大将軍」のみを指す言葉*90だったため、他国の将官に当てはめることが出来なかったからである。 ちなみに日本で最初に広く提督と呼ばれたのは日本人では無く、皆さんご存じ「黒船のペリー」こと米海軍代将マシュー・カルブレイス・ペリー大佐である*91 | 陸奥、赤城ほか多数 |
司令官 | 少将~中将 | 「艦隊」の下にある第二戦隊・第一水雷戦隊・第四航空戦隊など「戦隊」の長。 ちなみに、第二艦隊や第一航空艦隊など「艦隊」の長は「司令長官」である。 鎮守府や航空隊などの陸上部隊の長も役職に応じて「司令長官」「司令」などと呼ばれた。 全てが該当するわけではないが真珠湾攻撃時を例に取ると、第一航空艦隊(司令長官-南雲中将)○○戦隊(司令官-三川中将、山口・原・大森少将)○○隊(司令-今和泉・大藤大佐)となり、逆に言えば司令-の上が司令官、司令官の上が司令長官となる。 | 吹雪、如月ほか多数 |
司令 | 中佐~大佐 | 「戦隊」のさらに下にある「隊」の長。駆逐隊・潜水隊・航空隊などが該当する。 上述の「司令長官」や「司令官」の略称ではなく独立した役職名である。 ただし艦娘の中には「司令官」「司令」共に使う者もおり、艦これの世界観ではどう違うのかは不明。 日本海軍においては、隊司令は大佐が務める。戦艦や巡洋艦など、いわゆる「軍艦」の艦長も原則として大佐であり、「隊」と「軍艦」は格式的に同等となっている。 上記の「軍艦」で編成された「戦隊」や、戦隊で構成される「艦隊」は、指揮官座乗の艦を「旗艦」と言うが、隊の司令座乗艦は司令艦と言う。例えば駆逐隊の司令座乗艦は旗艦ではなく「司令駆逐艦」と言う。このため、駆逐隊旗艦とか、潜水隊旗艦というのは誤りである。 なお、「大佐」は通常は「たいさ」と読む*92が、帝国海軍においては電報などで「だいさ」と読んでいた。*93「大尉」も同様に「だいい」と呼称することがあったが、「大将」はそのまま「たいしょう」だった*94。 | 比叡、陽炎ほか多数 |
将校 | 大将~少尉 | 海軍で「将校」と言えば兵科・機関科の士官(予備・特務士官を除く)を指したが、陸軍では兵科の士官、予備士官、叩き上げの士官(陸軍にはそもそも特務士官制度が存在しない)が将校とされた。 なお、将校ではない士官を「将校相当官」と呼び、海軍では厳密に区別されていた。 | あきつ丸 |
隊長 | 大尉~少尉 | 陸軍においては、単に「隊長」と呼んだ場合通常「隊」の長である中隊長又は小隊長を指す。 海軍においては、陸軍の編成を模した陸戦隊を除けば隊長と呼ばれる役職は存在しない。飛行隊長等の呼称はあるが、それはその攻撃隊の指揮官(攻撃に参加する)であって固定された役職ではない。 | まるゆ |
補足 | 大尉~兵曹長 | 海軍では下士官・兵卒は「○○中尉」等と名前と共に階級を入れて呼ぶのが普通なのだが、小さい艦であっても他科との接点は極端に少なく名前が分からない事は良くある事だった、その場合に使える「分隊士」(中尉~兵曹長)と言う便利な呼称もあった。大尉の場合は「分隊長」である。 また准士官と言う分類があり、兵学校生徒等がこれにあたり、階級章自体は金筋1本のみで兵曹長と同じだが准士官の方が上になる。 |
当時の軍事・戦略思想
- 大艦巨砲主義 (たいかんきょほうしゅぎ)
巨大で強力な火砲(と頑丈な装甲)を装備した大きくて強い艦(戦艦)が海上戦力の優位を決定するという考え方(ドクトリン)。その思想の極致は大和型戦艦となって現れたと言える。
ドレッドノートを先駆けとし、第二次大戦(の途中)までは日本を除き世界の海軍の主流な考え方だった。
- 航空主兵論 (こうくうしゅへいろん)
航空戦力を軍の中核に据えようという考え方。第二次大戦中における航空機と機動部隊の発達によって世界の海軍では主流となり、大艦巨砲主義を過去のものとした。
日本の大西瀧治郎中将、山本五十六元帥海軍大将、アメリカのウィリアム・ミッチェル少将など、ずっと以前から考えている人は少数ながらいたが、あくまでもイロモノ的アイディア扱いだった。
日本においては1934年11月に初代一航戦の誇り「高橋三吉」が連合艦隊司令長官に就任、その当時計画が進められていた新型戦艦「A140-F5」(後の大和型戦艦)不要論をぶち上げ軍令部より全門斉射の大反撃を受けるが、その流れを後任の「米内光政」海軍次官「山本五十六」が加速させ、航空母艦の建造や大型貨客船を空母へ改造する事を前提にした大幅な補助金の支給(飛鷹・隼鷹・海鷹)、搭乗員育成機関の増大と一気に様変わりを始め、開戦前には大型艦の建造計画中止と、航空機と潜水艦に注力する事が決定されている。 - 漸減邀撃作戦 (ぜんげんようげきさくせん)
大艦巨砲主義に基づく戦前の日本海軍の対米作戦構想。詳細はこちら。
- オレンジ計画 (War Plan Orange) (おれんじけいかく)
漸減邀撃作戦と対照を成す、戦前のアメリカ軍の対日本作戦計画。戦艦を主とする米艦隊が太平洋を西進して、フィリピン辺りで海上決戦を行うという内容であった。様々な情勢の中でかなりテコ入れされ、やがて新構想に変移していったが、後に太平洋戦争の進め方の基本となった。なお、他の国(WW2最大の同盟国だった英国もこの中に入っている)に対する作戦計画も秘匿のため色名で呼ばれており、日本に対応する計画名がオレンジになったのは深い意味は無いらしい。
艦載機の航空隊
艦これに登場する各航空隊を列記する。この内三桁の数字名の航空隊は実在した部隊名で、隊長の名を冠しているのは通称もしくは艦これで設定されたもので正式名ではない。
なお空母航空隊はマリアナ沖海戦前に大きな組織改変を行っている。
いわゆる「空地分離」といわれる改編で、それまで各空母が個別に編成していた航空隊を航空戦隊直轄で編成し、作戦ごとに戦隊所属の空母に派遣して投入するようにした。
これにより例えば瑞鶴がミッドウエー海戦に自身は健在なのに航空隊が損耗していて参加できなかった事例も、平時は地上基地で訓練している航空隊がすぐさま航空隊を派遣することで即応することが可能となった。
また台湾沖航空戦の時の小沢艦隊基幹の第三航空戦隊所属の六五三空の派遣のように、基地航空隊への増援も迅速に行えるし、その後のレイテ沖海戦で航空戦力が手元になくなった第三航空戦隊が、錬成途上の第一航空戦隊所属の六〇一空を急遽搭載して出撃するなど、臨機応変に対応しやすくなった。
艦これでの数字名の航空隊はこれら空地分離で編成された部隊であり、隊長名のはそれ以前の各空母が航空隊を編成していた時の部隊である。
日本海軍の各隊も参照。
- 江草隊
蒼龍に乗艦していた「艦爆の神様」こと江草隆繁少佐の隊。
少佐率いる艦爆隊は真珠湾攻撃やセイロン沖海戦などに参戦し、米戦艦「ネヴァダ」を擱座に追い込み、英重巡2隻と空母「ハーミーズ」を撃沈する成果を上げた。 - 付岩井小隊
支那事変から大戦終戦まで戦い抜き、最後まで被弾しなかった無傷の「ゼロファイターゴッド」、岩井勉操縦機が所属する部隊。
ただし、彼は下士官であり、史実では「岩井隊」と呼ばれる飛行隊は存在しない。ゆえに「付」なのだろう。
岩井勉氏は大戦時に瑞鳳や瑞鶴に乗組、航空母艦の戦闘機エースパイロットとして活躍した。 - 付岩本小隊
「零戦虎徹」と呼ばれるようになる零戦屈指のエースパイロット、岩本徹三が所属する部隊。
ただし、岩本は下士官であり、有名なラバウル時代を含めて実際に「岩本隊」として飛行隊を率いた経験はない。岩井隊同様、最初は「付」なのはそれが理由だろう。 - 友永隊
友永丈市大尉(死後中佐)が率いる空母飛龍所属攻撃機隊。
ミッドウェー島飛行場の爆撃と米空母ヨークタウンへの反撃を行っている。 - 村田隊
雷撃の神様と言われた村田重治少佐率いる部隊。 - 六〇一空
元ネタは恐らくマリアナ沖海戦時に第一機動艦隊の空母艦載機を統括していた頃の第六〇一航空隊内爆撃機部隊。 - 六三一空
伊四〇〇型潜水艦と晴嵐を用いたパナマ運河攻撃計画のため第一潜水隊ともども組成された部隊。首脳部は第一潜水隊と兼務だった。
晴嵐の他に事前偵察用の彩雲や訓練用の瑞雲も配備されていた。 - 六三四空
「第六三四海軍航空隊」は、元々伊勢・日向の第四航空戦隊に配備する艦載機の部隊として編成された。
ゲームに登場する瑞雲隊・彗星隊のみではなく、隼鷹・龍鳳搭載予定の零戦隊や天山隊も存在する。
瑞雲隊は終戦まで特攻によらず、ゲリラ的な襲撃を繰り返して戦果を挙げていた。 - 九三一空
第九三一海軍航空隊のこと。
この部隊は日本海軍の対潜掃討のエキスパートであり、商船改装空母「大鷹」「雲鷹」「海鷹」「神鷹」に乗艦し、船団の護衛を主任務としていた。
艦娘用語
艦娘がプロフィールやセリフとして使用していたり、関連する用語(造語含む)を紹介。
あ行
アイアンボトムサウンド/アイアンボトム・サウンド | |
読み | - |
使っている艦娘 | 夕立、衣笠 |
意味 | ソロモン諸島のサボ島・フロリダ諸島とガダルカナル島の間に位置する海峡。 当地の昔の名前は「サボ海峡」、命名者は16世紀のスペインの探検家メンダーニャ。WikiPedia.ja:アルバロ・デ・メンダーニャ・デ・ネイラ 太平洋戦争中、日米の大消耗戦となったガダルカナル島の戦いやソロモン海戦(第一次・第三次)により多数の艦船、航空機がこの海域に沈んだ。 海底を鋼鉄の残骸が埋め尽くしたことから、戦後誰ともなく「アイアンボトムサウンド(鉄底海峡)」と呼ばれるようになり、現在は当地の正式な名称として置き換わり、絶好のダイビングスポットとして有名となっている。 艦これに登場する艦で挙げられる内でも主人公の「吹雪」を始め「暁」「綾波」「霧島」「比叡」「古鷹」「夕立」「巻雲」「高波」「照月」がここに眠っている。 細かいことだが、自己紹介にて夕立は「アイアンボトム・サウンド」、衣笠は「アイアンボトムサウンド」と呼称(記述)している。 なお、「サウンド」は古代英語を語源とした「海峡」という意味の単語であり、同一スペルだが「音」のサウンドではないので注意しよう。 ついでに言うと、鉄底の材料は外でもない彼女たちの亡骸なので、在りし日の彼女たちからこの名で呼ばれたことはほぼ無い。 参考:http://www.ne.jp/asahi/kkd/yog/gf4_6.htm |
アウトレンジ | |
読み | - |
使っている艦娘 | 瑞鶴、瑞鳳 |
意味 | [射程:短]の敵の攻撃は届かないが[射程:長]のこちらの攻撃は届く距離から先制攻撃を行い戦況を有利に進めよう、といった考え。アウトレンジ戦法。 軍縮条約により米国に数で劣る日本軍が、艦隊決戦を有利に行うために考え出された。 発想は容易だが実行は困難で、特に艦載機による長距離攻撃にはかなりの練度を要した。 長大な航続距離を持つ一式陸攻、米魚雷の4倍以上の最大射程をもつ酸素魚雷、米海軍を上回る砲戦距離を維持できる戦艦群など、多くの兵器がアウトレンジ戦法を主眼として開発された……というのが10年ぐらい前までの定説。 現在では色々と当時の資料が出てきて、「必ずしもアウトレンジの為に開発されたのではない(=結果的にその様に使われたのは認める)」という感じである。 例えば長大な航続力を持つことで有名な零戦は、元々艦隊防空のために長い滞空時間を要求されており、航続力を要求されたものではなかった、などの例がある。 瑞鶴、瑞鳳両名がアウトレンジにこだわるのは、マリアナ沖海戦で数・質・練度の殆どで負けている米軍機動部隊に対し見出した唯一の勝ち目ながら、それすら容易く破られたため。 ただゲームシステム上、互いの砲撃が届く位置での殴り合いになりながら「アウトレンジで決めたいわねっ!」と言うことになるが、それは言わぬが花というものか。 |
赤煉瓦 | |
読み | あかれんが |
使っている艦娘 | 飛龍 |
意味 | 海軍省・海軍軍令部の通称。本庁舎の建物がイギリスから輸入した赤煉瓦づくりだったことに由来する。 所在地は霞が関にあった。*95(場所は現在の厚生労働省・環境省合同庁舎の位置) 戦争末期の山の手空襲で本庁舎は半壊。残った建物も1980年代までに老朽化と狭隘化により取り壊され、海軍時代の建物は残っていない。 また、海軍省地下防空壕筐体の一部は現在の千代田線霞ヶ関駅として使われている。 余談だが、通称”赤煉瓦”と呼ばれる建物は各地に存在するため、話題にするときは相手との連想対象のすれ違いに注意。 海軍関係の建造物では、海軍兵学校や舞鶴赤レンガ倉庫群などがよく赤煉瓦と呼ばれる。 これとは別に、デスクワーク畑ばかりを歩み続けた軍人を「赤煉瓦」と呼称する場合がある。具体例では任期の大半を陸上勤務で過ごした井上成美提督など。対義語は艦隊勤務ばかりを歩み続けた軍人に対する「両舷直」。 |
アレ | |
読み | - |
使っている艦娘 | 北上 伊58 竹 |
意味 | 「人間魚雷回天」九三式三型魚雷の機構を流用して作成された特攻兵器の事。 九三式魚雷の炸薬量490kgに比べ780kgと1.5倍以上も多く、命中すれば輸送船や巡洋艦クラスは1発で撃沈、戦艦や正式空母でも最低大破、撃沈も十分にある破壊力があった。 一方では取り扱いが難しく、訓練中の死者は特攻兵器の中でも最多である。 伊58は2番目に多い4回も回天を搭載した出撃をしており、その中には原子爆弾の輸送を終えた重巡洋艦インディアナポリスの撃沈も含まれる(通常の魚雷攻撃) もし本土決戦が行われていたら、事実上の回天母艦となっていた北上や竹も回天を積んで死出の海路を逝く事になったであろう。 尚、艦これではゴーヤや北上様ばかりが気に病んでしまっているが、終戦直前まで生き残っていた他の艦の中にもアレを装備しろと命令された娘はいる。とてもセンシティブな話題なので、史実を調べるうちに艦これ提督がその情報に偶然出会ったとしても、慌てずそっとしておいてあげましょう。 同じく回天を搭載していた伊47はアレではなく「魚雷より大きい魚雷」と呼んでいる。 |
イージス艦 | |
読み | - かん |
使っている艦娘 | 霧島、妙高など |
意味 | 後世に「イージスシステム」を搭載した軍艦、自衛艦のこと。 冷戦時代において、ソ連の飽和攻撃(90秒でミサイル100発など、敵の迎撃能力の限界を超える程の膨大な一斉攻撃)戦術への対抗策として米国が開発した。*96 人の判断頼りだった従来の防空システムとは違い、コンピュータにより多数のミサイルを同時に迅速に捕捉・迎撃可能。 各国のミサイル防衛計画の一翼を担っているが、非常に高価であること、米国が技術供与を行った国が限られていることなどから、2021年現在配備国は、米国、日本、韓国、スペイン、ノルウェー、オーストラリアの6ヶ国にとどまっている。 海上自衛隊には2021年現在こんごう型4隻(こんごう、きりしま、みょうこう、ちょうかい)あたご型2隻(あたご、あしがら)まや型2隻(まや、はぐろ)の計8隻が配備されている。 よく勘違いされるが、イージス艦とは「イージスシステム」を搭載した艦の総称であり、「航空母艦・巡洋艦・駆逐艦(護衛艦)」のような艦種のひとつではない。*97 例をあげると、「きりしま・みょうこう」はこんごう型ミサイル護衛艦(DDG)であり、こんごう型イージス艦ではない。 イージス艦=駆逐艦と言う勘違いもよくある。確かにこんごう型・あたご型は元になっているのがアーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦と言うのもあるので世界的に見ると駆逐艦だが、アメリカにはちゃんとタイコンデロガ級ミサイル巡洋艦として巡洋艦も存在するのでイージス艦=駆逐艦ではない。*98 余談だが、今でも上記艦だけがミサイル護衛艦と呼ばれている理由は、長射程対空ミサイルを搭載し、艦隊防空(エリアディフェンス)を行うからである。*99 |
一航戦 | |
読み | いっこうせん |
使っている艦娘 | 赤城、加賀 |
意味 | 「赤城」や「加賀」が所属していた最精鋭の空母艦隊「第一航空戦隊」の略称。 艦娘の「加賀」は新人揃いの「五航戦」に対してやたらと辛辣な節が見受けられるのだが、これは後発の五航戦搭乗員を一航戦の搭乗員が新米扱いして見下していたことに由来する。 なお、艦これでは「一航戦=赤城・加賀」のようになっているが、これは開戦からミッドウェー海戦の頃に所属した艦であり、それ以前には龍驤や鳳翔、完成間もない翔鶴が所属していたこともある。ミッドウェーで一・二航戦所属空母が全滅したことで、翔鶴・瑞鶴・瑞鳳で再編成された。後に大鳳や隼鷹も所属し、末期には空母ですらない大和も配備されている。このことから、「沖縄へ向けて大和が特攻したとき、大和は一航戦として出撃した」という説もある。他に天城、葛城、隼鷹らがいたが既に航空機もなく燃料も欠乏していたので出撃は見送られた。 |
井上提督 | |
読み | いのうえていとく |
使っている艦娘 | 比叡、鹿島 |
意味 | 宮城県仙台市出身の海軍軍人である井上成美(いのうえ しげよし)を指す。 塚原二四三と共に日本海軍史上最後に大将に昇進した人物としても知られる。 謹厳実直で「計算尺」に例えられるほど頭が切れる人物であった一方で、歯に衣着せぬ物言いが嫌われたことも少なくない。 ワシントン条約に賛成、対米戦に反対したことから山本五十六・米内光政と共に「海軍三羽烏」と呼ばれた。 航空主兵論の立場から「海軍の空軍化」「基地航空隊の拡充」を唱えた。 開戦時には第四艦隊司令長官として鹿島に座乗、ウェーク島攻略、MO作戦(珊瑚海海戦)に関わった。作戦指揮の巧拙に関して様々な意見を言われている。 海軍兵学校校長に補された時に様々な教育改革を行ったことは評価が高い。 マリアナ沖海戦後、再度海軍中央に呼ばれ終戦工作に奔走した。戦後は元軍人と関わることを嫌い、英語学習塾を開いて生計を立てていた。 陸上勤務が長く、数少ない艦隊勤務中に艦長を務めた比叡のことは殊に気に入っていたらしく「停泊中の比叡が見える位置に引っ越す」「自宅に比叡の絵画を飾る」などしていたそうな。 |
ヴァルハラ | |
読み | - |
使っている艦娘 | 金剛 |
意味 | 金剛は「あの世」のような意味で使用している語。本来は北欧神話の主神「オーディン」の居城で、死せる戦士達の魂が集う場所でもあるためにこうした用法がなされていると見られる。 ヴァルハラに集められた戦士達は朝から日没まで殺し合い、夜は蘇ってオーディンの使いである美女たちの酌を受け酒盛りをするという。 数ある「あの世」でも一等血腥い場所の一つで、ヴァイキングには栄誉でも可憐な乙女に似合う場所ではない。金剛を愛する提督諸氏はそんな場所に彼女を逝かせないように。慢心はダメ、絶対。例え極楽浄土だろうとダメ。 ちなみに何でイギリス生まれの彼女を北欧神話由来の「あの世」に逝かせるのかというと、一応関連性としては20世紀以降のイギリス王室がドイツ起源であることが挙げられる。 ドイツ帝国までのドイツはプロイセン文化の為北欧文化の影響も根強かった*100。 とはいえ、最終的な理由は結局のところ帰国子女≒日本人だから*101ですべて説明がついてしまうというところだろう。 |
ヴィッカース社 | |
読み | - しゃ |
使っている艦娘 | 金剛 |
意味 | かつて英国の重工業を支えた超名門企業。日本で例えるならば三菱的な立ち位置。 金剛や三笠などの名軍艦を建造したほか、機関銃や戦車など様々な軍事兵器の開発・生産を行っていた。 1928年にライバルのアームストロング社*102と合併し、長らく英国の重工業界をリードしていたが、2004年にBAEシステムズ社に買収され、現在ではヴィッカースの名を冠する企業は存在しない。 しかし、機械工学等の分野では「ビッカース硬度(HV)」という名で未だに広く知られている。 同社製の測定器に由来する命名であり、測定に使用するテストピースはダイヤモンド(金剛石)である。 なお、戦艦「金剛」の方が硬度規格制定より先に竣工している。 |
飢えた狼 | |
読み | う - おおかみ |
使っている艦娘 | 足柄 |
意味 | 「まるで飢えた狼のようだ」「美しい艦とはとても言えない」 英国王ジョージ6世の戴冠記念観艦式にゲストとして招かれた「足柄」を評した英国人の一言。 また、「今日私は初めて軍艦を見た。今まで私が見てきたのは客船だった」とも評された。 外洋を長距離航行する巡洋艦のくせに、戦闘能力一辺倒で居住性が低いことを皮肉っていると言われている。 褒め言葉と捉えられなくもないあたりはブリティッシュジョークの妙技か。 実際、日本側は足柄に対するプラスの評価としてこの言葉を捉えたと伝えられている。 なお、これは「植民地を含めた外洋を行動する王立海軍」と「設立以来近海警備を主務としてきた帝国海軍」の違いもある。 なにしろ当時のヨーロッパ海軍の艦長室は貴族の伝統と植民地における外交も担当するため、ホテルのスイートルーム並の豪華な内装を持っていた。 それに対し、日米海軍はそういった配慮が薄いため艦長室であっても実用的な内装であった。 フランス人芸術家などはその機能美を賞賛していたりするので、個人の感性や国民性の違いなのかもしれない。 |
丑三つ時 | |
読み | うしみつどき |
使っている艦娘 | 鬼怒、Colorado改、South Dakota改 |
意味 | 古来から使われていた時刻の言い方の1つ。古来の時刻は1日を12の刻に分割して干支で表していた。最初の子(ね)は深夜23時から1時で、以後2時間ごとに分かれているのだが、1刻を更に4等分して1つ時、2つ時、3つ時、4つ時と表していた。 なので丑三つ時とは深夜2時から2時30分にかけての時間を指している。 昔からこの時刻は「草木も眠るほど」夜の闇が深く、この世とあの世が繋がり幽霊が現れる刻と思われていた、藁人形で相手を呪う「丑の刻参り」がこの時間帯なのもこういう理由で、一番呪いが届きやすいと考えられていたからである。 因みにお昼を「正午」というのも昼11時~13時が午の刻で、その中心の刻なので「正午」と呼んだからである。更に午の刻の前だから「午前」、後を「午後」と呼んで区別したのを現在でも時間帯の区切りの1つとして使われている。 只、注意しなければならないのは、現在と違い、それぞれの刻の間隔は正確ではなく、季節によって大きく変動する。というのも朝6時を表す「正卯」(しょうぼう)と、夕方6時を表す「正酉」(しょうゆう)は日の出・日の入りに合わせているので、季節によって大きく変動するからである。*103 所謂「不定時法」というもので、興味を持たれた方はwikiなどで「不定時法」や「十二時辰」でググってみる事をお勧めする。 |
か行
鎧袖一触 | |
読み | がいしゅういっしょく |
使っている艦娘 | 加賀 |
意味 | 鎧の袖が一瞬触れただけで倒せるというほど、簡単に相手を打ち負かすこと。 一航戦の人間は珊瑚海海戦の戦果を聞いて「妾の子(五航戦)でも勝てたのだから、本妻の子(一航戦)なら鎧袖一触だ」と言ったといわれる。 この言動は、当時連戦連勝を重ねる日本軍に蔓延していた慢心気分「勝利病 Victory Disease」とも無関係では無かったとされている。 |
勝って兜のなんとやら | |
読み | かってかぶとのなんとやら |
使っている艦娘 | 那智・浜風 |
意味 | 略さずに言うと「勝って兜の緒を締めよ」。 日露戦争終結後の聯合艦隊解散式において東郷平八郎長官が読み上げた訓示「聯合艦隊解散之辞」が「古人曰く、勝って兜の緒を締めよと」と締め括られている。 |
カレー | |
読み | - |
使っている艦娘 | 衣笠、伊168など |
意味 | 言わずと知れた国民食であり、日本海軍を代表する料理。 現在海軍とカレーについては、土曜(もしくは金曜)カレーの話*105など多くの事が伝えられているが、実はどうもちがうらしい。 海軍史・海軍料理史研究家で、自身も元海上自衛官*106の高森直史は自身の著書で「昭和35年に半年間所属していた横須賀教育隊で、カレーが食事に出たのは数回だけだった」と述べており、当時週末はカレーという慣習は無かったし、曜日がわからないからカレーはカレンダー替わりだったというのも、聞いたことがないと述べている。 統合幕僚長も務めた河野克俊も水交会*107の機関誌「水交」平成25年新春号において、「物事は誤って伝えられることがあります。卑近な例でありますが、海上自衛隊の金曜日の昼食の献立がカレーライスであるのは海軍以来伝えられてきたのだという向きがありますが、それは事実と異なっております。」と述べている。 河野氏によると、元々は海上自衛隊では土曜日は午後から休みであり、昼食の調理を簡単に済ませる必要があった。そのため簡単に作れるカレーが適していたので土曜日にカレーを出す艦や隊が増えていき、その後週休2日制となったので金曜日にスライドした。と述べている。「手間がかからないから」という単純な理由だったようだ。 では旧海軍では本当に週末(土曜日)にカレーが出ていたのか?というと実はこれも怪しい話らしい。 海軍出身者のなかでも週末にカレーが出ていたという話はなく、実際残っている献立表*108を見てもカレーが毎週出ているわけでもなく、出される曜日も木曜日だったりと必ず週末だった訳でもないようである。 軍事史家の藤田昌雄*109は海軍出身者に聞いたところ週末にカレーを出すという慣習はないと言われ、曜日を忘れないためという話も「海軍にもカレンダーあるんだから、カレーなんか食べなくても曜日わかるよ」と軽く怒られたと証言している。 現在のように固形のルーが一般化したのは戦後の昭和30年代からの話で、戦前はカレー粉自体をスパイス等から作らないといけないので手間がかかる料理だった。週末に在庫処理のために作ったり、半休のため簡単に作れる料理として適していた訳ではない。 …というように、カレーと海軍・自衛隊の関係については定説の見直しが進められている状況である。 現在の海自では各艦ごとの調理員が独自のレシピを作り、その味を競い合い、海軍・海上自衛隊を問わず艦長同士が歓談する際は自艦のカレーの旨さを自慢しあうことが頻繁に行われている。海上自衛隊HPのファミリーページにも各艦のオリジナルカレーレシピが載っているので興味のある提督諸氏は見てみるとよいだろう。 陸軍でも糧食として採用されており、一部の調理員のみがカレーの作り方を知っていた海軍よりも、兵員数に勝り、すべての兵が持ち回りで糧食を担当した(すなわち、全員がカレーの作り方を知っていた)陸軍のほうが国民食化への貢献が大きいとする説もある。またカレーを採用したのも海軍より陸軍の方が早やかったので、猶更食した事のある人は陸軍の方が多かった。 カレーの存在自体は戦前から知られており、明治5年には洋食のレシピ本のなかに作り方の記載があったり。陸軍幼年学校で明治6年に提供されていた記録もあるが、世間一般に知られるようになるのは昭和初期で、上記の高森氏は海軍内でカレーが普及したのは世間の普及と比例した昭和初期ではなかったか?とも推定している。 ※因みに一般家庭の料理として広まったのは戦後である。 因みに戦時中は敵性語としてカレーの名前を自粛、辛味入汁掛飯の名前で出している店もあった。 実は貴重な真水を大量に使うので、軍隊食としては大変贅沢な料理である。*110 ゲームでは一部の艦娘が食事時に様々なカレーを振舞ってくれる。鈴谷や早霜曰く「艦娘の数だけカレーがある」とのことだが、作ってくれない娘も数多いのでまだまだ未知数である。 |
観艦式 | |
読み | かんかんしき |
使っている艦娘 | 足柄 |
意味 | 多くの軍艦を並べて観閲する式のことで、国家の祝典あるいは海軍の記念行事のひとつとして行われる。 艦隊の威容を誇示し、自勢力の士気を高めるとともに、敵勢力に対する示威行為とすることが目的である。 その為、たとえば未だ建造中だった最新鋭重巡那智を参加させるために突貫工事を行い、各種試験を後回しにして引っ張り出したなどの例もある。 現在では、同盟国・友好国との交流や、自国民の海軍への理解を深めることも目的としている。 起源は14世紀のイギリス。フランスとの百年戦争の最中、当時のイングランド国王エドワード3世が観閲したのが始まり。 現在のような形になったのはそれから大分年限が立った1897年(明治30年)。これまたイギリスで当時の女王ヴィクトリアの即位60周年祝賀で行われた際のものが基本になった。 日本における観艦式の起源は1868年(明治元年)に大阪天保山沖で明治天皇を迎えて行われたものであり、1900年(明治33年)の式から「観艦式」という名称が使われた。 当時は明治維新直後で海軍はおろか政府も組織が出来上がっていない中で行われた。当時はお召艦はなく、幼い明治天皇は地上から艦隊を観閲した。 参加艦艇は旗艦「電流丸」*111以下「万里丸」*112、「千歳(せんざい)丸」*113、「華陽丸」*114、「万年丸」*115、「三邦丸」*116の6隻にフランス海軍の「デュプレックス」*117の7隻。 なお、比叡は練習戦艦となってからは艦隊に束縛されない存在であった為、スケジュール調整が容易で観艦式の「御召艦」を何度も任されている。 1933年(昭和8年)の観艦式の実際の映像 → http://www.youtube.com/watch?v=fvnRhsjIzNA 海上自衛隊でも実施しているので、興味のある方は調べてみると良いかもしれない。 ちなみに、某ジャンルの隠語として別の意味でも使われるのだが、詳細は大人の提督諸士のみ「観艦式 隠語」でググられたし。 |
艦隊決戦 | |
読み | かんたいけっせん |
使っている艦娘 | 長門、Z1など |
意味 | 交戦国の主力艦隊同士が正面から激突し、相手戦力を壊滅させるまで戦うこと。「相手の海軍戦力を壊滅させることで継戦能力を奪い、戦争の決定打とする」ことが20世紀前半以前の先進国間の共通認識だった。第二次世界大戦までは艦隊決戦の主力は戦艦とされており、第二次大戦中も各国海軍はこぞって戦艦の建造・整備に傾注した。 日本海軍は日本海海戦での勝利を戦訓に連合艦隊を編成してきており、戦艦のみならず陸上機、駆逐艦、潜水艦までも艦隊決戦用の漸減戦力としていた。 一方、ドイツ海軍は準備不足のまま戦争に突入した為に艦隊決戦が困難になり、通商破壊戦に傾注していく事となる。 マレー沖海戦、ミッドウェー海戦などにおいて航空戦力のみで勝敗が決着したため、戦艦は艦隊決戦の主力から外れ、代わりに空母機動部隊が艦隊決戦の主力となっていく。 |
帰国子女 | |
読み | きこくしじょ |
使っている艦娘 | 金剛 |
意味 | 学齢期頃に長期に外国で生活した後に本国(国籍のある国)へ帰国した者を指す語。 「帰国」と入っていることから、「本国で生まれて外国へ行って帰ってきた者」だけを指すと勘違いしている人も多いようだが、そんなことはなく、外国で生まれて本国へ来た者も含まれる。外国籍として外国で生まれ、本国へ来た後に国籍を変更した場合は「帰化」である。 帝国海軍から発注されて(=日本国籍)英国で生まれ、建造後日本へ来た金剛は帰国子女ということになる。もちろんこれは、擬人化したから「帰国子女」なのであって、帝国海軍が実際の金剛のことを帰国子女と呼んでいたわけではないと思われる。 艦これ実装艦では長らく金剛が唯一の帰国子女であったが、2017年春のイベントでアメリカ生まれの神威が実装された。 |
貴様 | |
読み | きさま |
使っている艦娘 | 那智、初春、Гангут、Nelson |
意味 | 現代ではかなり見下したニュアンスを感じる言葉だが、本来は文字通り「あなた様」を意味する敬称である。 海軍では、兵学校の同期生などが「イーブンな関係」であり「特に親しい間柄」であることを周囲に知らせる意味も含めて「貴様」という言葉を使っていて、可愛がっている部下に対しても使われる場合もあった。 兵学校生徒の友情と団結を歌った軍歌『同期の桜』でも「貴様と俺とは~」と歌われているように、「貴様」を使うことは信頼の証でもあった。 ただ、元々は武士やその子孫の士族が使う言葉で、一般民には元々馴染みのない言葉であった。 それが徴兵制であった戦前戦中に軍隊で広く使われたため、しごかれる対象である徴集兵を呼ぶ言葉というイメージが、この言葉に馴染みがなく本来の意味を知らなかった一般世間に広く流布してしまい、現代のようなニュアンスになったと言われる。 海軍は薩摩閥だったので薩摩弁の「貴様(きさん)」が語源になっているという。ちなみに長州閥を母体とする陸軍では「貴公」を使うことが多い。 ゲームにおいて那智と木曾は戦友を呼ぶような気安さで用いているが、菊月は敵に対する罵倒の意味で使っている。 現代の言葉では「お前(気さくな意味でも、相手をけなす意味でも使われる)」に近いかもしれない。 |
艤装 | |
読み | ぎそう |
使っている艦娘 | 加古、長門など |
意味 | 船の場合、船体を造って進水させた後に機関や兵装、室内外の各種装備などを船体に取り付ける工程・作業のこと、及びここで取り付けた装備のことを指す。 艦これにおいては、艦娘が背中に背負うなどしている兵装・機関のことを「艤装」と呼んでいるようである。 進水直後の艦はいわば「ただ浮くことができる状態」であり、進水の後も数か月~数年かけて艤装が行われる。 艤装が終わることを「竣工」と呼び、その後は造船会社の手を離れ、「就役」する(艦籍に入る)こととなる。 ただ軍の艦船の場合、竣工と共に艦籍に入ることになるため、まとめて「竣工・就役」と呼ばれることもある。 建造工程は「起工(日)」→「進水(日)」→「就役(日)」となり、艦(船)や艦娘も進水日が誕生日となる。 余談だが、軍の事務の手続き上、就役日はある程度まとめられることが多く、同型艦の近い子は就役日が同じだったりする。 |
吉川艦長 | |
読み | きっかわかんちょう |
使っている艦娘 | 夕立改二 |
意味 | 広島県広島市出身の日本軍人、吉川潔(きっかわきよし)氏のこと。 駆逐艦長月の水雷長を始めとして、春風、弥生、山風、江風、大潮、夕立、大波、と駆逐艦長を務め上げた駆逐艦乗り。 第三次ソロモン海戦では日米共に艦隊が混乱する中、春雨共に米艦隊に突っ込んで米艦隊の混乱を拡大させた。 更に米艦隊を通過した後は、反転して今度は単艦で突撃。 砲術長に「どんどん撃て」という海軍には存在しない号令をかけ手当たり次第に撃ちまくり、海戦史に残る大乱闘を引き起こした。 第三次ソロモン海戦後は功績により海軍兵学校の教官職を命じられるが、前線勤務を望み拒否。 後に望みどおり大波の艦長としてソロモン海に帰ってきたが、セント・ジョージ岬海戦にて電探による先制攻撃を受け轟沈。 「艦長が艦と運命を共にするなんて馬鹿げてる」と普段から公言していた吉川艦長が、皮肉にも艦と運命を共にすることとなってしまった。 戦死後、その功績から駆逐艦長としては唯一の二階級特進により少将となった。 海軍兵学校を志望するも身長と胸囲不足により不合格となったため、器械体操と積荷作業で身体を鍛えあげ翌年見事合格を果たしたり(夕立放置時の「もっともっと鍛えなきゃ!」)、第三次ソロモン海戦で行動不能になった夕立をハンモックで帆を張り動かそうとしたり(夕立改二の艤装と小破時の「ハンモックを張ってでも、戦うよ!」)、夕立の台詞や立ち絵の多くに吉川艦長のエピソードが使われている。 |
帰投 | |
読み | きとう |
使っている艦娘 | 多数 |
意味 | 艦船や航空機その他が基地に戻ること。「帰港投錨」の略であり、立派な海軍用語である。 「帰港」とあるように、元々は艦船が港に戻ることを言っていたらしい。 陸軍はこの語を使っていない |
機動部隊 | |
読み | きどうぶたい |
使っている艦娘 | 空母系艦娘多数 |
意味 | 航空母艦を基幹とする、航空打撃力を発揮するための部隊。航空母艦を中心として、これを護衛・支援する戦艦・巡洋艦・駆逐艦等で構成される。 日本海軍の軍隊区分上で編成された部隊であり、艦隊区分での編成である「第一航空艦隊(初代)」やミッドウェー海戦後に再編された「第三艦隊」とは厳密にいえば異なる。軍隊区分のいついてはこちら「軍隊区分」を参照されたし。 陸上の航空部隊では攻撃可能な範囲は基地から一定の距離内に限られるのに対し、機動部隊は遥か遠方の敵勢力範囲まで進出し、空母艦上機による敵陸上基地の攻撃、敵艦隊の撃滅、上陸部隊の支援等を行える。 この戦術に早くから目を付け、研究熱心だったのが他ならぬ日本海軍である。そして研究の末、恐ろしい結論にたどり着く。 「空母と艦載機があれば全ての水上艦を一方的に沈められるし、陸上攻撃でも比類なき破壊力がある。じゃあ空母だけあればいいんじゃね?」 …航空主兵論の誕生である。 第二次大戦前、空母が実用化された当初、航空機はあくまで偵察等の補助戦力と考えられていた。しかし航空機の著しい発達の結果、いざ開戦してみると真珠湾・マレー沖を皮切りに、太平洋戦線は航空機による戦争となったのは歴史が示す通り。 かくして太平洋戦争では日米ともに世界屈指の機動部隊を擁し、機動部隊同士の衝突も度々発生。これは勿論、世界の海戦の最先端をゆく戦いだったのだが、防諜や空母のダメコン、更には搭乗員の育成システムや諸々の生産力に劣る日本は敗北*118*119。ここら辺、ヨーロッパ戦線にて世界初の機甲師団で列強を驚かせたドイツが、最後はソ連の機甲師団に踏み潰された顛末と重なると言える。 戦後はアメリカが砲艦外交の一環として原子力空母による機動部隊を複数展開し、世界最強の海軍として君臨している他、イギリスも軽空母を基幹とした機動部隊を保有。 現在の海上自衛隊についてはDDHを見ると良い。 |
牛缶 | |
読み | ぎゅうかん |
使っている艦娘 | 秋雲、秋月改 |
意味 | 牛肉大和煮の缶詰のこと。 缶詰は保存が効くことから、戦前は軍需が需要の中心であり、特に牛肉大和煮の缶詰(牛缶)は人気が高かった。 なお、運営の中の人ことC2機関が製作した同人誌「こんな日には缶詰あけよ。vol.2」の中で、どう見ても私服の赤城さんにしか見えない「大和煮さん」(牛缶の「缶娘」)が、熱々の白飯と牛缶の組み合わせを大絶賛し、装備換装(おかわり)を要求している。 |
給糧艦 | |
読み | きゅうりょうかん |
使っている艦娘 | 伊58「間宮」、夕張「間宮」 |
意味 | 艦艇や前線基地に食料などを補給する船。給糧艦「間宮」は中に冷蔵庫、食物加工工場などがあり、内部で軍属のプロ職人による羊羹、最中、アイスクリーム、ラムネなどが生産されていたため、艦艇の将兵から大人気であった。帝国海軍の下士官兵にとって給糧艦の護衛任務は艦隊決戦よりも優先されたとか。事実4隻建造された給糧艦「杵崎」型*120は3隻が無事に終戦を迎えている。また人気の給糧艦が撃沈された時は全軍がお通夜状態だったなどという話もある。 余談だが、現在は、給糧艦・給油艦・給炭艦・給兵艦等の機能を併せ持つ補給艦(AOE)「とわだ型」・「ましゅう型」計5隻が就役しており第一海上補給隊として「横須賀・佐世保・舞鶴・呉」の4港に分散配備されている。 ちなみにましゅう型は全長221m・基準13500t・満載25000tと、海上自衛隊ではいずも型に次いで2番めに大きい。 |
夾叉(挟叉) | |
読み | きょうさ |
使っている艦娘 | 那智、大和 |
意味 | こちらが斉射した複数の砲弾が着弾した範囲内(散布界)に敵艦が入っている状態の事。那智などは砲弾が外れた際に言っているが、本来は命中の有無は関係なく前記の状態であれば使用できる。 当時の中~遠距離砲撃は公算射撃と言って、砲弾の散らばる範囲内に敵艦を捕捉して常に夾叉を維持出来れば、いずれは夾叉弾の中から命中を得られるという、いわば確率に則ったものだった。 つまり夾叉したということは「既に標的(敵艦)を砲の散布界に捉えている(≒照準が合っている)」という状態を意味する。なので必ず命中するという訳ではない。 そして夾叉状態を維持するには「目標が針路速度を保持している状態」であることが大前提であり、当然発砲後に相手が変針や急な増減速をしたら散布界から外れてしまう可能性が高くなる。しかし中~遠距離の砲撃戦で頻繁に進路や速度を変えることは、自身の砲撃精度にもモロに影響して命中率の激烈な低下を招くので、日本側はあまり多用しなかった。 だがアメリカ側は状況によっては多用し、アッツ島沖海戦では那智・摩耶による遠距離砲撃に対して米艦隊が回避重視の機動を採ったため、双方戦果・損害があまりなかった*121事例が発生している。 これはスラバヤ沖海戦での酸素魚雷による遠距離雷撃が効果を全く示さなかった事も踏まえ、海軍内での遠距離砲雷撃戦への偏重を改める契機となったと言われている。 結局、砲撃は自身と目標の位置や針路・速度・更には地球の自転や風速等色んなデータを元に目標の未来位置を予測してそこに砲弾を撃ち込むため、当然ながら目標(もしくは自身が)が針路や速度などを変えたら計算は一からやり直しとなる。更に着弾時の水煙と目標の位置から修正を加えて次弾を撃って精度を上げていき、それで漸く夾叉に持ち込むことが殆どなので、更に時間を要する事になる。 因みによく「散布界が小さい=命中精度が高い」と言われる場合があるが一概にそうとは言えない。散布界が狭いと目標が変針すると簡単に散布界から外れてしまうので、かえって当たらない状態になりやすいからである。 |
魚雷 | |
読み | ぎょらい |
使っている艦娘 | 吹雪など他多数 |
意味 | 魚形水雷の略。内蔵動力により水中を自力で進む水雷(水中爆弾)のこと。 喫水下(艦船の水面下の部分)への攻撃は多量の浸水による大被害が期待できる上、水圧により爆圧が拡散せず一点に集中するため、少量の爆薬でも凄まじい破壊力を発揮することができた。 当たれば戦艦でもタダでは済まない強烈な威力ながら、強力な大砲に比べると重量が軽く収まるため、駆逐艦や潜水艦などの小型艦艇に搭載されている事が多い。 水雷戦隊の魚雷による敵主力艦のジャイアントキリングは日本海軍の夢だった。 太平洋戦争当時の魚雷には自動追尾機能はなく、あるのは深度調整と単純なジャイロ誘導程度(なので潜行中の潜水艦への攻撃はほぼ不可能)。ばらけるように何本も一度に撃ち放ち、どれか1本でも当たるのを期待するのが当時の戦法である。もっとも精度の方も伊58が言う「お利口さん」ばかりではなく、真っ直ぐ進んでくれないものも多々あった。 なお昔は「魚雷一本、家一軒」と言われるぐらい高価な代物であったが、それでも魚雷は砲弾と違って再使用可能だったり*122、発射管は砲身と違って摩耗しないなど、費用が安く済むので、貧乏な日本にとってはその小型、破壊力と合わさって都合のいい武器であった。日本が魚雷大国になったのもこれが理由と言われている。 ちなみに、有名すぎて日本海軍魚雷はすべて酸素魚雷と誤解されるが、睦月型や吹雪型、初春型は最初は八年式空気魚雷や九〇式空気魚雷を搭載し、九三式酸素魚雷を初搭載したのは白露型である。初春型は大戦開始期には換装されたと言われている。吹雪型の響や潮は大戦後期に換装した説があるが、それ以外の吹雪型や睦月型は沈んでいるのでもちろん換装されていない。(だから吹雪や叢雲が酸素魚雷などと言うのは本当は間違いである。(吹雪改二?知らない子ですね) 他には航空機用の九一式航空魚雷(短射程で大幅に軽量化)、潜水艦用の九五式酸素魚雷などが当時使用されている。 余談だが、魚雷の開発者はイギリス人技術者でオーストリアのフィウーメに会社を構えていた町工場の経営者ロバート・ホワイトヘッド。オーストリアはこの新兵器に資金を投入するとともにその研究にも力をいれる。その中で研究熱心だったある海軍士官とホワイトヘッドの孫娘が結ばれ、2男5女の子宝に恵まれる。しかし妻は若くして死去。海軍士官は1人の修道女を家庭教師の名目で雇うことにする。彼女の名は「マリア」、海軍士官の名は「ゲオルグ・フォン・トラップ」。後にミュージカル「サウンド・オブ・ミュージック」で有名になるトラップ・ファミリーである。 さらに余談だが、静岡県伊豆の国市には「国指定天然記念物の魚雷」が現存する。これは小学校に寄贈された魚雷に昭和5年に起こった北伊豆地震による地震動が傷となって残ったものである。 |
銀蝿 | |
読み | ぎんばい |
使っている艦娘 | 夕張 |
意味 | 文字通り食べ物に集る蠅のように、艦の烹炊所(ほうすいじょ)や食料庫から食料や嗜好品をちょろまかす行為のこと。 もちろん窃盗罪に当たる犯罪行為なのだが、仮に見つかっても罰直(鉄拳で殴られたりバットで尻をぶっ叩かれたり)で済む事が多く、大事(起訴・法的処罰)になる例は稀であった。 ちょっとやそっとであれば見て見ぬふりをしたり、逆に便宜をはかる主計官も多かったといい、良くも悪くも海軍の伝統文化的な面があった。 中には正式には提供されていないが隠語を用いて大っぴらに要求(ギンバイ)出来る物もあった「麦粉」(味の素-昔の缶には麦の絵があった)「コレハウマイ」(鰹節とゴマのふりかけ)「艦隊入港」(ツマ楊枝-入港すると奥さんとね)等々 ただ、当時の衛生状態を考えるに推奨しかねる行為であったことも事実である。 食料や嗜好品だけではなく、例えばある基地に故障機が不時着したら、その機体を後方に送れば修理可能にもかかわらず「全損」と報告し、部品取り機にしてしまう例なども多くあり、これは部隊ぐるみの銀蝿とも言える。 こういった話は日本だけでなく世界中の軍隊でも似通った話が回想録などで出てくる。 前線で戦う兵士にしてみたら、支給される食料やら物資が不足すれば士気は下がり、部隊や自身の命が危機に晒されるな場合もある。時には味方であっても掠め取って英気を養い、生き残ろうとする行為は半ば黙認するのが各国軍隊では暗黙の決まりで、映画などでもこういった行為(主に食糧調達)はよく見かける事が出来る*123。 まあそれにも限度があって日本軍でも度が過ぎて窃盗まがいになると犯罪であり、軍法会議ものであった。 戦艦陸奥の爆沈の原因として上がる1兵士の放火も、この兵士の窃盗紛いの銀蝿行為に査問委員会が開かれる事になり、自暴自棄になっての放火とされている。 「大空のサムライ」坂井三郎は銀蠅に失敗して士官にどつかれている部下を救うために発砲したことがあるそうな。軍法会議ものの行為だったが、坂井の腕を惜しんだ副長の小園安名によって穏便に処置された。 |
駆逐隊 | |
読み | くちくたい |
使っている艦娘 | 天津風ほか |
意味 | 帝国海軍の艦の編成単位の一つで、2~4隻の駆逐艦で編成される部隊のこと。 駆逐隊1隊=軍艦1隻に相当するものとして扱われ、通常は隊単位で水雷戦隊や航空戦隊に編成された。 性能を揃えるため同型艦で隊を編成するのが普通だが、長期の修理や沈没などで欠員が出た場合には、他の駆逐隊から別型艦が転籍する場合もあった。特に、多くの艦を失った大戦末期には、生き残った艦を寄せ集めて駆逐隊が編成された。 指揮官は「司令」と呼ばれ、通常は大佐か中佐が任命された。 因みに海外の駆逐隊は、アメリカ海軍では「Destroyer Division(通称「DesDiv」)」。イギリス海軍では「Division」。イタリア海軍では「Squadrigilia」と呼ばれ、概ね日本同様基本4隻体制で運用された。 (駆逐隊の一覧については別頁にまとめました。) |
栗田艦隊 | |
読み | くりたかんたい |
使っている艦娘 | 武蔵改二、Gambier Bay |
意味 | 捷号作戦に於いて敵攻略部隊撃滅の任を帯びた第一遊撃部隊(第二艦隊基幹)のうち、第一第二部隊を合わせた部隊の通称で、指揮官の栗田健男中将の名から採られている。 但し第二艦隊司令長官を栗田から指揮を引き継いだ伊藤整一中将時代に行われた天一号作戦(所謂戦艦大和らによる沖縄への海上特攻作戦)でも、部隊名は「第一遊撃部隊」であり、第一遊撃部隊=栗田艦隊という訳ではないので注意が必要。 「空母機動部隊の撃滅」「レイテ島攻略部隊の撃滅」の二目標を掲げた捷一号作戦に於いて、基地航空隊の支援のもと攻略部隊撃滅の役割を担っていたが、燃料の手配の遅延から出撃が遅れ、部隊を二手(別動隊が所謂「西村艦隊」)に分けて進撃するも道中で旗艦愛宕を始め摩耶、武蔵を失い高雄、妙高、長波、朝霜、浜風、清霜を損傷やその護衛などで後退させてしまう。 突入当日の25日には米護送空母部隊の一群と遭遇し、Gambier Bayと護衛の駆逐艦3隻を沈める戦果を挙げるが、煙幕を利用した米艦隊の反撃や艦載機による迎撃で鈴谷、鳥海、筑摩が沈み、熊野、沖波、藤波、野分が損傷やその護衛で後退、栗田艦隊は無視できない損害を受けてしまう。 大戦果を挙げたと誤認していた栗田艦隊は追撃を切り上げて突入を再開するが、12:30頃になって突入を断念し、北方にいるとされた「敵機動部隊」への攻撃を企図して北上を開始する。所謂「栗田ターン」である。 しかし艦隊は会敵出来ず、そのままブルネイに帰着。戦艦と護衛の第十戦隊を残して中小艦艇は第二遊撃部隊(通称志摩艦隊)に移して11月に内地に帰還する。しかし帰路でまたも米潜水艦の攻撃を受け金剛、浦風を失い、志摩艦隊に移動した艦艇はレイテ湾への増援輸送作戦「多号作戦」に参加し多くの艦が沈んでしまう。 本土帰還後、栗田長官は海軍兵学校長に栄転し、第二艦隊司令長官の後任は上記の通り伊藤整一中将となる。この後第二艦隊と伊藤長官は沖縄への海上特攻を実施、悲劇的な結末を迎える事になる。 |
敬礼 | |
読み | けいれい |
使っている艦娘 | 卯月 |
意味 | 読んで字の如く、上官等に対して敬って礼をする事。敬礼に対して返す行為を答礼(とうれい)と言う。 答礼は動作としては敬礼と似ているので一緒のものと混同されるのだが、厳密には違うものである*124。 日本軍では帽子を被っていない時には挙手の敬礼をする事は無く、敬礼の号令が掛かった時はお辞儀をするのだが、軍人では無い者が行っても特に批判されるような事ではない。 「猫招き型」「はるかな型」と称されるような簡略化されたもの*125を紹介する情報媒体もあるが、こういった形は正式なものではない。 海軍が規定している正式の敬礼の形は ①姿勢を正し右手を上げる。 ②右ひじを右斜めに出す。 ③右前腕と掌は一直線に保ち、掌の5指を伸ばす。 ④第三関節を帽子の右前部若しくは右縁にあてる。 ⑤この形で受礼者の目、若しくは受礼目標(軍艦旗など)を注視する。 というものであり、指を曲げたり脇を閉めて肘を前方に突き出すという形を「海軍式敬礼」として規定した事実はない。 敬礼は「上位者への敬意を表す所作」である以上、規定の形を大きく逸脱した形を下位者が敬礼としてするのは「失礼」にあたり、罰勅になりかねない行為である。 こういう説明をした旧軍関係者の方々は、恐らく上位者がした「答礼」を見て勘違いしていると思われる。 また、戦後の映画などで広く知られるようになった「脇を締める挙手の敬礼」は、あくまで戦争末期に一部で流行した敬礼の所作だったようで、「海軍での規定の型」とするのは間違いのようである。*126 実際、残されている海軍軍人が敬礼をしている写真を見ても、山本五十六(生前を知る人物から「敬礼が綺麗だった」と言われている)などが「脇を開き肘を張る」敬礼をしている写真は多数あるが、脇を閉め肘を前に突き出す様な敬礼をしている「実際の海軍軍人」の写真は殆どない。 戦前戦中に作られた戦争映画やニュース映画などの映像作品には軍が協力しているものや、実際の軍人が映っていたりしているが、敬礼を映している場面で脇をしめていたり手首を曲げるような敬礼をしている映像はなく、映りだすのは戦後の娯楽作品からである*127。 何故一部の流行でしかなかった「脇を閉める敬礼」が「海軍の敬礼」としてひろまったのか?恐らく戦争末期に徴兵され、その教育を受けた俳優やスタッフたちが、「これが海軍式敬礼だ」と誤って教えてしまい、それを銀幕で見た客が「かっこいい」と思って日本中に認識を広めてしまったのが一因とも言われている。 あと脇を締める敬礼をする理由に「狭い艦内で脇を広める敬礼は邪魔になるから」というのもあるが、実際には周囲に人が群がる状況でも脇を広げる敬礼をしている写真*128もあり、これも正しくない。 現在でも、この間違いは根強く信じられており、艦これ界隈でもこういった「へんてこな敬礼」を艦娘にさせている二次創作物もあるし、運営自体もアニメ「いつか静かな海で」で主人公らにやらせてしまっている*129。 興味を持たれた方は海軍の敬礼について詳しく紹介したサイトを紹介するので一度閲覧されるのをお勧めする。なお当サイトの製作者は海上自衛隊OBで、その後ドラマ「坂の上の雲」「龍馬伝」や映画「男たちの大和」などで海軍・海事関係の考証に携わっておられる方。かなりの海軍通の方である。 →http://navgunschl.sblo.jp/s/article/39335366.html また陸海軍士官の敬礼を同時に撮影した写真も添付しておく。陸海軍双方の士官の敬礼が、実は殆ど形は変わらない事が一目瞭然である*130。 →https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:The_British_Occupation_of_the_Nicobar_Islands,_1945_SE5438.jpg |
轟沈 | |
読み | ごうちん |
使っている艦娘 | 磯波、羽黒、菊月 |
意味 | 被弾した艦船が短時間(概ね1分半、但し2分、3分、5分説もあり)のうちに沈没することを指し、単に沈没しただけではこの言葉を使用しない。 既にボロボロの状態で進撃しない限り絶対にロストしない仕様の艦これでは、轟沈には当てはまらない。 しかし元々定義が曖昧なこともあり、「華々しく勝利した」「壮絶な最期を遂げた」ことを演出するために轟沈ではない場合もあえて轟沈と表現するケースがよくあり、「軍艦が沈むこと=轟沈」であるという誤解を生んだ。 同じように、「撃沈」という言葉も誤って使われることが多々ある。 「撃沈」とはこちらの攻撃で敵を沈めたという意味で、「敵艦撃沈」とは言っても「味方艦撃沈」とは言わない。 事故や自沈ではなく、戦闘によって沈没したことを表すために「味方が撃沈された」のように受身として使う場合もある。 なお、戦中の映画にそのものズバリ、「轟沈」というタイトルの宣伝映画(インド洋での潜水艦による通商破壊活動を記録したもの)がある。 その映画の主題歌も「轟沈」という名前である。潜水艦乗りの生活をユーモラスに歌った歌で、広く国民に流行した。DAM や JOY SOUNDといった大手のカラオケでも配信されている。 なお、轟沈どころか文字通り大爆発して瞬時に沈む様が「爆沈」と表現されることもあるが、こちらは正式な定義のある用語ではないので念のため。 |
五航戦 | |
読み | ごこうせん |
使っている艦娘 | 加賀、翔鶴、瑞鶴 |
意味 | 「翔鶴」「瑞鶴」により構成された「第五航空戦隊」の略称。 昭和16年10月新編され、猛訓練の末真珠湾作戦に間に合ったことから一航戦などからは新兵扱いされていた。 とはいえ、他国に行けばアグレッサーとして通用するほどの技量を有していたとも言われている。それを新兵扱いできる一航戦マジチート。*131 珊瑚海海戦で米空母「レキシントン」を撃沈するなどの戦果を上げるが、「翔鶴」が大破し「瑞鶴」も艦載機に大被害を出したため、ミッドウェー海戦には参加できなかった。 ミッドウェー海戦後に「翔鶴」「瑞鶴」は第一航空戦隊として再編成され、以降終戦まで五航戦は空席のままだった。 |
さ行
至近弾 | |
読み | しきんだん |
使っている艦娘 | 日向、雪風 |
意味 | 砲弾や爆弾などが直撃せずすぐそばに着弾すること。直撃弾ではないからといって舐めてはいけない。至近で着水した砲弾や爆弾がさく裂すると、その破片が横殴りに散弾銃の様になって船体に襲い掛かり装甲の薄い艦だと側面装甲を突き抜けたり、甲板にいる機銃員などの乗員に襲いかかったりするのである。 至近弾により発生した火災が命取りになった「鈴谷」や、爆撃の至近弾による破孔からの浸水で着底してしまった「日向」など、状況によっては艦に重大な影響を及ぼすほど危険。「隼鷹」はマリアナ沖海戦で至近弾数発の破片が船体を側面から斜め上に抜けて飛行甲板を突き抜け、甲板が大根おろしの様にザラザラになり着艦不可能になってしまっている。 なお、日本海軍の九一式徹甲弾は、敵艦の手前に落ちた至近弾が、そのまま水面下を進んで敵艦の水面下部に直撃することを狙って開発されたものであった。 |
七面鳥 | |
読み | しちめんちょう |
使っている艦娘 | 瑞鶴、大鳳、龍鳳 |
意味 | ここでは未熟な艦載機搭乗員の揶揄。 アメリカにおいては七面鳥は代表的な家禽(家畜として飼われている鳥)であり、野生ではない家禽は容易に撃てることから、簡単に撃ち落とせることを意味するTurkey shoot(七面鳥撃ち)という言葉がアメリカにはある。 マリアナ沖海戦(主な海戦・作戦参照)の頃になると航空機の熟練搭乗員の不足が深刻となり、空母への着艦もできない錬度の低い未熟な搭乗員が多数戦闘への参加を強いられることになる。 これらの艦載機が十分な管制支援を受けた大量の米新型艦載機群に一方的に、それも七面鳥を撃ち落とす簡単な狩りのゲームのように次々と撃墜させられるという意味で、アメリカ側乗員から「マリアナの七面鳥撃ち」と揶揄されることになる。 ただし実際のところ、散々に落とされたのは会敵に失敗してマリアナに引き揚げようとしたところを米軍戦闘機に送り狼されたケースが大半という説もあり、さらに言えば出撃した日本軍機の半数以上は航法を誤って米艦隊と遭遇できなかったどころか、マリアナにも辿り着けずに遭難して未帰還となったという話も……(涙) |
次発装填 | |
読み | じはつそうてん |
使っている艦娘 | 神通 |
意味 | 魚雷発射管に予備の魚雷を装填すること。 大型兵器である魚雷(93式酸素魚雷で一発2700kg)を発射管に装填する作業は十数分~数十分かかることもあり、不確実であった。 だが、日本海軍の初春型駆逐艦以降の艦船は次発装填装置を装備しており、3分半前後で素早く予備の魚雷を装填することができた。 なので、あいつら魚雷撃って逃げやがったもう安心だ、と思ってたら戻ってきて殺られた、なんて例もある(コロンバンガラ沖海戦)。 例えば「陽炎型」などの甲型駆逐艦は四連装発射管2基8門を装備しているが、次発装填装置内の予備魚雷8本と合わせ合計16本の魚雷を連射できる。 しかし、あくまで次発装填装置は予備魚雷を有効活用するためのものであり、用兵側にとっては好位置から雷撃できるチャンスは1度しかない事が多いので、最初から魚雷が発射管に入っておりいつでも使用可能な状態にある事が望ましかった。 実際米駆逐艦は次発装填装置こそないが、5連装の発射管を2基搭載している艦級が多く、1回の斉射量は10本と日本の8本よりも多いので有利だった。 このため現場の艦長たちからは次発装填よりも斉射量の増加が望まれていたらしく、それを受けて船体が大型化していた新鋭駆逐艦島風では五連装発射管3基15射線を搭載し、次発装填装置は装備しなかった*132。 また駆逐艦種の中での優先順位でも、海軍内では新鋭の甲型(朝潮型、陽炎型、夕雲型)に次いで戦力視されていたのは特型駆逐艦で、艦齢では若い白露型より上だった。これは白露型が通常魚雷で一斉射8本に対し、特型が同じ通常魚雷でも一斉射9本であったので、特型の方が即応力が高いと判断されたのが要因の一つとされている*133。 なお潜水艦の場合、2発目は発射管のすぐ後ろに配置されているので素早く装填できる(3発目以降は狭い艦内で動かすので大変な手間がかかるため、1回の戦闘で発射できるのは2発まで)。 |
シフト配置 | |
読み | -しふとはいち |
使っている艦娘 | Z1 |
意味 | 船の動力機関の艦内への配備方法の1つ。初めて近代軍艦に投入したのは1920年代のフランス海軍と言われている(諸説あり)ので少なくともドイツのみの技術ではない。 20世紀に入ってからは船の動力はボイラー(熱で蒸気を作る)-タービン(蒸気で回す)方式が主流であったが、ボイラー室とタービン室の片方でも浸水すると機関がほぼ動かなくなる為、その防御策が課題であった。 シフト配置ではボイラー室とタービン室を2つずつ艦首方向から交互に配置し、1ぺアにつき半分のスクリューを担当させている。2機関のうち片方でも生きている限りは船を動かせるという画期的な配置方法であった。 左右のバランスがやや悪くなって少しクセのある動きになったり、パーツ数が増えコストがかさむといった欠点もあったが、ドイツ軍やアメリカ軍はこれを積極的に採用し艦艇の生存率をかなり上げている。 アメリカ軍に関しては、当時のパナマ運河の通過制限(パナマックス)の影響もある。全幅だけでなく喫水も浅くする必要があったため、純粋な重装甲化を諦め、搦め手で生存性を高めようとしたのである。 日本では防御区画を狭く厚くする為に集中配置方式がとられていたが、大戦末期の松型駆逐艦ではシフト配置を用いている。これも他で手を抜いても簡単に沈まないようにするためのやはり絡め手であった。 ちなみに現代の艦のほとんどはこのシフト配置であるが、当然原子力艦は例外である。 但しシフト配置には複雑化・機関スペースの拡大化・高コスト化といったデメリットもある。よってボイラー室とタービン室を1列で配置する事しかできない駆逐艦などの小型艦には有効だが、戦艦や空母などの大型艦は元々2列以上で配置でき隔壁で隔てる余裕もあるので被雷しても即動力を失うという事態にはなりにくく、メリットよりデメリットが大きい。 シフト配置のマイナス面を一番多く受けた艦としてSouth Dakota級がある。同艦はシフト配置を採用しつつ、前級ノースカロライナ級よりも装甲強化を図ったため全長を15m近く短くした*134ため、従来艦よりも居住区画が少なくなり、更に戦間期の対空兵装増強による乗員増加、ダメコン力を重視する米海軍の伝統で他国の同規模艦艇と比較して乗員がそもそも多い等の要素も加わった結果、居住スペースが全く足りなくなり、乗員の中には居住区で寝起きができずに通路や露天甲板で寝起きする者もいたという。 この他にもIowa級はシフト配置により機関が全長の約半分を占めるほどの長さが必要となり、かつパナマックスも満たす必要があった結果、非常に細長い船体になってしまった。このため高速時の振動問題やらレーダーや対空兵装の増加で重心が上がったための安定性の悪化など別の面での問題も出てきている。 要はどんな事にも利点だけでなく問題点もあるということ。 余談であるが某軍艦の設計が可能なゲームにおいて重要なキーワードの1つでもあり、採用すると耐久性が少し上がるので恩恵を受けている提督も少なくないとか。 |
主砲 | |
読み | しゅほう |
使っている艦娘 | 戦艦等多数 |
意味 | 文字通り主たる大砲、その艦の一番口径の大きい砲の事で、海軍軍縮条約等では主砲の大きさで艦種の区別がなされていた。 8インチ(20.3cm)を越えると戦艦、6.1インチ(15.5cm)を越えると重巡(一等巡洋艦)、5インチ(12.7cm)を越えると軽巡(二等巡洋艦)、それ以下が駆逐艦と分類される。 そこで例外になるのが最上型・利根型重巡洋艦である。最上型と利根型は、当初15.5cm砲搭載の軽巡洋艦として設計されていた。最上型は竣工後に、利根型は建造途中で20,3cm砲に変更されて事実上の重巡となったが、日本海軍の分類上は最期まで二等巡洋艦(軽巡)であった。 軍縮条約下に無かった大淀は1万t級で主砲が15.5cm砲、夕張は駆逐艦程度の排水量でも主砲が14cmなので軽巡(二等巡洋艦)として扱っている。 改装後の赤城や加賀の主砲が20cm砲なのも条約によるものである。 |
巡洋戦艦 | |
読み | じゅんようせんかん |
使っている艦娘 | 比叡、榛名 |
意味 | 装甲巡洋艦から発展した艦種。 優れた高速性と戦艦と同等の火力を有したが、防御面では戦艦に劣った。 英語では『Battle Cruiser』と呼んでいる通り、本来は「戦艦並みの攻撃力を持った巡洋艦」であって、『高速戦艦(=巡洋艦並みの速度が出る戦艦)』とは別物である。 過去の戦艦は、強固な防御力が重荷となり20ノット位の速度しか出せず、使い勝手が悪かった。「なら巡洋艦に、装甲はそのままで戦艦並みの砲を積めば30ノット以上出せて最強じゃね?」と作られたのが『巡洋戦艦(戦闘巡洋艦)』である。 後に機関の技術が発達し、第一次世界大戦頃には戦艦のままでも25ノット以上出すことが出来る『高速戦艦』が登場したため、巡洋戦艦の優位性は薄れていった。その区分から言えば『長門型(ポスト・ユトランド世代)』『大和型(条約明け世代)』も高速戦艦となったりする。 金剛型の紹介文などでは『巡洋戦艦/高速戦艦』と書かれていることがあるが、金剛型は「当初は巡洋戦艦として竣工」→「ユトランド沖海戦の教訓を踏まえ防御力強化をした結果、戦艦に艦種変更」→「更に機関を換装し30ノットを超える高速戦艦となった」という経緯を経ているためどちらでも正しいともいえる。ただ、艦これに登場する金剛型は機関換装を終えた状態と思われるので、巡洋戦艦と呼ぶのは誤りである。 余談だが、『巡洋戦艦』は艦種として存在する一方、『高速戦艦』という艦種はどこの国にも存在しない。所詮通称である。 |
捷一号作戦 | |
読み | しょういちごうさくせん |
使っている艦娘 | 金剛、榛名、藤波 |
意味 | マリアナ沖海戦に敗北し、絶対国防圏が崩壊してしまった日本が、米軍の次なる侵攻に対する迎撃作戦『捷号作戦』の一つ。同作戦は区域によって一号から四号まで作成され、一号はフィリピン方面に米軍が侵攻した場合の作戦である*135。 同作戦では米軍の上陸を①ルソン島本島、②レイテ島 ③ミンダナオ島のどちらかと推定*136し、米軍の本命はミンダナオ島と考えていた。 陸軍はフィリピン防衛に関し、全ての島に戦力を置くのは不可能と考え、主力4個師団をルソン島、上陸の可能性が高いミンダナオ島には2個師団を配置し、レイテ島には1個師団のみ配置していた*137。 海軍側の作戦はフィリピンに「第一航空艦隊」、沖縄などの南西諸島に「第二航空艦隊」の2個基地航空隊を配置し、侵攻する敵空母機動部隊に大打撃を与える。小沢提督率いる「機動部隊本隊」は敵機動部隊を北方まで引き寄せ、その後基地航空隊と協力して敵機動部隊攻撃に加わる。栗田提督率いる「第一遊撃部隊」は、基地航空隊の攻撃で敵機動部隊を殲滅する事で、現地の制空権を確保し、敵攻略部隊を洋上で捕捉し殲滅。敵が既に上陸地点に着いていたなら、上陸開始から2日以内にそこに突入して攻撃殲滅する。第一遊撃部隊(第二艦隊)が本来負っていた機動部隊直衛の任務は北方の第五艦隊(志摩提督指揮)で「第二遊撃部隊」を編成してこれが務めるとした。 この様に本来の捷一号作戦は、現在イメージされるような「小沢艦隊は囮部隊」「上陸部隊の殲滅が海軍の至上任務」とは大きく異なるものであった。 しかし実際は、米軍の上陸前日まで行われていた台湾沖航空戦で、基幹の基地航空隊が大打撃を受けてしまい*138、更にこの航空戦に連合艦隊は小沢艦隊から回復したばかりの機動部隊本隊の航空機を増援として送り込み、捷一号作戦発令時に小沢艦隊の手元にまともな航空戦力がなかった事*139、この回復をする間もなく捷一号作戦が発動した事、この結果が想定よりも少ない100機ほどの航空機でおびき寄せる作戦をしなければならなくなり、それが従来の作戦内容とは異なる、「囮」という面が強調される形になってしまったという訳である。 結局米大艦隊がレイテ湾入り口にあるスルアン島に1隊が上陸占領するまで日本側は気づかなかった事が初動の遅れに繋がり、作戦発動時点で「2日以内のレイテ湾突入」は不可能になった。小沢艦隊や基地航空部隊の航空戦力が想定よりも大幅に下回っている等、作戦成功は不可能という状況だったが連合艦隊はそのまま作戦を決行。結果は昭和天皇をして戦後に「海軍は無謀に海軍を出し、非科学的に戦をして失敗した」と言わしめる大敗北を喫した。 敗因に関して第一遊撃部隊指揮官の栗田提督の湾前反転などを指して批判する論調もあるが、一方で作戦自体が発動時に既に崩壊している事や、小沢艦隊からの重要な電文が他の部隊には一切届かず、栗田の判断に大きく影響を与えた事、突入が期日を大きく超過していて突入は無意味に近かった事等から、擁護論も大きくなっている。 |
水上機 | |
読み | すいじょうき |
使っている艦娘 | 木曾、千歳、千代田、瑞穂、神威、Commandant Teste |
意味 | 水面に浮いて滑走することで離着水が出来る航空機。なかでも、フロートによって機体を支えるフロート水上機を指す。 九八式水上偵察機(夜偵)のように胴体と着水浮力を稼ぐ部分が一体の形態は"飛行艇(Flying boat)"と呼ばれ、水上機とは区別されることが多い。 例えば映画「紅の豚」では、主人公ポルコ・ロッソの愛機が飛行艇、最後に主人公と一騎打ちしたドナルド・カーチスの愛機が水上機である。 空母と違い滑走用の甲板が要らないので、空母以外の直接着艦するスペースのない船でも哨戒・索敵用に搭載可能である。 また、滑走路設営能力に劣っていても波の穏やかな湾があれば基地とすることが可能で迅速に戦力を展開できる。 軍縮条約下、仮想敵国である米国に対し空母戦力に劣る日本海軍は、水上機の開発運用に熱心で、各国の水準を超える高性能機を数多く送り出した。 その一方、水上機は離着水に波の穏やかな水面が必要という制限も抱えており、外洋上で着水・回収するには艦隊を円く航行させて航跡で波を打ち消す事が不可欠だった。この時の事故も多いため、日本海軍は再出撃の多い索敵を空母機に任せ、"艦爆と協働して先制で敵空母の甲板を潰す"為の水上爆撃機を待望するようになる。 なお瑞雲は水上機の最高傑作と言ってよいマルチロール機(多用途機)であり、ゲーム中でも航空機に係る殆どすべてをこなすことが出来る立場にある。*140 (丁字不利率低下のような特殊能力は除く) これらの伝統を引き継いだのか、ヘリコプターが幅を利かせている21世紀の現在でも日本は世界的な水上機大国である。 余談だが、旧海軍では、航空母艦に搭載される航空機を「艦上機」と称して水上機等と区別していたが、艦上機・水上機も含めて艦艇に搭載・運用される機体を総称として「艦載機」と呼んでおり、空母機を水上機と同様に艦載機と呼んでも差し支えない。 |
正規空母 | |
読み | せいきくうぼ |
使っている艦娘 | 祥鳳、瑞鳳 |
意味 | 時代や国によって用法が非常に曖昧な言葉。 現代では概ね、軽空母との対義語という用法になっていて、艦これ世界でもほぼこれを踏襲し「大型・高速の空母」を表す区分になっている。(現代についてはDDHを参照) 第二次大戦期の日本海軍では、正規空母とは「最初から空母として計画/建造された艦」を指す。つまり、艦の大小や能力の多少ではなく、艦の出自・構造によって分類されていたのである。 これに対し「他種の軍艦から改装された空母」は「改装空母」、「軍艦ではない商船などから改装された空母」は「特設空母」に分類されていた*141。 当時の日本海軍の航空母艦の類別は以下の通り(竣工艦のみ) ・正規空母:鳳翔、龍驤、蒼龍、飛龍、翔鶴、瑞鶴、大鳳、雲龍、天城、葛城 ・改装空母:赤城、加賀、祥鳳、瑞鳳、龍鳳、千歳、千代田、信濃 ・特設空母:大鷹、雲鷹、沖鷹、神鷹、海鷹、隼鷹、飛鷹 なお、日本海軍の艦籍には「軽空母」なるものは存在せず、空母黎明期の「若宮」を除き、全通飛行甲板を備えた艦の分類は大小を問わずすべて「航空母艦」であった。 諸外国もほぼ同じであるが、戦艦や巡洋戦艦からの改造は正規空母扱いになったり、飛鷹型のように大きければ正規空母扱いになったり(飛鷹型は飛龍よりも大型)、小型のものは空母として建造されても正規空母でなかったりと、国や時代でグチャグチャである。 |
斉射 | |
使っている艦娘 | 長門、比叡、霧島、妙高、伊勢改、大和 |
読み | せいしゃ |
意味 | 主砲を砲塔ごとにバラバラに撃つのではなく、ある目標に全砲塔で向きや仰俯角などを合わせて一斉に発射すること。着弾観測がしやすいため、その後の照準修正が楽になる。 アメリカなどでは全砲門を一度に発射していたが、1930年代以前の日本海軍では水圧機の問題から片舷ずつ交互に撃っていた(交互射撃)。 最初に斉射の有用性を見出したのはイギリスだが、初めて実戦で斉射を採用したのは日露戦争時の帝国海軍である。 その際に有用性は確かなものと確認され、この戦法を主眼とした革新的な戦艦「ドレッドノート」の開発へと繋がった。 なお旧海軍としては、繰り返しになるが「斉射」とはあくまで複数の砲塔を一斉に射撃することを指し、例えば金剛型では4門の右砲だけを一斉発射しても「斉射」となる。一方で8門全ての砲を一斉発射することを「斉発」と呼んだ。ただし、「斉発」は「斉射」の中の狭い概念にすぎないので、全砲の一斉射撃を「斉射」と呼んでも誤りではない。 砲撃用語上は長らく交互射撃を全砲塔で行うことを「一斉打方」、全ての砲を一斉発射することを「斉発打方」としていたが、昭和12年の「艦砲射撃教範」改訂に伴って「一斉打方」は全ての砲を一斉射撃することに意味が変わり、新たに交互射撃を行う「交互打方」が新設された。 |
潜水母艦 | |
読み | せんすいぼかん |
使っている艦娘 | 迅鯨、長鯨、祥鳳、瑞鳳、大鯨 |
意味 | 潜水艦に物資を補給したり、乗員を休息させたりする為の艦艇。旗艦設備も充実し、潜水戦隊旗艦となることもあった。 後々軽空母に改造できるように設計された潜水母艦もあり、剣崎型(後の祥鳳・瑞鳳)や大鯨がそれに当てはまる。 字面だとややこしいが、要は「潜水艦のための補給母艦」であって、「潜水する母艦」ではないので注意。海外の極一部の艦を除き、大部分は水上艦艇である。 なお、艦これでは似たような言葉として、水上機を積める潜水艦を「潜水空母(潜母)」と称しているが、そもそも帝国海軍に「潜水空母」なる艦種は存在しない。艦これ以外で「潜母」というと「潜水母艦」の略称になるので注意。 |
戦時急造艦 | |
読み | せんじきゅうぞうかん |
使っている艦娘 | 雲龍 |
意味 | 戦時下において、建造期間を可能な限り短縮して建造された艦の事。 急造艦というと粗製乱造のイメージがついて回るが、無駄を省いて合理性を追求した結果、従来型より抗堪性やダメージコントロールに優れている場合が多い。中にはイギリスのコロッサス級空母のように、2000年代まで使用された艦も存在する。 日本では雲龍型空母、改雲龍型空母、松型駆逐艦、秋月型駆逐艦などがこれに該当する。但し雲龍型と秋月型は元々量産を前提に設計された艦では無く、雲龍型では3番艦以降、秋月型では6番艦以降になると量産に対応する為に一部の設計が変更され、工期を短縮する為に簡略化が行われている。 ちなみに、アメリカの「月刊正規空母」エセックス級や「週間護衛空母」カサブランカ級も戦時急造艦の範疇に含まれる。また、米国の場合は戦艦を含めて最初から可能な限り量産に配慮した設計が行われていた。*142どこが急造品だ |
戦闘配食 | |
読み | せんとうはいしょく |
使っている艦娘 | 雲龍改、秋月改 |
意味 | 艦乗組員が戦闘中に食べる食事。この時ばかりは兵卒から艦長まで、同じ食事で済ませて次の戦闘に備える。 具体的には、立ったままでもさっと食べられて、且つ余計な洗い物は出さないよう、一人2,3個のおにぎりが配られる*143。汁物は無し、副食は大抵が沢庵、まれに士気向上の為か牛缶が出たようである*144。 用意するのはもちろん烹炊員(厨房勤務)だが、駆逐艦でも数百個、大型艦なら千を優に超える数を握らなければならない。軍手を塩水に浸して握るのだが、それでも握り終わるころには熱々のコメで手が真っ赤。 その為、熟練した烹炊員の中には2つ合わせた茶碗の中でご飯を転がして、おにぎりを作るものもいたという。 しかも、これを食べる各乗員は殆ど配置を離れられないため、握ると同時に艦内各所のあらゆる所へ食事を届けて回る必要がある。これには烹炊以外も主計科総動員となり、まさに主計の戦争となる。 ミッドウェー海戦の時の霧島では炊き込みご飯のおにぎりが出たとのこと*145、冷蔵肉か大和煮の缶詰かは不明であるが、缶詰の場合は味付けの手間や漬物を省ける利点もあったのだろう。 真珠湾攻撃の時の瑞鶴の食事は、朝食(おにぎり、蒸したベーコン、きんぴらごぼう、味付け昆布、古漬沢庵)、昼食(おにぎり、おでん(牛肉、里芋、大根)、新漬沢庵)、夕食(弁当(内容不明、赤飯か巻寿司か稲荷寿司の可能性が高い)、煮込み(豚肉、馬鈴薯、大根、人参)、梅漬)、夜食(乾パンと、)であった。なお、搭乗員の弁当は出撃時に鉄火巻、卵焼き、煮しめ(大根、人参、松茸)、りんご、紅茶、ビタミン剤、帰投時にビタミン剤、コーヒー牛乳、サイダーであった。*146美味いものが飲めずに戦死したら大変だと往路で飲み物を飲んでしまい、帰路、喉が渇いたままで戻ってきた搭乗員*147もいたそうだ。 搭乗員の弁当には唾液が出やすいように巻きずしや稲荷寿司がよく供された。稲荷寿司や赤飯の缶詰もあったくらいだ。 さらに多忙になったり、荒天時や烹炊所(厨房)が被弾して使用不能になったときは、乾パンにお茶もしくは水という時もある。軍艦商船問わず、船乗りに乾パンは万国共通である。 搭乗員が弁当を所持しえない時や食事の追加として乾パンに梅、昆布、かつお節、チョコレート、塩、砂糖などが入った箱詰めの機上応急食(今でいうレーションのようなもの)*148を弁当代わりにしたそうである。 修羅場になると、そのへんに味方の手足や内臓が転がっている中で、血と油でどろどろになった手で握り飯を食べるというのも、海軍兵のたしなみの一つだった。(陸軍かつ時代は異なるが映画「二〇三高地」で五目飯と思って食べたものが実は…というシーンがある) |
た行
第一遊撃部隊 | |
読み | だいいちゆうげきぶたい |
使っている艦娘 | 武蔵、金剛改二丙 |
意味 | 捷号作戦に於いて編成された軍隊区分での編成の1つ。栗田健男中将が指揮する第二艦隊を基幹戦力として編成された。レイテ沖海戦時は3隊に分かれ、第一部隊と第二部隊は同一航路を進軍し、第三部隊は別動隊として最短航路から進軍、レイテ湾の敵上陸部隊を目指した。レイテ沖海戦後も部隊として存続し、坊の岬沖海戦に参加して壊滅している。詳細は「日本海軍の各隊」や「栗田艦隊」に詳しい。 なお、金剛改二丙で言及されてる「第二部隊」とは第一遊撃部隊主力のうち、金剛が旗艦を務めた第三戦隊を基幹とする部隊で第三戦隊の他に第七戦隊*149、第十戦隊*150と清霜で構成した。一応栗田直率の第一部隊や、別行動をとる第三部隊(通称西村艦隊)とは別の作戦目的を与えられ、個別の指揮官として第三戦隊司令の鈴木義尾中将が充てられている*151が、第一部隊と同航路を続航して行動している事から、「栗田艦隊」と同じ括りとなっている事が殆どである。 |
田中少将 | |
読み | たなかしょうしょう |
使っている艦娘 | 長波 |
意味 | 開戦前~ガ島ドラム缶輸送作戦の頃までの第二水雷戦隊司令官・田中頼三(たなからいぞう)少将の事。ルンガ沖夜戦で駆逐艦8隻で重巡4隻含む艦隊を破ったことで、米国での評価は非常に高い。 反面、当時の日本海軍ではスラバヤ沖海戦で旗艦神通が真っ先に離脱した件や、第三次ソロモン海戦で早潮を旗艦としていた時の強硬揚陸*152、さらに連合艦隊が配備してくれた照月を鼠輸送の最中に喪ってしまう。そして大勝利と謳われるルンガ沖夜戦でも肝心の作戦は失敗しており、旗艦長波 そもそも海軍の作戦方針である鼠輸送自体に批判的だったこともあり、最終的に更迭される。日米という国による違いだけでなく時代、見る人によって評価が驚くほど変わる人物の一人である。 二水戦司令官になる前に、潮、神通、金剛などの艦長を務めた。 |
多聞丸 | |
読み | たもんまる |
使っている艦娘 | 飛龍、五十鈴「山口提督」 |
意味 | 二航戦(第二航空戦隊)司令官の山口多聞少将の事。ミッドウェー海戦において戦死。最期は空母飛龍と運命を共にしたことから飛龍の提督としてのイメージが強いが、軽巡洋艦五十鈴や戦艦時代の伊勢の艦長も務めた。 あまりにも苛烈な訓練を部下に課したために事故が頻発し「人殺し多聞」「気違い多聞」などと散々に言われていたが、真珠湾攻撃で彼の二航戦が航続力不足を理由に外されるという案を聞いた時、「置いて行かれては(厳しい訓練に耐えた)部下に顔向け出来ない」として出撃を訴えている。 戦死の報を聞いた多聞より先輩であった角田覚治少将は「彼の下でなら、喜んで一武将として戦ったのに」とその死を惜しんでいる(皮肉にも多聞の死後二航戦を率いたのは角田である)。同じ様に、伊勢の艦長時代にも「この艦長の元なら死ねる」と部下に慕われたエピソードがある。甲板上に土俵を作ったというエピソードもあって公式四コマでネタにされた 日本の機動部隊の欠点を熟知した将官であり、ミッドウェー海戦では彼に指揮を委ねるべきだったと惜しまれている。この評価は、ミッドウェー海戦中の意見具申に代表されるような戦闘中の閃きよりも、戦闘前から索敵の改善を訴えたり、兵装転換の危険性を実際に調査して把握していた点にある。特筆すべきは、太平洋戦争緒戦における連戦連勝で海軍の主だった将官が「勝ったのだからそれでいい」と結果に慢心(いわゆる勝利病)する中で、山口は勝利しても明らかとなった問題点や失敗はしっかり教訓とした事だった。 アメリカの戦史研究家サミュエル・モリソン*156が編集した『太平洋戦争アメリカ海軍作戦史』に「山口は卓越した司令官であり、山本五十六の後継者候補だったと言われている」と書かれており、敵であるアメリカ軍でも評価されていた事が判る。 でっぷりとした巨漢に相応しい大食漢で馬力は島風並みにはっやーいらしい、少佐時代に同期と2人で料亭に行った際に4人分の料理を注文し、驚いた同期に「俺が三人前食うつもりで注文したんだ」と言って本当に三人前の料理を平らげてしまった事もある。愛妻家としてのエピソードも残り、戦地から妻に送った手紙は約250通にもなるという。 なお、多聞という名は南北朝時代の名将楠木正成の幼名である多聞丸から取られている*157。 |
大本営 | |
読み | だいほんえい |
使っている艦娘 | 大和 |
意味 | 戦時に設置される日本陸海軍の最高統帥機関で、表向きは天皇を中心とする総司令部とされている。しかし、実際は大本営を構成する陸軍の参謀本部と、海軍の軍令部が、それぞれ統帥権を基に作戦をそれぞれで実施していて、陸海軍を統合指揮しているとは言えなかった。 また、内閣総理大臣などの政府関係者は構成員ではなく出席できなかった*158*159ので、戦時の国内外への戦況報道なども軍令部が行っていた。所謂「大本営発表」である。 太平洋戦争最初期では正確な発表が多かったが、珊瑚海海戦の頃から戦果の水増し等の虚偽報道がなされるようになり、今では「信用できない情報」の代名詞にもなっている。 艦これでは開発/運営からのTwitterを「大本営発表」と呼ぶ事もある。 |
第四艦隊事件 | |
読み | だいよんかんたいじけん |
使っている艦娘 | 龍驤 |
意味 | 1935年(昭和10年)9月26日、演習に向かっていた第四艦隊が台風に遭遇。 想定外の大波浪を受け、「初雪」「夕霧」は艦首切断、「睦月」「龍驤」は艦橋圧壊or半壊、他の艦も甲板や船体が歪む(中には切断寸前のものも)など大惨事に。 他の特型駆逐艦や、新鋭艦の最上・大鯨までもが大なり小なり被害を受けたという事実は、当時の海軍を震撼させた。 この事件や前年に起きた水雷艇の転覆事故「友鶴事件」などを機に、当時の艦船の強度不足や構造の脆さも浮き彫りとなり、全面的な補強改修が施されている。 その甲斐あってか、戦中の日本海軍では波浪による重大な事件は起きていない。一方米海軍では台風などで大損害を出してたりする。 なお本件は友鶴事件と共に、科学技術振興機構(JST)のまとめた失敗知識データベース「失敗百選」に選ばれている。(友鶴事件/第四艦隊事件) |
超弩級 | |
読み | ちょうどきゅう |
使っている艦娘 | 扶桑、伊勢 |
意味 | そもそも超弩級の前に、弩級とは「一夜にしてすべての戦艦を旧式化させた」と言われたイギリスの戦艦「ドレッドノート(Dreadnought)」*160に由来する。12インチ主砲10門(但し片舷指向8門)の主砲火力は既存戦艦の倍、さらに速力も当時の戦艦が18ノット程度のところを21ノットも出せるという革命的存在だった。 それまでの艦隊戦は「近づいて小口径砲で砲座を破壊し、大口径砲でとどめを刺す」という戦法が基本であった。 それに対し「遠距離から多数の大口径砲の斉射で倒す」という戦法を主眼としたドレッドノートはまさに革新的な戦艦で、世界を震撼させたのである。 超弩級は弩級を超えている意を持ち、狭義には13.5インチ主砲10門を実現したオライオン級以降を指していう言葉である。 今では「スゴイ」という意味合いで何にでも付く形容詞になったが、本来の意味からは離れてしまった気がしないでもない。 ちなみに、ドレッドノートの登場を受けて、各国がこれを超える戦艦の建造に熱中したために、ドレッドノート自身は早々に陳腐化してしまい、実戦であげた戦果は潜水艦1隻撃沈(しかも体当たり*161)のみというなんとも言えない落ちが付いている。*162 ドレッドノート以前の戦艦は「前弩級」と呼び、有名なところでは三笠やクニャージ・スヴォーロフ、ロイヤル・サブリンなどがある。 なお、「弩」は「ド」の宛て字であるが、「弩」とは飛距離・貫通力に優れた大弓のことであり、その意味をふまえてこの字を選んだものと思われる。 さらに言えば、艦これ公式用語集で「超時空要塞ではありません」と書かれているのは、1983年のアニメ「超時空要塞マクロス」の当初の題名が「超弩級要塞マクロス」だったことからである。*163 |
通商破壊 | |
読み | つうしょうはかい |
使っている艦娘 | Z1 |
意味 | 敵国の商船の撃沈・航路の封鎖等により海運を妨害し、物資の輸送を滞らせること。これへの防御が「海上護衛」。 近代海軍は通商破壊・海上護衛のいずれかあるいは両方のために存在すると言っても過言ではない。これらは旧日本海軍でも研究されたが国力などの関係から正面戦力の整備が優先された。 海軍弱国であるドイツは通商破壊を特に重視しており、Uボートを使用した大規模な通商破壊戦である「大西洋の戦い」が有名なほか、戦艦ビスマルクをはじめとした水上艦も通商破壊に投入された。 |
てー | |
読み | - |
使っている艦娘 | 長門、由良、綾波、雷、川内、香取、呂500、浜波 |
意味 | 「撃て」という掛け声。 「うてー」ではなく「てー」という理由は色々あるが、 (1)「う」は戦場(特に海上)では聞き取りづらい (2)普段から「うてー」と言っていると、「撃つな」と言おうとしたのに「う」で発砲してしまう恐れがある (3)「う」の時点では「撃て」なのか「撃つな」なのか「うーん」なのかわからず、次を待たなければならず、撃つタイミングを逃してしまう なお、実際の射撃指示は現場の指揮官が行うものであり、艦長や司令などは「てー」とは言わない。上官の「右砲戦」「左砲戦」の号令指示が末端まで伝わって、現場の指揮官の「てー」で射撃する。 |
敵艦見ゆ | |
読み | てきかんみ - |
使っている艦娘 | 敷波、名取、大淀 |
意味 | 文字通り「敵艦を発見した」の意。敵艦を発見した際普遍的に使われるが、特に日露戦争で仮装巡洋艦「信濃丸」から発信された電信を指す。 この通信を受けた「三笠」以下連合艦隊が迎撃のため出港した結果何をもたらしたか、提督諸氏はよくご存じだろう。 日本無線史上最も重要な通信のひとつとして知られている。 |
特型駆逐艦 | |
読み | とくがたくちくかん |
使っている艦娘 | 吹雪型、綾波型、暁型 |
意味 | ワシントン条約制限下で設計された、世界中を驚愕させたクラスを超えた駆逐艦、それが吹雪型こと特型駆逐艦である。 全24隻(艦これに出ているのは16隻)が造られ初期型の特I型(10隻)、特I型を少し大型にして主砲を別の物に変更した特II型(通称「綾波型」10隻) そして前2タイプのいいところを残しつつ小型化したのが特III型(通称「暁型」4隻)がある。 艦これでは「吹雪型」「綾波型」「暁型」と区別される事例が多いが、海外などでは特型駆逐艦を総称して「吹雪型」とも呼ばれることが主流であり、「綾波型」「暁型」と類別するのはあまり一般的ではない*164。24隻の特型駆逐艦の中で最後まで生き残ったのは「潮」「響」の2隻であった。 |
トーチ作戦 | |
読み | とーちさくせん |
使っている艦娘 | Tuscaloosa |
意味 | 1942年11月8日より行われた、連合国軍によるモロッコとアルジェリアへの上陸作戦。 6月より始まった独ソ戦で、ソ連よりヨーロッパでの第二戦線の形成*165を要求され、その第一陣として始められたのが北アフリカへの侵攻作戦である本作戦であった。 上陸後、連合国軍はまず在北アフリカのヴィジーフランス軍約20万と相対したが、偶々現地にいたヴィジーフランス軍総司令官ダルラン元帥*166との交渉を経て、カサブランカ沖海戦など一部抵抗はあったものの11日には停戦がなされた。 その後はチェニジアをめぐって連合国軍*167とドイツとの攻防が続き、数では連合国軍が圧倒していたがリビアから撤退してきたエルヴィン・ロンメルの部隊や、ドイツ第5装甲軍の抵抗で大損害を被ってしまう*168。 慌てた連合国軍は次作戦*169用の戦力から一部増援として送り込み、指揮官もフリーデンダール中将が更迭され、アメリカ第1機甲軍団のジョージ・パットン少将が昇格する。 3月以降はパットンのアメリカ第2軍団、バーナード・モントゴメリのイギリス第8軍の迂回戦術でドイツ軍は撤退を重ね、4月には一時的に連合国軍を足止めするもシチリアからチュニジアへの補給線を連合国側が叩くと支えきれなくなり、5月7日連合国軍がチュニジア北部のビゼルトとチュニスを占拠した事が決定打となって北アフリカのドイツ軍は降伏した。 |
○○殿 | |
読み | (人名+)どの |
使っている艦娘 | あきつ丸 |
意味 | 敬称の一つ。 海軍においては名前の後ろに役職をつけて呼ぶ事自体が敬称であるため、相手が目上の場合でも、階級もしくは役職をつけて呼ぶ場合は敬称をつけなかったが、陸軍はたとえひとつでも階級が上なら必ず殿をつけて呼ぶようになっていた。 |
友永隊 | |
読み | ともながたい |
使っている艦娘 | 飛龍 |
意味 | ミッドウェー海戦時の空母「飛龍」艦上攻撃隊を指す。指揮官が友永丈市大尉だったことからこう呼ばれる。 本来、南雲機動部隊の攻撃隊長は淵田美津雄中佐だったが、淵田中佐は盲腸手術のため出撃できず友永大尉が総指揮官の代行も務めている。 ミッドウェー島を爆撃した友永大尉は、爆撃効果不十分という意味の暗号電文「カワ・カワ・カワ」を発信した。この報告もあり、機動部隊では雷爆装転換作業を始めることになる。 その後、ただ一隻残った飛龍から発進した友永隊は、先に発進した小林大尉の艦爆隊に続いてヨークタウンを攻撃、魚雷2本を命中させてこれを大破させた。 ただし、この時友永丈市大尉本人は、燃料タンクに被弾して半分の燃料しか積めない状態の九七式艦攻でそのまま出撃しており、攻撃後ヨークタウン艦橋付近に激突自爆し未帰還(死後2階級特進中佐)となった。もっともこの時の飛龍とヨークタウンの距離は半分の燃料でも十分行き来できるぐらいの距離ではあった。しかし片方にしか燃料を積まないとなると機体バランスが崩れ操縦が難しいものとなるので、そういった面でリスクを負うものであった。 実は友永が飛龍艦攻隊隊長になったのはミッドウェー海戦前であり、真珠湾攻撃から率いていた訳ではない。飛龍艦攻隊を率いていたのは楠美正少佐(友永と入れ替わりに加賀艦攻隊隊長に移動。ミッドウェー海戦で戦死)である。 |
な行
南雲機動部隊 | |
読み | なぐもきどうぶたい |
使っている艦娘 | 赤城、漣 |
意味 | 南雲忠一司令長官が指揮した第一航空艦隊、及びミッドウェー海戦後に再編成された空母機動部隊である第三艦隊の呼称。「赤城」は前者を指している。 第一航空艦隊は、指揮下に一航戦・二航戦・四航戦・五航戦を擁した空母を主力とした世界初の艦隊。このうち一二五各航空戦隊を基幹に、軍隊区分として第三戦隊・第八戦隊・一水戦などが加わり「機動部隊」を構成、これに指揮官の名を冠して「南雲機動部隊」と呼称された。開戦時の旗艦は「赤城」。 ハワイ真珠湾攻撃を皮切りに、ニューギニア方面の南方作戦やセイロン沖海戦・ミッドウェー海戦などを戦い、ミッドウェーで空母4隻を失い壊滅した。 文字通り世界最強の機動部隊であり、撃墜:被撃墜のキルレシオは10:1以上、セイロン沖海戦では艦爆隊の命中率80%以上を叩き出すなど、向かうところ敵なしの最精鋭部隊だった。 その状態から一転してミッドウェーで大敗したために、「慢心」という言葉が強調される要因になり、南雲提督を批判する声が非常に強かったが、 近年の再検証でこれに対する反証が行われており、南雲提督の再評価も進んでいる。批判と反論はかなり広範囲に渡るので、興味のある方は調べてみると良いだろう。 なお、上記のように「南雲機動部隊」というのは実は正式な艦隊ではなく作戦に合わせて各隊が集められた臨時編成であった。そのため訓練や部隊内の指揮統制などに支障が出ていたという話が伝わっている。 正式に戦艦や巡洋艦などの護衛艦艇を擁する艦隊となったのはミッドウェー後に第三艦隊として再編成されてからであった。 第三艦隊は南太平洋海戦を戦った後に、司令長官が南雲中将から小沢治三郎中将に交代し、ここに南雲機動部隊の歴史は終わった。 南雲中将はその後サイパン島の戦いで守備隊の玉砕とともに自決した。戦死後大将。 |
西村艦隊 | |
読み | にしむらかんたい |
使っている艦娘 | 扶桑、時雨、満潮 |
意味 | 1944年10月、捷一号作戦のレイテ湾突入に基づき編成された第二戦隊司令官西村祥治中将を指揮官とする部隊。正式名称は、「第一遊撃部隊第三部隊」。あくまでも第一遊撃部隊指揮官栗田健男中将が率いる第一遊撃部隊指揮下の部隊であり、「機動部隊」や「第二遊撃部隊」のように捷号作戦で編成された戦略単位としての部隊ではないし「西村艦隊」というのは「小沢艦隊」「栗田艦隊」「志摩艦隊」と同様通称で本当に「艦隊」として編成された訳ではない。 第二戦隊所属の戦艦「山城」を旗艦に「扶桑」、第五戦隊と行動を共にしていた重巡洋艦「最上」、栗田艦隊の進む航路の長さの関係から航続力が不安視された駆逐艦「山雲」「満潮」「朝雲」「時雨」の計7隻を擁した。 当初は第三部隊は編成される予定はなかった。ところが作戦が発動し艦隊が最終補給地点であるブルネイに到着すると、連合艦隊が手配しているはずの補給船はなく、栗田がもしもを考えて用意していた補給船2隻がなんとか翌日につくという有様で、これでは予定日(この時点の突入予定日は24日)に突入できない状態だった。 連合艦隊は突入日を一日伸ばして25日としたが、それでも栗田艦隊の行程はギリギリだった。そこで部隊司令部の判断で隊を二手に分け、主力は敵制空圏内に侵入するのが最も遅いが遠回りのパラワン水道を経てサンベルナルジノ海峡を抜ける大回りルートを、速力や航続力に問題のある艦からなる別隊を最短距離だが敵制空圏内に最も早く入るスリガオ海峡ルートを、それぞれ分かれて進撃し、レイテ湾突入の際挟撃作戦をとることにした。その結果選ばれたのが上記の7隻で『西村艦隊』が誕生した。 実は第二戦隊の扶桑姉妹が選ばれたのは低速の問題よりも足手まといの可能性があったからという話もある。 扶桑姉妹が低速で本隊についていくのが無理だというのなら、ほぼ同じ速度である長門も無理だった筈というのが理由。低速というよりも第二戦隊の編成時期9月と前月で、戦隊間の連携訓練すら不足しており*170、それに加えて第一遊撃部隊への合流も10月初頭で12日から始まった台湾沖航空戦の余波で第一遊撃部隊も警戒態勢となったので部隊行動の連携訓練は出来ておらず、新参の第二戦隊は足手まといになる可能性が高かった。その為第二戦隊、同じく所属する戦隊がなく第五戦隊に間借りしているような状態だった最上、そして航続力に難のある白露型、朝潮型の4隻が別隊を組むようにしたとも考えられている。*171 敵戦力の挟撃と分散を任務を帯びた西村艦隊。しかし西村は出航してからずっと予定よりも早いスピードで進撃。そして栗田艦隊から到着遅延の連絡より、西村中将は予定よりも早い時刻に自らの艦隊のみでの夜間突入を判断。スリガオ海峡を北東に抜けてレイテ湾を目指した。何故西村が当初の予定よりも早く進撃したのかについては司令部関係者が全滅しているので謎であるが、ともかく24日22時頃に艦隊はスリガオ海峡付近に侵入した。以後の作戦の経緯は該当箇所を読むべし。 結果、スリガオ海峡に突入して生還した西村艦隊所属艦は「時雨」ただ1隻のみとなった。 日本では勇猛に突入して壊滅した悲劇性などから西村提督への評価は高いが、欧米などでは逆に西村の判断を厳しく批判するものもある。また1947年(終戦後2年)に刊行されたレイテ沖海戦を扱う書籍では恐らく第1号のジェームス・フィールドJr 著「レイテ沖の日本艦隊」の中には、唯一生還した時雨の当時の艦長の証言として「(彼への批判を知ることなく死んだことを指して)西村提督は戦死してよかった」というのを掲載しており、日本国内でも当時西村に対する批判が大きかった事を示唆する記録も残されている。これほどの勇敢な死であるにもかかわらず、戦死後の階級特進がなかった事も、これを証左しているのかも知れない*172。 |
鼠輸送 | |
読み | ねずみゆそう |
使っている艦娘 | 村雨、雷、夕雲 |
意味 | 駆逐艦などの機動性の高い艦艇で(鼠のように夜にコソコソと)前線の島などに物資や人員を輸送すること。 潜水艦の場合は「モグラ輸送」、大発・小発だと「アリ輸送」となる。ちなみに米海軍は「トーキョー・エクスプレス(東京急行)」と呼んでいた。 これは日本軍の輸送艦不足と敵の航空攻撃回避のために行われたやむなしの手段で、これらを含む駆逐艦の多用によって日本軍は多くの駆逐艦をソロモンの攻防で失った。 鼠つながりネタだと、海軍には「鼠上陸」というルールがあり、船内の鼠を1匹捕まえると賞品として上陸許可が1回与えられた。「油虫上陸」もあり、 |
は行
排水量 | |
読み | はいすいりょう |
使っている艦娘 | 木曾など |
意味 | 軍艦の大きさ・武装の規模などを表す単位。 木曾などが「5500トン級」などと言っているのは、この排水トン数のことを言っている。 船の大きさや能力を表す場合、タンカーなどの貨物船なら「どれだけ積めるのか」商船なら「どれだけ稼げるのか」が重要なため容積トン数(甲板から下の船そのものの容積を計算で出した値)で表す。 軍艦の場合は「どれだけの武装をしているか」が重要であり、そのために考え出された単位が排水トン数である。船を水上に浮かべた際に押しのけられる水の重量をトン単位で示した数値で、船全体の重量に等しく、積み荷による重量の変化が少ない軍艦の大きさを表すのに最も適している。 現在では乗組員・弾薬・燃料・水など、計画上搭載できるもの全てを搭載した状態での満載排水量が使われているが、第二次大戦当時は満載排水量から燃料および水の重量を差し引いた状態の基準排水量が主要国で使用された。 …ただし軍事機密の観点から相変わらず現役艦の満載排水量は未公表か誤魔化している国がほとんど。現在でも、日本の護衛艦は計画値は発表されているものの完成した実艦の満載排水量は公表はされていない。 |
八八艦隊 | |
読み | はちはちかんたい |
使っている艦娘 | 長門 |
意味 | 1907年、日露戦争でロシアに勝利した日本海軍が対立が深まっていたアメリカを仮想敵国として定めた国防方針「国防所要兵力」において、主力の戦艦8隻、装甲巡洋艦8隻を編成整備する計画が立案された。これが八八艦隊計画の初期案で、予算不足等の理由で段階的に整備され、1920年に「八八艦隊案」として最終的な計画が纏まった。 この計画は竣工して8年未満の戦艦8隻、巡洋戦艦8隻を中核戦力とし、その他補助艦艇等を整備、8年を超えた主力艦も引き続き準主力として運用する*173という大規模なものだった。 上記のように計画は段階的に承認されており、それぞれの建造計画で承認された艦艇は以下の通りである。 ・大正5年度軍備計画(長門型戦艦:長門、天龍型軽巡艦:天龍、龍田ほか) ・大正6年度計画(長門型戦艦:陸奥、加賀型戦艦:加賀、土佐、天城型巡洋戦艦:天城、赤城、球磨型軽巡洋艦、長良型軽巡洋艦:長良、名取、五十鈴、駆逐艦:峯風型ほか28隻、潜水艇18隻、特務艦ほか) ・大正7年度軍備計画(天城型巡洋戦艦:高雄、愛宕、長良型軽巡洋艦:由良、鬼怒、阿武隈、夕張型軽巡洋艦:夕張、特務艦(後に航空母艦):鳳翔、神風型駆逐艦:神風*174、朝風*175、春風*176ほか駆逐艦27隻、潜水艇48隻、給油艦5隻) ・大正9年度軍備計画(紀伊型戦艦:紀伊、尾張、13号*177、14号*178、8号型巡洋戦艦:8号艦、9号艦、10号艦、11号艦、鳳翔型航空母艦:翔鶴他1隻、川内型軽巡洋艦、神風型駆逐艦:松風*179、旗風*180ほか駆逐艦32隻、潜水艦28隻、砲艦5隻、潜水母艦2隻、掃海艇6隻、給油艦神威ほか) しかしこのような大規模な建艦計画を日本の国力では大きな負担であり、計画終了後の維持費も推定で約6億円と、当時の日本の歳出額の1/3を上回るものであった。 また同時期に米英でもダニエルプランなどの大規模な建艦計画が進められており、軍拡が国家の経済を逼迫していた。このため日米英仏伊の5か国は1921年にワシントン海軍軍縮条約を締結、これにより八八艦隊計画は中止となり、建造中の主力艦は解体もしくは航空母艦への改装となった。但し巡洋艦以下の補助艦艇については引き続き建造されている。 |
八十一号作戦 | |
読み | はちじゅういちごうさくせん |
使っている艦娘 | 白雪、浦波 |
意味 | 時期的には「ケ号作戦」ころ。ラバウル基地を出て、ビスマルク海~ダンピール海峡を通り、ニューギニア島の都市ラエへ向かう輸送作戦。 その途中で米・豪軍の空襲を受けた。別名ビスマルク海海戦、ダンピールの悲劇。海戦といってもほとんど一方的にボコられただけで失敗に終わってしまった。 しかもその失敗は事前に予測できていたのだが「命令だから」の一言のもと強行することに。「白雪」のページにも詳細。 |
おもな参加艦艇:白雪 朝潮 荒潮 時津風 朝雲 浦波 雪風 敷波 他輸送艦8隻 | |
抜錨 | |
読み | ばつびょう |
使っている艦娘 | 天龍、愛宕、鳥海など |
意味 | 錨を上げること。出港・出帆・出撃。英語では"weigh anchor"(米国艦娘の多くが使用)。ちなみに反対語は「投錨(とうびょう)」。 ちなみに海上自衛隊では出港時に「錨を上げて」を慣例として演奏することが多いものの、係留時に実際に錨を使うことは少なくロープだけで係留することが多い。 関連ネタとして、軍事用語ではあるが海軍・海上自衛隊では「港を出る」ことから「出港」と言うが、民間や海上保安庁では「予定された航路に出る」という意味で「出航」という地味に面倒な言葉の違いがあったりする。決められた航路がなく臨機応変な行動をする海軍ならではの用語である。 |
ハリケーン・バウ | |
読み | はりけーん・ばう |
使っている艦娘 | 大鳳 |
意味 | 航空母艦における艦首構造の1つで船体と飛行甲板が一体化している構造を指す。エンクローズド・バウが主流の言われ方で、ハリケーン・バウは実は別名だったりする。 これに対して従来の船体と飛行甲板が分かれていて空間があるのはオープン・バウと呼ばれている。 オープン・バウは構造的に簡単で、従来艦から空母に改装する際などは便利な構造だった。しかし外洋で活動する際は荒海の中を航行する時もあり、その際艦首にぶつかった波が突き出た飛行甲板先端に直撃してこれを破壊する事もあり、その惰弱性が問題となった。 そこで艦首構造を上に伸ばし、飛行甲板と一体化する事で強化し、荒波にも耐えれるようにしたのがエンクローズド・バウで、ハリケーン・バウという別名は「波浪に強い」から採られたものである。 現在では飛行甲板に装甲を施す必要上便利である事と、対放射能・化学兵器防護の観点から機密性が重視されることからどの航空母艦もハリケーン・バウを採用しており、海上自衛隊の4隻のヘリ空母*181でも採用されている。 最初にハリケーン・バウを採用したのはイギリス海軍の航空母艦で鳳翔と同時期に建造された「ハーミーズ」で、以後イギリス海軍では当初より空母として計画された艦には全てハリケーン・バウを採用している。 アメリカ海軍では建造中の巡洋戦艦から改装したレキシントン級航空母艦で初めて採用されたが、以後は戦後フォレスタル級航空母艦で再採用されるまでオープン・バウに戻っている。 日本海軍では採用したのは大鳳だけだが、大鳳以後の建造計画では全ての航空母艦は飛行甲板を装甲化することとしており、ハリケーン・バウも採用する予定だった。 |
ビッグセブン | |
読み | - |
使っている艦娘 | 長門、陸奥、Nelson、Colorado |
意味 | ワシントン海軍軍縮条約によって、日米英の列強が保有が認められた7隻の戦艦の事。いずれの戦艦も、口径16インチ(約40cm)の主砲を搭載しており、当時、世界最強の7大戦艦と呼ばれた。 条約では、完成済みの戦艦は保有が認められ、そうでないものは廃棄される事になっており、会議中に完成艦とされていたのは「長門」とアメリカの「メリーランド」だけであった。 しかし、日本が「陸奥を残せ」とゴネた結果、バランスを取る為にアメリカは廃艦予定だった2隻の建造続行が認められ、イギリスは新たに16インチ砲搭載艦2隻の建造が認められる事となり、戦艦の保有率はかえって日本に不利になってしまう。但しほとんど語られることはないが代わりに戦艦を廃棄しており日本は摂津アメリカはデラウェア級2隻イギリスはサンダラーとキング・ジョージ5世級3隻である。日本はほとんど準ド級アメリカはド級イギリスは超ド級と廃棄戦艦で見れば日本が有利な結果となっている。 この結果を知った山本五十六は「陸奥1隻の為に、米英の戦力を随分と強化してくれたもんだ」と皮肉ったという。 ビッグセブンの内訳は以下の通りである。 *日本:長門型戦艦「長門」、「陸奥」 *アメリカ:コロラド級戦艦「Colorado」、「Maryland」、「ウェストバージニア」 *イギリス:ネルソン級戦艦「Nelson」、「Rodney」 各国のパワーゲームの中で誕生したビッグセブンだが、いざ戦争が始まると戦場の主役は空母機動部隊に奪われてしまい、戦艦としての本分をまっとうできたのは西村艦隊を撃破した「ウェストバージニア」「Maryland」と*182、「Bismarck」と撃ち合った「Rodney」だけであった。*183 なお西村艦隊の基幹となった第二戦隊には長門も配属させる話も出ていたのだが、当時長門が所属していた第一戦隊や捷号作戦に向け訓練をしていた第二艦隊から「今になって長門を引き抜かれたから作戦計画を一から練り直さないといけなくなるからやめてくれ」と猛烈に反対されて沙汰やみとなっている。もしこれが実施されていたら長門vsウエストバージニア、Marylandのビックセブン同士の砲撃戦が実現していたかもしれない。 |
平賀譲/平賀さん | |
読み | ひらがゆずる/ひらが - |
使っている艦娘 | 妙高、夕張 |
意味 | 日本の海軍軍人であり貴族(従三位男爵)、そして艦艇設計士の平賀譲(ひらが ゆずる)氏のこと。軽量な艦体に重武装を備える氏の設計は諸外国からも脅威視され、「夕張」や「妙高型」などの功績から「造船の神様」とも呼ばれる。(ワシントン条約やロンドン条約で、巡洋艦の分類や保有隻数が厳しく規定された一因との説もあるほど) 一方で、頑固で反対意見を一切受け付けない性格から「平賀不譲(ひらが ゆずらず)」と皮肉られたり、その設計思想が(当時は)革新的過ぎて関係各処と『色々とあった』。 (所謂典型的な“斬新なアイデアを具現化する”天才。細かい改修とかウンウンな) なお、後任で特型駆逐艦や高雄型重巡洋艦、最上型軽巡洋艦の設計者である藤本喜久雄とは相当な確執があったと言う。 海軍退職後には以前から教鞭をとっていた東京帝大(現在の東京大学)の13代学長に就任。 東京帝大経済学部内で発生していたイデオロギー紛争を13名の辞職者を伴う形で終結させた「平賀粛学」がよく知られる。 平賀氏は蕎麦が好物だったようで、死ぬ間際にも蕎麦が食いたいと夫人に呟いたそうな。ちなみにその時に食ったのは有名老舗蕎麦屋、2013年2月に火事で燃えた「藪」である。(「夕張」が時報で蕎麦蕎麦と言うのはこれが元ネタ) 設計した主な艦娘:「夕張型」「古鷹型」「妙高型」「川内型」「大和型(監修のみ)」 彼に縁がある艦娘:「山城」「比叡」「島風」 参考>“「かんだやぶそば」出火 1880年創業の老舗 都の歴史的建造物(※外部リンク)” |
砲雷撃戦 | |
読み | ほうらいげきせん |
使っている艦娘 | 睦月、長良、古鷹、大和など他多数 |
意味 | 艦砲と魚雷で戦うことを意味する、実際の用語。明治時代から「砲雷撃」という単語が当時の戦記や軍記でしばしば見られ、太平洋戦争中に日本海軍の将官が「砲雷撃戦」と表記している。*184。 ただし現場で使用されていた、正式な号令・命令ではない。旧海軍において、大砲で戦う場合は「砲戦」、魚雷で戦う場合は「魚雷戦(雷撃戦ではない)」と使い分けるのが正しい用法である。これは、艦の指揮官である「艦長」の指揮下に砲戦を監督する「砲術長」と、魚雷を管轄する「水雷長」が居るため、それぞれに個別に命令しなければならないという規則があったから。こういう現場事情を無視してこれらをまとめた言い回しはアマチュア的な表現である。 魚雷を使用する場合は「魚雷戦用意」と号令をかけ、操式の違う砲戦の場合は「砲戦用意」とは号令をかけず「右砲戦」「左砲戦」と号令をかけるようになっていた。 このページでも取り上げられている映画「太平洋奇跡の作戦キスカ」でも、軽巡木曾で「右砲戦・魚雷戦用意!」と言い分けているのがわかる。 ちなみに潜水艦の場合は「襲撃戦」だとか。 魚雷は魚型水雷の略なので「魚雷戦」は「水雷戦」とも呼ばれることもある、そもそも「水雷戦隊」と呼ばれることから「水雷戦」の方が正しいとの説もある。 余談だが、海上自衛隊での同様の号令は「対水上(対空)(対潜)戦闘用意」という号令になっている。 |
本国艦隊 | |
読み | ほんごくかんたい |
使っている艦娘 | Javelin、Rodney |
意味 | 1902年10月1日に英国沿岸警備を主目的に編成された艦隊。1904年に海峡艦隊*185に名称変更されるが1909年に元に戻っている。 第一次世界大戦が始まると、本国艦隊は大西洋艦隊*186ほかと統合され、大艦隊(グランドフリート)を編成する。 この大艦隊は日本の連合艦隊と異なり、吸収された本国艦隊、大西洋艦隊は廃止され全艦艇が大艦隊の直接指揮下に入っていた*187。この為本国艦隊の名称は一時的に消滅する。 第一次世界大戦後、大艦隊は解散となったが、本国艦隊は復活せずに大西洋艦隊が復活し、主力艦隊として存続した。 だが1931年9月のインヴァ―ゴードン反乱を期に名称を大西洋艦隊から本国艦隊に改称し、そのまま第二次世界大戦を迎える。 戦中は大西洋でのイギリス海軍の主力として活躍。元々本国艦隊の作戦区域は特に区分けされておらず、所属艦艇を柔軟に他海域に投入する事が出来た。 そのため所属艦艇の多くが地中海、遠くは太平洋にまで派遣され、活躍している。 第二次世界大戦後も本国艦隊は存続し、他のNATO諸国と連携して北大西洋をソ連から防衛する役割を果たしていた。 だが1967年に地中海艦隊が解隊、その艦艇および人員が編入されると、その任務は本国周辺だけではなくなった事もあって名称を西方艦隊に変更、伝統ある本国艦隊は消滅した。 |
ま行
松輸送 | |
読み | まつゆそう |
使っている艦娘 | 能美 |
意味 | 1944年前半に日本軍が行った中部太平洋方面への増援部隊輸送作戦のこと。「松船団」と総称される11回の護送船団で運ばれた。 絶対国防圏と位置付けられたマリアナ諸島などの防衛力を強化するために、満州等の戦力物資を輸送するのが目的で、指揮は連合艦隊ではなく創設されたばかりの海上護衛総司令部が実施した。 航路は2経路あり、マリアナ諸島およびカロリン諸島東部への増援については横須賀鎮守府の護衛で太平洋航路*188、カロリン諸島西部への増援については第一海上護衛隊の護衛で台湾航路*189が利用され、前者を「東松船団」、後者を「西松船団」と呼ばれた。 輸送作戦自体は当時の米潜水艦部隊の活動不活発もあり、およそ2か月の作戦期間中の損失は輸送船で参加船舶延べ100隻以上のうち3隻のみ、護衛艦艇の損失は2隻(松風、朝凪)のみだった*190。 特に陸軍将兵を輸送した船舶の損失は無く、サイパン防衛の要であった第43師団主力を無傷で現地まで輸送できた事は陸軍側を歓喜させた*191。 だが米軍の侵攻が目前に迫る状況であり、別船団で輸送していた築城資材が被害を受けて改没してしまったので防衛陣地構築のための資材も時間も不足していた。このためサイパン島を含むマリアナ諸島の防衛は失敗に終わり、市民も巻き込んだ壮絶な戦いとなってしまった。 一方で西松輸送で増強を受けたペリリュー島などカロリン諸島西部は、米軍侵攻まで時間的余裕があったので準備に時間をかけることが出来、特にベリリュ―島では4日で占領する計画だった米軍を2か月以上も足止めする善戦を見せて米軍を大きく苦しめている |
右舷・左舷 | |
読み | みぎげん(うげん)、ひだりげん(さげん) |
使っている艦娘 | 筑摩「みぎげん」、那智「うげん」、鳥海「ひだりげん」など |
意味 | 艦尾から艦首を見て右側と左側を指す用語。 海軍や自衛隊では戦闘中の聞き間違いを防ぐために「みぎげん」「ひだりげん」と呼んでいるが、民間や陸軍では「うげん」「さげん」と呼んでいた・・・と言われることが多いが正確に言えば誤りである。 海軍の文献にはどちらの表記も混在してたりしてややこしい。 これは、海軍で特にルール化されていたわけではなく、現場の慣例的な面が強いために、ぶっちゃけどっちでも良かったからである。 ちなみに、船が港に着いたときは、左舷側を岸壁につける。古代の船には舵はなく、船尾の漕ぎ手のオールを舵のように使っていたが、右ききの人の方が多いため、舵として使うオールは右舷にあった。接岸の際は舵の邪魔にならないように左舷で接岸した。その流れを汲んで旅客機も左側から乗り降りする。 さらにいうと、日本の空母が左舷側に煙突を置かなかったのもこのため。下向き煙突からの排気が岸壁にどさーは大惨事ですな。 因みに英語でも、左舷を港側という意味から「port(ポート)」と呼び、右舷を舵取り板から訛った「starboard(スターボード)」と呼んでいる。なお、英語ではかつては左舷を「larboard(ラーボード)」と言っていたが、スターボードとラーボードが紛らわしいという理由でポートと呼び替えたという、日本と同じような事情がある。 |
や行
山本五十六 | |
読み | やまもといそろく |
使っている艦娘 | 五十鈴 |
意味 | 新潟県長岡市出身の海軍軍人。連合艦隊司令長官。 旧姓高野。大尉時代に絶家となっていた長岡藩家老の家系である山本家*192の養嗣子となる。 少尉候補生の時に装甲巡洋艦「日進」に配属され、日本海海戦に参加。左手人差し指と中指を失い、左大腿部に重傷を負う。 早くから航空機の有用性に着目し、航空主兵を推し進める。 幾度かのアメリカ駐在経験で日米の国力差を実感しており対米戦には反対であったが、対米戦不可避の状況になると真珠湾攻撃を計画、これを実行し大戦果を挙げるが、ミッドウェイ海戦で空母四隻を失い、戦局は膠着状態に陥る。 苦戦が続くなか戦争指揮を続けるが、視察に訪れたブーゲンビル島上空で敵機の襲撃に遭い、戦死。 遺体は陸軍の都城歩兵第23連隊が発見し、本土に送られた。 実際には当時山本五十六が飛行機で視察に訪れることが事前にアメリカに知られており、アメリカ海軍は山本搭乗機であることを知った上で襲撃した、暗殺事件である(日本海軍では「海軍甲事件」と呼ばれた)。 なお、五十六という名前は父・貞吉が56歳の時に生まれたことにより名づけられたもの。 |
四航戦 | |
読み | よんこうせん |
使っている艦娘 | 日向 |
意味 | 空母艦隊「第四航空戦隊」のこと。太平洋戦争初期は空母「龍驤」や「春日丸」が所属していたが、「春日丸」は程なく離れ、替わりに開戦後に竣役した「祥鳳」や「隼鷹」が配属される*193。ミッドウェー海戦の後に2隻は再編された第二航空戦隊に配置換えとなり四航戦は解隊。 その後1944年に航空戦艦「日向(旗艦)」「伊勢」で世界にも類を見ない航空戦艦を軸にした航空戦隊として再編成される。この時の所属は空母機動部隊である第三艦隊だった。 マリアナ沖海戦後、大損害を受けた二航戦は解隊となり、生還した「隼鷹」は「龍鳳」と共に古巣の四航戦に配属となったが、台湾沖航空戦で再編した航空隊を提供したため、直後に発生したレイテ沖海戦には航空機がない為「隼鷹」「龍鳳」は参加できず、「伊勢」「日向」が戦艦として参加した。このため4隻揃って作戦行動を共にしたことはない*194。 その後北号作戦などにも参加したが、航空戦艦の2隻は実戦で航空機を運用しておらず、太平洋戦争末期には軽巡「大淀」が所属するなど航空戦隊というよりは戦艦戦隊でありアメリカ軍もフィリピン戦線の懸念材料として執拗に追い回し続けた。 捷一号作戦で機動部隊が壊滅したため、作戦後四航戦は第二艦隊に編入されている。 連合艦隊が壊滅状態に陥った日本海軍は南西方面にて各地を駆けずり回っていたこの戦隊に対し、戦略資源を満載し日本本土へ帰還させる「北号作戦(主な海戦・作戦を参照)」を発動した。 司令官の松田千秋少将は標的艦「摂津」航空戦艦へ改造前の「日向」戦艦「大和」などの艦長を務めた歴戦の司令である。 彼が「摂津」艦長時に研鑽した爆撃回避法により、解隊されるまで日向・伊勢は爆撃によって命中弾・至近弾は受けたものの、遂に魚雷を受ける事は無かった。 彼のおかげで「伊勢」「日向」は艦これにおいて高回避・幸運艦として設定されたと言っても過言ではない。 四航戦は北号作戦終了後の45年3月に「日向」「伊勢」を浮き砲台に、「大淀」を練習艦とすることが決定したため解隊された。 なお、この四航戦に配属されるはずだったのが、第六三四航空隊である。 |
ら行
ラムネ | |
読み | らむね |
使っている艦娘 | 大和、最上 |
意味 | ここでは清涼飲料水の方のラムネを指す。日本海軍では消火設備として搭載していた炭酸ガス発生装置を転用してラムネを製造していたという。 シロップを混ぜた水に炭酸ガスを注入すれば簡単に出来るため、多くの艦艇で作成され、中には専用のラムネ製造機を搭載した艦もあった。嗜好品もそれほどなかった時代、甘くて清涼感のあるラムネは艦隊勤務で疲れた将兵には人気の飲物であった。 また炭酸水は普通の水よりも腐りにくく、保存性が高かったので飲料水として搭載するには好都合だったという事情もある。 ラムネについて言及している大和には艦中央付近にラムネ製造所があり、各分隊から交代で手伝いの人員を出してラムネを製造していた。普段は暑くても水を好きなだけ飲むことも出来ない下っ端の兵たちも、この当番の時はラムネを好きなだけ飲めたそうで、当番に当たるのを待ちわびていたそうな。 ラムネの人気は海軍だけではなく、陸軍でも人気だった。第一次世界大戦で青島に立て籠るドイツ軍と交戦した際、ドイツ軍が残していった泡の出る飲物を見た兵士たちが「ラムネだ!」と思って我先に飲んだら、実はそれはシャンパンで、兵士たちはべろんべろんに酔ってしまったという話もある。 駆逐艦のような設備のない小型艦には |
連合艦隊 | |
読み | れんごうかんたい |
使っている艦娘 | 長門、雪風、大淀 |
意味 | 2個以上の艦隊で編成された、日本海軍の主力艦隊。当時の表記は「聯合艦隊」 日清戦争開戦の6日後、主力艦で構成された常備艦隊と、老朽艦などで構成された警備艦隊(西海艦隊と改称)をもって連合艦隊とした。 以後、日露戦争などの戦時や演習の際臨時に編成されていたが、大正12年(1923年)以降常設となった。また、連合艦隊の司令部は主力の戦艦で構成される第一艦隊の司令部が兼務していたが、対米戦が間近に迫り、艦隊が増設されて連合艦隊の規模が拡大し、兼務する事が出来なくなったので昭和16年に第一艦隊司令部が独立し、連合艦隊は第一戦隊ほか直轄部隊のみを直接指揮する形になっている。 当時の海軍士官を目指す若者たちにとって戦艦の艦長と連合艦隊司令長官になる事が夢であり目標だった。例えば米内光政が連合艦隊司令長官になって僅か2か月余りで海軍大臣に請われた際、彼は相当渋り、結局大臣にならざるを得なくなると、同期*195から「せっかく長官になれたのに……心中お察しするね」という意味の手紙をもらうと「僕の気持ちを分かってくれたのは君だけだ!」という、相当悔しがる手紙を出している。*196 海上自衛隊でも同様の編成方式をとり「自衛艦隊」*197が昭和29年(1954年)に編成された。 艦娘の同名艦では「ゆきかぜ」「あきづき(初代)」がその旗艦を務めている。なお、自衛艦隊司令部の陸上移転に伴い旗艦制度は昭和38年(1963年)に廃止された。 自衛艦隊の直下には「護衛艦隊」が昭和36年(1961年)から常設されており、艦これ実装艦の跡目ではむらくもが護衛艦隊旗艦に就任している。 しかし、防衛計画の見直しにより平成19年(2007年)をもって護衛艦隊旗艦は護衛艦隊直轄艦に名称変更、その直轄艦制度も平成22年(2010年)に廃止された。またなり損ねました……姉様…… なお、聯合艦隊の英訳は、現在はアメリカで使われていた"Combined Fleet"とするのが通例で、艦これの起動画面にも"Combined Fleet Girls Collection"と書かれているが、当時は"General Fleet"(略してGF)と訳していた。これは師匠であるイギリス海軍の戦時編成"Grand Fleet"と同じ略称にするためである。 |
ロクマル | |
読み | - |
使っている艦娘 | 日向改 |
意味 | 「修理してもロクマルは載めないぞ」:後世の護衛艦「ひゅうが」搭載の対潜ヘリ「SH-60K」のこと(ただし、日本でロクマルと言うと陸上自衛隊の「UH-60J(ブラックホーク)」、海上自衛隊の「SH-60J」「SH-60K」のすべての機体のことを指す。ついでに世界でロクマルと言うとシーホークも含む「UH-60」の派生型すべての機体のことを指す。)。 原型初飛行からすでに30年以上経過している旧式であるが、 勿論、姉妹である「いせ」や「22DDH」改め「いずも 航空戦艦「日向」のエレベーターサイズでも収納可能なので、やろうと思えば運用できる……かもしれない。 自衛隊いわく、(対潜は)単縦でも余裕wwwとのこと。 |
わ行
ワシントン海軍軍縮条約 | |
読み | - かいぐんぐんしゅくじょうやく |
使っている艦娘 | 吹雪、妙高 |
意味 | 1922年(大正11年)、当時の海軍五大国(英・米・日・仏・伊)によって調印された世界最初の軍縮条約である。 世界的な建艦競争・軍備拡張による、国家予算に影響を与えるほどの莫大な軍事費増大に歯止めをかけるべく、主力艦の装備・保有の制限(と要塞建設の禁止)を施した。 内容としては、 ①基準排水量によって*198、各国の主力艦、空母の保有総トン数を英米:63万5千t*199、日:38万1千t*200、仏伊:23万5千t*201とする。巡洋艦の制限は無し。 ②1艦あたりの基準排水量は主力艦3万5千t、航空母艦2万7千t*202、巡洋艦は1万t以下とする。 ③備砲は主力艦16インチ以下*203、航空母艦は8インチ以下*204、巡洋艦は5インチ以上8インチ以下とする。 である。 この会議は、文官(政治家)よりも各国軍部の発言権が大きく、それらを元にすり合わせを行ったため厳密性に欠け、全ての海軍力を包括する軍縮条約にならなかった。 このため、この条約による制限の少ない巡洋艦・空母以下の補助艦艇の建艦競争に発展してしまった*205。軍縮とはいったい何だったのか…… また本会議の際、約20年間に渡って更新され満期時期を迎えた「日英同盟」は更新されず、新たに太平洋方面に利害を持つ日・米・英・仏による「四カ国条約」が締結された*206。 1930年(昭和5年)、高度な政治的判断が必要との反省から、今回は政治家によって妥協点を探り、さらに艦種毎に厳しい条件を課した「ロンドン海軍軍縮条約」が調印される*207。 主な内容は、 ①空母を戦艦と同じ制限枠に含める。 ②巡洋艦の下限排水量を1850トンとして「カテゴリーa」(備砲は6.1インチより大きく8インチ以下)と「カテゴリーb」(備砲は5.1インチより大きく6.1インチ以下)に分けて保有トン数を制限した*208。 ③駆逐艦は備砲は5.1インチ以下。排水量は600トンを超え1850トン以下*209。 すると今度は、「数で劣るなら質で補うしかない」と、小型艦艇に制限ギリギリの無茶な設計を施して…… という軍縮条約下での日本海軍艦艇の小話はよく知られているが、実は米国はじめ他国でも似たようなことをやらかしていたりする*210。 この軍縮条約の影響を受けた艦娘たちは多い…というか、条約期に建造された艦艇は日本だけにとどまらず世界中の艦艇が影響を受けており、この時期に計画・建造された艦艇は「条約型戦艦・巡洋艦」と呼ばれている。 例:「赤城」「加賀」「龍驤」「吹雪型(特型)」「妙高型」「最上型」「長門型」「ネルソン級」「コロラド級」「サラトガ級」「ヨークタウン級」etc |
ワシ | |
読み | - わし |
使っている艦娘 | Conte di Cavour、日進 |
意味 | 日本語の一人称代名詞のひとつ。漢字では「私」「儂」と書く。 「わたくし」の省略形で、主に西日本を中心に用いられる文法。小説など創作物では老人や武士の一人称としてよく使われる。 現代では男性(しかも高齢の方)が使う一人称代名詞というイメージだが、元々は女性が親しい相手に対して用いていたもの。今でも一部地域では女性が使っている場所もある(高齢の方々ではあるが…)。 なのでConte di Cavourが使っているのもあながち間違いではない...が、どうして一人称だけ「ワシ」を使うのかは謎。他では「~じゃん」や「にゃ~」など、見た目にあった年相応の喋り口調を使っているのだが… |
英字
ABDA艦隊 | |
読み | えーびーでぃーえーかんたい |
使っている艦娘 | Perth改、De Ruyter改、Houston改 |
意味 | 1942年1月15日、南方に侵攻を開始した日本軍に対し、同地に自領や植民地等多くの権益を持つオーストラリア(Australia)、イギリス(British)、オランダ(Dutch )、アメリカ(America)、の4カ国が、対日軍事作戦のためアーチボルド・ウェーヴェル大将(イギリス)を総司令官として多国籍コマンドABDA司令部(米英蘭豪司令部)を発足させた。 アメリカ海軍アジア艦隊司令長官のトーマス・C・ハート大将がABDA司令部指揮下の部隊としてこの方面に展開していた艦隊や艦艇でABDA艦隊を編成させ、オランダ海軍のカレル・ドールマン少将を司令に任命した。戦力としてはアメリカ(重巡1、軽巡3、駆逐艦18)が最大。 急遽編成されたため艦隊共通信号を作る時間も余裕も無く、意思疎通も難しく*211、日本軍の侵攻に有効な反撃をすることができなかった。 それでもドールマン少将は積極的な迎撃戦を実施し、日本海軍をてこずらせたが、スラバヤ沖海戦で艦隊は壊滅し、ドールマン提督も戦死する。 生き残った艦艇もバタビヤ沖海戦などで殲滅され艦隊は消滅、実働戦力を失ったABDA司令部も1942年2月25日に解体された。 |
DDH | |
読み | でぃーでぃーえいち |
使っている艦娘 | 伊勢改、日向改、最上 |
意味 | 後世のヘリコプター搭載護衛艦の艦種記号。通常の護衛艦よりヘリコプターの運用能力に優れている。 搭載したヘリは主に対潜哨戒・戦闘や輸送・救難にあたる。 余談になるが、いずも型の就役で「空母だろ!!」「護衛艦です!!」などと飛び交っているが、現代における航空母艦の定義とは、赤城・加賀等の黎明期の空母除き、全通甲板を持ち、艦載機(固定翼機・ヘリコプター・垂直離着陸機)を運用(離着艦・整備・格納・管制等)出来る艦船の事を指す。更に大きく分けると正規空母と軽空母に分けられ、 正規空母は固定翼機、つまり自力で甲板を滑走し離着艦が出来る航空機を運用できる空母の事を指す。(それに伴いカタパルトやアレスティング・ワイヤ、必要に応じてアングルドデッキなどを備えている) 軽空母は垂直離着陸機やヘリコプターを運用できる空母の事を指す。(大抵の場合はスキージャンプ台を備えている艦船が多い。) ヘリ空母は軽空母の狭義の一つとされ、ヘリコプターのみを運用する空母の事を指す。しかし、全通甲板を備える艦船は垂直離着陸機の運用や強襲揚陸艦とされることが多いので、純粋なヘリ空母は珍しい。(海上自衛隊のひゅうが型・いずも型の他にはイギリスの「クイーン・エリザベス級」等) したがってひゅうが型・いずも型は世界的に見れば軽空母(ヘリ空母)になる。 しかし、自衛隊としては、全て護衛艦としているので、「空母だろ!!」「護衛艦です!!」のような言い合いは無意味である。 そもそも自衛艦の中の戦闘艦艇全てが護衛艦(DD)と呼ばれているのは、日本国そのものを他国の脅威から守る(護衛する)、艦隊を他国のミサイル・潜水艦等から守る(護衛する)、と言った意味合いから第二次大戦中の駆逐艦の主な役割である、船団・艦隊護衛と言う役割と同じところから来ているので護衛艦としている。よってDDHやDDGのDDが直接に艦種としての駆逐艦を表しているわけでは無いので間違いのないように。 そもそも現代は、航空機と潜水艦の時代ということもあり艦種と言うものが曖昧になっており、大きさではなく用途や任務により分けられている所が多い。 |
MO作戦 | |
読み | えむおーさくせん |
使っている艦娘 | 翔鶴 |
意味 | オーストラリアとアメリカを分断し、オーストラリアを孤立化させる「米豪分断作戦」の一環で、ニューギニア島南東岸にあるポートモレスビーを奇襲攻略するのを目的とした作戦の事。ニューギニア島は東西に山脈が連なり、陸路から攻略するのは困難であったため、海路からこれを攻略する事になり、南洋部隊(第四艦隊基幹)が担当した。 当初は護衛の空母は祥鳳のみで、護衛戦力も第六水雷戦隊などの小艦艇のみであったが、3月にラエ、サラモアに対して米機動部隊が奇襲攻撃を行った事で護衛戦力が不安視され、当初は修理中の加賀、後にインド洋作戦から帰投中の五航戦(翔鶴、瑞鶴)が参加する事になった。 更に4月になると日本海軍全体が第二段作戦第一期兵力部署に移行したことで第五戦隊の一部や第六戦隊も増強されている。 こうして発動したMO作戦だが、日本軍侵攻の情報を得ていたアメリカ海軍が空母レキシントン、ヨークタウンの2隻を擁する機動部隊で待ち構え、人類史上初の空母vs空母の海戦「珊瑚海海戦」が行われる事になる。 この海戦で日本側は空母1隻を沈めるも、祥鳳を失い翔鶴も損傷した結果、ポートモレスビー攻略を中止し、翔鶴や瑞鶴は損害から次のミッドウェ―攻略作戦には不参加となり、同作戦敗北の要因の一つとなった。 |
Scapa Flow | |
読み | スカパフロー |
使っている艦娘 | Washington |
意味 | スコットランドのオークニー諸島にある入り江で、島々で覆われ細い水路で外海とつながっている事から外部からの侵入を防ぎやすい天然の良港として、第一次世界大戦から第二次世界大戦にかけイギリス海軍の根拠地として利用された。日本海軍で言う桂島泊地に該当するような場所。 史上最大の戦艦同士の海戦と言われる第一次世界大戦の「ユトランド海戦」でもイギリス主力艦隊はここを拠点として出撃している。 また大戦後にドイツ帝国海軍の艦艇約70隻が同地に集められたが、講話内容で艦艇の引き渡しがあった事に当時のドイツ艦隊司令官が拒絶して全艦に自沈を指示、50隻以上の艦艇が自沈する「スカパフローの悲劇」が起こっている。 第二次世界大戦でも主力の拠点として利用されたが、1939年10月にギュンター・プリーンが指揮するU47潜水艦の侵入を許し、戦艦「ロイヤル・オーク」が撃沈されたりしている。更にその3日後にはドイツ空軍の空襲で戦艦「アイアン・デューク」が大破している。 拠点としては1957年まで使われたが現在は使用されていない。 大英帝国海軍の拠点だが、イギリス艦娘は一人も触れず、アメリカ艦娘であるWashingtonが触れているのは、彼女は竣工から一年ほどは大西洋で大英帝国海軍と行動を共にし、スカパフローを拠点としていたからだと思われる。 |
Taffy3 | |
読み | たふぃーすりー |
使っている艦娘 | Samuel B.Roberts、Johnston |
意味 | レイテ沖海戦に参加したアメリカ海軍第7艦隊所属の第77任務部隊第4群第3集団の通称。 第77任務部隊はレイテ上陸部隊を支援する第7艦隊の中核部隊であり、複数の群で構成していた。レイテ沖海戦冒頭で愛宕、摩耶を沈めた米潜水艦ダーター、デイスの所属する第1群、スリガオ海峡で西村艦隊を壊滅させた戦艦部隊である第2群(通称オルテンドルフ艦隊)等があり、、第4群は後方から航空支援を行う護送空母18隻と駆逐艦、護衛駆逐艦からなる護衛艦艇を擁する部隊。そして第3集団はその中で護送空母6隻、駆逐艦3隻、護衛駆逐艦4隻で編成された部隊だった。 1944年10月25日早朝、レイテ湾口周辺海域を航行していたタフィ3は、突如日本海軍の水上艦隊の第一遊撃部隊主力、通称「栗田艦隊」と遭遇し交戦状態に突入してしまう。(何故後方支援部隊でしかないタフィ3と栗田艦隊が遭遇してしまったのかについてはGambier Bayのページに詳細がある) 紙装甲に鈍足、艦載機も僅か20数機でしかない護送空母と、数隻の小型艦艇しかないタフィ3、対して栗田艦隊は戦艦大和、長門といった強力な艦艇が20隻以上もいる大艦隊。普通に考えればタフィ3など瞬時に壊滅させられてしまう筈だった。しかし彼らは栗田艦隊から逃げつつも必死に応戦。護衛艦艇は煙幕を張って栗田艦隊の目を奪い、不意を衝いて雷撃を仕掛けたり、艦載機も爆弾が無ければ機銃を浴びせかけて妨害するなど必死になって攻撃。結局栗田艦隊はタフィ3相手に大損害*212を受け、これを壊滅する事が出来なかった*213。 しかしタフィ3も護送空母Gambier Bayと護衛艦艇のJohnston、Hoel、Samuel B.Robertsの4隻を失う犠牲を払っている。 更に海戦後にはこの戦いで日本海軍が初めて行った「神風特別攻撃」で護送空母St.Loも失っている。 こうして大損害を被ったタフィ3だが、その激闘により指揮官のクリフトン・スプレイグ少将は海軍十字勲章*214を受賞した他、所属各艦艇も殊勲部隊章など数多くの勲章を得ている。更に現在でもアメリカ海軍では士官学校で教えられている。 |
Task Force | |
読み | たすくふぉーす |
使っている艦娘 | Atlanta、Hornet |
意味 | 「任務部隊」と訳される軍隊の編成単位。文字通り任務に対応する部隊編成として行われており、同様の概念を帝国海軍では「軍隊区分」と呼んでいた。*215 複数の軍種に跨る場合は「統合任務部隊(Joint Task Force)」、多国籍の場合は「合同任務部隊(Combined Task Force)」となる。 |
Uボート | |
読み | うー(独語読み)/ゆー(英語読み)- |
使っている艦娘 | 伊8、U-511 |
意味 | 第一次・第二次世界大戦で欧州の海で暴れ回ったドイツの潜水艦の総称。Uボートとはドイツ語で潜水艦を意味する「ウンター・ゼー・ボート(Unterseeboot)」の略語。一般的には「ユーボート」と呼ばれるが、ドイツ語の発音では「ウーボート」と呼ぶ。 ドイツ語以外でUボートと言った場合大抵ドイツの、特に両世界大戦期の潜水艦を指すが、ドイツでは時代や国を問わずあらゆる潜水艦をUボートと呼ぶ。 欧州近海で敵の補給線を破壊する通商破壊戦が主な任務なため、太平洋を主戦域とする伊号潜水艦と比較すると小型。第二次世界大戦では連合国の商船3000隻以上を海の藻屑に変え、さらには戦艦2隻、空母2隻を撃沈するなどの戦果を上げている。 また、ドイツの高い科学力に裏付けされた高精度な電子装備や新兵器を装備しているため他国の潜水艦と比べて戦闘能力が高いと言える。(例:音響誘導魚雷、電波吸収材など)*216 英国首相ウィンストン・チャーチル曰く「第二次世界大戦で私が真に恐れたのはUボートだけである」。 だが大戦後期には連合国側の対潜戦術・装備の発達によってUボートの被害は大きくなり、1131隻中849隻が撃沈されている。 |
VLS | |
読み | ぶいえるえす |
使っている艦娘 | 日向改 |
意味 | 後世のミサイル発射装置。「Vertical Launching System」の頭文字で、日本語では垂直発射装置などと言われる。 ミサイルを垂直方向に立てて並べる形で搭載するため甲板上のスペースを有効活用出来、また発射装置がそのままミサイル弾薬庫を兼ねるので、次弾装填の必要があった従来の発射装置よりも圧倒的な連続発射が可能。 世界で初めて採用したのはソビエト海軍の「キーロフ型」。現代は「ひゅうが型」護衛艦を始め、「むらさめ型」、米海軍の「アーレイ・バーク級」、仏海軍の「シャルル・ド・ゴール」など、多くの艦がこの系統の発射装置を装備している。 なおVLSはその殆どが甲板に埋め込まれる形で搭載されるものであり、甲板上で見られるのは発射口の蓋だけ。*217 初期の頃のこんごう型のMk.41 VLSには3セルほど魚雷の次発装填装置に値するミサイル洋上装填用のクレーンが搭載されていたが、結局次発装填装置と同じような末路をたどり廃止され、ミサイル搭載分に充てられた、と言われているが実際の所どうなっているかは定かで無い。*218なお、あたご型では当初から搭載されておらず、はじめからミサイル搭載に充てられている。 |
鎮守府・警備府・泊地・基地
鎮守府 | |
大日本帝国海軍の根拠地として、艦隊の後方たる4つの海軍区に置かれ、その統轄や防備を行った機関。 横須賀鎮守府(神奈川)・呉鎮守府(広島)・佐世保鎮守府(長崎)・舞鶴鎮守府(京都)が存在した。また、北海道に室蘭鎮守府を設置する計画もあった。 海上自衛隊でも、横須賀・呉・佐世保・舞鶴・大湊に総監部を置いている。 ちなみに鎮守府とは、古代日本において東北地方統治のために置かれた機関の名称である。 艦これでは各プレイサーバーをあらわす言葉であったり、プレイヤーor制作陣が指揮を執る本拠地にして、秘書艦がつつかれたりする場所であったりする。 余談ではあるが帝国海軍の「大人のジョーク」にこんな話がある。 ある若い海軍士官が妻宛てに「鎮海を発つ。佐世保に会いに来い」という文を略して電報を打ったところ、妻の父が読んで「なんとハレンチな!」と激怒したと言う。 略した際の文章がどのようなものであったかは、提督諸氏自ら調べていただきたい。 現、海上自衛隊地方総監部。海自は旧軍から継承した部分が大きいため組織構造にも類似点が多々見られるが、これもそのひとつである。 ただし後述の警備府である大湊が地方総監部とされ5地方隊となっている。 |
鎮守府詳細
横須賀鎮守府 | 日本海軍初の鎮守府。通称横鎮。横浜に仮設された「東海鎮守府」が前身で1884年に横須賀へ移転する。 フランスのトゥーロン軍港に似た地形をしており、そのため建設された幕府海軍の造船所が始まりである。このときのドックは現在でも現役で使用されている。 青森日本海側から時計回りに紀伊半島南端までの太平洋側、及び千島列島・樺太含む北海道と小笠原諸島周辺の海域が管轄である。また、トラックやパラオも横鎮の所轄。 |
呉鎮守府 | 1889年開庁。通称呉鎮。管轄は紀伊半島南端から四国・宮崎の太平洋側、及び瀬戸内海と山口・福岡の一部の日本海側の海域である。 東洋最大の軍港で、日本海軍の中枢であった。 |
佐世保鎮守府 | 呉鎮守府と同時期に開庁。通称佐鎮。管轄は呉鎮守府管轄の海域を除く九州周辺、及び南西諸島と台湾・朝鮮半島、遼東半島周辺の海域である。 |
舞鶴鎮守府 | 呉・佐世保の整備が優先されたため、その二つの鎮守府と少し遅れた1901年に開庁。通称舞鎮。日本海唯一の鎮守府にして対露戦略の要衝。 ワシントン条約の影響で1923年に要港部に格下げされ、条約失効後の1939年に鎮守府に返り咲いた。 山形から島根までの日本海側、及び日本海に浮かぶ島々を管轄する。 |
警備府 | |
鎮守府に準じた役割を担うが、鎮守府と違い固有の艦艇を持たない。 大湊警備府(青森)・大阪警備府(大阪)・馬公警備府(台湾・澎湖県、後に高雄に移転し高雄警備府)・旅順警備府(中国・遼寧省、1942年に廃止)・鎮海警備府(韓国・慶尚南道)・海南警備府(中国・海南省)が置かれていた。 ただしこのうち大阪、海南は他の警備府と毛色が異なるため、大湊、馬公、旅順、鎮海のみを指して警備府とされることもある。 警備府の前身の要港部(1941年に警備府に改組)は、上記の他に竹敷(長崎県対馬、1912年廃止)にも置かれた他、舞鶴鎮守府も1923年から1939年まで要港部に格下げされていた。 |
サーバー名になっている警備府
大湊警備府 | 下北半島の内側、陸奥湾を望む青森県大湊に作られた北方防備のための警備府。いずれ鎮守府に昇格する予定だったようだが、最後まで昇格はなかった。 当初北方の鎮守府は北海道の室蘭に作られる予定だったが、防護上の問題から大湊へと変更になった経緯を持っている。 なお前述のとおり海上自衛隊発足後は旧軍の鎮守府に相当する地方総監部に「格上げ」となった。 |
泊地 | |
港としての設備がないかあっても小規模な港では大型船舶は接岸することができず、岸から離れた場所に投錨し、小型船舶等を使って人員・物資の輸送をする必要がある。 また、荒天を避けるために安全な場所に投錨することもある。これらの目的での投錨に適した場所を泊地という。 湾や環礁内など波浪を避けられる場所にあることが多い。 |
サーバー名になっている泊地
トラック泊地 | 現在のミクロネシア連邦のトラック諸島(現在ではチューク諸島と呼ばれている)にあった日本海軍の根拠地。 もともとドイツの植民地であったが第一次大戦後に日本が入手した。 場所はグァム島の南東1000kmあたり。世界最大級の堡礁(防波堤のように島を囲んだ形のサンゴ礁)でおよそ東京湾の倍の大きさがあり、かつては「日本の真珠湾」とも呼ばれていたとか。 ただ、ドックなどの本格的な修理施設は無く、できるのは応急修理程度で本格的な修理のためには本土への回航が必要であったという(故に「基地」ではなく「泊地」扱いされているのではないかと思う)。 1944年2月のトラック大空襲により停泊中の多くの艦船が撃沈されたほか、基地機能を破壊されて戦略的意味が大きく低下。 その後は連合国軍が上陸する事も無く、敗戦まで敵味方からほぼ放置状態にされた。 |
リンガ泊地 | シンガポール南方およそ100kmあたりにあった日本海軍の根拠地。 「広いが、近隣の島々の人口が少なく目立たない」 「パレンバンの油田・製油所が近いため燃料に困らない」 「連合軍の主要基地から遠いので空襲を受けない」 などの利点を持ち、トラック泊地撤退後の主要拠点として運用された。 一方「敵から遠い」ということはこちらからの攻撃にも不便ということにもつながり、また、赤道直下で娯楽施設の類もなく、乗組員たちの生活面では相当厳しい場所だったらしい。 ちなみにリンガとはサンスクリット語である。意味を知りたい提督紳士諸君は自分で調べてみよう。偶然の一致ではなく、本当に「それ」が由来の地名である。 |
ショートランド泊地 | ブーゲンビル島の東南端、ショートランド諸島の近辺にあった日本海軍の拠点。ソロモン諸島での戦いにおける最前線基地の一つ。ラバウルから東南約500Km程の地点になる。 ラバウルから先に飛行場を持たない日本軍はショートランド水域に「千歳」などの水上機母艦を送り、水上機を主体として航空戦を行った。戦況悪化に伴い水上機母艦は引きぬかれたが、搭載機部隊は現地に留まって戦い続けたという。 遠征No.36水上機基地建設は当泊地の事だと思われる。 |
タウイタウイ泊地 | フィリピン南西部、スールー諸島にあった日本海軍の拠点。マリアナ沖海戦の際第一機動艦隊が泊地として利用した。 ボルネオ島の産油地のひとつタラカン油田から近いため燃料は問題ないのだが、やはり敵の拠点から遠いせいで重要視されなかったためか艦載機部隊が訓練に使えるような大きな飛行場がなかったのが欠点。 |
パラオ泊地 | 現在のパラオ共和国・コロールに存在した日本海軍の拠点。南洋庁が置かれ、南洋諸島統治の中心地でもあった。 コロール島の目と鼻の先のペリリュー島、アンガウル島に米軍が上陸したが、起伏が激しく飛行場の建設に向かないコロール島にはついに上陸することはなかった。 |
ブルネイ泊地 | 現在のブルネイ・ダルサラーム国に存在した日本海軍の拠点。 潤沢な石油資源を持つため日本軍の戦略目標となり、開戦直後に上陸・占領された。その後、軍港としても使われた。 レイテ沖海戦においては、栗田艦隊と西村艦隊は、ここで燃料を補給してからレイテ湾に向けて出撃した。 |
単冠(ひとかっぷ)湾泊地 | 北方領土・択捉島の天然の良港。 軍港としての設備が整っていたわけではないが、人口が少ない離島であり情報封鎖が容易なこと、内地では最も真珠湾に近い位置にあることなどから、一航戦、二航戦、五航戦を基幹とする第一航空艦隊が集結、真珠湾攻撃へと出撃した。 集結直前から開戦までの18日間、島外との一切の交通・通信は禁じられたという。 戦後北方領土はソ連によって不法占拠され、ソ連が崩壊した現在でもロシアによる不法占拠が続いている。 聖地巡礼では最も難易度の高い場所だろう。 |
幌筵泊地 | 千島列島の北端付近に位置する幌筵(ぱらむしる)島北東部、柏原に存在した。 大戦末期、有名な占守島の戦いが繰り広げられた占守島とは、幌筵海峡を挟んで目と鼻の先にある。 北方防衛の要であったため、陸軍、海軍ともに比較的大きな規模の設備が作られていた。 また海軍では第五艦隊を編成、この地域を含めた本土東方の防衛に当てている。 キスカ島撤退作戦の出発地にもなった場所であり、北方海域での作戦においては重要な拠点の一つと言えるだろう。 正式名称は「ぱらむしる」だが、そのまま訓読みして「ほろむしろ」と呼ばれることもあったようだ。変換する際に楽なので覚えておくといいかもしれない。 |
宿毛湾泊地 | 高知県の西南端に位置する宿毛(すくも)市に存在した泊地。 沿岸には宇須々木海軍基地があり、宿毛湾沖一帯が連合艦隊の演習水域として使われていた。 大和が公試運転を行った他、加賀の姉妹艦である土佐が廃艦処分となった後、この海域で眠りについている。 |
佐伯湾泊地 | 大分県佐伯(さいき)市にある佐伯湾に設けられた泊地。 真珠湾攻撃の際、空母機動部隊は佐伯湾に一旦集結して山本五十六連合艦隊司令長官の視察を受けた後、択捉島単冠湾を経由して真珠湾へ出撃した。 |
柱島泊地 | 広島湾の柱島(山口県岩国市)付近に設けられた泊地。泊地の位置は柱島南西の沖合にある周防大島と柱島諸島に囲まれた海域。 艦艇の出撃の際には近くにある情島の東側にある諸島水道が狭くゆとりが無いものの水深があるため使われていたという。なお、現在は1976年のフェリーふたば衝突沈没事故があって以来、大型船舶の諸島水道への進入は控えられているそう。 戦艦陸奥はこの泊地に停泊中、主砲火薬庫から爆発を起こして沈没した。爆発の理由には様々な説があり、未だにはっきりしていない。 |
基地 | |
一般には「軍事施設」の意味で使われることが多いが、旧海軍では港湾施設に基地の名称は使わず、もっぱら飛行場をもち航空機の運用が可能な施設を指して航空基地と呼んだ。 |
サーバー名になっている基地
ラバウル基地 | トラック泊地の南方およそ1500km、パプアニューギニア・ニューブリテン島にある街。ラボールとも言う。 1910年にドイツが建設するが、第一次世界大戦でオーストラリア軍が占領、その後同国により統治される。 第二次世界大戦が始まると日本軍が支配し、東南方面への拠点とした。 ラバウル航空隊で有名。「大空のサムライ」こと坂井三郎や、笹井醇一、西沢広義、太田敏夫など、日本海軍のトップエース達が連合軍との激闘を繰り広げ、その多くがソロモンの海に散っていった。 航空隊が有名だが、トラックほどではないものの有力な港湾施設も持っており、艦艇にとってのガダルカナル方面への最前線基地としても機能していた。 自給自足体制により食料を確保、堅固な要塞を築き上げ、連合軍もラバウルの堅固さをみてこれを包囲するにとどめたため、終戦まで日本軍が保持するに至った。 周辺の地形と侵攻すると大損害を被るという事実から、ドラゴンジョーズ(竜の顎)とも呼ばれている。 |
ブイン基地 | ソロモン諸島*219北部に位置するブーゲンビル島南端部の町。 日本軍が占領し、飛行場を建設して基地として使用した。以後、陸海軍航空隊の重要拠点として機能した。 戦後、ブイン空港となるが内戦で破壊され、現在でも一帯は反政府武装勢力の支配下にある 聖地巡礼では最も難易度の高い場所だろう。 |
鹿屋基地 | 鹿児島県の大隅半島中央部に位置する鹿屋(かのや)市に存在した海軍航空隊の基地。 太平洋戦争開戦後は空母艦載機の搭乗員育成が行われていたが、大戦末期には第五航空艦隊の司令部が置かれ、もっとも多くの特攻隊がこの基地から出撃していった。 現在も海上自衛隊の航空基地として地域の平和維持と防災を担っている。 海軍航空隊の史料館も併設されており、零戦52型や二式飛行艇が展示されている。 |
岩川基地 | 鹿児島県大隅半島の囎唹(そお)郡岩川町(現・曽於市)に存在した海軍航空基地。 大戦末期に本土防衛用として急増され、彗星の運用で知られる芙蓉部隊専用の基地となった。 芙蓉部隊は夜襲専門部隊なので昼間は移動式の小屋を設置し、滑走路に牧草を敷き詰め、牛を放牧するなど牧場に偽装しており、終戦まで米軍にその存在を知られることはなかった。 現在跡地の一部は鹿児島県肉用牛改良研究所となっている。 |
造船所
艦娘の故郷
海軍工廠
横須賀海軍工廠 | 幕末に江戸幕府が開設した横須賀製鉄所を前身とした工廠で、1876年に海軍省直轄となる。1903年に正式な海軍工廠となった。 戦後に大部分がアメリカ海軍横須賀海軍施設として接収、残りが住友重機に払い下げられ横須賀分工場として操業していたが1978年に閉鎖。現在はショッピングモールとして整備されている。 戦艦:山城、陸奥 巡洋戦艦:比叡 重巡洋艦:妙高、高雄、鈴谷 軽巡洋艦:天龍、能代 航空母艦:鳳翔(艤装)、龍驤(艤装)、飛龍、翔鶴、祥鳳(空母化改装)、瑞鳳、龍鳳(空母化改装)、千代田(空母化改装)、雲龍 潜水母艦:大鯨、剣埼 駆逐艦:竹 海防艦:第四号海防艦 潜水艦:伊58、伊36 |
呉海軍工廠 | 1895年に官営小野浜造船所の設備一式を呉に移設して開設された。 帝国海軍で一番大きな工廠で、設備は東洋一と言われ、工員の数は他の三工廠の合計を超えていた。戦艦建造の主導的役割を果たし、大和の建造の他、武蔵の主砲塔・砲身も呉で製造された。 戦後は播磨造船所と米ナショナル・バルク・キャリア社(NBC)に払い下げられ、後にNBC呉造船部は播磨造船所に譲渡された。 現在は同社の再編によりジャパン マリンユナイテッド呉工場となっている。自衛艦艇の建造は行っていないが、修理には使用される。大和を建造したドックは埋め立てられたが、修理に使用したドックは現在も使用されている。 戦艦:扶桑、長門、大和 重巡洋艦:那智、愛宕、最上 軽巡洋艦:大淀 航空母艦:赤城、蒼龍、葛城、神鷹(空母化改装)、雲鷹(空母化改装) 水上機母艦:千歳、千代田、日進 潜水艦:伊168、伊26、伊41、伊201、伊203、伊400 |
佐世保海軍工廠 | 戦後に一部が米軍基地として接収。大部分が佐世保重工業に払い下げられ、現在も同社佐世保造船所として操業中。 重巡洋艦:最上(航空巡洋艦化改装) 軽巡洋艦:龍田、球磨、北上、長良、由良、夕張、阿賀野、矢矧、酒匂 航空母艦:千歳(空母化改装)、大鷹(空母化改装) 睦月型駆逐艦:睦月、三日月 吹雪型駆逐艦:浦波、朧、暁 初春型駆逐艦:初春、若葉 白露型駆逐艦:白露、夕立 朝潮型駆逐艦:朝潮、夏雲 陽炎型駆逐艦:雪風、磯風 工作艦:明石 海防艦:八丈 潜水艦:伊47、伊401 |
舞鶴海軍工廠 | 帝国海軍の駆逐艦建造の主導的役割を果たし、各型の1番艦を舞鶴で建造して、その技術を各地の造船所に展開することが多かった。 戦後は飯野重工業、舞鶴重工業を経て長らく日立造船舞鶴工場となっていたが、その後の業界再編により現在はジャパン マリンユナイテッドの舞鶴工場として操業中。 神風型(2代)駆逐艦:春風、松風、旗風 睦月型駆逐艦:如月、菊月 吹雪型駆逐艦:吹雪、初雪、敷波、漣、響 初春型駆逐艦:夕暮 白露型駆逐艦:春雨、海風 朝潮型駆逐艦:大潮、霰 陽炎型駆逐艦:陽炎、親潮、天津風、野分、嵐 夕雲型駆逐艦:夕雲、巻波、沖波、浜波、早波、早霜 島風型駆逐艦:島風 秋月型駆逐艦:秋月、初月、冬月 松型駆逐艦:松、桃 |
民間
東京石川島造船所 | 東京都中央区 | 江戸幕府が隅田川河口の石川島に作らせた造船所を発祥とする。 戦後、播磨造船所と合併して石川島播磨重工業(IHI)となり、造船事業はIHIマリンユナイテッド(IHIMU)を経て現在はジャパン マリンユナイテッド(JMU)となっている。 石川島の造船所(佃工場)は1939年に造船部門を豊洲の新工場(深川工場、のちの東京第一工場。2002年に閉鎖され、跡地は現本社や再開発地「アーバンドック」など)に移転、その他の部門も1979年に操業停止して事業は横浜工場(現在のJMU横浜事業所磯子工場)に移管した。跡地は「大川端リバーシティ21」という超高層マンション群となっている。 戦前は小型艦しか作っていなかったが、戦後は大型の護衛艦も多数建造している。 IHIはGE製エンジンをライセンス生産していた関係で、ここで建造されていない護衛艦にもIHI製のエンジンが載っていたりする……ノデス! 睦月型駆逐艦:卯月、長月 吹雪型駆逐艦:薄雲 綾波型駆逐艦:天霧 |
浅野造船所 | 横浜市 | 横浜市鶴見にあった浅野財閥の造船所。鶴見の造船所は1995年に閉鎖され、跡地は「横浜コットンハーバー地区」として再開発されている。 会社自体は日本鋼管(NKK)を経て現在はJFEエンジニアリング。造船事業はユニバーサル造船を経て現在はジャパン マリンユナイテッド(JMU)となっており、そのJFEエンジニアリング鶴見製作所の敷地内にあるJMU横浜事業所鶴見工場にて、造船は継続されている。 航空母艦:鳳翔(船体のみ) 占守型海防艦:国後 択捉型海防艦:佐渡、対馬 御蔵型海防艦:御蔵、倉橋 鵜来型海防艦:鵜来 |
横浜船渠 | 横浜市 | 1935年に三菱重工に吸収合併、1983年に造船所は本牧地区へ移転され、跡地は「横浜みなとみらい21」として再開発された。ドライドック2基は残されて国の重要文化財に指定されており、1号ドックには帆船日本丸が繋留されている。なお、艦これ観艦式が行われたパシフィコ横浜は横浜船渠の跡地(みなとみらい21)にある。 軽巡洋艦:那珂 練習巡洋艦:香取、鹿島 航空母艦:龍驤(船体のみ) 吹雪型駆逐艦:白雪 特設空母:山汐丸 |
浦賀船渠 | 横須賀市 | 明治9年に閉鎖された江戸幕府の浦賀造船所と同じ場所に建設された。駆逐艦建造の名門であり、「西の藤永田、東の浦賀」と称された。 戦後も海自の自衛艦の建造をしていた。1969年に住友機械工業(現・住友重機械工業)と合併し、2003年に閉鎖された。跡地はほぼそのまま残されており、年に数回一般公開されるほか、周辺の高台から中を見ることができたが、2015年から解体が始まった。 軽巡洋艦:五十鈴、阿武隈 睦月型駆逐艦:弥生、水無月、望月 吹雪型駆逐艦:深雪、磯波 綾波型駆逐艦:狭霧、潮 暁型駆逐艦:雷 初春型駆逐艦:子日、初霜 白露型駆逐艦:時雨、五月雨、山風、涼風 朝潮型駆逐艦:霞 陽炎型駆逐艦:不知火、早潮、時津風、浜風、萩風、秋雲 夕雲型駆逐艦:風雲、高波、涼波、岸波、清霜 択捉型海防艦:福江 |
藤永田造船所 | 大阪市 | 駆逐艦建造の名門であり、「西の藤永田、東の浦賀」と称された。戦後は海自の船は作っておらず、貨物船などを建造していた。 1967年に三井造船に吸収合併され閉鎖、跡地は工場地帯となっている。 かつては大阪市住之江区の三井造船の敷地に「藤永田造船所跡地」の石碑が立てられていた。(Googleストリートビュー) 睦月型駆逐艦:皐月、文月 吹雪型駆逐艦:叢雲、白雲 綾波型駆逐艦:綾波、曙 暁型駆逐艦:電 白露型駆逐艦:村雨、江風 朝潮型駆逐艦:満潮、山雲、峯雲 陽炎型駆逐艦:黒潮、浦風、谷風、舞風 夕雲型駆逐艦:巻雲、長波、玉波、藤波、朝霜、秋霜 松型駆逐艦:梅 |
川崎造船所 | 神戸市 | 現在では二輪車や鉄道車両メーカーとして有名な川崎重工業の前身。 摩耶の発注時に破産寸前だった際は海軍が支援するなど古くから帝国海軍との繋がりがあった。現在でも海上自衛隊の艦艇(主に潜水艦)を建造している。 なお、「川崎」は創業者の名前で、神奈川県川崎市とは関係ない。 戦艦:伊勢、加賀(船体のみ) 巡洋戦艦:榛名 重巡洋艦:加古、衣笠、足柄、摩耶、熊野 軽巡洋艦:大井、鬼怒、神通 航空母艦:瑞鶴、大鳳、飛鷹 水上機母艦:瑞穂 飛行艇母艦:秋津洲 初春型駆逐艦:有明 朝潮型駆逐艦:荒潮、朝雲 陽炎型駆逐艦:初風 潜水艦:伊8、伊13、伊14 |
三菱神戸造船所 | 神戸市 | 上記の川崎造船所からもすぐ近くにある、三菱重工の基幹造船所。三菱グループ内の通称は「神船(しんせん)」。現在でも川崎重工業神戸工場と共に潜水艦を建造している。 敷地内には江戸幕府が外国船来航に伴う沿岸防備のために建設した「和田岬砲台」があり、事前申込をすれば見学することができる。 また、三菱電機は三菱神戸造船所から独立した会社であり、現在も神戸造船所に隣接して三菱電機神戸製作所がある。 潜水艦:伊19 特設潜水母艦:平安丸(潜水母艦化改装) |
播磨造船所 | 相生市 | 現IHI(旧社名:石川島播磨重工業)の造船所。かなりの老舗造船所ではあるものの、艦これに実装されている出身艦は少ない。 現在は造船部門は無いものの、IHIの事業所や建造ドックは存在する。 特種船:神州丸、あきつ丸 補給艦:速吸 |
三菱長崎造船所 | 長崎市 | 現在の三菱重工業長崎造船所。神戸川崎造船所と並ぶ、純民間造船所の最大手。三菱グループ内の通称は「長船(ながせん)」。 江戸幕府が建設した日本初の造船所「長崎鎔鉄所」に始まり、明治政府に移管された後、1884年に三菱に払い下げられた。 霧島、日向の頃は「三菱合資会社三菱造船所」、多摩の頃に「三菱造船長崎造船所」、利根の頃に「三菱重工業長崎造船所」と社名が変わっている。 武蔵も建造するなど高い技術を古くから持っていた。現在でも海上自衛隊の護衛艦を多数輩出している。 戦前から現在に至るまで豪華客船の建造にも定評があり、そのノウハウを流用した三菱長崎建造艦は居住性や内装デザインが他の造船所の艦より良かったことでも有名。 敷地内の史料館が一般公開されている(要事前申込み。開館は平日のみ)。 造船所内の一部施設は2015年に、「明治日本の産業革命遺産」として世界文化遺産に登録された。 戦艦:日向、武蔵 巡洋戦艦:霧島 重巡洋艦:古鷹、青葉、羽黒、鳥海、三隈、利根、筑摩 軽巡洋艦:多摩、木曾、名取、川内 航空母艦:隼鷹、天城、春日丸、八幡丸 潜水母艦:迅鯨、長鯨 神風型(2代)駆逐艦:神風、朝風 秋月型駆逐艦:照月、涼月 海防艦:第三〇号海防艦、第二十二号海防艦 |
日立笠戸工場ほか | 日立製作所笠戸工場(山口県下松市)、日本製鋼所広島工場(広島県広島市)、安藤鉄工所月島工場(東京都中央区)、朝鮮機械製作所仁川工場(現・韓国仁川市)の4箇所で建造。すべて民間工場であり、かつ、造船所ですらない。 日立製作所笠戸工場は戦前から現在までメインは鉄道車両で、路面電車から新幹線まで幅広く制作。近年は海外への鉄道車両輸出も行っている。 日本製鋼所広島工場は現在は日本製鋼所広島製作所となっている。所在地は広島市安芸区だが、最寄駅は海田町の海田市駅であり、ここで作られたまるゆは「海田市型」とも呼ばれた。現在は各種プラスチック製品を作っている他、日本で唯一の「砲」を製造できる工場でもある。 安藤鉄工所月島工場は会社自体が現存せず、跡地は小学校になっている模様。なお、IHI発祥の地の一つである石川島はすぐ近くである。 朝鮮機械製作所仁川工場は当時日本領だった韓国仁川市にあり、元は鉱山機械をメインに製造していた。独立後は斗山グループを経て現代グループに買収され、韓国の重工業の一角を担っている。 潜航輸送艇:まるゆ | |
三井玉野造船所 | 玉野市 | 岡山県玉野市の三井財閥系造船所。海軍時代は海防艦や掃海艇などの小艦艇の建造を主としていたが、戦後は一転して多数の護衛艦を建造している。 三井グループの造船事業業績悪化により2022年に官公庁船事業が三井から三菱に譲渡されたため、現在は三菱重工マリタイムシステムズが三井の施設を借り受ける形で造船を担当している。 占守型海防艦:占守、石垣 択捉型海防艦:松輪 鵜来型海防艦:稲木 |
日立造船桜島工場 | 大阪市 | 元は大阪鐵工所だったが、択捉の建造中に日立造船に改称した。戦後に日立グループから離脱、2002年に造船部門をユニバーサル造船(現 ジャパン マリンユナイテッド)に移管し、現在は重機械やゴミ焼却発電プラントなどの製造が主業。 戦後、桜島工場では葛城の解体も行われた。1997年に完全閉鎖され、現在跡地はユニバーサル・スタジオ・ジャパンとなっている。 択捉型海防艦:択捉、平戸 御蔵型海防艦:屋代、能美 日振型海防艦:日振、大東、昭南 特設潜水母艦:平安丸(貨客船として) |
日立造船因島工場 | 尾道市 | 因島にあった因島船渠株式会社を日立グループが買収したもの。現在は上記の桜島工場と同様、日立グループからは離れ造船事業も行っていないが、あちらと違い工場は稼働している。 特殊船:熊野丸 |
大阪造船所 | 大阪市 | 1936年に創設された新興の造船所。戦後は造船業で栄えたが、平成に入る頃には造船業を合弁で大島造船所に移し、現在は化学メーカー・ダイゾーとなっている。 揚陸艦:第百一号輸送艦 |
川南工業香焼島造船所 | 長崎市 | 旧松尾造船所跡に川南豊作が開設した造船所。戦時中はブロック工法や溶接技術を生かして戦時標準船の大量増産を行い、一時期は三菱長崎造船所を抜かす建造量を叩き出すこともあった。しかし船の設計ノウハウに乏しく戦後しばらくして操業を停止。 その後操業を再開するも社長の川南や主だった幹部がクーデター計画の主導者として逮捕されたこと(三無事件)が切掛となり、1971年に破産している。施設は1967年に三菱長崎造船所香焼工場となり、2022年までに建造部門を段階的に大島造船所に再売却するとの事。 特務艦:宗谷(貨物船地領丸として) |
海外
ヴィッカース社 バロー=イン=ファーネス造船所 | 英バロー=イン=ファーネス | イギリス最大手の重工業グループで、造船だけでなく戦車・機関銃・航空機の製造も行っていた。布張り爆撃機ウェリントンが特に有名。 英国面の象徴であるパンジャンドラムの設計者、ネビル・シュートが在籍していたことも・・・ 1999年にロールス・ロイス・ホールディングスに買収されてグループ名は消滅した。日本の戦艦「三笠」もここで建造されている。 巡洋戦艦:金剛 |
デヴォンポート海軍工廠 | 英プリマス | ポーツマス、クライドと並ぶイギリス三大軍港の一つ。工廠は1997年に完全民営化され、バブコック・マリーン社が管理・運営しており、イギリスにおける原子力潜水艦の保守拠点となっている。 戦艦:Warspite |
ポーツマス海軍工廠 | 英ポーツマス | イギリス南部に位置する英国海軍の拠点の一つで、舞鶴市とは姉妹都市同士でもある。世界三大記念艦の一つ*221である戦列艦ヴィクトリー(HMS Victory)が保存されている*222ことでも有名。工廠は1993年に完全民営化され、BAE システムズ・サーフェス・シップスにより基地の維持及び艦艇の修理・メンテが行われている。なお、アメリカにもポーツマスという名前の港湾都市があるが(後述)、このポーツマスにちなんで命名された。 軽巡洋艦:Perth |
キャメル・レアード社 バーケンヘッド造船所 | 英バーケンヘッド | 1903年、造船会社のレアード社と鉄道車両製造会社のキャメル社の合併により成立したが、鉄道車両部門は1929年に手放している。第二次大戦後の国有化と造船所閉鎖、修理部門の再建と身売りなど幾多の変遷を経て、現在は造船会社として再建されている。 戦艦:Rodney 航空母艦:Ark Royal |
ホーソン・レスリー社 | 英タインサイド | 1886年、造船会社のレスリー社と機関車製造会社のホーソン社の合併により成立したが、機関車部門は1937年に手放している(英国はこんなのばっかりなのか…)。日本初の潜水母艦「韓崎」(旧・ロシア帝国義勇艦隊輸送船エカテリノスラフ)もここで建造されている。 戦後、造船業及び船舶保守事業が国有化された後は電話事業に業態変換し、1993年にボーダフォンに買収されている。 駆逐艦:Jervis |
アームストロング社 ニューカッスル造船所 | 英ニューカッスル | 1927年にヴィッカース社と合併し、ヴィッカース・アームストロング社ニューカッスル・アポン・タイン造船所となる。戦後の1968年にスワン・ハンター社の傘下となったが、1980年代に閉鎖された。 戦艦:Nelson 航空母艦:Victorious 軽巡洋艦:Sheffield |
スワン・ハンター社 | 英タイン・アンド・ウェア | 1880年創業。数多くの海軍艦艇や民間客船を建造してきたが、1977年に他のイギリスの造船所と同様に国有化された。 一旦再民営化されたものの、2006年に英国海軍の揚陸艦「ライム・ベイ」の建造遅延と予算超過を起こしたため造船から撤退。現在は海底ケーブル敷設や海底資源開発支援を行う企業として存続している。 駆逐艦:Janus |
ジョン・ブラウン社 | 英クライドバンク | 英国最後の戦艦「ヴァンガード」や豪華客船「クイーンエリザベスⅡ」の建造でも知られる老舗造船所。艦本式タービンの元となったブラウン・カーチス式タービンの開発元でもある。 造船事業からの撤退後は油田プラットフォームの開発などに転身したが、2001年に閉鎖。跡地には大型クレーンが残されている。 戦艦:朝日 駆逐艦:Javelin |
フェアフィールド造船 ゴヴァン造船所 | 英ゴヴァン | 1834年にランドルフ&カンパニーとして設立。ノーサンバランド造船会社、アッパー・クライド社等の傘下を経て、1999年以降はBAEシステムズ・サーフェス・シップスの一部となっている。 戦艦:Valiant |
ブローム・ウント・フォス社 ハンブルグ造船所 | 独ハンブルク | ドイツの造船会社で戦艦の他、多数のUボートの建造も行った。 ただし、世間一般には変態航空機メーカーとして認識されている。 戦艦:Bismarck |
クルップ・ゲルマーニア造船所 | 独キール | ドイツ帝国時代からの老舗造船所で、こちらも大型艦船からUボートまで多彩な艦艇を手がけた。 戦後処理の過程で解体され、現在敷地の一部がホヴァルツヴェルケ・ドイチュヴェルフト社の造船所となっている。 重巡洋艦:Prinz Eugen |
ドイチェヴェルケ社 | 独キール | 旧ドイツ帝国海軍キール工廠の後進。 こちらも戦後処理の過程で解体され、施設の一部をホヴァルツヴェルケ・ドイチュヴェルフト社が使用中。 空母:Graf Zeppelin Z1型駆逐艦:Z1、Z3 |
ドイチェ・ヴェルフト社 ハンブルク造船所 | 独ハンブルク | 戦後にホヴァルツヴェルケ社と合併。現在ドイツの最大手造船所となっている。 ただしハンブルグ工場は1985年に閉鎖された。 潜水艦:U-511 |
デシマーク社*223 ヴェーザー造船所 | 独ブレーメン | 戦後処理によって解散。ヴェーザー造船所自体は存続するも1983年に破産する。 空母:神鷹(客船Scharnholstとして) |
ラ・スペツィア海軍工廠 | 伊ラ・スペツィア | イタリア北西部に位置する軍港都市。入り江に位置する天然の良港のため古くから商港として栄えていたが、1861年のイタリア統一を契機に海軍基地と海軍工廠が整備され、軍港としての重要性が増していった。後述のOTO社の造船所をはじめとした工場もあり、工業都市としての性格も持つ。 戦艦:Conte di Cavour |
アンサルド社 | 伊ジェノヴァ | イタリア有数の重工業会社であり、現在はフィンメッカニカグループを経てレオナルド社の傘下。 造船・航空機・鉄道車両・原子力産業などをグループ内で手掛ける、イタリア版三菱。 日本の装甲巡洋艦「日進」「春日」もここで建造されている。 戦艦:Littorio 空母:Aquila(客船Romaとして) |
カンティエーリ・リウニーティ・デッラドリアーティコ(CANT)社 | 伊トリエステ | 大型水上機や爆撃機を手掛ける飛行機メーカーとしても有名。 戦艦:Roma 軽巡洋艦:G.Garibaldi |
OTO社ムッジアーノ造船所 | 伊ラ・スペツィア | 1883年創業。FIAT社やサン・ジョルジョ社等との資本提携を経て、1929年、OTO社設立に伴い同社の造船所となった。 戦後はアンサルド社を経て、1984年にフィンカンティエリ社に吸収された。現在もイタリア海軍向けに潜水艦などを建造している。 重巡洋艦:Zara 軽巡洋艦:L.d.S.D.d.Abruzzi 潜水艦:Luigi Torelli、C.Cappellini |
OTO社リボルノ造船所 | 伊リボルノ | 1866年、オルランド兄弟により創業。1929年にムッジアーノ造船所及びヴィッカース・テルニ社と合併しOTO社となる*224。 戦後は上記のムッジアーノ造船所と同様、アンサルド社、フィンカンティエリ社と吸収合併されていったが、経営難により1995年に閉鎖が決まる。しかし労働者たちが会社を買い取って事業を継続し、2003年にベネッティ社の傘下に入った。現在は大型ヨットの建造が主となっている。 重巡洋艦:Pola 駆逐艦:Ташкент |
ティレノ造船 リヴァ・トリゴソ造船所 | 伊ジェノヴァ | 1897年創業。現在は他の造船所と合併してフィンカンティエリ社となっており、イタリア海軍空母「カヴール」をはじめ、多くの軍用艦艇の建造を続けている。 駆逐艦:Libeccio、Scirocco |
リウニーティ造船 アンコナ造船所 | 伊アンコナ | 1843年創業。上記のリヴァ・トリゴソ造船所同様、現在はフィンカンティエリ社の一造船所だが、こちらは大型クルーズ船をはじめとした民間船舶が中心となっている。 駆逐艦:Maestrale、Grecale |
ブルックリン海軍工廠 | 米ニューヨーク | 1966年に閉鎖され、土地はニューヨーク市に売却。現在跡地は工場や商業区に転用されている。 戦艦:Iowa 軽巡洋艦:Brooklyn、Honolulu、Helena |
フィラデルフィア海軍工廠 | 米フィラデルフィア | 1995年に補修所を残して閉鎖され、現在跡地は工業団地として転用されている。 戦艦:Washington |
ポーツマス海軍工廠 | 米キタリー | 入植者の故郷である英国ハンプシャー州ポーツマスにちなんで名づけられた港湾都市(州名もニューハンプシャー州である)。日露戦争の講和条約であるポーツマス条約の交渉、調印が行われた地としても知られる。工廠は1800年創設とアメリカでも有数の歴史を持つ。なお、所在地のキタリーはポーツマス中心街の対岸にある。 潜水艦:Scamp、Drum |
ボストン海軍工廠 | 米ボストン | 1974年に閉鎖。現在はボストン国立歴史公園の一部となっており、フレッチャー級駆逐艦「カッシン・ヤング」が保存されている。 駆逐艦:Heywood L.E. |
ニューヨーク・シップビルディング社 | 米カムデン | 1967年に操業を停止し、現在跡地はカムデン港の一部となっている。 戦艦:Colorado、South Dakota 重巡洋艦:Tuscaloosa 軽巡洋艦:Phoenix 航空母艦:Saratoga、Langley 補給艦:神威 |
ニューポート・ニューズ造船所 | 米ニューポート・ニューズ | 現在はノースロップ・グラマン社の傘下。アメリカで唯一原子力空母を建造できる造船所である。 戦艦:Maryland 航空母艦:Hornet、Intrepid、Ranger 重巡洋艦:Houston |
カイザー造船所 バンクーバー造船所 | 米バンクーバー | 創業者のヘンリー・J・カイザーはカサブランカ級護衛空母の建造を提案しており、リバティ船(第二次世界大戦中にアメリカが大量に建造した規格型輸送船)の建造でも有名。バンクーバーを含め7か所の造船所があった。なお、2010年に冬季オリンピックが開催された、カナダのバンクーバーとは別の都市(ワシントン州)である*225。 航空母艦:Gambier Bay |
ブラウン・シップビルディング社 | 米ヒューストン | ブラウン兄弟により1942年に設立。護衛駆逐艦とLSM(中型揚陸艦)を多数建造した。戦後はトッド社に売却されるが、1985年に操業を停止。 駆逐艦:Samuel B.Roberts |
シアトル・タコマ造船所 | 米シアトル | 1917年、トッド社により操業開始。第一次世界大戦終戦後に一旦閉鎖となるが、1939年に第二次大戦の開戦に備え操業を再開した。第二次大戦終戦後に操業を停止し、跡地は海軍用地を経て自治体へ売却され、港湾産業振興地区として再開発されている。 駆逐艦:Johnston |
フェデラル造船所 | 米カーニー | 1917年、鉄鋼会社USスチール社の子会社として創業。第二次大戦中は米国政府の緊急造船プログラムに応えて数多くの駆逐艦や輸送船を建造していたが、戦後の1948年に操業を停止。その後跡地は船舶解体所として用いられた。 軽巡洋艦:Atlanta 駆逐艦:Fletcher |
ベスレヘム・スチール社 フォアリバー造船所 | 米フォアリバー | 1986年に操業を停止。現在は同所で建造された重巡「セイラム」が跡地に保存されている。 戦艦:Massachusetts、Nevada 航空母艦:Lexington 重巡洋艦:Northampton |
エレクトリック・ボート社 | 米グロトン | 1899年創業。第一次大戦から現在に至るまで多数の潜水艦を建造し続けている、アメリカにおける潜水艦建造の名門で、現在はジェネラル・ダイナミクス社の一部門。日本海軍で初めて導入された潜水艦・第一型潜水艦(ホランド型艇)も、この会社で建造されている。 潜水艦:Salmon |
ジロンド造船所 | 仏ボルドー | 1836年創業の老舗造船所。戦後は幾つかの会社を経てボルドー造船所となり、ヨットやモーターボートを主に建造している。 日本の防護巡洋艦「畝傍」もここで建造されている…のだが、日本に辿り着く事は無く…。 水上機母艦:Commandant Teste 軽巡洋艦:Gloire |
ブレスト海軍工廠 | 仏ブレスト | フランス西部、ブルターニュ半島西端に位置するフランス最大の軍港で、横須賀市とは姉妹都市同士。17世紀の宰相リシュリューによる軍港整備を契機に、古くから弾薬庫やドックが整備されてきた。第二次大戦中のドイツ占領下では潜水艦基地が置かれ、第二次遣独作戦で派遣された伊8が入港している。 戦艦:Richelieu |
ロリアン海軍工廠 | 仏ロリアン | ブルターニュ半島にある軍港都市。1690年にセニュレー公ジャン・バティスト・コルベール*226により海軍基地が開設され、私掠船の基地や奴隷貿易の拠点として栄えた。ドイツ占領下ではUボートの大規模基地が置かれ、空襲で壊滅状態に陥る。現在も国営会社ナヴァル・グループの元で艦艇の建造・整備が行われている。 駆逐艦:Mogador |
ペノエ造船所 | 仏サン・ナゼール | フランス西部の大西洋岸にある。1955年に隣のロワール造船所と合併し、アトランティック造船所となる。現在では大型クルーズ船を多数建造する欧州随一の造船所である。 戦艦:Jean Bart |
アドミラルティ造船所 | 露サンクトペテルブルグ | ロシア帝国時代からの伝統を持ち、世界初の原子力商船「レーニン」号を建造した事でも有名。 戦艦:Гангут |
イェーターヴァルケン造船所 | 瑞ヨーテボリ | スウェーデン第2の都市にあった。かつては欧州でも有数の建造量を誇ったが、オイルショック後は造船不況に陥り、1989年に造船を終了した。現在跡地は再開発されている。 軽巡洋艦:Gotland |
ウィルトン・フィエノールト社 スヒーダム造船所 | 蘭スヒーダム | 1929年、オランダ最大の港湾都市・ロッテルダム近郊のスヒーダムで操業していた老舗造船所2社の合併により成立。現在はダーメングループの船舶修理・改修部門となっている。 軽巡洋艦:De Ruyter |
主な海戦・作戦
主な海戦・作戦を参照。
通常海域モデル
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イベント海域モデル(第1期)
主な海戦・作戦を参照。
補講
イギリス駆逐艦史
「駆逐艦」という艦種を発明したのはイギリスである。
1.「水雷艇駆逐艦」から「駆逐艦」へ
- 新兵器・魚雷を主兵装とする小型高速艦・水雷艇が実用化されたのが1880年頃。その低コスト大威力に目を付けたフランスが大量の水雷艇を配備する。
もちろんイギリスもそれに対抗しようとして水雷砲艦とか水雷巡洋艦とか対抗できる軍艦を作ろうとしたが、通常の軍艦の設計と出力不足の汽車缶の組み合わせでは水雷艇相手には鈍重すぎ、中途半端で使い物にならなかった。
そして水雷艇の船体を踏襲・大型化して最新鋭高出力の水管缶を搭載し、高速かつ砲火力で水雷艇を圧倒できる「水雷艇駆逐艦」(Torpedo Boat Destroyer)がイギリスで計画された。その第一号「ハヴォック」の就役は1894年である。 - やがてみんな気付いてしまった。水雷艇同様に高速なので魚雷による襲撃がこなせ、より大型な分外洋行動力は格段に上。水雷艇駆逐艦は水雷艇の完全上位互換だったのである。
- かくして水雷艇はアッという間に廃れ、水雷艇駆逐艦は単に「駆逐艦」(Destroyer)と呼ばれるようになった。軍縮条約逃れで「水雷艇」が復活するのはまた別のずいぶん後の話
2.第一次大戦から大戦間
- やがて第一次大戦を迎え、駆逐艦は小型高速汎用戦闘艦艇として地位を確立、急速に大型重武装化していった。英海軍WWI世代の最終型・アドミラルティ(海軍省)改W級は排水量1140t・12cm単装砲4基・53.3cm3連装魚雷発射管2基というスペックである。
- 戦間期に入り大量に作ってしまったWWI世代が老朽化してくると、英海軍も新世代駆逐艦の建造に乗り出す。しかしそれらは排水量1400t弱・12cm単装砲4基・53.3cm4連装魚雷発射管2基とWWI世代と大差ないスペックであった。
- 駆逐艦を多少強力にしたところで、主力艦相手にはどの道魚雷をぶち込むしか勝ち目がないのである。だったら小型のままの方が発見され辛く、小回りも利いて襲撃に有利、という考え方である。英海軍は帝国海軍に負けず劣らずの、いやある意味それ以上の夜戦バカであった。
- 隣国フランスや日本が2000t級の大型駆逐艦を量産してくると、それらとの交戦を予期した海軍省はさすがに不安にはなったようである。しかし駆逐艦用5インチ級艦砲の開発に失敗した事と、用兵側が前述の理由で艦型の大型化に強く反対したため、大型駆逐艦の導入はトライバル級まで待たされる事になる。彼らはどこまでも夜戦バカだったのだ
- かくして、2隻の試作艦を経て「A」級~「I」級まで、艦名の頭文字を揃えてきっちりアルファベット順に、毎年9隻ずつ(8隻+旗艦用嚮導艦1隻、「C」級のみ予算削減で5隻)が建造されていった。この間ちまちまとした改良が加わり最後は5連装魚雷発射管が導入されたりもしたが、要はどれも代り映えのしない、特に強い訳じゃない平凡な駆逐艦たちである。そしてWW2で奮闘し文字通り磨り潰された
3.「J」級登場
- きっかけはトライバル級である。
前述の通り他国の大型駆逐艦への対抗として、そして文字通り七つの海のシーレーンをカバーしなければならない巡洋艦兵力の補完として生まれた強力な艦であったが、案の定「デカ杉、小回り利かない、もっと魚雷よこせ」「駆逐艦のくせに建造費高杉」等不満の声も噴出した。そこでトライバル級を縮小した新世代汎用駆逐艦として計画されたのが「J」級である。 - トライバル級から砲塔1基減の12cm連装砲3基、雷装は53.3cm5連装魚雷発射管2基と「I」級のレベルまで復活、その上でトライバル級から200tのダイエット…と要求は厳しく、既存のデザインからの脱却を迫られることとなった。そしてボイラーを3缶から大容量2缶にし煙突を1本に、後檣を省略、船体に縦肋骨構造を導入(軽量化できたが建造費は上昇した)…といった新機軸は成功、以後のクラスにも長く踏襲される基本設計となったのである。
- 1936年計画でまず「J」級8隻が建造。当初「I」級までと同じく8隻+嚮導艦1隻の予定だったが、1隻がキャンセルされ嚮導艦を含んで8隻となり、この形態も以後のクラスに踏襲される。以後同様のデザインが「K」・「L」・「M」・「N」級と続いた後、「O」級以降の戦時急造型へ移行した。
- 「K」級…「J」級と同設計。「J」級と共に丁度開戦の前後に最新鋭艦として就役している。
- 「L」「M」級…主砲塔を新型に変更。全密閉型、迎角増大(40度→50度)、左右個別俯迎可能。代償重量として魚雷発射管を4連装に削減。新型砲塔が巨大すぎ重すぎで結局トライバル級並の大型高コストに膨れ上がる。しかもその新型砲塔が最大50度でやっぱり対空射撃に使えず、おまけに生産が遅延。間に合わなかった「L」級の4隻は4インチ連装高角砲4基に変更して完成した。こっちは本当の高角砲なのでむしろ評判が良かった「アーク・ロイヤル」の最後を看取ったのがこの「L」級のうちの2隻、「リージョン」「ラフォーレイ」である。
- 「N」級…いよいよ開戦必至の情勢となり、物要りに備えて建造費削減が求められるも戦時急造型は未だ設計中(後のO級)。よって取り急ぎ「J」級の仕様に戻して発注したもの。全艦が外国海軍に貸与されている。設計が共通の「J」「K」「N」級を一括りのクラスとして扱う文献が主流。
- 「O」「P」「Q」「R」「S」「T」「U」「V」「W」級…戦時急造型。「J」級の船体に「H」級のレベルまでスペックダウンした武装を組み合わせたもの(「O」級の一部と「P」級のみ主砲が10.2cm高角砲)。「S」級からはポンポン砲をボフォース40mm機銃に変更。「S」級の嚮導艦「ソーマレズ」と「V」級の「ヴェルラム」、「ヴィーナス」、「ヴィジラント」、「ヴィラーゴ」の5隻はペナン沖海戦で「羽黒」を撃沈した。
- 「Z」「Ca」「Ch」「Co」「Cr」級…戦時急造型その2。「W」級の主砲を新開発の11.4cm砲に変更したもの。砲自体は高角砲として使えるものだったが載せる砲架の最大仰角が55度だったので実質平射砲。「Ch」~「Cr」級のほとんどは大戦に間に合わず、戦後になってから竣工した。
4.第二次大戦
- 39年9月の開戦時点で、英海軍の駆逐艦兵力は未だ現役にとどまっていたWWI世代を含め約190隻、「J」「K」級各艦が相次いで就役しつつあるタイミングであった。
- 開戦と共に彼らは予期しなかった脅威に直面することになる。航空機である。
当時の英駆逐艦の12cm主砲は最大迎角30度ないし40度。戦間期から対空砲弾が供給され両用砲と一応謳われてはいたものの、高い精度の急降下爆撃で軽快な駆逐艦にすら爆弾を当ててくるJu87「シュツーカ」に対しては到底有効な対空火力とはならなかった。- ほどなくほぼ全艦に対して、魚雷発射管1基を降ろして中古の4インチ単装高角砲を搭載するという「背に腹は代えられない」を地で行く涙ぐましい改装が実施されている。
- 当然ながら、世に名高いUボートも大きな脅威であった。お互いがお互いを狙い合い隙を見せた方が沈められる鍔迫り合いが続き、旧式駆逐艦も船団護衛の貴重な兵力として活用されている。
- そしてそこに戦略的目標がある限り、出撃しない訳にはいかない。好んで夜戦を仕掛け全期間を通じて対水上戦闘ではほぼ負けなしでありながら、ドイツのノルウェー侵攻、ダンケルク撤退(ダイナモ作戦)、そして駆逐艦の墓場と化した地中海戦線と大きな被害を出しつつ、英駆逐艦は戦い抜いたのである。
- 苦闘を物語る数字として、戦闘の最も激しい時期を経験した「L」級までの各クラスのうち、終戦まで生き残った隻数を以下に示す。
- A級…9隻中2隻
- B級…9隻中4隻
- C級…5隻中3隻
- D級…9隻中2隻
- E級…9隻中3隻
- F級…9隻中5隻
- G級…9隻中2隻
- H級…9隻中2隻
- I級…9隻中3隻
- トライバル級…16隻中4隻
- J級…8隻中2隻
- K級…8隻中2隻
- L級…8隻中1隻
- この大損害の穴を埋めたのが、旧式駆逐艦を急速に代替するものとして開戦前に発注されていたハント級護衛駆逐艦、そして「O」級以降の戦時急造型である。前者は1940年から43年初頭にかけて全艦が揃い、後者は41年半ばから続々と就役を始めている。彼らは間に合ったのだ。
- 艦隊型駆逐艦に損害が続き数が揃わなくなってくると、旧式駆逐艦とともにハント級も容赦なく最前線に投入され、対水上戦闘すら何度となく経験している。戦時急造型は性能こそ平凡であったが、平凡でも駆逐艦がいる、存在するという事自体が重要だったのである。
- 戦時急造型は細かく改良を加えられつつ14次に渡って全112隻が発注され、うち約90隻が終戦までに完成した。結果、開戦前と駆逐艦の数量はさほど変わらず、その顔触れはざっと7割が入れ替わっていたのである。壊滅的な損害を出しつつ、ギリギリで踏みとどまり戦力を維持し切った英駆逐艦陣の苦闘を物語るものと言えよう。
コメント
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- 無断編集が増えてしまっていますね。文意を変えない修正程度なら必要ありませんが、大量追記が続くとページのリソースを圧迫して結局大量削除の話も出てくるのに。 -- 2018-09-06 (木) 18:12:06
- ルールマナーとあまり言いたくないが(と言うか俺もあんま守れないし・・・)「無断編集やめて」と書いた数時間後に無断編集されてるって、敗戦直前の日本みたいな末期感漂うなあ・・・ -- 2018-09-07 (金) 20:44:31
- 「無断編集をしないで」じゃなくて「編集するときはこうして」といえばいいと思うの。どこそこに書いてあるならそこをガイドすればいいとおもうの。 -- 2018-09-07 (金) 21:31:51
- 編集のガイドラインはこちらのwiki編集についてにありますね。編集前に一言断りを入れるマナーについては冒頭の「はじめに」に。 -- 2018-09-10 (月) 22:17:23
- 失礼。過去に何度か無断の編集を行いました。物臭しただけなので気を付けます。 -- 2018-09-08 (土) 13:16:09
- その9月初めに無断編集された箇所を差し戻ししました。「無断編集は控えて」と書き込まれた直後に、正にその無断編集で問題が起きた項に無断で追記、それも情報源が~って揉めてる最中に「複数の戦史家が」と情報源を伏せて書くのは編集者の本意がどうあれ嫌がらせを疑う。肩書戦史家ならOKであれば無断編集された意見と反対の意見だって幾らでも書けるけど、それじゃ編集合戦になるからちゃんと報告しようって話でしょ。上の木主が注意していた容量オーバーの話もすぐ出たしで色々アウト。 -- 2018-10-19 (金) 09:19:22
- 無断編集以前に、貴方は貴方の主観による編集を控えるべきかと思います。南雲提督の記述を見て少しは参考にしていただければ幸いです。両論あることは併記する、もしくはその件には触れない、戦史学会(と呼べるかはわかりませんが、私には他に語彙がないので)で議論中である件はその旨を告げる。研究・議論の場ではない当wikiにあっては、これが原則だと私は思います。 -- 2018-12-04 (火) 23:16:13
- ↑9月に無断編集した人と3枝のどちらに対して言っているの?3枝は無断編集を差し戻しただけでここのwikiのルールに従っただけだけど。主観に基づく編集をしたというなら9月に無断編集した人のはずだが・・・ -- 2018-12-05 (水) 00:00:22
- ↑枝主(3枝)への文句だと思われます。1葉=問題となっている9月初めに無断編集した本人ですよ。 -- 2018-12-06 (木) 18:57:53
- ↑3履歴を確認した所、3枝による記事編集は貴方(1葉)の無断編集をその前の状態に戻した10/19の編集だけでした。「無断編集以前に3枝が3枝の主観による編集を行っている」とする1葉の言い分は事実無根の中傷です。そもそも1葉の無断編集があったためそれを戻す作業が生じたのであって、それを棚上げしての批判はもっての外の回答です。3枝は反対の意見も併記できるが編集合戦になるから避けた旨を報告し、編集前の状態に戻すまでに留めており、そこだけ比較しても3枝より1葉の無断編集やコメントの方がずっと主観的で自分勝手ですよ。 -- 2018-12-06 (木) 19:03:27
- 酷いな。ルール破った人がそのことには触れずにルール無視を注意した相手に濡れ衣着せて悪者にしたのか。1葉は相談するくらいの簡単なルールも守らないで注意しても逆らうならどんな御託並べてもここを利用する権利はないから出でけってだけだぞこれで「素行や言動に関係なく編集した内容だけ公平に評価しろ」と研究家気取りの遠回しな自己弁護を返してきたら失笑 -- 2018-12-07 (金) 13:13:39
- まだ断りなしで編集してるし、上辺の言葉使いは丁寧でも1葉=無断編集者の言ってる事、やってる事を纏めるとただの自己中だよね。「ルールは無視する」「俺は独断で主観を排除した戦争の記事を書ける」「俺の定義ではここのルールによる編集の方が悪だ」だからね。一艦これ提督が同じ艦これ提督に対してこの態度はどれだけ舐めてんだと思うよ -- 2018-12-07 (金) 18:16:01
- 1葉の発言は「両論の併記・議論中と告知」まで含めて全部口から出まかせの嘘。1葉は11月終わりにこの記事も無断で大量削除している。元々はある作家の意見が戦史叢書からの抜粋により否定されていた記述だったものを、1葉は断りも入れずに戦史叢書の抜粋部を削除して作家の意見だけの記述に書き換えた。「悪質」、「酷い編集」とコメントで批判されて編集前の状態に復旧されたが、1葉は両論併記なんて心がけてないし、無断編集で批判されているのはここだけの話じゃない。記事編集やコメントにいい加減な嘘を書かれて困らないように、IDは抑えておいて、悪質な編集があったら復旧、事前報告があっても嘘をつく相手だと考えて対応を -- 2018-12-09 (日) 14:45:00
- 俺からルールマナーの話を振った流れがあるのに3枝の主観の編集ってどんないいがかりだ。同じ時期に同じ項目に対し同じ批判的意見する人が同じくらい無茶苦茶な言動って何なんだこれ何かの集まり? -- 2018-12-18 (火) 19:02:56
- 南雲擁護を拗らせてしまった人でしょう。1葉による二式大艇の記事の無断編集を見れば一目瞭然です。『南雲提督が慢心した事実』の隠蔽を図りましたからね。ここで山口提督の項目を無断編集した行動原理も同じで、南雲提督にとって都合の悪い話=南雲提督とよく比較される山口提督の評価を『無かった事』にしようとしたのでしょう。だから「1葉が無断で書き込んだ山口批判に反論できる」と言う3枝に「主観による編集」と言いがかりをつけた。尤も編集時に相談できなかったことで、自分の編集こそ反対されて当然の主観だと1葉自身が自覚していると証明してしまっているのですが。 -- 2019-01-17 (木) 15:40:16
- 有名税の一種で風評被害を受け易いのがある。ウィキペディアに何度「ミッドウェー海戦の有名な山口の進言は存在しなかった」と言う嘘が書き込まれたかわからない。プロの作家(イアン・トール)さえ山口が進言したこと自体書かずに「南雲は攻撃隊を即出撃させるべきだったがそれは後知恵だ」と書くくらい。 -- 2019-02-15 (金) 10:06:00
- 何やら多聞丸の項が荒らされてるようですが、とりあえず同項を「軍人についての内容→プライベートな内容」の順に整理しました。順序の整理だけで書かれてる内容は変えていません。 -- 2019-03-13 (水) 19:36:16
- お疲れ様です。荒らされているというか、ま、山口提督が目の上のたんこぶな人がいるらしくて -- 2019-04-18 (木) 18:18:53
- まあ山口少将の進言を無かったことにした最初の人物はミッドウェー海戦の草鹿参謀長ですからね。戦後直ぐに書いた回想記で草鹿参謀長は「あの時南雲は護衛を付けられないと艦爆隊の出撃を諦めたが、私(草鹿)は護衛を付けなくても出撃させるのが正しかったと思う。陸用爆弾でも敵空母の甲板を使用不能にできた」と、山口少将から進言があった経緯を書かずに、戦場での彼の判断を戦後の自分の意見として述べてしまった。その後別の証言者によって山口の進言が広く知られるようになったので草鹿参謀長の目論見は失敗に終わるのですが、同じ軍人だと山口少将に羨望と妬みを抱いてしまうのでしょう。 -- 2020-04-28 (火) 19:27:25
- 最近、山口と全然関係がない駆逐艦ナ級のコメント欄で突如「ミッドウェーの山口の「第二次攻撃の要を認める」の進言は本当かどうかかなり怪しい」と、自分の方が余程怪しい歴史観を披露している御仁がいて(それは友永大尉の報告。山口の「第二撃準備完了」であれば真珠湾)、所構わず怪しい史観を振りかざして自己正当化に奔走した往年の草鹿中将の姿が被りましたなあ。 -- 2020-09-22 (火) 08:59:18
- ↑映画ミッドウェイが公開された影響だろう。あちこちで聞きかじりの知識で逆張りや定説否定に夢中な自称専門家が出没している。草鹿(淵田と並ぶホラ吹き)、源田(自分が付いた嘘を嘘と分からなくなった様な人)、吉岡(取材を受けた時は立派なのに個人出版の著書だと精神論に偏っててずっこけた)の証言をソースとして重宝している人は何十年も前に否定された意見を掘り起こして得意気に語るから面倒くさい。 -- 2020-09-27 (日) 10:05:23
- 「無断編集をしないで」じゃなくて「編集するときはこうして」といえばいいと思うの。どこそこに書いてあるならそこをガイドすればいいとおもうの。 -- 2018-09-07 (金) 21:31:51
- アレの項に少し追加しました。 -- 2018-09-08 (土) 13:14:41
- 海域モデルの記述を第2期準拠に変更しました。 -- 2018-10-02 (火) 20:58:57
- ページの行数がもう一杯になりそうですが、どうしましょうか? -- 2018-10-11 (木) 20:47:02
- 「主な海戦・作戦」~「海域モデル」の範囲を別のページに分割できるでしょうか。海戦・作戦の章は項目はそれ程多くないのに随分文章量が多い項がありますし。 -- 2018-10-17 (水) 20:08:02
- 練習ページ/49に分割案を作ってみました。こんな感じでよろしいでしょうか? -- 木主? 2018-10-23 (火) 18:51:41
- 分割案の作成、お疲れ様です。良いと思います。分割を提案しながら一任してしまいすみませんでした。 -- 2018-10-24 (水) 17:48:04
- 特に異論等なければこのまま分割しますが、意見などありませんでしょうか? -- 木主? 2018-10-25 (木) 04:14:02
- (追記)とりあえず大規模な変更となるため提案意見掲示板に意見提案を行いました。 -- 木主? 2018-10-25 (木) 05:59:31
- 提案意見掲示板で意見を募ったところ、特に反対意見などは出なかったためページの分割を実施しました。 -- 木主? 2018-11-02 (金) 08:46:01
- 連合艦隊の項目、海自で連合艦隊に相当するのは護衛艦隊じゃなくて自衛艦隊では。それに護衛艦隊が廃止されたってどういうこと?旗艦・直轄艦は確かに無くなったけど。 -- 2018-10-16 (火) 15:52:16
- ビッグセブンの項、コロラドのページへのリンク追加しました。 -- 2019-06-10 (月) 09:54:54
- 三菱重工長崎が世界遺産になった・・・てのは書くべきでは?否、書きなさい、書くんだーーー!!(激昂) -- 2019-11-03 (日) 13:38:23
- 少し遅くなってしまいましたが、書いてみました。どうでしょう? -- 2020-02-24 (月) 16:05:51
- 4代目がいる艦名一覧に平戸を追加しました。 -- 2019-12-09 (月) 20:15:01
- 「ABDA艦隊」をDe Ruyterの記事に沿った内容としました。 -- 2020-05-10 (日) 19:01:43
- 「ABDA艦隊」に追記しました。 -- 2020-05-11 (月) 06:42:04
- エンタープライズは文脈次第では実在の軍艦なのか映画の話なのか紛らわしくてしょうがない -- 2020-05-24 (日) 19:30:03
- 4代続く艦名に有明を追加しました。 -- 2020-07-14 (火) 07:18:10
- 新艦の造船所を追記させてもらいました -- 2020-12-06 (日) 13:08:44
- 日本海軍や海上自衛隊が艦名に人名はNGだとは社会人になってから知ったので、学生時代に提督の決断2と4をプレイした際は「ビスマルクやニミッツみたく人名にしよっと」と、新型艦船に人名をつけていました(笑) -- 2020-12-06 (日) 13:50:51
- 因みに艦名は 戦艦→東郷平八郎、山本五十六、勝海舟、村上武吉、藤原純友、鶴姫 正規空母は→楠木正成、黒田官兵衛、真田幸村、源義経、大石蔵之介、山中鹿之介 と、戦艦なら海軍や海賊関係者、正規空母なら悲劇のヒーローみたいな名前をつけていました。 -- 2020-12-06 (日) 14:01:11
- 訂正 黒田官兵衛→山本勘助 -- 2020-12-06 (日) 14:02:51
- 因みに艦名は 戦艦→東郷平八郎、山本五十六、勝海舟、村上武吉、藤原純友、鶴姫 正規空母は→楠木正成、黒田官兵衛、真田幸村、源義経、大石蔵之介、山中鹿之介 と、戦艦なら海軍や海賊関係者、正規空母なら悲劇のヒーローみたいな名前をつけていました。 -- 2020-12-06 (日) 14:01:11
- 戦後の命名規則「DEおよびFFM」に修正、ならびに、4代目がいる艦名一覧に最上を追加しました。 -- 2021-03-12 (金) 21:20:26
- 遅れながら、造船所について今イベント追加分の艦娘の分を追記しました。 -- 2021-05-29 (土) 16:38:58
- 砲雷撃戦について、実際に使用された戦時中の文献を確認。架空の用語ではなかったのが確定したので、加筆修正しました。田中提督(田中頼三少将)の経歴も追記しました。 -- 2022-12-26 (月) 12:56:49
- ドイツもっと由来追加して欲しいです!。頑張ってください。 -- 2023-02-02 (木) 21:17:25
- 海外工廠の記述を書いておりましたが、他の方が加筆修正してくださった…ありがとうございます。 -- 2023-11-23 (木) 23:03:37
- 編集連絡掲示板にて、このページが文字数オーバーで編集ができない旨の報告がありました。テキスト量が大きそうな「艦娘用語」を子ページ雑学/艦娘用語に分割してインクルードしました。ページ内のリンク関係も分からないし、手っ取り早くインクルードでよいかなと。事後報告で恐縮ですが、よろしくお願いします。 -- 2024-09-08 (日) 22:00:45