No.016 | ||||
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磯波(いそなみ) | 吹雪型 9番艦 駆逐艦 | |||
艦船ステータス(初期値/最大値) | ||||
耐久 | 15 | 火力 | 10 / 29 | |
装甲 | 5 / 19 | 雷装 | 27 / 69 | |
回避 | 40 / 79 | 対空 | 10 / 39 | |
搭載 | 0 | 対潜 | 20 / 49 | |
速力 | 高速 | 索敵 | 5 / 19 | |
射程 | 短 | 運 | 10 / 49 | |
最大消費量 | ||||
燃料 | 15 | 弾薬 | 20 | |
装備 | ||||
12.7cm連装砲A型 | ||||
未装備 | ||||
装備不可 | ||||
装備不可 | ||||
改造チャート | ||||
磯波 → 磯波改(Lv20) | ||||
図鑑説明 | ||||
特型駆逐艦9番艦の磯波です。 数々の作戦に参加したんですけど、中破してからは、 後方で海上護衛や哨戒活動に従事していました。 頑張ります。 |
※初期値はLvや近代化改修の補正を除いた時の数値であり、最大値はLv99の時の最大値を指します。
セリフ | CV:上坂すみれ、イラストレーター:しばふ |
入手/ログイン | あ、あの…磯波と申します。よろしくお願いいたします。 |
母港/詳細閲覧 | あ、はい、あの、がんばります。 |
はい、提督、なにか御用でしょうか? | |
母港/クリック時 | …あ、あの…恥ずかしいです…… |
母港/詳細閲覧(Xmas) | 綺麗ぇ、クリスマスツリー…。そうか…今年も、もうそんな時期なのですね…ん~…。 |
母港(バレンタイン) | てーとく…提督さん! あ、あの、これをもらってくださいますか? ど、ど、どうぞ! |
母港/詳細閲覧(梅雨) | 梅雨ですね。なんか落ち着いた気持ちになって、これはこれでいいですね……え? 深雪ちゃん? 違うの? え? |
ケッコンカッコカリ(反転) | あの、・・・提督って、彼女いますか? ・・・あっ、そうなんですか。ふふっ、そう~ なるほど~♪ |
ケッコン後母港(反転) | - |
編成 | いきます! |
出撃 | |
出撃なんですね…うぅ…が、頑張ります! | |
遠征選択時 | 嬉しいです! |
アイテム発見 | 嬉しいです! |
開戦 | ていっ! |
航空戦開始時 | |
夜戦開始 | ここは私も、頑張るときなのです! |
攻撃 | あたって! |
ごめんなさい! | |
小破 | きゃあっ! |
小破/旗艦大破 | いやぁ |
中破/大破 | ひゃああぁっ |
勝利MVP | 努力すれば、やれるんですね!うれしいです。 |
帰投 | なんとか…作戦完了したみたいです。 |
補給 | これでもっと頑張れるでしょうか |
改装/改修/改造 | ありがとうございます、うれしいです |
うれしいです | |
これでもっと頑張れるでしょうか | |
入渠(小破以下) | ちょっと…疲れました。 |
入渠(中破以上) | しばらく有休をいただいてもいいでしょうか…ぁいえっなんでもないです… |
建造完了 | あ、新しい仲間が来たようです。お友達になれるでしょうか。 |
戦績表示 | 提督?ご連絡があるみたいです。 |
轟沈(反転) | 轟沈って…私が…? やだ…わ、私… |
時報 | |
放置時 |
ゲームにおいて 
- 名前がよく似た激レア艦の磯風を磯波と間違えて解体する提督がいた。
2014年夏イベント「AL作戦/MI作戦」のE-6では磯波もドロップしたためロック等を間違えやすかったようだ。 - 2016年9月16日に磯波を必要とする任務、「「第十九駆逐隊」を編成せよ!」、「「第十九駆逐隊」出撃せよ!」、「「第十九駆逐隊」敵主力に突入せよ!」が実装された。
- 2018年8月17日の第二期移行に伴い初期装備が12.7cm連装砲から12.7cm連装砲A型に変更された。
限定グラフィック 
- 2017年9月2日のごく短期間の間、運営Twitterのアイコンがカメラを構えた磯波らしきイラストになっていた。
後にコンプティークで、このアイコンが磯波の観艦式modeであったことが判明し、同年9月12日のアップデートで実装された。
TシャツにはISO5800*1の文字が記載されている。限定イラスト:観艦式Ver.
- 「磯」と「ISO」を引っかけ、付いたあだ名が「ISO波」だとか…
- 中破してもカメラは無事である。
- カメラのモデルはニコンのフラッグシップ機「Nikon D5
」がモデルと思われる。
一部では「EOS-1D X Mark II」という説もあったが……
なんでNikon D5と言い切れるのか
:例によってあれだよ、ニコンは海軍閥でキヤノンは陸軍寄りなんだよ。- ニコンはもともと海軍の光学兵器を製造する会社として、大正6年に三菱グループ傘下の半ば国策企業として創設された経緯がある。精度が高いことで知られる日本海軍の光学照準器の製造を一手に引き受けていた。
- 対するキヤノンは、創業は昭和8年とニコンより遅い。もとより民生用カメラメーカーとして立ち上げた企業だが、その開発・製造にあたっては陸軍第1師団の山口一太郎大尉が技術的に支援していた。
- 創業自体はキヤノンの方が遅かったが、戦前のニコンはスチルカメラは製造しておらず、海軍の光学機器の製造で成り立っている企業だった。関東大震災などの影響もあって陸軍にも納品していたが、終戦まで海軍ベッタリの企業だった。
- 民生用カメラ市場には昭和7年、カメラ用レンズで参入、現在まで続く『NIKKOR』ブランドが誕生する。しかし、一眼レフ用レンズのみでボディ(カメラ本体)の開発・生産はしていなかった*2。戦前のニコンはキヤノン製ボディ用のレンズを供給していたのである。日本カメラ市場情勢は複雑怪奇……
- 一方のキヤノンは、主力はあくまで民生用カメラだったが、カメラというのは当時高級品であり、実際には市販だけでは企業が成り立たないこともあって、軍にも納品していた。カメラ自体は陸軍にも海軍にも納品していた。
- しかし敗戦により軍需が途絶えると、ニコンは生き残るため
キヤノンを裏切りスチルカメラ開発・販売に参入する。昭和23年に1号機ニコンI型を発売、ここにニコンとキヤノンの仁義なき戦いの火蓋が切られた。ニコンvsキヤノン・一眼レフ戦争の顛末と現状。
- 後発であるにもかかわらず、海軍光学機器を一手に手がけていたニコンの高い技術力でつくられたカメラはたちまち先発のキヤノンからシェアを奪って国内を席巻、さらに海外でも早いうちから実力が認められ、他の分野に先んじてゆく先々で地元のカメラブランドを潰して回り、対抗できたのはドイツのライカ、ローライぐらいという有様だった。
特に日本の報道機関にあっては「ニコンに非ずんばカメラに非ず」という勢いでニコンが寡占した。
だが、この大成功が後々ニコンの足を引っ張ることになる。 - ニコンのカメラ参入後、キヤノンは一転、自社の創業時の本業であるカメラにおいては長くニコンに続く“次点メーカー”の立場に甘んじることになった。レンズマウントをいろいろ試してみるもニコンFマウントほどの完成度が得られず、常に悪評がついて回った。
- この事もあってか、キヤノンは純粋な光学機器メーカーを早々に脱して多角化に乗り出す。特に1984年に発売されたApple Macintoshの代理店となったことが大きなターニングポイントとなった。AppleからMac用の周辺機器の開発を依頼されたことで電子情報機器分野に重点を置くようになる。
- だが、昭和60年、ミノルタが先進的なAF・AE一眼レフカメラ α-7000 を発売し、キヤノンとニコンのシェアを大きく落とした。俗にαショックと言われる。
- それまで、プロユース、ハイアマチュアユースと言えばニコンとキヤノンの二大メーカーの独壇場であり、ミノルタやペンタックスなどはアマチュア向け廉価機ブランドという位置づけだったが、αシステムの登場はミノルタのブランドイメージを一時的に変えるほど強烈だった。本当に一時的に……
- αショックを受けたキヤノンは、昭和56年頃からすすめていた“電子化カメラ”*3の研究の成果として、昭和62年に EOS 650 を発売。この際、キヤノンの足を引っ張ってきたマニュアル用レンズマウントとの互換性をバッサリ切り捨て、世界最大口径、AF駆動モーター&TTL測光用データセンサー内蔵専用のAF用レンズマウント EF を採用した。それまでのFDマウントを捨てたことはAF否定派の多いそれまでのユーザーからはだいぶ厳しいことを言われた*4が、それ以上に新規ユーザーを獲得し、一気に市場で巻き返しを図ることに成功する。
- しかし調子に乗っていたミノルタへの対抗を焦るばかり、 EOS 630 、 EOS 750/850 、 EOS 1000 といったミノルタのエントリーモデルに対抗する製品を発売し、商業的には成功したもののキヤノンのブランドイメージにそぐわない割り切り性能の製品の評価はすごぶる悪かった。そこでキヤノンはEOSシリーズとしての基本的な性能を持ち、操作自由度*5を保ち、尚且つ女性でも扱いやすいコンパクトに収めた EOS Kiss を発売、銀塩フイルム時代最後のカメラブームの牽引役となるほどヒットした。
- 一方のニコンは、昭和34年以来自社製品を支えてきたFマウントを維持しつつ、適宜AFやAEに必要な機能を追加していく方策をとった*6。この為、平成初期頃までは、従来の支持層から反感を買ったキヤノンに対して、ニコンは広い支持層を得て優位に経っていた、のだが……
- この「従来のマウントを維持しつつ、適宜機能を追加していく」ことが逆に足枷となった。互換性を維持するための方策のはずが、ボディ側モーター駆動のAFレンズの衰退、AEの高性能化に伴う絞り操作のレンズ→ボディ移行などにより、世代が異なるボディとレンズは「ただ物理的に嵌まるだけで実用不可能」となってしまった*7。結果的に、時代に逆行してレンズ側絞りリングを残した富士フイルム*8と、キヤノン以外の全社*9がこの状態となった。
皮肉なことに、30年前FDマウントとの互換性を捨ててMFカメラファンからボロクソにけなされたEOSだけが、現在では30年前と最新のレンズ・ボディをどう組み合わせ*10ても、ほぼ問題なく動作するという徹底した上位互換が保たれている状態になった*11。
- この「従来のマウントを維持しつつ、適宜機能を追加していく」ことが逆に足枷となった。互換性を維持するための方策のはずが、ボディ側モーター駆動のAFレンズの衰退、AEの高性能化に伴う絞り操作のレンズ→ボディ移行などにより、世代が異なるボディとレンズは「ただ物理的に嵌まるだけで実用不可能」となってしまった*7。結果的に、時代に逆行してレンズ側絞りリングを残した富士フイルム*8と、キヤノン以外の全社*9がこの状態となった。
- そしてデジタルスチルカメラ全盛期となってキヤノンはフイルムカメラ衰退に苦しむ他社を尻目に、カメラメーカーとして一流で電子機器メーカーとしても水準以上という立場から市場で有利に立ち回った。ペンタックス、ミノルタに引導を渡し*12、ついにニコンにもリベンジを果たし、一眼レフカメラ首位の座についた。
- 方やニコンは会社の古い体質*13が会社の新陳代謝を阻害しており、なかなか新機軸を打ち出すことができなかった。
- 2011年に発売したミラーレス一眼カメラ*14の『Nikon 1』シリーズは、写りは良いものの小型のイメージセンサーを使った軽薄短小なスタイルのため、重くてでかい一眼レフを好むニコン党員から「こんなのニコンじゃない」「ニコイチ」と猛烈に拒絶され、ついに2018年6月限りで販売終了に追い込まれた。*15
- 逆に、2013年に発売された『Nikon Df
』は、電子制御式以前のNIKKORレンズ*16が使えることでニコン党員から大絶賛を受け、2013年の「カメラグランプリ」大賞を受賞してしまった。
- 最近は、2016年に発表された高級コンパクトカメラ『Nikon DL』シリーズ3機種が、発売延期を繰り返した挙句に2017年に発売中止となったり、1000人の希望退職者を募集したところそれを超える退職希望者が出たり…と、カメラ好きでなくともニコンの先行きを危ぶむ声があったのだが、2017年9月に発売した『Nikon D850
』の世界的な大ヒットで息を吹き返し、「会社創業100年の奇跡」とも言われた。
- 後発であるにもかかわらず、海軍光学機器を一手に手がけていたニコンの高い技術力でつくられたカメラはたちまち先発のキヤノンからシェアを奪って国内を席巻、さらに海外でも早いうちから実力が認められ、他の分野に先んじてゆく先々で地元のカメラブランドを潰して回り、対抗できたのはドイツのライカ、ローライぐらいという有様だった。
- とは言うものの、艦娘的にはやっぱりニコンだよね。
- 2019年4月には、ズイパラコラボの一環として、横浜シーサイドライン
制服modeを披露した。
小ネタ 
- あの……私ってよく「地味で大人しい」って言われますけど、やっぱりそうですよね……。
本当は一番年上*18なのですが……頼りないでしょうか?
浦賀生まれよ。いいでしょ?・・・あ、はい、実はたくさんの仲間たちと同郷なんです。 - 第十九駆逐隊(磯波、浦波、綾波、敷波)にいました。三水戦所属、つまりあの人がすぐ上の上司なんです…。
戦争が始まってからはいろんなところで戦ってます……けど、考えてみたらこれってみんなと同じ?……
面白くない……ですよね。うーんと、何かほかに言えることないかな……。 - そうだ、私もぶつかったことあります!一つ下の浦波ちゃんと、二回も!
一回目は日華事変のとき、二回目はミッドウェー作戦の帰り道でした。
でも、修理してやっと戻ってきたら綾波ちゃんはあんなことに……。 - マダン上陸作戦の時に、作戦指揮にあたっていた天龍さんが、潜水艦アルバコアの魚雷を受けて……。
私も涼風ちゃんと一緒に反撃したんですけど……取り逃がしちゃったみたいです……。
あの時ちゃんと仕留めてれば、あとであんなこと*19にならなかったのかなぁ……。 - 中破っていうのは、ニューギニア島ブナの沖で空襲に遭ったときのことです。
また修理して、それからは護衛や哨戒ばかりしてました……ひょっとすると左遷? ダメですよね、私って……。- 当たり前だが、護衛や哨戒も大切な任務である。
- 最期は昭和18年4月9日の14時58分、アンボン島へ船団護衛中のことでした……。
一緒に行くはずだった浦波ちゃんが座礁事故で行けなくなったり、私も水中探信儀が使えなくなったり、嫌な予感はしてたんです……。*20
そしてセレベス島の南東のブートン水道で、敵潜水艦にやられた輸送船の乗員を救助しようと駆け寄ったんですけど、そこを狙われて……魚雷を……。
4本全部回避できたと思ったんですけど……最後の1本が突然急変針して……左舷に……。*21 - 私を沈めたSS-199「トートグ」って、アメリカ潜水艦随一の武勲艦だそうですけど……。
あれ?ここでも沢山のお船の中の一隻に過ぎない……ってことですよね……。
あーぁ……もうちょっと頑張ればよかったのかな……。
でも……でもこんな最期、納得いかないです……ぅぅ……。*22- 一つ上の「白雲」姉さん(こちらも未実装)も同じ潜水艦の雷撃で沈められてしまいました……。
名取さんはトートグを相手に奮戦して追い返したらしいんですけどね……。
- 一つ上の「白雲」姉さん(こちらも未実装)も同じ潜水艦の雷撃で沈められてしまいました……。
- 磯野波平って……髪の毛は生えてますけれど……いえ、覚えていただけるだけでもうれしいです。
でも陽炎型のあの娘と間違えないようにして下さいね。何だか迷惑かけてるらしくって……。 - 戦後は3代目「いそなみ(護衛艦)」として生まれ変わって、1987年まで頑張りました……。
錨が江田島の旧海軍兵学校……海上自衛隊第一術科学校に残っているので、会いに来てくれると嬉しいです……。 - よくあの娘達で話題になるあの台詞ですけど、私も夜戦の時……あ、いえ、なんでもないです……。*23
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