雪風

Cached: 2021-12-02 12:13:33 Last-modified: 2021-11-26 (金) 22:25:42
No.005
雪風(ゆきかぜ)陽炎型 8番艦 駆逐艦
艦船ステータス(初期値/最大値)
耐久16火力10 / 29
装甲7 / 29雷装24 / 79
回避50 / 89対空12 / 49
搭載0対潜24 / 49
速力高速索敵6 / 19
射程50 / 99
最大消費量
燃料15弾薬20
装備
12.7cm連装砲
61cm四連装魚雷
装備不可
装備不可
改造チャート
雪風雪風改(Lv20) → 丹陽(Lv71+改装設計図+新型兵装資材x2+開発資材x50)
雪風改二(Lv88+改装設計図x2+戦闘詳報+高速建造材×30+開発資材×60)
図鑑説明
陽炎型駆逐艦8番艦の雪風です。
私たち主力艦隊型駆逐艦の中で、十数回以上の主要海戦に参加しながらも、
唯一ほとんど無傷で終戦まで生き残りました。
奇跡の駆逐艦って?ううん、奇跡じゃないですっ!

※初期値はLvや近代化改修の補正を除いた時の数値であり、最大値はLv99の時の最大値を指します。

CV:藤田咲、イラストレーター:しずまよしのり (クリックするとセリフ一覧が開きます)

CV:藤田咲、イラストレーター:しずまよしのり

定型ボイス一覧

イベントセリフ改装段階備考追加


 
 



 


 
 



追加
入手/ログイン陽炎型駆逐艦8番艦、雪風です。どうぞ、よろしくお願いしますっ!××編集
艦隊旗艦、丹陽です!し・れ・え!雪風、いまは、丹陽っていいます!よろしく……お願いします!×××編集
陽炎型駆逐艦8番艦、雪風! し・れ・え!雪風、帰ってきました。これからも、ずっと、よろしくお願いします!×××編集
母港*1編集
母港1詳細はいっ!頑張ります!××編集
丹陽、いつでも出撃できます!×××編集
しれえ!雪風です!×××編集
母港2なんでしょう?司令官××編集
丹陽!です。アクセントォ、難しいですよね。もう覚えた?しれぇすごい!ほんとにぃ~?×××編集
そうですっ!帰ってきました!帰ってきた、雪風です!×××編集
母港3あの、雪風に何か、ご用でしょうか××編集
はい!結構こっちの武器を、あっちで改造したりして、いろいろとオリジナルな、丹陽です!×××編集
あっちでも頑張りました!そうですっ!雪風は、沈みませんからっ!×××編集
ケッコンカッコカリ奇跡の駆逐艦だなんて…そんな、違います。あたし、司令とずっと一緒にいたいから…あっ、そっ、それも違うんですっ。編集
ケッコン後母港絶対、大丈夫!編集
帰ってきましたよ、し・れ・え!みんなと貴方のために。絶対、大丈夫!×××編集
放置時雪風の待機ですか?そうですね…!泊地とかより、いつでも動けるところが好きですっ!××2019/7/18~編集
丹陽、待機ですか?了解です!半舷上陸でえ、食べ歩きに行きます!×××編集
編成出撃編集
編成雪風、いつでも出撃できます!×編集
ここでも、守ります。抜錨、出撃!×××編集
出撃連合艦隊の出撃です!×編集
雪風、いつでも出撃できます!×編集
艦隊出撃!この丹陽が指揮を執ります!×××編集
ここでも、守ります。抜錨、出撃!×××編集
開戦・攻撃*2編集
戦闘1昼戦開始雪風は沈みませんっ!××編集
丹陽も、もちろん!沈みませんっ!×××編集
帰ってきた雪風は、沈みませんっ!×××編集
戦闘2昼戦攻撃艦隊をお守りします!×編集
艦隊とみんなをお守りします!×××編集
戦闘3夜戦開始砲雷撃戦、続行します!××編集
さぁ、丹陽も、夜戦に突入です。各艦増速!さぁ、突っ込みます!×××編集
雪風、夜戦に突入します。各艦続いて!さぁ、突っ込みます!×××編集
戦闘4夜戦攻撃沈むわけにはいきませんっ!編集
戦闘時ステータス*3編集
小破不沈艦の名は、伊達じゃないのです!編集
あっ!至近弾です!編集
中破/大破もーっ。でも、し、沈みませんから!編集
轟沈不沈艦なんて…この世に無いのね…編集
戦闘終了*4編集
勝利MVP雪風、また生還しました!司令のおかげですねっ×編集
丹陽、また生還しました!しれえとみんなのおかげですね×××編集
旗艦大破あっ!至近弾です!編集
装備・改修*5編集
装備1改修/改造幸運の女神のキスを感じちゃいます!編集
装備2司令!ありがとうございますっ!編集
装備3改修/改造/開発/バケツ/遠征/発見絶対、大丈夫!×編集
勿論!絶対、大丈夫!×××編集
その他編集
帰投艦隊が帰投いたしました!編集
補給幸運の女神のキスを感じちゃいます!×××編集
雪風!補給!感謝ですっ!××2019/7/18~編集
しれぇ!丹陽、元気ですっ!×××編集
入渠(小破以下)雪風、修理に入りますね!×編集
丹陽、修理に入りますね!×××編集
入渠(中破以上)再び作戦に参加するための修理です!編集
建造完了新しい仲間が進水しました!編集
戦績表示しれえ!通信が入っています!編集

各ボイス項目の詳しい説明はこちらをご覧ください


季節ボイス一覧


イベントセリフ改装段階備考追加


 
 



 


 
 



追加
桃の節句編集
春の訪れ編集
ホワイトデーしれえ…チョコのお返しほしいです! あ、これですね! ありがとです! 食べます!2016編集
お花見です!司令、みんな待ってます!し・れ・ぇ!こっちこっち♪編集
春本番編集
梅雨しれえ……最近雨の日が多いです。制服や洗濯物が乾きにくくて困りますね、し・れ・え♪編集
初夏編集
いいかも! しれえ、いいかも!2019編集
夏クリックしれえ! 雪風は、沈みません! ずっとずっと、しれえの艦隊でがんばります! 好きだもん♪×2019編集
盛夏し・れ・え!夏の海、一緒に行きましょ!2020編集
し・れ・え!この格好、どうですか?雪風です!×2020編集
夏祭り編集
呉の雪風、佐世保の時雨。時雨、がんばろう!2021編集
秋刀魚編集
晩秋編集
ハロウィン編集
秋のワイン編集
編集
師走編集
クリスマス司令、クリスマスです! ケーキもお料理もおいしいです! 司令、食べて食べて♪編集
年末司令! 今年も年末になっちゃいました! 雪風も、お部屋を大掃除します、はい!編集
新年司令! 明けましておめでとうです! 今年も雪風と、水雷戦隊をよろしくです!編集
節分編集
バレンタインし・れ・え! チョコ、あげます! 買ってきたチョコです! 美味しいと思います!2016編集

二周年記念司令、記念日ですね! おめでとうございます! 雪風も嬉しいです!編集
三周年記念編集
四周年記念編集
五周年記念し・れ・え! 幸運の女神も、五周年です! 雪風、嬉しいです! おめでとうございます! 雪風も司令も、沈みません!編集
六周年記念し・れ・え! 六周年です! 雪風も嬉しいです! おめでとうございます! 司令と雪風は、絶対、大丈夫!編集
七周年記念編集
八周年記念し・れ・え! 幸運の女神も、八周年です! 雪風も嬉しいです! おめでとうございます! 雪風も、司令も、沈みません!編集
しれえ! 幸運の女神も、八周年です! 雪…丹陽も嬉しいです! おめでとうございます! 丹陽も、艦隊も、沈みません!編集



イベント名編集


内容編集


目次

ゲームにおいて

ステータス

  • 島風と並び、Lv20で仕上がる駆逐艦では最強の部類に属するステータスをもつ。さまざまな駆逐艦に改二が実装され、自身にも更なる改造先が追加された現在でもやはり上位クラスである。
    • とくに最終的に雪風改二にしたい場合、丹陽に改造する過程で夜戦火力が大きく落ちる都合上、改二に改造可能なレベルになるまで改のまま育成するというのも十分ありである。
  • 改造前は駆逐艦の中で、運の初期値が1位、装甲が2位、雷装と回避が3位。
  • 改造後は全艦娘の中で、回避が2位、運の初期値が3位。
    • 駆逐艦改の中では回避と運の初期値が1位、装甲が2位、火力と雷装が3位。
       

現在の入手方法

  • 非常にレアな駆逐艦で、入手は難儀。ただ通常の建造でも出る可能性がある分、第十六駆逐隊の中では最も入手しやすく、第十七駆逐隊の中でもマシな部類ではある(小ネタ参照)。
    • 島風の方はドロップするマップも多く、雪風よりは入手が容易な傾向がある。
  • 専用の建造レシピが編み出されているので、資材が有るなら建造で狙っても良いだろう。回せば出る。
     

出撃や任務関連

  • 島風と並ぶ高初期性能のため、駆逐艦が必要な場面では大いに活躍するはず。特に駆逐艦でないとクリアできない3-2などでは重宝されるだろう。
    • カットイン攻撃発動率の信頼性から、特にボスハンターの適性が高い。この雪風さえ生き残れば、カットイン魚雷攻撃でボスも水底に叩き返せる。回避の高さから生存性にも優れ、大破して夜戦に参加できなくなることが少ない。 
    • 強力なカットインが他の生き残り雑魚に吸われることを防ぐため、隊列最後尾に配属するといいかもしれない。
  • 夜戦では装備構成に依存した特殊な攻撃として、2連続攻撃を行う「連撃」と、強力な一撃を加える「カットイン攻撃」があり(夜戦(戦闘分類)参照)、運60を誇る雪風はカットイン攻撃の発動率も十分に高い。
    • 随伴艦でも約60%*6の確率で魚雷カットインが発動する。
    • 運の最大値は99。
    • 運によるカットイン率上昇にはキャップ値が設定されているので、カンストしても全夜戦カットイン攻撃にはならない。
  • このため鬼や姫などのボス級への対策として、火力要員としても活躍できる優秀な駆逐艦となっている。
    • 戦艦や姫クラスが相手となると連撃では装甲を貫けない可能性もでてくるため、普段からカットイン装備でいいだろう。(連撃→1.2倍×2、魚雷カットイン→1.5倍×2)
  • 史実において膨大な数の作戦に参加したため度々イベントの史実特効艦に名前が挙がる。後述のエピソードよろしく雪風をいつの間に使ったのか把握しきれてない提督のつぶやきも風物詩である。
  • 雪風が必要となる任務は現時点ではない。2020年11月13日の丹陽改二実装に伴い、雪風の必要な任務が複数追加された。
     

その他

  • かなり珍しいことだが、島風と同じく改造してもホロのままでレアリティが変化しない。
    • Sホロ→Sホロや桜ホロ→桜ホロを除けばこの2隻のみ。
  • 透けている。figmaやミディッチュでは、うっすらとパンツに「ゼカキユ」とプリントされていることも確認できる。

期間限定グラフィック

  • 2018年2月17日、冬イベント開始と同時に、【エンガノ岬決戦】差分modeが実装された。
    • 通常の立ち絵は他の限定グラフィック同様、冬イベント終了後に図鑑に格納されたものの、
      通例は併せて格納されるはずの、カード状態に加工されたイラスト及び中破立ち絵は何故か図鑑に格納されていない。

  • 2019/7/18のアップデートにて夏の季節限定グラフィックの水着modeが実装された。
    • スク水パーカーが大変気に入った様子。同時に実装された夏ボイスの1つによって心を奪われた提督は数知れず。

    限定イラスト:水着mode

    限定イラスト:水着mode

小ネタ

  • 艦隊決戦用に設計された陽炎型十九隻、ほぼ同型の朝潮型十隻、夕雲型の十九隻、合わせて四十八隻中、唯一隻終戦まで生き残った。
    ただ生き残っただけでなく、主要な海戦のほとんどに参加しつつ、毎回ほぼ無傷で帰還した異能生存体しかも大体は激戦のど真ん中に居たというからもう……。
    その幸運ぶりから「奇跡の駆逐艦」と呼ばれる。
  • 尤も「奇跡の駆逐艦」や「幸運艦」は戦後に付けられたあだ名で、戦時中は武運の意味合いが強い「強運艦」や「不死身の駆逐艦」、直ちに戦闘態勢に入れる初動の速さから「超機敏艦」と呼ばれていた。 『雪風、いつでも出撃できます!
    • 「幸運艦」の名は軍事評論家の伊藤正徳氏が「武運と言う軍艦としての形容詞ではなく、かえって好運(幸運)と言う平凡な表現の中に雪風の偉大さを求めたい」と、戦後に自らの著書を以って広めた。
  • 沖縄特攻で生き延びたり、呉空襲では係留されたまま米軍機を落としたり(この時機銃弾を撃ち過ぎて、後で上から怒られた)と、乗員の練度も凄まじい。
    ううん、奇跡じゃないですっ!』 ゲームでの台詞は乗員達の腕前を讃えているのかも。
  • 戦争中から 時雨と並ぶ海軍きっての武運艦として海軍で有名だった。ついたあだ名は呉の雪風、佐世保の時雨
    「雪風の武運に肖ろう」と言う噂が部隊の間で広まり、雪風の塗装をお守りに忍ばせようとする兵士が出没。勝手に雪風のスカートペンキを剥がしていってしまい、雪風乗員を困らせた。

    呉の雪風、佐世保の時雨のあだ名について

    呉の雪風、佐世保の時雨のあだ名について

    • 呉の雪風、佐世保の時雨 あるいは 時雨はのんべえ、雪風はすけべえのあだ名について。
    • 第二十七駆逐隊司令として時雨に乗艦した原為一大佐によれば、呉の雪風、佐世保の時雨は運の良い船に対するあだ名ではなく、
      駆逐艦の墓場と異名を取るほど駆逐艦の損失が多かったソロモンの戦いにおいて、共に武勲を争い、いつも必ず帰ってくる不死身の強い艦として士官や水兵の間で評判だった事からついたあだ名だったとある。
      • 別の証言によれば、元は先に沈むのは呉の雪風か?佐世保の時雨か?だったのが縮んだとされる。あまりに不死身すぎたため、とうとう「どちらが先に参るのか」と海軍の兵たちの間で盛り上がったと言う、当時の雪風と時雨を知るエピソードである。
    • 原為一大佐は、開戦当時は天津風の艦長として雪風の僚艦に、その後は第二十七駆逐隊司令として時雨に乗船し雪風のライバルに、そして戦争末期には矢矧の艦長となって雪風ら第十七駆逐隊を導くなど、大戦全般を通じて雪風と共に戦った人物である。
      そのため原大佐の回想記には度々雪風が登場し、時雨はのんべえ、雪風はすけべえの不名誉なあだ名がついた経緯も記されている って言うか名付け親は原大佐である
      • 当時は料亭の芸者の間でも「雪風と時雨の士官さんたちはのんべえですけべえ揃いだけど、感心な事にいつも生きて帰ってくる」と雪風と時雨の任務外まで元気不死身っぷりは評判だった。
        これを聞いた時雨艦長の山上少佐が「すけべえ揃いとはけしからん」と憤慨。すると原大佐が「のんべえが時雨ですけべえは雪風だよ」と、より人聞きの悪いあだ名を雪風に押し付けたのだった。 要するに雪風も時雨ものんべえですけべえなのである。
        • 尚、もうひとりの名付け親である時雨艦長の山上少佐は、この後雪風の艦長となる寺内中佐の同期で親友、かつ酒飲み仲間だった。
          山上少佐の姪にあたる女性は終戦後、雪風に乗って満州から日本へ帰国。その数年後、山上少佐ご夫婦の媒酌により雪風の元下士官と結婚している。 式場はのんべえとすけべえで溢れ返った事だろう。
  • 幸運を讃える声がある一方で、僚艦が次々大破、沈没する激戦でもピンピンしているのを気味悪がられることがあったとされる。
    夕暮(艦これ未登場)が沈んだ際は、敵の空襲を受ける前に各艦が個別回頭し、艦隊の右列先頭にいた雪風が左列先頭に、入れ替わりに夕暮が右列先頭となったため、当の雪風乗員で「雪風の身代わりになったんだ」と呟いた人がいたらしい。
    • …と言う話があるが、デマである。詳しくはこちら。本当は「清波もおらんじゃないか」と呟いていた。
      雪風乗員の日記に書かれていたこの発言を、ある作家が自著に引用したとき書き換えたと言うのが真相らしい。雪風の身代わりになったと呟いた人なんておらんじゃないか
      尚、この夜の戦時日誌に記録された艦隊配置、航路図、通信記録によると、回頭後の右列先頭は清波(艦これ未登場)、夕暮はその後続で空襲を受けたので、雪風と夕暮の位置の入れ替りもありませんでした。
  • この様に、気味悪がられたとされる根拠を調べてみるとデマや勘違いばかりであるため、味方に嫌われたと言う話は戦後の創作だとする見解もある。
    「奴が所属した部隊は奴一人を残し全滅する」、「奴は疫病神だ」と言う類のエピソードは有名なアメリカのTV番組「コンバット!」(1962年~1967年放映)でも使われたくらい昔からの定番ネタである。
     
  • 艦艇の性能的に考えれば雪風が島風と同能力値になっているのはおかしく見えるかもしれないが、決して運が高いことで発生したエピソードを反映しただけではない。
    その理由は生存していたことによる乗員の練度上昇と共に、幸運艦として有名になるにつれて次々に搭載されていった装備類にある。
    なんと最終的には、当時最新でまだ開発途中のソナー、対水上・対空レーダー二基、針山のような対空火器を装備というとんでもないカスタムが施されていたのだ。
    • 優先的に新装備が施されたのも、「間違いなく帰ってくるだろう。新装備が沈没で無駄にならない、実戦データを持って帰ってくれる」という期待があってのこと。それもあってか小さな駆逐艦の癖に砲撃成績は優秀だったとか。ナイショだよ。
      • 一方で、最新装備が設置されたのは戦争中盤までで、戦争末期になると雪風に最新装備は行き渡らなかったとする証言もある。
        戦争末期となった昭和20年2月に雪風に着任したある士官は、前任の一等駆逐艦(昭和19年6月就役)と比べると雪風の兵装や航海計器は旧式なものばかりで「初めて乗った時とんでもない艦だと思った」と語っている。
        しかしいざ出港すると何だか様子が違う。「雪風は歴戦の勇士揃いで皆練度が高い。ツーと言えばカーと答える阿吽の関係ができていて、これが生き残った理由かと感心した」とこの士官は述べている。
  • グラフィックを担当したしずまよしのり氏によると、雪風が物を見ることしかできず武装としては特に意味をなさないはずの双眼鏡を持っているのは、雪風が数多くの艦が沈むところを見てきたためらしい。
    雪風の双眼鏡には仲間の最期を看取った涙が溜まっているのだという。
    • もっとも、雪風自身に関して言えば「見る事しかできない」と言う解釈は史実と異なる。戦闘で沈んだ僚艦の乗員の救助活動は勿論のこと、太平洋上を駆け回った雪風は戦闘以外でも航行中に漂流者と遭遇する機会が多く、
      輸送船平洋丸や樽島丸の生存者、撃墜された海軍機「月光」のパイロット、果てはうっかり海に落ちた僚艦の乗員たちなど、雪風の双眼鏡は数々の救助活動において探索に役立ち多くの命を救った。
  • 尚、頭に載っているのは測距儀、頭の横にあるのは22電探、口元にあるのは伝声管である。電探が装備された頃、雪風で「電探から出る電波が水虫に効く」と言う噂が流れ、電探を囲んで座って水虫の脚をかざすのが流行ったそうな。
    艦娘の雪風がそれをやられてるシーンを想像してみると…。
     

艦歴

  • マル3計画仮称艦名第24号艦として佐世保工廠で1938年8月2日に起工、1939年1月24日に「雪風」と命名。1939年3月24日進水、1940年1月20日竣工。
  • 太平洋戦争開戦時は、初風天津風時津風と共に第十六駆逐隊に所属していた。後に浜風谷風磯風浦風が所属している第十七駆逐隊へ編入されている。
    • ゲーム中において、天津風や時津風、浜風、磯風、矢矧は雪風について言及する事があり、彼女への信頼を感じさせる。
    • 第十七駆逐隊への編入は初風と時津風の沈没、天津風の大破による第十六駆逐隊の解隊に伴う措置だが、雪風編入当時、第十七駆逐隊は開戦当時の艦が健在であったため、異例の5隻編成の駆逐隊となった。
  • 幾多の激戦をほぼ無傷で生還した・・・という華々しい戦果ばかり強調されがちだが、損傷が少ない故に、大きな戦闘の合間も休みなく護衛や輸送の任務をやり遂げた功績を忘れてはならない。
    戦争後期になると味方駆逐艦の残存数が少なくなった分、行く先々で仕事を任される様になり、空母護衛のなんて無茶まで経験する。
    あまりの激務に雪風がどこにいるのか同じ駆逐隊の僚艦たちはおろか軍司令部さえ掴めなくなってしまった。 ブラック鎮守府ってレベルじゃねーぞ
    冗談のような話だが歴とした事実で、雪風乗組みを命じられたある新兵が雪風を探して横須賀からシンガポール、台湾、呉と6ヶ月も渡り歩き、とうとう呉でデング熱に倒れて療養・・・してたら雪風が寄港したので着任できたと言うとんでもない逸話がある*7
  • 彼女の生涯については『雪風ハ沈マズ』(豊田穣著・光人社)という名作がある。全期間を最前線で活躍した雪風らしく多くの海戦や他艦のエピソードも豊富で、艦これファンなら読んで損はない。
  • あまりにもエピソードが多いため、もっと詳しく知りたい提督諸氏はwikipediaや関連する書籍などで各自調べていただきたい。有志が作成した雪風任務表もあるのでどうぞ。
    • 百数十回の任務に出撃し、うち100回が成功。失敗した任務は10回にも満たず。連合艦隊を代表する駆逐艦の双璧として呉の雪風、佐世保の時雨と謳われたのは伊達ではない。
      連合艦隊の数少ない生き残りである事から「負け戦が多かった」、「雪風は幸運でも一緒に行動した艦の被害が多い」という俗説が生まれてしまったが、実際は太平洋戦争全般を通じて、雪風自身は勿論、護衛した艦や共に出撃した部隊の被害が殆どない超優秀艦だった。
      艦隊をお守りします!
       

艦長と乗組員たち

初代(艤装員長) 田口正一大佐

初代(艤装員長) 田口正一大佐 1939年8月1日‐1940年11月15日

  • 雪風の艤装員長として着任し、彼女の誕生を見守った初代艦長。模範的な家長であったと言われる。
    • 太平洋戦争当時、魚雷の整備は週に1回やるのが普通で、3日に1回やる艦は仕事熱心と言われた。しかし雪風では毎日魚雷を整備しており、他の艦から異動してきた兵士は雪風乗組員のきめ細やかな整備風景に驚いたと証言している。
      これは田口艦長時代の躾がしっかり根付いていたからで、乗組員たちは雪風が日本を去り、中華民国へ譲る日まで雪風を大切に整備し続けた。
  • 駆逐艦は軍艦でないため、艦内神社を建てなければならない決まりは無かったが、雪風には田口艦長が伊勢神宮をお参りして頂いたお札を奉った雪風神社があった。
  • 田口艦長は雪風退艦後、初月の初代艦長などを歴任。呉軍港空襲の際は大淀の艦長として戦い、艦橋に直撃弾を食らいながら、大破横転する大淀から奇跡的に生還している。

2代目 脇田喜一郎中佐

2代目 脇田喜一郎中佐 1940年11月15日‐1941年7月25日

  • 就任期間は開戦前の約9か月間。雪風歴代艦長の中で唯一の戦死者である。
  • 雪風を退艦後、第四十一駆逐隊司令に就任するが、1944年11月25日、搭乗していた霜月(艦これ未登場・秋月型7番艦)が米潜水艦カヴァラの魚雷を受け沈没。脇田司令も霜月と運命を共にした。
    • 偶に「雪風歴代艦長は全員戦争を生き延びた」との意見があるが、これは初代艦長の田口少佐が戦後の回想録で「雪風の艦長で水を飲んだ(艦が沈んだ)人はいない」と勘違いしたものが広まってしまったと思われる。
    • 「聯合艦隊軍艦銘銘伝」の雪風の項には「戦中5代替った艦長が皆健在」という旨の記述がある。あくまでも戦中の雪風艦長を指しているのだが、これが誤解を広げる結果となってしまった。
  • 第16駆逐隊の上陸訓練が真夜中に行われた時、僚艦の内火艇が航路を間違えてしまい訓練は失敗。
    監督していた16駆逐隊司令・島崎利雄大佐は酷く怒り、この内火艇の担当士官を当時タブー視されていた統帥権に触れてネチネチと叱り続けた。
    この時司令を遮ったのが雪風の脇田艦長。目に涙を溜めながら「出てけ!」と島崎大佐に怒鳴ったのだった。脇田艦長の就任期間が短かったのはこのせいではない、だろう
  • 雪風の人情艦長と言えば後任の飛田中佐だが、その飛田艦長によれば「脇田艦長無くして雪風は無かった」。

3代目 飛田健二郎中佐

3代目 飛田健二郎中佐 1941年7月25日‐1942年6月23日

  • 太平洋戦争開戦時の艦長。雪風の"和"の艦風の形成に大きく貢献した人物。
    強気でユーモラスな薩摩隼人で、宴会では三等水兵とも肩を組み共に酒を飲んだと伝えられる。
    • コンビのエピソードに隠れてしまい語られる事は少ないが、雪風もスラバヤ沖海戦で飛田艦長の指揮の元、De Ruyterの生存者など漂流中の敵軍兵士40名を救助している。
  • 「超機敏艦」と称された雪風伝説も飛田艦長が魁である。タバオ港がB-17爆撃機の空襲を受けた際、雪風は修理中であったにも拘らず素早く発進して難を逃れたが、これは飛田艦長が空襲を予見して缶の圧力を上げるよう命令していたお陰である。
    この迅速さと用心深さは雪風最後の戦いとなる宮津湾空襲まで継承されている*8
  • 「上陸用意ッ!要所要所をよく洗っておけ!」と号令をかけ、小沢冶三郎中将に「そんな号令は海軍に無いぞ」とツッコまれた事がある。 雪風はすけべえ。
  • 口癖は『うんにょー』。「いいや」「違う」を意味する鹿児島弁『うんにゃ』が更に訛ったもの、らしい。改二だろうか?うんにょー!

4代目 菅間良吉中佐

4代目 菅間良吉中佐 1942年6月23日‐1943年12月10日

  • 雪風が「駆逐艦の墓場」と呼ばれたソロモン方面で戦った期間、幾つもの名だたる激戦の中で艦と部下を生き残らせた名艦長。
    物静かな性格にポーカーフェイス、女性的な雰囲気を帯びた容姿など、飛田艦長、寺内艦長らと対照的な線の細いイメージだが、奥に秘めた芯の強さ、名人の域とまで称された操艦技術は他の歴代艦長に引けを取らない。
    • 強運人としても評判で、「私が乗っている限り雪風は沈まん」と豪語。乗艦は絶対に沈まないと言う強固な信念の持ち主で、事実、前任艦の磯波は彼が任期にある間、弾が向こうから逸れる様な幸運に恵まれている。
  • ある著書では「陰険さを感じさせる」などと書かれてしまっているが、その実態は上陸許可が出ると陸の料亭に飛んで行き、招集があるまで帰ってこない程の遊び好き。ただし酒癖は悪かったらしい。
    部下たちは「たまの休みくらいゆっくりして下さいね」との願いを込め、在艦を示す「菅間良吉」の名札を「菅間不良吉」と落書きし、後に続いて遊びに行ったと言う。 雪風はすけべえ。
  • そんな菅間艦長も激務の末に体を壊し、遂に雪風を去る事になった時、幸運艦雪風を語る上で忘れられないエピソードを残している。
    「操艦の名人に去られてこれからの戦いは大丈夫か」と不安になった部下たちを思い遣り、自負していた強運人の看板を降ろして激励の言葉を贈った。
    「嘗て私は運がいい男だと大見得を切ったが間違いだった。武運の神に守られているのは雪風だ。私が去っても雪風は沈まない。雪風に神宿る―『雪風に神宿る』だ。」

5代目 寺内正道中佐

5代目 寺内正道中佐 1943年12月10日‐1945年5月10日

  • 彼女の歴代艦長の中でもっとも有名。斗酒なお辞せぬ酒豪で、でっぷり太った体躯に炯々たるギョロ目。ピンと張った八の字ヒゲがトレードマークの通称おヒゲの艦長。細事にこだわらない豪快な人物であった。
    その操艦技術は卓越しており、対空戦闘では『艦橋の天蓋から鉄兜もかぶらず身を乗り出し、三角定規で爆撃を読みつつ航海長の肩を蹴って操艦した』というエピソードが残る。
    ちなみに『三角定規』は、当時の先任将校兼水雷長の斎藤国二郎大尉曰く「そういう形をした対空用観測器があった」とのこと。
    • 雪風乗員すら「いかにも寺内艦長らしく愉快だけど、戦闘中に突拍子もない行動をとる人では・・・」と話したこの逸話、寺内艦長自身が証言を残しており、紛れもない実話である*9
      乗員たちは艦長を「雪風の守護神」として非常に信頼しており、あの大和特攻の際も、古参下士官の中には「うちの艦長は操艦日本一だ、任せておけば間違いない」と微笑している者すらいたという。
  • 寺内艦長は「わしが乗っている限り雪風は沈まん」と豪語。乗艦は絶対に沈まないという強固な信念の持ち主で、事実、前任艦のは彼が任期にある間、弾が向こうから逸れるような幸運に恵まれ、幾多の激戦をほぼ無傷で乗り切っている・・・う、うん?この話どこかで聞いた様な?
    その自信は、大和特攻にあたっても、他艦のように乗員たちに遺書を書かせたり遺髪を集めたりせず、参加艦お揃いの特攻の象徴、菊水の紋章を入れさせなかったところにも現れている。
    • 寺内艦長は兵学校を下から数えたほうが早い成績(海軍兵学校55期生卒業成績120人中119番)で出ていたため、「生還のコツ」を聞きに行った同期の訪問にたいそう喜んだそうな。
  • 豊田穣氏の著書「雪風ハ沈マズ」で、寺内艦長が雪風を退艦する理由に「痔を患っていたらしい」とあるが、正しくは持病である。寺内艦長の退艦を見送った士官や兵は皆「持病が悪化した」と証言しているのだが、著者はを間違ったらしい。
  • 5代目艦長の子息・寺内正義氏は某公共放送の元解説委員(現在は退職して国際ジャーナリスト)。イスラム圏の専門家なので、その類の事件等があった時に「視点・論点」等の報道解説番組に登場していた。
    現役の記者のときにはベトナム、イラン、イラク、レバノンなどの戦地に何度も取材に行っていたが、その時は、雪風元乗員の会が作った雪風の名の入ったタオルを小さく切って常に身に着けていたという。
    無傷で帰ってこられたのは雪風の幸運のおかげかも、と回想している。

6代目 古要桂次中佐

6代目 古要桂次中佐 1945年5月10日‐1945年11月20日

  • それまで春風艦長などを歴任。終戦時の雪風艦長。雪風にとっての最後の戦闘となる宮津湾空襲で指揮を執った。
  • 古要艦長が就任した頃は訓練で出撃させるだけの燃料も無く、宮津湾空襲は彼にとっていきなりの雪風における実戦指揮となった。
    後述の通り、絶体絶命に近い不利な状況で10時間近く敵の空襲を凌ぎ切り、艦と乗員を生き残らせた。
    • 古要艦長は戦後「ここまで生き残った艦を沈ませてはならないと必死だった」と振り返っている。

7代目 橋本以行中佐

7代目 橋本以行中佐 1945年11月20日‐1945年11月27日

  • 元潜水艦伊58艦長。伊58艦長時代に米重巡洋艦インディアナポリスを撃沈した経歴を持つ。詳しくは伊58の記事を参照。
    • 戦後、雪風艦長を命じられたが、発令翌日にインディアナポリス撃沈の証人として出頭を求められてしまい、着任できなくなってしまった。
      雪風関連の書籍では、橋本中佐が「実際に着任していないので・・・」と遠慮しているため、歴代艦長の一覧に掲載されていない事がある。

8代目 佐藤精七少佐

8代目 佐藤精七少佐 1945年11月27日‐1946年10月26日

  • 復員輸送艦時代の雪風で艦長を務めた。変わった形で雪風の幸運に恵まれた人物である。
  • 終戦後、酒匂で副長代理を務めていた佐藤少佐は、ある下士官が「副長代理が毎日のように陸に上がっては軍需物資の横流しをしている」と虚偽の噂を流したため、突然予備役を命じられ解任されてしまう。
    あらぬ噂により追放同然の処分を受けた佐藤少佐だったが、丁度その頃、橋本中佐が雪風艦長に着任できなくなったため、急ぎ代わりの将官を探さなければならなくなり、酒匂退艦が決定した佐藤少佐の任命が検討された。
    これを境に佐藤少佐の日常は好転する。なんと噂を流した下士官が名乗り出たのだ。「規律に厳しい副長を追っ払いたくて噂を流したが、目的を達成できたからには真実を話しお詫びします」と言う。
    降って沸いたような幸運の展開で佐藤少佐の濡れ衣は晴れた。予備役も取り消された事で彼は栄転と言う形で雪風の第8代艦長に着任している。
    • 佐藤艦長就任の話には続きがある。酒匂での噂は雪風乗員の間にも伝わっており、佐藤艦長は雪風に着任すると複数の乗員から噂の真偽を問われる事となった。
      「艦長艦長、陸に毎日遊びに出かける馴染みの飲み屋があるそうですね?」「その店に親しくしてる美女がいると聞いてますが、紹介してください!」
      不名誉な横流しの噂がどうしてそんな楽しい話になってるかッ!?」 雪風はすけべえ
      わざわざ噂の店に乗員を連れて行く羽目になった佐藤艦長(ひでぇ・・・)。確かに女はいた。「噂が本当なら俺も大したものだ」と内心期待するほどの美人だったが、幸運にも濡れ衣は晴れてしまった。
  • その後の雪風艦長時代の勤務については「あまり苦労したことがないので、今記事を書くのに苦労している」(雪風乗員の手記より)

9代目 高田敏夫復員事務官

9代目 高田敏夫復員事務官(戦時中の最終階級は少佐) 1946年10月26日 - 1947年1月25日

  • 駆逐艦初雪陽炎、軽巡能代で勤務したベテラン海将。陽炎と能代では沈没時も乗艦しており、その最期を看取っている。
  • その後、海上自衛隊に編入された唯一の旧日本海軍駆逐艦である橘級駆逐艦10番艦梨*10(艦これ未実装)において艦長に就任した。
    当時の部下に、戦後、海上自衛官、統合幕僚会議事務局長などを歴任した左近允尚敏氏(梨所属時は航海長)がおり、彼の回想録には梨艦長時代の高田少佐の姿が描かれている。
    • 左近允氏曰く「相当なサムライ」だった高田少佐は、直属上司である(13年も先輩の)駆逐隊司令*11ともしばしば衝突し、左近允氏ら部下を何度もハラハラさせたと言う。
      「高田艦長と司令は以前同じ部隊にいて、その時からソリが会わなかったそうである。
       戦闘前は艦を動かせ、いや停泊したままの方が良いで揉め、梨が沈没する間際も総員退去だ、いやまだ早いで揉め、
       泳いで上陸した後も乗員をあっちに収容しよう、いやこっちだで揉めたのだから、徹底していたと言うべきか」(左近允氏談)

10代目 東日出夫復員事務官

10代目 東日出夫復員事務官(戦時中の最終階級は中佐) 1947年4月 - 1947年7月6日

  • 叢雲及び親潮艦長を歴任。花月(未実装)の初代艦長として坊ノ岬沖海戦にも名目上参加している。
    日本海軍きっての操艦の名手として知られた。ここまで歴代艦長を見れば分かる通り、戦中から戦後引き渡しに至るまで、艦長に歴代いずれも最高クラスの操艦の名手が揃っているのが雪風の特色であった。
  • 雪風引き渡し時の艦長であり、駆逐艦「雪風」の最後の艦長となった。
 
  • 雪風で戦った兵たちは、厳しい訓練で培った技術や新しい戦術によって生還したのに、「単に運がいいだけだ」と見られるのが嫌だったとか。
    • 雪風の乗員の練度の高さを伝えるエピソードとしては、戦闘時の被弾を想定した応急処置訓練に関する冬月(艦これ未登場)の士官の証言がある。
      訓練ではいつも雪風が群を抜いて早く、しかも精確な処置ができていた」 戦闘で中々損傷しないからって、日々の訓練を怠っていたわけじゃないのですよ?
  • 被弾損傷や人的損耗も少なかったもののゼロというわけではなく、終戦までに乗員9名が戦死。一般にはこの「9名戦死」が広く伝わっているが元乗組員達により出版された手記によれば13名戦死とある。
    仮泊中に行方不明となった兵(艦から落下した形跡があり溺者となったと考えられた)達も含めての死者の数であり、「戦闘中の死亡でなくても彼らを忘れないでやって欲しい」との元同僚達の願いが込められている。
  • 自称ではあるが、村上水軍の末裔を名乗る兵も雪風に乗っていた。
    マリアナ沖海戦やレイテ沖海戦で機関長を務めた竹崎大尉で、「不惜身命但惜身命」(「必要であれば身命を惜しむな。だがそのためにも命がけで身命を惜しめ」の意味)の家訓を日課として機関科の部下に語った。
    竹崎大尉が退艦した後もこの「不惜身命但惜身命」が雪風機関室における心得として残されたと言う。
  • 大和の特攻に同行した第十七駆逐隊の軍医長で、元海軍軍医大尉の佛坂泰治氏は、復員後故郷の佐賀県で町医者として開業、2010年には地域密着医療に貢献した医師に贈られる賞を受賞。2019年9月に99歳で逝去された。NHKのデジタルアーカイブス でインタビューを見ることができる。
  • 同じく大和特攻時の砲術長だった田口大尉は雪風では珍しくツイてない人だった。元は榛名の砲術士で、雪風に異動後「駆逐艦乗りは何でもこなさなきゃならん」と航海長を任されたが、
    マリアナ沖海戦前に触礁してスクリューを破損、レイテ沖海戦では出航後にターボ発電機が故障、ヒ87船団護衛では機関部が故障するなど、田口大尉が舵を握ると何故か雪風はご機嫌ナナメになる事が多かった。 『あの、雪風に何か、ごよおでしょうか
    田口大尉は戦後、海上自衛隊に勤務し、護衛艦あまつかぜの艦長になるなど活躍した。
     

太平洋戦争における雪風

開戦

  • 太平洋戦争開戦時の雪風は華の二水戦に所属。第十六駆逐隊の姉妹たちと共に南方に出撃した。日本海軍の初の水雷戦となったスラバヤ沖海戦や、ニューギニア方面攻略作戦で活躍。
    • ニューギニア方面攻略作戦の一環であるマノクワリ攻略戦(昭和17.4.12)では遅刻した陸軍に代わって時津風と共に上陸作戦を決行、マノクワリを占領すると言う働きまでしている。
       

南方方面戦域―アイアンボトム・サウンドにおける戦い

  • ミッドウェー海戦後、二水戦から十戦隊に異動となると、機動部隊の護衛任務や南方海域での輸送作戦に従事。
    駆逐艦の墓場と呼ばれるほど日米両軍の駆逐艦が多く損失した海域で、殆ど損害らしい損害を受けずに戦い続けた事から呉の雪風と称される様になる。
     
  • 南太平洋海戦(昭和17.10.21~26)では空母瑞鶴を護衛。幸運艦2隻が揃った効果か戦闘開始と共にスコールが発生して瑞鶴の方に敵がやってこないと言う事態になった。
    • 戦闘に勝利した後、瑞鶴と共に戦場に残って帰還した味方艦載機の回収作業を行い、海に着水した多くの味方パイロットを救出した。
      実は南太平洋海戦の2ヶ月前、第十六駆逐隊の中で雪風だけ内地で飛鷹の着艦訓練(所謂「トンボ釣り」)に付き合っていたため、海に落ちた兵の救助に慣れていたと言う巡り合わせがあった。 これも幸運艦ゆえか・・・。
    • 瑞鶴を護衛した功績により山本五十六長官から感状を渡されている。『艦隊をお守りします!』 ・・・が、「トンボ釣りでたくさん味方を助けたんで五十六さんに表彰された」と回想する元乗員もいたりする。『兵隊さんもお守りします!
       
  • ガタルカナル島の米軍飛行場砲撃作戦に端を発して勃発した第三次ソロモン海戦(昭和17.11.12~13)には僚艦天津風と共に参加。
    近代海戦史で例を見ない夜間の近距離砲撃戦となったこの海戦で、雪風は比叡長良夕立らと共に敵巡洋艦、駆逐艦数隻を攻撃し、撃沈に至らしめた(共同戦果)。
    • 戦闘後は行動不能となった比叡を護衛した。奮戦空しく、残念ながら比叡を失う事となったが、西田艦長始め多くの乗員の救助を雪風は行った。

    開戦以来最大のピンチに・・・

    開戦以来最大のピンチに・・・

    • 雪風はこの海戦で味方からの誤射*12を受け破損。また艦橋に飛び込んだ機銃弾によって初の戦死者を出してしまう。
    • 戦闘後、雪風は時雨白露、夕暮(艦これ未実装)、照月らと共に、艦上構造物と舵を破壊され、航行不能の状態になった比叡の救助に向かう。
      最も早く比叡の元に到着し *13、約1時間ただ1隻で米軍機の空襲から比叡を守りながら安全な海域への誘導を試みた。
      時雨たちが護衛に加わった時、比叡から戦隊司令官の阿部中将が雪風に移乗したが、小さな雪風に中将旗を掲げたため、敵の攻撃を引き付ける事になったと言う。
      • 雪風は敵機の機銃掃射によって幾つも破口し浸水が生じた。探照灯や二番砲塔も被害を受けた。至近弾によりタービンカバーに亀裂が入って出力が低下し、至近弾の破片で白戸水雷長他数名の負傷者が出るなど開戦以来最大のピンチに陥った。
      • 護衛の甲斐なく、比叡は自沈処理となった。一部著書では雪風が比叡を雷撃処分したとされるが、雪風側乗員の回想や共に護衛していた照月の乗員の証言、戦闘詳報の記録にある通り雷撃処分は中止されている。
      • 雪風は比叡の生存者を収容した後、注水弁を開放しゆっくりと沈んでいく比叡を後に戦闘海域を離脱。退避してゆく雪風らを仕留めようと、雷撃機を含む米軍の大編隊70機が彼女たちの前に現れる。
        今まさに敵の攻撃が開始されようとした時にスコールが接近。好運艦・雪風は時雨、照月ら護衛駆逐隊と共に豪雨の中に逃げ込み九死に一生を得ている。
        • 夜間、確認のため戦闘海域に戻った雪風だが、既に比叡の姿はなく、その最期を看取る事は出来なかった。
    • トラック泊地に戻る航海中、雪風艦上で、初の戦死者となった加藤水兵長*14と、収容後に息を引き取った比叡の乗員3名の水葬が行われた。
      雪風工作科の兵は白木の棺を作り、砲弾を錘代わりにして戦友たちを海に鎮めたとある。

    吉田俊雄著「戦艦比叡」、相良俊輔著「怒りの海」での雪風に関する記述について。

    吉田俊雄著「戦艦比叡」、相良俊輔著「怒りの海」での雪風に関する記述について。

    • 雪風による比叡雷撃処分を描いた有名な著書として吉田俊雄の「戦艦比叡」と、相良俊輔の「怒りの海」が挙げられるが、これらには以下の顛末や矛盾点がある。
      尚、吉田氏も相良氏も第3次ソロモン海戦の現場にはいなかった。
      • 吉田氏は「戦艦比叡」を記した頃は西田艦長による注水弁開放の命令が実行されたのかについて確認が取れていなかった(「戦艦比叡」のあとがきで吉田氏がその旨を記している)。
        比叡が空襲の際に受けた魚雷の内数本が不発であったため、吉田氏は戦艦が沈むには艦内に入り込んだ海水の量が少ないと考え、駆逐艦による雷撃が行われたと推測。
        これが雪風による雷撃処分実行説に繋がったらしい・・・ただしその場に5隻いた駆逐艦の中で雪風が行ったと判断した理由は不明。
        • 後に作家の豊田穣氏が注水弁開放の任務を実行した兵を探し出すと、吉田氏は「比叡は艦内注水による自沈」と見解を改めた。
      • 相良俊輔の「怒りの海」では、雪風に移乗した阿部中将が雪風の水雷長に直接命令して魚雷を発射させる場面が描かれているが、これは創作である。
        雪風が比叡を守って米軍機と対空戦闘を行った際、白戸水雷長は頭部に重傷を負い *15、この時は命令など受けられない状況だった。
        白戸水雷長はこの傷が快癒せず戦後まもなく逝去し、言わば比叡を守るため命を落とした事になるが、相良氏により比叡処分の実行犯に仕立て上げられ、徒花となってしまった。
     
  • 20隻の駆逐艦隊による大規模な撤退作戦であるガタルカナル島撤退作戦(昭和18.1.28~2.7)にも雪風は参加。
    • 最終日の作戦決行前、海軍司令部は駆逐艦の出撃を渋り、大発艇による脱出作戦に切り替えようとした*16
      この時駆逐艦による作戦を継続させる切欠となったのは「予定通り駆逐艦で作戦を行うべき」と意見具申した雪風の菅間艦長と浜風の上井艦長だったとされる。
      作戦に参加した全駆逐艦の艦長も二人に続いて出撃を名乗り出て、駆逐艦による撤収作戦の決行となった(この後、陸軍側を説得する経緯は白雪の記事を参照)。
      それまでの作戦で実際に救助した日本兵のやせ細った姿を目の当たりにした駆逐艦の乗組員たちは「何としてもガタルカナル島の仲間たちを救ってやる」と言う気持ちになっていた。
    • この作戦は雪風ら参加駆逐艦の将兵にも極秘で計画され(ガタルカナル島への輸送任務と告げられていた)、撤退作戦であると明かされたのも彼らがラバウルに集結した作戦決行4日前と言う慌ただしさだった。
      徹底した情報の隠蔽と、突然の任務変更にも対応した駆逐艦各艦の能力、作戦に従事した陸軍将兵らの決死行によって撤退作戦は成功し、司令部の事前予想より少ない被害で1万人の日本兵の救出に成功した。
      • アメリカ軍総司令官のニミッツ元帥はこの撤退作戦をmagnificent performance(見事なお手並み!)と賞賛し、モリソン戦史も「有史未曾有の見事なる撤退戦」と記している。
         
  • 雪風と常に行動を供にしていたすぐ下の妹の時津風親方ビスマルク海海戦(昭和18.3.2~3.4)において失う。
    低速の輸送船で2日以上かかる敵の制空権下の航路を、昼夜を問わず堂々と突破セヨと言う無茶苦茶な作戦により8隻の輸送船団が全滅。日本海軍は時津風と共に白雪朝潮荒潮も失った。

    恨みは深し ダンピール

    恨みは深し ダンピール

    • ビスマルク海海戦。通称ダンピールの悲劇
      参加艦隊の参謀が「全滅するからやめてくれ」と願い出たのを作戦司令部は「全滅覚悟で行け」と突っぱねたとか。創作の疑いはあるものの、事実であってもおかしくない。
      輸送船団内では、任務逃れの仮病ではなく本当に発狂する者が出ていた
      • 雪風では同乗していた陸軍兵や軍属らを「雪風は不沈艦です。安心して下さい」と元気づけたと言う。
        3月2日の戦闘で輸送船旭盛丸が沈められると、その生存者を救助した雪風は朝雲と共に一旦船団を離れて目的地のラエへ急行。約束通り、乗せていた陸軍兵たちを全員目的地へ送り届けた。
      • しかし翌日、それを自慢できない程の悲惨な戦いを輸送船団に復帰した雪風たちは味わう事になる。
        いよいよ味方航空部隊の護衛が僅かになった海域で敵の爆撃機の大軍に襲われ、反跳爆撃と言う、命中効率を向上させた最新の爆撃方法によって残った輸送船7隻と護衛の駆逐艦8隻中4隻を沈められる。
        陸軍、海軍あわせた犠牲者数は3,600名以上。特に陸軍第51師団は戦力の殆どを失う大惨事となった*17
        • 雪風は戦闘で沈んだ妹、時津風の乗組員ほぼ全員を救助した後、一旦戦場を離脱。
          救援に駆け付けた初雪に救助者を移して燃料を補給すると、深夜、12隻の仲間たちが沈められた戦場に舞い戻り、漂流中の荒潮を発見して生存者を救助した*18
      • 「ビスマルク海海戦」は完勝したアメリカが付けた名称。日本側はあまりに被害が甚大過ぎてこの戦闘に名称を付ける事ができなかった。
        そのせいもあって味方にこの惨敗は伝わっておらず、当時飛鷹航空部隊のパイロットで後に作家となる豊田穣氏は「アメリカの捕虜になった時、戦果を報道しているのを見て知った」と言う有様だった。
        日本にはダンピールの悲劇の異名と、帰還した雪風乗組員の「こんなみじめな惨敗の姿で戻ってくるなんて・・・」の悲痛な手記が残る。

    電撃萌王「艦隊バトルメモリアル」のビスマルク海海戦について。

    電撃萌王「艦隊バトルメモリアル」のビスマルク海海戦について。

    • 電撃萌王で連載中の「艦隊バトルメモリアル」において、ビスマルク海海戦の雪風について次のような記述がある。

      船団の中でも無傷なのは『雪風』と『朝雲』だけでした。ラエから戻ってきて船団に合流した『雪風』は横に輸送船を置かない戦列の位置にあった為に敵機の襲撃が他の駆逐艦に対して少なかったのです。
      また、先にラエに入港して陸兵を降ろしていたために、船内の混雑が解消されて対空戦闘に支障をきたさなかった―そんな幸運ぶりを『雪風』は発揮したのです。

      かなり悪質なデマである
      3月3日、敵機の襲撃を受けた時の艦隊の配置はこうで、雪風も他の駆逐艦と同様、輸送船の横にあり、安全な位置にいたなどと言う事実はない。
      まるで、邪魔な救助者がいなかったのは自分たちの身を護る事に専念できて幸運だったとでも言わんばかりの記述だが、実際の雪風は時津風や輸送船の生存者を救助しながら対空戦闘を行っていた。
      • また雪風と朝雲が先にラエに入港した話についても「先にラエに入港して兵を降ろせたのはラッキー」とは言いがかりも甚だしい。
        この2隻は自分たちが運んでいた陸軍兵30名(150名とも)に加え、2日の空襲で沈没した旭盛丸から救助した陸兵920名を分乗させた満員の状態で、敵の制空権下の海域を突破してラエへ辿り着き、また戻ってきたのである。
    • この回のバトルメモリアルには次のような記述がある。

      ですがこの戦訓も省みられる事なく、この後もあちこちの海上で日本輸送船団の無残な壊滅が繰り返されました。

      当時の記録を雪風の幸運エピソードに脚色し、過去を正しく伝える事を放棄した著者が言えた話だろうか?
     
  • コロンバンガラ島への輸送任務中勃発したコロンバンガラ島沖海戦(昭和18.7.12~7.13)で、雪風は開戦前からの縁故の神通を失うも、戦力、火力ともに勝る連合軍艦隊に逆転勝利を収める。
    この戦いの詳細と神通の奮戦ぶりについては 神通の記事を参照。
    • 日本の輸送船団は出港直後に連合軍の地上偵察部隊に発見され、最新のレーダーを搭載した艦隊と夜間偵察機に待ち伏せされると言う絶体絶命の戦いだった。
      雪風は新たに搭載した逆探で敵のレーダー波を察知し待ち伏せを見破った*19。神通を失った後は雪風が駆逐艦隊を統率して反撃する。
      次発装填装置により魚雷の再装填を完了させると、スコールを利用して絶好のポジションまで敵艦隊に近づき雷撃を指示。旗艦Honolulu含む軽巡洋艦2隻と駆逐艦2隻を大破、駆逐艦1隻を撃沈する戦果を上げ、輸送任務の成功に貢献している。
       

本土防衛戦と大戦の終わり

  • 日米機動部隊最後の決戦となったマリアナ沖海戦(昭和19.6.19~20)は、触礁によってスクリューを破損していたため本隊から外され、後方で補給部隊の護衛として参加した。
    • 海戦初日の夜、本隊の補給のため雪風ら補給部隊は前線に進出を命じられる。しかし翌日、本隊に合流したのも束の間、敵襲の警報を受けた本隊は低速の補給部隊を置いて撤退。
      雪風は全速力を発揮できないから後方に回されたのに、最前線で戦う事になってしまった
      • 補給部隊が空襲を受けた際、雪風は探照灯」で米軍機搭乗員の目をくらませ3機を撃墜するという世にも珍しい迎撃を行い奮戦。 公式4コマ35話でもネタにされている。
        残念ながら被害を受けた油槽船一隻を雪風が雷撃処分する事となってしまったが、 これだけの窮地の中、補給部隊8隻の内、損失を2隻(内1隻は至近弾による機関損傷が原因の自沈処理で、戦死者はゼロだった)に止めたのは見事とも言える。
         
  • マリアナ沖海戦後、スクリューの修理のため一足先に帰国の途に着いた雪風は、台湾沖で米潜水艦により沈められた陸軍輸送船の乗組員が筏で漂流している所に偶然通りかかり
    飢えと乾きに苦しんでいた80名の生存者を救助するという幸運艦ならではの働きをしている。
     
  • レイテ沖海戦(昭和19.10.23~26)には、矢矧率いる第十戦隊の第十七駆逐隊に所属して第二艦隊(栗田艦隊)第一遊撃部隊第二部隊の護衛として参加。
    出力が低いディーゼル発電機のみで4日間に亘る戦闘を唯一無傷で生き延びた事や、無抵抗の敵艦を撃たず敬礼を持って見送った事など、多くのエピソードを残した。

    史上最大の海戦において

    史上最大の海戦において

    • 雪風は艦隊と共にブルネイを出港した直後、主機関のターボ発電機が故障*20。出力が低いディーゼル発電機で凌ぐ事にしたがマリアナ沖海戦に続いて全力発揮ができなくなってしまう。
      しかし乗員たちはそれでも『絶対、大丈夫!』と思っていた。寺内艦長は敵が攻撃してきた時だけ「上げるぞッ!」「超えるぞぉッ!」と前進一杯、限界を超える最大出力を出させ、敵が去るとすぐ中速に戻すという操艦で発電機の出力不足をカバー。
      機関科兵はメンテナンス間隔が短いディーゼル発電機のオーバーホールを戦闘の合間に行う離れ業をやってのけ、4日間に亘るレイテ沖海戦(母港出港から帰還までは7日)を乗り切った。
      • 母港に帰還後、「ディーゼルだけで戦い抜いた?そんな馬鹿な」と驚いた連合艦隊司令部の将官が雪風の調査に訪れている。
        • 雪風の長所として艦内のコミュニケーションが良く取れていた事があげられる。
          縦割り社会の軍隊においても、雪風は飛田艦長の時代から家族的な艦風ができており、戦闘部門の兵科と主計科、機関科の間などで軋轢が無かったと言われる。
      • なお、上記の運転は発電機をいたわることのみならず、超長距離作戦における燃料節約という意味もあった。
        事実、レイテ沖海戦の帰り道では、いつもと同じ調子で戦闘航海をした各駆逐艦が軒並み燃料欠乏に陥っており、旗艦へ口々に「残燃料アト○○」と悲鳴を上げ、コロン湾あたりで給油する羽目になっている。
        ところが雪風だけは涼しい顔でコロン湾を通り過ぎ、それどころかフィリピン諸島自体をも越え、ボルネオに着くまでついに無給油であった。
        雪風の操艦特性を完全につかみきった艦長、その艦長からの急激な回転数増減のオーダーへ即座に応えてみせる機関科員の練度、その双方があいまった結果の超エコ運転であった。
    • シブヤン海海戦(昭和19.10.24)で武蔵が沈没。大和型三姉妹の大和と信濃(艦これ未登場)の最後の戦いで護衛を務めた影響か、「雪風は武蔵の沈没時も護衛だった」と勘違いしている人を頻繁に見かけるが、
      その時は別のの護衛だったから風評被害を広めちゃダメよ? 電撃アンソロジーまでやらかしたのは救いようがない
      • 雪風は敵機が榛名を狙って飛んでくると、その間にガンガン割り込み迎撃。敵の攻撃が第一部隊の武蔵に集中した事もあるが、五波に亘るこの日の空襲では第二部隊の主力である金剛、榛名に被害を与えず無事守り切っている。
    • サマール沖海戦(昭和19.10.25)では矢矧、十七駆の僚艦らと共に米護衛空母隊を雷撃。距離1万m以上からの魚雷攻撃は残念ながら命中しなかった。
      しかし矢矧や雪風たち十七駆の乗員達は魚雷が炸裂している大水柱を目撃しており、撃沈確実として戦闘詳報に図まで添付して報告いる。
      実は各艦の水雷科員たちが「乾坤一擲の作戦で万一にも不発がないように」と信管を過敏に調整したため、かえって波の衝撃で自爆してしまったものと考えられている。
      結果的に誤認の過大な戦果報告となってしまったのだった。
      またこの時、空母護衛のため肉薄してきたジョンストンサミュエル・B・ロバーツら米駆逐艦と死闘を繰り広げ、僚艦らと共同で一隻を沈没に至らしめている。
      • 栗田艦隊司令部から米空母部隊の追撃を中止し集合せよとの命令が下された時、寺内艦長は早計だと激憤。
        艦橋を飛び出し、「雪風一隻だけでも再度雷撃するぞ!」と逃げる米空母部隊を艦首まで走って追いかけたと言うエピソードが残っている。
    • 米駆逐艦ジョンストンとの間に雪風を代表するエピソードがある。
      艦隊司令部から集合命令が下った後、沈みゆくジョンストンの側を通りかかった雪風は、彼らを傷つけることなく、敬礼を持って見送った。
      ジョンストンのアーネスト・E・エヴァンス艦長(この後まもなく死亡している)も朦朧としつつ敬礼で答えたと、戦後にジョンストンの元乗組員らがアメリカの公刊史で語っている。
      • アメリカで出版されているレイテ沖海戦を取り上げた書籍でもこの逸話は書かれています。
         
        ―トーマス・J・カトラー*21著 “The Battle of Leyte Gulf”より抜粋 ―

        ジョンストンの生存者が自分たちの船がゆっくり沈んでいくのを見ていた時、日本の駆逐艦がやってきた。
        彼らの多くは機銃掃射を恐れてライフジャケットを外し潜った。一部の者は爆雷投下を恐れて上を向いて横になった。
        残りの者は恐怖の目で急速に近づく駆逐艦を見つめていた。

        しかしその駆逐艦は機銃掃射も爆雷投下もしなかった。
        駆逐艦の乗員の何人かは食べ物の缶詰を敵である無力なジョンストンの乗員に投げてやった。
        そして彼らは生涯忘れられない光景を目にした。
        駆逐艦の士官の一人が、ついさっきまで仇敵だったジョンストンが沈むのをじっと見ていたが、姿を消した時右手を帽子のひさしにあてた。
        敬礼したのだった。

      • ジョンストン側は気づかなかったが、雪風では戦闘継続中と思った機銃手が発砲し寺内艦長に怒られた経緯はある。
        もっとも狙いをつけるため試し撃ちした時に怒鳴られたため、ジョンストンの生存者に当たらずに済んでいる。
        この元機銃手の方はご健在であり、当時の気持ちや、後で「当てなくて良かった」と感じた事を回想している。
    • 出撃時は39隻いた第一遊撃部隊(栗田、西村両部隊含む)も28日にブルネイに帰着時は14隻まで激減していた。
      更に海戦後に部隊司令部から出された艦隊の損害報告によれば、無傷で即戦闘行動可能と報告されたのは雪風、長波朝霜の3隻のみ。*22
      その内、長波と朝霜は海戦冒頭に敵潜水艦の雷撃で大破した高雄の護衛のため本格的な戦闘は経験せずに母港に帰還しており、5日間のレイテ沖海戦を戦い抜き、即戦える状態だったのは雪風だけだった。
     
  • レイテ沖海戦後、信濃の回航の際護衛を務めていた雪風は、信濃を追跡する浮上中の米潜水艦を目にしながら漁船と誤認・・・雪風痛恨のミスとして語られるこのエピソードだが、実は全くのデマである
    日本側記録に「信濃を後方から追跡する船舶をレーダーが感知。調査に向かわせた雪風が『漁船と思われる』と報告した」とあり、これが実は信濃を撃沈した米潜水艦アーチャーフィッシュであったとする説だが、
    アーチャーフィッシュの艦長ジョセフ・F・エンライト少佐の証言によれば、この時間帯、アーチャーフィッシュは信濃の前方にいて、雪風が調査した船はアーチャーフィッシュでない事が判っている。詳しくはこちら
    • 「雪風が浮上中の米潜水艦を漁船と誤認した」と記したのは豊田穣氏ら数名の作家である。
      中でもエンライト少佐に直接取材をした豊田氏が、勘違いによるものか、意図的な脚色か、エンライト少佐の証言を正しく伝えなかった理由は不明である。
      但し豊田氏の著書では、別の時間帯に潜水艦を発見した雪風乗員の証言まで「確認できなかった」と変えられている点は記しておく*23
       
  • 大和の沖縄特攻(昭和20.4.7)に随伴艦として参加。
    沖縄へ向かう途上にて発生した坊ノ岬沖海戦で日本艦隊はアメリカ軍機動部隊の艦載機の空襲を受け大和、矢矧、朝霜、磯風、浜風が沈没。沖縄突入を断念する。
    雪風は敵機の機銃掃射を受け3名の戦死者と数名の負傷者を出すが、ほぼ無傷で戦闘を生き残った。

    不惜身命但惜身命

    不惜身命但惜身命

    • 沖縄突入を命令されたが、大和は船体の傾斜が5°以上になると主砲が使えないにも関わらず「沖縄突入後は陸に乗り上げて砲台となれ」と言う実行不可能な指示が出されていた通り、実際は特攻さえ建前の玉砕命令だった。
    • 雪風が「死ね」と命令されたのはダンピールに続き2回目である。しかし特攻作戦に最後まで反対した寺内艦長と同様、乗組員たちも死ぬつもりは無かった。
      有名な話だが、共に特攻に赴く駆逐艦の遼艦らが「最後の出撃だから」と煙突に菊水紋のマークを描いたが、雪風では「いつも通りやればいい」と寺内艦長が描かせなかったエピソードがある。
      • 機銃増設により乗員が増えたため、雪風にも少年兵が乗船する様になっていたが、出航の際、下士官が艦内を回って「経験の長い船は沈まないんだ」と部下たちに語って聞かせた。
        この話を聞いた若い兵たちは理解した。「雪風は沈まないと言ってるんだ」
        雪風では遺書を書く事も髪や爪を遺品として残す事もしなかったと言う。 行きつけの飲み屋に借金を残してしまった兵はいた。律儀にも「帰って来た時まだ店続いてるかなあ?」と心配してたそうな。
        • 他の駆逐艦の菊水紋のマークは大和が「特攻作戦は極秘だから」と言う理由で消させている。磯風のみ命令に背き最後までマークを残したとある。
      • 出撃前に遺書を書くのはいつもの事なので、いつも通り部下に遺書を書かせた士官はいたとの証言もあることはある。
        尤もこれもいつも通り「何書いたらいいかわからん」と、改まって仰々しいことを書けなかった兵ばかりだったそうだが。
        坊ノ岬沖海戦を遡ること2年前、ソロモン方面で雪風が活躍していた時点で、当時の水雷兵が
        「何回遺書を書いても生きて帰ってくるので、最近は身の回りで起きたことを書いて家族に送ってる」と日記に綴っている。
    • 寺内艦長は大和が沈没した後も所在最高指揮官の吉田司令(冬月乗艦)に沖縄突入を促す通信を送り、残存艦だけで沖縄を目指そうとした記録が残っている。
      • 吉田司令からの「生存者を救助せよ」との返事を受け、「そうと決まれば最後の一兵まで救うぞ」と味方の救助に邁進したが、
        戦闘中も(空襲では出番のない)水雷長に「艦内に隠れておれ。お前には沖縄でひと暴れしてもらうんだからな」と指示しており、特攻作戦が中止になるまで本気で沖縄に辿り着く意志だった。
    • 雪風の乗組員たちも直ぐには沖縄突入を諦めなかった。大和の生存者は救助された雪風で「これから沖縄へ行って戦うんだ。しっかりしろ!」と喝を入れられ、耳を疑っている。
      • 佛坂軍医長の回想には「大和がいない、矢矧もいないのに、雪風では皆沖縄へ行くと殺気立っていた。そこに艦内放送で『天皇陛下命令』の一言が入り、ハッとした所で生存者の救助に当たれと命令され、皆一気に頭を切り替えた」とある。
        後に佛坂軍医長らが探してもこの天皇陛下命令の電報は見つからず、そもそもこんなに速く届くわけがないので、佛坂軍医長はあの一言は寺内艦長の機転だったと推測している。
        特攻を命じられ出撃しても、部下の命を預かる司令や艦長は生還のための腹案を用意していたと言うエピソードである。
    • 特攻作戦が中止となった後は味方の救助を行い、大和、矢矧、磯風の生存者を本土へ連れ帰った(救助者数は雪風605名、冬月664名、初霜313名)。この時、航行不能となった姉妹艦磯風の自沈処理を行う事になってしまう。
      敵潜水艦の接近が感知されていたのも顧みず夜遅くまで救助を続けたため*24、帰路についた雪風は奇襲のチャンスを得た敵潜水艦に狙われ、攻撃を受けている。
      尤も雪風では救助活動を終え最後の一隻になる所を狙ってくる事は見当がついていたので、魚雷を探知すると航路を変更し、さらに機関を停止して灯りと音を消すと言う策により潜水艦の追撃を撒くと無事佐世保に帰還している。
       

      こんな戦いでも雪風は・・・(下ネタ注意)

      こんな戦いでも雪風は・・・

      • ちょっと下ネタである。
        坊ノ岬沖海戦での空襲の真っ只中、田口砲術長は寺内艦長と次の様な会話を交わしている。

        「おい砲術長。なかなか当たらんのう」
        「はい、申し訳ありません」

        ここまでは雪風を扱う書籍で見られるやり取りである。しかしこの会話には続きがある。

        砲術長が童貞だからタマが当たらんのだ!ワッハハ
        はい、それではこの戦いが済んだら童貞捨ててきます

        雪風はすけべえ・・・。

    • この戦いに参加した多くの日本兵が証言しているが、雪風でもアメリカ軍艦載機が海上を漂う無抵抗な日本兵に対し攻撃する光景を目撃している。
      大和生存者の証言によれば、雪風自身アメリカ軍艦載機の機銃掃射を受けたため艦を停止できず、不便な状況で仲間の救助を行っていたと言う。
    • アメリカ軍も撃墜された味方パイロットの救助のため水上機を発進させており、その内の1機が雪風の側に降りてきたが、雪風では士官が部下への発砲を禁じ、救助の邪魔をしなかった。
      しかしこの水上機はパイロットを収容し離陸すると、日本兵が浮かぶ海面に爆弾を落とす国際法違反の虐殺行為を行い*25、雪風の乗組員らを激怒させた。
      それでも雪風では無抵抗なアメリカ軍の生存者を撃たせなかった。
     
  • 太平洋戦争における雪風最後の戦闘は宮津湾空襲(昭和20.7.30)であった。
    B29による機雷投下によって、天橋立を眺める狭い湾内に閉じ込められた雪風と第十七駆逐隊最後の僚艦初霜を米爆撃隊が襲撃。
    機雷を投下しにくい陸岸付近を進みながら、20ノット前後の低速しか出せない不利な戦闘で開戦以来最大の死傷者(戦死1名、負傷者20名)を出したが、10時間に亘る戦闘でF4Uコルセア1機を撃墜する奮戦の末、雪風は生き残った。
    隣の伊根で空襲を受けて艦橋を破壊された潜水母艦長鯨を擬装させ、終戦の詔勅が発せられた後は彼女を曳航、舞鶴につれて帰った。

    雪風としての最後の戦い

    雪風としての最後の戦い

    • 僚艦の初霜は機雷により大破。沈没を避けるため海岸に乗り上げた。
      雪風から4名の兵が内火艇で初霜の救助に向かったが、この中で最年少、当時18歳だった野間光恵氏(元兵曹)は2020年もご健在である
      • 負傷者の救助を手伝う野間兵曹らに、初霜の士官は「敵は今雪風を攻撃しているがもうすぐこちらを襲ってくる。お前たちも早く逃げろ」と告げたとある。
        この初霜の士官は残り一隻となった雪風に敵機が殺到する様を見て「雪風ももう駄目だ」と感じたのだが、しかし雪風は敵の攻撃が尽きるまで粘り切った。
        • そして野間兵曹ら4名だが、初霜の士官に「逃げろ」と促されると急いで内火艇に飛び乗り、今まさに空襲を受けて危険な雪風に向かった!
          途中になってやっと「初霜の士官は『陸に逃げろ』と言ったんじゃ・・・?」と気づいたが、その時は4名とも「雪風が危ない!早く戻って戦わなきゃ!」「死ぬなら雪風の皆の元で・・・」と言う気持ちで一杯だったと言う。
          敵機の機銃掃射に阻まれ雪風には接舷できず、やむなく天橋立に上陸したが、4名とも雪風同様この戦いを生き延び終戦を迎えた。

    初霜の触雷大破についての風評被害

    初霜の触雷大破についての風評被害

    • 初霜の触雷大破について、「回数機雷に雪風が触れた時は起爆せず、その後初霜が触れた時に爆発カウントに達して起爆した」と言う説が一部の書籍に書かれた。
      しかしこの描写は戦闘詳報や雪風乗組員の証言、初霜艦長の証言により残されている戦闘の状況記録と食い違っており、以下に記す理由の通りこれまた全くのデマである
      • 接触式の浮遊機雷は海流によって容易に無差別破壊兵器になるため、設置一時間後には無効化するよう当時の国際法で定められており、米軍では回数機能を付けた浮遊機雷を使用していない。
        米軍が日本近海に散布した機雷は全て海底に沈む沈底式の機雷だったが、これに回数機能が付けられていても洋上からではカウントが進んだがとうか確認する事は出来ないため、「先に触れた」、「カウントされた」と言う説は創作である。
      • 「回数機雷に触れた」説は伊藤正徳氏の「連合艦隊の栄光」が初出だが、この著書では初霜が宮津湾の戦闘で大破せず、その後舞鶴に回航する際に触雷したと描かれており、史実と異なる。
        本当は長鯨との間の出来事であり、しかも結果は正反対である。終戦後(昭和20年8月18日)、宮津湾の空襲で艦橋を破壊された長鯨を雪風が舞鶴まで曳航した際、磁気機雷が両艦の中間地点で爆破する幸運のお陰で2隻とも無事で済んだ。
        • この長鯨のエピソードはかなり運のいい話である。
          雪風が宮津湾空襲の日の夕方に長鯨のいた海岸に回航した際は、機雷に反応しないよう水深の深い場所をスピードを上げて突っ切って難を逃れたが、この日は長鯨を曳航していたためその手段は使えなかった。
          このタイミングの遅延爆破でなければ、雪風が破損したか、雪風より船体が大きく喫水線も深い長鯨に機雷が反応し爆発した可能性が高く、どちらも無傷とはどこまでも幸運艦の雪風だった。
    • 起きた時期や場所が近い上に機雷が関係すると言う共通点もあったため、伊藤氏は初霜と長鯨のエピソードを混同してしまったものと思われるが、伊藤氏は「連合艦隊の栄光」の刊行前に急逝したため、著書に事実誤認があってもやむを得ない事情がある。
      伊藤氏は生前、新聞で雪風に関する情報提供者を募るなど正しい描写に務めようとしたが、病によって志半ばとなった。
     

復員輸送船として

  • 終戦後は復員船として1万3千人以上を本土へ帰還させた。その中には、後に「ゲゲゲの鬼太郎」などをヒットさせる水木しげる氏の姿もあった。
    • 水木しげると言えば妖怪漫画で有名だが、ラバウルでの戦場体験を元にした『総員玉砕せよ!』などの戦記漫画も描いている。駆逐艦雪風をモデルにした*26『駆逐艦魂』という作品もある。
    • 雪風の帝国海軍籍からの除籍日は1945年の9月15日*27、10月5日*28、11月30日*29と諸説ある。特に11月30日は2015年に水木氏が亡くなった日でもあり、当時話題になった。
      • 因みに水木しげるが復員時に乗艦したのは雪風なのだが、召集され、ラバウルまで乗せていった船は日露戦争日本海海戦でロシアバルチック艦隊を最初に発見する功を立てた輸送船「信濃丸」だったという。この船も老朽化しつつも輸送船としてボロボロの船体*30を鞭打って働き続け、太平洋戦争を無事に生き延びた。その後は雪風同様復員船として活動し、作家の大岡昇平は信濃丸に乗って復員している。その後は戦前に籍を置いていた漁業会社に戻り、1951年に除籍されスクラップになるが、2度にわたる徴用を受けながら生還した同船も幸運の船と呼ばれる事がある
  • 復員輸送任務中、元乗組員は 1/4に減らされ、船に乗ったことが無い元陸軍兵や仕事を求めてきた従軍経験の無い民間人らと共に任務に出されたため、戦時中の雪風では見られなかった対立も生じたと言う。
    当時は気象予測も自前でやらなければならなかったため、台風に直面する事も多く*31、時には他の復員船が損傷、座礁するような大波の中で任務に当ったとある。
    • 乗組員たちは艦内の風紀を保とうと頑張った。引揚者に「とても綺麗な船ですね。日本は敗れて大変なことになったのに、今までどこで戦っていたのですか? 航海に出たのも初めてじゃないですか?」と責められた事もあったが *32 、腐る事なく初代艦長の時代から引き継いだ艦風を守って艦内を整備し続け、少しでも復員兵や引揚者を良い気分で日本へ送り届けてやろうと務めた。
      引揚者の中に妊婦がいて、雪風艦内で出産すると言う慶事にも恵まれた。当時の軍医長が取り上げ、佐藤艦長が名付け親となった男子がひとりと、軍医長不在の航行中に看護兵曹と部下の看護兵(歌手の榊原郁恵の父親)が取り上げた女子ふたり。3人の子供が雪風で産まれた*33

復員輸送中の雪風では有志らが雪風楽団を結成し、「復員者歓迎雪風の歌」を演奏して復員兵や民間の引揚者を慰めた。

復員輸送中の雪風では有志らが雪風楽団を結成し、「復員者歓迎雪風の歌」を演奏して復員兵や民間の引揚者を慰めた。

  • 一.皆さん永々ご苦労さん 迎えに来ました雪風が 故国の便り満載し 万里波涛の浪蹴って
  • 二.陽炎型の輸送艦 わが雪風に乗り込んだ 百八十のつわものが 精魂込めて送ります
  • 三.春が来ましたお国には 今頃桜の季節でしょう 家じゃ父さん母さんが きっと待ってる、指折って
  • 四.南十字の星沈み いつしかまたたく七つ星 明けては暮れる帰国航 思いは尽きないことでしょう
  • 五.富士と桜が明日は待つ 皆さん辛抱今暫し 狭い艦内じゃあるけれど 住めば都の風が吹く
  • 六.いばらの道は遠けれど 常に雄々しい希望もて 君らの鍛えし心身を 捧げよ祖国の再建に
  • 七.港が見えます内地の港 入港にはずむ皆さんよ どうぞお体大切に 送り送らる波の上
  • 八.迎えて送る聖(ひじり)の任務 今日もはるばる南洋航路 赤道直下をひた走る ああわが雪風輸送航*34
  • 復員輸送は入港後48時間以内に乗員の交替、補充、物品の積み込み等を完了し、次の目的地に向かう48時間制の決まりがあったため、船員は終日上陸の暇なしの多忙な日々を送ったが、時には予期せぬ任務で出動した事もあった。
    横須賀寄港中の雪風は「銚子沖で遭難船あり」という電報を受け緊急出動。雪風より大きな第六青函丸*35が大波で漂流しており、一昼夜かけて浦賀まで曳航した。不沈艦に憩いはない。雪風は終戦後も変わらず働き者だった。
  • 中華民国海軍に引き渡しが決まったあとも乗組員たちは清掃や手入れを怠らず、艦体、機関は勿論、兵器ではない煙草盆に至るまで整備が行き届いていたという。
    雪風は戦時賠償艦の中からモデルシップ(最優秀艦)に指定され、連合国側から「敗戦国の軍艦でかくも見事に整備された艦は見たことがない」と感嘆された。
    伊藤正徳氏は著書の最後において「雪風は最後の日まで日本の名を守った」と記している。

雪風楽団が雪風とのお別れを前に作った「雪風袂別の歌」。

雪風楽団が雪風とのお別れを前に作った「雪風袂別の歌」。

  • 『雪風袂別の歌』 中島光男電信兵作詞、田中衛気象長作曲
  • 一.幾度か経し決戦の 高き勲は燦として 芙蓉の峰の雪のごと 輝き増さん雪風の 雄姿は常にわが胸に
  • 二.涙で仰ぐ終戦の 詔かしこみ健児らは 清き操のいや固く ただひたすらに再建の 祖国の前途思いつつ
  • 三.南海にまた大陸に 幾百万の同胞を 迎えし任務いま終えて 再び誓う再建の 祖国に結ぶこの誠
  • 四.紅涙の頬ぬぐいつつ 西に東に別るとも なお忘るらん雪風を いま袂別の杯に めぐる回顧の情あつし
 

丹陽

  • 復員船の役目を終えた後に賠償艦として引き渡され、駆逐艦でありながら中華民国(台湾)海軍旗艦「丹陽(タンヤン)」として就役。
    どうも連合国にも雪風の強運っぷりは伝わっており、旗艦就任はそれを見込んでの事だったんだとか。蒋介石総統が台湾に逃れる際には雪風に乗艦したという。

…と言う話が有名だが

  • …と言う話が有名だが、台湾の歴史資料によるとこれは誤りであるらしい。
     
  • 蒋介石率いる国府軍と毛沢東率いる共産党軍による国共内戦が激化すると、丹陽が駐留していた上海は1949年5月29日に陥落。
    丹陽は内戦前から行われていた共産党軍の妨害によってこの時まだ武装してない状態だった。
    • いくら幸運艦でも丸腰では戦えない。と言うか戦闘艦ですらない。戦力外通知を受けた丹陽は直ちに台湾島へ回航を命じられた。
    • 蒋介石総統も一緒に台湾へ脱出……が許されればこの時丹陽に乗ったかもしれないが、そんなワケには行かない。
      総統は中国本土に残ってがんばった。アメリカに「だらしねーなー蒋介石」と言われるくらい負けたけどがんばった。
      1949年12月27日、首都南京に続いて遷都した成都まで失った蒋介石は遂にギブアップ。息子たちと共に遂に中国大陸から追い出されてしまう。
  • 国共内戦の中で、イギリスから譲り受けた軽巡洋艦オーロラなど国府軍海軍の主力艦艇は軒並み共産党軍に奪われてしまった。奪われた艦を攻撃して沈めたりもしたが。
    いずれにせよ貴重な海上戦力を失った蒋介石総統を更に悩ませる問題が台湾で待っていた。いや待っていなかった。7か月前に脱出した丹陽は台湾島に到着していなかったのだ。
    • 上海を脱出した丹陽は馬公市の澎湖諸島で国共内戦を見守ったが、ここで台風に遭遇してしまう。
      タグボートにより退避中の丹陽はタグラインが切断して漂流 も~。で、でも沈みませんから!
      漂流しなかった。流されたと思ったらすぐ傍の浅瀬に座礁したので助かった。
    • その後約1年放置された間、「いっそ日本に送って修理してもらおうか」などと無茶なお願いを断られたり、またも台風の直撃を受けたりと、
      何もしてないのに波乱万丈な日々を過ごした丹陽だったが、この頃はまだ台風でも絶対、大丈夫!なくらい元気だったので、台湾に曳航して再武装化を行う事となった。
  • 1950年8月。丹陽、ようやく台湾島に至る。蒋介石総統より7カ月も前に出発したのに、到着したのは7カ月後でした。 雪風見なかったー?すぐいなくなるんだよなー。
  • と言うわけで、時期にかなりズレがあるので、蒋介石総統が本土を脱出した際の乗艦は丹陽ではなかったと推測される。
    • 1949年5月から6月にかけて蒋介石は中国本土と台湾島を何度も行き来しており、5月末には澎湖諸島から飛行機で台湾へ渡った記録がある。
      ここからは憶測だが、同じ時期に澎湖諸島で戦況を見守っていた丹陽を何かで利用したかもしれず、そこから「蒋介石は丹陽に乗って中国本土を脱出した」
      と言う話になってしまったのかもしれない……が、やはりこの時期に丹陽に乗ったと言う記録は見つかっていない。
      • 丹陽が中華民国旗艦になった頃に蒋介石が乗船したと言う記録はある。
        再武装化が終わった丹陽を視察する蒋介石の写真が残っており、当時の機関員が乗船したと証言している。
  • 雪風は帝国海軍時代にもわずか3日だけ艦隊旗艦を務めた珍しい記録*36がある。
  • この時陰陽思想で雪も風も陰に属する字のため名前がいまいちということで、陽である丹(赤)と陽を使うことになった。
    余談だが、中華民国海軍の艦艇名には日本からの賠償艦・米国からの供与艦を問わず○陽が多い……というか名付け元の都市名に○陽が多いというべきか。
    あちら流の験担ぎと思われ、総称して「陽字號」などと呼ばれることも。ちなみに、帝国海軍艦艇由来の「陽字號」は以下の通り。
    中華民国海軍での名称帝国海軍での名称
    丹陽(DD-12)陽炎型・雪風
    信陽(DD-15)橘型(改松型・改丁型)・初梅
    華陽(艦艇番号未付与)橘型(改松型・改丁型)・蔦
    瀋陽(艦艇番号未付与)峯風型(改峯風型・野風型)・波風
    汾陽(艦艇番号未付与)秋月型(乙型)・宵月
    衡陽(艦艇番号未付与)松型(丁型)・楓
    惠陽(艦艇番号未付与)松型(丁型)・杉
  • 引き渡された当初、武装は降ろされていたが、国民党海軍の手によって旧帝国海軍の鹵獲兵装を取り付けられ、後に補給の問題からアメリカ式の火砲に換装されている。
    • 旧海軍の鹵獲品装備時は、艦首に12.7cm連装高角砲1基、後部にはなんとあの10cm連装高角砲2基を装備。
      後者は上記の秋月型宵月の装備品・・・ではなく(復員輸送の時点で武装解除済)、台湾の防空砲台から転用されたものである。*37
    • 一方、12.7cm連装高角砲は嘗てマリアナ沖海戦で共に戦ったの装備品であったという説がある。
      1944年9月に響は台湾沖で機雷により艦首部を大破。台湾の左営市で応急修理を行ったが、その際一番砲塔を撤去した。
      その砲塔が台湾で防空砲台として使用され、終戦後も現地に残っていたものを丹陽に転用したとする説である。
  • なお、丹陽として就役した後も幸運ぶりを発揮。詳細は省くが、幸運を通り越した異能生存体っぷりは健在だった。中共艦艇と交戦中、突如ボイラーが本調子を取り戻したことで往時の高速を発揮し危機を脱したり、命中寸前の砲弾が突如空中で爆発したという逸話も残されている。
    • ソ連油槽船拿捕や人民解放軍の沿岸用コルベット撃沈等戦後も活躍し1965年に一線を退いたが、その後も訓練艦として就役していた。
      日本で雪風返還運動が始まり、1969年には1年後の返還が約束されるところまで漕ぎ着けたのだが、夏の暴風雨によって老朽化していた船体が大破し、あえなく解体された。栄えある帝国海軍最後の実働艦は、結局最後まで戦没することは無かった。
      • 実は台湾側とは食い違う。当時台湾海軍の少将だった鍾漢波將軍の駐外武官的使命-一位海軍軍官的回憶によると、日的要求厳拒否と返還しないことになっていた。戦勝の証しである戦利品であり、20数年に渡り総旗艦を務めた丹陽は台湾海軍にとっても栄光の艦であったのだ。なお、台湾側の名目はあくまで丹陽の一部を日本の友好団体の雪風会に贈呈したのであり、雪風を返還したのではない。
      • 尤も、返還が実現していた場合老朽化した船を維持するために多額の費用が継続的に発生することになり、保存会の会員、あるいは国庫にとって小さくない負担になったことと思われる。雪風は最後まで、人々の幸せを想っていたのではないだろうか。
    • この時のこともあって、当時の中華民国だった台湾でも雪風、もとい丹陽は人気があるんだそうな。何せその生涯を描いた擬人化漫画があるくらいだし!
    • 取り外された錨と舵輪は1971年、元艦長や乗員たちが出迎える中で返還された。返還式典は火葬場の拾骨のように沈痛な空気に包まれ、「あの雪風がこれだけになってしまった」とかつての乗員たちは男泣きに泣いたという。
      現在は江田島の海上自衛隊第一術科学校校内の教育参考館に静かに安置されている。また台湾の中華民国海軍司令部(台北市)と海軍軍官学校(高雄市)には彼女のスクリューが残されており、軍官学校校史館には丹陽時代の資料や模型などが展示されている。
       

雪風の帰還

  • 終戦から十数年が経過し、復興を果たした日本に、再び軍艦の建造が認められる事になりました。
    戦後初めての自国生産による軍艦。生まれ変わった日本にとって、そして発足して間もない海上自衛隊にとって、
    極めて重要な意味を持つことになる最初の護衛艦。はるかぜ型護衛艦。
    その二番艦が、一番艦はるかぜより一月早く進水する事となりました。
    戦後復興を象徴する、正真正銘の最初の護衛艦。
    この排水量1,700トンという小さな彼女に与えられた名は──
    「ゆきかぜ」
    ──です。
    この名が発表されたとき、旧海軍の関係者や、復員船となった雪風のおかげで祖国に帰ることができた人たちは、
    皆、同じ言葉をもって迎え入れたそうです。「おかえり」と。

海上自衛隊発足後初の国産護衛艦として

海上自衛隊発足後初の国産護衛艦として

  • はるかぜ型護衛艦2番艦として就役した「ゆきかぜ」であったが、戦後初の護衛艦のネームシップを「ゆきかぜ」にできなかった理由は「武勲艦として、あまりに有名すぎたから」。
    そこで、地味な護衛任務を太平洋戦争を通じて全うした名誉艦である「はるかぜ」をネームシップとし、そのかわりに先に「ゆきかぜ」を進水させたと伝えられている。
    • 代表的なものとして某元幹部学校校長を務めた元海将が回想として上記のことを「駆逐艦春風」という本に文章を残している。また草創期の将官の何人かも回想録に記している。海兵学校末期の出身者にとっては憧憬をもって記憶されていたらしい様子が伺える。
    • はるかぜ型以前に使用されたありあけ型護衛艦の前身はアメリカ海軍のフレッチャー級駆逐艦だった。
    • またこのはるかぜ型の設計は、白露朝潮を元に、米駆逐艦の長所をミックスしたものとなっている。
      • 陽炎型駆逐艦は朝潮型の小改良型なので、広い目で見ると初代「雪風」と2代目「ゆきかぜ」は歳の離れた姉妹と見ることもできるかもしれない。
  • 2代目ゆきかぜが活躍したのが1974年に起きた第十雄洋丸事件*38災害派遣部隊に選出され、3日間の砲撃により無事(?)燃え盛るタンカーを撃沈した。
    • また、1964年に公開された松竹の映画「駆逐艦雪風」では、防衛庁が撮影に全面協力した事で先代の「雪風」を演じる幸運に恵まれた。
    • ゆきかぜは多くの改装を受けつつ第一線にあったが、1981年3月に特務艦に変更され、1985年に除籍された。
    • 武勲艦に駆逐艦が多いのが日本海軍の大きな特徴である。諸外国の駆逐艦はフレッチャー級のように哨戒などを主任務にしていたのに対し、日本の場合は雷撃艦として攻撃に特化していたから。実際に運用されるのが駆逐艦だけなので、必然的に武勲艦が生まれることになった。
  • 現在、今度は海上保安庁「すずかぜ型巡視艇(現:ひめぎく型巡視艇)」CL81として、第一管区・花咲で活躍している。
    ちなみに161隻いる姉妹の中には「はまかぜ(CL50、第三管区・横浜)」「しまかぜ(CL59、第二管区・石巻)」「はつかぜ(CL73、第二管区・宮古)」「さつき(CL119、第十管区・宮崎)」「すずかぜ(CL11、第一管区・小樽から第五管区・姫路に配置換えに伴い「ひめぎく」に名称変更、その後CL143、第一管区・小樽が再襲名)」もいる。およそ50年の時を超え、ゆきかぜは「はまかぜ」と「はつかぜ」と再び姉妹となれたのだった。
 

参考資料・書籍

  • 『雪風ハ沈マズ』―強運駆逐艦栄光の生涯 豊田穣 光人社NF文庫

コメント


*1 母港ボイスは各艦娘につき3つ割り当てられています。「詳細」ボイスは編成画面の「詳細」ボタンをクリックすることで聞くことが出来るボイスです。母港画面でも聞くことが出来ます。「母港3」ボイスは「母港画面でのクリック」もしくは「母港画面への遷移」でのみ聞くことが出来る、いわゆる「提督お触りボイス」です。編成画面での「詳細」ボタンでは聞くことが出来ません
*2 4つの基本ボイス(昼戦開始・昼戦攻撃・夜戦開始・夜戦攻撃)がありますが、各ボイスはその他の色々な場面でも使われます。各ボイスをどのフェーズ(航空戦/開幕雷撃/先制対潜/昼戦攻撃/各種CI...など)に割り当てるかは艦娘によって異なり、例えば開戦ボイスを攻撃でも使ったり、夜戦攻撃ボイスを昼戦でも使ったりします)
*3 「小破」ボイスの2つ目と戦闘撤退時の「旗艦大破」ボイスは共用化されています
*4 「小破」ボイスの2つ目と戦闘撤退時の「旗艦大破」ボイスは共用化されています
*5 装備ボイスは3ボイスありますが、改修/改造ボイスと共用化されています。また、ボイス3は「改修/改造」「開発」「バケツによる即時修復」「遠征出撃」「アイテム発見」ボイスと共用化されています
*6 Lvにより最大4%程度変動
*7 昭和19年4月に着任を命じられた新兵5名。5月に日本を発ち、9月にやっと雪風に合流できた。浜風、浦風、磯風はこの新兵たちをシンガポールで拾い「雪風は呉にいる」と教えて送ってやったが、その時雪風は因島ドックにおり危うくすれ違いかけた。
*8 菅間艦長に関しては第二十七駆逐隊司令の原為一大佐が、寺内艦長に関しては雪風の元乗組員が、それぞれ「敵襲を予見して雪風を港外に仮泊させ爆撃を避けた」と証言している。宮津湾空襲でも早朝のうちに機関を作動させておいたため、戦闘開始と共に素早く抜錨できた。
*9 寺内艦長自身の証言によると「三角定規は30度と60度だから便利だ。三角定規をピタリとあてればその敵機が本当に向かってきているかどうかたちまちわかる」とのこと。上欄では部下の証言で「そういう形をした対空用観測器」とあるが、実は本当に単なる三角定規だった可能性もある。なお4代目艦長の菅間中佐も天蓋から身を乗り出して対空戦闘を行った等、雪風の天蓋には様々な逸話がある。着任したばかりの新兵が「お前来たばかりで配置決ってないからジャマにならん所におれ」と、陸軍輸送任務の真っ只中、天蓋にポツンと座らされたと言う尋常でない話も。
*10 梨は太平洋戦争終盤の1945年3月15日に就役。7月28日、山口県平郡島北岸沖にてアメリカ軍機動部隊艦載機の空襲を受け沈没。9年後の1954年9月、海中から引き揚げされ、修理改装の後、護衛艦わかばとして復活した数奇な艦歴を持つ船である。
*11 杉谷永秀大佐。最後の黒潮艦長であり、当時高田少佐は15駆僚艦である陽炎水雷長だった
*12 被弾した医務室から佐世保軍需部の刻印が入った弾丸の破片が見つかった。比叡の副砲の砲弾と言われる。
*13 あまり知られていないが第3次ソロモン海戦後の比叡の護衛命令は雪風には出ていない。退避中に長良と合流した雪風は比叡の窮状を知らされ、反転して救助に駆け付けた。そのため正式に護衛命令を受けた他の駆逐艦より一足早く比叡の側に到着している。
*14 一部の著書では墨水兵長と書かれるが加藤サダム水兵長が正しい。この間違いは、当時雪風に同姓同名、同郷の加藤サダム氏が2名乗船していたため起きたものらしい。「加藤サダムが戦死した」「いや、人違いだ。生きてる」のやり取りの末「戦死したのは加藤サダムではない」と伝わり、墨水兵長という架空の戦死者が産まれた。
*15 夜戦で医務室が破壊され、士官室で緊急の治療を行ったため、充分な処置ができなかったとある。
*16 この作戦に至るまでの駆逐艦の損失のあまりの多さと、アメリカ軍に撤退作戦が露呈しただろうと言う懸念があった(実際は彼らの情報統括が功を奏し作戦完了まで撤退作戦は知られなかったが)からで、海軍司令部にも言い分はあった。
*17 やられっ放しだったわけではなく、雪風は反跳爆撃を狙って低空飛行してくるB-25爆撃機に咄嗟に対応し、2機(米軍側資料では1機)を撃墜している。
*18 荒潮は艦橋が吹っ飛んで航海科員が全員戦死したため、接近する雪風の発光信号を読み取れず、最初は敵艦だと思い全員に自決用のピストルが手渡された。近づく艦影が雪風だと分かった時の嬉しさ、感激は筆舌に尽くし難かったと荒潮の生還者は後に語っている。
*19 日本の水上偵察機も連合軍の艦隊を発見したが、暗号通信の発受信に10分以上の時間がかかったため、日本艦隊はレーダーで捕捉される直前まで敵に接近されてしまった。
*20 発電機の歯車が摩耗により欠損したもので、被弾による損傷は少ない雪風だったが、休みもなく働き続けた影響により艦内部の消耗は激しくなり、1944年半ば以降は機関部の摩耗劣化に度々悩まされていた。
*21 元アメリカ海軍少佐。ウォールブルック海事アカデミー創設者で、退職後は海軍大学で戦略、政策を教える他、米国海軍研究所のディレクターを務めた。
*22 内訳は①沈没:武蔵、愛宕、摩耶、鳥海、最上、鈴谷、能代、②消息不明:山城、扶桑、山雲、朝雲、満潮、筑摩、野分、③本格的修理を行わざれば戦闘に支障あるもの:大和、長門、金剛、羽黒、熊野、妙高、矢矧、利根、早霜、浜風、清霜、時雨、④燃料補給小修理のうえ当面戦闘に支障なきもの:榛名、岸波、沖波、浜波、藤波、秋霜、島風、磯風、浦風、⑤直ちに戦闘可能なるもの:朝霜、長波、雪風。この報告は泊地帰投中の10月26日20時時点のもので、③の早霜、④の藤波はその後の帰路で失われている。
*23 日直を引き継ぐ際の雪風砲術長の伝達が、引き継いだ航海長らの証言では「右前方に浮上した潜水艦を発見。駆逐艦一隻を派遣して制圧すべきと考えるが、現在も通常通り運航中」とあるのが、豊田氏の著書では「先程潜水艦らしきものが出たが、よくわからなかった」になっている。
*24 大和の士官には「潜水艦の潜望鏡が発見し難くなる」と説明して大和生存者の救助を16時40分頃に打ち切ったが、その後矢矧生存者の救助を行い、更にその後磯風の救助と自沈処理を行った頃には23時近くになっていた。
*25 航行不能状態の涼月への機銃掃射だったとの証言もある。アメリカ軍側によれば水上機の救助活動中に初霜と冬月が先に砲撃してきたとあり、一方で初霜側の証言では無抵抗な日本兵に対する米軍機の機銃掃射に憤っていたとある。
*26 作中では「旋風」という名前になっている
*27 『雪風ハ沈マズ』に書かれた日付
*28 英語版Wikipedia等に書かれた日付。この日付けの海軍公報で「復員還送を主任務とすることに指定された海軍艦船は、指定日を以て除籍し特別輸送艦と称する」とある。
*29 日本語版Wikipedia等に書かれた日付。海軍省最後の日で、翌日、海軍省から改組された第二復員省により雪風が特別輸送艦(復員船)に指定されている。
*30 水木氏いわく、触ると船体の鉄板が欠け落ちる程老朽化が進んでいたという
*31 最後は台風で破損して解体に至ったとの記録があるため、台風でアッサリ沈んだような印象を持たれるが、長寿だった雪風は結構何回も台風に遭遇しており、台湾回航時に幸運を発揮した話も含め台風関係のエピソードは多い。
*32 復員輸送艦には戦勝国の将官が監視のため乗り込み、乗員が復員兵や引揚者に戦争に関する話をする事を禁止していた。勇ましい話をすると反乱の切っ掛けとなり、悲観的な話をすると自殺されるからである。雪風の乗組員らは敗戦の責を問われてもじっと我慢し任務を続けた。
*33 マノクワリ上陸作戦でも雪風の兵が現地日本人の妊婦を救出している。この時は千歳の軍医により出産したが、雪風は軍属でありながら短い期間で4回出産に関係した珍しい経歴の艦である。
*34 なお、のちに雪風の復員船としての行動範囲が南方だけにとどまらなくなると、この八番は歌われなくなった
*35 最古参の連絡船のひとつ。昭和20年7月14日、米軍艦載機による空襲により青森湾野内沖で擱座。戦後、青函連絡船が不足していたため第六青函丸の修理が決定。函館港から修理先の浦賀ドックに曳航の上で回航の途中、強風浪のため曳索切断。雪風の救助を受け浦賀で修理を受けた。昭和22年に航路復帰。客貨船が不足していたため貨物専用船から客貨船となり、昭和39年まで17年間就役した。
*36 1943年7月に第八艦隊司令部の将旗を臨時に掲げたとされる。
*37 このことから、陽炎型の主砲を艦これのように10センチ高角砲に換装することは可能とされる。もっとも、量産の難しい10センチ高角砲の数を揃えるという問題があるのだが。
*38 東京湾で起こった大型タンカーと貨物船の衝突事故。5万7千トンものプロパン・ブタン・ナフサという可燃物を搭載していたタンカーは20日間爆発・炎上し、消防艇も太刀打ちできなかったため、なんとか太平洋まで曳航したところを、海上自衛隊の災害派遣部隊による「はるな」を旗艦とする護衛艦部隊の砲撃・対潜哨戒機の空爆・潜水艦の雷撃まで行ってやっと撃沈したという大騒動であった。