No.272 | ||||
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![]() | 遊撃部隊 艦隊司令部 | 司令部施設 | ||
装備ステータス | ||||
火力 | 雷装 | |||
爆装 | 対空 | |||
対潜 | 索敵 | +1 | ||
命中 | +1 | 回避 | +1 | |
射程 | ||||
装備可能艦種 | ||||
駆逐艦 | 軽巡洋艦 | 重巡洋艦 | 戦艦 | |
軽空母 | 正規空母 | 水上機母艦 | 航空戦艦 | |
備考 | ||||
開発不可、改修不可 揚陸艦、潜水母艦、練習巡洋艦、 白露改二、村雨改二、海風改二、霞改二(改二乙不可)、 不知火改二、丹陽、夕雲改二、長波改二、神威改母、Fletcher改 Mod.2にも装備可能 任務『「遊撃部隊」艦隊司令部の創設』報酬 | ||||
洋上において遊撃部隊を指揮する艦隊司令部です。 司令部施設を開設できるある一定以上の大きさ(の)艦に設営可能です。 同司令部を旗艦に設営した艦隊は、「遊撃部隊」として出撃している際に、 損害の大きい艦を単艦で戦場から離脱させる「単艦退避」を実施可能です。 |
ゲームにおいて 
- 2017年11月19日実装。同日実装された任務「「遊撃部隊」艦隊司令部の創設」をクリアすることで、艦隊司令部施設を変換し入手できる。
- 連合艦隊用の艦隊司令部施設と引き換えの入手である点に注意。
- 艦隊司令部施設が1個しかない場合の任務変換には考慮を要する。
- この任務は恒常設置だが、活躍の場である遊撃部隊はイベント時しか使えない。
さらに、変換前の艦隊司令部施設が有効な連合艦隊が毎イベントで出番があるのに対して遊撃部隊は17秋と18冬の2回以降出番がない。
イベントで遊撃部隊が登場し、本装備が必要になってからの変換をお勧めする。
- 2017年秋イベント捷号決戦!邀撃、レイテ沖海戦(前篇)にて実装された「遊撃部隊」(7隻編成)において有効な装備。
- 2018年冬の捷号決戦!邀撃、レイテ沖海戦(後篇)でも活躍。
- 道中で大破艦が発生した際、大破艦1隻を戦場から退避させる「単艦退避」が使用できる。
「遊撃部隊」で実施可能な新機能【単艦退避】は、敵艦隊との交戦後、大きなダメージを受けた「遊撃部隊」構成艦一隻を、単艦で戦場離脱させることが可能です。
※【単艦退避】中に損害がさらに大きくなる場合もあります。
※「連合艦隊」の【護衛退避】と違い、護衛の駆逐艦の随伴は不要です。
新装備【遊撃部隊 艦隊司令部】の「遊撃部隊」旗艦運用で可能となる【単艦退避】の補足事項です。
※同退避に護衛駆逐艦は不要です。
※同退避艦の燃料/弾薬は全消費となります。
※一交戦につき、最大一隻の退避が可能です。
※損害が拡大する場合がありますが、同退避中の轟沈はありません。
- 当たり前だが出撃時に第三艦隊かつ7隻編成(遊撃部隊)でないと一切発動しない。
- 第一艦隊の通常艦隊や第三艦隊だが6隻以下の編成(≒通常艦隊扱い)で出撃した場合は旗艦に装備されていても一切発動しない。
- 残念ながら通常海域で使用しても退避できる様にはならない。
- 第一艦隊の通常艦隊や第三艦隊だが6隻以下の編成(≒通常艦隊扱い)で出撃した場合は旗艦に装備されていても一切発動しない。
単艦退避→進撃の手順 
- 遊撃部隊編成において、旗艦に遊撃部隊 艦隊司令部を装備する。
- 間違えて連合艦隊用の艦隊司令部施設を装備しないように。(逆も然り)
- 道中の戦闘終了後、大破艦が発生した場合、リザルト画面と「進撃 or 母港撤退」画面の間に「離脱判定(意見具申)」画面が表示される。
- 「離脱判定(意見具申)」画面では大破艦が提示され、「退避」or「退避せず」の選択ができる。
ここで「退避」を選択する。 - 通常と同じ「進撃 or 母港撤退」の画面が表示されるので、「進撃」を押す。
- 次の戦闘から大破艦はバナーがグレーアウトして「退避」と表示され、戦闘から除外される。轟沈と見間違えてヒヤッとする。
使用上の注意 
- 僚艦に装備させても単艦退避はできない。必ず旗艦に装備させること。
- 連合艦隊旗艦(第一艦隊旗艦)に装備させても、護衛退避はできない。装備を間違えないよう、厳に注意すること。指差し呼称推奨
- 一回の戦闘で2隻以上大破した場合でも、退避できる大破艦は1隻のみで、連続して「離脱判定(意見具申)」は発生しない。
1隻分の退避は可能だが、基本的に拒否して撤退しよう。- ちなみに優先順位は2番艦→3番艦→…→7番艦。
- この優先順を逆手に取れば仮に2番と7番が大破したが7番にはダメコンを装備しているから2番だけ退避させて、進撃するということも可能だが…
ダメコンの装備忘れとか順番間違いでくれぐれも慢心しないように。
- この優先順を逆手に取れば仮に2番と7番が大破したが7番にはダメコンを装備しているから2番だけ退避させて、進撃するということも可能だが…
- ちなみに優先順位は2番艦→3番艦→…→7番艦。
- 退避時は連合艦隊の護衛退避と同じく弾薬燃料を全消費、cond値が低下し、そこそこの確率で退避中に耐久が更に減少することがある。
- ただこの退避中の耐久減少で轟沈はしない(かならず1で踏みとどまる)
- 護衛退避を複数回行って艦数が4隻以下になると輪形陣が使用不可となり、3隻以下になると単縦陣固定になる。
小ネタ 
- 妖精さんは那智、最上、山城の3人。鉢巻き姿が似合っている。 かわいい
ネタ元 
- 「遊撃部隊艦隊司令部」という名前と、実装された際のイベントのネタ元などからレイテ沖海戦に参加した第二遊撃部隊、通称「志摩艦隊」の司令部がネタ元ではないかと思われる。
因みに旗艦は妖精にもなっている那智である。 - また「遊撃部隊」を「本隊と別に行動してこれを支援する部隊」という意味で考える事で、第一遊撃部隊(通称「栗田艦隊」)の別動隊として行動した同第三部隊、通称「西村艦隊」の司令部もネタ元として考えられる。
因みに山城、最上は第一遊撃部隊第三部隊の所属(山城は旗艦)として参戦している。
第二遊撃部隊(志摩艦隊) 
- 第二遊撃部隊は捷号作戦に合わせて第五艦隊を中核に編成された軍隊区分での部隊であり、指揮官は同艦隊司令長官の志摩清英中将が務めたので、「志摩艦隊」と呼称される場合が多い。
作戦立案当初は扶桑、山城や第五戦隊、練習部隊の第十一水雷戦隊、秋月型駆逐艦で構成する第61駆逐隊なども含めた大規模な部隊として編成される予定だった。
またその役割は攻略部隊攻撃の任を受けて従来の「機動部隊の前衛」の役割を解かれた第二艦隊の代わりに前衛を務めることとしていた。
- だがその後の作戦内容の変転で部隊の基幹戦力として期待された扶桑姉妹は栗田艦隊への戦力増強として引き抜かれ、第61駆等の編入の話も流れてしまい、10月の時点では第五艦隊の所属艦艇のみで構成する小部隊となっていた。
そして10月12日より発生した台湾沖航空戦で敵機動部隊を壊滅させたと信じた連合艦隊は志摩長官に急遽残敵掃討を指示する。 - 慌てて出撃した志摩艦隊だが16日に無傷の米機動部隊が発見され状況が一変、追撃を中止して奄美大島に後退する。
その翌日に米軍がレイテ湾入口にあるスルアン島に上陸、18日に捷一号作戦が発動しレイテ沖海戦が開始される。 - 瀬戸内海にいる機動部隊本隊と合流する事も不可能ではなかった志摩艦隊だが、フィリピンの近くにいるという第二遊撃部隊の状況が、以後の同部隊の運用方法の決定に混乱を生む事になる。
- 元々海軍には米軍上陸の際、陸軍の増援部隊を現地に送り込む「海上反撃機動作戦」という作戦構想があり、その護衛戦力として志摩艦隊を充てようという考えが連合艦隊内で起こった。
そのため機動部隊本隊指揮下だった志摩艦隊を急きょフィリピン方面を担当する南西方面部隊(南西方面艦隊基幹)に異動させ、増援部隊の逆上陸の際の護衛戦力に志摩艦隊を充てようとしたのだった。 - しかし南西方面部隊の方ではそのような反撃作戦は懐疑的であり、当の志摩艦隊側も機動部隊への復帰か、栗田艦隊と共に上陸部隊攻撃に向かうべしという考えだった。
現地陸軍部隊でも上陸地点へ送れるまとまった兵力を早期に集結させて輸送艦艇に乗せる事が不可能と考えていたのだが、連合艦隊側はこの案に固執し、南西方面部隊と志摩艦隊の運用について電報のやりあいが続き志摩艦隊を困惑させた。
- 元々海軍には米軍上陸の際、陸軍の増援部隊を現地に送り込む「海上反撃機動作戦」という作戦構想があり、その護衛戦力として志摩艦隊を充てようという考えが連合艦隊内で起こった。
- 出撃が遅れた志摩艦隊は慌ててマニラに向かう。ここにはこれも急遽決まった増援戦力の第16戦隊*1が待機していて合流する筈だったのだが、
出港後に届いた栗田艦隊の作戦行動を見てこれでは間に合わないと判断した志摩長官はマニラ入港を中止してコロン湾に向かい、そこにいるはずの油槽船から最終補給を受けてレイテ湾に向かおうと判断する。
しかしコロン湾に着いてみるとあてにした油槽船はなく、やむなく燃料に余裕のある重巡の燃料を駆逐艦に分け与えて、同部隊は西村艦隊の後を追ってレイテ湾に向かう事になる。
もしこういった運用決定の混乱がなく、当初から突入が決まっていたら西村艦隊と連携した行動がとれたかもしれず、史実もまた違ったものになっていただろう。
第一遊撃部隊第三部隊(西村艦隊) 
- もう一つのモデルと思われる西村艦隊だが、この部隊は攻略部隊攻撃を任務とする栗田艦隊内で急きょ編成された別動隊で、10月4日に合流したばかりの第二戦隊を基幹に編成された。
- 元々栗田艦隊は栗田提督が率いる第一部隊、第三戦隊司令官の鈴木義尾中将が指揮する第二部隊に別れ、第一部隊が攻略部隊を護衛する米艦隊を攻撃し、第二部隊が輸送船などを攻撃する手筈となっていた。
そしてこの時点では第二戦隊と最上、時雨は第一部隊、満潮、朝雲、山雲は第二部隊に所属していた。
- 元々栗田艦隊は栗田提督が率いる第一部隊、第三戦隊司令官の鈴木義尾中将が指揮する第二部隊に別れ、第一部隊が攻略部隊を護衛する米艦隊を攻撃し、第二部隊が輸送船などを攻撃する手筈となっていた。
- しかし第二戦隊は9月に再編されたばかり*2。艦自体は古豪だが部隊としての経歴は未熟であった。
その部隊が10月4日に合流した事で部隊内での連携訓練が未了の状態で17日の作戦開始を迎えることになってしまい、足手まといになる危険があった。
18日に作戦発動準備を受けて出撃拠点とされるブルネイに進出している間、栗田艦隊では新たにもう1部隊を編成し、本隊とは別ルートで進出させ挟撃行動をとらせることを考える。- 挟撃行動に関しては連合艦隊側も「その方が望ましい」と打電しており、連合艦隊の考えにも沿うものであった。
- こうして連携訓練が未了の第二戦隊に、第五戦隊と行動を共にしていた最上、本隊の通るルートは航続力的に負担となる時雨、満潮、朝雲、山雲が加わり第一遊撃部隊第三部隊が誕生する。
- 扶桑姉妹が低速であるという事から部隊を分けたという説もあるが、一方でほぼ同速力の長門が栗田艦隊の本隊として参加している事から、不安要素ではあるが要因ではなかった可能性もある。*3
- 因みに長門を「最大速力27ノットの大和型と行動を共にできるか否か」に関しては海軍部内でも認識に隔たりがあったようで、
マリアナ沖海戦直後の1944年6月27日、第一機動艦隊司令長官の小澤治三郎中将が
「長門は速力、戦力の関係上、大和、武蔵と別個の行動をとらしめ、山城、扶桑と共に第二戦隊を編成、遊撃部隊に編入するを可と認む。以下省略」
と意見具申し連合艦隊や軍令部もそれを是としたが、実際に指揮する第二艦隊司令部や長門が所属する第一戦隊司令部は
「運用上問題ないから作戦前に計画を変更しないといけないようなことはしないでくれ」と反対し、この話は流れている。
実際10月25日に起こったサマール沖海戦で、長門は最大速力で進軍する大和の後方に終始追従しており、速力差は運用上問題なかった事を実証している。
- 因みに長門を「最大速力27ノットの大和型と行動を共にできるか否か」に関しては海軍部内でも認識に隔たりがあったようで、
- 扶桑姉妹が低速であるという事から部隊を分けたという説もあるが、一方でほぼ同速力の長門が栗田艦隊の本隊として参加している事から、不安要素ではあるが要因ではなかった可能性もある。*3
西村・志摩艦隊の進撃、そして壊滅 
- 同じ針路でレイテ湾を向かう事になった2つの部隊だが、前述の通り志摩艦隊の運用方法決定が遅れた事で連携についての協議も連絡も取れないまま進撃する事になり、2つの小部隊が別個に大部隊の待ち構える海峡に突入し西村艦隊は壊滅する羽目になった。
また西村艦隊と志摩艦隊とは所属する部隊が異なり、指示系統が違っていた事も連携が取れない要因であった。*4 - もっとも、仮に2艦隊が合流、若しくは密接に連携をしていたとしても、戦艦2隻・重巡3隻・軽巡1隻、駆逐艦8隻という小戦力に対し、米軍はオルテンドルフ艦隊だけでも戦艦6隻・重巡4隻・軽巡4隻・駆逐艦26隻・魚雷艇39隻であり、結末は史実と大同小異ではあっただろう。
- これに関しては分派自体は栗田艦隊と西村艦隊は同時刻にレイテ湾にそれぞれ突入し、双方どちらかが敵を引き付ける間にもう一方がその敵の後方を衝いたり、
がら空きの輸送船団を攻撃した入りとする挟撃戦を想定したものであり、連携せぬままの単独突入など自殺行為であることは日本側も判っていた。
だが24日日中に敵機動部隊を北方に吊り上げるという小沢艦隊の任務は成功せず、栗田艦隊はシブヤン海で大空襲を受けて武蔵が沈んでしまい、攻撃を躱す為に一時反転せざるを得なかった結果、同時突入が不可能となってしまった。
- これに関しては分派自体は栗田艦隊と西村艦隊は同時刻にレイテ湾にそれぞれ突入し、双方どちらかが敵を引き付ける間にもう一方がその敵の後方を衝いたり、
艦隊区分と軍隊区分 
- 前述にもある「軍隊区分」とは作戦の都合でその都度編成される部隊の事で、その逆で常設のものは「艦隊区分」と言われる。
第二遊撃部隊の場合、その司令部と中核の第五艦隊の司令部は同一なのだが、組織上は全く別のものとされる。- 「艦隊区分」とは平時から設けている部隊組織で、「~艦隊」と命名されているのが大抵そうである。
その指揮官は司令長官と言われ中将以上の者が選ばれるのだが、他の中将の階級の者が任命される役職とは異なり、艦隊司令長官は天皇から任命される「親補職(親任官)」*5であり、
それを軍令部や連合艦隊が作戦の都合で編成替えをしたり解隊、合流したりするのは問題が多かった。*6 - またこの編成は平時の訓練や、実際には起こらなかったが米主力部隊との一大決戦などでは有効であったが、
太平洋戦争の大半はそういった規模の海戦とはならず各種各様の作戦が行われており、それを艦隊区分の組織で運用するには無駄も多かった。 - そこで考え出されたのが作戦の度に必要な戦力を艦隊間の垣根を越えて集めて臨時に「部隊」を編制して行動させ、終わればその部隊は解隊する…というものであり、
これが「軍隊区分」といわれる編成である。「~部隊」などと命名されるものが多かった。 - これにより作戦毎に無駄のない、情況に則した現実的な編成で戦う事が出来るようになった。
ただどのような組織編成でもそうだが弊害がなかったわけではない。あくまでもこの編成は戦時の作戦遂行のための臨時のものであり、訓練や人事構成は艦隊区分で行っていた。
その為軍隊区分での部隊間の訓練がしずらく意思疎通も取りにくい事があった。基本的には部隊司令部は艦隊司令部が兼務し、その構成艦艇もその艦隊に所属する艦が中核となる場合が多かった*7。
中には各艦隊から分派された艦艇の割合が大きく、作戦時にしか集まらないので中々艦隊訓練の時間を割くことが出来ない場合が多かった。- そういった代表例が開戦時の機動部隊で、真珠湾攻撃に機動部隊として向かった艦艇の各所属艦隊は
・第一航空艦隊所属(赤城、加賀、蒼龍、飛龍、翔鶴、瑞鶴、秋雲)
・第一艦隊所属(比叡、霧島、阿武隈、浦風、磯風、浜風、谷風)
・第二艦隊所属(利根、筑摩、霞、霰、陽炎、不知火)
・第六艦隊所属(伊19、伊21、伊23)
と見事にバラバラだった。 - こういった不便さは早い段階から問題となっており、ミッドウェー海戦の前から機動部隊などから指摘されていた。
こういった問題を解消するために、艦隊区分自体で護衛艦艇も含めた組織にするように改めたのが、ミッドウェー海戦後に第一航空艦隊を解隊して編成された新編の第三艦隊である。
- そういった代表例が開戦時の機動部隊で、真珠湾攻撃に機動部隊として向かった艦艇の各所属艦隊は
- 「艦隊区分」とは平時から設けている部隊組織で、「~艦隊」と命名されているのが大抵そうである。
単独退避 
- 被害艦を退避させる際、護衛をつけるのは基本であり、同システムでの単独退避というのは史実的には稀なケースである。
- 被害を受けた艦はいわゆる「何時沈んでもおかしくない」状態であり、それも敵の勢力下である場合が多いので、護衛にある程度健全な艦を1~2隻つけるのは生存者救助の観点から見ても必要だった。
また護衛も付けてもらえずに単独で退避する同僚を見て、健全な艦艇の乗員に「やられたら見捨てられる」という風に受け止められて士気が下がる危険もあった。- やられた味方を見捨てないという姿勢は近代では重要であり、現在でも陸海空軍問わずそうである。
負傷者が出たら兵士数が減るのを覚悟で健在な兵士を介護につけるし、行方不明者がでたら危険を承知で戦場に舞い戻って捜索する。
捕虜がでたら特殊部隊を送り込んで救助したりするのも、こういった「仲間を見捨てない」という姿勢を重視するからであり、戦場では大切なものである。*8
- やられた味方を見捨てないという姿勢は近代では重要であり、現在でも陸海空軍問わずそうである。
- 単独で退避させられると、もし退避中に敵に見つかると回避も反撃もままならない状態なので殆どは撃沈され、救助してくれる味方もないというパターンが多い。レイテ沖海戦での多摩や、熊野などがそうである。
- 但し護衛をつけるにも、それによって本隊の方が艦艇数が減少するので、多くの脱落艦がでたらそう何隻も付ける事は出来なくなる。
特にガダルカナル戦などで多くの駆逐艦を失い、数が不足していたレイテ沖海戦の頃は護衛をつける事すら困難だった。- この為第一遊撃部隊では高雄や武蔵など緒戦での脱落艦には護衛を2隻つけていたが、脱落艦が続出した事で護衛につける駆逐艦が足りなくなり、途中で1隻につき護衛を1隻のみとしている。
- なお遊撃部隊の意味として「パルチサン」「ゲリラ」も含む場合がある。
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