加賀

Cached: 2024-11-21 17:41:07 Last-modified: 2024-11-17 (日) 10:56:42
No.007
航空母艦、加賀です。貴方が私の提督なの?それなりに期待はしているわ。加賀(かが)加賀型 1番艦 正規空母
艦船ステータス(初期値/最大値)
耐久71火力0 / 39
装甲29 / 59雷装0
回避27 / 49対空28 / 69
搭載93対潜0
速力高速索敵40 / 69
射程10 / 49
最大消費量
燃料60弾薬55
艦載装備
18零式艦戦21型
18九九式艦爆
45九七式艦攻
12未装備
改造チャート
加賀加賀改(Lv30) →
加賀改二(Lv82+改装設計図x2+試製甲板カタパルト+戦闘詳報+新型航空兵装資材x2+開発資材x120)
加賀改二戊(Lv82+高速建造材x30+開発資材x88)
加賀改二護(Lv84+高速建造材x84+開発資材x84)
加賀改二(Lv84+高速建造材x30+開発資材x60)*1
図鑑説明
私、加賀は、八八艦隊三番艦として建造されました。
様々な運命のいたずらもあって、最終的に大型航空母艦として完成しました。
赤城さんと共に、栄光の第一航空戦隊、その主力を担います。

※初期値はLvや近代化改修の補正を除いた時の数値であり、最大値はLv99の時の最大値を指します。

CV:井口裕香、イラストレーター:しばふ (クリックするとセリフ一覧が開きます)

CV:井口裕香、イラストレーター:しばふ

定型ボイス一覧

イベントセリフ改装段階備考追加


 




 




追加
入手/ログイン航空母艦、加賀です。貴方が私の提督なの? それなりに期待はしているわ。×××編集
航空母艦、加賀です。提督、今日もそれなりに期待はしているわ。よろしく。×××編集
航空母艦、加賀です。提督、なに?改装された私の戦力が必要なのかしら? …仕方ありません。お力添えしましょう。××××編集
母港*2編集
母港1詳細何か相談? いいけれど。編集
母港2私の顔に、何かついていて?×××編集
私の顔に、何かついていて? ……そう。××編集
母港3飛行甲板はデリケートだから、あまり触らないで頂けますか。××××編集
私の格納庫に何か御用? そう…んっ…大概にしてほしいものね×編集
ケッコンカッコカリ私……感情表現が……その……。提督、私、これでも今……とっても幸せなのですけれど……編集
ケッコン後母港まぁ、私も認めてはいます。編集
放置時……あの……いえ、なんでもないわ。編集
五航戦・・・、あなたたちも練度をあげているというの? そう、良いでしょう。見せていただきます、実戦で。2014夏以降編集
編成出撃編集
編成ここは譲れません。編集
出撃一航戦、出撃します。編集
ここは譲れません。編集
敵空母の主力が出てくるのなら……流石に、慎重に攻めたいところだわ。×××編集
開戦・攻撃*3編集
戦闘1昼戦開始五航戦の子なんかと一緒にしないで。航空戦と共用編集
戦闘2昼戦攻撃鎧袖一触よ。心配いらないわ。編集
戦闘3夜戦開始みんな優秀な子たちですから。昼/夜攻撃と共用編集
戦闘4夜戦攻撃ここは譲れません。航空戦と共用編集
戦闘時ステータス*4編集
小破頭にきました。編集
甲板に火の手が。……そんな。××××編集
赤城さん…貴方を残して…沈むわけにはいかないわ。×編集
中破/大破飛行甲板に直撃。そんな……馬鹿な。編集
轟沈赤城さん……あなたが無事ならいいの……先に逝って……待っているわね……編集
戦闘終了*5編集
勝利MVP良い作戦指揮でした。こんな艦隊なら、また一緒に出撃したいものです。編集
旗艦大破甲板に火の手が。……そんな。××××編集
赤城さん…貴方を残して…沈むわけにはいかないわ。×編集
装備・改修*6編集
装備1改修/改造そうね、この強化は良い判断ね。×××編集
これは……良い機体です。優秀ね。××編集
装備2良い装備ね。さすがに気分が高揚します。編集
装備3改修/改造/開発/バケツ/遠征/発見やりました。編集
その他編集
帰投作戦終了。艦隊が帰投します。編集
補給補給は大事。編集
入渠(小破以下)修復に入らせていただきます。編集
入渠(中破以上)このダメージは完治に少し時間がかかるわ。ごめんなさいね。編集
建造完了新しい艦が完成したみたい。××××編集
新造艦ね、戦力になるといいけれど。×編集
戦績表示作戦司令部より連絡よ。編集

各ボイス項目の詳しい説明はこちらをご覧ください


時報ボイス一覧

時刻セリフ改装段階備考追加


 




 




追加
00深夜零時。×編集
01マルヒトマルマル。静かね。×編集
02マルフタマルマル。丑三つ時ね。×編集
03マルサンマルマル。何?何も出なかったわ。×編集
04マルヨンマルマル。夜明け前が一番眠い。×編集
05マルゴーマルマル。朝ね。×編集
06マルロクマルマル。赤城さんは起きた?そう。×編集
07マルナナマルマル。提督、朝食の支度が出来ています。×編集
08マルハチマルマル。そろそろ作戦行動ね。×編集
09マルキュウマルマル。一航戦の出番というわけね。×編集
10ヒトマルマルマル。赤城さんは…あぁ、なんでもないわ。×編集
11ヒトヒトマルマル。演習は十分なの?そう。×編集
12ヒトフタマルマル。正午です。昼食ね。×編集
13ヒトサンマルマル。昼食後はさすがに少し眠くなります。×編集
14ヒトヨンマルマル。あぁ…あの海域ですか?鎧袖一触です。×編集
15ヒトゴーマルマル。あの子達では無理でしょう。私達が出ないと。×編集
16ヒトロクマルマル。そう。あの子達もなかなかやるのね。×編集
17ヒトナナマルマル。そろそろ日没です。艦載機を収容しましょう。×編集
18ヒトハチマルマル。提督。本日の任務、お疲れ様でした。×編集
19ヒトキュウマルマル。夕食の時間です。今日は肉じゃが…いいですね。気分が高揚します。×編集
20フタマルマルマル。少し、赤城さんのところに行ってきます。×編集
21フタヒトマルマル。はぁ…戻りました。なんでもありません。×編集
22フタフタマルマル。夜戦…ですか?お断りします。(フタフタヒトマルと言っていましたが…)×編集
23フタサンマルマル。本日は良い一日でした。明日もそうありたいものです。×編集


季節ボイス一覧


イベントセリフ改装段階備考追加


 




 




追加
桃の節句編集
春の訪れ編集
ホワイトデーこれは? …お返しですか? そうですか。いただいておきます。編集
航空母艦でお花見ですか。いいですね。私も何か作りましょう。……何ですか?……作れます。見ていなさい。編集
春本番編集
梅雨雨? ……この季節は、何かあまり好きではないわ。え、赤城さんも? そう…いえ、何でもないわ編集
初夏夏はあまり好きではないわ。海? …行ってらっしゃい編集
だから、夏はあまり好きではないと…赤城さんが? …そう。仕方がありません。買い物に行きましょう。2017編集
盛夏編集
夏祭り編集
夏が終わってしまったわね…いえ、この季節も嫌いではないわ…ね、赤城さん。 えっ…赤城さん!?2024編集
秋刀魚編集
晩秋寒くなってきたわね…。 えっ…私が温かい? なっ、何を言うの…何を…。編集
ハロウィン編集
秋のワイン編集
編集
師走編集
クリスマスメリークリスマスか…いいけれど。提督、赤城さん見かけませんでしたか?…そう。2015編集
年末アニメでは私も相当活躍すると聞いています。さすがに気分が高揚します2014編集
師走。早いものね。…あ、赤城さん。…え? 年越し蕎麦作り? …わかりました。お手伝いします2015編集
新年提督、赤城さん、あけましておめでとう。本年もどうぞよろしく。×××編集
二航戦、新年もよろしく。あら?五航戦。あなた達も居たの?そうね。今年は頼りにしているわ。しっかり、付いてきなさい。2017編集
節分痛い。豆? そう、節分の……って私に当てた子は誰? そう……。編集
バレンタイン提督、甘いものがお好きでしたらこれを。いえ、意味はありません。編集

二周年記念編集
三周年記念三周年…。やりました。これはさすがに気分が高揚します。今日はお酒をいただきましょう。提督もご一緒にいかがですか?×××編集
四周年記念四周年、やりました。これは流石に気分が高揚します。今日はお酒を頂きましょう。赤城さん、提督、ご一緒に如何ですか? …そう。×××編集
五周年記念提督、おめでとう。遂に私達は、五周年を迎えたわ。流石に気分が……高揚します。……ありがとう。×××編集
六周年記念編集
七周年記念編集
汎用周年記念大切な日……か。提督、赤城さん、おめでとう。そう、いい日ね。……そう。編集



ゲームにおいて

  • ステータス全てが高水準に名を連ね、改二の増えた現在も依然として選択肢に入る航空母艦。
  • 2020/8/27に加賀にも改二が実装されて他の改二艦に追いついた。また、夕張宗谷と同じ三種のコンバートも実装されている。
    • ただし改装に試製甲板カタパルトが必要な上に、コンバートも高コストと三種ローテが悪い意味で噛み合ってしまっており、赤城に比べコンバートがかなりやりにくくなってしまっている。
  • 改造前で搭載数93と他の追随を許さず、改は搭載数98、改二に至っては搭載99と圧倒的な数を誇る搭載数が最大の強み。
    • その搭載により、制空権確保に他の空母ならば2隻必要な場合でも加賀1隻で十分だったり、制空と対艦をハイレベルで両立したり。
  • 正規空母ゆえ仕方ないが燃費の重さに加え、ボーキサイトの被害が凄まじいのも特徴。Intrepidの実装までボーキの消費ワーストであり続けた。
    • スロットの搭載機数に比例して艦載機の被害が増えるため、艦載機の多さはそのまま被害の大きさに直結する。ボーキサイトの女王も真っ青の大喰いの一面も。
      特に第3スロットは、満タンの場合艦偵以外が確定で墜落する。
    • その事から序盤では資材への負荷が大きいため、遠征などによる資源の供給体制が整うまでは海域突破の運用に留める等で消費に気を付けながら上手く運用したい。
    • ボーキサイトの消費を抑える方法として艦戦を多めに積み熟練度を向上させ、制空権を確保することがあげられる。ボーキサイトの消費が激しいと思ったらまずは装備を見直そう。しっかりと制空権を確保すれば負担もかなり軽減されるはずだ。加賀単艦ではなく、艦隊すべての制空値を計算されたし。
      加賀の1~3番スロットをつぶしてなお足らないようであれば、艦隊全体の制空作戦に何か問題を疑うべきかもしれない。
  • 搭載機数が改と5しか変わらない上、入手難易度も正規空母の中では蒼龍に次ぐ低さなのでイベントで艦戦ガン積みのバイト艦としても優秀。
    • というより、未改造加賀より搭載が多い空母は自身の改、改二とIntrepid&しかいない

  • 入手方法としては通常&大型での建造でも可能であるが、通常海域でもドロップ入手が狙える。早ければ2-2、2-3ボスマスで邂逅可能。
  • 2014/01/22 のアップデートにて補給と放置のボイスが追加された。
  • 2014/07/28 のアップデートにて出撃と母港、及び時報ボイスが追加された。前者二つの内容は次回のイベントに合わせてのものであろう。
  • 2015/07/17 のアップデートで自身の曲「加賀岬」を披露するようになった。ジュークボックスまたは今夏に限り西方海域までの○-4ボスで2番の途中まで聞けるので持っている人&ボスへ行った際は聞いてみよう。なお現在、出撃では4-4ボスのみでしか聴くことができない。少し残念です。
    • 2018/10/10 のアップデートでBGMが変更されたため4-4ボスでも聴けなくなった。現在出撃で聴くことはできない。

キャラクター設定について

  • ゲーム内では無感情で冷徹そうに見えるが、しばふ氏のツイートによると実際は顔に出て無いだけで感情の起伏はかなり激しいらしい。
    • 台詞の内容を見てみると普段は少し高慢とも取れる態度を取っておきながら被弾時に唖然としたりと、激しい本性を冷徹な雰囲気で隠しているようにも見える。
      おっとりとして優しい雰囲気ながら、戦闘中は艦載機への命令、母港でもほとんど戦闘や作戦のことしか喋らない赤城と比べるとわかりやすい。
    • それと対照的にゲーム外での媒体上(特にアンソロジー版だと分かりやすいが)では、作者ごとによっては提督LOVE勢にもなってたり、口数も多かったりする等、
      ゲーム上での彼女と比べるとキャラは比較的変わりやすかったりもする。
  • イラストでは髪型が判りづらいが、ショートやミディアムではなくサイドテール。ポニーではなくサイドにする辺りが彼女なりのオシャレなのだろうか。
    • デザイナーしばふ氏は、当初右側頭部にまとめるつもりだった髪を「射の邪魔になりそうだ」という判断で移動したらしい。(ソース募集中です、しばふ氏のインタビューに有ったらしい)
      現実の弓競技でも、放れた弦・矢が髪を絡んで巻き込む事故は、和洋問わず射手さんの警戒する処である。

期間限定グラフィック

  • ローソン制服mode、買い物mode、自衛官制服modeと外部でのコラボでは異なる衣装を度々披露している。
  • 2019/01/01 のオンメンテにて、期間限定グラフィック【晴着mode】が実装された。
    • ゲーム内では待望の限定グラフィック実装である。鮮やかな青の着物が美しい。
    • 異様にウエストが着膨れて見えるが、生地や柄を綺麗に魅せるために和装は寸胴に整えるのが伝統的な着付けである。細い女性のウエストにタオルを巻いて上げ底するのは珍しくない。
      加賀さんはバストもでっかいし。
    限定イラスト:晴着mode

    限定イラスト:晴着mode
    提督、赤城さん、あけましておめでとう。本年もどうぞよろしく。

小ネタ

戦歴

戦歴

19185.15八八艦隊計画艦3番艦に「加賀」の名が正式に与えられる
19207.19『加賀型戦艦1番艦「加賀」』として川崎造船所において起工
192111.17進水。伏見宮博恭王臨席
19222.5ワシントン海軍軍縮条約締結により艤装工事の中止を命じられる
7.8川崎造船所から海軍に引渡される
7.14特務艦『富士』に曳航され横須賀へ向かう
19239.1関東大震災。
天城型巡洋戦艦1番艦『天城』が大破修理不能、破棄となり、代艦として加賀の空母改装が決まる
11.19加賀及び天城型巡洋戦艦2番艦『赤城』の空母改装が正式に通達される。
これを受け、加賀は『加賀型航空母艦』(同型艦無し)の1番艦となる
12.13空母への改装工事開始
19283.31竣工。佐世保鎮守府に籍を置き、同鎮守府の第4予備艦となる
12.28佐世保に回航される
192911.30第1駆逐隊(野風/沼風/波風/神風)と共に第1航空戦隊を編制。加賀は同隊旗艦を拝命
193012.1赤城と交代のかたちで第1航空戦隊より除籍。第1予備艦となる
193112.1赤城と交代で第1航空戦隊に編入
19321.29第1次上海事変勃発により佐世保を出港
2.2第3艦隊第1航空戦隊所属となる
2.22加賀飛行隊機がR・ショート中尉のF4Bを撃墜。大日本帝國軍初の撃墜記録となる
3.20聯合艦隊附属となる
3.22寺島水道に帰投
5.20第1艦隊第1航空戦隊所属
10.20赤城と交代で第1航空戦隊より除籍
19346.25佐世保工廠において近代化改装を開始
19356.25改装完了
11.15第2艦隊第2航空戦隊に編入
19378.10日中戦争勃発。寺島水道を出港
8.16上海上空警戒に従事
8.26上海沖において陸戦支援、南京空襲、長江の艦艇攻撃に従事
10.4華南に進出
12.1第1艦隊第1航空戦隊に編入
12.2華南各地を爆撃
19381.21作戦終了
1.25佐世保に帰投
2.28出撃、広東爆撃後厦門攻略に参加
7.1第5艦隊第1航空戦隊に編入
10.12広東攻略に参加
12.11佐世保に帰投
12.15第2予備艦となり改造工事を受ける
193911.15特別役務艦に指定される
194011.15第2艦隊第1航空戦隊に編入
19414.10第1航空艦隊第1航空戦隊に編入
12.3下士官1名が激浪により行方不明となる
12.8真珠湾攻撃に参加
19421.9呉を出港
1.2022日にかけてラバウル・カビエン・トラックを空襲
2.19ダーウィン港空襲に参加
3.5チラチャップ空襲に参加
5.4佐世保に帰投
6.5ミッドウェー海戦に参加、戦没。
艦長・岡田次作大佐以下811名戦死、40名ほどの生存者は萩風舞風が救助
8.10除籍
艦長

艦長

艤装員長第1代宮村暦造 大佐1921年11月1日~1922年6月25日
建造中止命令により以降1927年3月10日まで艤装員長不在
第2代小林省三郎 大佐1927年3月10日~1927年12月1日
第3代河村儀一郎 大佐1927年12月1日~1928年3月1日
艦長第1代1928年3月1日~ ? 
第2代宇野積蔵 大佐1930年12月1日~1931年12月1日
第3代大西次郎 大佐1931年12月1日~1932年11月15日
第4代岡田一 大佐1932年11月15日~1932年11月28日
第5代原五郎 大佐1932年11月28日~1933年2月14日
第6代野村直邦 大佐1933年2月14日~1933年10月20日
第7代近藤英次郎 大佐1933年10月20日~1934年11月15日
第8代三竝貞三 大佐1934年11月15日~1936年12月1日
第9代稲垣生起(あやお) 大佐1936年12月1日~1937年12月1日
第10代阿部勝雄 大佐1937年12月1日~1938年4月25日
第11代大野一郎 大佐1938年4月25日~1938年12月15日
第12代吉富説三 大佐1938年12月15日~1939年11月15日
第13代久保九次 大佐1939年11月15日~1940年10月15日
第14代山田定義 大佐1940年10月15日~1941年9月15日
第15代岡田次作 大佐*71941年9月15日~1942年6月5日

空母への改装、そして竣工

  • 八八艦隊計画三番艦、加賀型戦艦一番艦「加賀」として神戸川崎造船所で建造される。
    • 1921年(大正10年)に10万人の観衆が見守る中、華々しく進水。しかし艤装を前にしてワシントン海軍軍縮条約が締結され、数奇な運命の末に空母として生まれ変わる事となる。
  • 元々は加賀型戦艦一番艦だったが軍縮会議で廃艦され、天城型巡洋戦艦「天城」「赤城」の空母化資材になる予定だった。
    しかし、「天城」が関東大震災で竜骨を破損して廃艦が決定。そこで加賀が代艦として空母化される事になり、廃艦を免れて空母としての道を歩む事となった。画像・横須賀工廠ドック内で横転している天城
    • なお、2015冬のイベントで追加された「天城」は雲龍型航空母艦二番艦であり、天城型巡洋戦艦一番艦として起工された上記の「天城」とは別物である
    • 主砲には41cm連装砲5基を搭載し、煙路防御や傾斜装甲を取り入れるなどの進歩的な設計が見られた戦艦でもあった。
    • ちなみに加賀型戦艦二番艦「土佐」は進水したばかりの所で建造中止。
      長崎から呉へ曳航され標的艦として各種の試験に使われた後、土佐国(高知県)宿毛湾の沖ノ島西方約10海里の地点に沈められた。
      なお、長崎市の端島の別名「軍艦島」は、横から見た形が土佐の艦影に似ていたことからつけられた物である。
      • 余談だが、「加賀」の建造された神戸川崎造船所の(造船所としての)前身である兵庫製鉄所は加賀藩関係者によって設立されたものである。「土佐」もまた土佐藩出身の岩崎弥太郎が経営していた三菱造船長崎造船所で建造されているので、加賀型戦艦の艦名は奇しくも建造された造船所のルーツに当たる人物の出身藩名と一致している事になる。
    • 空母で「信濃」(未実装)と加賀のみ旧国名由来なのは、上記の通り戦艦として建造されていた事による。
    • もし空母に改装されなかったとすれば、長門陸奥の義理の妹のような存在になる。つまり扶桑山城に対する伊勢古鷹加古に対する青葉の立ち位置である。
      計画当初は長門型の3番艦として計画されていたため、長門型に取り入れられなかった防御方式などを取り入れる予定だった。
      • 計画途中で長門型で見つかった不具合の改良点などを盛り込んだ結果、長門型から加賀型のネームシップへと変わった。
        おもな変更点は主砲を4基8門→5基10門へ増設・重油石炭混焼ボイラーを廃止し大型ボイラーの比率を高め、ボイラー数を22基→12基へ削減しつつ速度を維持・煙突を2本→1本へ集約・上部装甲の強化など。
        そのせいか、新造計画時の常備排水量は長門の33,800トンから39,979トンへと大幅に増加した。
    • ちなみにこれらの事情について艦これではあまり深く言及してないせいもあってなのか、アンソロジーコミックの舞鶴鎮守府編第4巻では加賀が天城の事を自身の姉というミスが生まれたりもするというかなんで誰もそこを指摘されなかったのか…
  • 空母としての竣工時は煙突を艦尾まで引き延ばす誘導煙突を採用していた。現在までに3例だけの珍しい方式である。
    • しかしこれが大失敗。煙路周辺の室温は40度を越え、ほぼ居住不能と化してしまった。おまけに排煙は艦尾に乱気流を起こして着艦の障害に。
      搭乗員は蒸し焼き、航空機は燻り焼き…この有り様を揶揄して曰く「海鷲の焼き鳥製造機」。あんまりである。
    • 公式4コマ第16話の鳳翔のおかず選び、第18話のコタツにおける排熱、第24話の他の空母に暖とりに抱きつかれる、81話の沸騰する温泉、93話の加賀の入った後の風呂、160話のジンギスカン鍋の熱源など「異様に体温が高い」ネタはここから来ている。
      • アンソロジーコミックの佐世保鎮守府編第2巻の第2話でも、金剛が「加賀がいるからアツイネー」と言っていたことからここでも、排熱ネタが使われている。
      • 間宮の使用による士気回復で一気にキラキラまでいくのもコレ(暑がりなのでアイス好き)からか?
    • 当時は空母の設計すら手探りの時代で、先行して配備されていた英国海軍の空母アーガスの設計を参考にして煙突を誘導式にしたのが原因だったとか。
      なお加賀の欠陥はアーガスや、同じ排煙方式の空母フューリアスも同様に抱えており、しかもアーガスは1944年に戦力外通告で退役させられるまでそれを是正する気配すらなかった。
      もっとも息も凍る冬の北海を航行する際には乗員から喜ばれたらしい。
  • まだ空母向きだった赤城と違い、こちらは速力と全長が足りない戦艦を改装した上に煙突配置まで失敗したため、あらゆる点で欠陥を抱える空母として竣工してしまった。
    • 支那事変当時に「加賀」の甲板士官として務めていた板倉光馬少佐の著書によると、この頃の加賀の艦内風紀は上記のような欠陥による居住性の悪化もあってか、他の大型艦と同様にとても乱れていたという。
      ギンバイ(食料等のかっぱらい)や、航空隊士官による艦乗組員への私的制裁も酷く、その陰湿な気風で自殺者や逃亡者も多かったという。板倉氏は著書内でこれを「大型艦はどこも大差ない」と回想している。
      更には横須賀在泊中に高級将校が艦内に芸者を招いて宴会をしていたり、新任甲板士官が着任したら面当てに飛行甲板へ人糞が落ちていたこともあったそうだ。
      • その後「加賀」の艦内風紀の乱れは、結果的に太平洋戦争の開戦前には改善に成功した。
        当時の「加賀」において鬼の甲板士官と言われた板倉氏の著書には『彼らはちゃんと叱れば素直に従ってくれた』とあり、
        板倉が駆逐艦「如月」に転勤するため加賀から去る際、加賀の乗員達は涙を流して別れを惜しみ、千切れんばかりに帽子を振りながら見送ったと記されている。
    • さらに赤城と同じあのロマンと艦橋と20cm砲の載った三段飛行甲板も完備!その結果は赤城の項でお察しください。

改装~海軍最強の空母へ

  • 流石にまずいと感じた海軍により、日本海軍史上一~二を争うほどの大改修が行われ、開戦時には速度を除けば日本でトップクラスの性能を有する空母として生まれ変わった。
    • 煙突誘導を赤城同様の湾曲煙突に変え、三段甲板も一段に絞り、高角砲をより強力なものに換装。
      • 湾曲煙突に変えたことで重量がおよそ100トン節約できた。さらに乗員も煙突の煙路が原因による灼熱地獄から解放され、居住性の向上につながった。航空機運用の観点でも、艦尾から排煙してたころと比べ気流を乱して着艦を妨げるようなことが無くなった。
    • 特に格納庫の広さはその後の日本空母含め最大。3段ある格納庫のうち、艦載機運用に使用している2段*8だけで7493㎡もあり、赤城よりも更に約1000㎡ほども大きい。基準排水量も信濃に次ぐ大きさである。
      何しろ、真珠湾攻撃作戦時は、当初は「『加賀+翔鶴瑞鶴』に『一航戦+二航戦』を載せればいい」と言われたほど。
      当初この3隻が選ばれたのは赤城飛龍蒼龍には航続距離に不安があったからであるが、運用する側としては緊急時以外には出す事のない最高速度の優劣を機動部隊所属艦艇の選別の基準にするのではなく、自艦の搭載燃料でどれだけ作戦行動できるのかを重視しており、後述する加賀が6空母で一番低速であった事を「足手まといだった」というかつての論調が間違いであった事を示している。*9
    • 艦橋も新調。右側に立てたので赤城や飛龍より良好と言われる。
      • これはレシプロ機の特性の問題であり、推力を上げれば上げるほど機体はプロペラの高速回転の反動で左に寄ってしまう(この現象をカウンタートルクという。なお普通は発艦の際機体の舵を右方向に切ってカウンタートルクを打ち消すが、それでも機体がふら付くので完全な直進は難しい)左に艦橋がある赤城や飛龍では、このカウンタートルクの特性もあって発艦する際グングン艦橋に寄ってしまうことがあり危ないのだ。よって左側ではなく右側に艦橋のある方が万一にも艦橋に突っ込むことはないことが評価の一つとして存在する。
      • しかし一方で、本来は大型の艦橋を設置するハズだったのが、友鶴事件の影響でトップヘビーを回避するべく、加賀の艦橋は羅針艦橋、操舵室、発艦指揮所のみと非常にシンプルかつ四層という小型な造りになってしまった。この艦橋は自前の航空隊の指揮と操舵や航海には差し支えが無く欠点と言えるほど致命的だったわけでもないのだが、小型故に艦隊司令部を設置する余裕はあまりなかった。*11
    • 全長が足りないので8m延長。開戦時の6空母で船体より長い飛行甲板を持っていたのは加賀のみ。
    • 当時27.5ktという鈍足も機関を取り換えてそれなりに向上したが、それでも28.3ktが精一杯だった。*12
      速力について

      速力について

      • 艦これでは速度「高速」扱いなのだが、実は大和とあまり変わらない。
        • 艦これでは公称値の最大速力28.0kt以上を「高速」、27.9kt以下を「低速」として定義している模様。*13
        • 他の一航戦二航戦五航戦は金剛型を越える速度なので、鈍速の加賀は他の機動部隊の足を引っ張った説が根強く残っている。
          • そもそも最大速力で艦隊行動を行うことを前提に論じるのは、経済性を度外視しており非現実的である。*14自動車で最大速度で走り続けるとガソリンが直ぐに無くなっていくのと同じで、燃費が激悪である。
            実際に加賀の速力が機動部隊の足を引っ張っていたという資料や実例は存在せず、後年になってスペック上から想像した予測の域での話である。
          • また海軍の艦載機は無風状態でも母艦が26ノットを出していれば発着が可能なように設計されており、加賀の28ノットは艦載機の運用に問題はない速力であった。真珠湾攻撃でも艦隊が航空隊出撃のために出した速力は24ノットであり、30ノット以上も出して発着した記録は見当たらない。
          • 加賀以外でも真珠湾攻撃に機動部隊として随伴した戦艦2隻の最大速力も、比叡(29.7ノット)、霧島(29.8ノット)で加賀とは1ノット程度の差しかない。ミッドウェー海戦後ではあるが、日本海軍では機動部隊に加賀よりも鈍足な隼鷹型航空母艦(24.5ノット)や祥鳳型航空母艦(28ノット)を普通に運用していた。
          • 実際のところ祥鳳型の瑞鳳では中盤まで運用していた九七式艦攻の運用には問題が無かったが、*15マリアナ沖海戦時において瑞鳳の航空火力の要は爆装された零戦二一型で、そもそも彗星は653空には配備されておらず、天山も誘導機として使用していたので発艦に大きな影響を及ぼす雷装も無ければ爆装も施されていたとは考えにくい。爆装があったとしてもそこまで多くは積まない。つまり速力を問題にする状況以前に天山や彗星といった新鋭機を大々的に使用していなかったので問題にはならなかった。そして隼鷹型では1944年以前に運用されていた零戦21型、52型、九九式艦爆と九七式艦攻の運用にはまったく問題なかったが、天山は不明であるがマリアナ沖海戦時前に新しく受領した彗星は少なくとも秒速5m以上の生の風が無ければ発艦不可能だったという当時の艦爆隊員の証言もある*16
            無論、だからといってただちに速力28ノット半、飛行甲板長248.576mの加賀が新鋭機を運用できないと論じることはできない。何故なら隼鷹型では飛行甲板は206mと中型空母としても短く上記の通り速力は25ノット程度と遅い。瑞鳳に至っては28ノット出るとは言え、飛行甲板が当初は180m、1944年の改装時では195mとかなり短いという加賀との違いを考慮する必要がある。
            加賀よりも小型で発着する飛行甲板が短く、速力は加賀よりも遅い祥鳳型が、この点を問題視する話はあまり聞かれないのは新造時のあまりにものダメッぷりが、改装後も悪いイメージを残しているからだろうか?
          • 逆に空母が最大速力近くまでスピードを出した場合、海面の状況によっては揺れが発生し、重量級の艦攻の発着が不可能になる可能性があった。*17
      • 加賀は真珠湾攻撃前、魚雷を輸送するため佐伯から単冠湾を3日で移動しているのだが、先発した蒼龍達は4日もかかっている。長門の速力や大和の46cm砲等に代表されるように、本来のスペックを秘匿して公称する例自体は存在するので、加賀の速力も実際より低く公表したのではないかと考える者もいる。
        • 戦前戦中で公開されていた加賀の速力のスペックは23ノットである(ちなみに長門の公称速力と同じであり、長門型を発展させた加賀型戦艦を空母に改装した加賀のスペックとしては妥当である)。つまり28ノットという速力は秘匿されたスペックであり、そこから更に隠された真のスペックが存在するとは考えにくい。
        • 佐伯-択捉島間の航行距離を太平洋航路でおよそ1,200海里と定めた場合、航路を72時間で走破するのに必要な速力は約16ノット。余裕で走破できてしまう。
          当然ながら選択した航路によって航行距離は増減するが、先行した二航戦や僚艦の赤城たちに2日も遅れをとっている加賀が30ノット航行が必要になる大回り航路を選択するとはやはり考えにくい。もし本当にそうしたのであるならば航海長は相当な無(ry
          仮に全行程を30ノットで爆走した場合、72時間で約2,200海里(約4,000㎞)進める。しかし、先に触れたように全速を出すと燃費が悪化し燃料をバカ食いする。加賀の公試過負荷全力の燃費で計算するとその量なんと約4,500トン!この数字は加賀の搭載燃料(約7,500トン)の半分以上であり、残燃料は3,000トンとなり航続距離の短さから真珠湾作戦参加を危ぶまれた蒼龍飛龍の満載燃料量より少ないというとんでもない低さであり、すでに対日石油禁輸が発動している情勢でこれは途方もない贅沢であるといえる。
      • 特に『艦これ』においては加賀さんの低速の謗りは夕張のとばっちりである面も大きい。

  • またボディが戦艦だけあって安定性には確かなものがあり、その点は着艦するパイロットから好評だった。
    荒天の真珠湾攻撃においても船体の揺れは新型の翔鶴よりも少なかったと報告されている(横揺れについては最大で加賀3度、飛龍11度、翔鶴20度*18
    • 速力が足りなくて新型艦載機を発艦できないのではとも言われているが、マリアナ沖海戦では加賀より飛行甲板が短く26ノットの龍鳳天山を発艦していた記録も残っているように、実際は26ノット程度でも十分運用可能であった。
      信濃では20ノット程度の航行状態で流星天山紫電改の離着陸テストに成功しており、さらにテストパイロット*19も離着陸は良好だったと証言している。
      速力が遅くとも十分な長さの飛行甲板があれば、その分艦載機は加速できるので問題ない。信濃の事例がそうであり、加賀も同様のことが言える。
      • ただし、三式制動装置を装備し新型機を見据えた設計が施されている大鳳雲龍、信濃といった最新鋭艦とは違い、翔鶴型までの前級艦ではエレベーターの寸法上の問題や旧式の着艦制動装置の問題もあり、流星等の大型重量艦載機の運用には未対応だった。*20運用するのならそういった改修工事が必要だっただろう。
  • この改装による全通一段甲板、右舷前部の小型艦橋、下向き湾曲型煙突、飛行甲板周囲の対空砲火という艦形は蒼龍に受け継がれ後に続く日本空母の多くに採用されることになる。
  • 上記されている二次改装の際の工数はどの艦の改装工数よりも多く、他にも、空母への改造*21、近代化改修*22などでも加賀の工事はかなり大掛かりな内容になっている。
    • それを反映したのか、加賀は全空母中最大の運用コストを誇っていた。(現在は翔鶴改二/改二甲、大鳳改に次ぐ3位)
    • もともと長門より強くて大きい戦艦になる予定だったので当然と言えば当然だが
    • しかし上記の改装(第二次改装)の際に使われた改装費、実は赤城より加賀のほうがやや控えめだったりする。*23
      と言うのも、加賀の上海事変での運用実績があたりまえだが決して良好とは言えなかったので*24*25単一甲板へ大変貌を遂げる二次改装の際は加賀が優先され先に予算がおろされたため、赤城改装時は友鶴事件及び第四艦隊事件*26、新艦建造*27…とにかく間が悪く、予算不足に人手不足で工期が加賀より約2年ほど長くなっており、結果として、大掛かりな改装を満足に行えなかった*28割に費用がかさむ事になったのだ。
      ただし改造空母化や三段空母時代の改装・改修予算は赤城に優先(と言うか加賀の改装費を流用)して使われている。この時は逆に加賀の方が予算不足に陥って改装がなかなか進まず*29、まだ工事が残っているのに竣工するという面白いことになっている。*30
  • 空母の運用が定まっていない時代の艦艇なので、砲火力は充実している。近代化改装後は赤城より火力が強力で20センチ砲10基10門、12.7センチ連装高角砲8基16門を搭載。
    片舷射撃しか出来ないので実質5門とは言え、古鷹青葉型重巡洋艦並の大火力。
    • しかも予算不足で減らした赤城と違い後部に移動させただけで、沈没するその時まで10門を維持していた。
  • 昭和14年の「戦時艦船飛行機搭載標準」で定められた加賀の搭載機数は、零戦18機(補用2機)、九九式艦爆18機(補用5機)、九七式艦攻45機(補用5機)であった。
    補用機*31の合計を4スロ目に配分すると、艦これにおける加賀(改造前)のスロット配分と合致する。
    ただしこの「搭載標準」とはあくまで書類上の、戦時になったらこの数字を搭載する計画であるという類のものであり、実際の加賀が搭載した機数とは必ずしも合致しない。これは他の空母についても同様である。


  • 戦前屈指の大型空母として改装にはあらゆる新機軸が検討がされており、のちの大鳳や隼鷹のような煙突一体型艦橋や
    戦闘機を射出するカタパルトの搭載も計画され、実際に支柱を増やす甲板の強化も行われている。
    • 三基もの火薬式カタパルトを装備し、九六式艦戦を連続射出する予定だったが
      零戦の戦力化で投射能力不足となってしまった

初陣、日中戦争

  • 初陣は1932年(昭和7年)の第一次上海事変。鳳翔と共に世界史上初の空母の実戦参加となった。日本機動部隊の誕生である。
    ここで加賀戦闘機隊*32は日本初の艦載機隊による敵機撃墜を記録し、その戦果を称えられ感状を賜っている。
    • ただその一方で「日本海軍初の艦載機被撃墜」という記録も与えられた。*33
      余談だが、この時に戦死した艦攻隊の藤井斉大尉は所謂「昭和維新」と呼ばれる右翼運動の中心人物であり、のちに起こった血盟団事件や5・15事件の主犯格とも深いつながりを持っていた。
  • 日華事変では予備艦籍にあって横須賀工廠で限定的な改装を行っていた赤城に代わり、一航戦の文字通りの中核として大車輪の活躍を見せた。
    • 南京・広徳・蘇州飛行場の同時攻撃、上海周辺軍事施設の攻撃破壊、上海やバイアス湾の上陸支援水平爆撃、
      敵巡洋艦「平海」の大破着底、南支方面の沿岸攻撃など、加賀の船体は連日の出撃によって錆だらけになっていたという。
    • 世界初の機動部隊を率いて日華事変を戦い、激戦と試行錯誤の末に部隊練度を無比なレベルにまで上げている。
      鳳翔龍驤と共に世界で活躍を報道され、その名を知らしめた。
    • 後の大戦時に飛行隊長や分隊長として活躍したエースパイロット達は、この時に加賀や龍驤に乗組した経験者が多い。
      • この頃に活躍した加賀乗組飛行士の中に、「親分」こと高橋赫一大佐や、真珠湾攻撃の軍状奏上を行った嶋崎重和少将が所属している。
        この二人は義兄弟の間柄であり、さらに奇しくも真珠湾攻撃では翔鶴型の姉妹艦翔鶴瑞鶴の飛行隊長をそれぞれ務めている。
      • 他にも後にベテラン搭乗員として活躍する磯崎千利大尉、零戦初陣に参加し「赤城」分隊長を務めた進藤三郎少佐、
        「飛龍」の「友永隊」で知られる友永丈市中佐、「赤城」「翔鶴」飛行隊長の「雷撃の神様」村田重治大佐などが加賀搭乗員として参加・初陣している。
    • 日華事変での実戦経験を蓄積し、新型艦載機の開発と試行に貢献している。
      当時複葉機が中心だった艦載機を、後の九六式艦戦零戦といった単葉機へ進化させたのは加賀の功績と言って良い。
      これまで日華双方共に多大な損害を出しながらも激戦を繰り広げていた加賀だったが、新型艦上機の登場で相手を圧倒するようになる。*34*35
    • 翔鶴型の建造にも貢献。加賀の運用実績のノウハウを詰め込み、蒼龍飛龍の発展型として設計されている。*36
    • 加賀は当時世界最強と謳われた日本機動部隊、第一航空艦隊の礎であり、日本単葉艦載機の育ての親なのである。
    • 一方で事変における活躍が仇となったのか、1937年12月12日に起きたパネー号撃沈の濡れ衣を着せられたこともある。
      パネー号事件について

      パネー号事件について

      • この事件、中支那方面軍司令部に連絡参謀として派遣されていた海軍少佐から「南京上流約10海里の揚子江上に中国の敗残兵を満載した商船約10隻が上流に向かって逃走中である。陸軍にはこの敵を攻撃する手段がないので、ぜひとも海軍航空部隊で攻撃してもらいたい」との(陸軍からの攻撃協力)要請を受けた第二連合航空隊が常州飛行場より攻撃隊を発進させ*37パネー号および他米船舶を攻撃、撃沈に至らしめたというのがことのあらましである。
      • しかし、近年刊行された戦記NF文庫における"出先艦艇から連合艦隊にあてた報告電報がアメリカ海軍情報部によって傍受解読され、パネー号攻撃が航空母艦加賀の一将校によって故意に計画されたものだったと判明した""日本海軍当局も、パネー号攻撃の責任者である加賀の艦長を解任することによって、このような逸脱した行為は許さないとの態度を示した。"*38といった記述や、Wikipediaのパナイ号事件の概要の説明から加賀航空隊によって引き起こされた事件という誤った認識をした人も多々いるようである。実際には航空母艦加賀および搭乗員はこの事件に関与していない
        攻撃をしたのは第二連合航空隊所属の第十二航空隊、第十三航空隊所属機であり、加賀航空隊は全く関与していない。この時加賀は南支方面作戦に派遣中で、南京方面には展開していなかった。
        また、この事件によって空母加賀艦長が解任されたという事実もない。この時加賀艦長を勤めていた阿部勝雄大佐は、1937年12月1日、加賀が第一艦隊第一航空戦隊に編入されると共に艦長に着任、同年12月2~10日に基隆を経て華南各地への爆撃作戦(1月21日作戦終了)、1938年2月28日に広東爆撃・厦門攻略に参加後、同年4月25日に大野一郎大佐が加賀艦長に着任するまで艦長職を全うしている。
      • 攻撃に加わった村田重治大尉*39が加賀乗り組みだったことや、三竝貞三少将*40が加賀艦長だった経歴を持っているが、それだけである。
  • のちに日本空母の基本かつ重要な装備となった着艦指導灯を自艦工作で開発・装備するに至っており、これは加賀の艦歴の中でも一際映える功績と言えるだろう。*41
  • 大戦前の演習では龍驤とコンビを組んで連合艦隊旗艦である長門に挑み、見事に翻弄している。

太平洋戦争開戦

  • 太平洋戦争が始まると、加賀は一航戦、ひいては南雲機動部隊の中核として太平洋戦線を転戦。初期の快進撃を支えた主力の一隻として活躍した。
  • 真珠湾攻撃では加賀航空隊が最も危険度の高い目標を担当する。それだけ加賀航空隊の実力が認められていた証拠でもある。
    • 空襲第一波で最も対空砲火が濃密な箇所及び熾烈化した時に攻撃を担当したのが加賀雷撃隊であり、敵が攻撃を予測し待ち構えている所を攻撃する第2波攻撃で最も多く攻撃を担当したのが加賀艦爆隊である。
      共同戦果を含めてアメリカ太平洋艦隊の戦艦8隻中5隻沈没、3隻中破という戦果を挙げ、功勲の筆頭格に数えられている。
      • 現在平和記念館にもなっている戦艦アリゾナは、真珠湾攻撃で沈められた唯一の戦艦*42だが、これを沈めたのは加賀の水平爆撃隊である。
      • なお、アリゾナは「敵の攻撃で沈められた唯一の米戦艦」であり、加賀は「米戦艦を沈めた唯一の日本軍艦」でもある。
      • 「真珠湾偉勲の三勇士(海鷲三士官)」の内の二名は加賀搭乗員*43。もう一名は蒼龍の搭乗員*44
      • 加賀乗組員ご本人による真珠湾攻撃当日の証言がこちら
  • 真珠湾攻撃後、加賀参加の主な作戦は、ラバウル攻撃・カビエン攻撃・オーストラリア要衝ポートダーウィン攻撃・ジャワ島チラチャップ攻撃など。
    連合国の軍事拠点に対して上陸作戦や軍港、飛行場攻撃、制空権確保などで戦果を挙げて日本の勢力圏を拡大。
    当時世界最強という名に恥じない日本機動部隊の中核として破竹の快進撃を続けた。
    • 因みに教官要員までかき集めた真珠湾攻撃の後、翔鶴・瑞鶴・赤城の常用機定数は蒼龍・飛龍と同じ54機まで減らされたが(翔鶴・瑞鶴は艦攻・艦爆を各3分の2、もともと艦爆の定数が蒼龍・飛龍と同じだった赤城は艦攻を3分の2に削減)、加賀も艦爆を3分の2に削減されたものの、艦攻の常用機定数は27機のまま据え置かれ、常用機合計63機と、ミッドウェー海戦時には日本海軍の空母で最強の攻撃力を持っていた。
    • 加賀と赤城は重要軍事拠点であるラバウルやカビエンを徹底的に攻撃し、第二次ラバウル攻撃により攻略作戦を成功させている。
      迎撃する敵戦闘機を撃墜すると同時に、カビエンを航空攻撃により守備不能にさせ、全く抵抗を受ける事無く無血上陸を果たすなど戦果を挙げている。零戦1機が不時着、艦攻1機を喪失。
    • ポートダーウィンでは在泊46隻中、21隻を撃沈、湾外で2隻撃沈。米軍水上機母艦、大型貨物船9隻が大破。合計4万3429トンを海に沈めた。艦爆1機を喪失。
    • クリスマス島沖では給油艦ペコス、駆逐艦エドサルを撃沈。
    • ジャワ島チラチャップでは商船3隻を撃沈、商船14隻を撃破。日本軍占領の際に14隻を自沈。
大戦時の主な加賀飛行士

大戦時の主な加賀飛行士

  • 戦闘機隊
    • 戦闘機隊長・志賀淑雄少佐*45
      • 真珠湾では第一次攻撃の加賀制空隊隊長を務めた。航空参謀である源田実大佐の右腕的存在。後に「隼鷹」「飛鷹」飛行隊長、「信濃」「343空(剣部隊)」飛行長。紫電改の実用化試験や戦闘指揮、烈風の開発にも関わった。部下思いで知られ、部下を特攻させる事には断固反対の立場を取っていた。彼が率いる剣部隊には最後まで特攻が下命される事がなかったという。
        なお、ミッドウェ―海戦前に特設空母の隼鷹への異動が命じられた際、この命令に不服で源田参謀へ直訴するが「お前、岡田艦長と何かあっただろう」と言われ断られてしまう。元々志賀は岡田次作加賀艦長とそりが合わず、口論をしたこともあったという。しかし結局この人事異動で志賀は命拾いする。
        終戦後は警察官の備品(警棒や防弾チョッキなど)を扱うノーベル工業に入社し、最期は会長まで務める。またその縁であさま山荘事件などで指揮を執った佐々淳行と知り合いとなり、昭和40年代の学生闘争の際は日大理学部での機動隊突入の際、隣接ビルから突入するための木製架橋を作ったり、東大安田講堂での攻防では移動式の鉄製屋根を作ったりして警察に協力したりもしている。
    • 戦闘機隊長・二階堂易少佐
      • 訓練中に零戦の補助翼が左右共に吹き飛び空中分解した時に、沈着に機体を立て直し着陸させる。整備兵と共に機体を磨いたりなど人格技量に優れた搭乗員だった。真珠湾では第二次攻撃の加賀制空隊隊長を務めた。1942年5月8日に伊豆下田付近で殉職(原因要調査)
    • 分隊長・坂井知行少佐
      • 別名「クラスヘッド・モグ」(クラスヘッド=成績最優秀、モグ=しゃべる時なんとなくモグモグした調子から)。頭脳・技量に優れ部下からの人望も厚かった。横須賀航空隊を経て五八二航空隊分隊長となり、ソロモン、ニューギニアを飛び回ったが、1942年11月30日、ブナ上空で戦死している。
    • 山本旭中尉
      • 射撃の名手として名を馳せた日華事変以来のベテラン。ミッドウェーでは「加賀」被弾後も「飛龍」に着艦し戦闘を続行、4機を撃墜。加賀沈没後は瑞鳳に乗り組み、南太平洋沖海戦からい号作戦まで乗り組んでいた。その後横須賀航空隊に転属し、「紫電」「雷電」のテストパイロット。1944年11月24日に東京上空でB-29の迎撃に参加、被弾により落下傘脱出するも開傘せず墜落死。
    • 豊田一義中尉
      • ラバウル攻略時に大村航空隊から転勤してきた搭乗員。実は昭和15年から加賀に乗り込んでいたが、真珠湾攻撃二か月前に大村航空隊に異動していた経歴を持つ。ラバウルからミッドウェーまで加賀乗組みで、ミッドウェーでは加賀に襲い掛かるTBDを僚機と共に撃退している。その後、築城空で教員、佐世保空など転々とし二五六空では零戦に乗りF6Fと空戦し、二五六空はF6Fを2機を共同撃墜している。その後、雷電に乗り換え、中支空を経て終戦。戦後、雷電について感想を残している。
    • 鈴木清延飛曹長
      • 撃墜9機以上といわれたベテラン搭乗員。撃墜100機座談会に呼ばれた一人*46。1942年10月26日、隼鷹乗組で南太平洋沖海戦に参加して戦死。
    • 平石勲 二飛曹
      • 操錬27期をトップで卒業。長く志賀大尉の二番機を勤めた。志賀氏が見てきた搭乗員の中で「素質と腕と闘志の三拍子揃った搭乗員」の1人として挙げている*47
  • 艦爆隊
    • 艦爆隊長・牧野三郎中佐
      • 真珠湾攻撃の第二次攻撃では急降下爆撃隊が、待ち構える敵戦艦群への攻撃を行っているが、その中でも牧野大尉率いる加賀の第二次攻撃隊が最も多くの出撃を担当した。牧野機が米戦艦に命中弾を叩きつけたと思う間もなく戦艦が大爆発し、爆煙の中に機影を消した。真珠湾偉勲の三勇士(海鷲三士官)の1人。
    • 艦爆隊長・小川正一中佐
      • MI作戦時の艦爆隊長。日華事変時に敵の南昌飛行場に強行着陸、部下と共に敵残存機に機銃を撃ったり、拳銃で燃料タンクに穴を開け漏れた燃料に火をつけ焼き討ちにする。真珠湾でも敵艦への急降下爆撃後に、五航戦の第二次水平爆撃隊支援として飛行場に行き、着陸しようとするB17を銃撃する勇敢な搭乗員。ミッドウェー海戦ではミッドウェー島を攻撃して帰艦し、再出撃の準備をしている最中に加賀が被弾。無理に体を動かす事が出来ない程の重症を負ってしまい、加賀と運命を共にした。
    • 分隊長・伊吹正一少佐
      • 一・二航戦が参加した真珠湾攻撃の為の爆撃競技で、伊吹大尉が率いた加賀艦爆中隊が一番の成績だった。ハワイ作戦では山川氏が所属していた第三中隊長として部隊を指揮し、見事ハワイ作戦で成功に収めた。その後、神雷部隊隊長をえて終戦。戦後は海自に入隊し、海将・自衛艦隊司令を勤めた。ちなみに山川氏とは空母飛龍艦爆隊からの上官であり、1938年には山川氏の所属する飛龍艦爆隊を率いて福建省を爆撃している。
    • 中島米吉少尉
      • 開戦当時は飛曹長で、乙飛4期生。空母加賀艦爆隊の偵察員。彼自身の経歴は不明な点が多いが、少なくともポートダーウィン以降加賀から降り、昭和17年に飛鷹で阿部善次大尉機の偵察員を務め、その後隼鷹に乗り再び阿部大尉とペアを組みマリアナ沖海戦へ参加、その後ロタ島に不時着し終戦を迎え復員している。ロタ島では海軍地上部隊の副官として活動、阿部大尉曰く非常に達筆で頭の回転も速く、仕事もテキパキしていたという。
    • 山川新作飛曹長
      • 真珠湾攻撃では第二次攻撃隊として戦艦メリーランドに爆弾を命中させ小破*48、帰路で飛行場を銃撃して敵機3機を炎上させる。ラバウル上陸作戦での爆撃や給油艦ペゴスの撃沈など各攻略作戦で活躍。後に「隼鷹」へ。南太平洋海戦では第一次攻撃で戦艦サウスダコタ、第三次攻撃で空母ホーネットの爆撃に成功する。戦後は空自に入隊し、後に日本航空の教官などを勤める。山川氏が「加賀」時代に搭乗した九九式艦爆(AII-256/報国-522 女学生全日本号*49)が模型やデカール等に採用されている。
    • 吉川克己 一飛曹
      • 小川大尉機の偵察員で予科練一期生。偵察員として非常に優秀であるが、酒豪が禍いし、同期生が少尉などに進級しているが、彼だけは飛曹であった。しかし、偵察、通信では彼の右に出るものはおらず、自差修正にも絶対の自信を持っていた。終戦時は攻三所属。
  • 艦攻隊
    • 飛行隊長・橋口喬中佐
      • 開戦時の加賀飛行隊長であり、水平爆撃及び航空爆弾の権威。*50*51日中戦争では800kg爆弾を用いての精密爆撃により敵陣地を粉砕し感状を授与されている。真珠湾でも総隊長淵田中佐を補佐し、第一次攻撃の水平爆撃隊を指揮する。*52真珠湾後はラバウル攻略、ポートダーウィン、チラチャップ攻撃にも自ら加賀艦攻隊を率いて陣頭指揮にあたる。内地帰還後に二航戦参謀となって以降、地上職に移り昭和18年に空技廠出仕となると航空爆弾の開発に携わり、芙蓉部隊などで使用された「三十一号光電管爆弾(夜間対地攻撃爆弾)」の実現に寄与。その後、横須賀航空隊・飛行隊長として終戦を迎える。
    • 飛行隊長・楠美正中佐
      • MI作戦時の加賀飛行隊長であり、一航艦の次席(最先任)を務める。MI作戦において、楠美少佐率いる艦攻隊は精鋭中の精鋭と言われ、敵艦隊への攻撃の切り札とされていた。しかし出撃する前に被弾。三上大尉らと共に飛行甲板で待機中、敵艦爆の機銃掃射によって亡くなっている。
    • 雷撃機隊長・北島一良少佐
      • 名前の読みは「いちろう」兵庫県別府村(現在の加古川市)出身の操縦員で、日中戦争初期から艦攻で空爆に参加した経歴の持ち主。29歳で大尉になり、真珠湾攻撃では水平爆撃隊を率いる橋口飛行隊長に代わり、加賀雷撃隊を指揮する。鈴木大尉機を含む5機の列機を失いながらも9本(又は8本)の魚雷を命中させる。*53ラバウル攻略などの作戦に参加し、昭和17年4月に空技廠の実験部員となる。昭和19年には横須賀航空隊審査部に転じ、海軍試作機の基礎実験に従事して終戦を迎える。戦後になると彼は母が信仰していた天理教に入信し、戦友とは距離を置き、何度か自衛隊や航空会社への誘いもあったが一切断り教会長として宗教に専念した。教育長としての彼は熱心で、夫を亡くした婦人のために農作業を手伝ったこともあった。そして自分の過去を自身の息子にも話すことはなく1949年、肝硬変により逝去。*54
    • 分隊長・鈴木三守中佐
      • 真珠湾の第一次攻撃では、まず初めに奇襲によって雷撃隊が敵艦隊を攻撃する手はずだったが、手違いにより急降下爆撃隊が先に飛行場への攻撃を開始してしまった。これにより敵艦隊に察知され、第一次攻撃の雷撃隊は激しい対空砲火に見舞われる。特に鈴木大尉率いる加賀の特第二攻撃隊2中隊は突入順が終盤であり、敵艦隊停泊最後尾の攻撃を担当した為、最も対空射撃が熾烈となった。源田参謀に『通常は敵前1,000mで発射する魚雷を、必中を計って敵前600mで発射します』と決死の覚悟を伝えて雷撃を命中させると同時に、猛烈な対空集中砲火を受けながらも敵艦に体当たりし、壮絶な戦死をとげたと言われる。真珠湾偉勲の三勇士(海鷲三士官)の1人。
    • 分隊長・福田稔少佐
      • 真珠湾攻撃にて加賀雷撃隊第一中隊42小隊を指揮する。福田大尉機*55は激しい対空砲火の為に一度は雷撃をやり直し、二度目に魚雷を発射するという荒業を成し遂げ、機銃弾8発を受けながらも無事帰還する。その後も各作戦に参加するもミッドウェー海戦において戦死を遂げる。
    • 分隊長・牧秀雄少佐
      • 真珠湾攻撃で加賀2中隊を率いて第1次水平爆撃隊へ参加。わずか5機で「オクラホマ型に2弾、特務艦に1弾」の命中弾を与える。その後も加賀と共に各作戦へ転戦する。ミッドウェー海戦後は岩国航空隊飛行隊長兼兵学校教官として後進の育成に尽力する。昭和18年12月に海上護衛総隊司令部附となり、編成された「第九三一航空隊(931空)」の飛行隊長(のち飛行長)として九七艦攻と「海鷹」などの改装空母を用いた船団護衛対潜哨戒作戦の指揮を執った。*56昭和19年11月の異動で攻撃第253飛行隊の飛行隊長となり、台湾から沖縄への航空作戦の指揮を執りつつ終戦を迎える。
    • 分隊長・三上良孝少佐
      • 真珠湾攻撃第1次水平爆撃隊・加賀3中隊長。ユニークな発想と自然体の言動で同期生の間で知られていたが、ニヒルで現実逃避的な事を言う一面も持っていたといわれる。その技量は抜群で、編隊を率いて接敵し、爆撃針路をとって目標にセットするまでのテクニックは天才的なものがあったと評されていた。実際に三上大尉が指揮する中隊は真珠湾において「メリーランド型戦艦に1又は2弾」の命中弾を与えたと記録される。その後もラバウル攻略などに参加。しかし、ミッドウェー海戦において発艦準備のため甲板上で待機していたところを敵艦爆の機銃掃射を受け戦死。
    • 赤松勇二中尉
      • 真珠湾攻撃から加賀の戦没まで加賀雷撃隊に所属。激烈な沖縄の航空戦も生き抜き、終戦を迎える。その後、真珠湾で敵対した戦艦ウエスト・バージニアの米兵との交流を持ち、佐伯市とホノルル市が友情都市となるきっかけを作っている。当時の記事。佐伯市平和祈念館に「加賀」の木造模型を寄贈し、亡き戦友の遺徳と平和への願いを後世に伝えたいとメッセージを残している。
    • 吉野治男少尉
      • 真珠湾攻撃で加賀雷撃隊2小隊2番機の偵察員(機長)として参加し戦艦「オクラホマ」に雷撃を成功。ラバウル攻略など各作戦で水平爆撃に出撃。真珠湾攻撃後に転勤してきた岩井健太郎大尉の提唱により加賀艦攻隊内に索敵・偵察を専門とする小隊が出来るとこれに加わり、ミッドウェー海戦では加賀から発艦したただ1機の偵察機の機長を務めた。*57ミッドウェーで奇跡的に生還した後は「翔鶴」乗組となり第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦に参加。その後、館山空など内地勤務を経て、昭和19年には653空攻撃263飛行隊の中核搭乗員として「瑞鶴」に乗組みレイテ・エンガノ岬沖海戦では索敵隊として天山に搭乗し参加。その後偵察102飛行隊に転属されフィリピンにて天山による索敵と夜間爆撃に参加し内地へ帰還。内地では木更津海軍航空隊において艦上偵察機「彩雲」に機種変更し、終戦まで索敵任務に携わった。終戦後も米軍への彩雲引渡し業務に携わるなど、偵察・索敵に縁がある搭乗員だった。戦後は多くの証言を残し2011年11月12日に92歳で逝去された。
    • 前田武 二飛曹
      • 真珠湾攻撃時、加賀雷撃隊第一中隊第41小隊の二番機機長を務めた偵察員。*58雷撃隊としてハワイではウェスト・ヴァージニアを雷撃している。*59その後ラバウル・カビエン攻撃、ポートダーウィン空襲に参加。17年6月ミッドウェー海戦で重傷を負い、療養のため内地へ戻り、日本近海で転戦、終戦を迎える。
    • 吉川与四郎 二飛曹
      • 前田機の操縦員で真珠湾攻撃時の詳細は上記の通り。終戦時に生存していることは判明しているが詳細不明。情報求む。
    • 松山政人 二飛曹
      • 真珠湾攻撃時第一次攻撃隊の加賀水平爆撃隊第三中隊43小隊長機(機長:森永隆義 飛曹長)の操縦員。真珠湾攻撃では水平爆撃を行い、ミッドウェー海戦では索敵任務に従事、加賀沈没後は大分海軍航空隊の教員へ転勤。
    • 森永隆義 中尉
      • 開戦当時は飛曹長で、乙飛4期生。空母加賀艦攻隊の偵察員で松山 二飛曹のペア(機長)。真珠湾攻撃では上記の通り。 ミッドウェー作戦時に加賀の艦橋に直撃弾を受ける際、岡田次作艦長の「天皇陛下万歳!!」という声を聞いたという。その後は大井航空隊から電探指導員として六〇一航空隊へ転属し、マリアナ沖海戦では偵察用天山翔鶴から発艦。台湾沖航空戦では引き続き攻撃二六二飛行隊で電探指導にあたっていた。
    • 武田友治 一飛兵
      • 真珠湾攻撃・加賀雷撃隊第二中隊第45小隊三番機の電信員。真珠湾で戦死された最年少17歳の搭乗員(他に爆撃隊の山川氏の偵察員を勤めた中田勝蔵一飛兵も17歳)。

損傷、そしてミッドウェー海戦

  • ポートダーウィン攻撃後、加賀はパラオ泊地で海図にない暗礁に座礁して艦底を損傷してしまう。当座の作戦行動には支障がない程度であったので応急修理をすまして作戦を継続、チラチャップでの作戦後に内地に帰投し修理を受けた。このためその後のインド洋での作戦には参加しなかった。
    • 印度洋作戦と同時期に計画されたポートモレスビー攻略を目指したMO作戦に、最初は空母としては加賀1隻が参加する予定だった。しかしいくら加賀でも1隻だけでは厳しいと判断される。現地指揮部隊である第四艦隊からは二航戦(蒼龍飛龍)の参加が要請されるが、練度向上を考慮して五航戦(翔鶴瑞鶴)と竣役したての祥鳳が参加する事になり、加賀の参加自体もなくなった。
  • 開戦から半年後、加賀は運命のミッドウェー海戦に他の3空母と共に参加する。その間、米空母を発見した事による艦載機の収容、出撃準備で艦隊が手間取っている間に米艦爆の奇襲攻撃を受ける。加賀にはマクラスキ―少佐率いるエンタープライズ所属機30機のうち25機が襲来、最初の3発までは回避に成功するが4発目が命中、これを含め計5発が命中し艦体は火達磨、特に艦橋の直前に置かれていた小型燃料車に爆弾が直撃したため、それの引火・爆発によって艦橋が吹き飛び艦長以下幹部がほぼ戦死してしまう。
    全艦が火達磨となったため、ガソリン庫に引火して大爆発を起こし沈没。なお同海戦において死者が一番多かった。*60
    戦闘詳報によると、沈没時刻は日本時間6月5日16時25分。
    • 来襲した敵雷撃機を回避中突然急降下する敵艦爆9機を発見、「加賀」は直ちに右に転舵して防空砲火で反撃。敵の第1~第3弾はかわしたが、第4弾は右舷後部、第7、第8弾は前部昇降機付近、第9弾は飛行甲板中央に命中。
      第8弾の爆発により、岡田艦長以下艦橋にあった者ほとんど全員が戦死し、第9弾は格納庫内で爆発、大火災となった。
      • 来襲したエンタープライズ艦爆隊30機のうち、5機は加賀の損傷から沈没は確実と判断し、攻撃を受けていなかった赤城に目標を変更し攻撃、たった5機の襲来ながら見事に1~2発を命中させ、赤城も火達磨にしている。
    • 尚、被弾したのが7時22分なので、誘爆、炎上を繰り返しつつもほぼ9時間浮いていた計算になる。
      赤城も加賀より長く浮いており流石元戦艦設計、とも言える。最後は転覆せずほぼ水平に沈んでいったといわれる。
    • 加賀の最期はガソリン庫引火による大爆発以外にも生存者の救助に来た駆逐艦「舞風」「萩風」によって雷撃処分されたという説もある。
      駆逐艦「萩風」に救助された加賀艦攻搭乗員の吉野治男一飛曹(後に少尉)の証言では、「加賀の艦首から艦尾にかけての格納庫は焼け落ちて、ほんの数時間前までの威容はまったくありません。それでも上甲板以下はしっかりしていて、元は戦艦として建造された面影をとどめていました」
      その後、吉野氏を救出した「萩風」「舞風」から2本づつ魚雷を加賀に発射(舞風の魚雷は命中しなかったとされる)。
      沈んでいく加賀に乗員達は挙手の礼でこれを見送った。鉄塊と化して沈んでゆく加賀の姿に、吉野氏は涙も出なかったという。
    • 艦橋の将校が戦死する中、唯一生き残った天谷中佐(加賀飛行長)が先任士官として指揮をとり、全力で消火に努めている。*61後に天谷中佐が中心となって残存空母のダメージコントロール対策に尽力し、その能力向上に貢献している。
  • ミッドウェー海戦では一方的にやられたような記載が多いが、直掩の零戦パイロット達は活躍ししっかり戦果をあげている。
    米海軍側で最も被害が大きかったのが各空母所属の雷撃隊で、出撃した40機に対し無事母艦に生還したのはたった3機。
    そして雷撃隊の隊長含め搭乗員79名も生還できず戦死し、雷撃隊壊滅という被害を受けた。
    • この時、米空母の雷撃隊が装備していた機体がTBDデバステーターで、新型後継機TBFアヴェンジャーの搭載は間に合わなかった。
      その為、新型機はミッドウェー基地に配備されることとなり、ミッドウェー海戦にて初陣を飾ることになる。
      しかし、この新型機を装備した雷撃隊もミッドウェー海戦で日本軍の零戦隊により1機を除き全て撃墜され最悪のデビュー戦となった。
  • 長く日本空母が脆いかのような象徴とされている加賀だが、実際に同じ目にあわされた米空母ワスプも雷撃処分の憂き目にあっており(詳細は伊19の項にて)、アメリカのダメコン技術をもってしてもここまで打たれたらどうしようもないともいえる。日本海軍でも図上演習などでは空母は爆弾5発以上を受けると大抵大破航行不能と認定されており、兵装転換のごたごたや、搭載爆弾や魚雷の放置がなかったとしても加賀は助からなかっただろう。
  • 6空母で一番の大型艦ながら、座礁やら何やらで米英空母の撃沈に関わっていないのは加賀だけ。空母撃沈戦果を加味すると一番戦果が少ないと言える。
    • 嘘です。前述の通り加賀は支那事変の頃から長く活躍した歴戦の艦であり、空母撃沈だけが戦果だと考えるのは間違いである。
      • 大戦時の加賀の戦略的貢献度(作戦成功数、対損害比率)、特に真珠湾攻撃後からの艦載機搭乗員の生還率については素晴らしい戦績を残している。
        そもそも武勲武功の優劣に明確な算定基準があるわけではなく、何を重視するかによってその艦の評価も変わる事も補足しておきたい。
    • 前述の通り真珠湾攻撃では唯一戦艦を撃沈しているし勲功の筆頭とされている。他にも米給油艦ペコスや駆逐艦エドサルの撃沈にも関わっているのは前述の通りである。

五航戦との関係

  • 五航戦に対して辛辣な台詞があるが、史実において一航戦の搭乗員達が錬度の低い五航戦の搭乗員達を見下していたという通説に由来している。
    • ただしその五航戦の搭乗員も、欧米に行けば教官クラスの熟練搭乗員だった。中支以来戦い続けてきた一航戦やニ航戦の搭乗員たちが特別すぎたのも理由。
    • 五航戦は瑞鶴就役からわずか二か月ちょっとで真珠湾攻撃に参加している。無茶な話です。*62
    • 五航戦が珊瑚海海戦で米空母レキシントンを撃沈したことを知った一航戦の搭乗員が「妾の子(あとから来た五航戦のこと)でもできたんだから」「我々なら鎧袖一触だ」とミッドウェー出撃前に述べた逸話が残っている。*63
    • そんな一、二航戦も搭乗員の補充・交代と、作戦続きによる訓練不足から搭乗員の技量低下に悩まされていた。
      • MI作戦の第一航空艦隊戦闘詳報によると、新規搭乗員は漸く着艦が可能になった程度で、旧搭乗員も夜間攻撃に対し編隊規模の連携は無理で成果は期待できないとされた。
        また作戦前に行われた横須賀航空隊による雷撃隊の技量審査では、成績極めて不良とされた上、(母艦搭乗員全体に向けて)「この程度の技量の者が珊瑚海で成果を収めたのが不思議でならない」とまで酷評されており、実射訓練では投下魚雷の1/3が航走に失敗している。
        さらに水平爆撃訓練は嚮導機のみで、編隊規模では一度も行われず、急降下爆撃は設営基地の九州から訓練海域の内海への往復に時間を取られ、動的目標に対し一日一回だけ。
        空戦も一部を除き単機による基礎訓練のみに留まった。
        加えて出港の直前まで機材の整備に追われた為、訓練に使用可能な機材自体が少なく、戦闘詳報には「技量低下は相当大なるものあり」と書かれている。

戦後の加賀

  • 1999年5月、米深海調査会社ノーティコスと米海軍海洋局により音響装置を用いた協同調査が行われ、深度5,200mで日本空母らしき残骸が発見された。
    同年9月、米海軍海洋調査船サムナーが残骸を撮影・調査した結果、格納庫隔壁や25mm機銃座、着艦指導灯が確認され、加賀のものだという事が判明した。
    残骸の写真映像(3:42~から)
    • 2023年9月13日、海洋調査で名高いロバート・バラード率いる海洋調査船E/Vノーチラスが前日の赤城に引き続きミッドウェー沖で加賀の船体を確認。しかし最上甲板よりも上の構造物はほぼ失われ、船体のダメージも赤城に比べると戦闘時の数々の証言を裏付けるような酷い有り様であった。
      なお、この4年前にもVulcan.IncのE/Vペトレルによる海底調査自体は行われている(位置情報はここから引き継がれている)が詳細な調査結果は公表されておらず、今回の調査で初めて全容が判明した。
  • 艦名は加賀国(現、石川県南部)に由来。元々戦艦として建造されたので旧国名由来である。
    艦内神社は加賀国一宮の白山比神社からの勧請である。
    • 「加賀」(かが)という艦船名は、帝国海軍では他に使用されておらず、海自・海保でも長らく使用されていなかった*64
      2015年8月27日にいずも型護衛艦2番艦JMSDF DDH-184の進水式・命名式が行われ、艦名が「かが」に決定した。この名は日本の艦艇としては二代目となる。
      • 排水量こそ正規空母であった前代「加賀」に劣るものの、いずも型は全長248m全幅38m。海自始まって以来最大の護衛艦である。とても大きいフネに思えるが、汎用ヘリ運用と車両他の機材搭載空間を一杯に取った結果自衛装備さえ限界まで切り詰められたぎりぎりの設計で、DDG他の護衛艦との連携なしでは実戦で動けないという。
        ちなみに先代である航空母艦加賀は全長248.6m全幅32.5mであり、ほぼ同じサイズである。
      • 2017年3月22日(水)に、正式に海上自衛隊に引き渡され就役を迎えた。奇しくもその受け渡し場所は「加賀」が空母となるきっかけになった「巡洋戦艦天城」の浮き桟橋で、姉である「いずも」に見守られながらのデビューとなった。
        その後の2018年には事実上の軽空母へ改装する事が決定、加賀さんはようやく本業に戻ることができたのである。
      • 母港は呉に決定し、就役とともにDDH-182「いせ」と入れ替わる形で入港、以後同港を拠点として活動中。停泊していれば呉港南東のアレイからすこじま公園からよく見える他、1日に4~5便運行(火曜日運休)されている遊覧船呉艦船めぐりに乗れば間近から見る事ができる。が、しょっちゅう外海に出ているので要確認。年末年始はドック入りしている可能性もある。
      • 2017/07/15、石川県金沢市の金沢港でDDH-184が一般公開された。予想通りというか何というか艦内に設営された説明ポップの案内役が艦娘加賀だった。これらのポップは二次創作由来のもので、当然と言えば当然だが元絵師さんには使用許可を求める連絡がきちんと有ったそうな。
      • そして2019年(令和元年)5月28日。「かが」はある記念すべき日を迎える。ドナルド・トランプ第45代アメリカ合衆国大統領の訪問である。先代がパールハーバー・アタックに参加した空母である事は世界的にも知られていたため、それを襲名した海自艦を米大統領が訪問するというのは衝撃的な出来事であった*65
      • 2020年8月27日に実装された加賀改二護はDDH-184「かが」をモチーフとしたif仕様に仕上がっている。
    • 他に、日本郵船でも「加賀丸」という名前の船が2隻*66おり、3代目の加賀丸はコンテナ船「加賀(KAGA)」という名で使用されていた。昨今では珍しくなった日本船籍のコンテナ船でもあったが、2010年に廃船・解体された。
      • 1909年9月12日、ワシントンに計画されている公園に植える桜の苗木2,000本が日本郵船シアトル航路加賀丸(初代)によって無償で運ばれている。しかしこの苗は植物検疫で外来種の害虫や細菌が多く発見され、全て焼却処分になってしまった。
        その後、米国での桜の植樹を実現させるため人々は試行錯誤し、農事試験場長の古在由直博士の調査で伊丹市東野の種が害虫に強いことがわかる。日本で初めての「青酸ガス薫蒸」施設も建てられ厳重な管理のもとで育成されて再度輸送された桜は、今度は無事にワシントン・ポトマック河畔に植えられた。公園での桜の植樹をタフト大統領夫人に提案したのは隅田川に沿う向島の桜に心奪われた米国人、エリザ・R・シドモア女史。彼女からニューヨークで桜の植樹運動をしていた(製薬会社三共の事実上の創業者)高峰譲吉博士、東京市の尾崎行雄市長に、高平駐米大使から小村寿太郎外務大臣に、支援の輪が広がり実現したのだ。尾崎行雄は後に「日露戦争の際米国が日本に対して示してくれた好意への感謝であった」と伝記に記している。
    • 石川県に「加賀市」があるが、加賀市は旧加賀国の南端のごく一部を占めるに過ぎない。
      なお、艦これ的には加賀市は「DMM創業の地」であり、現在もDMMグループの加賀事業所が加賀市美町(みさきまち)に存在する。
    • 毎年6月4日には、慰霊碑のある佐世保海軍墓地(東公園)で元乗組員の遺族によって慰霊祭が執り行われている。

この艦娘についてのコメント

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  • 加賀「…にゃーーん」(突然の挑発) -- 2024-07-06 (土) 19:50:51
  • 海?行ってらっしゃい からの即落ちが常に頭をよぎる、薄い本の読み過ぎだ… -- 2024-07-13 (土) 20:54:20
  • 競馬の川田騎手に似てると思った。無表情でクール、信頼できる人にはとことんなつく、排熱の熱源etc… -- 2024-07-16 (火) 20:18:10
  • DMM発祥の地は金沢でも小松でも無く加賀だったって最近知ったわ -- 2024-07-16 (火) 20:33:26
  • 色々な所で(二次創作的な意味で)、加賀の水着を見るから もう実装されているもんだと思ったわ って、赤城のページでも同じ事を書いた気がする… -- 2024-07-22 (月) 19:53:33
  • サブ加賀始めました(夏もう終わるよ? 残暑はまだまだ続きそうだけど…) -- 2024-08-19 (月) 14:09:41
    • 奇遇だな、私もだ。やっぱり護だけでは心許ないからな、片春粉ももらったし。ただ、たぶんこの片春粉、例のサラトガの姉さんの分だろうから、改止め運用することになるとは思うが…。(´・ω・`) -- 2024-08-19 (月) 15:26:30
  • F-35Bが現地時間10月20日15時ごろ、初の着艦に成功!!矩形の飛行甲板となった護衛艦「かが」は F35B の艦上運用に必要な諸元を収集するため、サンディエゴ沖にて米海軍及び米海兵隊の支援を得て所要の試験を実施中です!https://x.com/JMSDF_PAO/status/1848212613274255716?t=Ty9-2dN4w5F4IdHZDbDXow&s=19 -- 2024-10-21 (月) 14:05:05
  • 朝晩は加賀さんの体温が恋しい季節になってきた。 -- 2024-10-21 (月) 14:09:53
  • F-35B in the hangar of DDH-184 JS Kaga https://x.com/Fighterman_FFRC/status/1849325380681023495?t=r9pZtVVyUJDV3ldojCDSdA&s=19 -- 2024-10-24 (木) 17:49:28
  • 加賀さんの中の人、写真集での胸部装甲や艦尾バルジがご立派で。 -- 2024-10-27 (日) 21:14:04
    • アイドル要素が付いた影響でスタイルいい人が増えたからなぁ -- 2024-10-28 (月) 15:15:49
    • 井口がもう36だと…!? -- 2024-10-28 (月) 18:07:50
  • 3-4周回していたら一周で3隻も加賀さんが出てきたりしたもんだから20代後半だった運を40代になるまで南瓜で補強しちゃった。 -- 2024-11-05 (火) 13:35:00
  • 護衛艦「かが」がF35Bの艦上運用試験を無事完了しました! https://x.com/JMSDF_PAO/status/1854433948988031309?t=-jsUfpuxZq_GKuVZbSmj9g&s=19 -- 2024-11-07 (木) 18:34:11
    • だがしかし時は既に時期戦闘機開発に向かっているのだよ。 F-24とF-36の完成予想図が既にだな・・・。 何かスホーイ57に刺激されたんか3次元ベクタードノズルの同じエンジンで単発のF-24と双発のF-36、レーザーも搭載予定 -- 2024-11-07 (木) 19:07:26
  • デデン! -- 2024-11-09 (土) 13:40:39
    • 秋刀魚の獲れる所に加賀さんの歌声あり -- 2024-11-10 (日) 15:29:12
  • 護衛艦「#かが」における #F35B 発着艦の動画をお届けします。「いずも」型護衛艦におけるF35B運用能力の早期獲得は、日米の相互運用性を向上させるとともにインド太平洋地域の平和と安定に資するものです。 https://x.com/JMSDF_PAO/status/1856215352793018695 -- 2024-11-12 (火) 19:25:19
  • 新たな高みへ!   https://x.com/JMSDF_PAO/status/1857345059848679729?t=VaM40rkOaecq70NVYQVi1w&s=19 -- 2024-11-17 (日) 10:56:42

建造成果の報告は建造レシピ内にあるコメント欄に、
ドロップ報告に関しては出撃ドロップ内にあるコメント欄にて行なっていただけると幸いです。


戦闘後は撃墜されるので艦載機の搭載数が減りますが、「補給」でMAXまで回復します。
艦載機搭載数が減ったと報告する前に補給を行いましょう。


*1 改二→改二戊→改二護→改二…の順にコンバートできる
*2 母港ボイスは各艦娘につき3つ割り当てられています。「詳細」ボイスは編成画面の「詳細」ボタンをクリックすることで聞くことが出来るボイスです。母港画面でも聞くことが出来ます。「母港3」ボイスは「母港画面でのクリック」もしくは「母港画面への遷移」でのみ聞くことが出来る、いわゆる「提督お触りボイス」です。編成画面での「詳細」ボタンでは聞くことが出来ません
*3 4つの基本ボイス(昼戦開始・昼戦攻撃・夜戦開始・夜戦攻撃)がありますが、各ボイスはその他の色々な場面でも使われます。各ボイスをどのフェーズ(航空戦/開幕雷撃/先制対潜/昼戦攻撃/各種CI...など)に割り当てるかは艦娘によって異なり、例えば開戦ボイスを攻撃でも使ったり、夜戦攻撃ボイスを昼戦でも使ったりします)
*4 「小破」ボイスの2つ目と戦闘撤退時の「旗艦大破」ボイスは共用化されています
*5 「小破」ボイスの2つ目と戦闘撤退時の「旗艦大破」ボイスは共用化されています
*6 装備ボイスは3ボイスありますが、改修/改造ボイスと共用化されています。また、ボイス3は「改修/改造」「開発」「バケツによる即時修復」「遠征出撃」「アイテム発見」ボイスと共用化されています
*7 戦死により少将に特進
*8 最下層の格納庫は補用機を分解収納するのに利用されていたという
*9 艦隊は基本は12~18ノット程度の「巡航速度」で行動し、作戦行動時も20ノット代であり、30ノット以上も出すことは敵の攻撃を回避したり、敵を振り切るなど限られた時にしか必要としない。燃費が悪くなるからである。また日本の艦載機は無風状態でも空母が26ノット出していれば発着艦が可能なように設計されているので、発着作業で30ノット以上出すことはない。それどころか30ノット以上も出すと船体が揺れだし重量のある97式艦攻などは発着が出来なくなる場合がある。基本的に敵艦隊と距離を取って行動する空母機動部隊が敵艦隊を振り切るたりする必要が起こるなどの状況は考えづらく、その点からも「空母機動部隊所属艦は30ノット以上が必要だった」という話は実際の運用を知らない者の考えである
*10 零戦と十六試艦爆兼艦攻(流星)との組み合わせによる昭和17年4月当時の試算
*11 この懸念は蒼龍建造時も問題視されていて、結果蒼龍の艦橋も加賀同様小さいものとなっている
*12 昭和13年12月の航空資料では、最大速力は28.47ノットとされる。
*13 大和の元乗組員には完成後の試験航行で大和が29ノットを出したという証言もある
*14 当時海軍で艦艇が行動する際の速力は「微速」から「半速」「原速」「強速」「一戦速」「二戦速」・・・「最大戦速」「一杯」までと前進速力が分けられていた。各艦は3~4ノット間隔で空けられたこれら速力を設定し、指揮官の「第一戦速」とか「半速」とかの命令を受けて速力を変更しており、1ノット間隔で動かす事はまずない。また最大速力で行動することは常に「一杯」の速さで走行することを意味するが、その様な指令が出る事はまずなく、あったとしてもそれは艦ごとの緊急時の際で艦艦隊が集団で一斉に一杯の命令が出る事は殆どない
*15 1944年以前には瑞鳳に艦爆を搭載した事例は無いし、653空が編成された後は艦爆の代わりに戦爆が搭載されていたくらいである
*16 阿部善次 『艦爆隊長の戦訓』152頁より
*17 特に外洋ではベタ凪になることは珍しく、空母は絶えず波を乗り越えローリング、ピッチング、ヨーイングが複雑に絡み合って揺れ動いている。
*18 元戦艦の加賀や元客船の飛鷹型のように低重心化に重きを置いた艦と比べて、翔鶴型は船体が細長く重心が高かった事が原因)。
*19 山本重久大尉
*20 昭和19年10月空母及搭載艦関係報告資料。
*21 装甲を薄いものに再設計し直さねばならないためほぼ新造状態にして改装を行っている。もっとも、空母に改造する際、赤城も巡洋戦艦としての装甲を再圧延しており、改造要領において加賀と赤城に大した差はない。
*22 昭和7年末から翌8年1月末にかけて仮設艦橋の設置、発着艦照明灯および発艦信号灯の新設、新型艦上機対応のための艤装改正を含めた比較的大規模な改修が実施されている。歴史群像2015No129「加賀」より
*23 加賀の大改装約1年・改装費674万5,104円、赤城の改装約3年・改装費731万7,644円(昭和造船史巻1)
*24 煙突は予算不足に阻まれ改善出来ないまま、(この時はまだ一段式より優れているとみなされていた)三段の飛行甲板で初陣を飾っている。空母黎明期の中でも加賀のこの時点での仕上がりはひどく、世界広しと言えど多段式甲板で実戦を戦った空母は加賀のみ。
*25 様々な欠陥を抱えた状態だったが、上海事変における約二ヶ月の戦闘航海で、海軍機が地上戦闘に有効に使用できること、遠距離目標への偵察・攻撃が可能であることを実証するなど一定の成果を納めていたのだから搭乗員たちの練度の高さが窺える。この時の戦闘行動は海軍航空の威力を再認識させ、以後の航空戦力の発展に大きな影響を与えた。
*26 昭和9年に起こったこの事件に起因する多くの艦艇の大規模性能改善工事には、予算、加えて海軍工廠の人手も取られていたようである。
*27 マル3計画・大和型2隻1億0793万3,075円×2、翔鶴型8,449万6,983円×2その他
*28 新規エレベーターの設置数やほぼ全面木甲板にする(加賀は発着区域、格納庫など必要な部分のみ)など、加賀より手を加えた部分もある。
*29 日本空母物語(福井静夫著)および歴史群像"「加賀」出撃す"より。上海事変の火蓋が切って落とされた時も赤城は先に近代化改修に入っており、これに対処できる唯一の大型空母であった加賀に出動命令が下った。例の煙突のままであった。
*30 加賀の改装は横須賀工廠にて大正12年12月13日から始まり昭和3年3月31日付けで竣工となったのだが、実際には昭和4年11月30日に艦隊配備されるまで予備艦として工事を行っていた。空母化におよそ6年かけている。
*31 事故や戦闘で損耗した分を補充するために、分解格納されていた機体のこと。
*32 三式艦戦による記録。ただし、鳳翔の戦闘機隊であるとも。少なくとも両艦共に戦闘機隊による敵機撃墜を記録。
*33 戦争をしている以上、撃墜され戦死者が出るのは当然であり、「不名誉」というそれまでの記述は誤り。逆に海軍航空隊の先兵として選ばれた名誉である
*34 当時の中華民国(現台湾)空軍は欧米から教官を招き、アメリカやソ連から供与された陸上機を多数配備させていた。また、高志航率いる「志航大隊」や、加賀と鳳翔に単機で挑んだ「空の趙子龍」劉粋剛などを含めた通称「四大金剛」を擁し、アメリカやソ連など各国から集まった義勇兵も加えたエースパイロットを揃えていた。義勇軍としては「フライング・タイガース」や「ソ連空軍志願隊」などが有名である。
*35 戦後中国共産党の支配になると、抗日の英雄は八路軍などの共産党軍であるとされた。実際に日本と激戦を繰り広げた中華民国(現台湾)のパイロット達は反革命分子として中国で迫害される憂き目に遭う。特に文化大革命では彼らの遺構が破壊され、遺族が吊し上げにあうなど酷い有様だったという。
*36 赤城や加賀の改装は航空本部が主体であり、翔鶴型の造艦は艦政本部が主体。赤城加賀は飛行機屋が艦載機を飛ばすために改装を繰り返したのに対して、翔鶴型は造艦屋が艦を作ってから艦載機を乗せようという思想の違いがあった。蒼龍飛龍の建造実績が活かされたのは事実だが、加賀の運用実績を翔鶴型に上手く反映できていたのかは議論が分かれる。実際に、翔鶴型は甲板の幅や艦橋が甲板に食い込んで設置される等、航空本部や一航艦司令部から運用面での指摘を多く受けている。
*37 分派により第十三航空隊も一部入っていた。
*38 ジョン・トーランド著/毎日新聞社訳ハヤカワ文庫NF刊行『大日本帝国の興亡<新版>1"暁のZ作戦"』p.117,118
*39 雷撃の神様、パネー号事件の際は第十三航空隊分隊長であった。村田大尉に限らずこの事件に関与した隊長への譴責処分は、海軍懲罰令にもとづいて軍令部が正式に処分したものではなく、事実上お咎め無しである。
*40 第二連合航空隊司令。謝罪の場において「陸軍の要請に従ったまでであり海軍に責任はない」といった旨の発言をしている。一度更迭されるも、水上機母艦、空母、基地及び空母の航空戦隊などの指揮経験のある数少ない海軍将校だったためか、12月15日付で第二航空戦隊司令官に栄転した。
*41 昭和八年一月末に鳳翔が仮装備してテストを行った結果、その効果は絶大であるとされ制式化された。
*42 攻撃を受けた戦艦群はアリゾナ以外は全て攻撃後に浮遊され修理を受け、回航途上で沈没したQオクラホマ以外は全て戦線復帰している。戦没と認定され修復されなかったのはアリゾナだけである
*43 第二次攻撃隊加賀爆撃隊指揮官の牧野三郎大尉と、第一次攻撃隊加賀雷撃隊第二中隊長の鈴木三守大尉
*44 飯田房太大尉
*45 階級は最終のもの。以後も判明できるものは同じように記載。
*46 他に岩本徹三・赤松貞明など。
*47 ナンバー1は杉田庄一、他に田中國義、尾関行治など。
*48 先行した第一次攻撃隊の水平爆撃隊との共同戦果。ちなみに急降下爆撃による被害は軽微とする話もあるが、『Vreeken, Fred R. (1997). USS Maryland (BB-46)』『Wallin, Homer N. (1968). Pearl Harbor: Why, How, Fleet Salvage and Final Appraisal』によると初弾(800kg爆弾)が船首楼甲板に命中、穴が開いたのに対し、二発目(250kg爆弾)は船体前方に命中して貫通後艦内で爆発、浸水被害が出たと記されてある。ちなみにメリーランドの被害は被弾2発で小破、戦死者は機上戦死したOS2U搭乗員1名を含めた4名、戦傷が14名。
*49 女学生たちが小遣いを節約して貯金し奉納した爆撃機であり、山川自身言い知れぬ力強さを感じたという愛機。
*50 艦攻は魚雷攻撃と爆撃に使用され、魚雷の時は雷撃機、爆弾の時は水平爆撃機と呼ばれる。艦攻は艦爆と違って急降下爆撃は行えない。
*51 ちなみに加賀艦長の岡田次作少将も海軍爆撃術の第一人者で、爆撃の名手として知られていた。
*52 橋口少佐は真珠湾攻撃で参加した中で淵田中佐についで(同期生の「翔鶴」飛行隊長の高橋赫一少佐とともに)飛行経歴が長かった。
*53 部下15名の戦死は彼にとって大きな衝撃だったようで、彼の行動を記したメモは真珠湾攻撃後には途絶え、1942年1月まで飛んでいる。また、戦死した部下の名前がメモに書かれ、親族や続柄も書き加えられていた。
*54 出典
*55 操・佐藤一飛曹、偵・福田大尉、電・大西二飛曹。
*56 牧少佐が指揮を執った九三一空には、かつて真珠湾で少佐の三番機を勤めた徳丸三飛曹(三番機・偵察員)と渡邊二飛曹(三番機・電信員)も参加していた(両名とも931空にて戦死)。
*57 ミッドウェーにて発進した偵察機で下士官ながら機長として参加したのは吉野一飛曹と利根4号機の甘利一飛曹のみ。この時、吉野機は雲の下600mの低空を飛んでいた。
*58 ただし、参加者名簿では電信員となっている。彼の経歴は1940年に飛行練習生として鈴鹿海軍航空隊で、偵察員の教育を受けているので偵察員で間違いないと思われる。 ※日本海軍航空隊において搭乗員は操縦員と偵察員の二通りしか無い。操縦員の役割は省略するが、この偵察員というのは電信や後部機銃射撃も担当しており偵察練習生や士官候補生たる偵察学生でもきっちりと講習を受ける。で、三座以上の機体に配置される電信員というのは単に職務の違いである。ただ、基本的に電信員の役割には階級が低い偵察員が充てられた。
*59 ちなみに終戦の年に夜間雷撃を行なった際、砲撃してきたのが魚雷7発命中して撃沈したハズの「ウェスト・ヴァージニア」だったらしい。それを後から知って、これじゃ勝てないなと思ったものだ。と感想を残している
*60 死者の多くは格納庫の爆発大火災で脱出が出来なくなった機関科兵員である
*61 しかしながら火勢が強く、炭酸ガス消火装置発動が間に合わず消火ポンプも破壊されていた。鎮火の見込みが立たないので、10時25分、まず御真影を「萩風」に移し、飛行長は14時00分頃総員退去を命じた。16時25分、前部ガソリン庫に引火して大爆発2回を起こし、16時26分に沈没した。戦死者は艦長岡田大佐以下811名に及び、火災により脱出出来なくなった機関科要員が多かった。定員は1,708名であるが実員数は不明。
*62 当時の五航戦には特に魚雷攻撃を遂行することが困難と判断され、五航戦は主に基地への急降下爆撃(第一次攻撃時)と水平爆撃(第二次攻撃時)を担当している。
*63 ミッドウェー海戦の敗因は一航戦搭乗員の慢心だという意見も見受けられるが、既に発艦していた直掩機は十分な戦果を挙げており、その他の艦載機の多くは発艦前に空母への攻撃を受けたために出撃する機会そのものがなく、慢心という精神的要因とは関係がない。
*64 似た名前で、海保・金沢海上保安部に配属された巡視艇に、「かがゆき」(漢字をあてれば「加賀雪」)という名前が2度使われている。
*65 まぁもちろん、この裏には中共に対して「日米関係は揺るがない」と誇示する狙いがあるのだが。
*66 初代は明治時代に就役した加賀丸型客船、2代目は戦後就役したK型高速貨物船
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