雑学/日本海軍の各隊

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日本海軍の艦艇編成には「艦隊」-「戦隊」-「隊」という序列が存在した。
これを「艦隊編成」と言い、二つ以上の艦隊が同時に行動することを「連合艦隊」と言う。
そして戦時には、各作戦ごとに「部隊」を編成し作戦に臨んでいた。こちらは「軍隊区分」または「兵力部署」と呼ばれる。

ただし組織編成上、基地航空隊のように軍艦が所属していなくても、第十一航空「艦隊」や、第二十一航空「戦隊」などのように、水上艦艇部隊と同様の編成名を付けているので注意が必要である。

目次

戦隊

基本的に軍艦2隻以上で構成される部隊。
指揮官は司令官と称し少将若しくは中将が任命される。
但し、駆逐艦、潜水艦は軍艦ではなく補助艦艇のため、それら2隻以上で構成する隊(駆逐隊若しくは潜水隊)を「軍艦1隻に相当する員数をもつ単位の部隊」として数えている(そのため駆逐艦や潜水艦の責任者は「艦長」とは呼ばずに「駆逐艦」「潜水艦」と呼ぶのが正式で、かつ階級も軍艦艦長が多い大佐ではなく中佐である)
また、空母(もしくは基地航空隊)を基幹とする戦隊は「航空戦隊」、駆逐隊を中核とする戦隊は「水雷戦隊」、潜水艦を中核とする戦隊は「潜水戦隊」と別個の呼称を持っている。

開戦時の主要各戦隊

呼称
(符号)
所属艦所属艦隊軍隊区分解説
第一戦隊(1S)長門
陸奥
連合艦隊直轄主力部隊制度として戦隊が設立された1903年以来、主力である戦艦を擁する戦隊として存在した部隊。
日露戦争以来、戦艦を主戦力とした艦隊である第一艦隊に所属していたが、連合艦隊司令部と第一艦隊司令部が分離した1941年8月以降は連合艦隊の直轄部隊になる。
開戦直後に大和が編入されるが、ガダルカナル戦が始まった1942年7月に長門陸奥が第二戦隊に異動となり一時的に解隊され、大和は単艦で直轄となる。
1943年に武蔵が編入した事で復活し大和と2隻で戦隊を構成、以後所属をレイテ沖海戦で連合艦隊が実質壊滅するまで存続し続けた。
太平洋戦争開戦以降の司令官
・(兼)山本五十六大将(~1943年4月18日)[戦死]*1
・(兼)古賀峯一大将(1943年4月21日~1944年2月25日)
・宇垣纒中将(1944年2月25日~1944年11月15日)[解隊]
第ニ戦隊(2S)日向
伊勢
扶桑
山城
第一艦隊主力部隊設立された日露戦争の頃は戦艦に次ぐ主戦力とされた装甲巡洋艦で構成されていたが、日本海軍の規模が大きくなるに従い、第一戦隊と同様戦艦で構成される戦隊となる。
開戦時は連合艦隊直轄となった第一戦隊に替わり第一艦隊の旗艦戦隊だった。
ミッドウェー海戦後に航空戦艦に改装されるために伊勢、日向が外れ、入れ替わるように第一戦隊から長門、陸奥が編入。
しかしこれも陸奥の爆沈や、山城の訓練艦任務のため、長門、扶桑で行動する場合が多かった。
1944年2月に一時解隊となるが、レイテ沖海戦を前に9月に再結成され山城、扶桑で構成する*2
レイテ沖海戦ではこの第二戦隊を中核に第一遊撃部隊第三部隊、通称「西村部隊」が結成され別路レイテ湾に向かったが、その悲劇的な結末は提督諸氏も御存じのとおりである。
太平洋戦争開戦以降の司令官
・(兼)高須四郎中将(~1942年7月14日)
・(兼)清水光美中将(1942年7月14日~1943年10月20日)
・(兼)南雲忠一中将(1943年10月20日~1944年2月25日)[解隊]
・西村祥治中将(1944年9月10日~1944年10月25日)[戦死]
第三戦隊(3S)比叡
霧島
金剛
榛名
第一艦隊機動部隊(第一小隊)
南方部隊本隊(第二小隊)
第一第二戦隊は第一第二艦隊それぞれの中核戦力であったが、艦隊内でそれらを補佐する軽快な防護巡洋艦で構成する戦隊が必要とされ、第三第四戦隊が編成された。
太平洋戦争開戦時は戦艦ながら元が巡洋戦艦であり、軽快な部類だった金剛型戦艦で編成されていた。
その為開戦前の想定では第二艦隊による決戦前の夜戦襲撃に第三戦隊も加わる事となっていた。
しかし実際には第一小隊*3、第二小隊*4と別れて行動*5し、4隻揃って行動したのはインド洋へ出動した1回だけとなった。
ミッドウエ―海戦後は新設された第十一戦隊に比叡と霧島が移動し金剛、榛名の2隻体制となる。
1944年11月、レイテ沖海戦後を経て内地帰投中に米潜水艦の攻撃で旗艦金剛が沈没*6、第一戦隊解隊により長門が2週間ほど在籍したが1945年1月1日に同隊も解隊となる。
太平洋戦争開戦以降の司令長官
・三川軍一中将(~1942年7月12日)
・栗田健男中将(1942年7月12日~1943年7月22日)
・鈴木義尾中将(1943年7月22日~1944年11月21日)[戦死]
第四戦隊(4S)愛宕
高雄
摩耶
鳥海
第二艦隊南方部隊本隊
南方部隊マレー攻略部隊*7
第三戦隊と同様、日露戦争時に防護巡洋艦4隻で編成、第二艦隊の遊撃戦力として活動した。
その後規模が拡大して第二第三戦隊も戦艦で構成されるようになると、第四戦隊が第二艦隊の中核戦力となる。
開戦時は高雄型重巡洋艦4隻で構成され、第二艦隊司令部が戦隊司令部を兼務し開戦以来旗艦を愛宕とている。しかし鳥海は開戦時以来別部隊として行動している。
1943年9月に鳥海が戻り漸く同型艦4隻体制となる。
レイテ沖海戦まで4隻とも健在であったが、同海戦で愛宕、摩耶、鳥海が沈み、高雄が大破。同隊はそのまま解隊となる。
太平洋戦争開戦以降の司令官
・(兼)近藤信竹中将(~1943年8月9日)
・(兼)栗田健男中将(1943年8月9日~1944年12月15日)[解隊]
第五戦隊(5S)妙高
那智
羽黒
第二艦隊南方部隊南比攻略部隊設立されたのは日露戦争時で、2線級の艦艇*8で構成する第三艦隊の基幹戦力とされた。
その後も解隊と再編を繰り返すが、太平洋戦争開戦時は妙高型重巡洋艦3隻で編成され南方作戦に参加する。
最初の本格的海戦である「スラバヤ沖海戦」では第五戦隊は中核として活躍する。
ミッドウェー海戦後は那智が第五艦隊に異動し2隻体制となりそのままレイテ沖海戦まで活動する*9
レイテ沖海戦では壊滅した第四戦隊から鳥海を編入するが、翌日のシブヤン海海戦で妙高が損傷し戦線離脱。更に翌日のサマール沖海戦で鳥海も脱落(夕刻に沈没)し羽黒1隻となる。
その後はシンガポールを拠点に活動するが、生き残りの重巡洋艦が集まる寄合所帯のような状態*10となり1945年3月には羽黒、足柄で編成される。
5月16日、ペナン沖海戦で羽黒が戦没*11。足柄だけとなりまもなく解隊*12、重巡洋艦を主力とする最後の戦隊となった。
太平洋戦争開戦以降の司令官
・高木武雄少将(~1942年11月10日)
・大森仙太郎少将(1942年11月10日~1943年11月25日)
・橋本信太郎少将(19443年11月25日~1945年5月6日)[戦死]
第六戦隊(6S)青葉
衣笠
古鷹
加古
第一艦隊南洋部隊グアム攻略部隊設立された際は第三艦隊所属の遊撃戦力として防護巡洋艦4隻で構成される。
幾度となく解隊、再編を繰り返し開戦時は青葉型、古鷹型重巡洋艦4隻で構成されていた。
尚重巡洋艦の各戦隊は夜戦部隊である第二艦隊に所属しているが、同戦隊だけ第一艦隊所属である。
米軍のガダルカナル侵攻時は外南洋部隊に所属しており、旗艦鳥海と共に夜戦を仕掛け大打撃を与える。
しかし帰投時に加古が潜水艦の攻撃で戦没。10月のサヴォ島沖海戦で古鷹が戦没し旗艦青葉も大破*13し戦線離脱した。
生き残った衣笠は第八艦隊直轄に異動し同戦隊は解隊となった。
太平洋戦争開戦以降の司令官
・五藤存知少将(~1942年10月12日)[戦死]
第七戦隊(7S)熊野
鈴谷
最上
三隈
第二艦隊南方部隊マレー攻略部隊日露戦争時に第三艦隊隷下の旅順口哨戒部隊として装甲艦扶桑*14と旧式砲艦9隻を一纏めにして誕生。
以後第六戦隊と同じく数次の解隊と再編を経て5度目の編成となった太平洋戦争開戦時は最上型重巡洋艦4隻で編成されていた。
ミッドウェー海戦で三隈が戦没し最上が大破して戦線離脱したため、熊野、鈴谷の2隻体制となる。
1944年1月には解隊された第八戦隊から利根、筑摩が移籍し再度4隻体制となるが、レイテ沖海戦で鈴谷と筑摩が戦没、熊野も大破し内地への帰還途上に戦没。
残っていた利根も書類上第五戦隊へ転属となり同戦隊は解隊となった。
太平洋戦争開戦以降の司令官
・栗田健男少将(~1942年6月25日)
・西村祥治少将(1942年6月25日~1944年3月25日)
・白石万隆少将(1944年3月25日~1944年11月21日)[解隊]
第八戦隊(8S)利根
筑摩
第二艦隊機動部隊日露戦争終盤に鹵獲艦を中心に新設された第四艦隊の一部として編成された戦隊。
日露戦後即解隊されたが、ワシントン条約下の昭和9年に軽巡3隻で再編する。
利根型重巡洋艦の就役と共に利根型2隻体制となり、開戦時は機動部隊の一員として真珠湾攻撃に参加する。
その後もその偵察力の高さから艦隊の目として機動部隊に所属し続けたが1944年1月に解隊となり2隻は第七戦隊所属となった。
太平洋戦争開戦以降の司令官
・阿部弘毅少将(~1942年7月14日)
・原忠一少将(1942年7月14日~1943年3月15日)
・岸福治少将(1943年3月15日~1944年1月1日)[解隊]
第九戦隊(9S)北上
大井
第一艦隊主力部隊設立は1936年で水上機母艦神威と第28駆逐隊で構成していた。
開戦時は雷撃戦に特化した軽巡洋艦北上、大井で編成され第一艦隊として行動した。
しかし航空機が戦力の中核となった太平洋戦争では活躍の機会はなく、1943年5月に解隊となる。
太平洋戦争開戦以降の司令官
・岸福治少将(~1943年3月15日)[解隊]
第十五戦隊(15S)五十鈴
嵯峨
橋立
第二遣支艦隊支那方面艦隊所属の第二遣支艦隊の基幹戦力として編成される。
開戦後は香港攻略戦などに参加するが1942年4月に五十鈴が第十六戦隊に異動となり解隊となる。
太平洋戦争開戦以降の司令官
・(兼)新見政一中将(~1942年4月10日)[解隊]
第十六戦隊(16S)足柄
長良
球磨
第三艦隊南方部隊比島攻略部隊
同南比攻略部隊*15
1941年に再編された第三艦隊の基幹戦力。司令部は第三艦隊司令部と兼務している。
開戦直後の1942年1月には球磨が新設の第三南遣艦隊に移動、艦隊旗艦も兼ねていた足柄は3月に戦隊を離れ第三艦隊改め第二南遣艦隊の独立旗艦となる。
残る長良も4月には新設の第十戦隊旗艦となるため戦隊を離れ、開戦から半年もせずに所属艦艇が居なくなってしまう。
しかし4月に第十五戦隊から五十鈴が異動し、名取鬼怒も加わり再度3隻体制となる。
その後南西方面で活動を続け、1944年10月のレイテ沖海戦時は青葉、鬼怒、浦波という編成であった。
レイテ沖海戦では当初は第一遊撃部隊所属でリンガ泊地より集結拠点のブルネイに向かう。
だがその途上で第二遊撃部隊に配属替えとなり、ブルネイ到着後に志摩艦隊が集結するマニラに向かう。
しかしマニラ湾口前で青葉が雷撃を受け大破、第二遊撃部隊も集結地を急きょ替えた為合流できなかった。
そこで鬼怒と浦波はミンダナオ経由でレイテ島オルモック湾に増員兵力を送る多号作戦に参加。輸送自体は成功するが帰路に空襲を受け2隻とも戦没*16。部隊は解隊となった。
太平洋戦争開戦以降の司令官
・(兼)高橋伊望中将(~1942年3月10日)
・原顕三郎少将(1942年3月10日~1943年9月16日)
・左近允尚正少将(1943年9月16日~1944年12月15日)[解隊]
第十七戦隊[2代目](17S)厳島
八重山
第三艦隊南方部隊南比攻略部隊開戦時は機雷施設艦厳島、八重山、特設機雷施設艦辰宮丸の3隻で編成。
第三艦隊に所属しフィリピン攻略戦に加わったが、防御向きの艦種である施設艦にはあまり活躍の場はなかった。
開戦ほどない1942年1月には解隊となる。
太平洋戦争開戦以降の司令官
・小林徹理少将(~1942年1月3日)[解隊]
第十八戦隊(18S)天龍
龍田
第四艦隊南洋部隊ウェーク攻略部隊第四艦隊の基幹戦力として練習巡洋艦鹿島と天龍型軽巡洋艦2隻で1940年11月に設立。
開戦直前に鹿島が艦隊の独立旗艦となり、天龍、龍田の2隻体制となる。
緒戦は中部太平洋で行動していたが、1942年7月に第八艦隊が新設されると移動しソロモン方面で活動。
米軍のガダルカナル侵攻の際は天龍のみが突入作戦に参加、第一次ソロモン海戦で活躍する*17
旧式ながら開戦以来前線での激戦にいた戦隊だが12月に天龍が戦没し解隊となった。
太平洋戦争開戦以降の司令官
・丸茂邦則少将(~1942年7月14日)
・梶岡定道少将(1942年7月14日~1942年9月1日)
・松山光治少将(1942年9月1日~1942年12月10日)[解隊]
第十九戦隊(19S)沖島
常盤
津軽
天洋丸
第四艦隊南洋部隊ギルバート諸島攻略部隊*18
同グアム攻略部隊*19
第四艦隊所属の機雷施設部隊として1940年11月に編成される。
開戦時には天洋丸も加えて4隻体制となるがナウル攻略戦で沖島が戦没する。
7月に新設された第八艦隊に津軽が、北方部隊に常盤が配属される事になり、戦隊は解隊された。
太平洋戦争開戦以降の司令官
・志摩清英少将(~1942年7月14日)[解隊]
第二十一戦隊(21S)多摩
木曾
君川丸
第五艦隊北方部隊開戦直前の1941年7月に第五艦隊の基幹戦力として球磨型軽巡洋艦2隻と特設巡洋艦君川丸の3隻で編成。司令部は第五艦隊司令部と兼務する。
第五艦隊の担当である北方海域を警戒するが主戦場ではない事から戦力も少なかった。
しかしミッドウェー海戦の際に陽動を兼ねてアリューシャン諸島に侵攻する事になり、戦力増強のため1942年4月に重巡那智が編入され艦隊旗艦となっている*20
1944年4月には重巡洋艦足柄も加わるが、6月のマリアナ沖海戦には参加せず、7月に木曾が横須賀鎮守府、多摩は第十一水雷戦隊それぞれに異動。
続く10月のレイテ沖海戦では第五艦隊が第二遊撃部隊として作戦参加したため戦隊はその基幹戦力として参加した。
この海戦で那智は大破した最上と衝突し中破、その傷が癒えぬまま足柄と共にマニラ湾に移動するが、在泊中に空襲を受け那智が戦没。
足柄のみとなった同隊は解隊され、足柄は第五戦隊へ異動となった。
太平洋戦争開戦以降の司令官
・(兼)細萱戊子郎中将(~1943年3月31日)
・(兼)河瀬四郎中将(1943年3月31日~1944年2月15日)
・(兼)志摩清英中将(1944年2月15日~1945年2月5日)[解隊]
第二十二戦隊(22S)栗田丸
浅香丸
第五艦隊北方部隊特設巡洋艦栗田丸、浅香丸の2隻で編成される。
北方海域の哨戒任務に従事し、1942年1月には赤城丸も編入され3隻体制となる。
太平洋戦争開戦以降の司令官
・堀内茂礼少将(~1942年12月4日)
・久保九次少将(1942年12月4日~1943年12月27日)
・久宗米次郎少将(1943年12月27日~1944年12月21日)
・石崎昇少将(1944年12月21日~終戦)[解隊]
第二十四戦隊(24S)報国丸
愛国丸
連合艦隊直轄主力部隊連合艦隊直轄部隊として編成。開戦時には清澄丸も加わり3隻体制となっている。緒戦では南太平洋で哨戒活動に従事しているが1942年3月には解隊となる。
太平洋戦争開戦以降の司令官
・武田盛治少将(~1942年3月19日)[解隊]
第一航空戦隊(1Sf)赤城
加賀
第7駆逐隊
第一航空艦隊機動部隊*21海軍初の空母を中核とした戦隊として1928年に赤城鳳翔と第六駆逐隊の梅、楠で編成される。
以後龍驤加賀が竣役してからはこれら4隻の空母が交代で第一第二航空戦隊を編成している。
開戦時は第一航空艦隊の基幹戦力として戦隊司令部は艦隊司令部との兼務であった。
1942年4月には第七駆逐隊が編成から離れ空母2隻のみの体制となるが、ミッドウェー海戦で赤城、加賀共に戦没し壊滅する。
しかし7月に新設された第三艦隊で、空母翔鶴瑞鶴瑞鳳の3隻で再編成され、ガダルカナルでの激戦を戦う。
1944年4月には竣役した新鋭空母大鳳が編入され、代わりに瑞鳳が第三航空戦隊に移籍する
マリアナ沖海戦では大鳳、翔鶴が沈み、残った瑞鶴は第三航空戦隊に異動したので一時的に解隊となる。
その後8月に雲龍天城、10月には葛城も編入され再編される。
しかし錬成途上の航空戦力はレイテ沖海戦で小沢艦隊に引き渡して参戦出来ず、結局航空戦力不在のまま連合艦隊直轄となる。
この頃には同じく搭載航空機のない隼鷹龍鳳も編入していたが、使い道のない艦艇は次々と予備艦とされ、空母ですらない大和が所属したりもしている。
1945年3月には第二艦隊所属となるも坊の岬海戦を経て4月10日に解隊となる。
太平洋戦争開戦以降の司令官
・(兼)南雲忠一中将(~1942年11月11日)
・小沢治三郎中将(1942年11月11日~1944年10月1日)
・古村啓蔵少将(1944年10月1日~1944年12月10日)
・大林末雄少将(1944年12月10日~1945年2月10日)
・欠員(1945年2月10日~1945年4月10日)[解隊]
第ニ航空戦隊(2Sf)蒼龍
飛龍
第23駆逐隊
第一航空艦隊機動部隊*22空母加賀が完成し、空母数に余裕が出来たので1934年11月に第二艦隊所属の航空戦隊として赤城、第二駆逐隊*23で編成。以後各空母交代で戦隊を編成している。
1939年には空母蒼龍飛龍が所属、開戦時はこれに菊月卯月夕月?が加わり第一航空艦隊に所属していた。
1942年4月には駆逐隊が離れ空母2隻のみの編成となるがミッドウェー海戦で蒼龍、飛龍共に戦没し戦隊は壊滅、戦隊司令官の山口多聞少将も戦死する。
その後7月に空母隼鷹飛鷹龍驤で再編成するする。
米軍のガダルカナル侵攻時は錬成途上だったため、龍驤のみが臨時に第一航空戦隊の瑞鳳と入れ替わる形で南方に進出し、第二次ソロモン海戦で戦没している。
1943年4月には龍鳳が加わり3隻体制となり、そのまま1944年6月のマリアナ沖海戦を迎えるが、同海戦で飛鷹が戦没、隼鷹も中破し航空戦力も壊滅する。
7月に同戦隊は解隊となり生き残りの空母2隻は第四航空戦隊に異動となる。
太平洋戦争開戦以降の司令官
・山口多聞少将(~1942年6月5日)[戦死]
・角田覚治少将(1942年7月14日~1943年5月22日)
・酒巻宗孝少将(1943年5月22日~1943年9月1日)
・城島高次少将(1943年9月1日~1944年7月10日)[解隊]
第三航空戦隊(3Sf)鳳翔
瑞鳳
三日月
夕風
第一艦隊主力部隊1936年に水上機母艦神威を基幹に連合艦隊直轄として編成される。
開戦時は空母航空戦隊では唯一第一航空艦隊ではなく第一艦隊所属であった。
緒戦では前線への航空機の輸送や、第一艦隊出撃時の哨戒任務に当たっていたが1942年4月に解隊され空母は連合艦隊直轄となる。
1944年2月に空母千歳千代田瑞鳳で再編され6月にマリアナ沖海戦に参加。
この海戦では空母の損失はなく艦載機の損害も軽微であったので、機動部隊再編で最も早く戦力化出来ると期待され、唯一生き残った正規空母瑞鶴も同隊に配属されている。
だが台湾沖航空戦で肝心の航空戦力を提供して戦力を半減させてしまう。
続くレイテ沖海戦では機動部隊の主力ととなるも航空戦力がなかったので、錬成途上の第一航空戦隊から戦力を掻き集め、どうにか110機を掻き集め作戦に参加。
しかしエンガノ岬沖海戦で4隻とも戦没し解隊となる
太平洋戦争開戦以降の司令官
・桑原虎雄少将(~1942年4月1日)[解隊]
・大林末雄少将(1944年2月1日~1944年10月1日)
・欠員(1944年10月1日~1944年11月15日)[解隊]
第四航空戦隊(4Sf)龍驤
春日丸
第3駆逐隊
第一航空艦隊南方部隊南比攻略部隊*241937年に水上機母艦能登呂丸、衣笠丸で第四艦隊所属として編成。開戦時は空母龍驤、春日丸が所属する。
第四航空戦隊は第一航空艦隊所属だが真珠湾攻撃には参加せず、当初より南方進出作戦に参加している。
1942年4月には祥鳳が加わり龍驤と2隻体制となる*25
5月には隼鷹が竣役するが程なく珊瑚海海戦で祥鳳が戦没。ミッドウェー海戦後の7月に解隊となり、龍驤と隼鷹は第二航空戦隊に異動となる。
1944年5月に航空戦艦に改装された伊勢日向六三四空で再編されるがマリアナ沖海戦は錬成途上で不参加。
その後生き残りの隼鷹、龍鳳も加わり4隻体制となるが、台湾沖航空戦で第三航空戦隊と同様航空戦力を提供して戦力を損耗
続くレイテ沖海戦には航空戦力が揃えられなかったので、伊勢と日向2隻が戦艦として参加し、隼鷹、龍鳳は不参加となる。
その後は伊勢・日向とも南方各地を渡り歩き、1945年2月の「北号作戦」で戦隊に軽巡大淀を加え、完璧な成功を収めて内地に帰還した。
しかし残存燃料を大和に譲ったため、両艦とも損害なく健在でありながら行動能力を失い、1945年3月に解隊となる。
太平洋戦争開戦以降の司令官
・角田覚治少将(~1944年7月15日)[解隊]
・松田千秋少将(1944年5月1日~1945年3月1日)[解隊]
第五航空戦隊(5Sf)翔鶴
瑞鶴
秋雲
第一航空艦隊機動部隊*26編成当初は新鋭空母翔鶴と春日丸で構成していたが、瑞鶴完成により春日丸が第四航空戦隊に異動し翔鶴型2隻と駆逐艦秋雲の4隻編成となる。
1942年4月には空母2隻のみの編成に改められるが、ミッドウェー海戦後は瑞鳳が編入される。
翌7月には3隻揃って第一航空戦隊に異動し、第五航空戦隊は解隊となる。
太平洋戦争開戦以降の司令官
・原忠一少将(~1944年7月14日)[解隊]
第十一航空戦隊(11Sf)瑞穂
千歳
連合艦隊南比攻略部隊開戦前に第七航空戦隊を改称、水上機母艦2隻で構成し、開戦後は南比攻略部隊に参加して蘭印攻略戦にも参加した。
蘭印作戦後は前進部隊の所属となるが5月に潜水艦の雷撃を受けた瑞穂が沈没、特設水上機母艦神川丸が編入されミッドウェ―海戦にも攻略部隊所属で参加している。
作戦後神川丸は離れて千歳1隻となるが、8月にビスマルク諸島方面航空部隊として「R方面航空部隊」が編成され、第十一航空戦隊が基幹となる。
ショートランド泊地が拠点となり、司令部も拠点を地上に移すが9月に神川丸が復帰、12月には国川丸も加わり三隻体制となるが、翌1943年1月に千歳が空母改装の為戦列を離れ、戦隊も4月15日付で解隊となる。
太平洋戦争開戦以降の司令官
・藤田類太郎少将(~1942年6月20日)
・城島高次少将(1942年6月20日~1943年4月15日)[解隊]
第一水雷戦隊(1Sd)阿武隈ほか第一艦隊機動部隊*27
主力部隊*28
南方部隊本隊*29
艦隊決戦の主力部隊である第一艦隊を護衛する部隊として編成される。
あくまでも主力の護衛を主任務とし、新鋭の陽炎型駆逐艦は1隊のみで、あとは特Ⅲ型、初春型、白露型で構成していた。
真珠湾攻撃では阿武隈と第十七駆逐隊が機動部隊に参加する。
セイロン沖海戦までは機動部隊として参加していたが、第十戦隊が編成されるとその任を解かれミッドウェ―海戦には旗艦阿武隈が修理中のため隊としては参加していない。
その後1943年に北方を担当する第五艦隊の所属となり、キスカ島撤退作戦では戦隊司令の木村昌福少将のもと作戦を成功させる。
1944年になると戦局が悪化し、第五艦隊も南方の作戦に参加する事になり第二遊撃部隊を編制。戦隊もこれに加わりレイテ沖海戦に参加。
この海戦で開戦以来の旗艦阿武隈が戦没。11月にはオルモック湾海戦で司令部が壊滅した第二水雷戦隊に司令部ごと移籍し同戦隊は解隊となる。
太平洋戦争開戦以降の司令官
・大森仙太郎少将(~1942年11月5日)
・森友一少将(1942年11月5日~1943年6月8日)
・木村昌福少将(1943年6月8日~1944年11月20日)[解隊]
第ニ水雷戦隊(2Sd)神通ほか第二艦隊南方部隊本隊*30
南方部隊南比攻略部隊*31
機動部隊*32
第一艦隊の前衛として敵の矢面にたつ第二艦隊の、更に最前線に立つ突入部隊として設立されたのが第二水雷戦隊、通称「花の二水戦」である。
そのため所属する駆逐艦は新鋭艦が所属する事が多く、練度の高い精鋭部隊であった。
開戦時は軽巡洋艦神通が旗艦を務め開戦時では新鋭の陽炎型と、その次に新鋭の朝潮型で構成していた。
開戦後、常に最前線で戦い続けた同隊は、その分の損耗も激しくガダルカナル戦の頃からは準新鋭の白露型なども所属するようになった。
それでもルンガ沖夜戦やコロンバンカラ沖海戦などで劣勢ながら敵を撃退するなど活躍をつづけた。
同戦隊は活躍の代償に司令部が壊滅する事例もあり、コロンバンカラ沖海戦とオルモック湾海戦で司令官を含め司令部が壊滅している。
しかしその都度同戦隊は他の戦隊から司令部を移籍するという形で再編しており、結局開戦時存在した6個水雷戦隊のうち、最期まで残った戦隊となった。
1945年4月の坊の岬沖海戦で旗艦矢矧を始め多くの艦を失い、4月20日に伝統ある二水戦は解隊となった。
太平洋戦争開戦以降の司令官
・田中頼三(~1942年12月29日)
・小柳冨次少将(1942年12月29日~1943年1月21日)
・伊崎俊二少将(1943年1月21日~1943年7月12日)[戦死]
・高間完少将(1943年7月20日~1943年12月15日)
・早川幹夫少将(1943年12月15日~1944年11月11日)[戦死]
・木村昌福少将(1944年11月20日~1945年1月3日)
・古村啓蔵少将(1945年1月3日~1945年4月20日)[解隊]
第三水雷戦隊(3Sd)川内ほか第一艦隊南方部隊マレー攻略部隊海軍の規模が拡大した事で常設の二個水雷戦隊の他にも水雷戦隊が必要となり、臨時編成の部隊として第一艦隊所属の水雷戦隊として編成された。
旗艦は軽巡洋艦川内だが所属する駆逐隊はみな特型駆逐艦で編成された部隊でもある。
開戦以来南方作戦で活躍したが、ガダルカナル戦が発生するとこれに参加し同島への輸送作戦に従事する。
1943年になると第一艦隊からガダルカナル方面を担当する第八艦隊に移籍する。
以後は三水戦にとって苦闘の年となり、3月2日、3日のビスマルク海海戦で駆逐艦4隻*33を失い司令官の木村昌福少将も負傷する。
江戸兵太郎少将が2週間ほど務めた後に秋山輝男少将が司令官となるが、7月6日のクラ湾夜戦で司令官は戦死し司令部も壊滅*34
伊集院松治少将が後任となるが、11月2日のブーゲンビル島沖海戦で旗艦川内が沈んでしまう*35
そして中川浩少将の元再度再建されるがパラオ・サイパンへの輸送船団の護衛中に旗艦夕張が沈められ、司令部は夕月(未実装)に救助され目的地のサイパンで地上にあがる。
だがそこで、サイパンでの米軍との地上戦に巻き込まれ、守備隊の玉砕時に司令部も壊滅。残余の艦艇は新設された対潜掃討部隊である第三十一戦隊に移籍、戦隊は解隊となる。
太平洋戦争に参加した水雷戦隊はどの隊も最前線で戦い続け犠牲も大きかったが、特に三水戦は開戦時司令官だった橋本少将の交代(1943年2月14日)から、最後の司令官中川少将の着任(1943年12月5日)までの10か月弱の間に6人も司令官が交代しており*36他隊よりも損耗が激しかった事を示している*37
太平洋戦争開戦以降の司令官
・橋本信太郎少将(~1943年2月14日)
・木村昌福少将(1943年2月14日~1943年3月4日)[負傷による交代]
・江戸兵太郎少将(1943年3月6日~1943年3月23日)
・秋山輝男少将(1943年3月23日~1943年7月6日)[戦死]
・伊集院松治少将(1943年7月7日~1943年12月5日)
・中川浩少将(1943年12月5日~1944年7月8日)[戦死・解隊]
第四水雷戦隊(4Sd)那珂ほか第二艦隊南方部隊本隊*38
南方部隊比島攻略部隊*39
第三水雷戦隊同様第二艦隊所属の臨時編成の部隊として設立されたが、設立当初は増強された新兵器である潜水艦*40部隊として編成された。
登場して間もない潜水艦をどう組織して運用するか確立していなかったこの時代、潜水艇を「潜る事の出来る水雷艇」と考えての水雷戦隊編成であった。
設立から4年後には「第一潜水戦隊」に改称され、新たに駆逐艦部隊として再編、開戦時は軽巡洋艦那珂を旗艦に編成している。
二水戦と同様開戦以来南方作戦に参加しタラカン島攻略戦やバリクパパン沖海戦などを戦った。
これらの戦いで那珂が大破し、ミッドウェー海戦では由良が旗艦を務める。
第二次ソロモン海戦では第二艦隊基幹の前進部隊として参加するも接敵はされなかった。
その後はガダルカナルへの輸送作戦に従事するが、その間旗艦由良が戦没している。1942年11月には旗艦が長良となる。
戦隊は引き続き本土~トラック諸島間の護衛などを務めていたが各戦隊の戦力損耗から1943年7月に解隊され、各艦は第二水雷戦隊など他の戦隊への補充戦力に回される。
太平洋戦争開戦以降の司令官
・西村祥治(~1942年6月20日)
・高間完(1942年6月20日~1943年7月20日)[解隊]
第五水雷戦隊(5Sd)名取ほか第三艦隊南方部隊比島攻略部隊開戦時は南方攻略を担当した第三艦隊に所属していた。
それまでの4個水雷戦隊と異なり旧式の睦月型神風型駆逐艦で構成する2個駆逐隊で編成し、旗艦は軽巡洋艦名取が務めた。
バタビア沖海戦で活躍し南方攻略がひと段落つくと、第三艦隊と南遣艦隊が再編された際に同戦隊も解隊された。
太平洋戦争開戦以降の司令官
・原顯三郎少将(~1942年3月10日)[解隊]
第六水雷戦隊(6Sd)夕張ほか第四艦隊南洋部隊ウェーク島攻略部隊開戦時は内南洋を担当した第四艦隊に所属。
第五水雷戦隊同様旧式の駆逐艦で編成され、旗艦は夕張が務めた。
1942年4月には同じく睦月型で構成する第23駆逐隊も加わり3個駆逐隊となっている。
ミッドウェー海戦後の7月に解隊され、内南洋方面を護衛する第二海上護衛隊に改編された。
太平洋戦争開戦以降の司令官
・梶岡定道少将(~1942年7月11日)
・武田盛治少将(1942年7月11日~1942年7月14日)[解隊]
第一潜水戦隊(1Ss)伊9ほか第六艦隊先遣部隊ほか初代は第一艦隊所属として編成された最初の潜水艦戦隊「第四水雷戦隊」を1919年4月に改称して開隊する。
開戦時は第六艦隊に所属。第一~第四の4個潜水隊12隻*41と伊9号の計13隻を擁し、真珠湾攻撃では甲標的による港湾攻撃や、南雲機動部隊に随伴して被弾した味方機の誘導を行ったりとハワイ方面で行動している。
伊19伊26は開戦時は同戦隊に所属しハワイ方面で行動していた。
ハワイ作戦後も第一次K作戦などを実施していたが5月に第一潜水戦隊は北方部隊に編入となりキスカ、アムチトカ等の各島の偵察監視などを行う。
7月には先遣部隊に復しソロモン方面に進出する。
伊19による空母ワスプ撃沈や伊26による空母サラトガ撃破など戦果を挙げる一方、連合軍の高度な対潜掃討戦術に多くの潜水艦が沈められ、1944年1月に解隊となる。
太平洋戦争開戦以降の司令官
・佐藤勉少将(~1942年4月15日)
・山崎重喗少将(1942年4月15日~1942年10月22日)
・水戸寿少将(1942年10月22日~1943年3月29日)
・古宇田武郎少将(1943年3月29日~1945年1月15日)[解隊]
第二潜水戦隊(2Ss)伊7ほか第六艦隊先遣部隊ほか初代は第二艦隊貴下の潜水艦部隊として編成された。
当初は潜水艦で構成する艦隊はなかったので、水雷戦隊同様第一第二艦隊に各1個ずつ潜水戦隊が編成されていた。
潜水艦艦隊である第六艦隊が編成されると再編されたうえで組み込まれる*42
第七第八の2個潜水隊6隻と伊7、伊10潜水艦の8隻で構成し偵察機などを搭載し索敵力を高めた巡潜型で編成していた。
開戦以来東太平洋やインド洋方面で行動していたが、所属艦はどれも老朽艦であった事から1隻の戦没もないまま1942年8月には早くも解隊となる。
但し所属していた8隻はその後も活動し続け、全艦が終戦までに戦没している。
太平洋戦争開戦以降の司令官
・山崎重喗少将(~1942年2月5日)
・市岡寿少将(1942年2月5日~1942年8月20日)[解隊]
第三潜水戦隊(3Ss)伊8ほか第六艦隊先遣部隊ほか1937年12月に当時の第四艦隊貴下の潜水戦隊として編成され初代旗艦は軽巡洋艦球磨
その後も解隊と再編を繰り返し、開戦時は第二潜水戦隊から改名したうえで第六艦隊に所属した。
第11,12,20の3個潜水隊8隻と伊8号潜水艦の9隻で編成し伊168も開戦時は同戦隊に所属していた*43
どの艦も第二潜水戦隊時代から引き続き海大型で構成していた。
開戦時は第一潜水戦隊同様ハワイ方面で活躍、主に周辺海域の監視哨戒に当たり、太平洋戦争最初の戦没艦(12月9日に撃沈された伊70号潜水艦)を出している。
その後ソロモン方面で米軍の反攻が始まると同方面に展開、多くの潜水艦を失い1943年9月に解隊となる。
太平洋戦争開戦以降の司令官
・三輪茂義少将(~1942年4月26日)
・河野千万城少将(1942年4月26日~1942年12月5日)
・駒沢克己少将(1942年12月5日~1943年9月15日)[解隊]
第四潜水戦隊(4Ss)鬼怒ほか連合艦隊直轄南方部隊マレー攻略部隊開戦時は第六艦隊ではなく連合艦隊直轄の潜水戦隊として編成される。
第18,19,21の3個潜水隊8隻*44で構成していた。この中には先代の伊58号潜水艦もいる。
開戦に伴い馬来*45部隊に所属し同方面で行動していたが開戦後ほどない1942年3月に同戦隊は解隊となり、呂号潜水艦で編成する第21潜水隊は第六潜水戦隊へ、他の伊号潜水艦は練習潜水艦などに転入される。
なおこの際上記の伊58号潜水艦が伊158号潜水艦に改名されており、他の艦も同様の処置を取られている。
太平洋戦争開戦以降の司令官
・吉富説三少将(~1942年3月10日)[解隊]
第五潜水戦隊(5Ss)由良ほか連合艦隊直轄南方部隊マレー攻略部隊第28~30の3個潜水隊6隻で構成した潜水戦隊。
開戦以来第四潜水戦隊同様馬来方面で活動し、ペナン占領後は同地を拠点に印度方面に進出、ベンガル湾などで活躍した。
1942年7月に戦隊は解隊となるが潜水隊はそのまま作戦を継続し全ての艦が戦没した。
太平洋戦争開戦以降の司令官
・醍醐忠重少将(~1942年7月14日)[解隊]
第六潜水戦隊(6Ss)長鯨ほか第三艦隊南方部隊マレー攻略部隊開戦時は第三艦隊に所属、機雷施設潜水艦4隻で構成する海軍で最小の潜水戦隊となった。
オーストラリア方面に進出して機雷施設作業に従事していたが、この戦隊も老朽艦が多く、所属の伊124号潜水艦が撃沈されたこともあり、1942年4月には解隊となった。
太平洋戦争開戦以降の司令官
・河野千万城少将(~1942年4月10日)[解隊]
第七潜水戦隊(7Ss)迅鯨ほか第四艦隊南洋部隊先遣隊開戦時は第四艦隊に所属し呂号潜水艦9隻で編成する3個潜水隊で構成した。
その後第八艦隊が新編され外南洋部隊が編成されると第八艦隊所属になる。
1943年4月に一時的に第五艦隊に所属し北方方面に出動するが間もなく第八艦隊が所属する南東方面艦隊に移動し、危険な偵察任務などに従事し損耗した。
1944年8月になると第六艦隊に所属、この際その運用が大きく変わり輸送潜水艦部隊として活動するようになる。1945年3月に解隊。
太平洋戦争開戦以降の司令官
・大西新蔵少将(~1942年6月5日)
・吉富説三少将(1942年6月5日~1943年1月12日)
・原田覚少将(1943年1月12日~1943年12月4日)
・大和田昇少将(1943年12月4日~1945年3月20日)[解隊]

開戦後に編成された主要各戦隊

呼称
(符号)
所属艦所属艦隊軍隊区分解説
第十戦隊(10S)長良ほか第一航空艦隊機動部隊1942年4月に第一航空艦隊固有の護衛部隊として長良を旗艦に、第七、十、十七の3個駆逐隊で編成された部隊。
その構成は「水雷」とはつかないが、従来の水雷戦隊と同様である。只秋月型駆逐艦が完成し第六一駆逐隊が編成されると第十戦隊に配属され対空戦闘力が強化されている。
マリアナ沖海戦までは空母部隊の直衛戦力として機動部隊と共に行動していたが、1944年10月のレイテ沖海戦では第二艦隊基幹の第一遊撃部隊に配属され戦っている*46
所属の駆逐隊のうち、四駆はスリガオ海峡で、六一駆はエンガノ岬で司令部が壊滅したため第十戦隊は解隊する。
残った十七駆も内地帰投中に台湾沖で雷撃を受け旗艦浦風が沈み司令部がまたしても壊滅、残余の艦艇は第二水雷戦隊に配置換えとなる。
開隊以降の司令官
・木村進少将(1942年4月10日~1943年1月20日)[負傷]
・小柳冨次少将(1943年1月20日~1943年12月1日)
・木村進少将(1943年12月1日~1944年11月15日)[解隊]
第十一戦隊(11S)比叡
霧島
第三艦隊機動部隊1942年7月、空母を主力とした常設艦隊である第三艦隊が再編された際に所属の戦艦部隊として比叡、霧島で編成された。
以後空母機動部隊と共に行動しているが11月の第三次ソロモン海戦では空母支援部隊に所属せずガダルカナル島に突入して砲撃をする挺身隊に所属して参加する*47
11月13日の第一夜戦で比叡が米巡洋艦部隊の集中打を浴び舵を損傷、撤退できぬまま翌日米軍機の空襲を受け総員退艦のうえ沈没、15日には霧島が再度突入し米新鋭戦艦2隻と交戦し沈没する。
所属艦艇を失った事で第十一戦隊は解隊となった。
開隊以降の司令官
・阿部弘毅少将(1942年7月14日~1942年12月10日)[解隊]
第十四戦隊(14S)那珂ほか第四艦隊内南洋部隊1943年4月に軽巡那珂、五十鈴で新編されたが新編時五十鈴は修理中で那珂のみだった。
編成後はジャルート環礁に進出して警戒にあたり、五十鈴合流後はナウルなどへの輸送護衛任務に従事した。
1943年11月に米軍がギルバート諸島に侵攻し、第十四戦隊は輸送部隊の基幹戦力として逆上陸作戦の準備に入るがタラワが陥落した事もあり中止となる。
翌1944年2月のトラック空襲で那珂が沈み、3月には同戦隊は解隊となった。
開隊以降の司令官
・伊藤賢三少将(1942年4月1日~1944年1月10日)
・清田孝彦少将(1944年1月10日~1944年3月4日)[解隊]
第十八戦隊[3代目](18S)常盤ほか海上護衛総隊海上護衛部隊1942年12月に前戦隊が解隊されて後の1944年1月に海上護衛総隊付きの機雷施設部隊として再結成される。旗艦は日露戦争時の装甲巡洋艦で機雷施設艦となっていた常盤。その後西内海地域の関門、対馬、朝鮮各海峡防衛と船舶の安全輸送確保の為に第七艦隊が編成されるとその基幹部隊となり、そのまま終戦を迎えた。
編成以降の司令官
・永井清治少将(1944年1月20日~1945年6月5日)
・(兼)岸福治中将(1945年6月5日~1945年8月20日)
・(兼)大森仙太郎中将(1945年8月20日~1945年9月15日)[解隊]
第三十一戦隊(31S)五十鈴



ほか
連合艦隊直轄対潜機動部隊マリアナ沖海戦後の1944年8月20日に、対潜掃討部隊として編成された。
サイパン陥落の際に同島に所在し壊滅した第三水雷戦隊を解隊し、その所属駆逐艦に海防艦を加えて編成した。
旗艦も元第三水雷戦隊旗艦だった名取を予定していたが編成直前に戦没したので五十鈴が初代旗艦となる。
以後南シナ海方面で活動していたが、10月のレイテ沖海戦では機動部隊本隊の直衛戦力が不足した*48事を受け急遽機動部隊本隊に所属して出撃している。
海戦後、壊滅した第一水雷戦隊の代わりに第五艦隊に配置換えとなるが、直後に旗艦霜月が米潜水艦の攻撃を受け沈没、江戸兵太郎司令官が戦死する。
その後礼号作戦などに参加、第五艦隊解隊後は第二艦隊所属となり1945年4月の大和沖縄特攻では参加取りやめとなり、出撃時の前路警戒などを行った。
第二艦隊解隊後は連合艦隊に所属し海上挺進部隊として本土決戦時の敵上陸船団攻撃任務を受け持つ。
軽巡洋艦北上ほか、残余の駆逐艦を掻き集めて編成された同戦隊は終戦まで残存する唯一の水上戦闘部隊として存在した。
編成以降の司令官
・江戸兵太郎少将(1944年8月20日~1944年11月25日)[戦死]
・鶴岡信道少将(1944年12月1日~1945年8月15日)
・松本毅少将(1945年8月15日~1945年10月25日)[解隊]
第五十一戦隊(51S)※特設対潜訓練隊編成時
呂68
呂500
大東
ほか
舞鶴鎮守府1945年5月5日、アメリカ海軍潜水艦による通商破壊戦に対抗するため、船団護衛艦艇に対する対潜訓練部隊として編成された。
元々は前年8月に組織された特設対潜訓練隊で、構成艦艇もそのまま引き継いでいる。
訓練隊ではあるが実戦参加も考慮されており、実際6月には日本海でバーニー作戦を展開する米潜水艦「ボーンフィッシュ」撃沈に貢献している。
編成以降の司令官
・西岡茂泰少将(1944年5月5日~終戦)[解隊]
第十一水雷戦隊(11Sd)龍田ほか連合艦隊直轄1943年4月に新造の駆逐艦を錬成する部隊として編成される。
僚艦を失い所属戦隊も解隊されていた龍田を旗艦に、教導役として第六駆逐隊が所属した。
夕雲型では玉波以降、秋月型では新月以降、松型では松以降の各艦および島風が竣工後に編入され、練成を行った。
1945年7月15日に解隊され、これによりすべての水雷戦隊が解隊される事となった。
編成以降の司令官
・中村進少将(1943年4月1日~1943年12月15日)
・高間完少将(1943年12月15日~1945年7月1日)
・松本毅少将(1945年7月1日~1945年7月15日)[解隊]
第八潜水戦隊(8Ss)伊10第六艦隊1942年3月に第六艦隊内で編成された潜水戦隊。
旗艦は伊10号潜水艦でペナン島を占領し、インド洋で通商破壊戦を実施するための基地が建設、同戦隊はここを拠点に活動した。
またドイツから派遣されたUボート部隊もここを拠点としている。
こういった事情のため第六艦隊所属ではあったが指揮系統は第一南遣艦隊に所属していた。1945年2月に解隊。
編成以降の司令官
・石崎昇少将(1942年3月10日~1943年8月19日)
・市岡寿少将(1943年8月19日~1944年8月4日)
・魚住治策少将(1944年8月4日~1945年2月20日)[解隊]
第十一潜水戦隊(11Ss)第一艦隊1943年4月に練習部隊となった第一艦隊所属の練習潜水艦部隊として編成された。
その為戦時中に完成した潜水艦の殆どは同隊に所属した経験を持っている。
1944年1月からは第六艦隊所属となり、引き続き練習任務に従事するが、多くの艦は出撃したまま戻る事はなかった。終戦まで存続し1945年9月に解隊
編成以降の司令官
・醍醐忠重少将(1942年8月31日~1943年10月20日)
・石崎昇少将(1943年10月20日~1944年12月21日)
・仁科宏造少将(1944年12月21日~1945年9月15日)[解隊]
第百一戦隊(101S)対馬
大東
ほか
第一海上護衛隊戦争末期に、固有の司令部と艦艇を持つ専門の護衛戦隊を設置する声が現場などで上がった事を受けて1944年11月に編成された部隊。
新編時は練習巡洋艦香椎を旗艦に対馬、大東といった海防艦6隻で編成された。
部隊は編制間もなく南方で作戦行動に入るが、アメリカ側も南シナ海一帯に大規模空襲を仕掛け日本の船団や港湾施設を壊滅する「グラティテュ―ド作戦」を計画しており、1945年1月中旬に実行する。
この作戦に第百一戦隊も巻き込まれ、旗艦香椎と海防艦2隻が沈み、護衛の輸送船も壊滅。戦隊は僅か2か月で解隊となった。
編成以降の司令官
・渋谷紫郎少将(1944年11月15日~1945年1月12日)[戦死・解隊]
第百二戦隊(102S)鹿島
御蔵
ほか
第一護衛艦隊1945年正月1日に練習巡洋艦鹿島を旗艦に、御蔵などの海防艦6隻で編成された。
グラティテュ―ド作戦などの米軍の猛攻で沈没艦を出す一方、武勲艦である米潜水艦「トリガー」*49を撃沈している。
損害が増えた事もなり7月4日に解隊となる。
編成以降の司令官
・浜田浄少将(1945年1月1日~1945年7月5日)[解隊]
第百三戦隊(103S)春月
ほか
第一護衛艦隊1945年1月20日に駆逐艦春月を旗艦に、海防艦6隻他で編成された。
黄海方面を主に担当区域としているが、6月以降は米軍が沖縄本島を制圧して航空部隊を展開した事で朝鮮半島西岸や対馬海峡近海まで後退した。
終戦を受け解隊
編成以降の司令官
・久宗米次郎少将(1945年1月20日~1945年9月15日)[解隊]
第百四戦隊(104S)占守
国後
八丈
択捉
福江
ほか
大湊警備府大湊警備府部隊1945年4月10日に北方海域の警備部隊として海防艦6隻のみで編成された部隊。
8月にはもう1隻海防艦が編入され7隻体制となり、艦艇の損失はないまま終戦を迎える。
編成以降の司令官
・渡辺清七少将(1945年4月10日~1945年9月20日)[解隊]
第百五戦隊(105S)
ほか
舞鶴鎮守府舞鶴鎮守府護衛部隊1945年5月5日に舞鶴を拠点に日本海の警備を担当する部隊として駆逐艦響と海防艦6隻で編制。米潜水艦による「バーニー作戦」などに対処する。
北海道空襲で2隻の海防艦を失いそのまま終戦を迎える。
編成以降の司令官
・松山光治少将(1945年5月5日~)[解隊]

艦隊

戦隊複数で構成される部隊。指揮官は司令長官と称し中将が任命されるのが基本であるが、開戦時に複数艦隊を統率指揮していた連合艦隊支那方面艦隊は大将が司令長官を務めた*50。太平洋戦争開戦時は第一から第六までの番号艦隊と、第一及び第十一の二個航空艦隊、南遣艦隊、第一から第三までの遣支艦隊があった。
艦隊司令長官は他の中将の職とは違い、いわゆる親補職であり天皇から任命され、武官としての扱いは大将と同格という別格扱いだった。同様のに鎮守府司令長官がある。

開戦時の艦隊

呼称
(符号)
旗艦/司令部所在地軍隊区分解説
第一艦隊(1F)日向主力部隊明治22年、海軍初の艦隊に関する単独法令「艦隊条例*51」が制定され「常備艦隊」が編成された。日清戦争では西海艦隊*52が別に編成され、これらを統一指揮する組織として「連合艦隊」が新たに編成される。
但し、戦後西海艦隊は解隊となり、1艦隊体制に戻っている。
その後日露戦争を前に常備艦隊を二分化し、第一艦隊*53と第二艦隊*54に分割され、以降第一艦隊は日本海軍の主力艦隊として存在した。
連合艦隊が編成される際は第一艦隊の司令部がこれを兼務するのが常備艦隊時代からの慣習となり、連合艦隊が常設化されて以降もそうであった。
だが米国との戦争が現実味を帯びてきた1941年、戦時編制発令で多数の艦隊*55が編制されて連合艦隊の規模が拡大すると問題も出てくる。今までにない広大な海域で行動する隷下部隊を、第一艦隊司令部と兼務しながら指揮を執るのは困難となっていたのである。
そこで第一艦隊司令部は連合艦隊司令部と分かれて独自の司令部が置かれる事になり、新たに高須四郎中将が任命された。
これに伴い、長らく第一艦隊の戦艦部隊の中核であった第一戦隊*56が連合艦隊直轄となり、残された第二戦隊*57が第一艦隊の司令部戦隊となり第二戦隊旗艦であった「日向」が第一艦隊旗艦を兼務することとなった。
開戦後は貴下の戦隊は各作戦地域に派遣されていたが、主力の第二戦隊は柱島に停泊し続け周囲から「柱島艦隊」と揶揄された。
ミッドウェ―海戦では主力部隊として出撃するが会敵せぬまま帰還。
その後貴下の部隊を正式に他艦隊に移籍させ訓練艦隊として活動、マリアナ沖海戦前の1944年2月に栄光の第一艦隊は解隊となる。
最後の艦隊司令長官は皮肉にも南雲機動部隊として空母が主力となる事を実証した第一航空艦隊の司令長官だった南雲忠一中将であった。
太平洋戦争開戦以降の司令長官
・高須四郎中将(~1942年7月14日)
・清水光美中将(1942年7月14日~1943年10月20日)
・南雲忠一中将(1943年10月20日~1944年2月25日)[解隊]
第ニ艦隊(2F)愛宕南方部隊第一艦隊と同様日露戦争前に常備艦隊を二つに分けて編成したのが始まり。
ワシントン軍縮条約による大量廃艦の影響を受けた1921年度の1年間だげ解隊されていた。
創設以来巡洋艦を中核に編成する遊撃部隊と位置づけられ戦艦を中核とする第一艦隊と連携して作戦行動をとるようにしていた*58
開戦時は重巡洋艦の殆どや第二水雷戦隊などが所属する前衛夜戦部隊であり、艦隊司令長官は第四戦隊を兼務し、柱島で停泊し続ける第一艦隊をしり目に最前線で戦い続ける。
中核戦力に大きな損害を受けることなく、逆に解隊された第一艦隊の戦艦を編入し、第三艦隊と共に第一機動艦隊を構成しその前衛戦力となる。
しかしマリアナ沖海戦で第三艦隊が大打撃を受け、有力な水上戦力として唯一の存在となる。
レイテ沖海戦では敵攻略部隊を殲滅する任務を帯びるが基地航空隊との策応に失敗して大損害を被り作戦も失敗。
続くフィリピンの戦いで駆逐艦など残った艦艇の多くに損害を被り、内地に帰還した艦艇も燃料不足のため活動停止状態となってしまう。
それでも旗艦大和以下10数隻が稼働状態であったが、1945年4月に沖縄戦が始まると旗艦大和以下残余の艦艇10隻で突入作戦を決行するも壊滅。4月20日をもって解隊となる。
太平洋戦争開戦以降の司令長官
・近藤信竹中将(~1943年8月9日)
・栗田健男中将(1943年8月9日~1944年12月23日)
・伊藤整一中将(1944年12月23日~1945年4月7日)[戦死]
第三艦隊(3F)足柄南方部隊比島攻略部隊元々は日露戦争前に常備艦隊が第一第二艦隊として再編された際、旧式艦艇で編成された第二線部隊である。
日露戦争開戦時は連合艦隊の貴下ではなかったが、間もなく編入されている。その後も解隊や再編を繰り返している。
開戦前の戦時編成発令で編成され、艦隊司令長官は第十六戦隊司令官を兼務した。
フィリピン攻略を主任務とし、その後は蘭印占領をもって第一段作戦が完了したので、攻略に特化した編制から駐留に特化した編制へ変更されることになり第二南遣艦隊へ改称された。
太平洋戦争開戦以降の司令長官
・高橋伊望中将(~1942年3月10日)[第二南遣艦隊へ改称]
第四艦隊(4F)鹿島南洋部隊
後に内南洋部隊と改称
日露戦争末期、樺太攻略戦の護衛のため、旧式艦や日本海海戦時の鹵獲艦艇を中心に編成された。
戦争後に解隊となるが、その後も海軍大演習時の仮想敵艦隊役としてその都度編成された。
太平洋戦争開戦時は中部太平洋方面を担当する部隊として設立された。
その担当海域は広大で当初より戦力不足が懸念され、実際警戒網は貧弱で、米機動部隊のゲリラ行動を抑える事は出来なかった。
史上初の空母同士の海戦である珊瑚海海戦も南洋部隊として五航戦を基幹とするMO機動部隊などを指揮する。
ミッドウェ―海戦後に新たに第八艦隊が編成されソロモン方面などが担当区域から外れる。
1943年末からは内南洋にも米軍の反攻が始まり11月にはタラワ、翌年1月クェゼリンが相次いで陥落。
2月にはトラック島空襲で中心機能が機能不全となり、司令長官が更迭されている。
パラオに司令部を移した第四艦隊は3月に新たに第十四航空艦隊と共に中部太平洋方面艦隊の所属となる。
しかしサイパン島に司令部を置いた中部方面艦隊は6月からの米軍のマリアナ侵攻で壊滅し第四艦隊はパラオに取り残され7月に連合艦隊直轄に戻る。
だが敵勢力圏に取り残され戦力も地上部隊や若干の基地航空隊だけで艦艇はゼロという状態となり、ほぼ無力化された状態のまま終戦を迎えた。
太平洋戦争開戦以降の司令長官
・井上成美中将(~1942年10月26日)
・鮫島具重中将(1942年10月26日~1943年4月1日)
・小林仁中将(1943年4月1日~1944年2月19日)
・原忠一中将(1944年2月19日~終戦)
第五艦隊(5F)多摩北方部隊元々は日中戦争時の増援艦隊として設立された。
開戦時は北方海域を担当する部隊として編成された。艦隊司令長官は第二十一戦隊司令官を兼務。
元々主要作戦域ではなかった為警戒程度の戦力しかなく、各艦隊には必ず1つは所属していた水雷戦隊も第五艦隊固有としては所属していない。
しかしAF作戦で占領したアッツ島、キスカ島を占領維持する事になった事から戦力も強化され、重巡那智や、第一艦隊に所属していた第一水雷戦隊も第五艦隊所属となった。
1943年8月には第十二航空艦隊と共に北東方面艦隊を編成している。
比較的平穏であった事もありマリアナ沖海戦頃でもかなりの戦力を保持していた。
捷号作戦で空母機動部隊の前衛である第二艦隊が別任務を与えられたので代わりの前衛戦力として第五艦隊が割り当てられることになり、第二遊撃部隊を編成している。
しかし実際のレイテ沖海戦では台湾沖航空戦の残敵掃討に第五艦隊を使用したため機動部隊と合流できずに南西方面部隊所属となりレイテ湾突入に加わる。
レイテ沖海戦後もフィリピン方面に留まり多号作戦などを指揮するが那智を始め多くの艦艇を失った。
12月には北東方面艦隊から正式に南西方面艦隊に配属を変えている。1945年2月に解隊となる。
太平洋戦争開戦以降の司令長官
・細萱戊子郎中将(~1943年3月31日)
・河瀬四郎中将(1943年3月31日~1944年2月15日)
・志摩清英中将(1944年2月15日~1945年2月5日)[解隊]
第六艦隊(6F)香取先遣部隊潜水艦部隊として設立された唯一の艦隊。
開戦時はハワイ方面の偵察、特殊潜航艇による真珠湾突入、東太平洋での通商破壊、オーストラリア方面の機雷敷設に従事した。
通商破壊作戦から機雷施設作業、包囲された地域への隠密輸送任務など多くの任務を行ったがその損害も大きかった。
1944年11月からは人間魚雷「回天」の運用も開始している。
劣勢の中でも戦い続け、開戦時から存在した各艦隊で唯一作戦行動可能な艦隊として終戦まで存在した。
太平洋戦争開戦以降の司令長官
・清水光美中将(~1942年3月16日)
・小松輝久中将(1942年3月16日~1943年6月21日)
・高木武雄中将(1943年6月21日~1944年7月10日)
・三輪茂義中将(1944年7月10日~1945年5月1日)
・醍醐忠重中将(1945年5月1日~1945年9月15日)
南遣艦隊(KF)香椎?南方部隊マレー攻略部隊太平洋戦争前の仏印進駐に際に警備のために編成された艦隊。
設立時の所属艦艇で海軍製なのは旗艦香椎と海防艦占守だけという小艦隊であった。
しかし対米戦では南方侵攻の先鋒となることから戦力が増強され重巡鳥海や第七戦隊、第三水雷戦隊などが増強されている。
しかし1942年1月にはフィリピン攻略部隊が編成されたことを機に艦隊は「第一南遣艦隊」となり解隊となる。
太平洋戦争開戦以降の司令長官
・小沢治三郎中将(~1942年1月3日)[第一南遣艦隊に改称]
第一航空艦隊(1AF)赤城機動部隊*59世界初の空母を中核とした艦隊として編成された。艦隊司令長官は第一航空戦隊司令官を兼務。
本来は第一、二、四、五航空戦隊とそれに付随する駆逐艦で構成される部隊*60だが、軍隊区分で構成した「南雲機動部隊」の方が有名である。
開戦以来破竹の進撃を続けた日本軍の代表的存在であったが、ミッドウェー海戦で大敗北を喫し空母4隻を損失。
その後は空母機動部隊の常態化のため新たに第三艦隊が設立され残余の空母はそこに配属となり、第一航空艦隊は解隊された。
なお1943年7月に基地航空隊として再結成されており、レイテ沖海戦では史上初めて「神風特別攻撃」を実施している。
太平洋戦争開戦以降の司令長官
・南雲忠一中将(~1942年7月14日)[解隊]
第十一航空艦隊(11AF)台湾基地航空部隊*61基地航空隊を基幹とする初めての艦隊。
開戦時はフィリピン、マレー、ジャワへの航空攻撃などを実施している。
「大空のサムライ」こと坂井三郎や「ラバウルの魔王」と恐れられた西澤広義などが所属した台南海軍航空隊も同艦隊所属の部隊である。
ガダルカナル戦が始まると司令部をテニアン島からラバウルに移し南東方面の航空作戦の主力となり、貴下の部隊は「ラバウル海軍航空隊」とも呼称された。
しかし相次ぐ激戦で航空戦力を失い、1944年には航空隊はラバウルに撤退するが司令部は引き続き同地にあって米軍に抵抗し同地で終戦を迎えた。
太平洋戦争開戦以降の司令長官
・塚原二四三中将(~1942年10月1日)
・草鹿任一(1942年10月1日~終戦)
第一遣支艦隊(1CF)宇治揚子江部隊第三艦隊*62を1939年11月に改称した艦隊。日中戦争の中、上海を拠点に揚子江流域で活動した。
当初は出雲*63を旗艦に、第三戦隊*64や第一航空戦隊*65、第一水雷戦隊*66、二個遣外艦隊*67等を擁する有力な艦隊であった。
しかし戦線が移動した事とアメリカとの緊張状態から改称時は砲艦を主力とする第十一戦隊*68と特別根拠地隊で構成される艦隊となっていた。
太平洋戦争開戦時は他の遣支艦隊と共に支那方面艦隊に所属していた。
しかし1942年1月に特別根拠地隊が警備隊に縮小された事で1943年8月に特別根拠地隊に降格となり解隊となる。
但し部隊としては引き続き活動し、砲艦の多くを失いながらも地上部隊は終戦まで活動を継続した。
太平洋戦争開戦以降の司令長官
・小松輝久中将(~1942年2月14日)
・牧田覚三郎中将(1942年2月14日~1943年3月9日)
・遠藤喜一中将(1943年3月9日~1943年8月20日)[特別根拠地隊へ改編]
第二遣支艦隊(2CF)五十鈴南支部隊第一遣支艦隊と同様、第五艦隊*69を1939年11月に改称した艦隊。広州を拠点に南シナ海に面する流域を担当していた。
第五艦隊時代は第九戦隊*70を基幹に第十戦隊*71、第五水雷戦隊*72、第三第四航空戦隊*73を擁するかなり強力な艦隊であった。
しかしこれも改称時は戦力を引き抜かれ*74、開戦時は第十五戦隊*75と水雷艇2隻、それに地上部隊という貧弱な戦力となっていた。
開戦初頭に陸軍が香港を占領すると拠点を香港に移すが、五十鈴を始め多くを連合艦隊に引き抜かれ、残った小艦艇も戦闘で失い地上戦力のみとなる。
しかし開戦時の遣支艦隊で唯一艦隊として終戦まで存続した。
太平洋戦争開戦以降の司令長官
・新見政一中将(~1942年7月14日)
・原清中将(1942年7月14日~1943年6月21日)
・福島大助中将(1943年6月21日~1945年4月21日)
・藤田類太郎中将(1945年4月25日~終戦)
第三遣支艦隊(3CF)磐手北支部隊他の遣支艦隊と同様、第四艦隊*76を1939年11月に改称した艦隊。
青島を拠点にし、同様に青島を拠点とする欧米の艦隊を牽制し、同海域の警備活動をしていた。
第四艦隊時代は足柄を旗艦に、第九戦隊、第十四戦隊*77、第四水雷戦隊*78、第五水雷戦隊*79で構成*80していた。
しかし改称時には瑞穂と水雷艇5隻に大幅に縮小され、更に太平洋戦争開戦時は日露戦争時代の装甲巡洋艦磐手と水雷艇2隻、他は地上部隊となっていた。
1942年4月には艦隊は解隊され青島特別根拠地隊として終戦まで山東半島で活動し続けた。
太平洋戦争開戦以降の司令長官
・杉山六蔵中将(~1941年12月26日)
・河瀬四郎中将(1941年12月26日~1942年4月10日)[特別根拠地隊へ改編]

開戦後に編成された主要各艦隊

呼称旗艦/司令部所在地軍隊区分解説
第三艦隊(再編)(3F)翔鶴機動部隊ミッドウェー海戦の大敗後、軍隊区分として編成していたため所属部隊同士の連携訓練などがとりにくかった機動部隊を艦隊として常設化することにして7月に編成した。
新編の第一第二航空戦隊に新設の第十戦隊、第十一戦隊を配属、他にも第二艦隊から重巡洋艦部隊である第七第八戦隊を加えて構成した。
8月より発生したソロモン方面での激闘に参加し、第二次ソロモン海戦や南太平洋海戦では米機動部隊と渡り合う。
南太平洋海戦後は司令長官は南雲から小沢治三郎に替わる。
第三艦隊新編の際は第三艦隊の前衛部隊として第二艦隊がこれに当たる事としていた。
だが第三艦隊司令長官の南雲より第二艦隊司令長官の近藤信竹中将の方が先任なので彼が両艦隊を指揮を執る事になってしまった*81
この為1944年3月にようやく建制として「第一機動艦隊」が設立され第二第三艦隊が所属、第三艦隊司令部がこれを兼務する事となり問題も解決した*82
マリアナ沖海戦で大敗し、続く米軍迎撃作戦である捷号作戦では主力は基地航空艦隊とされたが、空母機動部隊も出来るだけ再建するという判断から部隊の再建が図られる。
1944年9月の時点で空母8隻*83に航空戦艦2隻*84、艦載機も400機を擁し、マリアナ沖海戦時と同程度まで回復していた。
しかし10月12日から始まった台湾沖航空戦で艦載機の大半を命令で提供。だが米軍がレイテに侵攻すると戦力を収容する間もなく残存戦力で出撃する羽目になる。
この為当初の
機動部隊として航空作戦を行い敵を北方に引き付けて基地航空隊と共同してこれを殲滅する
という作戦から
自らを''として敵を北方に引き付けて基地航空隊と共同してこれを殲滅する
に変更せざるを得なくなる。
結局参加した空母4隻*85の全部と護衛艦艇3隻*86を失い、11月に第一機動艦隊と共に解隊となった。
創設以降の司令長官
・南雲忠一中将(1942年7月14日~1942年11月11日)
・小沢治三郎中将(1942年11月11日~1944年11月15日)[解隊]
第七艦隊(7F)福岡県門司対馬海峡方面部隊1945年3月末より、米軍による機雷攻撃(飢餓作戦)が開始されたことに伴い、西内海地域の関門、対馬、朝鮮各海峡防衛と船舶の安全輸送確保の為に編制された。
形式的には連合艦隊所属だが、実質は海上護衛総隊所属であった。
戦争末期の編成のため、その戦力は日露戦争時代の旧式艦である「常盤」と数隻の海防艦でしかなかった。
なお、第八艦隊設立以後長らく第七艦隊が欠番だったのは第六艦隊の他にもう1艦隊潜水艦部隊を設立する構想があり、それに第七艦隊を充てるつもりであったからとも言われている。
創設以降の司令長官
・岸福治中将(1945年4月15日~1945年8月20日)
・大森仙太郎中将(1945年8月20日~1945年9月15日)
第八艦隊(8F)鳥海外南洋部隊戦線の拡大により、第四艦隊が担当する中部太平洋方面が手薄となったため、その方面を内南洋、外南洋に分け、新たに外南洋を担当する艦隊として1942年7月に編成された。
初代司令長官は「三川艦隊」の名で艦これでは著名な三川軍一中将。
編成時は重巡洋艦鳥海を旗艦に第十八戦隊*87、第三十駆逐隊*88と掃海艇などの小艦艇で構成していたが、米軍のガダルカナル侵攻を受け前線部隊として戦った。
特に米軍上陸を受け反撃に出た「第一次ソロモン海戦」での活躍は有名*89。ガダルカナル戦でも最前線部隊として奮戦する。
戦線が移動した後は水上艦艇も多くが引揚げられ、ブーゲンビル島ブインに置いた司令部からソロモン諸島に点在する基地間の輸送任務及び海軍陸戦隊の指揮を行い終戦を迎えた。
なお、三川の後任で最後の司令長官となった鮫島具重中将は最上艦長時代に一少尉に殴られた経験をもち、司令長官時代には潜水艦長となっていたその少尉に助けられるという経験をしている。
創設以降の司令長官
・三川軍一中将(1942年7月14日~1943年4月1日)
・鮫島具重中将(1943年4月1日~終戦)
第九艦隊(9F)ウエワクニューギニア部隊ガダルカナル戦後、主要戦線がニューギニアに移動した事を受け、第八艦隊が担当した外南洋からニューギニア方面を分割して新たに担当する艦隊として1943年11月に編成された。
しかしその戦力の殆どは陸戦隊などの地上部隊や駆潜艇などの小艦艇であり、まともな戦闘艦艇は修理のなった駆逐艦不知火と施設艦「白鷹」だけであった。
司令部をニューギニアのウエワクに置いたが米軍がホーランジアに上陸するとこれを迎撃する。
しかし大敗しサルミへの撤退途上司令部が壊滅し、遠藤喜一司令長官ら幕僚が全滅する。1944年7月に解隊。
創設以降の司令長官
・遠藤喜一中将(1943年11月15日~1944年5月3日)[戦死]
第一航空艦隊(2代目)(1AF)第五基地航空部隊開戦前に編成された初代と異なり、1943年7月に基地航空隊として編成された。
初代司令長官は開戦時の第四航空戦隊司令官だった角田覚治中将。
中部太平洋方面に展開し絶対国防圏防衛の航空戦力の中核であったが、マリアナ沖海戦以降の米軍の侵攻を受け、角田長官も司令部のあったテニアン島から脱出できずに司令部ごと全滅する。
新たに寺岡謹平中将を司令長官に据えて残存戦力を元に再建に乗り出すが、1944年9月のダバオ誤報事件で錬成途上の戦力に大打撃を受けてしまう。
その責を問われて寺岡長官は更迭され、新たに大西瀧治郎中将が就任するが戦力は10月12日からの台湾沖航空戦で更に壊滅的打撃を受けてしまう。
司令部は窮余の策として体当たり攻撃「神風特別攻撃」を実施、以後この作戦は日本軍全軍で採用されるようになる。
1945年末には拠点としたフィリピンから台湾に移動しルソン島に侵攻する米軍と戦ったが、戦力は完全に枯渇し1945年6月に解隊となった。
創設以降の司令長官
・角田覚治中将(1943年7月1日~1944年8月2日)[戦死]
・寺岡謹平中将(1944年8月7日~1944年10月20日)
・大西瀧治郎中将(1944年10月20日~1945年5月10日)
・志摩清英中将(兼務)(1945年5月10日~1945年6月15日)[解隊]
第二航空艦隊(2AF)第六基地航空部隊1944年6月に編成された基地航空部隊。
直後に発生したマリアナ沖海戦とマリアナ諸島での一連の戦いには錬成途上のため参加していない。
続く米軍侵攻への反攻作戦である「捷号作戦」では戦力の中核と位置付けられ、4号まである作戦のうち1~3号までは同航空艦隊が中核戦力として参加する事になっていた。
台湾及び南西諸島に展開していたが、1944年10月12日からの台湾沖航空戦で戦力の過半を失う。
それでも続くレイテ沖海戦では中核として米機動部隊への攻撃を実施し、空母「プリンストン」を撃沈し一矢報いている。
同海戦で第一航空艦隊が神風特攻を実施し戦果を挙げた事を受け、第二航空艦隊でも特攻作戦を開始する。
以後レイテ島での一連の戦いで特攻作戦を実施し続ける。米軍がルソン島に上陸する前日の1945年1月8日に解隊。
創設以降の司令長官
・福留繁中将(1944年6月15日~1945年1月8日)[解隊]
第三航空艦隊(3AF)第七基地航空部隊本土防衛の基地航空部隊として1944年7月に編成される。
編成当初は関東地方を拠点としていたが硫黄島陥落後は九州に移動、硫黄島や沖縄方面への攻撃を担当した。
紫電改部隊として活躍した第343海軍航空隊も、当初は第三航空艦隊に所属していた。
創設以降の司令長官
・吉良俊一中将(1944年7月10日~1944年11月11日)
・寺岡謹平中将(1944年11月11日~1945年8月26日)
・山田定義中将(1945年8月26日~1945年10月1日)
第五航空艦隊(5AF)鹿屋天航空部隊第三航空艦隊と同様本土防空の基地航空部隊として1945年2月に編成。
沖縄への特攻作戦の中核となる。終戦後に司令長官だった宇垣纏中将による特攻が行われた。
創設以降の司令長官
・宇垣纒中将(1945年2月10日~1945年8月15日)[戦死]
・草鹿龍之介中将(1945年8月17日~1945年10月10日)
第十航空艦隊(10AF)錬成部隊として1945年3月に編成された。
その為所属部隊は練習部隊であり即戦力は保持していない。
創設以降の司令長官
・前田稔中将(1945年3月1日~1945年10月1日)
第十二航空艦隊(12AF)第二基地航空部隊第五艦隊と共に北東方面艦隊を編成した際に同方面の基地航空部隊として1943年5月に編成された。
しかし戦力の多くを南方や本土に転属されてしまい、終戦時には北東海軍航空隊と若干の地上部隊や魚雷艇だけ保持する部隊となっていた。
創設以降の司令長官
・戸塚道太郎中将(1943年5月18日~1944年9月15日)
・後藤英次中将(兼務)(1944年9月15日~1945年3月15日)
・宇垣莞爾中将(兼務)(1945年3月15日~1945年10月1日)
第十三航空艦隊(13AF)第三基地航空部隊南西方面艦隊所属の基地航空部隊として1943年9月に編成された。
米軍が南西方面艦隊の所在するルソン島に侵攻すると指示を受けれなくなった事もあり、新設の第十方面艦隊に所属をかえている。
創設以降の司令長官
・高須四郎中将(兼務)(1943年9月20日~1944年6月18日)
・三川軍一中将(1944年6月18日~1944年10月31日)
・大河内伝七中将(1944年11月1日~1945年1月8日)
・田結穣中将(1945年1月8日~1945年1月13日)
・福留繁中将(1945年1月13日~終戦)
第十四航空艦隊(14AF)第四基地航空部隊中部太平洋方面艦隊所属の基地航空部隊として1944年3月にテニアン島にて編成される。
米軍の侵攻を予測し5月に同島に進出した第一航空艦隊に所属部隊を譲渡し僅か2か月で実質的に解隊となる。
創設以降の司令長官
・南雲忠一中将(1944年3月4日~1944年7月18日)[戦死]
第一護衛艦隊(1EF)香椎元々南西方面艦隊所属であった第一海上護衛隊を1944年12月に発展解消させた部隊。
本土からシンガポールの航路防衛を担当する。
1945年1月に行われた南方から本土への物資輸送作戦「南号作戦」の中核となる*90
しかし米潜水艦の跳梁跋扈によりこのルートでの輸送を断念、以後は日本沿岸航路の防衛に専念する。
なお終戦時に一部の海防艦が停戦命令を無視して樺太や朝鮮に入港し邦人救助を行っている。
創設以降の司令長官
・岸福治中将(1944年12月10日~1945年7月10日)
・田結穣中将(兼務)(1945年7月10日~1945年8月25日)
第一南遣艦隊(1KF)香椎西方部隊前述の南遣艦隊を改名して編成。司令長官は引き続き小沢治三郎中将。
陸軍のシンガポール攻略戦を支援する。
その後は拠点をシンガポールに置き、マレー半島・インドシナ・ビルマ・ニコバル諸島・アンダマン諸島などに根拠地隊を派遣、同方面の警備に当たっていた。
戦争全期間を通して主戦場とならなかった為たいした損害は受けなかった。
1942年4月には後述する南西方面艦隊が設立されると同艦隊に所属。その頃の所属艦として占守や第五駆逐隊の面々などがいる。
その後米軍がフィリピンに侵攻し司令部をマニラに置く同艦隊の指揮を受けれなくなると、新設の第十方面艦隊に所属した。
晩年にはシンガポールに避退していた高雄妙高等も所属している。
創設以降の司令長官
・小沢治三郎中将(1942年1月3日~1942年7月14日)
・大河内伝七中将(1942年7月14日~1943年9月20日)
・田結穣中将(1943年9月20日~1945年1月13日)
・福留繁中将(兼務)(1945年1月13日~終戦)
第ニ南遣艦隊(2KF)足柄東印部隊1942年3月に第三艦隊を再編改称した艦隊。司令長官は引き続き高橋伊望中将。
インドネシア攻略戦に参加し、攻略後はボルネオ島・セレベス島・スンダ列島・西ニューギニアを管轄した。
しかし一艦隊が任されるには広大過ぎたので、1943年11月には第四南遣艦隊が新設され、区域の東半分を管轄した。
再編時は足柄を旗艦に、第16戦隊*91とそれなりの戦力を保持していた。
しかし相次ぐ戦いで戦力を引き抜かれ戦争後半の頃は駆潜艇や掃海艇などの小艦艇と警備隊などの陸上兵力で構成する部隊となっていた。
第一南遣艦隊同様主戦場とはならず、フィリピン戦からの動きは第一南遣艦隊同様であり、そのまま終戦を迎えた。
創設以降の司令長官
・岩村精一中将(1943年4月15日~1943年9月3日)
・三川軍一中将(兼務)(1943年9月3日~1944年6月18日)
・河瀬四郎中将(1944年6月18日~1945年1月29日)
・柴田弥一郎中将(1945年1月29日~終戦)
第三南遣艦隊(3KF)球磨*92比島部隊上記二個艦隊と異なり、1942年1月に2個根拠地隊から新編された部隊。
フィリピン攻略戦に参加し、以後は南方と本土の航路を護る任務を受け持ち、第一海上護衛隊が配属された。尚第一海上護衛隊は後に海上護衛総隊に移譲されている。
1944年8月からは南西方面艦隊司令部の直轄部隊となるが、この為同司令部は3個の艦隊司令部*93を兼務する事になってしまう。
以後の流れは後述の南西方面艦隊と同じである。
創設以降の司令長官
・杉山六蔵中将(1942年1月3日~1942年12月1日)
・太田泰治中将(1942年12月1日~1943年9月20日)
・岡新中将(1943年9月20日~1944年8月15日)
・三川軍一中将(1944年8月15日~1944年10月31日)
・大河内伝七中将(1944年11月1日~終戦)
第四南遣艦隊(4KF)濠北部隊上記の通り第二南遣艦隊の広大な管轄を補完するために1943年11月に新設された。
スンダ列島やバンダ海周辺の島嶼部の防衛を担当する。
創設以降の司令長官
・山県正郷中将(1943年11月30日~1945年3月10日)[解隊]

連合艦隊・各方面艦隊など

同じ艦隊と表記されるが複数の艦隊が集まって構成される艦隊もある。著名なものとしては日本海軍の「顔」でもある連合艦隊がある。開戦時にはこの他にも支那方面艦隊(第一~第三遣支艦隊ほかで構成)があった。開戦後戦域が拡大すると広大な海域を連合艦隊だけで指揮をするには無理が出てきたため、戦域を複数に分割したうえで新たに「方面艦隊」を設置。水上艦隊と基地航空艦隊でそれを編成する、司令長官は基地航空艦隊の司令長官が兼務する形にしている。
また米艦隊と正面から渡りあう決戦部隊も第一機動艦隊として二個艦隊編成とし、これら複数の方面艦隊などを連合艦隊が指揮する形とした。但し単独の艦隊すべてが連合艦隊直轄でなくなった訳ではなく、例えば潜水艦部隊で構成される第六艦隊や、台湾沖航空戦などで中核戦力となった第二航空艦隊などは連合艦隊直轄のまま留め置かれている。

呼称
(符号)
旗艦/司令部所在地軍隊区分解説
連合艦隊(GF)長門主隊言わずと知れた帝国海軍の花形であり、主力艦艇の殆どを保有する海軍最大の部隊である。
日露戦争時に常備艦隊から再編された第一第二両艦隊を戦時体制になった事で統一指揮するために編成されたのが始まりで、第一艦隊司令部が兼務した。
太平洋戦争開戦時は9個艦隊を擁するまでになったので開戦前に第一艦隊司令部と連合艦隊司令部は分離している。
戦局が悪化して多くの艦艇を失いながらも「栄光ある」連合艦隊は組織として存続、その間軍令部との合併などの案も出たがどれも廃案となっている。
最後の司令長官小沢治三郎は唯一中将のまま司令長官となり終戦を迎えた。
太平洋戦争開戦以降の司令長官
・山本五十六大将(~1943年4月18日)[戦死]
・古賀峯一大将(1943年4月21日~1944年3月31日)[殉職]
・豊田副武大将(1944年5月3日~1945年5月1日)
・小沢治三郎中将(1945年5月1日~1945年10月10日)
支那方面艦隊(CSF)出雲支那方面部隊連合艦隊と共に開戦前に存在した複数艦隊で構成する艦隊。
日中戦争を受けて編成された第四艦隊に元々あった第三艦隊を加えて1937年10月に編成され、翌年にはさらに第五艦隊が編成され合流、3個艦隊に多くの基地航空隊を擁する連合艦隊に匹敵する規模にまでなった。
しかし戦場は中国大陸の奥にまで進んだことと、対米戦が現実味を帯びてきた事で戦力を連合艦隊に移し*94、太平洋戦争開戦時は陸戦部隊を中核とした編成となっていた。
開戦後も戦力の多くを引き抜かれ沿岸部を守る陸戦隊を核とした部隊となるも終戦まで存続した
太平洋戦争開戦以降の司令長官
・古賀峯一大将(~1942年11月10日)
・吉田善吾大将(1942年11月10日~1943年12月1日)
・近藤信竹大将(1943年12月1日~1945年5月15日)
・福田良三中将*95(1945年5月15日~1945年11月30日)
第一機動艦隊(1KdF)翔鶴機動部隊*96方面艦隊とは異なるが空母を基幹とする第三艦隊と水上艦艇を中核とする第二艦隊で新たな艦隊を編成し、それを連合艦隊の決戦部隊とするという組織改革が実施され、1944年3月に決戦部隊として編成された。
マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦を戦うがレイテ沖海戦後の1944年11月に第三艦隊と共に解隊、第二艦隊は連合艦隊直轄となった。
創設以降の司令長官
・小沢治三郎中将(1944年3月1日~1944年11月15日[解隊])
南東方面艦隊(NTF)ラバウル南東方面部隊1942年12月に編成された方面艦隊。
ソロモン・ニューギニア方面を担当し、水上艦隊の第八艦隊と基地航空隊の第十一航空艦隊で編成され、司令部は第十一航空艦隊司令部が兼務する。
ソロモンでの一連の戦いで最前線部隊として善戦するが、トラック諸島への空襲やマリアナ諸島失陥により本土との航路を遮断され、孤立無援の中自給自足体制を敷き、終戦まで活動を実施した。
創設以降の司令長官
・草鹿任一中将(1942年12月24日~終戦)
南西方面艦隊(GKF)足柄南西方面部隊1942年4月に南方侵攻が一段落し、占領地の警戒部隊として編成された。
そのため当初は上記のような水上艦隊1、基地航空艦隊1の編成ではなく南遣艦隊と第三艦隊を名称変更した第二南遣艦隊などで構成していた。
しかし連合軍の侵攻で担当域も戦場となると基地航空隊の第十三航空艦隊なども配備される。
フィリピンへの米軍侵攻の脅威が具現化すると司令部をマニラに移しそれに対応するため所属部隊も増やされ、一時は組織上は6個水上艦隊、2個基地航空艦隊を擁する大部隊になっている。
創設以降の司令長官
・高橋伊望(1942年4月10日~1942年9月14日)
・高須四郎中将(1942年9月15日~1944年6月17日)
・三川軍一中将(1944年6月18日~1944年10月31日)
・大河内伝七中将(1944年11月1日~終戦)
中部太平洋方面艦隊(TYF)サイパン中部太平洋方面部隊マリアナ諸島など中部太平洋を担当するために1944年3月に編成された。
第四艦隊と第十四航空艦隊で編成され司令部は第十四方面艦隊司令部が兼務する。
しかし6月からの米軍のマリアナ侵攻で壊滅し7月には解隊、もっとも短命な方面艦隊となる。因みに司令長官は南雲忠一であり、サイパンで自刃した。
創設以降の司令長官
・南雲忠一中将(1944年3月4日~1944年7月8日[戦死])
北東方面艦隊(HTF)千歳市北東方面部隊千島、アリューシャンなど北東海域を担当するために1943年8月に編成された。
第五艦隊と第十二航空艦隊で編成し司令部は第十二航空艦隊司令部が兼務する。
しかし南方からの米軍の反攻に対応するため、比較的静穏な同海域から次々と部隊が引き抜かれ、1944年12月に第五艦隊の南西方面艦隊への異動をもって北東方面艦隊は解隊した。
創設以降の司令長官
・戸塚道太郎中将(1943年8月5日~1944年9月15日)
・後藤英次中将(1944年9月15日~1944年12月5日[解隊])
第十方面艦隊(10TF)シンガポール第十方面部隊南西方面艦隊所属の第一南遣艦隊、第二南遣艦隊、第十三航空艦隊は米軍のルソン侵攻により、マニラに司令部のある南西方面艦隊から指揮を受けれなくなってしまう
そこでそれらの部隊で1945年2月に新たに編成したのがこの第十方面艦隊である。
司令部は第十三航空艦隊司令部が兼務しているが、同司令部は第一南遣艦隊司令部も兼務している。
戦争も末期の中での編成であり、戦力も軍艦は手負いの羽黒足柄など僅かしかなかった。
創設以降の司令長官
・福留繁中将(1945年2月5日~終戦)
海上護衛総隊(GEB)横須賀市米潜水艦の通商破壊戦に対抗して1943年11月に設立された護衛専門の部隊。
南西方面艦隊所属だった第一海上護衛隊(後の第一護衛艦隊)と第四艦隊所属の第二海上護衛隊を基幹に編成された。
戦力装備とも乏しい中、通商路の確保に死闘を繰り広げる。
創設以降の司令長官
・及川古志郎大将(1943年11月15日~1944年8月2日)
・野村直邦大将(1944年8月2日~1945年5月1日)
・豊田副武大将(兼務)(1945年5月1日~1945年5月29日)
・小沢治三郎中将(兼務)(1945年5月29日~1945年8月25日)
海軍総隊(GB)神奈川県日吉台大和の沖縄特攻も失敗に終わり、水上戦力をほぼ失った海軍が、1945年4月25日に編成した残存戦力を結集した部隊。
それまで連合艦隊とは別であった支那方面艦隊や、海上護衛総隊、各鎮守府や警備府*97を新たに設けた海軍総隊として一括し、海軍総隊司令部は連合艦隊司令部が兼務した。
なので実質的には連合艦隊が全ての残存戦力を指揮下に置いた形となった。
なお南西方面艦隊と南東方面艦隊も当初は連合艦隊から海軍総隊の直轄となっていた
しかし5月末に連合艦隊司令長官に小沢治三郎が中将のまま任命され海軍総隊司令長官を兼務する事になると、南東方面艦隊*98と南西方面艦隊*99は軍令部直轄に異動している*100
太平洋戦争開戦以降の司令長官
・豊田副武大将(兼務)(1945年4月25日~1945年5月29日)
・小沢治三郎中将(兼務)(1945年5月29日~1945年10月10日)

日本海軍の艦隊構成の移り変わり

日本海軍の艦隊構成の移り変わり

日本海軍の艦隊構成の移り変わり ※()内は組織の最高責任者
開戦時(1941年12月7日)

軍令部
(永野修身大将)
連合艦隊
(山本五十六大将)
第一艦隊(高須四郎中将)
第二艦隊(近藤信竹中将)
第三艦隊(高橋伊望中将)
第四艦隊(井上成美中将)
第五艦隊(細萱戊子郎中将)
第六艦隊(清水光美中将)
第一航空艦隊(南雲忠一中将)
第十一航空艦隊(塚原二四三中将)
南遣艦隊(小沢治三郎中将)
支那方面艦隊
(古賀峯一大将)
第一遣支艦隊(小松輝久中将)
第二遣支艦隊(新見政一中将)
第三遣支艦隊(杉山六蔵中将)
各鎮守府・警備府部隊

ガダルカナル戦時(1942年8月7日)

軍令部
(永野修身大将)
連合艦隊
(山本五十六大将)
第一艦隊(清水光美中将)
第二艦隊(近藤信竹中将)
第三艦隊(南雲忠一中将)
第四艦隊(井上成美中将)
第五艦隊(細萱戊子郎中将)
第六艦隊(小松輝久中将)
第八艦隊(三川軍一中将)
第十一航空艦隊(塚原二四三中将)
南西方面艦隊
(高橋伊望中将)
第一南遣艦隊(大河内伝七中将)
第二南遣艦隊(兼高橋伊望中将)
第三南遣艦隊(杉山六蔵中将)
支那方面艦隊
(古賀峯一大将)
第一遣支艦隊(牧田覚三郎中将)
第二遣支艦隊(原清中将)
各鎮守府・警備府部隊

マリアナ沖海戦時(1944年6月19日)

軍令部
(嶋田繁太郎大将)
連合艦隊
(豊田副武大将)
第六艦隊(高木武雄中将)
第一航空艦隊(角田覚治中将)
第一機動艦隊
(小沢治三郎中将)
第二艦隊(栗田健男中将)
第三艦隊(兼小沢治三郎中将)
北東方面艦隊
(戸塚道太郎中将)
第五艦隊(志摩清英中将)
第十二航空艦隊(兼戸塚道太郎中将)
中部太平洋方面艦隊
(南雲忠一中将)
第四艦隊(原忠一中将)
第十四航空艦隊(兼南雲忠一中将)
南東方面艦隊
(草鹿任一中将)
第八艦隊(鮫島具重中将)
第十一航空艦隊(兼草鹿任一中将)
南西方面艦隊
(三川軍一中将)
第一南遣艦隊(田結穣中将)
第二南遣艦隊(河瀬四郎中将)
第三南遣艦隊(岡新中将)
第四南遣艦隊(山県正郷中将)
第九艦隊(遠藤喜一中将*101
第十三航空艦隊(兼三川軍一中将)
支那方面艦隊
(近藤信竹大将)
第二遣支艦隊(福島大助中将)
海上護衛総隊
(及川古志郎大将)
第一海上護衛隊(中島寅彦中将)
第十八戦隊(永井清治少将)
第二航空艦隊*102(福留繁中将)
各鎮守府・警備府部隊

レイテ沖海戦時(1944年10月24日)

軍令部
(及川古志郎大将)
連合艦隊
(福田副武大将)
第四艦隊(原忠一中将)
第六艦隊(三輪茂義中将)
第二航空艦隊(福留繁中将)
第三航空艦隊(吉良俊一中将)
第一機動艦隊
(小沢治三郎中将)
第二艦隊(栗田健男中将)
第三艦隊(兼小沢治三郎中将)
北東方面艦隊
(後藤英次中将)
第五艦隊(志摩清英中将)
第十二航空艦隊(兼後藤英次中将)
南東方面艦隊
(草鹿任一中将)
第八艦隊(鮫島具重中将)
第十一航空艦隊(兼草鹿任一中将)
南西方面艦隊
(三川軍一中将)
第一南遣艦隊(田結穣中将)
第二南遣艦隊(河瀬四郎中将)
第三南遣艦隊(兼三川軍一中将)
第四南遣艦隊(山県正郷中将)
第一航空艦隊(大西瀧治郎中将)
第十三航空艦隊(兼三川軍一中将)
支那方面艦隊
(近藤信竹大将)
第二遣支艦隊(福島大助中将)
海上護衛総隊
(野村直邦大将)
第一海上護衛隊(中島寅彦中将)
第十八戦隊(永井清治少将)
各鎮守府・警備府部隊

大和沖縄特攻時(1945年4月7日)

軍令部
(及川古志郎大将)
連合艦隊
(福田副武大将)
第二艦隊(伊藤整一中将)
第四艦隊(原忠一中将)
第六艦隊(三輪茂義中将)
第三航空艦隊(寺岡謹平中将)
第五航空艦隊(宇垣纏中将)
第十航空艦隊(前田稔中将)
第十二航空艦隊(宇垣完爾中将*103
南西方面艦隊
(大河内伝七中将)
第三南遣艦隊(兼大河内伝七中将)
第一航空艦隊(志摩清英中将)
第十方面艦隊
(福留繁中将)
第一南遣艦隊(兼福留繁中将)
第二南遣艦隊(柴田弥一郎中将)
第十三航空艦隊(兼福留繁中将)
支那方面艦隊
(近藤信竹大将)
第二遣支艦隊(福島大助中将)
海上護衛総隊
(野村直邦大将)
第一海上護衛艦隊(岸福治中将)
第十八戦隊(永井清治少将)
各鎮守府・警備府部隊

終戦時(1945年8月15日)

軍令部
(豊田副武大将)
海軍総隊
(小沢治三郎中将)
連合艦隊
(兼小沢治三郎中将)
第四艦隊(原忠一中将)
第六艦隊(醍醐忠重中将)
第七艦隊(大森仙太郎中将)
第三航空艦隊(寺岡謹平中将)
第五航空艦隊(宇垣纏中将)
第十航空艦隊(前田稔中将)
第十二航空艦隊(宇垣莞爾中将)
第十方面艦隊
(福留繁中将)
第一南遣艦隊(兼福留繁中将)
第二南遣艦隊(柴田弥一郎中将)
第十三航空艦隊(兼福留繁中将)
支那方面艦隊
(福田良三中将)
第二遣支艦隊(藤田類太郎中将)
海上護衛総隊
(兼小沢治三郎中将)
第一海上護衛艦隊(田結穣中将)
第十八戦隊
各鎮守府・警備府部隊
南東方面艦隊
(草鹿任一中将)
第八艦隊(鮫島具重中将)
第十一航空艦隊(兼草鹿任一中将)
南西方面艦隊
(大河内伝七中将)
第三南遣艦隊(兼大河内伝七中将)

軍艦ではない艦艇で、駆逐艦や潜水艦等は上記の通り2隻以上で隊を編成し、それが軍艦1隻に相当する戦略単位とされた。そのため指揮官は軍艦艦長と同様の大佐が任じられ、司令と呼称された。駆逐隊や潜水隊のほかにも、基地航空隊や空地分離後の空母艦載部隊の航空隊(例:台南海軍航空隊、601海軍航空隊)等も存在した。

駆逐隊

駆逐隊の定義については艦娘用語を参照のこと。
駆逐隊の番号は、所属する鎮守府ごとに分けられている(当初は1駆~40駆まで。後に41駆~70駆を追加)。したがって新旧は番号順になっていない。
駆逐隊には、以下のものがある(括孤内は開戦時または開戦後最初の編成時の編成、所属先)。
なお、駆逐隊の名称に限った話ではないが、連番を基準とした数字を基にしている名称の場合、11以上は「十」「百」「千」を使用した表記となり、読み方も見たとおりのものとなる。
また一部で「十を入れないのが正式」などと実しやかに言われているようだが、そのような規定をした法令も法令文書に使用された事実も一切ない。

1~10番台(横須賀所属)

呼称
(符号)
所属艦所属隊解説
第一駆逐隊(1dg)野風
波風
沼風
神風
大湊警備府開戦以来大湊を拠点に北方海域の警備任務を担当。
戦争末期には連合艦隊附属となり南方に進出、神風のみが終戦までシンガポールを拠点に活動していた。
太平洋戦争開戦以降の司令
・香川清登大佐(~1943年1月12日)
・脇田喜一郎大佐(1943年1月12日~1943年8月20日)
・渡邉保正中佐(1943年8月20日~1943年12月18日)[戦死]
・春日均少佐*104(1943年12月20日~終戦)
第二駆逐隊(1)(2dg)村雨
夕立
春雨
五月雨
第四水雷戦隊開戦以来フィリピンや蘭印の攻略戦に参加。
第三次ソロモン海戦で夕立、ビラ・スタンモーア夜戦*105で村雨を失い程なく解隊。
太平洋戦争開戦以降の司令
・橘正雄大佐(~1943年7月1日)[解隊]
第二駆逐隊(2)(2dg)早霜
秋霜
清霜
第二水雷戦隊1944年8月に夕雲型3隻で再編。
レイテ沖海戦で早霜、マニラ湾空襲で秋霜を失い、朝霜を編入するが礼号作戦で清霜を失い解隊となる。
再編以降の司令
・白石長義大佐(1944年8月15日~1945年2月10日)[解隊]
第三駆逐隊(3dg)汐風
帆風
第四航空戦隊第四航空戦隊付の駆逐隊として編成。当初は夕風も所属していたが開戦前に第三航空戦隊付に移動している。
開戦後は南方に進出する龍驤の護衛を務めたが程なく解隊となり、2隻はそのまま第四航空戦隊付となる。
太平洋戦争開戦以降の司令
・鳥居威美中佐(~1942年1月10日)[解隊]
第四駆逐隊(4dg)野分

萩風
舞風
第四水雷戦隊開戦以来南方で活動していたが第十戦隊編成に伴い同戦隊所属に移動、ベラ湾夜戦で嵐、萩風を失い、トラック空襲で舞風を失う。
その間に朝潮型の3隻(朝雲山雲満潮)が加わるが、レイテ沖海戦で4隻とも戦没し解隊となる。
太平洋戦争開戦以降の司令
・有賀幸作大佐(~1943年2月20日)
・杉浦嘉十大佐(1943年2月20日~1943年11月17日)
・磯久研磨大佐(1943年11月17日~1944年2月17日)[戦死]
・高橋亀四郎大佐*106(1944年5月10日~1944年10月25日)[戦死]
第五駆逐隊(5dg)朝風
春風
松風
旗風
第五水雷戦隊開戦時は南方方面で活動。バタビア沖海戦で奮戦する。
第五水雷戦隊解隊後は旗風が転出し、3隻が第一南遣艦隊に所属し同方面の船団護衛などに従事。
しかし程なく隊は解隊となり、3隻は第一海上護衛隊に転出となる。
太平洋戦争開戦以降の司令
・野間口兼知中佐(~1943年2月25日)[解隊]
第六駆逐隊(6dg)


第一水雷戦隊戦争初期は南方作戦や蘭印作戦に従事。その後北方海域で行動中に響が損傷し離脱する。
その間同隊は南方方面に派遣され第三次ソロモン海戦で暁が戦没する。
その後第十一水雷戦隊に配属されるが1944年には雷、電が相次いで戦没し解隊となる。
太平洋戦争開戦以降の司令
・成田茂一中佐(~1942年4月6日)
・山田勇助中佐(1942年4月6日~1942年11月13日)[戦死]
・高橋亀四郎中佐(1942年12月28日~1944年2月15日)
・戸村清大佐(1944年2月15日~1944年6月25日)[解隊]
第七駆逐隊(7dg)

第一航空戦隊開戦時は第一航空戦隊付*107。開戦後は新編の第十戦隊に配属されたが程なく連合艦隊付、1944年には第一水雷戦隊所属となる。
しかし直後に漣を失いマニラ空襲で曙も戦没。その間や響が編入されるが坊の岬沖海戦で霞は別隊に転出の上戦没し、潮と響の編成となり1945年5月に解隊となる。
太平洋戦争開戦以降の司令
・小西要人中佐(~1943年1月12日)
・山本岩多中佐(1943年1月12日~1944年1月10日)
・古閑孫太郎大佐(1944年1月10日~1944年9月5日)
・岩上次一中佐(1944年9月5日~1944年11月29日)
※1944年11月29日以降司令は欠員
第八駆逐隊(8dg)朝潮
大潮
満潮
荒潮
第二水雷戦隊開戦以来南方で活動、バリ島沖海戦での奮闘は有名。
ミッドウェー海戦でも損傷した三隈の護衛に朝潮と荒潮が奮戦する。
しかし第三次ソロモン海戦で満潮が損傷して戦線離脱している間に大潮、朝潮、荒潮が相次いで戦没し、1943年4月には解隊となる。
太平洋戦争開戦以降の司令
・阿部俊雄大佐(~1942年3月13日)
・小川莚喜大佐(1942年3月13日~1943年2月14日)
・佐藤康夫大佐(1943年2月14日~1943年3月3日)[戦死]
第九駆逐隊(9dg)朝雲
山雲
夏雲
峯雲
第四水雷戦隊南方作戦に従事。サボ島沖海戦で夏雲、ビラ・スタンモーア夜戦で峯雲を失い山雲も蝕雷損傷の修復後に転属となる。
第一水雷戦隊へ移動後は薄雲白雲不知火が相次いで配属される一方開戦以来所属していた朝雲が1943年10月に転属となり編成が一新する。
1944年3月の白雲の戦没後解隊となり、残余は第十八駆逐隊を再編する。
太平洋戦争開戦以降の司令
・佐藤康夫大佐(~1943年2月14日)
・小西要人大佐(1943年2月15日~1943年8月17日)
・井上良雄大佐(1943年8月18日~1944年3月31日)[解隊]
第十駆逐隊(10dg)秋雲
夕雲
巻雲
風雲
第十戦隊1942年3月に新編の第十戦隊所属の駆逐隊として編成。以後機動部隊の護衛を担当するが、南太平洋海戦後は機動部隊を離れ前線に投入される。
ケ号作戦で巻雲、第二次ベララベラ海戦で夕雲を失い、1943年10月には朝雲を編入するが1944年に入ると秋雲、風雲が相次いで戦没し同隊は解隊する。
生き残った朝雲は第四駆逐隊に異動する。
編成以降の司令
・阿部俊雄大佐(1942年3月14日~1943年1月18日)
・吉村真武大佐(1943年1月18日~1943年9月20日)
・天野重隆大佐(1943年9月21日~1944年3月19日)
・赤沢次寿雄大佐(1944年3月19日~1944年6月8日)[戦死]

11~20番台(呉所属)

呼称
(符号)
所属艦所属隊解説
第十一駆逐隊(11dg)吹雪
白雪
初雪
第三水雷戦隊開戦前には深雪も所属していた。開戦以降マレー方面で活動。1942年3月には叢雲が編入され4隻体制になるが、サボ島沖海戦で吹雪と叢雲を失う。
1943年になると天霧、夕霧が配属されるが白雪、初雪と相次いで戦没し夕霧も11月に戦没、12月には天霧が夕風と衝突し戦線離脱したので解隊となる。
太平洋戦争開戦以降の司令
・荘司喜一郎中佐(~1942年7月14日)
・杉野修一(1942年7月15日~1943年7月8日)
・山代勝守大佐(1943年7月8日~1943年12月7日)[解隊]
第十二駆逐隊(12dg)叢雲
東雲
薄雲
白雲
第三水雷戦隊開戦前に薄雲が蝕雷事故で損傷したため、開戦時は3隻体制だった。
開戦からまもない1941年12月17日に東雲が戦没し、1942年3月には同隊は解隊となる。
太平洋戦争開戦以降の司令
・小川莚喜中佐(~1942年3月10日)[解隊]
第十三駆逐隊(13dg)若竹
呉竹
早苗
呉鎮守府開戦後は船団護衛に終始し、1942年4月には第一海上護衛隊に所属となるが12月には解隊となる。
太平洋戦争開戦以降の司令
・天谷嘉重大佐(~1942年7月9日)
金岡国三大佐(1942年7月9日~1942年12月10日)[解隊]
第十五駆逐隊(15dg)黒潮
親潮
早潮
夏潮
第二水雷戦隊蘭印方面で活動する。1942年2月に夏潮が戦没、7月には陽炎が編入されソロモン海域に投入される。
第三次ソロモン海戦やルンガ沖夜戦などで活躍するもこの間早潮が戦没する。
1943年5月8日にコロンバンカラ島への輸送任務の帰路、米軍が敷設した機雷に接触し黒潮、親潮が戦没し陽炎も蝕雷後に空襲を受け戦没。
これにより第十五駆逐隊は一夜にして壊滅してしまい解隊となる。
太平洋戦争開戦以降の司令
・佐藤寅治郎大佐(~1942年12月25日)
・牟田口格郎大佐(1942年12月25日~1943年6月20日)[解隊]
第十六駆逐隊(16dg)初風
雪風
天津風
時津風
第二水雷戦隊開戦後は南方作戦に従事しスラバヤ沖海戦にも参加。ミッドウェ―海戦後は第十戦隊に移動し機動部隊の護衛任務に従事する。
南太平洋海戦後は前線にも出動し第三次ソロモン海戦等に参加。1943年になるとビスマルク海海戦で時津風が戦没し、ブーゲンビル島沖海戦では初風が戦没する。
1944年1月には天津風が大破戦線離脱したので雪風1隻となり解隊。雪風は第十七駆逐隊。修理のなった天津風は第一南遣艦隊附属に異動となる。
太平洋戦争開戦以降の司令
・渋谷紫郎大佐(~1942年8月1日)
・荘司喜一郎大佐(1942年8月1日~1942年12月6日)
・古川文次大佐(1942年12月6日~1943年4月27日)
・鳥居威美大佐(1943年4月27日~1944年1月16日)[戦死]
※1944年1月16日以降司令は欠員
第十七駆逐隊(17dg)浦風
磯風
浜風
谷風
第一水雷戦隊開戦時は機動部隊に所属して真珠湾攻撃に参加。第十戦隊編成に伴い移動し引き続き機動部隊護衛を務める。
南太平洋海戦後は前線に投入される事が多くなったがどの艦も大きな損傷を受ける事は無く、1944年6月まで4隻とも健在だった。
この間第十六駆逐隊より雪風が編入し5隻体制となっている。
しかしマリアナ沖海戦直前に谷風が戦没したのを皮切りに11月には台湾沖で浦風が金剛と共に戦没。
坊の岬沖海戦では浜風と磯風が戦没し雪風1隻になる。
その後初霜を新たに加えるが1945年7月にはその初霜が若狭湾で戦没、そのまま終戦を迎えた。
太平洋戦争開戦以降の司令
・杉浦嘉十大佐(~1942年4月9日)
・北村昌幸大佐(1942年4月10日~1943年6月16日)
・宮崎俊男大佐(1943年6月17日~1943年12月17日)
・谷井保大佐(1943年12月18日~1944年11月21日)[戦死]
・新谷喜一大佐(1944年12月5日~1945年7月15日)
・松原滝三郎大佐(1945年7月15日~終戦)
第十八駆逐隊(1)(18dg)

陽炎
不知火
第二水雷戦隊所属開戦時は機動部隊に所属して真珠湾攻撃に参加。
ミッドウェー海戦ではアリューシャン方面に投入されるが停泊中に米潜水艦の奇襲攻撃を受け霰が戦没し不知火と霞は損傷、この為同隊は解隊となる。
太平洋戦争開戦以降の司令
・宮坂義登大佐(~1942年7月14日)[自決未遂により更迭]
第十八駆逐隊(2)(18dg)
不知火
薄雲
第一水雷戦隊1944年3月に第九駆逐隊を改称する形で再編される。
7月に薄雲が戦没し、10月のレイテ沖海戦では第十六戦隊の救助に向かった不知火が戦没している。霞一隻となったため11月に解隊となる。
再編以降の司令
・井上良雄大佐(1944年3月31日~1944年10月27日)[戦死]
第十九駆逐隊(19dg)磯波
浦波
綾波
敷波
第三水雷戦隊開戦時は南方部隊として各地を転戦。第三次ソロモン海戦では同隊が敵艦隊と最初に交戦。綾波が奮戦して戦没する。
1943年4月には磯波が戦没。9月には第十六戦隊に所属替えとなる。
1944年には天霧が編入されるが4月に天霧、9月に敷波が相次いで戦没。10月に解隊となり浦波は単独で第十六戦隊付となる。
太平洋戦争開戦以降の司令
・大江賢治大佐(~1943年1月9日)
・原為一大佐(1943年1月10日~1943年1月31日)
・福岡徳治郎大佐(1943年2月1日~1943年12月9日)
・大原利通大佐(1943年12月10日~1944年9月26日)[解隊]
第二十駆逐隊朝霧
夕霧
天霧
狭霧
第三水雷戦隊開戦より南方方面で活動するが早くも狭霧が戦没。
1942年4月には白雲が編入されるが、8月にガダルカナル島沖合で空襲を受け朝霧が戦没し白雲、夕霧が損傷し隊司令も戦死。程なく解隊となる。
太平洋戦争開戦以降の司令
・山田勇二大佐(~1942年8月28日)[戦死]

21~30番台(佐世保所属)

呼称
(符号)
所属艦所属隊解説
第二十一駆逐隊(21dg)初春
子日
若葉
初霜
第一水雷戦隊開戦以来南方で活動。ミッドウェ―海戦ではアリューシャン方面に出動する。
7月に米潜の雷撃で子日が戦没。その後は薄雲が8か月ほど在籍していたり、一時期連合艦隊附属になったりしたが3隻とも健在のままレイテ沖海戦に参加する。
同海戦で若葉が空襲で戦没し1944年11月には初春がマニラ空襲で戦没する。
その後時雨が編入されるがこれも1945年1月に戦没。朝霜、霞が加わり3隻で坊の岬沖海戦に参加するがこの2隻も戦没する。
最期は初霜は第十七駆逐隊に異動し同隊は解隊となる。
太平洋戦争開戦以降の司令
・清水利夫大佐(~1942年8月30日)
・天野重隆大佐(1042年8月31日~1943年8月19日)
・脇田喜一郎大佐(1943年8月20日~1944年5月24日)
・山本祐二大佐(1944年5月25日~1944年8月4日)
・石井汞大佐(1944年8月5日~1945年3月24日)
・小滝久雄大佐(1945年3月25日~1945年4月7日)[戦死]
※1945年4月8日以降司令は欠員
第二十二駆逐隊(1)(22dg)皐月
水無月
文月
長月
第五水雷戦隊開戦以来フィリピン攻略戦などに参加、バタビア沖海戦でも活躍する。
五水戦解隊に伴い第一海上護衛隊に編入同方面の警戒に当たる。1942年12月に解隊。
太平洋戦争開戦以降の司令
・杉野修一大佐(~1942年7月4日)
・脇田喜一郎大佐(1942年7月5日~1942年12月9日)[解隊]
第二十二駆逐隊(2)(22dg)皐月
水無月
文月
長月
第三水雷戦隊1943年年2月に先代の22駆と同じ編成で再編成される。
4月に三水戦に編入されるがクラ湾夜戦で長月、トラック空襲で文月が戦没。夕凪が編入されるが1944年6月のマリアナ沖海戦直前に水無月が戦没。
この時三水戦司令部もサイパンで玉砕して解隊となり、新編の第三十一戦隊に配属替えのうえ第二十二駆逐隊は解隊、皐月と夕凪は第三十駆逐隊に異動となる。
再編成以降の司令
・金岡国三大佐(1943年2月25日~1944年1月15日)
・岡三知夫大佐(1944年1月15日~1944年8月20日)[解隊]
第二十三駆逐隊(23dg)菊月
卯月
夕月
第二航空戦隊第二航空戦隊附属の駆逐隊だが開戦時は第四艦隊指揮下で南洋方面で活動。1942年4月には第六水雷戦隊に配属となる。
5月のツラギ島攻略戦で菊月が戦没し、程なく解隊となる。
太平洋戦争開戦以降の司令
・山田勇助中佐(~1942年1月30日)
・鳥居威美中佐(1942年1月30日~1942年5月25日)[解隊]
第二十四駆逐隊(24dg)海風
山風
江風
涼風
第四水雷戦隊開戦以来フィリピン攻略などで活躍。
ミッドウェー海戦後の6月に山風を失うも翌7月には第二水雷戦隊に配置換えとなりソロモン海域に出動、第二次ソロモン海戦やルンガ沖夜戦で活動する。
1943年8月のベラ湾で江風が沈み、11月には満潮が編入されるが翌1944年には涼風、海風が相次いで敵潜水艦の攻撃で戦没する。
程なく同隊は解隊となり満潮は第四駆逐隊へ移動となった。
太平洋戦争開戦以降の司令
・被雷泰次大佐(~1942年7月24日)
・村上暢之助大佐(1942年7月24日~1942年9月1日)
・中原義一郎大佐(1942年9月1日~1943年7月7日)
・久保田智大佐(1043年7月8日~1944年2月10日)[解隊]
第二十七駆逐隊(27dg)有明
夕暮
白露
時雨
第一水雷戦隊開戦以来蘭印、インド洋で活動。珊瑚海海戦やミッドウェ―海戦にも加わる。
ソロモン方面の戦いでは第四水雷戦隊に配属され活躍する。
四水戦解隊により第二水雷戦隊に移動するが夕暮、有明が相次いで戦没、その代わり五月雨、春雨が編入され白露型4隻での編成となる。
1944年になると渾作戦で春雨、マリアナ沖海戦直前に白露が戦没。
五月雨もパラオからの避難民輸送任務中に座礁し空襲を受け戦没。同隊は10月10日付で解隊となり、時雨は無所属のままレイテ沖海戦に参加する事になる。
太平洋戦争開戦以降の司令
・吉村真武大佐(~1942年6月24日)
・瀬戸山安秀大佐(1942年6月24日~1943年3月7日)
・原為一大佐(1943年3月8日~1943年12月24日)
・白浜政七大佐(1943年12月25日~1944年6月8日)[戦死]
・大島一太郎大佐(1944年6月28日~1944年8月)
※1944年8月以降司令は欠員
第二十九駆逐隊(29dg)朝凪
夕凪
追風
疾風
第六水雷戦隊神風型駆逐艦の4隻で構成。開戦時は第六水雷戦隊所属でウェ―ク島攻略戦に追風と疾風が参加。
12月11日4時過ぎ、疾風がウェーク島砲台の砲撃を受け爆沈している(水上艦艇では開戦後最初の損失艦)*108
その後は南洋部隊本隊としてスルミ攻略などに参加、5月23日には睦月型の夕月が加わっている。
7月10日第二海上護衛隊に転属
8月の米軍ガダルカナル島侵攻では偶々ラバウルに在泊していた夕凪が外南洋部隊*109に参加して出撃、第一次ソロモン海戦に参戦している。
1943年4月27日に解隊となる。
太平洋戦争開戦以降の司令
・瀬戸山安秀大佐(~1942年5月25日)
・島居威美中佐(1942年5月25日~1943年4月27日)[解隊]
第三十駆逐隊(1)(30dg)睦月
如月
弥生
望月
第六水雷戦隊第四艦隊所属として開戦時はウエーク島攻略作戦に参加するも緒戦で如月を失う。
1942年5月に卯月が加入し7月には第二海上護衛隊所属となるが第二次ソロモン海戦で睦月が戦没。
9月にはラビの戦いで弥生が戦没し12月になって同隊は解隊する。
太平洋戦争開戦以降の司令
・安武史郎大佐(~1942年9月11日)[戦死]
※1942年9月11日以降司令は欠員
第三十駆逐隊(2)(30dg)三日月
望月
卯月
第三水雷戦隊1943年3月に再編された駆逐隊。
ニューギニア方面で活動するが7月に三日月、10月に望月が相次いで戦没。
夕月、秋風、松風が相次いで編入されるも1944年6月に松風が戦没し所属の三水戦司令部もサイパンで壊滅する。
その後第三十一戦隊に配属替えとなり、皐月、夕月が編入される。
その後も同隊の損耗は続き8月に夕凪、9月に皐月、11月に秋風、12月に卯月と夕月と相次いで戦没。旗風、汐風の編入が行われたがそのまま1945年1月に解隊となる。
再編以降の司令
・折田常雄中佐(1943年3月31日~1943年9月1日)
・沢村成二大佐(1943年9月1日~1944 年12 月15日)[解隊]

31~40番台(舞鶴所属)

呼称
(符号)
所属艦所属隊解説
第三十一駆逐隊(31dg)長波
巻波
高波
第二水雷戦隊新造の夕雲型駆逐艦の長波、巻波で1942年8月に編成。
直ぐにソロモン海域での死闘に投入され、10月には高波が加わるが翌11月にはルンガ沖夜戦で戦没。
翌1943年1月2月には大波、清波が加わるが7月には清波、11月にはセント・ジョージ岬沖海戦で巻波、大波が戦没。
1944年2月に沖波岸波朝霜が加わり再び4隻体制となるが11月に長波がオルモック湾で戦没、2日後には沖波がマニラ湾空襲で戦没。
12月には岸波もフィリピン沖で戦没したので翌1945年1月には解隊となる。
編成以降の司令
・清水利夫大佐(1942年8月31日~1942年11月30日)[戦死]
・香川清澄大佐(1943年2月12日~1943年11月25日)[戦死]
・福岡徳治郎大佐(1944年2月5日~1944年12月11日)[解隊]
第三十二駆逐隊(1)(32dg)朝顔
芙蓉
刈萱
鎮海警備府開戦以来南方で警備任務に従事。1942年4月には第一海上護衛隊に所属する。1943年1月に解隊。
太平洋戦争開戦以降の司令
・山本岩多大佐(~1943年1月6日)[解隊]
第三十二駆逐隊(2)(32dg)早波
涼波
藤波
第十一水雷戦隊1943年8月に再編された。
当初は第十一水雷戦隊に所属していたが、翌9月には第二水雷戦隊に移動し玉波が編入され4隻体制となる。
しかしこの隊も第三十一駆逐隊と同様苦戦する前線に投入され次々と損耗する事になる。
11月にはラバウル空襲で涼波、12月には浜波が加わるも1944年6月には早波、7月には玉波が戦没。
10月のレイテ沖海戦では藤波、11月のオルモック湾での戦闘で浜波が戦没。これにより全ての駆逐艦を失い解隊となった。
再編以降の司令
・中原義一郎大佐(1943年8月20日~1944年4月1日)
・折田常雄大佐(1944年4月1日~1944年6月7日)[戦死]
・青木久治大佐(1944年6月15日~1944年7月7日)[戦死]
・大島一太郎大佐(1944年7月8日~1944年11月15日)[解隊]
第三十四駆逐隊(34dg)秋風
羽風
太刀風
第十一航空艦隊峯風型駆逐艦3隻で構成。開戦時は水雷戦隊ではなく基地航空艦隊である第十一航空艦隊附属として行動していた。
開戦後は十一航艦向け輸送船を中心とした船団の護衛に従事していたが、1943年1月に羽風が戦没したことで解隊となる。
太平洋戦争開戦以降の司令
・村上暢之助大佐(~1942年7月10日)
・天谷嘉重大佐(1942年7月10日~1943年4月1日)

41~50番台(横須賀所属)

呼称
(符号)
所属艦所属隊解説
第四十一駆逐隊(41dg)冬月
霜月
第十戦隊1944年9月に編成された秋月型で構成する2つ目の駆逐隊。
しかし翌10月に冬月が被雷大破したのでレイテ沖海戦では霜月1隻で参戦する。
11月には第十戦隊が解隊され第二水雷戦隊に移動。また解隊された第六十一駆逐隊より涼月が編入される。
しかし直後に第三十一戦隊の旗艦代行をしていた霜月が戦没。2隻体制のまま坊の岬沖海戦に参加し2隻とも生還するが涼月は大破のまま放置される。
冬月と5月に編入された宵月、夏月は解隊された第二水雷戦隊から第三十一戦隊に移動するがそのまま終戦を迎える。
終戦の日には雪風も編入されている。
編成以降の司令
・脇田喜一郎大佐(1944年9月15日~1944年11月25日)[戦死]
・吉田正義大佐(1945年3月1日~終戦)[解隊]
第四十三駆逐隊(43dg)


第十一水雷戦隊松型駆逐艦で編成した最初の駆逐隊。しかし編成翌月の1944年8月には松が戦没。その後槇・桐・榧を加えレイテ沖海戦に参加する。
12月には桃、1945年1月には梅を失うが蔦・椎が編入。その後終戦を迎えた。
編成以降の司令
・菅間良吉中佐(1944年7月15日~1945年1月9日)
・吉田正義大佐(1945年1月9日~1945年3月1日)
・作間英邇大佐(1945年3月1日~終戦)[解隊]

51~60番台(呉所属)

呼称
(符号)
所属艦所属隊解説
第五十二駆逐隊(52dg)



第十一水雷戦隊1944年11月に錬成を終え第三十一戦隊に編入。
すぐさま多号作戦に投入され12月には桑が、翌1945年1月には樅、檜が戦没し駆逐隊司令も戦死する。
楓・楡・梨・萩・樺が編入されるが7月には楡が空襲で損傷し除籍され梨は戦没。そのままの状態で終戦を迎えた。
編成以降の司令
・岩上次一大佐(1944年11月29日~1945年1月8日)[戦死]
・杉谷永秀大佐(1945年3月10日~終戦)[解隊]
第五十三駆逐隊(53dg)


椿

第十一水雷戦隊編成は1945年3月末で本土近海も敵潜水艦が活動し航行困難となった状況下で奮戦する。
7月には桜、橘が空襲で戦没し、程なく解隊となる。僅か4か月の短命に終わった。
編成以降の司令
・豊嶋俊一中佐(1945年3月15日~1945年7月15日)[解隊]

61~70番台(佐世保所属)

呼称
(符号)
所属艦所属隊解説
第六十一駆逐隊(61dg)秋月
照月
第十戦隊防空任務を帯びた秋月型で構成する最初の駆逐隊。
しかし対空戦闘に秀でた秋月型は前線部隊から引っ張りだこで、初期編成の秋月と照月は1942年12月に照月が戦没するまで遂に一緒に行動する事は無かった。
1943年1月には涼月初月が編入されるも前線に到着する前に秋月が損傷により戦線を離れる事になり、8月に若月を加えた第六十一駆逐隊が4隻揃うのは12月となった。
1944年1月には涼月が大破し戦線離脱、8月には復帰するも10月には再度損傷して離脱したため、レイテ沖海戦には3隻で参加。
この海戦で秋月、初月が戦没し若月も11月のオルモック湾での戦いで戦没。そのまま同隊は解隊となった。
編成以降の司令
・則満宰次大佐(1942年10月7日~1943年2月3日)
・大江賢治大佐(1943年2月3日~1943年12月12日)
・泊満義(1943年12月12日~1944年1月16日)[戦死]
・天野重隆大佐(1944年3月20日~1944年10月25日)[戦死]

小ネタ

  • 五航戦の秋雲など、駆逐隊に所属しない戦隊直属の駆逐艦もわずかながら存在した。
  • 島風は生涯駆逐隊に所属していない。
  • 鎮守府付きとして連合艦隊に所属していない駆逐艦も存在した。主に老朽駆逐艦で、開戦時の神風型・峯風型(未実装)がこれに当たる。
  • なお、公式ノベライズ「陽炎、抜錨します!」には「横須賀鎮守府所属の第十四駆逐隊」が登場するが、14駆は上記のように本来は呉鎮所属であり、また、史実の14駆は開戦前に解隊された後編成されていない。

航空隊

航空隊は海軍が航空戦力を拡充する中で1916年に横須賀海軍航空隊を開設したのが始まり。主に基地で航空機を運用する部隊として編成された。
なお空母搭載の航空機はその空母に所属する固有の部隊のため、「赤城航空隊」や「飛龍航空隊」というのは通称であり、基地航空隊の様に独立した部隊名という訳ではない。
当初は開設時の地名から部隊名を命名(鹿屋空や美幌空など)していたが日中戦争のため開設された特設航空隊は二桁の番号が割り振られた。
だが現地名や通し番号名だと、その航空隊がどう云う種類の航空機部隊なのかが判別し辛く*110、そのため太平洋戦争が始まると命名基準を統一する事になり、外戦部隊とすべての特設航空隊は3桁の数字で表すようになる。
数字は位毎に意味を持たせており、これによりこの部隊がどういった種の部隊であるかが分かるようになっている。

3桁番号の類別

百の位意味十の位意味一の位意味
1偵察航空隊0~2横須賀鎮守府所管奇数番号常設航空隊
2艦上戦闘機航空隊
3局地戦闘機航空隊3~4呉鎮守府所管
4水上偵察機航空隊
5艦上爆撃機(攻撃機)航空隊5~7佐世保鎮守府所管
6艦載機航空隊偶数番号特設航空隊
7陸上爆撃機(攻撃機)航空隊
8飛行艇航空隊8~9舞鶴鎮守府所管
9海上護衛航空隊
10輸送機航空隊

これでいうと、601空は「空母搭載用の艦載機で構成された横須賀鎮守府所管の常設航空隊」だが、634空は同じ空母艦載機部隊ながら「呉鎮守府所管の特設航空隊」、931空は「海上護衛任務を帯びた呉鎮守府所管の常設航空隊」という事になる。
ただし内線部隊*111や通称「乙航空隊*112」と呼ばれる部隊は引き続き部隊開設時の地名を部隊名にしている。

これとは別に航空隊は戦時中に「空地分離」と言われる組織変換を行っている。
特に空母航空隊で起こった問題だが、航空隊はそれぞれの空母に所属する隊であり、艦長の指揮下に置かれていた。この為作戦を指揮する艦隊司令部が直接航空隊を指揮できず手間がかかったり、損耗した航空機を補充するのに僚艦の空母の機体を回したりするのに支障*113がでてしまい、柔軟な運用がしずらかった。
そこで各空母の艦載機を一まとめにした航空隊を航空戦隊直轄として編成し、作戦毎に空母に艦載機を振り分ける方式に改めた。これが空地分離と言われる方法で、601空が最初であった。以後マリアナ沖海戦後は基地航空隊でもこういう方式をとるようになる。

一航戦で例えると…

一航戦で例えると…
開戦時の第一航空戦隊 ※()内は責任役職名

第一航空戦隊(司令官)赤城(艦長)飛行科(飛行長)飛行隊(飛行隊長)
整備科(整備長)
砲術科など
加賀(艦長)飛行科(飛行長)飛行隊(飛行隊長)
整備科(整備長)
砲術科など
第七駆逐隊(隊司令)潮(駆逐艦長)機関科など
曙(駆逐艦長)機関科など
漣(駆逐艦長)機関科など

空地分離後(マリアナ沖海戦頃)の第一航空戦隊

第一航空戦隊(司令官)大鳳(艦長)整備科*114
砲術科など
翔鶴(艦長)整備科
砲術科など
瑞鶴(艦長)整備科
砲術科など
第601海軍航空隊(司令)*115飛行科(飛行長)各飛行隊(飛行隊長)
整備科(整備長)*116

艦これに関わる航空隊

航空隊名
(符号)
開隊地履歴
601(601fg)昭南*117空地分離で最初に設立した航空隊。ろ号作戦後に翔鶴瑞鳳艦載機を基幹に編成した。
マリアナ沖海戦時は空母航空隊では最大規模かつ優秀な練度を誇っていたが、出撃前の1か月ほどタウイタウイに停泊していた際、まともに訓練が出来なかった*118ために練度低下を招いてしまう。
結局マリアナ沖海戦は大敗し601空は壊滅。部隊は再編に取り掛かるが一番の損害を受けた事もあり再編終了は他の空母航空隊と比べて一番遅い1944年末までかかる見通しだった。
この間空母が瑞鶴1隻だけとなった第一航空戦隊は解隊され、瑞鶴は第三航空戦隊に移動するも、雲龍天城が竣役した事で一航戦は再編されている。
10月の台湾沖航空戦には601空は再編が一番遅かった事もあり参加はしなかったが、直後に米軍がレイテ方面に侵攻し捷一号作戦が発動すると、「当分は機動部隊は出撃させないから」と説明されて三航戦所属の653空らを提供していた第三艦隊に連合艦隊は非情にも出動を命じる。
第三艦隊は錬成中の601空と、台湾に出動していた部隊で本土に残留していた数機を掻き集めて出動。601空は全機瑞鶴に収容されて出撃し最後の空母機動部隊として戦った。
レイテ沖海戦後に再度再編に入るが信濃(未実装)、雲龍が相次いで戦没した事で空母部隊再編は断念され、601空は基地航空隊として第三航空艦隊に編入され硫黄島の戦いに参加する。
特攻部隊として第二御盾隊を編成し出撃するが、1945年2月21日、硫黄島を包囲する米機動部隊を襲撃し、Gambier Bayの妹であるBismarck Seaを撃沈しSaratogaを大破(戦線離脱)に追い込んでいる。沖縄戦でも特攻作戦に従事するが壊滅し、以後は関東の防空に専念しつつ終戦を迎える。
631空(631fg)鹿島水上基地パナマ運河破壊のために建造された潜水空母「伊四百型潜水艦」に搭載する航空隊として編成された。
晴嵐を使用した部隊だが戦局の悪化でパナマ運河破壊作戦自体が立ち消えとなり、米機動部隊の前進陣地であるウルシ―泊地への攻撃が任務となる。
事前偵察のために彩雲やそれを運用するための地上要員も必要な事からトラック諸島やシンガポールにも要員が派遣されている。
しかし晴嵐の開発が遅れた事から練習機として瑞雲が使用されており、晴嵐の配備は遂になかった。
結局ウルシ―泊地攻撃に向かう途上で終戦となったので実戦をすることなく解隊となった。
634空(634fg)呉飛行場航空戦艦として改装された伊勢日向で再編された第四航空戦隊の所属航空隊として編成された部隊で、水上爆撃機の瑞雲と艦上爆撃機の彗星*119で編成された。
因みに瑞雲押し発言など瑞雲にかかわりの深い日向だが、日向の搭載機は彗星が予定され、瑞雲搭載は伊勢が予定されていた。
マリアナ沖海戦前に再編された四航戦は錬成中でもあり同海戦には参加しなかったが、参加した空母航空隊は壊滅状態となり、634空は残存戦力では最大規模の空母航空隊となってしまう。
更に解隊された第二航空戦隊から隼鷹龍鳳が転属となり、二航戦所属の航空隊である652空も残余機共々634空に吸収され、結局634空は第三艦隊では最も戦力化が有望な航空隊となり、1944年9月時点で保有数176機にまでなっていた。
しかし10月に始まった台湾沖航空戦で連合艦隊から634空、653空の投入が命じられ南九州に展開するが艦上機隊は大きな損害を受けてしまう。
その後レイテ方面への米軍侵攻が始まりレイテ沖海戦が始まると、四航戦は搭載機がないまま、伊勢と日向が戦艦として参戦、634空はそのまま基地航空隊としてフィリピンに進出し米軍攻撃に従事。
レイテ沖海戦後の四航戦解隊後は第二航空艦隊に編入され艦上機は別隊に移動、水上機隊として活動し礼号作戦にも参加。沖縄戦でも参加し終戦を迎えている。
343(343fg)横須賀基地第三四三海軍航空隊は二回編成されており、最初は零戦装備の部隊として編成され1944年6~7月のマリアナ方面での一連の戦いで壊滅、解隊となった。
艦これで登場するのは二代目の343空で通称「剣部隊」。源田実大佐を司令官に最新鋭の紫電改や紫電、彩雲を装備した。
隊員もその時点で生き残っていた熟練搭乗員を集めたとも言われており、菅野直や鴛淵孝、武藤金義、杉田庄一といったエースパイロットが所属していた。
編隊戦闘を重視した事もあり、1945年3月19日の九州沖航空戦ではF6F、F4U等の米軍機約160機を紫電改56機、紫電7機で迎撃しこれを撃退、米軍に「強力な航空隊が現れた」と驚かれ警戒されている。
続く沖縄戦では特攻作戦はせず終始特攻機の護衛や制空権確保に努め、203空に所属していて共に戦った岩本徹三中尉はF6Fを面白いように海面に叩き落とす343空の見事な戦いぶりを自書に書き残している。
大活躍の反面劣勢の中の相次ぐ戦闘に熟練搭乗員も次々と倒れていき、前述の4パイロットは全員戦死している。拠点を大村飛行場に替えていた際には目の前で長崎市への原爆投下を目撃している*120
931空(931fg)佐伯戦争後半の1944年に海上輸送路の防衛専門部隊である海上護衛総隊直属の大鷹ら改装空母の航空隊として編成。
旧式化した九七式艦攻48機で編成され、運用時は12機1チームで護衛、休養、訓練のローテーションを組んでいた。
米軍に比べて対潜攻撃能力に乏しいため有効に活用できず、確実な敵潜水艦撃沈戦果はないまま戦局悪化により空母による南方の通商路確保は断念され、931空は南西諸島に移動し沖縄方面や対馬海峡、台湾海峡などの哨戒任務に従事。
特攻作戦はせず沖縄戦途上からは天山に機種変更し米機動部隊への夜間雷撃戦にも従事。最後の出撃となった1945年8月12日には米戦艦ペンシルヴァニアに魚雷を命中させ大破させている。
鹿屋空(253fg)鹿屋基地鹿屋基地サーバーのモデルとなった鹿屋海軍航空隊基地に所属していた航空隊。上記の数字の航空隊と異なり太平洋戦争開戦前からあった航空隊で陸上攻撃機隊と艦上戦闘機隊で構成されていた。
日中戦争では木更津空と共に第一連合航空隊を編成し山口多聞少将の指揮のもと激戦を繰り広げる。
太平洋戦争時は第十一航空艦隊に所属し仏印に進出し、マレー沖海戦にも参加している。
名称変更に伴い陸攻隊は「第七五一海軍航空隊」、艦上戦闘機隊は第二五三海軍航空隊」となり共にラバウルでの激闘で損耗。
253空は最後までラバウルで戦っていたが1944年2月にトラック諸島が大空襲を受けた事でトラックに撤退、更に米軍のマリアナ侵攻を受けて同地に移動するが壊滅し解隊となる。
751空もテニアンでマリアナ沖海戦に参加し壊滅している。
尚錬成部隊として二代目の鹿屋空も編成されている。
芙蓉部隊(131fg)岩川基地サーバーのモデルである岩川海軍航空隊基地に所属していた第一三一海軍航空隊所属の3個飛行隊の総称で夜襲戦法を多用し、戦闘機(後に彗星爆撃機)を用いて沖縄方面の爆撃、哨戒に従事していた。
指揮官の美濃部正少佐は「特攻に反対した指揮官」として有名である*121
元々は鹿屋航空基地に配備されていたが沖縄戦が始まり空襲が激化すると航空隊を南九州の各地に分散配備する事になり、芙蓉部隊は山間部にある岩川基地に移動、滑走路に刈草を敷き牛を放牧したり、移動式の建物を設置したりなど、徹底的な偽装を行った結果、岩川基地は終戦まで一度も被害を受けたことがなかった。
岩川基地移動後の芙蓉部隊はそれまでの夜襲戦術も効果を発揮しなくなった頃で特攻機の護衛や敵への陽動作戦などに終始し終戦を迎えている。
東カロリン空トラック諸島この部隊はこれまでの航空隊とは異なり通称「乙航空隊」と呼ばれる部隊の1つで1944年7月に編成された最初の乙航空隊の1つでもある。
トラック諸島を拠点にカロリン諸島・マーシャル諸島などの防衛を担当したが各地の警備隊の元で自給自足の生活を行い、実質戦力のない名目上の部隊であった。
(251空)台湾台南市1941年4月10日新竹飛行場で開隊した第一航空隊のうち、戦闘機隊が日米の関係悪化に伴う開戦に備えて台湾台南飛行場に移動、10月1日に戦闘機部隊のみの基地航空隊として開隊したのが始まり。
太平洋戦争開戦時第二十三航空戦隊に所属し、零式艦戦21型二式陸上偵察機を擁していた。緒戦ではフィリピンの米陸軍航空隊と交戦し、これを無力化する事に成功。その後もボルネオ島バリクパパンに進出して蘭印攻略に参加。4月からは所属を新設の第二十五航空戦隊に変えて南東方面に展開。ポートモレスビー攻略をめぐる一連の航空戦で米軍と死闘を演じ、続いてガダルカナル島をめぐる攻防戦に参加。半年にわたる激戦で数多くの熟練搭乗員を損耗してしまう。
11月1日、第二五一海軍航空隊と改称。中旬には損耗回復の為内地に帰還した。
台南空は戦後、所属していた坂井三郎氏の著書で一躍有名になった。同隊にはエースパイロットも数多く在籍しており、「ラバウルの魔王」の異名を持つ西沢広義*122や、笹井醇一*123、奥村武雄*124、羽藤一志*125などが在籍していた。
901空(901fg)館山海上護衛総司令部隷下の護衛専門航空部隊として最初(1943年12月)に開隊した航空隊で、当初は千島列島など北方海域で活動する予定だった。
しかし米軍のシーレーン攻撃が激化し、南方へ投入される事になりマニラやサイパンに展開する。
ゲームでは東海部隊として出ているが、東海が同隊で運用されだしたのは1945年になってからで、設立されていた期間の大半は96式陸攻や97式飛行艇といった前線を退いた二線級の航空機で編成されていた。
サイパンに派遣された部隊は同島の玉砕時に壊滅したが、本隊は台湾の東港に移動し、以後ルソン海峡・南シナ海航路の護衛・対潜掃討に従事する。
1945年になると消耗した254空*126や954空*127などを編入し戦力を増強、船団護衛の他にも沖縄戦では艦船攻撃任務もこなしている。
352空(352fg)大村1944年6月、中国大陸から出撃したB-29の編隊が北九州の各地を空襲、B-29を初めて本格的に投入しだした。八幡空襲ともいわれるこの空襲は目標であった八幡製鉄所などは損害皆無であったが八幡市や小倉、門司などでは市民に大きな被害が出てしまう。
こういった事態を受けて、北九州の防空戦力増強が図られ、その一つとして大村で8月1日に開隊したのが352海軍航空である。
零戦約30機に月光が3機ほどの戦力であったが、まもなく新鋭機の雷電などが追加配備され、1945年になると夜間迎撃型である彗星戊型も配備される。
1945年2月になると、九州方面の航空隊を統括する第五航空艦隊が新編され編入、沖縄戦などで活躍したが、特に鹿屋に進出した雷電隊は第三〇二海軍航空隊・第三三二海軍航空隊の雷電隊と連合で「竜巻部隊」を自称している。
しかし激戦の中で部隊は損耗し5月16日には雷電隊は機体が払底して解隊、6月16日には零戦隊も解隊となり、月光などの夜戦機のみの隊となる。
7月26日、大牟田市に飛来したB-29迎撃で防空戦力は底をつき、以後は対空火器による防空しかできなくなる。そのため8月5日の佐賀市空襲から始まる九州大都市への空爆を迎撃できず、9日の長崎市への原爆投下もB-29を迎撃する事は出来なかった。

部隊(軍隊区分)

日本海軍では「艦隊区分」と言われる通常の艦隊編成の他に「軍隊区分」といわれる戦時での作戦に沿った編成があった。艦隊区分はどちらかというと「仮想敵国(アメリカ)の主力艦隊との決戦」に備えた編成であり、多種多様な作戦に対応するには支障のある面もあった。
そのため考え出されたのが「軍隊区分」という編成で、作戦の都度、内容に合わせて艦隊から戦隊や艦艇を作戦時のみ引き抜いて編成した。名称は艦隊区分では番号や地域名称の後に「~艦隊」がつく*128のだが、軍隊区分では名称の後は「~部隊」と称していた。

  • 例えば「南雲機動部隊」の呼称で知られる「機動部隊」も軍隊区分での編成である。
    • 真珠湾攻撃の編成で例えると、基幹となる第一航空艦隊から第一・第二・第五の3個航空戦隊が機動部隊の中核となり、それに第一第二艦隊から複数の戦隊や艦艇が派遣*129されて機動部隊を編成するという形だったが、あくまでもこれは作戦のために編成された臨時編成であり、「比叡」や「利根」が「第一航空艦隊所属」となったわけではないので注意が必要である。
  • 他にもレイテ沖海戦での「第一遊撃部隊*130」「第二遊撃部隊*131」「機動部隊本隊*132」、第一次ソロモン海戦に参加した「三川艦隊」の通称で有名な「外南洋部隊*133」もそういった「軍隊区分」上の編成である。
    しかし、この編成法では問題も指摘されていた。例えば作戦時のみ編成され、それ以外は解隊して各艦が其々所属艦隊するので部隊としての訓練や意思統一を図る時間が取れず、悪くいえば烏合の衆ともなりかねなかった。第一次ソロモン海戦では外南洋部隊が編制されてまもなく発生したため、合同訓練どころか一緒に編成を組んで行動した事も無く、回転整合*134も出来ていない中で出撃している*135
    特に護衛艦艇の殆どを第一第二艦隊から出している南雲機動部隊としては問題視され、艦隊区分として当初から護衛艦艇を加えた編成にするべきという意見具申が出されていた。しかしミッドウェー海戦で大敗するまで採用される事はなく、海戦後に新編成の第三艦隊として漸く実現する事になった。
    • だが柔軟な部隊編成が出来る軍隊区分の必要性が無くなったという訳ではなく、終戦を迎えるまで日本海軍は軍隊区分を作戦毎に編成し、艦隊区分と共に運用し続けることになるのである。
  • また艦隊区分での部隊責任者の名称は「司令長官」「司令官」などだが、軍隊区分での名称は規模に関わらず「指揮官」と呼称した。なので南雲忠一提督を例にすると開戦時の艦隊区分での役職名は「第一航空艦隊司令長官」だが、軍隊区分での役職名は「機動部隊指揮官」となる。「第一航空艦隊指揮官」とか「機動部隊司令長官」とかで呼ばれる事はない。

開戦時の軍隊区分

部隊名指揮官任務所属艦艇
主力部隊(MB)山本五十六大将*136米主力部隊との決戦戦艦:長門陸奥日向伊勢扶桑山城  空母:鳳翔瑞鳳  軽巡:北上大井
駆逐艦:矢風、帆風、夕風、三日月初春子日若葉初霜有明夕暮白露時雨
機動部隊(KdB)南雲忠一中将ハワイ真珠湾空撃空母:赤城加賀蒼龍飛龍翔鶴瑞鶴
戦艦:比叡霧島  重巡:利根筑摩
軽巡:阿武隈  駆逐艦:谷風浦風浜風磯風陽炎不知火秋雲
前路警戒潜水艦:伊19、伊21、伊23
先遣部隊(EB)清水光美中将ハワイ諸島封鎖監視潜水艦:伊1、伊2、伊3、伊4、伊5、伊6、伊7、伊8、伊9、伊15、伊17、伊25、伊68、伊69、伊70、伊71、伊72、伊73、伊74、伊75
中部太平洋監視哨戒練巡:香取  潜水艦:呂60、呂61、呂62、呂63、呂64、呂65、呂66、呂67、呂68
ハワイ要地偵察潜水艦:伊10、伊26
特別攻撃*137潜水艦:伊16、伊18、伊20、伊22、伊24
ミッドウェー砲撃隊小西要人大佐*138同島基地への艦砲射撃駆逐艦:
南方部隊本隊近藤信竹中将南方作戦全般の遊撃支援戦艦:金剛榛名  重巡:愛宕高雄摩耶
駆逐艦:野分萩風舞風朝潮大潮満潮荒潮
比島攻略部隊高橋伊望中将ルソン島攻略支援重巡:足柄  軽巡:球磨那珂名取
駆逐艦:村雨五月雨春雨夕立朝雲山雲夏雲峯雲海風山風江風涼風朝風春風松風旗風皐月水無月長月文月
水雷艇:千鳥、友鶴、真鶴、初雁  施設艦:若鷹
南比攻略部隊高木武雄少将ミンダナオ島他攻略支援空母:龍驤  重巡:妙高那智羽黒  軽巡:神通長良
駆逐艦:黒潮、夏潮、親潮早潮雪風初風天津風時津風、汐風
水上機母艦:千歳瑞穂  潜水艦母艦:長鯨  施設艦:厳島、八重山、白鷹、蒼鷹
潜水艦:伊123、伊124
マレー攻略部隊小沢治三郎中将マレー半島攻略支援重巡:鳥海熊野鈴谷最上三隈  軽巡:川内鬼怒由良  練巡:香椎、施設艦:初鷹
駆逐艦:吹雪白雪初雪白雲、東雲、叢雲綾波浦波敷波磯波、夕霧、狭霧天霧、朝霧
海防艦:占守  潜水艦:伊53、伊54、伊55、伊56、伊57、伊58*139、伊59、伊60、伊62、伊64、伊65、伊66、伊121、伊122、呂33、呂34
基地航空部隊塚原二四三中将南方作戦航空支援空母:春日丸*140  駆逐艦:羽風、秋風、太刀風  特設水上機母艦:神川丸、山陽丸、相良丸 他
南洋部隊井上成実中将中部太平洋作戦全般指揮練巡:鹿島 他
ギルバート攻略部隊志摩清英少将ギルバート諸島攻略支援施設艦:沖島  駆逐艦:夕凪、朝凪 他
グアム攻略部隊五藤存知少将グアム島攻略支援重巡:青葉衣笠古鷹加古  駆逐艦:菊月卯月、夕月、  施設艦:津軽
ウエーク島攻略部隊丸茂邦測少将ウエーク島攻略支援軽巡:天龍龍田夕張  駆逐艦:睦月如月弥生望月、追風、疾風  水上機母艦:神威
北方部隊細萱戊子郎中将北方海域警戒監視軽巡:多摩木曾  水雷艇:鳩、鷺 他

著名な各部隊

部隊名旗艦解説
機動部隊
(KdB)
赤城
翔鶴
瑞鶴
大鳳
など
開戦時は第一航空艦隊(第四航空戦隊欠)を基幹に第一第二艦隊の各所属艦艇を加えて編成された。
空母を中核とする部隊で、蒼龍らが言及している「南雲機動部隊」はこの時期の機動部隊を指している。
機動戦力として真珠湾攻撃を始め多くの戦線に派遣され大活躍している。
その距離は開戦から半年で地球を一周できるほどで、開戦初頭の「無敵日本艦隊」を象徴する部隊だった。
しかし1942年6月、満を持して挑んだミッドウェー海戦で、機動部隊は先鋒として戦うも大敗。空母4隻を失ってしまう。
その後第三艦隊*141が新編されるとそれが「機動部隊」として引き続き活躍する。
1942年11月に指揮官が替わり、その名前から「小沢機動部隊」とも呼称されていた。
戦争後半はマリアナ沖海戦、レイテ沖海戦で立て続けに敗北し、後に第三艦隊が解隊されると共に機動部隊も消滅した。
レイテ沖海戦では第三艦隊の他、連合艦隊直轄である第三十一戦隊や第十一水雷戦隊からも艦艇が参加している。
外南洋部隊
(SNB)
鳥海南洋部隊として中部太平洋を管轄した第四艦隊だが、戦力に比して担当海域が広大過ぎた。
そこで海域を2つに分け、外南洋を担当する部隊として第八艦隊を基幹に編成、ソロモン、ニューギニア方面で活動した部隊である。
三川艦隊という場合は第八艦隊ではなく、普通は此方の方を指す。
米軍のガダルカナル侵攻時は第八艦隊の他に第一艦隊所属の第六戦隊等も編入されていた。
ガダルカナルの戦いでは最前線部隊として死闘を重ね、第三次ソロモン海戦では挺身攻撃隊を支援する任務を行っている。
第一遊撃部隊
(1YB)
愛宕
大和
機動部隊前衛だった第二艦隊が分離して新たに編成された部隊。通称の「栗田艦隊」の方でも知られている*142
詳細は該当項目→「栗田艦隊」を参照されたし。
第二遊撃部隊
(2YB)
那智捷号作戦で機動部隊前衛を担当するため、第五艦隊を基幹に編成された部隊で通称「志摩艦隊
第五艦隊と南西方面艦隊直轄の第十六戦隊などで編成された。
当初は再編された第二戦隊*143などで編成する計画*144だったが、紆余曲折あって第五艦隊だけの部隊となっていた。
運用方針も二転三転したため殆ど作戦に寄与しないまま撤退し、その道中で「阿武隈」ら*145を失っている。
レイテ沖海戦後は南西方面部隊指揮下としてレイテ島への増援部隊派遣作戦の「多号作戦」を実施する。
その為第一遊撃部隊や機動部隊本隊の中小艦艇の殆どが第二遊撃部隊の指揮下に移動し作戦に参加している。
しかしこの作戦も多くの艦艇が失われ、レイテ島失陥により「多号作戦」も終了し部隊は解隊された。

*1 厳密に見ると、解説にあるとおりミッドウェー直後の編制で長門・陸奥を第2戦隊に移動して大和が単艦となり、武蔵が就役するまでの半月あまり、第1戦隊は消滅しているのだが、組織上は断絶していないので通してカウントする
*2 長門も編入される予定だったが第二艦隊や第一戦隊の反対を受け取りやめとなった
*3 比叡、霧島
*4 金剛、榛名
*5 但しミッドウェー海戦の際は第一小隊(比叡、金剛)、第二小隊(榛名、霧島)で行動している
*6 この際戦隊司令官の鈴木義尾中将も戦死する
*7 鳥海のみ
*8 日清戦争時の主力であった三景艦(松島、厳島、橋立)や清国海軍からの戦利艦の鎮遠など
*9 一時期航空巡洋艦となった最上が行動を共にしていた時期もある
*10 解隊された第四戦隊から高雄、第二十一戦隊から足柄、第七戦隊から熊野と利根が編入されるが、利根と熊野は書類上であり、程なく利根は外れ熊野は戦没した
*11 戦隊司令官の橋本信太郎中将もこの時戦死
*12 実際には5月6日付で解隊となっているが編成表上は羽黒が戦没するまで表記されていた
*13 戦隊司令官の五藤存知少将もこの時重傷を負い数日後に死亡する。
*14 初代。艦これに実装されているのは二代目
*15 長良のみ
*16 司令官の左近允尚正中将らは後続していた輸送艦に救助される
*17 龍田は別行動中で不在だった
*18 沖島のみ
*19 津軽のみ
*20 君川丸は9月に戦隊から外れる
*21 空母のみ
*22 空母のみ
*23 峯風、沖風、矢風、沢風で編成
*24 龍驤のみ
*25 春日丸は入れ替わりに連合艦隊直轄になる
*26 朧以外
*27 阿武隈、17駆
*28 21駆、27駆
*29 6駆
*30 8駆
*31 神通、15駆、16駆
*32 18駆
*33 白雪朝潮荒潮時津風
*34 旗艦新月(未実装)が戦没したため
*35 司令官ら司令部幕僚は救助された
*36 このうち定例人事で交代したのは橋本信太郎、伊集院松治の2名だけで、秋山輝男と中川浩は戦死、木村昌福は負傷、江戸兵太郎は木村負傷による一時的な司令官就任(前任地は和歌山)で、2週間ほどで交代となった
*37 精鋭部隊であった二水戦でも、同じ2年8か月の間に交代した司令官は5人、戦死や負傷による交代は1人(伊崎俊二)だけである
*38 4駆
*39 那珂、2駆、9駆、24駆
*40 当時は潜水艇と呼称
*41 速度性能など機動性を重視した海大型で構成
*42 それまでの第二潜水戦隊は第三潜水戦隊に改名
*43 大鯨も所属していたが開戦間もなく隊を離れ空母への改装工事に入った
*44 伊号6隻、呂号2隻
*45 マレーの漢字表記
*46 但し秋月型が所属する第四一、六一両駆逐隊は引き続き機動部隊本隊に所属し、第四駆逐隊は別動隊である第一遊撃部隊第三部隊に配属となったため、第十戦隊として行動した駆逐隊は第十七駆逐隊のみである
*47 尚、金剛、榛名の第三戦隊は、ソロモン方面で唯一行動可能だった第二航空戦隊を基幹とする空母支援隊の護衛に回っている
*48 元々直衛戦力だった第二遊撃部隊[第五艦隊基幹]が別行動となってしまった為
*49 撃沈総トン数は86552tで米海軍第7位
*50 大将以外で司令長官を務めたのは其々の最後の司令長官となった小澤治三郎と福田良三の2名のみ
*51 勅令第100号
*52 旧式艦艇で構成していた。当初は警備艦隊と呼称
*53 戦艦6隻を中核とする艦隊
*54 装甲巡洋艦6隻を中核とする艦隊
*55 第三~第六艦隊、第一・第十一航空艦隊
*56 長門陸奥
*57 日向伊勢扶桑山城
*58 日清戦争でも常備艦隊は三景艦など低速ながら大型砲を搭載した主力艦で編成した本隊と、高速の巡洋艦吉野などで構成した第一遊撃部隊とに分かれて行動し、黄海海戦でも第一遊撃部隊がその高速を活かし、本隊と共に敵を挟撃し続けた事が勝因ともなっている
*59 ミッドウェ―海戦時はアリューシャン方面に別個に第四航空戦隊を基幹とした第二機動部隊を編成したので第一機動部隊と呼称。
*60 1942年4月に艦隊固有の護衛部隊として第十戦隊が新設され配属されている
*61 基地航空部隊の増設に伴い第一基地航空部隊に改称
*62 太平洋戦争開戦時の第三艦隊の先代にあたる艦隊で支那方面艦隊に所属
*63 日露戦争時の第二艦隊旗艦を務めた装甲巡洋艦
*64 那珂阿武隈由良
*65 加賀
*66 旗艦夕張ほか
*67 球磨、八雲を基幹に砲艦や二等駆逐艦で構成する部隊。日中戦争前までは支那方面を警備する艦隊だったが、日中戦争を受け第三艦隊に組み込まれていた。しかし部隊の編成替えが遅れたため、第三艦隊設立から1年ほど艦隊に艦隊が所属するという異例の状態となっていた
*68 後に戦隊自体は解隊され、太平洋戦争開戦時は砲艦は艦隊直轄となっていた
*69 太平洋戦争時の第五艦隊の先代
*70 妙高長良
*71 天龍龍田
*72 旗艦:夕張、3個駆逐隊
*73 神威など特設水上機母艦部隊
*74 改称時の構成は鳥海と2個駆逐隊、2個基地航空隊
*75 五十鈴、砲艦2隻
*76 太平洋戦争時の第四艦隊の先代
*77 天龍、龍田
*78 旗艦:木曾、3個駆逐隊
*79 旗艦:夕張、2個駆逐隊
*80 但し第五艦隊編成時に第九戦隊、第十戦隊(第十四戦隊より改称)、第五水雷戦隊が移動する
*81 海軍には同階級者がいる場合は最初にその階級に昇進した先任者が指揮を執るという決まりがあり、近藤の方が南雲より中将昇進が早かった
*82 もっともこの時点では第二艦隊司令長官は小沢の1期後輩の栗田健男中将となっており、先任問題は解決されていた。
*83 瑞鶴瑞鳳千歳千代田隼鷹龍鳳雲龍天城
*84 伊勢日向
*85 瑞鶴、瑞鳳、千歳、千代田
*86 多摩秋月初月
*87 天龍龍田
*88 睦月弥生卯月望月
*89 なお艦これでは「三川艦隊」繋がりで第六戦隊(青葉、衣笠、古鷹、加古)の面々も一緒にされる場合があるが、厳密にいうと第六戦隊は解隊されるまで第八艦隊に所属しておらず、第一艦隊の所属である。「三川艦隊」とは後述する軍隊区分での編成である「外南洋部隊」を指しているものであり注意が必要である
*90 同時期に戦闘艦艇を用いて行われた物資輸送作戦である「北号作戦」と対比する形で命名された
*91 この頃の編成は名取鬼怒五十鈴
*92 但し球磨に将旗が挙がったのは3日間ほどでマニラに到着次第司令部は陸上に移転している
*93 南西方面艦隊、第三南遣艦隊、第十三航空艦隊
*94 同様に所属の3個艦隊は其々第一~第三遣支艦隊と名称変更している
*95 新たに上級組織となった海軍総隊の司令長官は連合艦隊司令長官を兼務しており、新たに小沢治三郎が中将のまま司令長官になったことで、下部組織となった支那方面艦隊司令長官も中将が選ばれた
*96 これによりそれまで機動部隊の区分だった第三艦隊は区分を機動部隊本隊としている
*97 鎮守府・警備府はレイテ沖海戦前に軍隊区分として連合艦隊の指揮下に入ってはいた
*98 当時の長官は草鹿任一中将
*99 当時の長官は大河内伝七中将
*100 これは両司令長官が同じ中将で兵学校も同期ながら中将昇進が小沢より先任の為、海軍の慣例の「階級が同じの際は先任者が指揮を執る」に反する事になるからで、両方面艦隊を軍令部直轄に移動する事でこの問題を解決しているが、一方で連合艦隊が前線力を指揮下に置くという前提は崩れている
*101 但し第九艦隊司令部はマリアナ沖海戦前の5月3日に司令長官含め司令部が壊滅しており、解隊は7月10日なので書類上存在している状態である
*102 この時点では軍令部直轄
*103 大湊警備府司令長官と兼務
*104 駆逐艦神風艦長と兼務
*105 アメリカ側の呼称で日本側では一方的な敗戦だったため海戦名は付けられていない
*106 6月1日までは駆逐艦満潮艦長を兼務
*107 当初はも在籍していたが五航戦付に移動している
*108 朝凪と夕凪はタラワ島攻略部隊の護衛に参加
*109 所謂「三川艦隊」
*110 例えばサーバー名にもなっている鹿屋空は陸攻と戦闘機の部隊だが前述の美幌空は陸攻だけの部隊、ラバウルで活躍した台南空は戦闘機だけ、横須賀空は教育などもする教導部隊である。通し番号名でも第一航空隊は陸攻と戦闘機、第二は艦爆と戦闘機、第三は戦闘機だけと雑多だった
*111 搭乗員養成部隊や本土近辺の哨戒•護衛部隊
*112 航空基地警備や整備などの支援任務を帯びた航空隊で輸送や移動などのための最低限の航空機しか保有していない
*113 例えば赤城の艦載機の補充を作戦行動中に加賀から回すにしても、指揮系統では加賀の搭乗員は加賀艦長の下にあるので、赤城に収容されても指揮は加賀艦長が執るのが建前となり支障がでる
*114 但し艦固有の装備である航空機用装備(着艦制動索や昇降用エレベーターなど)の整備を担当する部門
*115 厳密には601空は第一航空戦隊司令部を兼務している第三艦隊に所属していた
*116 航空隊と同様作戦毎に各艦に派遣
*117 シンガポール
*118 泊地入口に敵潜水艦が出没し谷風水無月などが撃沈されてしまい外洋に出て訓練するのが危険だった事、泊地内の大きさは空母が航行訓練するには狭かった事、タウイタウイが赤道近くで無風状態の日が殆どで航空機の発着も無理だった事などが要因
*119 伊勢、日向には着艦能力は無いので彗星は専用の台座に乗せられた状態で収容され水上機用のカタパルトで台座ごと射出、帰還時は付近の味方飛行場や友軍空母に収容される事になっていた
*120 8月9日は激戦続きであったため機体の整備と搭乗員の休養に充てており、迎撃は叶わなかった
*121 但し美濃部自身は特攻作戦を否定していた訳ではなく、代案なければ特攻もやむなしという考えだった。硫黄島の戦いの際は部下に命じてすらいる。彼は安易な特攻への依存を否定していただけで、晩年の自書にも「戦後よく特攻戦法を批判する人がいるが、それは戦いの勝ち負けを度外視した戦後の迎合的統率理念にすぎない」「当時の軍籍に身を置いた者にとって負けてよい戦法は論外」「不可能を可能とすべき代案なきかぎり特攻もまたやむをえない」「戦いの厳しさはヒューマニズムで批判できるほど生易しいものではない」と記述している
*122 撃墜数は公認で143機。単独では87機ともいわれる。
*123 公認撃墜数27機、共同撃墜数187機で、士官パイロットでは撃墜数2位(1位は空母蒼龍航空隊の藤田怡与蔵で39機)
*124 撃墜数54機。奥村はガダルカナル戦開始後の8月から在籍
*125 撃墜数19機
*126 零戦及び97艦攻、天山で構成
*127 97艦攻及び零水観で構成
*128 例として第一艦隊、第二艦隊、南遣艦隊など
*129 第一艦隊から第三戦隊第一小隊と、第一水雷戦隊の一部。第二艦隊から第八戦隊が派遣された。また別行動だったが第六艦隊からも伊19ら第一潜水戦隊所属の潜水艦3隻が前路警戒として加わっている。
*130 レイテ沖海戦の編成で例えると第二艦隊所属艦を中心に、第三艦隊所属の第十戦隊が加わっている
*131 レイテ沖海戦の編成で例えると第五艦隊所属艦を中心に南西方面艦隊直属の第十六戦隊が加わっているが、第十六戦隊は合流できなかった
*132 レイテ沖海戦の編成で例えると、第三艦隊所属艦を中心に連合艦隊直轄の第十一水雷戦隊、第三十一戦隊が加わっている
*133 第一次ソロモン海戦の編成で例えると基幹の第八艦隊所属艦は鳥海天龍だけで、第六戦隊は第一艦隊、夕張、夕凪は第四艦隊所属である
*134 艦隊の速力を等一にするため実際に艦隊が航行してスクリューの回転数を調整する作業。軍艦は同型艦であっても経年等の理由で同じ速力値に設定していても実速が異なる事があるので、部隊編成を組む際は実際に航行して速度を合わせる作業をする必要があった。但し、速度指示は「〇×ノット」など細かい数値で命令される訳ではなく、「微速」「半速」「原速」「強速」「第一~○戦速」「最大戦速」「一杯」などの用語で指示され、それぞれに規定速力が定められているので、調整するのはこれら用語の速力値を合わせる事になる
*135 そのため作戦方針として「複雑な運動を避けて単縦陣による一航過の襲撃」と、作戦行動を単純化している
*136 但し連合艦隊として全軍を指揮統率する必要があるので、実戦の指揮は第一艦隊司令長官の高須四郎中将があたる
*137 甲標的による港湾在泊艦艇への攻撃
*138 第七駆逐隊司令
*139 艦これ実装の伊58の先代
*140 但し航空支援任務ではなく、基地航空隊の機体の輸送任務に従事
*141 開戦時にあった第三艦隊は既に解隊されており、此方は新たに編成された艦隊。それまでの第一航空艦隊が空母と若干の護衛戦力があるだけの艦隊だったのに対して、此方は戦艦戦隊や巡洋艦戦隊も当初から配備された艦隊となっている
*142 但し栗田の後任の伊藤整一中将が第二艦隊司令長官の時代に行われた沖縄突入作戦での部隊名も「第一遊撃部隊」であり、注意が必要である
*143 山城、扶桑、長門
*144 他に第五戦隊や第61駆逐隊も組み込む計画だった
*145 分派先で「鬼怒」「浦波」「不知火」「若葉」も失っている