No.319 | ||||
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Jervis(ジャーヴィス) | J級 1番艦 駆逐艦 | |||
艦船ステータス(初期値/最大値) | ||||
耐久 | 15 | 火力 | 12 / 32 | |
装甲 | 7 / 18 | 雷装 | 30 / 82 | |
回避 | 46 / 79 | 対空 | 22 / 44 | |
搭載 | 0 | 対潜 | 40 / 82 | |
速力 | 高速 | 索敵 | 10 / 22 | |
射程 | 短 | 運 | 50 / 100 | |
最大消費量 | ||||
燃料 | 15 | 弾薬 | 25 | |
装備 | ||||
QF 4.7inch砲 Mk.XII改 | ||||
未装備 | ||||
装備不可 | ||||
装備不可 | ||||
改造チャート | ||||
Jervis → Jervis改(Lv45) | ||||
図鑑説明 | ||||
J級駆逐艦、Jervisよ! そう、Lucky Jervisって呼んでもらってもいいかな! 本国艦隊から地中海艦隊まで、護衛、輸送、艦隊戦や陸戦支援まで本当に頑張っちゃった! Lucky Jervis、覚えておいてね! |
※初期値はLvや近代化改修の補正を除いた時の数値であり、最大値はLv99の時の最大値を指します。
CV:東山奈央、イラストレーター:コニシ
定型ボイス一覧
イベント | セリフ | 改装段階 | 備考 | 追加 | ||
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未 改 造 | 改 | 追加 | ||||
入手/ログイン | Nice to meet you. Lucky Jervis、来たわ! そう、もうゼッタイよ! 任せておいて! | ◯ | × | 編集 | ||
Hey, how is going?*1 Lucky Jervis、今日もゼッタイよ! All right!*2 任せておいて! | × | ◯ | 編集 | |||
母港*3 | 編集 | |||||
母港1 | 詳細 | All right~♪*4 | ◯ | × | 編集 | |
Steady enough!*5 | × | ◯ | 編集 | |||
母港2 | 出番かな~? あ、まだ? いつでもいいよ~! | ◯ | ◯ | 編集 | ||
母港3 | Could you make a report?*6 ええ、私が書くの?! ウソー… Are you for real?*7 | ◯ | ◯ | 編集 | ||
ケッコンカッコカリ | な~に~? また、battle honor?*8うぇ? 違うんだ・・・な~に~ darling? これは? 綺麗ね~lovely! 私に、そなの? 本当に? Lucky! やったね! | ◯ | ◯ | 編集 | ||
ケッコン後母港 | Darling! Tea Timeにする~? ジャーヴィスが、紅茶淹れてあげる! 上手よ~あたし! 任せておいて! | ◯ | ◯ | 編集 | ||
放置時 | Battle honor?*9 ん~どこにしまったかな~? えっと…あははっ♪ ま、いいじゃない! うん~♪ | ◯ | ◯ | 編集 | ||
編成出撃 | 編集 | |||||
編成 | Lucky Jervis! 出るわ!行っけ~! | ◯ | × | 編集 | ||
Mediterranean Fleet*10, flagship*11, Lucky Jervis! 出るわ! | × | ◯ | 編集 | |||
出撃 | Jervis、抜錨よー! みんなー! Follow me~!*12 | ◯ | ◯ | 編集 | ||
開戦・攻撃*13 | 編集 | |||||
戦闘1 | 昼戦開始 | Jervis, enemy is in sight!*14 | ◯ | ◯ | 編集 | |
戦闘2 | 昼戦攻撃 | さぁ、行こうか! Shoot!*15 | ◯ | ◯ | 編集 | |
戦闘3 | 夜戦開始 | 各艦、突撃隊形!いい~? Follow me! | ◯ | × | 編集 | |
Darling! 夜戦も、あたしに任せて! そこね! | × | ◯ | 編集 | |||
戦闘4 | 夜戦攻撃 | そこね! 逃がさないから~! | ◯ | × | 編集 | |
Darling! ちゃんと見てた? | × | ◯ | 編集 | |||
戦闘時ステータス*16 | 編集 | |||||
小破 | やだっ!? | ◯ | ◯ | 編集 | ||
ウソ、ホントにーっ?! | ◯ | ◯ | 編集 | |||
中破/大破 | こんなの…まだよ! Lucky Jervisは…沈まない! | ◯ | ◯ | 編集 | ||
轟沈 | 嘘だぁ…うそだぁ…こんなの… Lucky Jervisは… Jervisは… | ◯ | ◯ | 編集 | ||
戦闘終了*17 | 編集 | |||||
勝利MVP | Battle honor? Lucky! I'm glad I have been able to help!*18 | ◯ | × | 編集 | ||
Battle honor? Lucky! I'm glad I have been able to help!*19 Darling! | × | ◯ | 編集 | |||
旗艦大破 | ウソ、ホントにーっ?! | ◯ | ◯ | 編集 | ||
装備・改修*20 | 編集 | |||||
装備1 | 改修/改造 | Thank you! 試してみたい! | ◯ | × | 編集 | |
Darling! Thanks! 早く試してみたい! | × | ◯ | 編集 | |||
装備2 | 良さそう~。これで、行ってみましょう! | ◯ | ◯ | 編集 | ||
装備3 | 改修/改造/開発/バケツ/遠征/発見 | Lucky! あはっ♪ | ◯ | ◯ | 編集 | |
その他 | 編集 | |||||
帰投 | 艦隊~無事帰還! 当然よ! | ◯ | ◯ | 編集 | ||
補給 | Thank you! タスカるー♪ | ◯ | ◯ | 編集 | ||
入渠(小破以下) | うえぇっ?! まぁ、仕方ない。すぐ治すから! | ◯ | ◯ | 編集 | ||
入渠(中破以上) | ああぁぁっ! もう、ちょっと修理! Sorry! | ◯ | ◯ | 編集 | ||
建造完了 | 新しい娘かぁ。 Nice to meet you! | ◯ | ◯ | 編集 | ||
戦績表示 | わぁ! Report見たいの~? 待ってて! はい! コレね! Thank you! | ◯ | × | 編集 | ||
わぁ~Darling! Report見たいの? 待ってて! はい、これね! これも? | × | ◯ | 編集 |
時報ボイス一覧
時刻 | セリフ | 改装段階 | 備考 | 追加 | |
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未 改 造 | 改 | 追加 | |||
00 | Darling! Luckyね! 今日はあたし、Jervisが色々Serviceしてあげる! 期待してて! | × | ◯ | 編集 | |
01 | It's 1 o'clock! ね、時間のお知らせも任せておいて! | × | ◯ | 編集 | |
02 | It's 2 o'clock! こんな感じでしょ? No problem! | × | ◯ | 編集 | |
03 | It's 3 o'clock! Sleepy? そう? | × | ◯ | 編集 | |
04 | It's 4 o'clock! Darling? Tired?*21 | × | ◯ | 編集 | |
05 | It's 5 o'clock! Good morning! お・は・よ~! | × | ◯ | 編集 | |
06 | It's 6 o'clock! Let's 総員起こし~! Everyone! Get up! | × | ◯ | 編集 | |
07 | 7 o'clock! Full breakfast!*22 どうぞ! Enjoy! | × | ◯ | 編集 | |
08 | It's 8 o'clock! The Home Fleet...*23 様子はどうかな~? | × | ◯ | 編集 | |
09 | It's 9 o'clock! あら、Ark!*24 元気そうね。 あたし? あたしはもちろん、元気一杯よ! | × | ◯ | 編集 | |
10 | It's 10 o'clock! Ah, Kelly?*25 彼女は…そうね… う~ん、大丈夫よ! | × | ◯ | 編集 | |
11 | It's 11! Oh, これ? 対潜兵装よ。 大事大事! ここの装備はどうなの~? おお~、ああ~。 なるほど…うん。 大丈夫? | × | ◯ | 編集 | |
12 | It is noon!*26 さ~ Lunchよ! Sandwichはできたよ!*27 どうぞ! Bon appétit!*28 | × | ◯ | 編集 | |
13 | It's 1 o'clock... わぁ! Hey! あなたは確か… そう、ゆき…かぜ! How is it going?*29 | × | ◯ | 編集 | |
14 | It's 2 o'clock! Hi, Lady.*30 Lucky Jervisは健在よ! もちろん! | × | ◯ | 編集 | |
15 | It's 3 o'clock! Let's tea time! Yes~! | × | ◯ | 編集 | |
16 | It's 4 o'clock! Janus? ああ、そうね…大丈夫。 いつか、会える。 なにか、そんな気がするの…。 ね、darling? | × | ◯ | 編集 | |
17 | It's 5 o'clock! Lovely! 地中海の夕日もいいけど、ここの夕日も素敵、darling♪ | × | ◯ | 編集 | |
18 | It's 6 o'clock! さ、今日はおしまい! Fleetを戻しましょう! | × | ◯ | 編集 | |
19 | It's 7 o'clock! Darling, 夕食は外で? Lucky! | × | ◯ | 編集 | |
20 | むぐむぐ…It's... 8 o'clock! Darling、マミーヤ? It's delicious!*31 | × | ◯ | 編集 | |
21 | It's 9 o'clock! んん? やや? あそこで騒いでる重巡達*32…見覚えが… Hey! Hey you! おっ? おお~~! | × | ◯ | 編集 | |
22 | It's 10 o'clock! あら? 時雨? What are you doing on such a night?*33 んん? これは? Thanks! | × | ◯ | 編集 | |
23 | It's 11 o'clock! Darling, 頂いたgreen tea*34飲む? あたしが、淹れてあげる♪ Just a moment!*35 | × | ◯ | 編集 |
季節ボイス一覧
季 節 | イベント | セリフ | 改装段階 | 備考 | 追加 | |
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未 改 造 | 改 | 追加 | ||||
春 | 桃の節句 | 編集 | ||||
春の訪れ | 編集 | |||||
ホワイトデー | これは? ……お返し? 私、何もあげてないけど? ……いいの? Thanks! じゃあ、来年はきっとね! | ◯ | ◯ | 2018 | 編集 | |
これ、チョコのお返し? ……Lucky! Thank you Darling! やったー! | ◯ | ◯ | 2019 | 編集 | ||
春 | ハルだぁー! Lucky! サクラもキレイ! Lovely! Darling、何? ……オハナミParty? 手伝う手伝う! | ◯ | ◯ | 編集 | ||
春本番 | 編集 | |||||
夏 | 梅雨 | 雨……これがツーユー、ね。 うん、聞いていたわ。 | ◯ | ◯ | 編集 | |
初夏 | 編集 | |||||
夏 | 編集 | |||||
盛夏 | この国の夏は、暑いのね。 ……ん? あの、果てしなく装甲の薄そうな艤装は……何? 何なの? | ◯ | ◯ | 編集 | ||
夏祭り | 編集 | |||||
秋 | 秋 | Old Lady*36、どしたの? ……あ、あれかー。 あれの古傷? そういえば、あたしも、頭が痛く……うっ。 お互い空からの何かには、気をつけましょう……。 | ◯ | ◯ | 編集 | |
秋刀魚 | Samma operationでしょ? まかせておいて! この優秀なSonarがあれば! ……え? それだけじゃだめ? ……難しいわね。 Darling! おしえて♪ | ◯ | ◯ | 編集 | ||
晩秋 | この季節は……アレ! アレに気をつけないと! Janus、対空監視気をつけて、アレは嫌ーい! | ◯ | ◯ | 編集 | ||
ハロウィン | 編集 | |||||
秋のワイン | 編集 | |||||
冬 | 冬 | 編集 | ||||
師走 | 編集 | |||||
クリスマス | Darling! Happy Christmas! ケーキ、美味しそー! さあ、食べましょう! | ◯ | ◯ | 編集 | ||
年末 | 編集 | |||||
新年 | Darling! A lucky new year! さ、いざ行きましょう。 ハツモウデー! | ◯ | ◯ | 編集 | ||
節分 | 編集 | |||||
バレンタイン | My Darling! コレ差し上げます! この艦隊の伝統は、大事にしないと。 さ、どうぞ♪ | ◯ | ◯ | 編集 | ||
周 年 | 二周年記念 | 編集 | ||||
三周年記念 | 編集 | |||||
四周年記念 | 編集 | |||||
五周年記念 | Fifth Anniversary!*37 Darling! Congratulations!*38 | ◯ | ◯ | 編集 | ||
六周年記念 | Six Anniversary!*39 Darling! lucky! and congratulations! | ◯ | ◯ | 編集 | ||
七周年記念 | Seventh Anniversary!*40 My Darling! lucky! and congratulations! | ◯ | ◯ | 編集 | ||
八周年記念 | Eighth Anniversary!*41 My Darling! Super lucky! and congratulations! | ◯ | ◯ | 編集 | ||
十周年記念 | Tenth Anniversary summer!*42 My Darling! この夏は、欧州に遠征するんでしょ!一緒にがんばろう!あたし、がんばっちゃうから! | ◯ | ◯ | 編集 |
ゲームにおいて
- 2018年冬イベント「捷号決戦!邀撃、レイテ沖海戦(後篇)」のドロップ艦として実装。
- 幸運艦を反映してか、改造前から運は雪風と同じ驚異の50。夜戦でカットインを狙うことができる。
キャラクター設定について
- ジャーヴィスの衣装は、全体的にイギリス海軍の水兵服の一つ「Blue No. 1 dress」をモデルにしていると思われる。第二次世界大戦当時から現代までほぼ同じスタイルのものが着用されている。帽子のペンネント(Tallyという)を向かって右側で結ぶのが英連邦の海軍の特徴である。英海軍公式の結び方講座。
- 艤装は1939年の竣工時から本国艦隊にいた1940年前半頃のスタイルに近い。塗装がAP507Bミディアム・グレー単色であるほか、マストの先端には菱形のFM3 MF/DF(中波方向探知機)のアンテナが描かれている。中破時の艤装には本国艦隊にいた頃のF00の艦番号が描かれているほか、煙突上部には駆逐艦戦隊旗艦を表す黒塗装が確認できる。実際にはこれに加え、Jervis改で描かれている7駆を表す白線二本も煙突に引かれていた。
- 中破グラで艦首が吹き飛んでいるのは、1944年1月23日のアンツィオの戦いで受けた損傷をモチーフにしていると思われる。ドイツ空軍機から発射されたヘンシェルHs293誘導爆弾で艦首を失うも、死傷者なしで生き延びた。
秋セリフで誘導爆弾被弾仲間であるLadyことウォースパイトに「お互い空からの何かに気をつけましょう」と言っているのもこれが元ネタ。
小ネタ
- 地中海からノルマンディーまで、多くの戦いで ウォースパイトと共に戦っている。ウォースパイトがフリッツXで重大な損傷を負った時も、麾下の駆逐艦たちを率いて後退する彼女を守りつづけるジャーヴィスがいた。
- アメリカ海軍のバッグレイ級駆逐艦DD-393とフレッチャー級駆逐艦DD-799がそれぞれ「ジャーヴィス」という名前だが、J級のジャーヴィスは「Jervis」、米海軍の方は「Jarvis」とスペルが異なる。*43
- アメリカ海軍のジャーヴィスは1800年に戦死した士官候補生ジェームズ・C・ジャーヴィスに由来している。
イギリス駆逐艦の食事事情
- この時代、駆逐艦のような小型艦の食事というものはだいたいどこの国も似たようなものだった。生鮮食料品は早いうちに消費されてしまい、後には缶詰や乾燥品などの日持ちがする食材ばかりが並ぶことになる。
- イギリス駆逐艦もそんな感じであり、乗員達は爆雷を放り込んで魚を捕らえたりどこからともなく食料を銀蝿してきたりしていた。イギリス海軍の場合、タイン級駆逐艦母艦などをはじめ支援艦艇が充実していたため、それらが近くにいれば比較的良い食事にありつけたのは日本に比べ優位であった点である。
- 戦闘糧食といえば日本海軍なら握り飯が一般的だが、イギリス海軍の場合はサンドイッチやスープ類がその役目を負っていた。だが、荒天や戦闘で調理が不可能な時も出てくる。
- そんな時には、「ポット・メス(Pot mess)」と呼ばれた食事になった。食缶に缶詰の肉、トマト、ビスト社のグレービーソースその他食材を入れて加熱したごった煮であり、これをメスデッキのハンモック用フックに引っかけた。それから各自で自分の食器に取り分けて食べたのである。艦が揺れても食缶は水平を保つので動揺でこぼれることはない。ちなみに、食缶を引っかけて食べるという方法は日本海軍の小型艦艇でもよく行われていた。
- 士官には専用の士官食堂があり、マルタ人などの給仕も乗り込んでいて世話をすることもあった。一般水兵は自分が寝泊まりするメスデッキ単位で、それぞれのメスデッキや食堂で食事をした。
- 食堂の担当者は可能な限り毎日主食のパンを焼き、食材を用いて日々の料理を作った。水兵には1日あたり10ペンスの食費が支給されており、担当者は各食堂を利用する乗員分の食費を基にして各艦のNAAFI*44が運営する酒保を通じ食材を購入した。そして民間の卸業者は、毎月各艦の請求書をまとめて艦の会計担当者に提出していた。
- 限られた予算や設備でおいしい食事を作るのは、各食堂担当者の腕の見せ所。当然上手な担当者なら問題ないが、中にはそうではない担当者もいた。
- ジャーヴィスの場合は特に問題なかったようだが、ある駆逐艦の場合は担当者が変わったとたん野菜が安いグリーンピースばかりになったり、食後のデザート類が一切出てこなくなったりしたという話もある。ちなみにその艦では、最終的にうんざりした乗員達が料理の上手い別の担当者に交代させたという。前任者は在庫のグリーンピースを責任もって食べさせられたそうな。
ジャーヴィスのペットたち - 幸運のスノーボール
- 海外の多くの軍艦がそうであるように、ジャーヴィスにも数匹の動物が乗っていた。
- 最古参は虎模様の雌猫「ウーグルズ(Woogles)」である。孤独を愛する猫で、
偉そうに司令らと艦橋に座して艦隊を見守ることもあった。
- 最古参は虎模様の雌猫「ウーグルズ(Woogles)」である。孤独を愛する猫で、
- 1940年にジャーヴィスが地中海へ移動すると、間もなく新たな仲間が加わる。7月のある日、アレキサンドリアの岸壁に停泊していたジャーヴィスにいつの間にか一匹の犬が乗っていた。
- 乗員達はその雑種犬を追い出すことはせず、ジャーヴィスの一員として受け入れた。専用のハンモックを縫い、きれいに洗って毛繕いしてやった。するとその犬はきれいな純白の毛を持っていることが分かり、「スノーボール(Snowball)」と名付けてジャーヴィスのマスコットにしたのである。
- 乗員に可愛がられ、いつしかジャーヴィスの幸運のマスコットと見なされるようになっていったスノーボールだったが、1943年7月22日、マルタ島の工廠に接岸して補給中だった時に事件が起こる。かねてから番いがいないことを寂しがっていたスノーボールはパートナーを探そうとしたのか、出港直前になってタラップを降りるとそのまま工廠に消えていった。
- ジャーヴィスの艦上はパニックになった。クロウフォード司令も艦のマスコットであるスノーボールを残して出港はできないと1時間の出港延期を決めた。
- すぐに捜索隊が派遣されて工廠中を探し回ったが、1時間後に捜索隊は肩を落とし手ぶらで帰ってきた。
- やむなく司令はマルタ島の通信局を通じて、在泊各艦艇にスノーボールの捜索と保護を依頼してジャーヴィスを出港させた。
- ジャーヴィスの艦上はパニックになった。クロウフォード司令も艦のマスコットであるスノーボールを残して出港はできないと1時間の出港延期を決めた。
- 1943年8月6日、ハスキー作戦に伴ってビゼルト港にいたジャーヴィスは一時間半に及ぶ夜間空襲に見舞われ、至近弾を受ける。
- 凄まじい衝撃によってメスデッキがぐちゃぐちゃになったが、奇跡的に軽微な損傷に留まり全員無事だった。乗員はスノーボールがマルタ島のどこかで生きていて、彼の加護は続いているのだと思った。
- しかしスノーボールがいなくなって1か月が経った8月22日の夜、パレルモにいたジャーヴィスは再び夜間空襲に襲われ、今度は犠牲が出てしまう。
- ジャーヴィスのワードルーム(士官船室)では「ジョージ(George)」という犬が飼われていた。普段室内飼いされていたジョージは外に広がる世界に興味を示し、舷窓から景色を覗いていた。そこに至近弾が落ちたのである。即死だった。
- この事件の後、乗員の間ではスノーボールがいなくなったことでジャーヴィスの幸運が落ち始めているのではないかと本気で心配する声が出始める。
- 9月2日、ジャーヴィスが久しぶりにマルタ島へ戻ってきた時、埠頭には戦艦キング・ジョージ五世とハウが停泊していた。
- するとキング・ジョージ五世から発光信号が送られてきた。
「宛:第14駆逐艦戦隊 発:キング・ジョージ五世 いなくなった貴艦の犬を確保されたし。迎えを寄越されよ。」
- するとキング・ジョージ五世から発光信号が送られてきた。
- スノーボールが見つかったのだと理解した乗員は一斉に歓声を上げた。スノーボールを可愛がっていた海兵隊員に至っては、喜びのあまりキング・ジョージ五世の舷側へ飛び移ろうとしたほどだった。
- キング・ジョージ五世の横に接岸したジャーヴィスから派遣された乗員は、しばらくしてスノーボールを抱きかかえて戻った。ジャーヴィスの出港から10日ほどしてキング・ジョージ五世の乗員達に保護されたスノーボールは丁寧に世話をされていた。
- だがシャンプーがけと毛繕いされた白い毛は、再会を喜ぶジャーヴィスの乗員たちに撫でさすられてすぐにクシャクシャになり、それを嫌がって逃げ込んだ2番砲のグリースで真っ黒になってしまった。
- 1944年1月、ロジャー・ヒル少佐が艦長になると、彼は数人の士官と共に「スカーキー(Skerki)」というぶちの雌犬を連れてきた。彼女はもともとヒル少佐がレドベリー艦長だった時に、酒場で知り合った男性から譲られた子犬だった。そしていつの間にかレドベリーの乗員達から幸運のマスコットとして祭り上げられ、ヒル少佐の異動に伴ってグレンヴィル、そしてジャーヴィスへと移ってきたのだ。その時すでにスカーキーは立派な大人になっていた。ヒル少佐とスカーキー。
- すぐにスノーボールはスカーキーを番いにする。ノルマンディー上陸作戦の準備のためジャーヴィスがスカパ・フローにいる間、二匹の間には父親似の3匹の子犬が産まれた。
- 子犬は乗員達によって「アンツィオ(Anzio)」や「ウイスキー(Whisky)」などの名前を付けられ各メスデッキに引き取られていった。
- すぐにスノーボールはスカーキーを番いにする。ノルマンディー上陸作戦の準備のためジャーヴィスがスカパ・フローにいる間、二匹の間には父親似の3匹の子犬が産まれた。
- 1944年9月、ジャーヴィスの退役に伴ってスノーボールらも退艦が決まった。1940年7月にひょんなことからジャーヴィスの一員になって以来、幾多の激戦を共に潜り抜けたその雑種犬はジャーヴィスを去っていった。本当にスノーボールが幸運をもたらしていたのかは誰も知らない。しかし乗員たちからジャーヴィスの幸運の象徴とされたスノーボールがいた間、確かに乗員から一人も戦死者が出ることはなかったのである。
実艦について
- ジャーヴィスという駆逐艦がどんな存在だったのか、元海軍軍人の作家G.G.コンネル氏の著書「Mediterranean Maelstrom -HMS Jervis and the 14th Flotilla-」に簡潔に記されている。
「J級・K級の嚮導艦で最初に就役したジャーヴィスは、第二次世界大戦の全期間を生き抜き、そして地中海の戦いにおいて比類なき勲に満ちた戦績を残したにもかかわらず、いまだ現在の海軍、あるいは多くの人々によって知られ、思い出されることはほとんどない。ジャーヴィスとJ級の姉妹たちは、海原や基地において敵から多大な攻撃を加えられた。敵との戦いにおいて一人の死者も出さず、負傷者すら極僅かしか出さなかった彼女の記録は唯一無二のものである。彼女は歴戦の数百名の乗員たちを指揮し、また彼らに鼓舞され、高い専門知識を持ち、名声に満ちた、そして驚嘆すべき名艦長たちに率いられていたのだ。」
- ジャーヴィスは第7駆逐艦戦隊・第14駆逐艦戦隊の旗艦として第二次世界大戦を戦い抜き、イギリス海軍第二位となる13個の戦闘名誉章(Battle Honor)を授かった武勲艦であるだけでなく、幾多の激戦で一人も死者を出さなかった*45幸運から「ラッキー・ジャーヴィス(Lucky Jervis)」*46と称えられた幸運艦でもある。
- 一方、同じ設計・同じ造船所で生まれ、ジャーヴィスの双子の妹ともいえるK級の嚮導艦ケリーはジャーヴィスと対照的に不幸な駆逐艦であった。ヴィクトリア女王の曾孫として知られる伯爵ルイス・マウントバッテン大佐*47に率いられ第5駆逐艦戦隊旗艦として各地で奮闘したものの、僅か21か月の短い生涯の中で悪天候、触雷、衝突事故、そして雷撃により4度の損傷・長期修理を経験、ついには1941年5月23日にクレタ島南方で敵機の空襲によって沈むことになった。*48ケリーは生涯で死者148名、負傷者多数を出してしまった。実は上に紹介した文章も不幸なケリーに関する記述が続く。
- もっとも、艦としての知名度や人気はイギリス本国でも圧倒的にケリーの方が上だったりする。高名なマウントバッテン大佐の乗艦であったことや短く劇的な最期が人々の興味を引き付けるのかもしれない。
- 余談だが、ケリーを含む第5駆逐艦戦隊の一部の艦は艦体を暗いピンク色に塗っていたという説がある。マウントバッテン大佐が考案した「マウントバッテンピンク」という色で、明け方・夕暮れ時に溶け込みやすいとされた。ただ、ケリーが実際に塗装していたかに関しては裏付ける証言がないなど否定的な意見もある。*49
1/700プラモデルでも2018年現在ジャーヴィスのキットは一つもないが、ケリーは旧マッチボックス社が70年代に発売しているほか中国のFlyhawk社からも新規キットが発売されている。- 1/7フィギュアに続き、2019年9月の全日本ホビーショーにおいて青島文化教材社から1/700ジャーヴィスの発売が発表された。インジェクションキットとしては初のキット化となる。*50
- 一方、同じ設計・同じ造船所で生まれ、ジャーヴィスの双子の妹ともいえるK級の嚮導艦ケリーはジャーヴィスと対照的に不幸な駆逐艦であった。ヴィクトリア女王の曾孫として知られる伯爵ルイス・マウントバッテン大佐*47に率いられ第5駆逐艦戦隊旗艦として各地で奮闘したものの、僅か21か月の短い生涯の中で悪天候、触雷、衝突事故、そして雷撃により4度の損傷・長期修理を経験、ついには1941年5月23日にクレタ島南方で敵機の空襲によって沈むことになった。*48ケリーは生涯で死者148名、負傷者多数を出してしまった。実は上に紹介した文章も不幸なケリーに関する記述が続く。
- ジャーヴィスとケリーの妹にあたる小改良型N級の嚮導艦であるネイピアはオーストラリア海軍艦として活躍し、戦争を無事に生き延びている。ジャーヴィスやケリー、ウォースパイトと北海や地中海で一緒に行動しているほか、インド洋でもサラトガ、リシュリューなどと活動している。
- N級はイギリス国外の連合国に提供され、中にはビスマルクと砲戦を交わしたポーランド海軍のピオルン(旧ネリッサ)や後にインドネシア海軍初代旗艦になったオランダ海軍のチェリク・ヒッデス(旧ノンパレイル)のような艦もいる。
J級という駆逐艦
- 第一次世界大戦後初の駆逐艦として1924年度計画でアマゾンとアンバスケイドの2隻を試作建造したイギリス海軍は、以降A~I級に至るまで主に雷装重視の駆逐艦を建造してきた。しかしその後、日本の吹雪型(特型)やフランスのシャカル級、アメリカのグリッドレイ級にドイツの1934年型といった各国が建造しつつあった大型・大火力の駆逐艦に影響される形で、1935年度と1936年度計画で砲火力に重点を置いた大型駆逐艦であるトライバル級16隻を建造するに至った。
- 確かにトライバル級の砲火力は12cm連装砲4基8門の強力なものだったが、一方で魚雷兵装が533mm四連装魚雷発射管1基のみという比較的貧弱である点*51が批判された。また、大型になった分建造費用の高騰を招いた点も問題視された。
- そのため次に計画される駆逐艦では、①砲火力を維持しつつ雷装も強化、一方で②船体は小型化してコストダウンを図るという2つのコンセプトを基に建造されることになった。それがJ級駆逐艦である。
- 確かにトライバル級の砲火力は12cm連装砲4基8門の強力なものだったが、一方で魚雷兵装が533mm四連装魚雷発射管1基のみという比較的貧弱である点*51が批判された。また、大型になった分建造費用の高騰を招いた点も問題視された。
- 1936年度でJ級駆逐艦は9隻が計画された*52。J級という名前は、その名の通り艦名に全てJで始まる単語が付けられていることによる。別名ジャベリン級とも呼ばれる。
- ジャーヴィスはJ級の建造艦のうち、旗艦を務めるための嚮導艦である。ジャーヴィスという艦名は、ナポレオン戦争時代に海軍大臣を務めたジョン・ジャーヴィス初代セント・ヴィンセント伯爵に由来する。そのため、ジャーヴィスの紋章(クレストもしくはバッジと呼ばれる)は、セント・ヴィンセント伯爵家の紋章にあるペガサスと海面を組み合わせたものであった。
- 翌1937年度計画のK級駆逐艦(8隻建造)は、実質的にJ級と同一の設計であった。また、1939年度計画のN級駆逐艦(8隻建造)はJ級・K級で事後的に施された改修が最初から取り入れられた改良型*53であるため、K級とN級もJ級に含めている文献もある。*54その場合、J級は全部で24隻姉妹となる。
- J級は魚雷発射管を533mm五連装2基に戻す一方で、主砲はトライバル級の4基から1基減の12cm連装砲3基6門とした。
- 船体の小型化のための工夫も併せて行われた。ボイラーを従来の3基から2基に減らし、代わりにボイラーの出力を強化したことで機関部をコンパクト化した一方、速力を従来と変わらない36ノットに据え置くことができた。
- ボイラーが1か所に集中することで防御上の不安は生じたものの、この工夫は以降の駆逐艦にも踏襲された。また、ボイラーが減ったことで煙突が従来の2本から1本に減っているのも大きな特徴であった。
- 船体中央部の構造材を従来の縦肋骨式から横肋骨式に変換しているのも設計上の大きな変化である。艦底部の竜骨から肋骨があばら骨のように直角方向に伸びる縦肋骨式に対し、横肋骨式は竜骨と平行に伸ばすことで強度を保持しつつ重量軽減や部屋割りを自由に決められるメリットが生じた。
- 他にも強度の高いD鋼(デュコール鋼)や溶接の大規模な使用による軽量化、後部マスト廃止による射界の拡大などの工夫が取り入れられている。*55
- 船体の小型化のための工夫も併せて行われた。ボイラーを従来の3基から2基に減らし、代わりにボイラーの出力を強化したことで機関部をコンパクト化した一方、速力を従来と変わらない36ノットに据え置くことができた。
- かくしてバランスが取れた優秀な駆逐艦に仕上がったJ級は、以降のイギリス駆逐艦の基本形となり、その設計は踏襲されていくことになった。特に初の戦時急造型駆逐艦であるO級とP級は、J級の船体設計をほぼそのまま流用しており、違いは鋼板の厚みが16分の5インチから16分の3インチに減らされているぐらいであった。
- 大型で力強いトライバル級に対して、J級はその整ったスタイルから「ハンサムJ」とも呼ばれている。
- ちなみに、雷装の強化と小型化という目標を達成したJ級だったが、各種の工夫を盛り込んだ結果、トライバル級に比べて建造コストは逆に高くなってしまったという。ダメじゃん・・・。
- 煙突が1本になり後檣が省略された事で船体後半から高い構造物がなくなり、後部主砲および機銃は極めて広い射界を得ている。真正面にこそ撃てないが、後部主砲の射界は320度と普通に艦首方向へ射撃でき、定位置も「前向き」である。
- というか後部砲塔なのに真後ろ左右20度に撃てないのは英国面と言わざるを得ず、さすがに竣工後に大顰蹙を買い、真後ろに撃てるように改修されて定位置も後ろ向きに改正された。
- 1930年代半ばから駆逐艦の対空兵装強化、主に低空の雷撃機に対応する必要性が提唱されたことで、トライバル級と同様、主砲に最大40度の仰角と対空砲弾、ビッカース40mm四連装ポンポン砲1基とビッカース12.7mm四連装機銃2基、ルイス式7.7mm機関銃4丁という比較的充実した対空兵装が用意された。
- 1939年10月、イギリス海軍作戦課長は駆逐艦を用途別に(a)砲火力・雷装重視の艦隊戦用駆逐艦、(b) 対潜能力重視の対潜駆逐艦、(c)機雷敷設能力を持つ敷設駆逐艦、(d)対空戦重視の防空駆逐艦の4種類に分けたが、J級・K級は前述の理由から(a) 艦隊戦用駆逐艦のみならずトライバル級とともに限定的な(d)防空駆逐艦とみなされた。
- もっとも、戦争が始まってみるとこの程度では不十分と判明。特に仰角40度の主砲では急降下爆撃機に対応できず、12.7mm機銃をエリコン20mm機銃に替えて数も増やしたり後部魚雷発射管を10.2cm単装高角砲に換装している。ただ、高角砲は対空方位盤があるわけでもないポン付けだったので、現場ではせいぜい照明弾発射用にしか役に立たないとか言われてしまっている。
- もっとも、戦争が始まってみるとこの程度では不十分と判明。特に仰角40度の主砲では急降下爆撃機に対応できず、12.7mm機銃をエリコン20mm機銃に替えて数も増やしたり後部魚雷発射管を10.2cm単装高角砲に換装している。ただ、高角砲は対空方位盤があるわけでもないポン付けだったので、現場ではせいぜい照明弾発射用にしか役に立たないとか言われてしまっている。
- 1939年10月、イギリス海軍作戦課長は駆逐艦を用途別に(a)砲火力・雷装重視の艦隊戦用駆逐艦、(b) 対潜能力重視の対潜駆逐艦、(c)機雷敷設能力を持つ敷設駆逐艦、(d)対空戦重視の防空駆逐艦の4種類に分けたが、J級・K級は前述の理由から(a) 艦隊戦用駆逐艦のみならずトライバル級とともに限定的な(d)防空駆逐艦とみなされた。
- 運用の面でも、J級は画期的な艦級であった。
- イギリス海軍で日本の水雷戦隊に相当する部隊は「Destroyer Flotilla」(駆逐艦戦隊)*56だが、水雷戦隊と異なり旗艦は軽巡洋艦ではなく旗艦設備を持つ駆逐艦「Flotilla Leader」(嚮導艦)が担当し、「Private Ship」(仮訳:通常型)の駆逐艦を率いて活動した。
- 指揮系統も水雷戦隊と異なり、嚮導艦の艦長は「Captain(D)」(仮訳:司令)という大佐クラスの人物が担当し艦長と駆逐艦戦隊司令を兼任した。
- I級までの艦級では、おおむね船体が大きく主砲が1基多いなど設計が異なる嚮導駆逐艦1隻と通常型8隻の合計9隻が建造されていた。*57これは旗艦の嚮導艦1隻+各々通常型4隻ずつの「Division」(仮訳:駆逐隊)2個で1個駆逐艦戦隊を編成できるという考えであった。
- イギリス海軍で日本の水雷戦隊に相当する部隊は「Destroyer Flotilla」(駆逐艦戦隊)*56だが、水雷戦隊と異なり旗艦は軽巡洋艦ではなく旗艦設備を持つ駆逐艦「Flotilla Leader」(嚮導艦)が担当し、「Private Ship」(仮訳:通常型)の駆逐艦を率いて活動した。
- しかしイギリス海軍の中の人は気づいた。通常型と大きく仕様の違う嚮導艦をわざわざ建造するのは非効率じゃないか、と。
- そこでJ級では9番艦ジュビラントを建造取り止めにして8隻建造に変更。嚮導艦の設計を、旗艦設備で後部甲板室が少し大きい以外は通常型とほぼ違いのないものにした。また、嚮導艦を駆逐隊の編成に取り込み、駆逐艦戦隊と自分の加わっている駆逐隊両方の指揮をとらせることとした。もう一方の駆逐隊旗艦となる通常型の艦長は戦隊の次席指揮官を務める。
- そして嚮導艦1隻と通常型7隻の8隻建造というセットは、以降のイギリス駆逐艦の建造計画に踏襲されていったのである。
- もっとも、編成の都合や相次ぐ駆逐艦の戦没で、想定通りに同一の艦級が揃って駆逐艦戦隊を編成することはあまりなかった。
- 例えば、開戦時の13駆はダンカン(D級・嚮導艦)、エンカウンター(E級)、アイシス(I級)の艦級の異なる3隻しかいなかったり、ジャーヴィスも7駆・14駆の嚮導艦として、J級・K級のみならずトライバル級、G級、H級、I級、P級、L級等からギリシャ海軍の駆逐艦ヴァシリッサ・オルガや「世界最速の駆逐艦」ことフランス海軍の大型駆逐艦ル・ファンタスクに至るまで指揮下に収めている。
- ちなみに、ジャーヴィスとケリーは他の駆逐艦よりも艦長室が非常に豪華だったらしい。海軍軍人でもあったルイス・マウントバッテン卿(ヴィクトリア女王の曾孫、現王配エディンバラ公フィリップの叔父)が開戦に伴い前線勤務に復帰する事になり、両艦のどちらかに座乗する事が内定していたためである。特別に広く、光沢を放つマホガニーのテーブルや大きな寝台、ふかふかな長ソファーに専用浴室まで用意された艦長室が設けられていたという。
結局座乗艦はケリーに決まり、クレタ島の戦いで沈没するまで同艦を指揮している。(マウントバッテン卿も海を泳ぎ救助される羽目になった)
- そこでJ級では9番艦ジュビラントを建造取り止めにして8隻建造に変更。嚮導艦の設計を、旗艦設備で後部甲板室が少し大きい以外は通常型とほぼ違いのないものにした。また、嚮導艦を駆逐隊の編成に取り込み、駆逐艦戦隊と自分の加わっている駆逐隊両方の指揮をとらせることとした。もう一方の駆逐隊旗艦となる通常型の艦長は戦隊の次席指揮官を務める。
- 当時のイギリス駆逐艦は煙突に色や数の異なるラインを描き所属を表していた。例えば、7駆なら白線2本、14駆なら下が黒で上が赤の二本線といった感じ。これは終戦直後に単純な数字に直されている。加えて戦隊旗艦の嚮導艦は煙突頂部を黒く塗り、もう一隻の駆逐隊旗艦は戦隊を示すラインの上に縦棒を1本引いてそれぞれの立場を示していた。
ジャーヴィス提督って?
- アメリカ独立戦争からナポレオン戦争にかけてのイギリスの海軍軍人である。
- アメリカ独立戦争時、1778年の第一次ウェサン島の海戦に艦長として参加。1782年には、フランス艦「ペガーズ」捕獲の功績によって、バス勲章を授与され、ナイトに叙せられた。
- フランス革命戦争時は地中海艦隊司令長官に就任。
- 彼は1797年のサン・ビセンテ(英語名セント・ヴィンセント)岬の海戦でスペイン艦隊を撃破した。
- この勝利によって彼はスタッフォード・カウンティ、ミーフォード(Meaford)の「ジャーヴィス男爵」となり、また「セント・ヴィンセント伯爵」の称号を得た。
- ちなみにこの時の戦いでは一度敵を取り逃がしかけたのだが、そこで敵中に単艦突撃しスペイン艦2隻を拿捕するなど大活躍したのがのちの英雄ネルソン(当時戦列艦「キャプテン」の艦長)だった。
- 彼は1797年のサン・ビセンテ(英語名セント・ヴィンセント)岬の海戦でスペイン艦隊を撃破した。
- 1799年、健康を害して一時的に軍務から退いたが、翌年には復帰し、1801年には海軍大臣となったほか、スタッフォード郡ミーフォード(Meaford)のセント・ヴィンセント子爵となった。
- 彼は1806年から1807年まで海峡艦隊を指揮し、1811年に海軍を引退した。
- また、1821年のジョージ4世の即位式に合わせてイギリス海軍元帥に昇進した。
- 彼はまた、優れた士官を登用して部隊の能力を向上させることにも秀でており、ネルソン卿によるナイルの海戦の勝利なども彼に拠るところが大きい。
- 彼の記念碑はセント・ポール大聖堂にある。また、彼のさまざまな時期の肖像画が数多く残されている。
「イングランドの命運はこの戦いの勝利にかかっている。」
(A victory to England is very essential at this moment.)
(セント・ヴィンセント岬の海戦の直前、旗艦ヴィクトリーの艦尾甲板での士官に対する宣言)
「諸卿、『フランスは攻めてこない』とは私には申せません。しかしひとつ申せますのは、『フランスは海からは攻めてこられない』ということです」
(I do not say, my Lords, that the French will not come. I say only they will not come by sea)
(1801年の上院における海軍大臣演説)
- また、第二次世界大戦において彼の子孫も大きな活躍を残している。援ソ船団JW51Bを護衛中、重巡ヒッパー以下の有力な独艦隊に襲われながら、援軍到着まで船団を守りきった第17駆逐艦戦隊の指揮官、ロバート・セント=ヴィンセント・シャーブルック大佐がそのひとり。
- シャーブルック大佐はそのバレンツ海海戦で重傷を負いながら、船団護衛任務を全うしたことを評価され、ヴィクトリア十字章*58を授与されている。
- ジャーヴィスと彼の功績にちなんだ艦名はもう1隻あり、第一次大戦に参加した弩級戦艦セント・ヴィンセントは海戦の名であり彼の爵位の名前から取られている。
- ちなみにアメリカ海軍の駆逐艦にもジャーヴィスという同名の別人がいるが、こちらはアメリカ海軍の士官候補生の名前に由来するれっきとした別人である。
艦歴
- 1937年4月26日、ヘブバーン・オン・タインのホーソン・レスリー社ドックにおいて1隻の駆逐艦が起工した。建造番号614と呼ばれたその艦は、1938年9月9日、ジャーヴィス伯爵の子孫であるヒルダ・モード・サン・レジェ夫人の手によって無事に進水、彼女のご先祖様にちなみ「ジャーヴィス」と名付けられた。ジャーヴィスは1939年5月8日に就役した。彼女は嚮導艦として、生まれながらに他の駆逐艦を率いて戦うことを宿命づけられた存在であった。
1939年
- ジャーヴィスの初代司令となったのは、フィリップ・マック大佐。13歳で海軍に入って以降多くの艦艇に勤務、第一次世界大戦にも従軍しUボート撃破の戦績を残したほか、ブエノスアイレスの駐在武官も務めた経験豊富な海軍軍人だった。海軍随一ともいわれるベテラン駆逐艦乗りであり、端正な顔立ちに左腕から胸にかけて大きな蛇の入れ墨を持つ生粋の海の男であった。
- 9月1日、7駆のうちジャーヴィス、ジャージー、ジュピター、ジャベリン、エコーは第2巡洋艦戦隊の軽巡洋艦サウサンプトンとグラスゴーと共にハンバーを拠点とする「ハンバーフォース」を編成、スカゲラク海峡*61入り口付近まで出撃し、北海の南東部にいるドイツ艦船を捜索・攻撃する任務が与えられた。残るジュノー、ジャッカル、ジェーナスの3隻はプリマスを拠点に船団護衛任務に就く。
- 9月4日、デンマーク船を装って逃げようとしたドイツ客船ヨハン・モルケンビュッカーを発見。既に自沈処置がされていたため乗員・乗客43名を移乗させた後にジャージーの砲撃で処分した。12日、ジャガーがエコーに代わって7駆に加入する。
- 9月23日の夜、悪天候の中第2巡洋艦戦隊を護衛中にジャージーがジャベリンの左舷艦首部に衝突。ジャベリンは翌月22日まで修理に費やした。この頃、連日続く北海の悪天候はジャーヴィスらを悩ませた。艦橋まで打ち付ける大波や吹きすさぶ寒風、視界を奪う霧に7駆は非常に苦労した。9月30日には、今度はロサイスに入港するジュピターがジャーヴィスに接触する事故を起こした。
- 10月9日、この日ジャーヴィスは初めての空襲に遭遇する。ジャーヴィスとジュピターは、敵艦の捜索に向かった巡洋艦と悪天候のために合流できずロサイスに帰投中だったが、そこで彼女らはドイツ空軍機の2波にわたる空襲を受けた。
- 2隻は対空戦闘を行ったが、主砲は激しい動揺で狙いが定まらず、経験不足から信管調定に手間取り、さらに仰角不足から敵機の投弾直前か投弾後しか狙えなかった。一方ポンポン砲やビッカース機銃はというと、曳光弾がないために弾道が分からずさっぱり当たらなかった。そのうえ2隻はもともと悪天候のため燃料不足に陥っていたが、なお悪いことに、空襲のさなかジュピターが機関故障を起こし停止してしまう。
- ジャーヴィス最初の危機であったが、彼女はローリングが45度にも達する中で何とかジュピターに曳航索を取り付け曳航を始める。そして悪天候で補給のタンカーが向かうことができず、曳航作業によって燃料がほとんど空になりながらも、翌日2隻は無事にスカパ・フローへ帰還を果たしたのであった。
- 10月14日には、ジャーヴィスらはドイツの商船ボンデとタンカー グスタフ・E・ロイターの2隻を拿捕する功績を挙げた。
- しかしその2日後の16日、輸送船団を護衛中だったジャーヴィスらはドイツ空軍の空襲に見舞われる。軽巡洋艦エディンバラやサウサンプトンなどに被害が生じ、特に駆逐艦モホークでは艦長らが戦死する損害を受けた。だが、タンカーに寄り添い空襲から守り続けたジャーヴィスには全く被害が出なかったのである。
- 以降も翌年にかけてジャーヴィスらは、北海でドイツ艦船の捜索や船団護衛に従事した。この間、禁制品輸送を理由にドイツ海軍の装甲艦ドイッチュラントに拿捕されたアメリカ船シティ・オブ・フリントの捜索にもあたっている。
- 9月4日、デンマーク船を装って逃げようとしたドイツ客船ヨハン・モルケンビュッカーを発見。既に自沈処置がされていたため乗員・乗客43名を移乗させた後にジャージーの砲撃で処分した。12日、ジャガーがエコーに代わって7駆に加入する。
1940年
- ジャーヴィスに生涯において最初で最後の人的損害を出す事故が発生する。1940年3月19日午前1時45分頃、ジェーナスとジャベリンを従え、ロサイスへ向け22ノットで航行中だったジャーヴィスに中立国スウェーデンの商船トールが衝突したのである。
- トールはジャーヴィスの左舷前部を大きく抉り、居住区である水兵用メスデッキなどに甚大な被害を及ぼした。同時に機関科員食堂や2番砲弾薬庫などに浸水が発生した。大きく破壊されたジャーヴィスの写真。
- この事故で、ジャーヴィスは死者2名、行方不明者15名という甚大な被害を出した。スワン・ハンターのドックに入渠後、7名の遺体が艦内の浸水区画から発見された。
- しかしジャーヴィスは、この悲惨な事故によって一生分の厄を落としきったらしい。これから続く5年以上の戦争で、彼女は無類の幸運を発揮することになるのである。
- トールはジャーヴィスの左舷前部を大きく抉り、居住区である水兵用メスデッキなどに甚大な被害を及ぼした。同時に機関科員食堂や2番砲弾薬庫などに浸水が発生した。大きく破壊されたジャーヴィスの写真。
- ジャーヴィスが修理を行う間、ドイツ軍がノルウェーに侵攻。J級やK級の姉妹艦たちを含む本国艦隊は北海に展開し、ドイツ空軍の脅威にさらされながらも兵員輸送や地上砲撃を行ったり、後にはノルウェー各地からの撤退作戦に従事した。
- 5月、タインの造船所で修理を受けるジャーヴィスの隣に、双子の姉妹といえる関係のK級の嚮導艦ケリーが入渠した。彼女は5月9日にドイツ軍魚雷艇S-31の魚雷を受け死者・行方不明者27名を出したのである。ケリーは就役から1年余りの間に触雷や衝突で既に3度の損傷と長期修理を経験、今回は4度目の損傷であり、しかも前回の修理が終わって2週間ほどしか経っていなかった。さすがに不幸としか言いようのない彼女に、ジャーヴィスの乗員達もケリーに乗り込んで遺体の捜索を手伝ったのだった。
- 同じ頃、マック大佐は第14駆逐艦戦隊司令として地中海艦隊に加わることが決まった。ジャーヴィスが使えないためにマック大佐はジェーナスを臨時の旗艦に、ジュノー、ヌビアン、モホーク、カルトゥーム、キンバリー、カンダハー、キングストンの7隻を引き連れて5月18日地中海へ向かった。
- 修理が終わり公試や乗員の再編成などを行ったジャーヴィスは、ポーツマスで補給品の積み込みなどを終え6月27日に出港、マック大佐の後を追いかけて7月1日にマルタ島へ到着した。ジャーヴィスのペナントナンバーはこの頃にF00からG00に変わっている。既にイタリアは参戦していたため、マルタに空襲が行われていた。6日にジャーヴィスも空襲の洗礼を受けたが、ジャーヴィスと乗員に全く被害はなかった。3日後にはマルタからアレキサンドリアに疎開する民間人を乗せた船団を護衛して地中海で最初の任務を行っている。
- ジャーヴィスがいない間、既に14駆は地中海艦隊司令長官アンドリュー・カニンガム提督の旗艦ウォースパイトらと共に活躍していたが、7月14日にアレキサンドリアでマック大佐がジャーヴィスに乗り込み正式に14駆旗艦となった。以降、ジャーヴィスは年内いっぱいを北アフリカ沿岸のイタリア軍を攻撃する地中海艦隊や輸送船団の護衛に従事した。
1941年
- 年が明けた1941年1月初め、ジャーヴィスらはマルタ島への輸送作戦MC4作戦(エクセス作戦)に参加、戦艦ウォースパイト、ヴァリアント、空母イラストリアスを含むA部隊(Force A)の護衛を担当した。地中海方面に初めて出現したドイツ空軍機の攻撃によってイラストリアスが大破するなど損害は出たものの、作戦は成功を収めた。
- 1月11日、かつて北海で一緒に戦った軽巡サウサンプトンが空襲で損傷・処分されたため、ジャーヴィスは僚艦と共に乗員を救助している。
- 2月19日、ジャーヴィスはマルタ島への兵員輸送作戦MC8作戦の護衛を実施。作戦は無事に成功した。
- 3月6日、北アフリカの英軍をギリシャに増援として転進させるラスター作戦の発動に伴い、ジャーヴィスらは輸送船団の第一陣を護衛したほか、3月20日にはマルタ島への輸送作戦MC9作戦に参加している。
マタパン岬沖海戦 - ザラやポーラを沈める
- 1941年3月28日のマタパン岬沖海戦にジャーヴィスは14駆を率いて戦艦ウォースパイト、ヴァリアント、バーラム、空母フォーミダブルらと参加。
- 昼間に空襲で被雷、落伍していたポーラの救援のために向かっていたザラ、フィウメや4隻の駆逐艦に対してウォースパイトらが夜戦を敢行する。
- ジャーヴィスのマック司令は当初戦艦ヴィットリオ・ヴェネト以下イタリア艦隊主力の追跡を命じられていたが、主力部隊が撤退したことが判明するとウォースパイトらに合流した。
- ジャーヴィスは29日午前2時頃、自らを先頭にヌビアン、モホーク、ジェーナス、アイレックス、ヘイスティ、ヘレワード、そしてホットスパーの順に単縦陣で戦場へ到着。既にウォースパイトらに叩きのめされたフィウメは沈みザラも炎上しており、周囲にはイタリア側の生存者が多数漂流しながら助けを求める修羅場となっていた。
- マック司令は後続艦に彼らを救助するように命じ、ジャーヴィスにはなお沈まないザラの処分を命じた。ジャーヴィスから発射された魚雷がザラに命中、さらにザラの乗員が仕掛けた自沈用爆薬によって大爆発と共に転覆し沈んでいった。
- 午前3時頃、ジャーヴィスは行動不能のポーラに近付いた。マック司令はポーラを捕獲しようかと思ったが、空襲の脅威下でポーラを基地まで曳航するなど困難であると思いなおし、乗員を収容して沈めることに決めた。
- 午前3時25分、ジャーヴィスはポンポン砲を向けながらポーラに接舷し、1番砲の砲員達がまるで帆船時代の接舷切込みのようにカットラスを手に移乗してポーラの艦長以下生存者257名を捕虜にした。既に彼らは戦意を喪失しており抵抗はなかった。
多くは酔っぱらっていたが。 - 収容は15分ほどで終わりジャーヴィスはポーラから離れたが、その前にジャーヴィスの砲員達は対空用にポーラから数丁のブレダ機銃を拝借して装備した。ジャーヴィスから1本、ヌビアンから2本の魚雷を撃ち込まれたポーラはとうとう深海へと消えていった。
- 午前3時25分、ジャーヴィスはポンポン砲を向けながらポーラに接舷し、1番砲の砲員達がまるで帆船時代の接舷切込みのようにカットラスを手に移乗してポーラの艦長以下生存者257名を捕虜にした。既に彼らは戦意を喪失しており抵抗はなかった。
- 大勝利を挙げた地中海艦隊だったが、そのころ地中海の戦況はどんどん厳しくなっていた。3月にリビアに到着したロンメル将軍率いるドイツ・アフリカ軍団は、イギリス軍を瞬く間に撃破して4月半ばには逆にエジプト国境を超えた。さらに地中海北部では4月6日にユーゴスラヴィアとギリシャへドイツ軍が侵攻を開始した。
- イギリス海軍はイタリアから北アフリカへの補給路を断つために枢軸側の輸送船団を攻撃することにした。
タリゴ船団の戦い - 敵船団を全滅させる。
- 偵察機からの敵船団発見の連絡を受けて、ジャーヴィス、ジェーナス、ヌビアン、モホークの4隻は4月15日にマルタ島を出撃。翌16日午前2時前、チュニジア沿岸のケルケナ諸島沖でヌビアンのレーダーが船団を発見、ジャーヴィスらは攻撃をかけた。
- 敵船団は3隻のイタリア駆逐艦ルカ・タリゴ、バレノ、ランポと5隻の輸送船からなっていた。ジャーヴィスらの奇襲を受けた船団は次々餌食になっていった。バレノやランポはすぐに撃破され、ジャーヴィスの魚雷が直撃した弾薬輸送船は爆沈。ランポは大破・漂流した後擱座した。*62
- だが、大被害を受け沈みつつも果敢に船団を守ろうとしたルカ・タリゴの放った魚雷がモホークに命中、さらに5分後に別の1発が当たりモホークは転覆。ジャーヴィスとヌビアンが生存者169名を救助し、まだ浮いていた船体はジェーナスが砲撃で処分した。
- こうしてジャーヴィスは1隻を失ったものの、枢軸側船団8隻を全滅させる勝利を得たのであった。
- 偵察機からの敵船団発見の連絡を受けて、ジャーヴィス、ジェーナス、ヌビアン、モホークの4隻は4月15日にマルタ島を出撃。翌16日午前2時前、チュニジア沿岸のケルケナ諸島沖でヌビアンのレーダーが船団を発見、ジャーヴィスらは攻撃をかけた。
- 4月20日、苦しい戦いを続ける陸軍を支援するため、ウォースパイトは戦艦ヴァリアント、バーラムらを引き連れ、リビアの枢軸側の重要な補給港トリポリに猛烈な砲撃を加えた。この作戦にジャーヴィスらも護衛として参加している。
- 4月24日、敵船団を捜索中だったジャーヴィスらはイタリアの武装商船エゲオを発見。ジュノーとジェーナスに命じて撃沈させた。
- 5月9日、戦車や戦闘機などの重要な貨物をエジプトのアレキサンドリアへ運ぶタイガー作戦に参加、輸送船5隻からなる船団を護衛した。船団は触雷で輸送船1隻を失ったものの、ついにアレキサンドリアに到着。タイガー作戦は成功した。アーク・ロイヤルの記事も参照。
- この頃、戦況は連合軍側に非常に不利になりつつあった。4月にドイツ軍はギリシャとユーゴスラヴィアを瞬く間に占領。敗退した英連邦軍は何とか約50,000名が海路撤退した。北アフリカではロンメル将軍のアフリカ軍団がイギリス軍を苦しめていた。そして次なるドイツ軍の目標はギリシャ南部の島クレタ島だった。
クレタ島の戦い - 悲惨な敗北を経験する。
- 5月中旬、ジャーヴィスら地中海艦隊はB、C、D、Eの4つの部隊に分かれ防衛のためにクレタ島近海へ展開した。5月21日、D部隊が敵の上陸船団の阻止に成功する。22日には別の船団も追い返した。
- だが、20日から猛烈な空爆と共に大規模な空挺部隊が空から侵攻を開始し、クレタ島の守備隊は圧倒されてしまう。制空権を枢軸側に奪われた地中海艦隊は敵の空襲にさらされ、ウォースパイト大破を始め被害が続出する。21日にはジャーヴィスの姉妹艦であるジュノーがイタリア空軍機に爆撃され轟沈。*63相次ぐ空襲被害と対空砲弾の不足から、やむなく艦隊は23日にアレキサンドリアへ帰投するしかなくなった。
- この日の午前8時頃、ドイツ軍に制圧されたマレメ飛行場の砲撃に向かった5駆の旗艦ケリーとカシミールの2隻がスツーカに襲われた。まずカシミールが轟沈、ジャーヴィスの双子である嚮導艦ケリーは懸命に反撃し2機を撃墜破するが、ついに力尽き轟沈してしまう。舵故障で遅れていたキプリングが、爆撃をかいくぐりマウントバッテン司令以下生存者279名を救助。それから40機から投下された合計83発もの爆弾を全て回避して脱出に成功する。
- キプリングはアレキサンドリアの手前80キロの海上で燃料切れのため停止しつつも、助けに来た設網艦プロテクターに曳航されてついにアレキサンドリアへ帰還を果たした。不利な戦況を懸命に戦い乗艦や多くの仲間を失った彼らを、港にいたジャーヴィスら14駆の乗員たちは励ましの声援で迎えたのであった。実際の写真。
- 5月25日、何とかドイツ軍の空爆を食い止めようと空母フォーミダブルが戦艦クイーン・エリザベスとバーラム、そしてジャーヴィスら14駆に護衛されて出撃、ギリシャのカルパトス島の敵飛行場を爆撃した。(MA3Q作戦)
- だが、この作戦でフォーミダブルもドイツ軍の空襲で大破してしまい、なけなしの航空戦力を失ってしまったのである。駆逐艦ヌビアンも直撃弾で爆雷が誘爆し大損害を受けたが、ジャーヴィスは彼女を救援しアレキサンドリアへ後退したのであった。
- クレタ島は5月27日に放棄が決まり、翌日から守備隊の撤退作戦を実施することになった。艦艇への被害を懸念する陸軍に対し、カニンガム提督は戦史に残る言葉を述べて撤退作戦を決断した。
「海軍が一隻の軍艦を造るには3年かかる、一つの新たな伝統を造るには300年かかる。撤退作戦は続行する」
(It takes the Navy three years to build a ship. It will take three hundred years to build a new tradition. The evacuation will continue.)
- ジャーヴィスを含む地中海艦隊は、重巡1隻、軽巡2隻、駆逐艦6隻、輸送船44隻が沈み、多数の艦艇が損傷したこの悲劇的な負け戦の中で、ロイヤル・ネイビーの誇りにかけて約17,000名もの将兵をクレタ島から救出したのだった。そしてジャーヴィスは爆撃で至近弾を受けつつも全く被害を出さなかったのである。6月1日、ついにクレタ島は陥落した。
- クレタ島の戦いの少し前、3月末から4月初めにかけて中東のイラク王国で反英派によるクーデターが発生、政権の座に就いたラシード・アリー・アッ=ガイラーニー首相はドイツ・イタリアの支援を要請した。
- 結局、侵攻した英軍によって5月中にイラクは占領された(アングロ・イラク戦争)が、それまで枢軸側によって行われたイラクに対する支援は、隣のフランス委任統治領シリアを拠点にしていた。この地域は親枢軸のヴィシー政権を支持しており、イラクは占領されたとはいえ今後の憂いを取り除くために攻撃を決定。6月にシリアとレバノンへ侵攻するエクスポーター作戦を発動したのである。
エクスポーター作戦 - 魚雷から奇跡的に生還する。
- 軽巡洋艦と駆逐艦からなるイギリス艦隊B部隊とC部隊が出撃したが、6月9日にフランスの大型駆逐艦ゲパールとヴァルミーが現れジェーナスが大破させられた。ジャーヴィスは6月12日に応援としてアレキサンドリアを出撃、強力な仏軍砲兵陣地などを砲撃してオーストラリア軍を支援した。15日早朝にはキンバリーとニュージーランド海軍の軽巡リアンダーと共に例のフランス駆逐艦と交戦、正確な敵の砲撃に苦戦しながらも敵艦を撤退させた。
- その日の夜、ジャーヴィスはレバノンに増援輸送を行う敵駆逐艦カサールを迎撃するためベイルート沖へ向かったが、肝心のカサールは英空軍の攻撃で引き返していた。この出撃中、ジャーヴィスの目の前1尋(183m)ほどの超至近距離に浮上中の敵潜水艦を発見、そしてその潜水艦は魚雷を発射してきた。
- マック大佐は咄嗟に急転舵と全速を命じ、潜水艦と魚雷両方から離れた。魚雷はジャーヴィスのほんの数フィート横を通過していった。潜水艦は急速潜航したため、同行していたキンバリーが爆雷攻撃をかけて追い払った。彼女らはさらに敵の空襲を受けたが無事に切り抜けた。
- だが、潜水艦と魚雷の脅威はこれで終わらなかったのである。18日から19日にかけての夜、ベイルートの街に接近して地上砲撃をしていたジャーヴィスにいきなり魚雷が向かってきた。実はベイルート港に2隻のフランス潜水艦が潜んでおり、そのうちの1隻が2本の魚雷を放ったのだ。
- 今度は回避する余裕もなく1本が艦橋直下に飛び込み、全員が死を覚悟した。だが何も起こらなかった。調定深度が深すぎたのか、なんと魚雷は艦底を通り抜けていったのである。乗員の一人は後にこう回想している。
「あの日、私は戦慄のあまり仲間の髪が逆立つ光景というものを実際に目にしたんだ。冗談じゃなくてね。いつもあの様子を思い出すよ。私だって全く同じようにビビッていたから、もし帽子を被っていなければそうなっていただろう」
- 今度は回避する余裕もなく1本が艦橋直下に飛び込み、全員が死を覚悟した。だが何も起こらなかった。調定深度が深すぎたのか、なんと魚雷は艦底を通り抜けていったのである。乗員の一人は後にこう回想している。
- その後もジャーヴィスらは地上支援やヴィシー側艦艇の警戒を実施。5月30日にアレキサンドリアへ帰投した。
- 結局、侵攻した英軍によって5月中にイラクは占領された(アングロ・イラク戦争)が、それまで枢軸側によって行われたイラクに対する支援は、隣のフランス委任統治領シリアを拠点にしていた。この地域は親枢軸のヴィシー政権を支持しており、イラクは占領されたとはいえ今後の憂いを取り除くために攻撃を決定。6月にシリアとレバノンへ侵攻するエクスポーター作戦を発動したのである。
- 7月に入ると、ジャーヴィスは枢軸軍の包囲下で孤立していたリビアの港町トブルクへの海上輸送任務に加わる。「キレナイカの真珠」とも称されたこの地域随一の良港であるトブルクを守るオーストラリア軍をはじめとする守備隊の補給は海路に依存していたが、常に敵の空襲の脅威にさらされる危険な任務であり、実際に多くの船が沈んでいる。
- これには低速の輸送船ではなく主に高速の駆逐艦が任務にあたった。行きは補給物資や増援部隊を輸送し、帰りには傷病兵や戦闘で消耗し交代する部隊を運んだ。輸送に従事する駆逐艦は「トブルク・フェリーサービス」と揶揄されたが、守備隊にとっては唯一頼みの綱の存在であった。
- 危険な任務ではあったが、ジャーヴィスは仲間たちと共に9月まで複数の輸送作戦を実施した。最終的にトブルクは11月27日、クルセーダー作戦により包囲が解かれた。
- 9月21日のこと、前日にトブルクへ兵員輸送を終えたジャーヴィスらはアレキサンドリアに帰還中だったが、キンバリーが途中で小さなボートを発見。乗っていたイギリス兵3名とギリシャ兵7名を救助した。なんと彼らはクレタ島陥落後4か月近くも島に隠れ、ちっぽけなボートで180海里も海を越えて脱出してきたのだった。実は数日前にも、キンバリーが同様にクレタ島から逃げてきたイギリス・オーストラリア・ギリシャの兵士でいっぱいの帆船を見つけて曳航していた。未だクレタ島の戦いは終わっていなかったのである。
- 11月初め、ジャーヴィスと10隻の駆逐艦、敷設巡洋艦アブディールは兵力転進のためのグレンコ作戦に従事した。パレスチナのハイファからキプロス島ファマグスタへ英印軍を輸送し、次に逆のルートで第50歩兵師団をハイファへ移す作戦だった。ジャーヴィスらは一切の損害なしに見事作戦を成功させた。
バーラム爆沈とジャッカル誤射事件 - 相次ぐ失敗。その時ジャッカルの乗員達は・・・。
- 11月25日、ジャーヴィスを含む駆逐艦8隻はイタリアの船団攻撃に向かう戦艦クイーン・エリザベス、ヴァリアント、バーラムらを護衛していた。ジャーヴィスは16時17分にASDICで不審な音を探知したが、担当者は潜水艦ではないと判断した。しかし実はその正体はドイツの潜水艦U-331であり、U-331が発射した魚雷3本が命中したバーラムは左舷側に横転、爆沈してしまった。
- ヴァリアントがバーラムの仇を取ろうと、海面に発見したU-331に体当たりを試みたがあと少しのところで潜航されかわされてしまった。ジャーヴィスはジャッカルと一緒に一晩中捜索と爆雷攻撃を行ったが何の意味もなかった。
- 後日開かれたバーラム沈没に関する査問委員会は、ジャーヴィスの士官の判断ミスと10か月間ASDIC訓練を行っていなかった点を重大と指摘した。
- ヴァリアントがバーラムの仇を取ろうと、海面に発見したU-331に体当たりを試みたがあと少しのところで潜航されかわされてしまった。ジャーヴィスはジャッカルと一緒に一晩中捜索と爆雷攻撃を行ったが何の意味もなかった。
- 悪いことは重なるものである。11月30日にジャーヴィスらは、イタリア駆逐艦3隻が物資輸送を行っているとの情報を受け迎撃のため出撃した。だが駆逐艦は影も形もなく、国際法で義務付けられている夜間灯火が不十分な病院船を間違えて沈めそうになったり、翌日の午後には飛来した敵機の雷撃を受けてジャッカルが損傷するなどツイていない展開が続いた。
- そしてそれは起こった。夕暮れ時、まだジャーヴィスの2番砲に対空戦闘で使った砲弾が装填されたままだったため、砲員は誰もいない方向に発射して空にする許可を求め、マック司令も了承した。
- そして発砲したのだが、彼らは視界が悪く気づいていなかった。その「誰もいない方向」の2,000ヤード先にはジャッカルがいたのである。直撃こそしなかったものの、至近での爆発によってジャッカルの艦長ハイン少佐を含む2名が死亡、1名が重傷を負った。ジャーヴィスの艦橋にいた通信士はこう語っている。
「マック大佐はジャッカルのそばで砲弾が炸裂したことに気づき、大丈夫なのかと尋ねた。私は確認し、そして艦長が死んだという返答に衝撃を受けた。司令に答えた時、私の声はあまりにか細かったのだろう。司令は問い直し、私は再び答えた」
- この事故はマック司令に大きな衝撃を与えた。ハイン艦長は14駆所属艦で最年少の艦長であり、司令が特に期待をかけていた士官だったからである。
- 悲劇からしばらく経ったある日、アレキサンドリア港で停泊中のジャッカルの横をマック司令の乗った内火艇が通った時のことである。突然ジャッカルの乗員たちが甲板に集まると、マック大佐に向けて一斉に励ましの声援を送った。
- 突然艦長を失った彼らが辛かったことは言うまでもない。だが、我らが「マックの親父」の苦しい胸の内も、乗員たちはちゃんと理解していたのである。
- 悲劇からしばらく経ったある日、アレキサンドリア港で停泊中のジャッカルの横をマック司令の乗った内火艇が通った時のことである。突然ジャッカルの乗員たちが甲板に集まると、マック大佐に向けて一斉に励ましの声援を送った。
- 再度イタリア駆逐艦捜索に出たもののイタリアとイギリスの病院船しか発見できず帰投中だった12月5日、U-81に沈められた輸送船チャクディナの生存者を救助。この船は負傷した英兵以外にも捕虜を運んでおり、ドイツ軍のフォン・レーヴェンシュタイン将軍を含む生存者200名余りを助けた。
- 12月17日、ジャーヴィスら地中海艦隊とK部隊*64はマルタへの補給物資を積んだ輸送船ブレコンシャーをアレキサンドリアからマルタへ護衛するME9作戦を実施中だったが、そこで船団護衛中のイタリア艦隊と遭遇し交戦、第1次シルテ湾海戦が生起した。双方は船団護衛を優先したため海戦は引き分けに終わったが、両軍とも船団護衛という任務は達成した。
- 海戦を終えてアレキサンドリアに帰還した12月19日、ノルウェーのタンカー サゴナに接舷して給油作業中だったジャーヴィスを突然の爆発が襲った。海戦の疲れで寝ていた乗員も衝撃でたたき起こされた。
- 実はイタリアの潜水艦シーレから発進した人間魚雷マイアーレが港内に潜入、サゴナの船底に爆弾を仕掛けていたのである。爆発に巻き込まれたジャーヴィスは大きな損傷を受けた。間もなく戦艦クイーン・エリザベスとヴァリアントも同様に爆破されてしまった。
- マック司令らはジャーヴィスを炎上するサゴナから離し、ダメージコントロールの実施を命じる。幸い火災は消し止められ、損傷の応急修理に成功。しかもなんとこの攻撃でジャーヴィスは一人も死傷者を出さなかった。
- 相変わらずの幸運を発揮したジャーヴィスではあったが、さすがに損傷は大きく翌1942年1月下旬までドック入りすることになった。また、この攻撃で戦艦2隻が大破したために地中海艦隊に稼働できる戦艦がいなくなってしまうという戦略上大きな痛手も受けた。*65
1942年
- ジャーヴィスは1942年1月27日に修理が完了し復帰、2月15日に船団護衛中だったジャーヴィスは敵機の激しい空襲を受ける。その際、超低空で接近したため発見が遅れたイタリアの雷撃機3機から魚雷を投下され、あわや命中かと思われた。だがジャーヴィスは無事だった。なぜならベイルートの時のように、魚雷は全て寸での差で外れるか艦底を通過していったからである。
- 1月22日にマック司令が体調を崩し緊急入院したため、ジャーヴィスは戦隊の旗艦を臨時にケルヴィンに譲った。ジャーヴィスは戦隊の航海参謀ラーイング少佐が艦長を代行した。3月11日には彼の指揮の元、U-565に雷撃され沈んだ軽巡洋艦ナイアドの生存者533名を救助している。
- この頃14駆に新たな仲間、ギリシャ海軍の駆逐艦ヴァシリッサ・オルガが加わった。船体はイギリス製で主砲や機銃はドイツ製という変わり種。姉妹艦ヴァシレフス・ゲオルギオスはドイツ軍に捕獲されZG3ヘルメスの名でドイツ駆逐艦となっていた。
- 優秀な海軍軍人でブリッジ*66の世界チャンピオンであるブレスサス艦長以下祖国解放に燃える乗員たちが乗り込んでいた。
- マック司令は3月15日にジャーヴィスへ復帰したが、体調は思わしくなく司令職をA・ポーランド大佐に譲り帰国を決めた。「パチー」の愛称で呼ばれたポーランド大佐は、ノルウェー戦などを経験した優れた士官である。戦隊の全士官の慰留を受けつつも、ジャーヴィスの初代司令マック大佐は退艦した。ジャーヴィスを去るマック大佐。
- 個人的な親友であったカニンガム提督は、著書の中でマック司令をこう回想している。
「海で駆逐艦隊の護衛配置を転換するとき、時々ウォースパイトのそばをジャーヴィスが通り過ぎた。そして気候に荒れたマックの大きな顔と明るい笑顔は、我々全てを元気づける薬となったのだ」
- 個人的な親友であったカニンガム提督は、著書の中でマック司令をこう回想している。
- この頃14駆に新たな仲間、ギリシャ海軍の駆逐艦ヴァシリッサ・オルガが加わった。船体はイギリス製で主砲や機銃はドイツ製という変わり種。姉妹艦ヴァシレフス・ゲオルギオスはドイツ軍に捕獲されZG3ヘルメスの名でドイツ駆逐艦となっていた。
- マック大佐は帰国後戦艦キング・ジョージ五世の艦長に就任、後に少将に昇進する。だが1943年4月29日、乗っていた飛行機が墜落事故を起こし、誰からも愛されたマック少将は突如としてこの世を去ったのである。
- 枢軸側の封鎖によって物資不足が深刻化し始めていたマルタへ物資を送るため、3月20日にMG1作戦が発動、アレキサンドリアからMW10船団が出港した。21日、ポーランド司令のジャーヴィスを含む護衛部隊が、それを阻止しようとしたイタリア艦隊と交戦し第2次シルテ湾海戦が発生する。
- 戦艦リットリオを含む強力なイタリア艦隊を前に、煙幕を張りながら奮闘したイギリス艦隊は見事撃退に成功し、輸送船にも被害はなかった。だが、戦闘のため夜間にマルタ到着が間に合わなくなり、夜が明けてから敵の空襲を受け被害が出る。
- 結局2隻の輸送船だけがマルタ島に到着できたが、26,000トンの積荷のうちたった6,000トンしか荷揚げできないうちに空襲で沈没。マルタ島にはわずかな物資しか届かなかった。
- 戦艦リットリオを含む強力なイタリア艦隊を前に、煙幕を張りながら奮闘したイギリス艦隊は見事撃退に成功し、輸送船にも被害はなかった。だが、戦闘のため夜間にマルタ到着が間に合わなくなり、夜が明けてから敵の空襲を受け被害が出る。
MG2作戦 - 仲間の全滅を経験する。
- 5月10日、敵船団がベンガジへ向かっているとの情報が入り、これを攻撃するMG2作戦としてジャーヴィスはジャッカル、キプリング、ライヴリーの3隻を引き連れてアレキサンドリアから出撃した。
- 11日、上空援護を行っていたボーファイター攻撃機が戻っていった後、敵機に発見されてしまう。当初の計画通りに空襲を避けるため、全速力でアレキサンドリアに引き返した。
- だが、駆逐艦4隻という獲物を始末しようと、ドイツ空軍の第1(爆撃)飛行隊(LG 1)が出撃していた。Ju 88による攻撃が始まり、午後4時45分にまずライヴリーが撃沈され、キプリングが117名を救助して逃走を続ける。さらにジャッカルに爆弾1発が命中し大破、航行不能となる。
- ポーランド司令は、旗艦ジャーヴィスをジャッカルに接近させて曳航を始める。その後も攻撃は続き、ドイツ空軍の誇る名爆撃機パイロットの一人ヨアヒム・ヘルビッヒ大尉に率いられたLG 1の第3波が襲う。今度はキプリングに直撃弾1発と至近弾4発を与え、命中から10分でキプリングは爆沈した。
- ジャーヴィスは唯一残ったジャッカルを救おうと曳航を続けたが、ジャッカルの火災と浸水は手の施しようがなくなる。ついに曳航は断念され、生存者を移乗の上で5月12日午前4時45分、ジャーヴィスは敵に使うはずだった魚雷をジャッカルに発射、最後に残った仲間を介錯したのであった。
- ジャーヴィスはその後自らの乗員220名に加え、3隻の生存者約650名を満載。極端な過積載で転覆の危険があるため左右5度ずつしか舵を切れない中、アレキサンドリアに帰還を果たした。
- 1942年の地中海の戦いは、要衝マルタ島をめぐる戦いであったといっても過言ではない。危機に陥ったマルタ島を救うため、ジャーヴィスらイギリス海軍は全力で戦う。
マルタ島の戦い - そして島は救われた。
- イタリア・シチリア島の南方にある英領マルタ島は古くから地中海の要衝として知られていた。1940年6月のイタリア参戦とフランス降伏で地中海の戦いが始まると、島は敵地か親枢軸の中立国に囲まれることになる。以降、英空軍、そしてアップホルダー*67やアージ等のエース潜水艦を有する「戦う10番(The Fighting Tenth)」こと精鋭の第10潜水艦戦隊やK部隊等の英海軍がマルタ島を拠点に、イタリアからリビアに向かう枢軸側船団を荒らしまわっていた。これによって北アフリカで英軍を苦しめ続けるアフリカ軍団の戦力は大きく削がれていたわけである。
- だが1942年に入り、ベンガジをはじめ北アフリカの多くの英空軍基地が枢軸側の手に落ちたことでマルタ島への補給船団が上空援護を失うとともに、それらを発進した敵機の空襲が激化した。マルタ島への補給量はみるみる間に減り、島は物資不足に陥った。
- 島民への食料配給量は激減してしまう。果樹栽培が中心のマルタ島では主食であるパンやパスタを作る小麦粉は自給できず、戦前はイタリアから買っていたが今はそうはいかない。同様に石油の不足も深刻だった。戦うための飛行機や艦艇を動かすだけでなく、発電所・上下水道施設などのインフラ、島の主要産業全てが石油に依存していたため、石油がなければ生存すら困難だったのである。日用品を含むあらゆる物資が不足、服が破れても替えはなく、繕おうにも針と糸すら入手困難な有様。水道やガスが止まり、瓦礫から拾った木材を燃やして煮炊きした。インフラの停止で人々はめったに来ない給水車や配給所に行列を作った。ついには栄養失調から腸チフス患者すら発生した。前述のMG1作戦や、潜水艦2隻の犠牲と引き換えに潜水艦や敷設巡洋艦による「マルタ・ラン」と呼ばれた危険な輸送でわずかに物資が運ばれたが全く足りなかった。
- 空襲も深刻で、枢軸側は5月末までに2,470回もの猛爆を実施、1月1日から7月20日までに空襲がない日はたった1日しかなかった。3月と4月の2か月間だけで、バトル・オブ・ブリテンでロンドンに落ちた年間量の2倍の爆弾が、東京23区の半分ほどしかないこの島に降り注いだのである。1942年1月から7月で、島は全半壊家屋30,000戸、死者978名、重傷者1,298名を出した。廃墟と化した島で空襲と窮乏に耐え続ける島民の勇気を称え、4月にジョージ十字勲章*68が授与された。だが島民に本当に必要なのは勲章ではなく補給だった。
- 同様に激しい空襲と燃料不足から英海軍は撤退し、英空軍も敵の補給路を叩けなくなった。5月頃にはドイツ軍に補給が十分に届くようになったことで攻勢を実施、ガザラの戦いで英軍は善戦むなしく敗退、あのトブルクも陥落してしまう。エル・アラメインに落ち延びて最終防衛線を引いた英軍には、援助が届き力を蓄える時間が必要だった。そのためにもマルタ島からの敵船団攻撃の復活が必要だったのである。
ヴィガラス作戦とハープーン作戦 - 奮闘空しく作戦は頓挫する。
- 6月、マルタを救うために東西から大規模な輸送作戦が実施された。西のジブラルタルからは本国艦隊とH部隊に守られた輸送船団がハープーン作戦として出発。東のアレキサンドリアからはジャーヴィスを含む地中海艦隊が別の輸送船団を護衛してヴィガラス作戦として出発した。ヴィガラス作戦には、手持ちがない戦艦の代わりに元戦艦の標的艦センチュリオン*69や応援に駆け付けたオーストラリア海軍所属のN級の姉妹艦も加わっていた。
- しかし、結果は散々なものだった。激しい空襲によって船団は阻止され、被害ばかりが増える。N級のネスターも損傷し、ジャベリンの爆雷で処分された。結局、ヴィガラス作戦は大きな被害を出し完全に失敗、ハープーン作戦も多大な損失と引き換えに2隻の輸送船だけが到着した。
- だが、この2隻の物資でマルタ島は少しだけ生き延びる。その間マルタ総督府は、物資、特に石油が底をつく8月末までに本格的な補給が行われなければ、島民を守るために降伏することを決めた。それは地中海戦域の破滅を意味するものだった。新総督となったゴート子爵はこう語った。
「守備隊員たちは、たとえベルトの革をかじってでも頑張ることができる。だがしかし、30万の住民たちには食べ物を与えるか、さもなければ撤退させるしかないんだ」
ペデスタル作戦とMG3作戦 - マルタ島の最後の希望、オハイオを守るために囮となる。
- マルタ島を救う最後の望みをかけ、参加艦艇58隻という過去最大級の輸送作戦ペデスタル作戦が計画された。作戦に参加するWS21S船団には米英の快速輸送船13隻をかき集めたほか、一番大事な石油を運ぶ切り札として、アメリカから提供してもらったタンカー オハイオが参加した。
- オハイオは1940年にアメリカのテキサス石油会社(現テキサコ)が建造した、全長151メートル、貨油170,000バレル*70を一度に輸送可能な当時世界最大級・最新鋭のタンカーであった。建造当時アメリカは参戦していなかったが、大戦下の世相を反映し、溶接や縦横の構造材、隔壁を組み合わせた極めて頑丈な設計に加え、保安機器類も十分なものが備えられていた。艦首に3インチ高角砲と艦尾に5インチ砲が搭載されていたが、さらに作戦のためボフォース40ミリ機関砲1基とエリコン20ミリ機銃6基が追加装備された。この素晴らしいタンカーには、イーグル石油会社のダドリー・メイソン船長らイギリスのベテラン民間船員と陸海軍の操砲要員たちが乗り込んだ。
- 実はもう1隻、アメリカから大型タンカー ケンタッキーが提供されていた。だが彼女は、先のハープーン作戦で損傷、撃沈処分の憂き目にあっていたのである。
- この作戦の中核であるオハイオが沈めば、ドラム缶に詰めて他の船に積まれた程度の石油ではマルタ島を救うのは不可能、よって他の船が辿り着いたとしてもその時点でマルタ島には白旗が翻ることが確定になる。
- 船団を守る護衛部隊F部隊もすごい陣容で、ハロルド・バロー提督率いる巡洋艦と駆逐艦からなる直接護衛部隊X部隊に加え、ネヴィル・サイフレット提督が率いるビッグセブンの一角である戦艦ネルソンとロドニー、そして空母イーグル、ヴィクトリアス、インドミタブル、アーガス*71などを含む強力な間接護衛部隊Z部隊からなっていた。空母フューリアスも、島を守るスピットファイアを洋上発進させて補給する「クラブ・ラン」を行うため、ベローズ作戦として加わった。
- 強力な護衛がいるとはいえ、制空権のない海域を1,000マイルも横切る危険極まりない作戦である。しかし作戦会議後、オハイオのメイソン船長とバロー提督は作戦成功を誓い固く握手を交わしたのであった。実際の写真。
- ジャーヴィスを含む14駆ら地中海艦隊の軽巡洋艦・駆逐艦もMG3作戦を発動、東のアレキサンドリアから輸送船3隻を護衛して出撃した。続いてハイファからも別の船団が出発した。
- だが、ジャーヴィスらは本当にマルタ島へ行くつもりはなかった。東からの船団は2つとも偽物、つまりジャーヴィスらの任務とは、囮として攻撃を引き受けることでその身をもって本命のWS21S船団を守ることであった。さらに北アフリカやマルタの英空軍も、各地の枢軸側飛行場に支援爆撃を行った。
- オハイオは1940年にアメリカのテキサス石油会社(現テキサコ)が建造した、全長151メートル、貨油170,000バレル*70を一度に輸送可能な当時世界最大級・最新鋭のタンカーであった。建造当時アメリカは参戦していなかったが、大戦下の世相を反映し、溶接や縦横の構造材、隔壁を組み合わせた極めて頑丈な設計に加え、保安機器類も十分なものが備えられていた。艦首に3インチ高角砲と艦尾に5インチ砲が搭載されていたが、さらに作戦のためボフォース40ミリ機関砲1基とエリコン20ミリ機銃6基が追加装備された。この素晴らしいタンカーには、イーグル石油会社のダドリー・メイソン船長らイギリスのベテラン民間船員と陸海軍の操砲要員たちが乗り込んだ。
- だがジャーヴィスらの懸命の支援も空しく、WS21S船団は地中海に入るなり空襲・潜水艦・魚雷艇による空と海からの猛烈な攻撃にさらされる。空母イーグルがU-73に沈められたのを皮切りに、輸送船も護衛艦艇も次々沈んでいった。最終的に船団は空母1隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦1隻、輸送船9隻を失う。
- 輸送船ワイマラマに爆弾が命中、燃料に引火し巨大な火柱と共に沈んだ。生存者が焼け死ぬ寸前、一隻の駆逐艦が文字通り火の海となった海面に3度も突入、船体が焼けるのも構わず生存者27名を救い出した。この勇敢な駆逐艦はロジャー・ヒル少佐が艦長を務めるレドベリーであった。
- 8月13日に生き残った輸送船3隻が何とかマルタ島に到着。翌日には、航空魚雷の直撃で艦首が大破し落伍していた輸送船ブリスベン・スターも入港を果たした。
- ブリスベン・スターは損傷後、アイルランド人のリリー船長の指揮の元でUボートが手出ししてこない仏領アルジェリア沿岸を単独で航行。フランスの信号所の誰何や巡視船による抑留の試みを全て自力で切り抜けて到着を果たしたのである。
- 護衛部隊も計画の護衛完了地点まで到達後、引き返しつつあった。フューリアスもスピットファイアを発進させて無事に撤収。何とか作戦はうまくいっていた。オハイオを除いては。
- 一見してタンカーと分かるオハイオは集中的な攻撃を受けた。左舷中央部にイタリア潜水艦アクスムからの魚雷で大穴が開き竜骨が破断、さらに空襲で30発近い直撃弾と至近弾を受けた。3回総員退船が命じられ、実際に2回は船を離れた。甲板や上部構造物は爆弾の破片や機銃掃射でめちゃくちゃになり、撃墜された敵機が船橋に激突しその残骸が引っかかっている壮絶な光景であった。機関室は全壊、主操舵装置も破損し航行不能となったオハイオは洋上で立ち往生していた。乾舷はわずか60センチしか残っておらず、甲板からバケツで海水をすくいあげて消火に使った。弱った船体中央部はいつ折れるか分からなかった。
- 大型で重く、弱った船体は通常の方法では曳航不能だった。満身創痍の彼女を救う方法を模索していた駆逐艦ペン、ブランハム、ヒル少佐のレドベリー、そしてマルタ島から救援に来た掃海艇ライの4隻は数度の曳航失敗の後に名案を編み出す。オハイオを抱きかかえるように駆逐艦が左右から接舷してバランスを保ちながら曳航、さらにライが前方からオハイオを曳いて舵の役目をするのである。実際の写真。5隻の乗員のみならず、救助されていた沈没船の乗員も加わっての作業が始まった。オハイオ沈没の誤報も飛び交う中、これによってわずか5ノットではあったが、オハイオは少しずつマルタ島へ進み始めた。
- オハイオに止めを刺そうとする爆撃と極度の疲労と戦いながらも、やがて一行はマルタ島のスピットファイアの行動半径に入り上空援護を受けられるようになった。8月14日から15日の夜中、オハイオらはマルタ港口までたどり着く。
- ライの原隊である第17掃海艇戦隊のスピーディ、ヘーベ、ヒースの3隻の掃海艇による出迎えと前路掃海を受けながら島を取り巻く防御機雷原を通過していた時、またもや危機に直面する。オハイオ攻撃を諦めないUボートと魚雷艇が接近してきたのである。回避ができない状況下で一行に緊張が走った。
- だがオハイオらはもう孤独ではなかった。マルタ島の砲台が彼女らを守るために探照灯照射を行い、一斉に砲撃を開始した。マルタ島の砲艇隊も援護するべくオハイオらの後方に展開、これを受けて形勢不利と見た敵は撤退した。もはやオハイオを阻むものは何もなかった。
- 8月15日、マルタ島の7聖人の祝日だったこの日の朝、港を埋め尽くす大群衆の歓声や音楽隊が奏でるルール・ブリタニアの音色に迎えられ、深紅の英国商船旗を掲げたオハイオと純白の英国海軍旗を掲げた7隻の護衛艦艇はマルタ島ヴァレッタのグランドハーバーに入港を果たした。映画「マルタ島攻防戦」よりオハイオ入港シーン。
- いつ沈んでもおかしくないオハイオから、船体のバランスを保ちつつ比重差で迅速に石油を汲み出すために油槽内への海水注入が決定。石油が汲み出されるのと共にオハイオの船体は徐々に沈んでいく。そして最後の石油が抜き取られるのと時を同じくして、役目を終えたことを見届けたかのようにオハイオの巨体は着底したのであった。
- オハイオはその後船体を2分割されたうえで倉庫や兵舎として用いられた。戦後の1946年9月19日、オハイオは港外へ曳航の上で駆逐艦隊の標的として沈められ、水深140メートルの海底へ消えていった。しかしオハイオは命を懸けてマルタ島を救ってくれた英雄として今日まで称え続けられている。
- 海軍のみならず、多くの民間商船員たちの努力と犠牲でマルタ島は救われた。補給を受けてよみがえったマルタ島は再び海軍・空軍の基地として枢軸側の船団を海底に送った。その間に力を蓄えたモントゴメリー将軍のイギリス軍が、ドイツ・アフリカ軍団に対し第二次エル・アラメイン会戦で決定的勝利を収めたのはペデスタル作戦成功から2か月余り後のことである。
- オハイオのメイソン船長をはじめ、この作戦でマルタ島を救った多くの関係者が叙勲されたが、その中にはレドベリーのヒル少佐もいた。彼はその功績大として殊勲章(DSO)と賞金19ポンド18シリング4ペンスを授与、さらに3隻の駆逐艦はチャーチル首相から賞詞を受けた。
- ヒル少佐には忘れられない記憶があった。実はレドベリーを含む多くの護衛艦は、元々北極海の援ソ船団から転用された戦力だった。ペデスタル作戦直前の6月から7月のPQ17船団護衛の際、海軍の護衛艦隊はドイツ戦艦ティルピッツ出撃の誤報によって船団を離れ、船団は分散して各自でソ連の港を目指すように指示が出た。
- ティルピッツ迎撃に向かうレドベリーらだったが、いくら進んでも敵はおらず、やがて無防備になった輸送船がUボートや敵機に次々沈められつつある悲痛な通信が飛び込んできた。最終的に34隻中23隻もの輸送船が沈んだ。いわゆる「PQ17船団の悲劇」である。
- 船団を離れる時に、手を振り応援してくれた商船員たちの姿をヒル少佐は忘れることができなかった。だが彼は北極海で果たせなかった役目を、ついに地中海で果たすことができたのだ。
- このロジャー・ヒル少佐は後にジャーヴィスと重要な関わりを持つことになるのだが、この時点では本人を含め誰も知る由もなかった。
- ヒル少佐には忘れられない記憶があった。実はレドベリーを含む多くの護衛艦は、元々北極海の援ソ船団から転用された戦力だった。ペデスタル作戦直前の6月から7月のPQ17船団護衛の際、海軍の護衛艦隊はドイツ戦艦ティルピッツ出撃の誤報によって船団を離れ、船団は分散して各自でソ連の港を目指すように指示が出た。
- イタリア・シチリア島の南方にある英領マルタ島は古くから地中海の要衝として知られていた。1940年6月のイタリア参戦とフランス降伏で地中海の戦いが始まると、島は敵地か親枢軸の中立国に囲まれることになる。以降、英空軍、そしてアップホルダー*67やアージ等のエース潜水艦を有する「戦う10番(The Fighting Tenth)」こと精鋭の第10潜水艦戦隊やK部隊等の英海軍がマルタ島を拠点に、イタリアからリビアに向かう枢軸側船団を荒らしまわっていた。これによって北アフリカで英軍を苦しめ続けるアフリカ軍団の戦力は大きく削がれていたわけである。
- 8月7日、ジャーヴィスで開戦時から乗っている最後の士官ピーター・オールウィン大尉が新たな任地へ旅立つため退艦するという出来事があった。
- 8月20日、ジャーヴィスはヒーローと共にU-83に撃沈された兵員輸送艦プリンセス・マーガレットの生存者を救助、さらに爆雷攻撃でU-83を損傷させた。
- 8月29日には、イタリア魚雷艇の攻撃で大破した駆逐艦エリッジをジャーヴィスら14駆が救援し曳航、10時間に及ぶ急降下爆撃を全て回避して無事に帰還した。
- 9月13日には、ジャーヴィスらは枢軸軍占領下のトブルクへ上陸するアグリーメント作戦の陽動のためメルサ・マトルーを砲撃する。だが肝心のアグリーメント作戦そのものは大失敗に終わり、上陸したイギリス海兵隊は壊滅、防空巡洋艦コヴェントリーと駆逐艦ズールー、シークが失われてしまった。
- 10月4日、ジャーヴィスはアレキサンドリアで小改装に入る。ボイラー清掃や285型火器管制レーダーの搭載などが行われた。
- また、この頃ジャーヴィスの乗員達は接舷戦闘の訓練を行った。インド洋西部の仏領マダガスカル島へ英連邦軍が侵攻したため(ウォースパイトの記事を参照)、フランス降伏に伴いアレキサンドリアで抑留されていたフランス海軍艦艇に不穏な動きがあった場合に備えてである。だが、幸いそんな事態にはならずに済んだ。
- 11月上旬にジャーヴィスの改装は終わり、11月17日にはマルタ島の包囲が解かれて初となるマルタ島への輸送作戦ストーンエイジ作戦に加わる。
- 軽巡洋艦アリシューザが空襲で大破し駆逐艦ペタードに曳航されてアレキサンドリアへ引き返したため、ジャーヴィスとジャベリンは彼女らを護衛した後船団に戻った。
- もはやマルタ島への補給を阻止する力はドイツ軍にはなく、作戦は成功した。
- だが、帰りにジャーヴィスらは大嵐に巻き込まれる。ジャベリンとヌビアンでは浸水被害に加え、数名の乗員が波に攫われて行方不明になった。ジャーヴィスもメスデッキに浸水し、ボートを流失したが、幸い人的被害は出なかった。ジャベリンは既に連合軍に確保されていたトブルクへ避難し、ジャーヴィスらは何とかアレキサンドリアに帰着した。
- 11月27日、ジャーヴィス、ジャベリン、ケルヴィン、ヌビアンの4隻はマルタ島に到着した。第15巡洋艦戦隊の軽巡洋艦クレオパトラ、ダイドーそしてユーライアラスと共にK部隊として敵船団攻撃任務に就くためである。
- 最初のK部隊は1941年12月19日に機雷原に入り込み壊滅、さらにその後のマルタ島封鎖で活動を停止していた。1年ぶりに新生K部隊が誕生、本格的に敵船団攻撃を再開したのである。
- 12月2日、ジャーヴィスはジャベリン、ケルヴィン、ヌビアンと共に、アルバコア雷撃機により撃沈された輸送船の乗員を救助中だったイタリアの水雷艇ルポを捕捉、撃沈している。
- 12月20日には、ジャーヴィスはヌビアンと共に友軍機が発見した敵輸送船ドーラを沈めた。
- 最初のK部隊は1941年12月19日に機雷原に入り込み壊滅、さらにその後のマルタ島封鎖で活動を停止していた。1年ぶりに新生K部隊が誕生、本格的に敵船団攻撃を再開したのである。
1943年
- 1943年の年が明けても、ジャーヴィスらは敵船団捜索やマルタ島への輸送護衛にあたっていた。だが1月7日にポーランド大佐が退任し、代わって同じ14駆所属である駆逐艦パラディンの艦長A・パグスリー大佐が新司令として着任する。
- パグスリー大佐はジャベリンの初代艦長として開戦からしばらくの間7駆で戦っていたため、ジャーヴィスやジャベリンにとって馴染み深い人物だった。その後も駆逐艦フィアレスの艦長としてH部隊で戦い、同艦の沈没から生還した後パラディン初代艦長として東洋艦隊で日本軍と対峙、南雲機動部隊に沈められた重巡ドーセットシャーとコーンウォールの生存者救助もしている。そしてパラディンとパグスリー艦長は1942年6月に地中海へ戻り14駆配属としてジャーヴィスと共闘。この度パグスリー中佐は大佐への昇進と共に、14駆司令となったのである。
- 着任の日も出撃だったので、新旧の司令はジャベリンとヌビアンを従えて一緒に出撃した。そして見事スクーナー3隻を沈める。翌朝も軽巡ユーライアラスの護衛を実施、午後に帰還した後、全乗員の見送りを受けながらポーランド大佐は艦を降りた。
- ポーランド大佐は帰国後バッキンガム宮殿に呼ばれ、国王ジョージ6世から勲章を授けられた。しかも1つではなく、ノルウェー戦とトブルク周辺の活動での功績でDSO(殊勲章)2個をダブル受章したのに加え、さらにCB(バス勲章コンパニオン)も授けられた。同時にこれほどの名誉を受けたことは、ポーランド大佐もまた優れたジャーヴィスの主であったことの何よりの証である。
- 1月11日、船団護衛中のジャーヴィスらは嵐に遭遇し、波でケルヴィンの乗員1名が行方不明になる。続いてジャーヴィスでも1名が波に攫われてしまう。ジャーヴィスはしばらくの間捜索したものの見つからず、パグスリー司令は諦めて船団へ戻るように命じた。だが行方不明になった乗員は間もなく見つかった。なんとジャーヴィスの魚雷発射管の下から。気絶しており、頭部の怪我と肋骨を骨折していたが命に別条なかった。おそらく大波で艦外へ流された後で、幸運にも波でジャーヴィスの艦上に押し戻されたのだと思われた。
- 1月20日、ジャーヴィスとヌビアンは小型船2隻を撃沈。2日後には、ジャーヴィスらK部隊はチュニジアのズアラ付近を撤退するドイツ軍を砲撃し大損害を与えた。
- しばらく船団護衛を行い1月30日にアレキサンドリアに戻った際、ノルウェーのタンカーと接触するが幸い大した損傷は受けなかった。
- 2月14日、大荒れの天気の中上空援護をしてくれていたボーファイター攻撃機が、低空飛行中に大波に巻き込まれ墜落する痛ましい事故が起こった。ジャーヴィスはすぐに乗員を引き上げようとするが、波浪に翻弄されてうまくいかない。
- すると一人のオーストラリア人の乗員が勇敢にも荒れ狂う海に飛び込み、一人をジャーヴィスに引き上げた。もう一人も間もなく別の駆逐艦に救助された。残念ながらパイロットは亡くなり、ジャーヴィスの乗員によって丁重に水葬された。
- 3日後の2月17日、船団護衛を行っていたジャーヴィスらだったが、潜水艦を探知したというパラディンが突然船団を離れ爆雷攻撃を始めた。するとしばらくして本当に損傷したUボートが浮上してくる。
- ジャーヴィスとパラディンはすぐに主砲を撃ち始める。ジャーヴィスの第一斉射がUボートの司令塔に命中し、パラディンも命中弾を与えた。パグスリー司令が撃ち方止めを命じる直前、上空警戒中の南アフリカ空軍のブレニム爆撃機が爆雷2発を投下するとともに、まだ機銃で反撃していたUボートの乗員を機銃掃射で排除した。
- たまらずUボートの乗員たちは降伏した。このUボートはU-205であり、かつてヴィガラス作戦で軽巡洋艦ハーマイオニーを沈めた艦だった。図らずも2隻はハーマイオニーの仇を討つことになったのである。
- その後捕獲したU-205を戦利品として曳航したが、残念ながらそれまでの損傷に加え、乗員によって自沈工作を施されていたU-205は岸から2海里のところで沈没してしまった。
- それから2か月ほどの間、ジャーヴィスらは船団護衛と敵船団捜索を行った。
- 前年の1942年11月、アメリカ軍を中心とする連合軍が地中海の西側のフランス領モロッコとアルジェリアに上陸(トーチ作戦)した。これによって、エル・アラメインで英軍に敗れ撤退するドイツ・アフリカ軍団は東西から挟撃されることになる。以降、枢軸軍は局地的な勝利を挙げつつもチュニジアに追い詰められた。1943年5月7日には連合軍がチュニジア北部の主要港ビゼルトとチュニスを占領。最終的に5月13日、北アフリカの枢軸国軍は降伏し3年にわたった北アフリカの戦いは連合軍の勝利に終わった。
レトリビューション作戦 - 沈めろ、焼け、そして破壊せよ。
- 5月7日、チュニジアからイタリアに脱出を図ろうとする枢軸軍の船を攻撃するレトリビューション作戦が開始される。アンドリュー・カニンガム提督は単純明快な命令を全艦艇に命じた。
「沈めろ、焼け、そして破壊せよ。後には何も残すな」
(Sink, burn and destroy: Let nothing pass)
- その日ジャーヴィスはヌビアンとパラディンを従えてケリビアへの艦砲射撃任務を終えて帰投中だったが、途中で小さなゴムボートを曳いている小舟を発見した。
- 小舟にはドイツ兵13名が、ゴムボートの方にはイタリア兵4名とイギリス空軍の軍曹が乗っていた。
- 軍曹は乗っていたスピットファイアが撃墜されてゴムボートで浮いていたところ、イタリアに逃げようとしていた彼らに捕まった。ところが呆れたことに、ドイツ兵は味方のはずのイタリア兵を軍曹と一緒にゴムボートに追いやっていたのである。
- ジャーヴィスは軍曹を保護すると共に、ドイツ兵とイタリア兵も捕虜としてマルタ島へご招待した。
- 12日から15日にかけて、ジャーヴィスらは同様に小舟や筏で脱出を図る96名のドイツ兵を捕まえた。そのうちの一人が非常にうまい英語を話したので理由を聞いてみると、なんと1936年にイギリス代表と戦ったサッカードイツ代表チームの元選手だった。
- 小舟にはドイツ兵13名が、ゴムボートの方にはイタリア兵4名とイギリス空軍の軍曹が乗っていた。
- 5月19日、ジャーヴィスらはパンテッレーリア島の近くで1隻の病院船を見つけた。だがパグスリー司令は違和感を抱いた。乗っている兵士は不自然にも全員ライフジャケットを着ていたし傷病兵には見えなかった。
- パグスリー司令は思い切って臨検の実施を決める。14駆は訓練弾を込めた主砲を病院船に向けて停船させると、マルタ島へ連行した。
- ジャーヴィスの臨検隊が乗り込んだところ、案の定病院船を装ってドイツ軍部隊を輸送していたことが判明。明らかな国際法違反行為であったため拿捕、兵士たちは捕虜となった。
- パグスリー司令は思い切って臨検の実施を決める。14駆は訓練弾を込めた主砲を病院船に向けて停船させると、マルタ島へ連行した。
- 5月7日、チュニジアからイタリアに脱出を図ろうとする枢軸軍の船を攻撃するレトリビューション作戦が開始される。アンドリュー・カニンガム提督は単純明快な命令を全艦艇に命じた。
- 翌20日、長らく一緒に戦ってきた仲間ジャベリンとケルヴィンが14駆を離れ、ジャーヴィスらの見送りの元で帰国の途に就いた。彼女らは今後長期の改装に入ることが決まったからである。
- 6月1日から2日にかけて、ジャーヴィスは大きな勝利を挙げる。偵察機が敵の船団を発見したとの情報を受け、1日にジャーヴィスとヴァシリッサ・オルガの2隻は急行した。
- 日付が変わった2日午前1時半頃、スパルティヴェント岬沖でジャーヴィスの286型レーダーが敵船団を捉えた。このイタリア船団は2隻の輸送船と護衛の水雷艇カストーレ、同じく小型護衛艦X137からなっていた。
- 2隻は先手を打ち、見つかることなく2,000ヤードまで距離を詰めると一斉に攻撃を開始した。ジャーヴィスの第1斉射が輸送船に命中し炎上させ、第8斉射がもう1隻の輸送船を捉えた。
- 輸送船を片付けた後、次にX137が沈められ、最後にカストーレも袋叩きにされて炎上、沿岸へ逃れ擱座した。わずか30分あまりの戦闘で船団を片付けた2隻は離脱を開始。途中でヴァシリッサ・オルガのボイラーが故障して立ち往生しながらも、スピットファイアの援護を受けながら無事にマルタ島へ帰還した。
- 6月8日、英軍はイタリア・シチリア島侵攻の障害になるレーダー基地や飛行場があるパンテッレーリア島を攻撃。ジャーヴィスを含む駆逐艦・巡洋艦が猛砲撃を加えた。
- イタリア軍の防備は厳重だったが、10日間にわたる激しい空爆・艦砲射撃により島の防御能力は大幅に減少し、イギリス軍が島に上陸するとイタリア軍は降伏した。周辺のリノーザ島やランペドゥーザ島などの島々もすぐに陥落した。
- 上陸支援任務を終えたジャーヴィスは大急ぎでトリポリに引き返し、全員総出で隅々まで整備作業を行った。ヌビアン、ルックアウト、エスキモーと共にマルタを行幸する国王ジョージ6世の御召艦である軽巡洋艦オーロラをエスコートするためである。
- マルタ島視察後、ジャーヴィスらは無事に国王陛下とオーロラをトリポリまで護衛した。
- 大任を無事に完了した6月21日、パグスリー司令が14駆を離れることになりその任をR・クロウフォード大佐に引き継いだ。パグスリー大佐は全乗員に見送られて帰国の途に就いた。
- 7月2日、クロウフォード新司令の元でジャーヴィスらは連合軍によるイタリア・シチリア島への上陸作戦ハスキー作戦に参加した。ジャベリンらが帰国していたので12駆からP級駆逐艦の姉妹たちを編入し出撃した。
- 上陸が開始された7月10日、ジャーヴィスらは砲撃を行う戦艦キング・ジョージ五世とハウ、ネルソン、ロドニー、そしてウォースパイトを護衛。さらにジャーヴィスは海沿いの街道を撤退するドイツ軍部隊を仲間たちと砲撃して撃破した。
- この時、2台のドイツ戦車が駆逐艦ペタードと撃ち合う有名な珍事が起きた。1発がペタードの艦体を貫通して穴が開いたが特に影響はなく、ジャーヴィスらの砲撃で戦車は撤退した。
- その後もジャーヴィスらは各地で砲撃支援や護衛を続けた。8月11日、シチリアの枢軸軍の多くがイタリア本土へ撤退し、シチリアの戦いは連合軍の勝利に終わった。
- 上陸が開始された7月10日、ジャーヴィスらは砲撃を行う戦艦キング・ジョージ五世とハウ、ネルソン、ロドニー、そしてウォースパイトを護衛。さらにジャーヴィスは海沿いの街道を撤退するドイツ軍部隊を仲間たちと砲撃して撃破した。
- 9月3日にはついにイタリア本土カラブリアへの上陸作戦(ベイタウン作戦)が開始される。9月8日にはイタリア王国政府がついに降伏を発表したが、北部は進駐したドイツ軍に制圧されイタリアは南北で内戦状態となった。
- 翌9日、ジャーヴィスらはイタリアの軍港タラントを占領するスラップスティック作戦に参加した。抵抗はほぼなかったものの、第一空挺師団の兵士を輸送中の敷設巡洋艦アブディールが触雷、轟沈し多くが犠牲になる惨事が発生。ジャーヴィスも生存者の救助にあたった。
- 同日、アヴァランチ作戦によってサレルノにも連合軍が上陸。ドイツ軍の頑強な抵抗に苦戦したが、14日にはウォースパイトとヴァリアントがジャーヴィスらの護衛の元で上陸支援に加わり、艦砲射撃でドイツ軍部隊に多大な被害を与えた。
- 9月16日、支援任務中のウォースパイトをドイツ空軍が空襲しフリッツX 2発を命中させ甚大な損害を与える。ジャーヴィスらはタグボートに曳航されてマルタ島へ撤退する彼女を護衛し、さらに続けてマルタ島からジブラルタルへ向かう空母イラストリアスとフォーミダブルの護衛も実施している。以降は翌月初めまでアドリア海沿岸のイタリアとユーゴスラヴィア各地で地上支援任務を行った。
- ギリシャ南部のエーゲ海にあるドデカネス諸島は、世界七不思議の一つである「ロードス島の巨像」で有名なロードス島を中心とする約150の島々からなる諸島である。当時は、イタリア領エーゲ海諸島としてイタリアが領有していた。
- イタリアが降伏すると、イギリスはこの地域への足掛かりとして一部の島々へ侵攻を決めた。また現地のイタリア軍も多くは連合軍側についた。だが、この地域で制空権を確保できる連合軍の航空基地は不足していたし、アメリカはイタリアで戦っているのにこんなところを攻めてどうするんだと反対、協力を得られなかった。それでもイギリスは独力で作戦の実施を推し進め、9月にいくつかの島々を占領した。
ドデカネス諸島の戦い - 杜撰な作戦は悲劇を生んだ。
- ヴァシリッサ・オルガもこの戦いに派遣され敵船団を全滅させる武功を立てたが、9月26日にレロス島で空襲を受け駆逐艦イントレピッドと共に沈んでしまい、ブレスサス艦長ら多くの仲間が亡くなってしまった。*72
- 戦力も機動力も上回る強力なドイツ軍が、間もなくイギリス軍の確保した島々へ攻撃を開始した。
- ジャーヴィスも10月6日から駆逐艦パスファインダーと共に作戦に投入され、敵機の空襲をかいくぐりながら兵員や物資の輸送に従事、時には甲板いっぱいにジープや対空砲、対戦車砲を載せて運ぶ経験もした。連合軍側の飛行場があったコス島は3日前にドイツ軍の攻撃で陥落しており、もはや制空権は敵に奪われている状況だった。
- 10月16日、ジャーヴィスは駆逐艦ペン、ハースレイ、ギリシャ海軍のミアオアリスと共に、カリムノス島で駆潜艇UJ-2109と輸送船1隻を沈めた。UJ-2109は実は元イギリス海軍の掃海艇ウィドネスであった。あの忌まわしいクレタ島の戦いで空襲により擱座・放棄された後、ドイツ軍の手で駆潜艇になっていたのである。そして彼女は皮肉にもかつての仲間の手で沈められることになった。
- 10月23日から短期間の改装を行い、この時後部魚雷発射管が10.2センチ単装高角砲に置き換えられた。他の姉妹艦ではずっと前に搭載されていたが、ジャーヴィスは遅れて装備が行われた。
- 11月14日に改装を終えて再びドデカネス諸島に向かったが、もはや作戦失敗は明らかであり、2日後には主な島であるレロス島のイギリス軍・イタリア軍がドイツ軍に追い詰められて降伏してしまった。これを受けて他の島々にいる英軍は海軍の艦艇で撤退した。
- その後、ドデカネス諸島は完全にドイツ軍に占領された。英軍上陸部隊のほとんどである約4,700名が捕虜となり、イギリス・ギリシャ海軍は巡洋艦1隻、駆逐艦6隻、潜水艦2隻などを失った。イタリア軍も約45,000名が捕えられ、総督イニーゴ・カンピオーニ海軍大将ら多くの士官が報復に処刑された。島で暮らしていたユダヤ人たちも収容所に送られ、ほとんどが生きて帰ることはなかった。
- 政治的な理由から杜撰な作戦を強行した結果、制空権のない中で多くの艦や兵士たちが犠牲となるというノルウェー、ギリシャ、クレタ島などで起きた悲劇が再び繰り返されたのである。
- 12月11日、ジャーヴィスはペン、パスファインダーと共にテヘラン会談およびカイロ会談に出席したチャーチル首相が乗る軽巡洋艦ペネロピを護衛した。だが、ジャーヴィスをはじめ各艦の乗員はみんな心の中で首相に伝えたいと思っていたという。彼らがドデカネス諸島で何を経験したのか、そしてどれだけの仲間が失われたのかということを。
- ヴァシリッサ・オルガもこの戦いに派遣され敵船団を全滅させる武功を立てたが、9月26日にレロス島で空襲を受け駆逐艦イントレピッドと共に沈んでしまい、ブレスサス艦長ら多くの仲間が亡くなってしまった。*72
- イタリアが降伏すると、イギリスはこの地域への足掛かりとして一部の島々へ侵攻を決めた。また現地のイタリア軍も多くは連合軍側についた。だが、この地域で制空権を確保できる連合軍の航空基地は不足していたし、アメリカはイタリアで戦っているのにこんなところを攻めてどうするんだと反対、協力を得られなかった。それでもイギリスは独力で作戦の実施を推し進め、9月にいくつかの島々を占領した。
- ドデカネス諸島の戦いを生き延びたジャーヴィスだったが、11月16日にクロウフォード司令が異動することになり、代わってH・ヘンダーソン大佐がジャーヴィスと14駆の新司令に就任した。
- 両者はびっくりするほど対照的な人物だった。クロウフォード大佐が小柄で物腰の柔らかい紳士ならば、ヘンダーソン大佐は大柄で粗野、活動的な人物だった。入港時は誰よりも先に上陸し、出港時は誰よりも後に帰艦してくるジャーヴィスの歴代司令で最も奔放な司令だったという。
- 彼の指揮の元で12月28日、J級の姉妹艦であるジェーナスと共にアレキサンドリアを出港、イタリアの港町ブリンディジへ向かう。イタリア中西部アンツィオへの上陸作戦に参加するためである。ジャーヴィスを除けば、もはやJ級の姉妹で生き残っているのはジェーナスと本国で改装中のジャベリンの2隻しかいなかった。
- 1943年の大晦日にブリンディジへ到着したジャーヴィスとジェーナスは待機に入る。だが、アンツィオでジャーヴィスの幸運が試される事態が再び訪れることをヘンダーソン司令以下乗員たちは誰一人予想していなかったのである。
1944年
- ジャーヴィスとジェーナスは夜間空襲と対空砲火の曳光弾の煌めきに彩られる中1944年の正月を迎えた。ジャーヴィスの乗員たちは、隣に停泊しているリバティ船が荷下ろしした物資から銀蝿してきた各種生鮮食品のご馳走と、配給分をごまかして密かに貯蔵していたラム酒を用いて作ったグロッグで新年を祝った。
- ジャーヴィスらはしばらくの間、敵戦線の背後で破壊活動を実施して大きな成果を挙げた。
- 3日から4日にかけてペサロの街を夜間砲撃したほか、6日夜には冬の嵐の中でスクーナー3隻を沈め、海岸沿いの線路を走っていた列車2編成を艦砲射撃で大炎上させる。それから高角砲から発射した照明弾の明かりの元で、シヴィタ・ノヴァにある敵の集積物資と操車場を焼き払った。そのまま間髪入れずアンコナ沖に移動して操車場と沿岸砲台を破壊した。
- この戦果の帰路、ヘンダーソン司令は戦闘における乗員の冷静さと勇気を養うために、なんとジャーヴィスを機雷原に進入させた。その数十分の緊張は十分に効果があった。実は機雷原はイギリス海軍が敷設したもので位置は把握していたとはいえ、ヘンダーソン司令の豪胆さを表すエピソードの一つである。
- 21日には軽巡洋艦オライオン以下と共に、ガリリャーノ川の激戦で渡河するイギリス軍を猛烈な砲撃で支援した。
- 前年から続くイタリア本土の戦いで連合軍は南部から北部へと進撃していたが、イタリア中部にドイツ軍が築いた強力な防衛線「グスタフ・ライン」によって足止めを受けていた。そこで背後のアンツィオとネットゥーノへ上陸し、ローマへ進撃する「シングル作戦」が実施されることになった。
アンツィオ上陸作戦 - 誘導爆弾からの奇跡的生還。
- 1月22日、5隻の巡洋艦、24隻の駆逐艦の援護を受け、兵員40,000名および5,000台以上の車両がアンツィオとネットゥーノに上陸を開始、ジャーヴィスもジェーナスを連れてアンツィオへの上陸支援に参加する。
- 砲撃で上陸部隊を援護した後、煙幕を張って船団を敵機から隠した。上陸が一段落すると、今度は夜通し敵魚雷艇に対する警戒を実施した。
- 翌23日も砲撃支援を行い、散発的な敵の反撃でジェーナスに至近弾があったものの被害はなかった。2隻はその日の夜も敵魚雷艇への警戒を行っていたが、その時それはやってきた。
- ジャーヴィスとジェーナスはドイツ空軍機の空襲に見舞われた。その時2隻を攻撃したのは、かつてMG2作戦でジャーヴィスの僚艦を全滅させたLG 1(第1(爆撃)飛行隊)だった。そしてこの時のLG 1の司令官こそ、中佐となっていたあのヘルビッヒ大尉だったのである。LG 1は11機を失いながらもアンツィオへの上陸部隊を攻撃するために飛来し、発見した2隻の駆逐艦、ジャーヴィスとジェーナスに無線誘導爆弾ヘンシェル Hs 293を放った。
- ヘンダーソン司令は直ちに戦闘配置と全速を命じ、回避を始める。直後、ジェーナスにHs293が命中し2番砲弾薬庫が誘爆、目が眩むほどの閃光と共に爆沈した。*73そして数分後、ジャーヴィスの艦首部にも直撃し大爆発が起きた。
- だが煙が晴れた時、そこには艦首を失いつつも健在なジャーヴィスがいた。1番砲の少し前、第9フレームから前をすべて失い、錨鎖庫、清水タンク、塗料庫などが丸ごと無くなったが艦の主要部は無傷だった。
- さらに信じられないことに、これほどの被害にもかかわらず全乗員が無事だった。ちょうど1番砲の陰(つまり被弾箇所のすぐ横)で一服しようとしていた乗員がいたが、彼すらもかすり傷一つ負わなかった。訳が分からないよ・・・。
- ジャーヴィスは艦首部の消火作業を行うと共に、ボートや縄梯子を下ろしてジェーナスの生存者救助にあたった。だが、ジェーナス乗員の被害は大きく生存者82名に対し犠牲者は艦長モリソン少佐を含む158名に上った。
- こうしてJ級の姉妹はまた1隻減ってしまった。しかし「ラッキー・ジャーヴィス」の幸運は、また彼女の乗員達を守ったのである。ジャーヴィスは生存者の救助後にナポリへ後退していった。
- 1月22日、5隻の巡洋艦、24隻の駆逐艦の援護を受け、兵員40,000名および5,000台以上の車両がアンツィオとネットゥーノに上陸を開始、ジャーヴィスもジェーナスを連れてアンツィオへの上陸支援に参加する。
- 翌日、駆逐艦グレンヴィルの艦長ロジャー・ヒル少佐は、ヘンダーソン司令に呼び出されナポリ港の岸壁に停泊する艦首のないジャーヴィスを訪れた。そして彼はヘンダーソン司令からこう告げられた。
「海軍本部と打ち合わせた結果なんだが、司令官とも相談し、こんど、わしが君の艦に行くことになった」
- 駆逐艦グレンヴィルは戦時急造駆逐艦U級の嚮導艦*74だったが、同型艦が揃わないために通常の駆逐艦として用いられていたのである。そして損傷したジャーヴィスの代わりに、グレンヴィルをヘンダーソン司令が旗艦にすることになったのだ。
- ヒル少佐はレドベリー艦長を退任後、短期間訓練施設の教官を務めた後にグレンヴィル初代艦長として全体の84パーセントが海上未経験という段階から乗員を鍛え上げた。そしてHs293の波状攻撃や戦略物資を積んだ敵潜水艦撃沈、敵駆逐艦との2度にわたる死闘といった大冒険を経験してきた。その大切なグレンヴィルと乗員をあっさり取り上げられたことに内心怒ってはいたが、一介の少佐が決定に反対などできるはずもなく数人の士官と1匹の犬を連れてジャーヴィスに移ることになった。
- この件でヒル少佐はヘンダーソン司令に相当悪印象を抱いたらしく、名前こそ出さないものの著書の中で彼をかなり否定的に記述している。
- ヒル少佐はレドベリー艦長を退任後、短期間訓練施設の教官を務めた後にグレンヴィル初代艦長として全体の84パーセントが海上未経験という段階から乗員を鍛え上げた。そしてHs293の波状攻撃や戦略物資を積んだ敵潜水艦撃沈、敵駆逐艦との2度にわたる死闘といった大冒険を経験してきた。その大切なグレンヴィルと乗員をあっさり取り上げられたことに内心怒ってはいたが、一介の少佐が決定に反対などできるはずもなく数人の士官と1匹の犬を連れてジャーヴィスに移ることになった。
- 一方、不満はあったが、マック大佐ら高名な諸先輩の跡を継いで既に幸運艦・武勲艦としてその名を知られていた「ラッキー・ジャーヴィス」の艦長となることを誇らしくも思った。そしてジャーヴィスの乗員たちもジャーヴィスの幸運を信じ、高い自信と練度を持っていた。ヒル少佐は後に記している。
「<ジャーヴィス>は、” Lucky Jervis(幸運なジャーヴィス)”としても知られていた。(中略)彼女がモノスゴイ幸運艦であることの証拠は、アンツィオ沖での、あの空襲に明らかだ。(中略)幸運艦の太鼓判を押されたフネに乗るのは有り難い。本艦は絶対に沈まない、という信念が乗員全部に行き渡っており、それは確実に士気を高めていた。」
- グレンヴィルから移った士官もすぐにジャーヴィスの乗員達と馴染み、煙突の旗艦塗装を消されたジャーヴィスは、ヒル新艦長の元で通常の駆逐艦として再出発したのである。
- ジャーヴィス艦長となったヒル少佐が最初に頭を抱えたのは、前任者たちの書類整理がいい加減なことだった。だが彼は書類が全て艦首と一緒に吹っ飛んだという言い訳を思いついて乗り切った。
- 1月30日、対潜能力を持つ掃海艇カドマスを護衛に引き連れて艦首の修理のためナポリを出港した。破損部分を補強して排水ポンプを取り付けたとはいえ、安全のために10ノットでノロノロと中継地ビゼルトへ向かう。途中、無人で漂流中の米軍上陸用舟艇を発見して曳航しながら翌日無事に到着した。
- そこの司令官が親切にしてくれたので、例の上陸用舟艇をお礼に進呈したところ非常に喜んでくれた。
- さらに輸送船団に加入したジャーヴィスは2月5日にジブラルタルへ到着した。ところが、本国に帰還して修理すると思っていたところジブラルタルで艦首を治すように指示が出た。
- がっかりする一同だったが、幸いヒル艦長ら海外勤務の長い乗員は一時帰国が認められ、残りも現地の陸軍工兵隊が親切にも兵舎を間借りさせてくれたためそれなりに楽しく過ごすことができた。また一部の乗員は入渠中のウォースパイトを宿舎にしたという。さらに吉報として、ヒル艦長はグレンヴィル時代の功績からDSC(殊勲十字章)が授与されることになった。
- 4月11日、2か月にわたる修理を終え新たな艦首を装着したジャーヴィスは公試を行ったが、その際滞在中のお礼に工兵隊を体験乗艦させてあげた。
- だが、出港直後に工兵隊長が乗り遅れていることが判明。隊長は手を振りながら必死に追いかけてきたものの、結局置いてけぼりを食らうことになってしまった。
- ジャーヴィスは復帰後、駆逐艦ラフォーレイ*75を旗艦とするH・アームストロング司令の指揮下に入ることになっていた。「鉤鼻」のあだ名を持つ経験豊富な大佐であり、ヒル艦長も尊敬する彼の下で働くのを楽しみにしていた。
- 帰港後、今やジブラルタルおよび北大西洋管区司令官となっていたハロルド・バロー提督がジャーヴィスを視察した。だが彼の口から伝えられたのは、前月末に手負いのUボートが発射した音響追尾魚雷によってラフォーレイが沈み、アームストロング司令も戦死したという悲報だった。
- そしてバロー提督は新たな命令を下した。それはラフォーレイに代わって、来るべき大陸反攻作戦ノルマンディー上陸作戦への参加であった。
- 4月17日にジブラルタルを出港したジャーヴィスはイギリス本国プリマスを目指す。途中、墜落機の乗員を捜索していたサンダーランド飛行艇が漂泊しているのに遭遇し捜索を手伝ったりしつつ24日に到着。
- 停泊中に、ヒル艦長の妹が艇長を務める海軍婦人部隊の港内艇が郵便配達に訪れるサプライズがあり、ヒル艦長は肉親との再会を喜んだほか、乗員は水兵服姿の少女隊員たちに山ほど物資をプレゼントした。
- プリマスを発った後、道中で爆雷漁をして新鮮な魚を捕りつつ猛烈な時化の中ドーバー海峡を北上したジャーヴィスはスカパ・フローへ向かう。そして本国艦隊へ編入された後、現地で徹底的な予備訓練を行った。
- 5月23日、ジャーヴィスはポーツマスに到着、8駆の駆逐艦フォークナー、フューリー、アイシスと共に上陸支援部隊G部隊に配属される。既にポーツマスの港は上陸作戦に参加する無数の艦艇で埋め尽くされており、ヒル艦長らにこれから行われる作戦の規模を実感させた。
- ジャーヴィスは砲身内筒の交換とボイラー清掃を行い、ギリギリまで作戦計画の調整に明け暮れた。ジャーヴィスの砲術長はベルギー人であり、二度の大戦で祖国を占領したドイツに激しい敵意を抱いていたが、6月4日に悪天候で作戦が24時間延期になると非常に残念がった。
- しかしそれ以上の延期命令は来ることなく、6月5日の夜にヒル艦長は命令簿に記入した。
「1850出港用意、抜錨。諸君の武運を祈り、合わせてこれまでの諸君の忠誠と士気旺盛なる海上勤務に感謝す」
- 5月23日、ジャーヴィスはポーツマスに到着、8駆の駆逐艦フォークナー、フューリー、アイシスと共に上陸支援部隊G部隊に配属される。既にポーツマスの港は上陸作戦に参加する無数の艦艇で埋め尽くされており、ヒル艦長らにこれから行われる作戦の規模を実感させた。
ノルマンディー上陸作戦 - 史上最大の作戦に参加する。
- 6月6日の夜明け前、ジャーヴィスらは揚陸指揮艦ブロロら船団を護衛して英軍上陸地点ゴールド・ビーチを目指した。海面は艦隊で埋め尽くされ、上空は爆撃機や空挺部隊を乗せた輸送機がひっきりなしに通過していた。戦闘艦約330隻、揚陸艦艇約4,100隻、航空機約7,000機という人類史上最大の艦隊が、「大西洋の壁」と呼ばれたドイツの沿岸防衛線を突き崩すべく真っ直ぐノルマンディーに向かっていた。
- 午前6時25分、ジャーヴィスは初めてフランスの地に主砲を放った。砲台からの反撃で至近弾を受けつつも砲撃を続け、午前7時30分から上陸が開始された。
- 同乗している陸軍の連絡士官を介し現場の観測員と連携しながらジャーヴィスは正確な砲撃を行い、反撃する敵の火点を潰していった。敵機の散発的な攻撃はあったものの、上陸初日は無事に完了し連合軍はノルマンディーに橋頭堡を築いたのであった。
- この時ジャーヴィスにはダズル迷彩の生みの親として有名な海洋画家ノーマン・ウィルキンソン氏が同乗しており、その時のスケッチを基に砲撃するジャーヴィスと上陸用舟艇の雄姿を描いた作品「HMS 'Jervis', Normandy Landings, 6 June 1944」を残している。
- 2日目には、戦艦ロドニーと損傷の修理が終わらないまま戦場に戻ってきた「オールド・レディ」ウォースパイトの2隻が現れ敵を徹底的に砲撃していった。
- 午前6時25分、ジャーヴィスは初めてフランスの地に主砲を放った。砲台からの反撃で至近弾を受けつつも砲撃を続け、午前7時30分から上陸が開始された。
- 戦闘が内陸に移っていったことで、ジャーヴィスらの任務は砲撃支援から対空援護と敵魚雷艇に対する警戒に比重が移っていった。外周を警戒する味方のMTB(高速魚雷艇)を突破した敵魚雷艇をジャーヴィスら駆逐艦隊が対応するのである。ジャーヴィスは2週間ほど揚陸地域に展開した後、ポーツマスに戻り整備と補給というシフトで活動を続けた。
- だが、最も深刻なのは機雷による被害だった。もともと敵が敷設していた機雷に加え、飛来する敵機も大量にばら撒いていった。
- 船団にも多くの被害が出る。ジャーヴィスの目の前でリバティ船が真っ二つになって沈んだり、ウォースパイトやネルソンなども触雷被害にあった。ジャーヴィスは敵の砲撃と触雷の危険の中で掃海作業を行う掃海艇隊を、砲撃や煙幕で援護した。
- 6月17日、補給のためポーツマスに向かっていたジャーヴィスは気づかずに音響機雷原の真上を通過、6発が次々と爆発してしまう。普通なら沈没もありうる危険な事態だが、「ラッキー・ジャーヴィス」は30ノットの高速だったためか3番砲の右砲身が衝撃で故障した以外は大きな影響を受けなかった。
- 2日後には嵐で流された米軍のリバティ船がジャーヴィスに衝突する事故を起こした。しかし、ボートが破壊され外板にかなり損傷を負ったもののかつてのトール衝突事故のようにはならず、戦闘続行に支障はなかった。そのため後日帰港、修理するまで作戦を続けた。
- だが、最も深刻なのは機雷による被害だった。もともと敵が敷設していた機雷に加え、飛来する敵機も大量にばら撒いていった。
- 7月1日のこと、軽巡洋艦ベルファストの近くに展開していたジャーヴィスに、ベルファストから発光信号が送られてきた。信号長曰く、ヒル艦長が中佐に昇進したという。
- 艦橋にいた一同は大喜びしたが、やがてそれは落胆に変わった。何のことはない、「進級者のリストをうまく受信できなかったので教えてほしい」という意味でベルファストがジャーヴィスに送った信号を勘違いしたのだった。
- チャンネル諸島はフランスのコタンタン半島西部にあるイギリス王室直轄領、すなわちイギリス国王の領地として独自の憲法・法律を持つイギリスであってイギリスではない地域である。
- 1940年にフランスが降伏すると、フランスに近いチャンネル諸島はドイツ軍によって占領され、以降大勢のドイツ軍が駐留しいくつかの島が要塞化された。だが、ノルマンディー上陸作戦とそれに続く地上戦でコタンタン半島が連合軍に制圧されたことでチャンネル諸島は孤立することになった。
チャンネル諸島戦闘哨戒 - 激しい砲撃を生き延びる。
- 8月12日、ポーツマスを出撃したジャーヴィスは戦闘名誉章11個の武勲艦として知られるF級嚮導艦フォークナーと共に戦艦ロドニーを護衛、ロドニーはチャンネル諸島オルダニー島の敵砲台を16インチ砲で艦砲射撃した。
- チャンネル諸島に戦略的重要性は全くなかったので、包囲だけして兵糧攻めすればいいというのがヒル艦長ら末端から指導部に至るまで連合軍の共通認識だったし、実際に終戦までそうなった。しかし、この時米海軍の指揮官は軍事行動を主張しジャーヴィスとフォークナーに哨戒を命じたのである。特にジャーヴィスは敵砲台のあるジャージー島とガーンジー島の間を航行し、敵艦船を捜索する危険極まりない任務が与えられた。
- ヒル艦長の親友であるフォークナーのチャーチル艦長が心配したが、ヒル艦長はジャーヴィスの幸運を信じ、渋々この何の意味もない危険な任務へと出撃した。
- 8月17日の夜、ジャーヴィスはジャージー島、ガーンジー島、オルダニー島の3島の間を26ノットで通過した。そして、予想通りにレーダーでジャーヴィスを発見した3島の敵砲台が一斉に砲撃を始めた。
- 周囲に次々と水柱が立ち、数発は至近弾となった。ヒル艦長は煙幕を張りながら離脱を命じる。油の入った桶や発煙筒などを乗せた囮の筏に火をつけて流すが、ドイツ軍はそれを見破りジャーヴィスに激しい砲撃を続ける。大小あらゆる砲が全ての方向からジャーヴィス1隻を狙っていた。
- そこでヒル艦長は30ノットに急加速させて敵の照準を狂わせる作戦に出た。こちらはうまくいき、砲弾は全て航跡の中に落ちた。
- だが、全速力で逃げるジャーヴィスに海軍本部から緊急電が入る。先日ジャーヴィスのタービン翼から採取したサンプルを調べたところ、劣化が酷くタービン翼が全部脱落する恐れがあるので高速は出さないように、という非常に空気の読めない内容であった。
- 当然速度を落とすわけにもいかず突っ走ったが、幸運にも砲弾は1発も当たらず、そしてタービンも壊れないままついに敵砲台の射程外へ脱出に成功した。戦闘開始から36分後のことであった。
- ジャーヴィスは艦体のあちこちに砲弾の破片が突き刺さり、艦尾では爆雷が裂けて炸薬が漏出している危険な状況だった。しかしここでもジャーヴィスの幸運は乗員を無傷のまま切り抜けさせたのであった。しかも彼女が狙われたことで、フォークナーの方には全く攻撃はなかった。結果としてジャーヴィスはフォークナーも守ったのである。
- 周囲に次々と水柱が立ち、数発は至近弾となった。ヒル艦長は煙幕を張りながら離脱を命じる。油の入った桶や発煙筒などを乗せた囮の筏に火をつけて流すが、ドイツ軍はそれを見破りジャーヴィスに激しい砲撃を続ける。大小あらゆる砲が全ての方向からジャーヴィス1隻を狙っていた。
- その後しばらくの間ジャーヴィスは周辺海域で活動したが、9月上旬に長期修理と近代化改装のために退役することになった。それは乗員たちの別れを意味するものでもあった。
- 包帯などで作った手製の解役旈をなびかせながら戦場を去るジャーヴィスを、ウォースパイト、フォークナー、そしてグレンヴィルといった艦艇、さらには陸上施設の人々までが祝福の信号や万歳の声で見送ってくれた。
- 9月8日、ジャーヴィスはベルファストに到着した。お別れパーティーとして、酒保の剰余金でホールを借り切ってダンスパーティーを行った。
- 楽しいパーティーだったが、ふとヒル艦長は疎外感を感じた。急にジャーヴィスに移ってきた自分は本当の意味で乗員として受け入れられたわけではないのだろう、と。
- だが、それは杞憂に過ぎなかった。別れが近づいた数日後の昼食時、彫刻入りの立派な銀のタンカード*76を士官たちが照れくさそうに差し出した。ヒル艦長への惜別と感謝を込めてサプライズプレゼントを用意していたのだ。それにはこう刻まれていた。
「DSO(殊勲章)、DSC(殊勲十字章)を授けられたるロジャー・ヒル海軍少佐殿へ。敬愛のしるしとして士官一同より。 H.M.S.ジャーヴィス 1944年9月」
- ヒル艦長の目に涙が込み上げてきた。
- ジャーヴィスは1944年10月から翌1945年5月にかけて長期の修理と近代化改装に入った。
1945年と戦後
- ジャーヴィスは1945年5月8日のVEデー(ヨーロッパ戦勝記念日)をドックで迎えた。ドイツの降伏によって欧州の戦いは終わったのである。
- 前年10月から1945年5月にかけて行われた改装で、ジャーヴィスには293型対空レーダーやIFF付き291型警戒レーダー、FM7 MF/DF、HF/DF(短波方向探知機)などの新型電波兵装が搭載された。また、それらの重量に耐えられるようにマストが三脚マストから近代的なラティスマストへ改修されたほか、高角砲が下ろされて後部魚雷発射管が復活するなど大きくその姿を変えた。改装後の姿(ホワイトエンサイン社のイラスト)。
- 5月中旬に改装を終えたジャーヴィスは乗員の再編成と公試を行う。「ハンサム・ランサム」の綽名で知られた新たな艦長G・ランサム中佐を迎え、6月3日にジブラルタルへ向けて出港した。
- 途中、ドイツ降伏により自沈したU-1227の乗員47名がポルトガルの駆逐艦ダンに救助され抑留されていたため、リスボンに寄港して彼らを捕虜とした。6日にマルタ島へ到着し、捕虜を下ろした後で第14駆逐艦戦隊に復帰した。
- だが、到着後2週間程で早くも艦長はM・クリクトン中佐に交代した。ジャーヴィス最後の主となった彼の元で、ジャーヴィスはいまだ戦争が続く極東へ派遣され、イギリス太平洋艦隊に加入して日本と戦う予定だった。だが、1945年8月15日に日本が降伏したことで派遣は取りやめとなる。
- 6年弱も続いたジャーヴィスの戦争はついに終わりを告げた。開戦時、イギリス海軍は旧式艦を含む170隻の駆逐艦を保有していたが、大戦終結までに実に159隻のイギリス駆逐艦が戦火に散った*77。損耗率は開戦時保有隻数の94パーセントという高率に上る。北極海、北海、地中海からインド洋や太平洋まで、あらゆる戦場でイギリス駆逐艦は奮闘し沈んでいったのである。
- そしてジャーヴィスのJ級も8隻中6隻が戦没し、K級も8隻中6隻、N級は8隻中1隻を失った。姉妹24隻のうち13隻を亡くしながらも、ついにジャーヴィスは生き残った。その乗員たちを1人も失うことなく。
- 間もなく14駆は戦時急造のCh級駆逐艦に置き換えられ、嚮導艦チェッカースを旗艦にチャプレット、シェブロンの第13駆逐隊が主力となった。戦前計画艦のジャーヴィスはジャベリンと2隻だけで、ひっそりと第14駆逐隊を編成した。
- 1945年9月15日、ロードス島にいたジャベリンで理不尽な命令が原因で抗命事件が発生し、ジャーヴィスはジャベリンをマルタ島へ護送した。ジャベリンの抗命者らは海兵隊と陸軍部隊に連行されて軍法会議にかけられたが、結果として軽微な処罰で済んだ。
- 1946年1月、ジャーヴィスらはエジプト王国海軍が購入したMTB(高速魚雷艇)をマルタ島からアレキサンドリアへ回航することになった。各艦2隻ずつを曳航することになったが、その時周辺海域は嵐の真っただ中だった。しかしクリクトン中佐の反対にもかかわらず司令部から出港命令が出される。
- 1月25日に出港した14駆だったが、思った通りそれから36時間以内に全ての魚雷艇が波浪で沈んでしまった。送り先はエジプトではなく海底になったが、幸いにも魚雷艇に乗っていた回航要員は全員が救助された。
- 同じ嵐で兵員輸送船グラディスカがクレタ島南方の島に座礁する事故が起きたため、ジャーヴィスらは救援活動に参加している。
- 以降ジャーヴィスらは翌年まで、演習を行うと共に中東の港を訪れてイギリスのプレゼンスを示した。戦争が終わり、世界は大きく変わりつつあった。地中海沿岸の各地で民族運動が高まりつつあったし、迫害を生き残ったユダヤ人たちは移民船で祖先の地パレスチナを目指していた。
- 1946年5月25日には、ジャーヴィスが婦女子を含むユダヤ人約220名が乗った不法移民船を発見、その船は食料や水の不足でひどい状況だったため保護の上でハイファへ連行しパレスチナ警察に引き渡した。
- 1946年5月9日、ジャベリンが退役のためマルタ島を発った。ジャーヴィスもついに退役が決定し、6月30日にイギリス本国へ向けてマルタ島を出発、大戦の多くの期間を過ごした地中海を去ったのである。
- 既にイギリス海軍は大戦中に増え過ぎた艦艇の整理を進めており、戦後の駆逐艦・フリゲートは改修した戦時急造艦と新造艦を主力とし、ジャーヴィスを含む戦前計画艦は速やかに退役させる方針を決めていた。海軍も変わりつつあったのだ。
最期
- ジャーヴィスはチャタムに到着後予備役に編入され、グリーノックで士官候補生たちの係留練習艦として使用された。もはや彼女が自らの力で航行することは二度となかったのである。1947年10月にジャーヴィスは廃棄が決定、戦争を生き残った姉妹艦ジャベリン、ケルヴィンそしてキンバリーと共に生涯最後の命令が下される。
- それは水中爆発の実験に標的艦として用いられた後、スクラップとして処分されるというものであった。
- 翌1948年7月23日から9月21日にかけて、ジャーヴィスはストリベン湖で実験に供された。
- 1度目の実験はほとんど損害を与えなかったが、2度目の実験では13段階に分け少しずつジャーヴィスに近づけて行われた爆発によって艦体に大きな亀裂が生じた。
- 他の姉妹艦3隻も同様に実験を耐え抜いた。
- 戦火と実験を耐え、消えかけた艦番号G00のジャーヴィスは、1949年1月21日にブリティッシュ・アイアン・アンド・スチール・コーポレーション(BISCO)にスクラップとして売却された。その後同年9月にアーノット・ヤング社の手でトルーンに曳航後、同地にて解体されジャーヴィスはその生涯を終えた。
- スクラップという最期は、武勲艦ジャーヴィスにとってあまりに味気ないものだったかもしれない。しかし、英海軍艦艇で第二位となる戦闘名誉章13個の輝きと、常に一人も乗員を欠くことなく戦場から還ってきた「ラッキー・ジャーヴィス」の幸運だけは今もなお戦史に残り続けている。
- 2018年現在、未だその名を受け継いだ艦は現れていない。
ラッキージャーヴィス
Jervisは幸運な艦とされていた(不運な艦とされる姉妹艦であるケリーとは対照的である)。 5年半の戦争と13の主要な戦いに参加した激しい戦歴であったにもかかわらず、乗員が一人も戦死していないというユニークな記録を持っている。1944年1月のアンツィオでの戦いでの出来事はその幸運さの一例かも知れない。ジャーヴィスと彼女の姉妹艦ジェーナスは、上陸作戦の砲撃支援中、空対艦ミサイルの始祖というべき存在であるHs 293で攻撃され、両艦とも命中。 ジェーナスは前部弾薬庫に誘爆し沈没、160人近くの乗組員を失った。 ジャーヴィスも艦首が吹き飛ばされ、安全のために艦尾を前にして曳航された。驚いたことに、この事件でジャーヴィスの乗員は一人も傷つくことはなく、彼女はジェーナスの乗組員の80人以上を救助することができた。
Battle honours
1.<地中海 1940-44> 2.<リビア 1940-42> 3.<マルタ輸送船団 1941-42> 4.<マタパン 1941> 5.<スファックス 1941> 6.<クレタ 1941> 7.<シルテ 1942> 8.<シチリア 1943> 9.<サレルノ 1943> 10.<エーゲ海 1943> 11.<アドリア海 1944> 12.<アンツィオ 1944> 13.<ノルマンディー 1944>
- 以上13個。ジャーヴィスと共に地中海で戦った軽巡洋艦オライオンと駆逐艦ヌビアンだけがこの記録に並び、2度の世界大戦に参加した地中海艦隊旗艦、戦艦ウォースパイトただ1隻だけが合計15個(第一次大戦で1個、第二次大戦で14個)で上回る。
- 多数を獲得した艦はほとんどなく、他に軽巡洋艦シェフィールド、駆逐艦ターターが12個、駆逐艦フォークナー、ファーンデールが11個を獲得した程度である。
参考資料
参考にした文献・サイトは以下の通り。
- 「世界の艦船1994年2月号増刊・イギリス駆逐艦史」(海人社刊 1994年)
- 「世界の艦船2016年6月号増刊・第2次大戦のイギリス軍艦」(海人社刊 2016年)
- 「【歴史群像】欧州戦史シリーズ Vol.5 北アフリカ戦線」(学研刊・1998年)
- 「【歴史群像】欧州戦史シリーズ Vol.8 ノルマンディー上陸作戦」(学研刊・1999年)
- M.J.Whitley著・岩重多四郎訳「第二次大戦駆逐艦総覧(原題:Destroyers of World War Two : an international encyclopedia)」(大日本絵画刊 2000年・原著1988年)
- 岡部いさく著「英国軍艦勇者列伝」(大日本絵画刊 2012年)
- Roger Hill著・雨倉孝之訳「死闘の駆逐艦(原題:Destroyer Captain)」(朝日ソノラマ刊 1991年・原著1975年)
- Peter Shankland・Anthony Hunter共著・杉野茂訳「マルタ島攻防戦(原題:MALTA CONVOY)」(朝日ソノラマ刊 1986年・原著1961年)
- Peter Smith著・ 野田昌宏訳「第二次世界大戦ブックス〈59〉 ユンカース急降下爆撃機―ドイツ空軍の電撃兵器(原題:STUKA AT WAR)」(サンケイ新聞社出版局刊 1974年・原著1971年)
- G.G.Connel著「Mediterranean Maelstrom -HMS Jervis and the 14th Flotilla-」(William Kimber & Co Ltd.刊 1987年)
- Christopher Langtree著「The Kelly’s British J, K and N Class Destroyers of World War II」(Naval Institute Press刊 2002年)
- John English著 「Amazon to Ivanhoe -British Standard Destroyers of the 1930s-」(World Ship Society刊 1993年)
- Lt Cdr Geoffrey B Mason RN (Rtd)著 Naval-History.net「HMS JERVIS (F.00) - J-class Flotilla Leader」(2004年)
???「ジャービスよ!お前の運を、儂にくれや~っ!!・・・(こと切れる提督)orz」 -- 2024-09-08 (日) 14:43:39