屋代

Cached: 2024-11-02 20:54:44 Last-modified: 2024-10-06 (日) 01:37:40
No.412
412.png屋代(やしろ)御蔵型 6番艦 海防艦
艦船ステータス(初期値/最大値)
耐久9火力4 / 16
装甲4 / 16雷装0
回避39 / 81対空9 / 37
搭載0対潜40 / 79
速力低速索敵3 / 15
射程20 / 80
最大消費量
燃料10弾薬10
装備
12cm単装高角砲E型
25mm連装機銃
装備不可
装備不可
改造チャート
屋代屋代改(Lv45)
図鑑説明
御蔵型海防艦六番艦、屋代です。マル急計画で生まれました。
苦しいヒ船団の護衛や対潜掃討、戦後は機雷掃海任務、そして、引き渡し後は正安として、対馬と共に戦いました。
屋代、覚えていてください。

※初期値はLvや近代化改修の補正を除いた時の数値であり、改造直後の値とは異なります。
最大値はLv99の時の最大値を指します。

CV:松岡美里、イラストレーター:A士 (クリックするとセリフ一覧が開きます)

CV:松岡美里、イラストレーター:A士

定型ボイス一覧

イベントセリフ改装段階備考追加


 
 



 
追加
入手/ログイン御蔵型海防艦、六番艦、屋代。参ります。
どんなに困難な状況でも、屋代、頑張り抜きます。
皆さんを護る、それが勤めですから。
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母港*1編集
母港1詳細参りましょう?編集
母港2朝霜さん……無理はしないで。お願いします。私が援護は引き受けます。編集
母港3戦いの状況は厳しいですね。……でも、ここを、この航路を護らなければ。私達の、明日は……。
提督と皆さんと共に、出来ることを、頑張ります!
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ケッコンカッコカリ提督、私に何か御用が? え、これを、屋代に?! ありがとうございます! 私、いつまでも大切にします。編集
ケッコン後母港提督、お茶にしましょ? 台湾の良いお茶が有るんです。編集
放置時提督、いろいろなことを思い出します。いろいろと……経験しました。編集
編成出撃編集
編成第一海上護衛隊、海防艦屋代、出撃します!×編集
第102戦隊、海防艦屋代、出撃します!×編集
出撃御蔵型海防艦、屋代、抜錨! 皆さん、続いてください!編集
開戦・攻撃*2編集
戦闘1昼戦開始敵……ですか。やらせはしません。戦闘用意!編集
戦闘2昼戦攻撃てぇーっ!編集
戦闘3夜戦開始夜は危険です。慎重に進みましょう。編集
戦闘4夜戦攻撃護ってみせます!編集
戦闘時ステータス*3編集
小破いやああああっ!編集
痛い! 目が……前が、見えないわ。編集
中破/大破いやああああっ! 浸水!? なんとか、戻らないと……!編集
轟沈身体が……沈んでいく。……これが沈むということ。……冷たくて、寂しくて、悲しい。
……皆さん、ごめんなさい……!
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戦闘終了*4編集
勝利MVP海防艦屋代が、お役に立てましたか? ……よかったあ! 苦しい戦局ですが、支え合って行きましょう!×編集
私がお役に立てましたか? ……よかったあ! 苦しい戦局ですが、支え合って行きましょう!×編集
旗艦大破痛い! 目が……前が、見えないわ。編集
装備・改修*5編集
装備1改修/改造この装備、大切に使います!編集
装備2貴重な装備、屋代、大事にします!編集
装備3改修/改造/開発/バケツ/遠征/発見ここまでは、無事です!編集
その他編集
帰投艦隊、無事帰還しました。ホッとします。編集
補給貴重な補給、ありがとうございます。編集
入渠(小破以下)修理、助かります。編集
入渠(中破以上)提督、ご迷惑をおかけして、すみません。編集
建造完了新戦力です! 頼もしいですね。編集
戦績表示屋代、情報をお持ちします。こちらですね。編集

各ボイス項目の詳しい説明はこちらをご覧ください


時報ボイス一覧


季節ボイス一覧


イベントセリフ改装段階備考追加


 
 



 
追加
桃の節句編集
春の訪れ編集
ホワイトデー提督、お返しを? ありがとうございます! 頂きます!編集
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春本番編集
梅雨てるてる坊主、台湾にもあるんです。……ほら、出来ました!編集
初夏編集
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盛夏編集
夏祭り編集
浴衣、どうでしょうか? ……そうですか、良かった。編集
秋刀魚秋刀魚漁ですね。近海はよくわかっています、お任せを!編集
晩秋戦いの状況は厳しいですね・・・。
でもっ、ここをっ、この航路を守らなければ、私たちの、明日は・・・。
提督と皆さんと共に、出来ることを、頑張ります!
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ハロウィン編集
秋のワイン編集
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師走編集
クリスマス台湾ではあまり、クリスマスって……でも、楽しそうです!編集
年末編集
新年提督、謹賀新年! 今年も、何卒よろしくお願いいたします。編集
節分節分を、択捉型と対抗戦ですか? ……あ、はいっ、頑張ります!編集
バレンタイン提督、こちらをどうぞ。少しビターです。……どうですか?編集

二周年記念編集
三周年記念編集
四周年記念編集
五周年記念編集
六周年記念編集
七周年記念編集
八周年記念八周年、おめでとうございます! 嬉しい。編集
九周年記念九周年、おめでとうございます! 嬉しいですね。編集
十周年記念十周年、おめでとうございます! 提督、本当に感謝です!編集



ゲームにおいて

  • 2020/07/11実装。
  • 一応海防艦の中では対空がトップタイだが、戦闘ではほぼ影響はない。ごく普通の海防艦と見ていいだろう。

キャラクター設定について

  • 艦名の由来は山口県屋代島から。一般的には周防大島と呼ばれ、町の名前も周防大島町であるが、国土地理院の正式名称は屋代島である。
    • 頭についているのは周防大島町の花であるみかんの花である。周防大島が所在する山口県は高知県と並んで年間5000トン以上(2016年)のみかんを生産しており、その80%は周防大島産。
    • 胸に金魚のバッジをつけているが、周防大島は形から金魚島とも呼ばれている。
    • 周防大島の北、江田島との間にあるのが柱島。柱島諸島と周防大島に囲まれたこの海域こそが、かつて柱島泊地と呼ばれた海域である。
      • その柱島泊地で爆沈した「陸奥」は周防大島からわずか3kmの場所で沈んだ。周防大島東側の伊保田港のそばに陸奥記念館があり、副砲や艦首が今も残されている。
    • 2019年12月にはとある「オブローダー」*6が周防大島にある廃道と県道の自動車交通不能区間の探索を行っており、彼が執筆したサイト「山さ行がねが 道路レポート 山口県道60号橘東和線 和佐狭区[https://yamaiga.com/road/ypr60/main.html]」には周防大島について詳しく記述されている。
    • 現在は本土と大島大橋で結ばれているが、かつては本土から国鉄運行の連絡船が出ていた。就航船の中には山口県光市の旧海軍工廠で使用されていた魚雷運搬船を改造した貨客船や特大発動艇を改造した自動車運搬船なども在籍していた。
    • 長野県にはかつて屋代町という自治体があったが、艦名とは一切関連はない。こちらは1959年6月1日に周辺の埴生町・更級郡稲荷山町・八幡村と合併して更埴市となり消滅。現在はさらなる合併で千曲市の一部となっており、地名として屋代の名は残されている。
  • 御蔵のような堅さはないが、性格はやはり真面目。
  • 実は結構太眉。通常時はわかりにくいが、中破時や限定グラフィックだとわかりやすい。

期間限定グラフィック

  • 2020年8月27日のメンテナンスで、期間限定グラフィック「浴衣mode」が追加された。
    • みかん柄の浴衣に金魚柄の帯とリボンをして、イルカと金魚のぬいぐるみを抱いている。この辺の元ネタは上記キャラクター設定にある、艦名由来の土地が元ネタ。イルカは御蔵由来だろうか。
    • 中破するとイルカのぬいぐるみ(涙目)を抱えたままうずくまって泣いてしまい、なんとも罪悪感が……。
    • ちなみに手提げ袋には信号拳銃が入っており中破グラで確認することが出来る他、発砲したのか空薬莢も1つ確認できる。
    限定グラフィック:浴衣mode

    限定グラフィック:浴衣mode
    浴衣、どうでしょうか? ……そうですか、良かった。

  • 2022年4月1日のメンテナンスで、期間限定グラフィック「花束mode」が追加された。
    • 春らしいピンク基調の衣装に、柏餅型のバッグ。左手にはうぐいすも止まっていてなんとも微笑ましい。
      右手で抱えたおっきな花束の中には、提督宛なのだろうか封筒も入っている。
    • 中破するとそんなよそ行きも、右手で持ってた花束も、ボロボロになってしまう。
    限定グラフィック:花束mode

    限定グラフィック:花束mode
    九周年、おめでとうございます! 嬉しいですね。

アップデート履歴

  • 2020/07/15:ボイス等が5番艦となっていたのが6番艦に修正された。

小ネタ

  • 屋代(やしろ)は御蔵型海防艦第6番艦。
    1943年11月18日、日立造船株式会社桜島造船所で起工。1944年2月16日に進水し、5月10日に竣工。竣工後は横須賀鎮守府籍となり、海上護衛総司令部第一海上護衛隊に配属された。
    略歴

    略歴

    • 戦争中は主に海上護衛・哨戒任務にあたった。
      • 初めての任務は1944年6月11日に門司を出港しボルネオのミリへ向かうミ07船団で、駆逐艦朝風と共にミリまで護衛。以降は朝風と共にミシ04船団、シミ06船団で昭南とミリの間を往復し、ミ10船団を高雄まで、ミ13船団を高雄からマニラまで護衛している。
      • ミ10船団護衛中の7月28日には白馬山丸が、ミ13船団護衛中の8月7日に姉妹艦の海防艦草垣(未実装)が雷撃により撃沈されている。雷撃したのはいずれもアメリカ潜水艦ギターロだった。
      • 9月14日早朝、出港する船団の護衛につくため高雄を出港したところ、磁気機雷に触れて損傷する。この触雷で一時行動不能になり、艦首に浸水。乗員数名が負傷した。屋代は海防艦三宅に曳航されて高雄に戻り、応急修理を受ける。
      • 1944年12月10日、第一護衛艦隊に編入。30日、ヒ87船団を護衛して門司を出港。航海中の1945年1月1日、屋代は第百二戦隊に編入。船団は8日夜に高雄に到着した。翌9日、高雄はアメリカ軍艦載機の攻撃を受け、屋代は被弾小破する。
        • 当時屋代の後ろにいた二等駆逐艦朝顔(未実装)の森栄艦長(大尉)によれば、朝顔に向けて急降下してきた艦上爆撃機へ向けて対空戦闘を開始したところ、それをひらりとかわした敵機は屋代に目標を変更*7。「屋代が危うい! 」と思って双眼鏡で屋代艦橋の窓ガラスを見た瞬間敵は投弾し、海面すれすれを飛んで逃げた。直後、屋代の艦橋窓ガラスは透き通しになって、前方の空間が真っ白く見え、思わず 「屋代の艦橋全滅!」 と叫んだという。
      • 艦橋に爆弾が直撃した屋代の人的被害は甚大で、艦長の山下貞義少佐、航海長、機雷長、操舵長、信号長を始め艦橋にいた信号員、見張員等、そのほとんど全員が戦死するという被害を受けた。そのため、砲術長が艦長代理として指揮を執った。同日夜、屋代は朝顔と衝突事故を起こした。 
        • 突如 「ドスン!」 という近い大きな昔に飛び起きた朝顔の森艦長は、「どこかの艦の艦首が右舷第1缶室横にぶつかり、その艦はすぐ後進をかけて見えなくなった」との当直見張員の報告で被害を確認したところ、直径約2mの穴が開いているのを確認。衝突相手はわからなかったが、暗夜の中右後方から血の臭いがしたため「被爆した屋代ではないか?」と思っていたところ、信号員から相手が屋代であると伝えられた。予感が的中し、深夜の上甲板で全身が氷で包まれたようにゾッとした森艦長は、対空戦闘で戦死した屋代艦橋員の亡霊が、艦長を先頭にして縦1列となって挨拶に来てくれたのではないか?と思い、右舷斜め後方に頭を下げ、目に見えぬ暗夜の彼方の、今しがた血の臭いが流れてきた風上側の屋代に向かって、「申し訳ありません、お許しください、さぞ御無念のことでしたでしょう」 と謝り続けたという*8
      • 13日、本莊卓爾少佐を臨時艦長とした屋代は14日に朝顔らとともに門司行きのタモ37船団を護衛*9。門司到着後、屋代は呉海軍工廠へ、朝顔は舞鶴海軍工廠へ回航され、それぞれ修理を受けている。
      • 4月7日正午過ぎ、奄美大島周辺での哨戒を終えて佐世保へ向け帰投中、奄美大島西方沖で複数の水上艦を電探が探知する。この複数の水上艦は沖縄水上特攻作戦により沖縄へ向かう大和以下第一遊撃部隊と判断された。
      • 6月9日、第百二戦隊は九州および対馬海峡の北西で対潜掃討を実施することとなった。屋代は第41号海防艦と共に、木浦南東沖に割り当てられた。同日早朝、麗水湾口で対潜哨戒中、アメリカ潜水艦シーオウルの雷撃を受ける。魚雷1本が第41号海防艦の中央部弾薬庫に命中し、大爆発を起こし沈没。艦長の高橋輝藏少佐以下乗員173名が戦死した。屋代は他の哨戒艇2隻とともに爆雷攻撃を始め、続く14時間で84発の爆雷を投下したものの、シーオウルは損傷を受けなかった。
      • 8月9日早朝、羅津へ向かう輸送船団と合流し羅津へ向かうも、羅津はソ連軍機による空襲を受けているところだった。そのため行き先を雄基に変更するも、ソ連軍機が空襲を開始するのを目撃。まもなく船団に対しても空襲が開始され、屋代はソ連軍機11機を撃墜したが、機銃掃射等で戦死2名、負傷者19名を出す。結局船団は目的地を元山に変更し、10日に到着した。
      • 終戦時は元山から内地へ向かって回航中だった。
    • 戦後は機雷掃海任務に従事したのち、1947年8月29日、青島において賠償艦として中華民国政府に引き渡された。
    • 同国海軍に所属後はまず「接19」その後「威臺」と改名されたが、主機の状態が悪く放置されていた。
      • 1949年2月に国共内戦に際して青島から台湾への脱出に成功し、「正安」と改名。
    • 1950年、左営にて日本が残していった12cm砲2門を装備した。その後再び改装し、アメリカの5インチ砲2門にボフォース40mm2門、エリコン20mm8丁を装備した。
    • 1956年4月7日、臨安とともに鷺鷥島にあった中華人民共和国の砲台を砲撃。
    • 1958年、中華民国海軍の政策変更により、艦艇の一斉更新が行われることになり旧日本海軍の艦艇の大量除籍が決定。同年11月1日付けで中華民国海軍より除籍された。
  • 戦後「屋代」の艦名は海上自衛隊の掃海艇に受け継がれたが、現在は退役している。
    • 2代目「やしろ(MSC-603)」は1956年就役の掃海艇で、1972年に特務船に種別変更され、1981年に除籍された。

この艦娘についてのコメント

  • 中破ボイスが迫真過ぎて毎回ビックリするのは自分だけではないと思う -- 2022-10-15 (土) 19:29:38
  • 浴衣モードが何かデジャブと思ったら。。緑壱さん・・・?! -- 2022-10-15 (土) 20:09:46
  • いや、浴衣姿かわいいな。すっごく良い -- 2022-11-18 (金) 15:40:30
  • いけませんお屋代さま…お身体にさわりますよ…(原点回帰) -- 2022-11-18 (金) 17:14:12
  • 花束mode解説のうぐいす、メジロだと思う。とうかA士さんが22年4月1日のツイートでそう言ってる。 -- 2023-01-29 (日) 11:00:17
  • 今年の花束modeはまだお預けかな。イベ終了メンテで来てくれるかなあ -- 2023-04-11 (火) 10:43:39
  • 花束モードやばいな、控えめな胸の膨らみが控えめだけど確かな柔らかさがやばいな -- 2023-04-30 (日) 19:59:17
  • 花束モード来て良かった。めちゃめちゃ可愛い -- 2023-05-05 (金) 23:32:15
  • (響き渡るハイエースのブレーキ音)(慌ててハイエースの扉を開閉する音)(急発進でその場から去るハイエースのエンジン音) -- 2023-06-13 (火) 08:09:14
  • 丹陽、対馬と並んで貴重な台湾艦娘として可愛がってる。改二が実装されて正安にならないかなぁ。性能は海防枠として使える丹陽(雷装なし)みたいな感じを希望。 -- 2023-09-17 (日) 02:34:27
  • うちの爺さん、屋代の進水から乗艦してて、終戦まで乗ってた。ちなみに赤紙招集の炊事兵。終戦時の艦長はクリスチャンで尊敬するあまり爺さん本人もクリスチャンになって、90過ぎで亡くなるまで田舎の教会で伝道してた。 -- 2023-10-12 (木) 15:28:07
    • 本莊さんってクリスチャンだったんか -- 2024-02-11 (日) 16:44:25
  • 龍瑞雲天。目出度い屋代を愛でたい。 -- 2024-02-11 (日) 15:27:49
    • 日向「新しい瑞雲だと?」 -- 2024-02-12 (月) 15:55:56
  • 屋代乗艦してた祖父の遺品から、屋代会(戦友会)が戦後50年に発刊した非売品の書籍が出てきたよ。「海防艦屋代 歴戦の足跡を偲んで 終戦五十周年 屋代会だより特別号」。ウィキペディアの屋代の項目の参考文献一覧では記載されてなかった。内容は防衛庁に提出されていない戦闘詳報の空白日を含む乗員の体験談。13歳で即成された機銃手が佐世保で配属され、名前を覚えてもらう間もなく高雄の対空戦闘で戦死され、戦後の乗員が防衛庁に問い合わせたりしたけれど記録が無かったという逸話も。 -- 2024-03-12 (火) 01:05:27
    • 追記・衝突した朝顔艦長の話として、「よく使われたが、これでやっと母港舞鶴へ帰れる」とお礼を言われて衝突事故についてはお咎めなしだったとも。 -- 2024-03-12 (火) 01:10:19
    • 艦長の訓示では、その後の反省会と称する古参兵の物理的な精神注入という行為が罷り通っていたが、初代艦長の山下少佐は初訓示で愛の精神を説き、修正という名の暴力を禁止したそうです。艦長訓示に続いて先任将校手塚大尉の訓示があり、「艦長を親父と思い、俺を・・・そうだなぁ・・・母と思うんだな」とニヤッと笑っていたそうな。 -- 2024-03-12 (火) 01:21:56
      • この記事を書いた屋代第三分隊の電探員・宮田氏によれば、屋代配属前の昭和18年、三重海軍航空隊の古瀬司令から各分隊にあるバットを残す事なく集めろと厳命されたと。狩られたバットには達筆な墨跡あざやかに「軍人精神注入棒」「鬼畜米英撃滅」「山本元帥に続け」などの金言が書いてあったが、この霊験あらたかな材木を心置きなくゴミ焼却炉で処理し、快哉を叫んだとも。 -- 2024-03-12 (火) 01:28:36
    • バシー海峡で撃沈された商船の漂流者救助では、先行した船団指揮官から本体に戻れと繰り返し電報が入るものの、山下艦長はこれを無視して救助を続行。救助がなかなか進まない中、当直将校が「日本人だけ助けろ」と叫んだが砲術長が反論。救助されてる中国人は日本語を理解できる者もいてゲンナリしていたが、山下艦長が「区別なく、一人残らず助けろ」と大声で指示し、中部甲板にいた中国人たちは艦長に手を合わせて何度も頭を下げていた。救助された人たちには国籍に関係なく、乗組員と同等同量の食事を提供するように主計長に指示した。救助された中国人の多くは福建省の人たちだった。 -- 2024-03-12 (火) 01:37:36
    • ソ連参戦後の対空戦では砲術長が北朝鮮の雄基に上陸していたが、船団護衛の命令が届いて屋代は夜には帰れるだろうと判断し、砲術長が戻るのを待たずに出航したところソ連機と戦闘、そのまま舞鶴へ。隠岐島あたりで終戦のラジオを聴き舞鶴入港すると、そこには北朝鮮に置いてきた砲術長が待っていた。砲術長は波止場へ行ったが屋代はおらず、丘に上って見ると対空戦闘しつつ港外へ出る屋代を見た。砲術長は南へ向かって歩きに歩き、塩の不足は汗を舐めて凌ぎ、列車に乗れるところは利用し、元山で海防艦を捕まえて山口の海岸で降ろしてもらい、貨物列車にぶら下がって舞鶴までやってきたという。上陸場へきたら沈められたと思ってた屋代がいたので驚いた、との話。ちなみに金銭も食糧も持っていなかったという。 -- 2024-03-12 (火) 02:04:26
  • 終戦の詔のあと、なぜか司令が舞鶴にいて、横須賀へ向かえと命令されたので武装解除もままならないまま津軽海峡へ。司令座乗の保高に意見具申「新潟に入港されては如何」即答「横須賀に向かう」。再び意見具申「秋田に入港されては如何」即答「横須賀に向かう」。その後、判別不明な小艦艇7隻が接近、ソ連艦隊の可能性を考慮して横一線の陣形で増速直進、結果は味方北方の海防艦隊で秋田沖海戦は幻となった。屋代、保高と同行していた三十四号海防艦には朝鮮からの引揚者として田中角栄が乗っていて、舞鶴で降りられると思ったら青森まで連れて行かれたと戦後の日経新聞に書いてあると。意見具申「大湊に入港されては如何」返信「貴艦と三十四号は大湊に入港すべし、我は横須賀へ向かう」後刻になって保高も大湊に入港したとの事、武装解除として乗組員の3分の2はここで退艦。屋代艦内の屋代神社は久保木工長により本荘艦長の横浜の自宅に届けられた。 -- 2024-03-12 (火) 02:18:46
  • 海防艦屋代 歴戦の足跡を偲んで 平成7年5月5日刊行 非売品 監修者 横田吉雄(屋代会会長・第二代航海長) 編集者 星喜平(電信員長) 発行者 屋代会事務局、高田多三朗(烹炊員) 寄稿者 手塚一郎(初代航海長・故人)、横田吉雄(第二代航海長)、池森勇次郎(軍医長)、富田岩芳(主計長)、東海林滋(航海士)、川渕公博(航海士)、菅野静紀(水測士)、山本視敍(砲術士)、高山政太郎(探照灯管制器員)、宇梶照夫(一番高角砲射手)、佐藤良吉(一番高角砲旋回手)、植松和雄(探信儀員)、吉村國典(聴音器員)、高田義兼(聴音器員)、輿石実(聴音器員)、星喜平(電信員長)、小野正喜(電信員)、小野寅三(信号員)、松谷明(電探員長)、宮田秀雄(電探員)、高田多三朗(烹炊員)、大津富士(機関科)、石原金一(機関科倉庫長)、坂入茂(機関科運転員)、 -- 2024-03-12 (火) 02:46:53
  • 高雄の対空戦闘ののち、呉で修理を終えて門司へ向かう2月中旬、主計長の手腕により酒保物品が満載になっていて、倉庫も居住区も物品が押し込まれ、残りは甲板に山積みされていた。艦長からGM(重心と浮心の関係位置で決まる艦の安定性を示す数値)を航海長に問われたが、結局計算しなかったという。ビールを積みすぎて砲が回らないと砲術長が怒り、他の艦に「ビール要らないか」と分けてやるほどだった。主計長の富田中尉は戦艦伊勢で庶務主任をしていた経歴がある。乗組員は「食糧艦屋代」と称していたりした。 -- 2024-03-12 (火) 03:13:31
  • 砲術長の小関勇次郎中尉は空母赤城の先任衛兵伍長の経歴があり、海軍体操は創始者の折り紙つきの達人。機関長付きの川島健吉郎少尉は穏やかな人でロン毛。山下艦長は食後に紅茶を飲む人で、ズボンの右ポケットにはウィスキーの小瓶が。 -- 2024-03-12 (火) 03:20:41
  • 高雄対空戦の被害は、二発同時に投下されたらしく、一発は艦橋正面から直撃して爆発。もう一発は救助艇を砕いて海中に落下。直撃弾は艦橋の真正面に大穴を開けて爆発し、舵取装置を破壊して艦橋の床を抜け、下の艦長室を斜めに通って隣の海図室で止まっていた。その残骸は直径十センチ、長さ一メートルくらいの金属の円筒で、その長さ三分の一ほどのあたりに縦の亀裂があり、そこから捻れて転がっていた。後部甲板で至近弾の煽りを受けて海中に転落した乗組員の一人は戦闘後に他の海防艦で救助されていた。呉で入渠修理の際、九三式探信儀を修理したほか、三式探信儀が増設されて二基の併用が可能となった。黄海南部を対潜封鎖する作戦中、電探に反応したものを浮上潜水艦として高角砲を水平射したところ「タレ タレ ワレ ツシマ」と発光信号があり攻撃中止。「ワレ ヤシロ シツレイス」と返信。対馬艦長は呉から定海まで屋代に便乗してきて対馬に着任した人で、便乗中に屋代士官室で巡洋艦青葉に乗艦中の戦訓を話してくれていた人だった。・・・海防艦四十一号の撃沈のときの記事はあとで追記します -- 2024-03-12 (火) 03:41:58
    • 貴重なお話ありがとう。だが、このコメ欄だといずれ流れてしまうし長文は他のコメも押し流してしまう。せっかくだから小ネタの方で編集して掲載してくれるとありがたいしお祖父さんも喜ぶと思うぞ。 -- 2024-03-12 (火) 07:01:38
      • wikiの類の編集の仕方がわからないんだよね(笑)なお爺さんはすでに故人ですが、烹炊員で階級は不明だけどたぶん水兵、上原常雄(旧姓は細木)で大正13年生まれだから当時19歳くらいかな。戦友会の方々もご存命の方は少なかろうし、コメを目にされた皆さんの記憶に留めて頂ければ供養にもなろうと思います。 -- 2024-03-12 (火) 22:07:24
      • すみません、小ネタ編集よくわからず挫折したのでどなたか転記宜しくお願いします。なお、時系列でまとめたらテレグラムで48ページ分、iPadのメモアプリ上で28MBになりました。 -- 2024-05-15 (水) 21:06:47
      • ちなみにパラオ泊地の兵庫介(のヮの)提督です。海防艦戦記(全1047頁)に各海防艦の手記が少し載っているので、後で屋代以外の海防艦のコメント欄にも落としていきます。facebookで海防艦屋代で検索すると、私の整理した屋代の行動記録のページを見つけられるかもしれません。 -- 2024-05-15 (水) 21:10:42
  • 備忘録・追加つもりの逸話について。四十一号海防艦の撃沈される前日に屋代乗員が四十一号にて通信機器の修理をしてた話、食糧が減ってきた時に探信儀で魚群を探して爆雷訓練と称して一発投下し、カッターをおろして山のように魚を獲った話、艦内で戦死者を二名看取った話、赴任したての電探員がすぐに習熟できず、マストの見張部屋(鳩の巣と呼ぶ)に入れられた話、艦橋全滅後の操艦の様子、屋代の乗組員の共通認識であったジンクス・・・ -- 2024-03-12 (火) 23:13:12
  • 屋代艦内に祀られた屋代神社は、件の本の記載により伊勢神宮からの分祠のようです。本荘艦長がクリスチャンだったという話は祖父から直接聞いていましたが、戦友会の「屋代会」の定期刊行物「屋代会だより第18号1993年7月」の記事に書いてありました。その記事によれば艦長職は艦内神社の祭祀主宰義務があり、過去に山本信次郎少将はクリスチャンゆえに艦内神社に親しめないため艦長職を経験しないまま少将になったとか。『終戦後の8月25日復員予定の細木常雄ニ工曹は艦長の特命により屋代神社を艦長の自宅宛に発送すべく、中部甲板において梱包作業に従事していた。同日中に作業は終わり彼は翌早朝、大湊駅始発の一番列車に乗車すべく内火艇に只1人復員して行った。(中略)本荘艦長はかくして艦内神社祭祀主宰の最終的な義務を果たしたわけである。屋代が戦利品として敵国に接収される前に屋代神社を焼却することなく自宅に送らせたのである。本荘艦長はクリスチャン(メソジスト)であった。艦長は幼少期からイギリス人牧師及びその家族と親交があり牧師の同年代の子供とよく遊んだそうである。(中略)敗戦後ほどなくしてフレッチャー中将率いるアメリカ第七艦隊が大湊に進駐することになった。艦長は鍵山信号長を従えて水先案内人として敵艦隊に出向く事になった・・・』艦長自宅の屋代神社がその後、事務局預かりになったか靖国へ持ち込まれたかは屋代会だより16号を参照のことと書いてありますが、私の祖父の遺品中に「屋代会だより」はこの1通だけです。 -- 2024-03-15 (金) 19:27:43
  • 多くの記事で、桜島造船所について誤解があります。屋代会の記事では、大阪の桜島にあった藤永田造船所です。現在では跡地がUSJになっています。 -- 2024-03-15 (金) 19:42:27
  • コメ欄多く占有してすみません、明日以降に小ネタのページに少しずつ移して行きます。コメ欄の表示が少し崩れる心配がありますが、がんばります -- 2024-03-15 (金) 21:05:56
    • エモい -- 2024-04-12 (金) 02:58:25
  • 花束モードの屋代ちゃんはもう海防艦じゃないよねぇ(発育レベルとか) -- 2024-05-06 (月) 08:55:06
  • もうずっと花束modeでいいぞ -- 2024-05-06 (月) 09:20:01
  • はぁ…屋代チャンも御蔵チャンも、なんでこんなに可愛いの? 特に今の時期の屋代チャン、可愛いが溢れすぎてもう生きてるのがつらくなるレベルだよ…ほんと、二人ともお迎えできてよかった…… -- 2024-05-13 (月) 23:00:08
    • 倉橋くんとノウミサンも揃えてみな…(可愛いが過ぎて意識が)トぶぞ? -- 2024-05-14 (火) 00:37:56
  • 『死の巣窟ボジヤドール岬魔の燈台(白)』『聴音機雷』 昭和十九年八月二十二日 高雄発 マニラ向け船団護衛途中の出来事です。ルソン島北西部ボゼアドール岬【白い燈台があり、私たちはこの燈台を魔の燈台と呼んでいた。その当時はモジドウル燈台と云っていた】沖合いにおいて正午頃商船一隻が雷撃により撃沈された。夕凪は撃沈された商船の方向に、全速力で向かって行きました。屋代と陸岸の中間地点を夕凪は航進していたのです。米潜水艦ピキュダは陸岸の方から魚雷発射、夕凪の右舷ド真ん中に命中しました。バーンと云う大音響と共に船体が中央から真二つ割れ八の字形になり中天に舞上がったのです。甲板上にいた乗員がパラパラと中天に飛ばされ、そして海上に落ちてきました。総員壮絶な、そして余りにも、むごたらしい戦死を遂げられました。護衛艦五隻は敵潜ピキュダの探知捕捉に全力を挙げ探知に成功し、各艦は扇形状になって丁度扇の要に向かってジリジリと迫って行きました。水中探信儀の発射する音波のカーン・カーンという反響音が心地よく響いたものです。艦橋に設置されている受信機からの反響音は正に天の声とも云うべき妙なる天使のラッパのように、聞こえたものでした。艦首砲は弾丸装填、爆雷班はY砲(爆雷投射機)に爆雷装填、爆雷投射軌条の傍らには、投下棒を構えた兵員、皆一様に艦橋を見上げている。私は旗甲板にいたので、艦の前後部を仔細に見渡すことが出来ました。正に満を持す戦機熟すとはこう云う場合の状況を指しての語彙なのだろう。「最大戦速・投射・投下始めッ」の号令が下される潮時と思った時、水測室から「聴知爆発音」との報告があった。山下艦長は「敵さん追い詰められて自爆かな?」呟いた、と敵潜水艦潜没海面上にブツブツと気泡が出てきた。その時艦長が大声で命令「敵潜水艦は降伏の為、浮上するかも知れぬ、一番砲射撃してはならん、信号長ッ各艦に射撃してはならんとつたえろっ」突然、大轟音と共に二條の水柱屹立す、一〇〇米の高さに及ぶ、屋代の前方五十米の地点に於いて 間一髪のところであった。屋代は慌てて「両舷後進一杯ッ」後進開始、他の号数海防艦でスクリュウ単軸の艦は後進をかけると艦尾が左右に振れて直ちに後進出来ないので、回れ右をして退避する。敵に背を向けての退避を退却と云う。艦長は格好が悪いと笑いだす。その後、屋代は単艦で昼夜にわたり敵潜の探知、捕捉に全力を挙げて頑張ったが探知捕捉はならず残念ながら、夕凪の仇討はできなかった。八月二十八日マニラに入港す。【注】防衛庁戦史室保管の屋代行動表には、昭和十九年八月一日から三十一日間の記載欄が空白になっている。屋代からの戦闘詳報が未着のためである。 (宮田電探員 故手塚航海長手記のスケッチを偲び>屋代会だより特別号) -- 2024-05-15 (水) 21:18:33
  • 昭和十九年九月内地への船団護衛との事、久しぶりの内地帰還で砂糖やバナナの配給があり、我が一分隊のデッキにはバナナが沢山ぶら下がっていた。早朝の出港、高雄港外に出て間もなく敵の磁気機雷に触雷、ものすごい震動で各部に被害を受け航行不能の有様、デッキにはバナナが飛散し、つるんコ・ぺったんの始末、多数の負傷者が出た、私もその一人であり夕方高雄海軍病院に入院、約十日間で退院帰艦した。これで完全に内地への夢は絶たれた。艦は翌日から応急修理が行われ約二週間で完了し、早速マニラ向けの船団護衛に就かされた。(宇梶高角砲射手 屋代の思い出>屋代会だより特別号) 船団護衛で早朝の出港だった。時間にしてまだ港内だと思う頃、突然轟音と艦体の振動と同時に艦内の灯が一斉に消えて真暗闇、各機械も停止して一瞬静かになる。アッ何か大変なことになったぞ。艦は右舷に傾いている。外に出ようと思うが中々立つことが出来ない、其の時ラッタルの入口のキャンバスの隙間から明かりが入りボンヤリと見える、手探りでさわるとチストの蓋が振動で外れているのを艦の傾きと勘違いしていた。まだ大丈夫だ落ち付けと、それでも急いで甲板に出た、艦体の損傷、発電機のクランク、シャフト折損で航行不能であった。(石原倉庫長 屋代乗艦中を振り返って>屋代会だより特別号) -- 2024-05-15 (水) 21:27:02
  • 原文が長いので要約ですが。昭和19年9月14日に高雄港外で触雷し、30日まで応急修理、10月1日きちんと直らないまま船団護衛でルソン海峡へ出、10月2日陸軍徴用の輸送船が撃沈されて陸軍将兵が海に投げ出されるも救助できず、10月3日遭難現場へ引き返し、暗闇の海で2000人の遭難者を救助にあたる。多くの兵隊さんは既に亡くなっており、暗い海面のあちこちから助けを求める弱い声が聞こえてくる。鍵山信号長が細縄を咥えてうねる海に飛び込み、百メートルも離れた陸兵のとりすがるイカダに向かって泳ぎ、縄を結ぶと次のイカダへ、と次々に引き寄せ救助した。10月6日、比島北岸で荒天に遭遇した際に発電機が故障し、アパリ北方のサンヴィセンテ漁港に入港。焼津の漁師の前進基地であり、味方水偵の基地でもあった。朝から風呂に入れ、毎日アサリを拾う。10月11日碇泊中グラマンと対空戦闘、戦死者を出す。機銃掃射により送信機に被弾、通信不能のため行方不明となる。その後10月16日空襲被害の残る馬公に入港し修理、所在の報告が叶う。修理は21日まで。10月20日馬公に巡洋艦足柄が入港、海防艦三宅は足柄の右舷側に投錨。10月22日完全修理のため佐世保に向かう(ヒ76船団護衛として)。10月26日佐世保入港、この間の10月23日にフィリピン沖海戦、24日に戦艦武蔵沈没、25日に神風特攻隊敷島隊レイテに出撃。 -- 2024-05-15 (水) 21:50:10
    • 昭和19年11月、釜山の朝鮮重工業㏍に向け佐世保出港、2日釜山入渠ドック入り。12月21日まで船体修理、この時に中後部に機銃増設。乗組員は交代で帰省休暇。この間、11月29日空母沈没、12月7日東南海地震。その後試運転を経て12月25日佐世保入港。12月29日出撃前の酒保開。12月30日船団護衛で高雄へ向かう。12月31日船団と合流するため経由地の六連(北九州)着。ヒ八七船団(空母龍鳳、駆逐艦浜風、磯風、海防艦御蔵、屋代、十三号、特務艦神威を含む)はシンガポール行きの最後の高速船団と言われる。船団のコースは六連からまっすぐ北へ上がって朝鮮南岸に辿りつき、島の間を縫うように西へ進み、大黒山島の辺から西南西に黄海を横切り、中国沿岸に辿り着いて、海岸に沿って南下、馬祖島の辺から台湾の西北端に渡る、というもの。昭和20年元日、六連出港し高雄に向かう。1月4日空母龍鳳と一部の商船が分かれて台湾北部の基隆へ向かう。屋代には「高雄に着いたら単艦で基隆へ回航せよ」と命令が下る。1月8日船団から落伍し始めた脚の遅い商船を屋代が護衛する。「高雄に着いたらいいところへ連れて行ってやる」と部下に発言した手塚航海長が死亡フラグを立てる。1月9日高雄港外にて0600頃(朝食前)から1500頃まで対空戦闘、艦長、航海長、機雷長ほか計12名戦死。艦橋での操艦不能になるも砲術長が機関室・操舵室まで甲板に伝令員を配置して伝言ゲーム状態で操艦、夕刻に高雄の左営(船だまり)の岸壁に横付け。戦死者は海兵団に送られ乗組員は挙手の敬礼で見送り。この日ルソン島リンガエン湾に米軍が上陸。夜(日付更新して翌日)になり、屋代は高雄到着後に基隆へ回航するよう命令が出ていたのを幸いに、新米航海士と買い被った砲術長とが反対する機関長を説き伏せて基隆へ夜逃げすることに決まった。月のない晴天の暗夜。砲術長の操艦で機関室・操舵室まで伝令を配置しての夜逃げ。目の前に黒々と長い駆逐艦らしいのがいる。「両舷停止!」「後進一杯!」けれども伝令頼りでなかなか止まらず、「錨入れ!」も慣れた者が戦死しており・・・相手の艦の土手っ腹へもともに突っ込んだ。「タレタレ、ワレアサガオ、シンスイス、タレタレ」と信号あり「ワレヤシロ、シツレイセリ」と相手の艦尾をすり抜ける。陸上の信号所から「誰か、どこへ行くのか」と聞いてきたが懐中電灯で適当な返事。その後港外でコンパスの故障が酷く高雄左営に戻る。駆逐艦朝顔へ恐る恐る詫びに行くとあまり叱られず、事故のおかげで内地へ帰れるとお礼を言われた(朝顔はレイテに行く予定だった)。その後12日臨時に本荘艦長が着任し13日修理終了、1月14日佐世保に向け出港、電路員一名が海中転落し戦死認定。航海中、山下艦長遺愛の紅茶を士官全員で頂くが、真水タンクが被弾しており塩辛い。1月27日頃、朝鮮南岸にて操舵装置のパイプから亜麻仁(アマニ)油が漏れ、代わりに真水を入れたところ凍結。28日操舵が戻り対馬海峡を渡る。29日六連着、二代目航海長着任。 -- 2024-05-15 (水) 22:41:50
    • 2月2日朝、横田航海長の操艦で周防灘に入り、暫く行ったところで右舷前方に戦艦大和が同航しているのが見えた。そのうち大きな島が現れ、砲術長が居合わせた乗組員たちに「あれが本艦の名前となった屋代島(周防大島)である」と教えていた。屋代は播磨造船の相生のドックを割当てられたが、戦隊参謀の骨折りで呉で入渠することになった。戦隊は屋代が入港して間もなく鹿島を先頭に舟山列島の定海に向け出動して行った。屋代は九三探の修理の他三式探が増設された。臨時の本荘艦長はここで2月15日正式な艦長に任命された。2月18日修理完了2月19日出港。「門司で船団を組むこととなっていた。いよいよ海防艦乗りとしての初陣である。内心多少気負っていたかもしれぬ。ところがその朝帰艦された艦長からG Mを計算してみたかと一発カマされた。G Mとは艦の重心と浮心の関係位置で決まる艦の安定性を示す数値である。主計長の手腕で大量の酒保物品が積込まれていたのである。弾薬運搬に使う可成り大型の団平船に満載されて舷側に着いた時はアレっと思ったが、ままよと倉庫は勿論、居住区にも押込み残りは甲板に山積みしていたのだがG Mまでは思いつかなかった(横田航海長)。 -- 2024-05-15 (水) 22:55:50
    • 昭和20年3月14日、朝から出航準備で忙しい。電測士が海軍工作部に電探の部品を受取に行っていて何かの都合で仲々帰艦できず。正午頃の出港となり定海にむかう。新しい作戦が発令された。揚子江と済州島を結ぶ約二百四十浬の線上に海防艦を三十浬毎に並べ黄海南部を敵潜から封鎖しその北側を自由に船団を通そうという間接護衛作戦だ。屋代の担当区域は中央部より少し済州島寄りの三十浬圏。昼は漂泊、夜は哨戒移動を一週間程度実施し、定海へ戻って一、二日休養の後再び担当区域へ出動して哨戒を行う。単調だが芯がつかれる。特に漂泊のときは機械を止めているから、敵潜を探知した場合、攻撃態勢を作る立ち上がりの間に先手をとられてはならないと絶えず神経を使った。だがこの哨戒中は割合穏やかな日が続き春の気配も感じられて、戦務に服しているのを忘れそうになるひとときもあった。晴天の暖かい日、前檣の鳩の巣(見張り台)に見張員を上げて漂泊していたとき、春の麗らに誘われた見張員が歌を唄い出した。その頃よく唄われた予科練の歌などで、蓋の開いたままの伝声管を通して艦橋によく聴こえたが大して邪魔にもならないので暫くそのままにしておいた。いい気分で何曲か唄ったところで哨戒長付が伝声管に口をよせ、浮かれていないでよく見張りをせよ。と云ったところ、初めて聴かれていたと気付いた見張員の慌て振りが伝声管を伝わってきて、艦橋にいた一同思わず爆笑した。この子供っぽさのまだ抜け切っていない若い見張員は誰だったろうか(菅野水測士) 昭和20年3月19日 定海発 佐世保に向かう(哨戒任務)A S第三作戦が発動され、屋代は第三哨戒部隊として、揚子江、泗礁山、済州島との連結線両側十五海里の海域を第一〇ニ戦隊【鹿島・御蔵・屋代・海ニ・海三三・海三四】及び三月二十五日第一〇ニ戦隊に編入された対馬・海五五の計八隻で各担任海域の対潜対空哨戒にあたった。本作戦の、担任海域の対潜哨戒は次の様な実施要領が指示されている。《鎮海防備隊戦時日誌抄》【各哨戒部隊は燃料を極力節約し、昼間は漂泊哨戒し、夜間、移動哨戒せよ。電波探信儀・水中探信儀を活用し徹底的的撃滅に努めよ】とある。担任哨戒帯を通航する船団があれば担任哨戒帯内の間接護衛をなし、引き続く担任哨戒帯の海防艦にバトンタッチをする。船団の直接護衛と航路帯の間接護衛が功を奏し、船団の損害が激減した。燃料、真水、生鮮食料品は、鹿島が上海から搭載してきては、泗礁山や舟山諸島錨泊地に暫しの休養をとっている麾下の海防艦に補給してくれる。入浴サービスもある。だが直接各艦が上海に出向いて補給を受けた方が乗員の士気の鼓舞につながるのだが・・・と恨めしくなったものである (乗員 宮田氏) -- 2024-05-15 (水) 23:21:53
      • え、何これは? -- 2024-05-15 (水) 23:31:07
    • 昭和20年3月25日 月明ゼロの深夜の出来事である。南方より北上する最後の船団の護衛に当たることになった。船団の最後尾を屋代が担任、左翼(大陸寄り)側を対馬が担任した。右翼先頭にも護衛艦は配置されていることは勿論である。屋代のニニ号電波探信儀の警戒範囲は左右九〇度から船尾にかけての半分位である。電磁ラッパは左九〇度から後ろ回りに九〇度に回転ができない。前部マストに電磁ラッパの先端部分がぶつかるからである。九〇度から一七〇度位まで探信し終えたら、大急ぎで〇度(艦首)経由反対舷九〇度まで回転し、そこから一七〇度までスローに探信する。この動作は手動で直径ニ〇糎のハンドルを回す。少々力仕事であった。最新式の兵器にしてはチト、チグハグなのだが、艤装当時は電動式で左右のレバーを軽く操作して、自在に電磁ラッパの回転ができた。この電動式の動力モーターが電信室前の通路に据えつけられていたため、モーターが作動すると、電信の受信が妨害されるとのクレームが星電信長からあり、泣く泣くモーターを撤去して手動に切り替えた経緯がある。私と松本電測員がペアーで深夜当直にはいった。何度か探信を繰り返すうちに、左一七〇度五〇〇〇の距離に感度三の目標を探知し、ただちに艦橋に報告した。屋代の左右九〇度から後方には味方護衛艦がいないことになっている。敵浮上潜水艦が大胆にも船団を追尾してきたのである。即座に「戦闘砲戦」下命、敵浮上潜水艦と断定した。直ちに後部一ニ糎連装高角砲と左舷側ニ五粍機銃群の一斉射撃が開始された。電探室から砲戦指揮所の砲術長に対して方位と距離を小まめに報告する。その頃の電探は一〇米単位の精密測距ができた。砲術長の指示する発射諸元通り、砲側は針を調定し連続射撃するだけである。射撃速度がもの凄く速い。四〇発位発射したかと思うが射撃目標前方から発行信号があった。「ワレ ツシマ ワレ ツシマ」直ちに「撃ち方やめえ」が下令された。屋代から対馬へ被害の有無を確認したところ、対馬からは「全く被害なし、ご安心乞う」との返答があり艦橋に爆笑が沸きおこった。艦長が直接伝声管で砲術長に対し「砲術長!あれだけ沢山撃って一発も命中しないとは困りもんだ。しっかり指揮をとってくれ」砲術長「了解、了解」命中したらこれも又、困りもんだし、然りとて、あれだけ撃って一発も命中しないのも困りものであろう。自家撞着とか矛盾とか、日本語化されたジレンマと云う言葉があるが、艦長が砲術長に対して「あれだけ撃って一発も命中しなくて良かった」と褒めるわけにもゆかない。全弾命中して対馬を轟沈した場合はどうなるんだろう「砲術長よくやった」とも言えるものではない。(乗員 宮田氏)  ある夜電探に反応があった。方向は済州島寄りの隣の哨区との境界線あたりで、今の時刻そこに僚艦はいない筈だ。砲術長は浮上潜水艦に間違いないと砲戦をかけ、前部の高角砲を前倒しにして勇ましく「射て!」と号令をかけて発射したら、暗闇の中に発光信号が光って「タレ タレ ワレ ツシマ」を連発してきた。対馬なら隣の又その隣の哨区にいる筈で、何故そこにいるのか分からないが、今そんな事を云っていても仕方がない。それに対馬の艦長は対馬に赴任するとき呉から定海まで屋代に便乗し、士官室で巡洋艦青葉に乗艦中の戦訓をいろいろとお話をしてくださった顔見知りの方だ。本荘艦長は憮然として「ワレ ヤシロ シツレイス」と発光信号を命じて反転した。後日、山田航海士が釜山で偶然対馬艦長にお会いしたら「あの時は驚いたぞ」と笑いながらいわれたそうだ。(菅野水測士) 対馬との同士打ちも沖縄列島のすぐ北方の海域で、当時沖縄は既に攻撃を受けていた。敵の部隊が北側に廻り込んで来る可能性は可成りあったし、若し会敵したら単艦で逃げても逃げきれる訳はなくいっそ敵に直進突撃して最後を飾ろうと内心ホゾを固めていた頃の出来事だった。暗夜「敵艦右30度」との見張員の報告でピーンと緊張し直に「総員配置に就け、右砲戦」と発令されたのも当然。そうだ夜間目標をつかんだら敵味方の識別以前に発砲しても構わぬ。そのため隣り合った哨区の艦同士が境界線で会わないような哨戒法を執る」との指示を受けていた。「こちらに向かってきます」との報告だったが、私の双眼鏡では視認出来なかった。少し甘いがやむを得なかったのではないかと思っている。それにしても対馬に被害がなかったのが何よりだった。(横田航海長) 昨年(1995年)五月五日東京で、屋代会の総会がおこなわれた。終わって、皇居東御苑の参観のおり、いつとはなしに東海林航海士とご一緒することになった。たまたま、対馬に対する電探射撃(レーダー射撃)の話になった。東海林さんは、「あれだけ沢山撃って一発もあたらんとは、どうしたもんだろう?」と仰る。私は「電探の測角精度の問題です。距離は一〇米単位で測れますから、砲の仰角の計算に問題は無い筈です。測角に多少の遊びがありますと撃った方向に必ずしも目標があるとは限りませんから」と答えた。多少は砲術長の砲戦指揮について弁護する気持ちもあった。関数計算してみると、距離五〇〇〇米で測角に二度の遊びがあるとすれば、五〇〇〇米前方に一七五米の横たわる目標があることになる。対馬の水線長は約七〇米であるが電探のブラウン管には対馬の水線長が一七五米として探知されることになる。電探の報告する角度に二度の遊びをもたして扇形状に射撃すると命中する確率が高くなる。当時この様な検討が砲術長と電測士、電探長との間に為されたものなのかどうかについて、私は知り得る立場になかった。直裁にいうならば、私は下級兵であり、己の見解を上申するなんてことは罷り通る社会ではなかった。(中略) 東海林さんは、又、可笑しそうに話を続けられた。「私が屋代を退艦して、内地に帰る時に便乗した艦がこともあろうに対馬だったんだよ。士官室で食事中や休憩中に屋代の対馬に対する電探射撃について、いつ言われるかとヒヤヒヤしていたが、一度も言われなかったのでホッとしたよ」と微苦笑された。(中略) 後部連装砲が、何一〇発位撃ったものなのか後部高角砲員長の入澤定雄様に電話してお伺いしてみました。(中略)対馬に対する電探射撃については、はっきりした記憶がないとの事であった。(中略) 参考までに・・・電探室から艦橋、砲戦指揮所、電信室の各室に伝声管が設置されていた。伝声管のキャップを開にしておくと艦全体の動きが全部わかるようになっていた。(乗員 宮田氏) -- 2024-05-15 (水) 23:38:34
    • 昭和20年3月27日 屋代はスクリュー換装の時期にきていて鹿島に申告していたが、それに基く指示が本日、二十七日にある筈で、上海行を予想し哨区の一番西側で待機していたら、佐世保に行くことになり、乗組員一同喜んだ。航海長は十ノットで三時間損したと云いながらも嬉しそうだった。接触事故で艦の鼻先がつぶれていた三十四号と行を共にし・・・(菅野水測士 佐世保から大湊へ>屋代会だより特別号) 昭和20年3月29日 ・・・二十九日朝、佐世保に入港し、午後大きな四号ドックに輸送艦共々三隻で入渠した。佐世保では春の麗らかな好天の下、桜の満開の季節で久しぶり寛いだ日々を過ごすことが出来たが、この入渠中四月一日には米軍が沖縄本島に上陸し、四月七日に大和ほかの沖縄特攻があり、大和沈没の風聞を耳にした。大和特攻艦隊涼月が後進で煙を吐きながら入ってきて、やっとドックに入りながら排水の済まぬうちに鎮座したり、沈められたが生還した矢矧の艦長がレスで芋の大堀りをやっていたとかの話も伝わってきて、そして沖縄には連日特攻機が突っ込んでいた。(菅野水測士 佐世保から大湊へ>屋代会だより特別号) 昭和20年3月30日頃 佐世保で修理中のことである、一分隊の士官が来て、「先任将校、工廠の倉庫に二十五粍の単装砲が置いてあります。あれが欲しいのですが掻っ払って来ても良いでしょうか」と云う。しばし考えたが、ままよと決断しどこか分からぬところに匿すことにした。その夜報告があり、「二丁頂いて来ました。」機銃の増設がさっぱり認められず、多いが勝であり、若気の至りながら艦長その他には黙って実行するだけの分別はあったようだ。出港までヒヤヒヤしたが何事もなく、その後上海入港時、「訓令工場だったが時間切れで出港してしまった」と唱え、堂々と工作部に伝票を切って上甲板に据付けて貰った。(横田航海長 屋代と私>屋代会だより特別号) 昭和20年4月7日 屋代はこの日、沖縄本島北方海域の哨戒任務を解かれ、佐世保に向かっていた。(中略)その日の朝、屋代が哨戒任務を解かれた海域こそが、まさに戦艦大和の最期の戦場だった。(紅顔海を渡る) 昭和20年4月13日 修理完了 佐世保発 AS第三作戦(哨戒任務) 各部から請求の出ていた修理も終わって出渠し、四月十三日正午出港ラッパが鳴って再び前の哨区を目指す。沖縄の戦況も悪化しており哨区も安穏ではあり得ないだろう。(菅野水測士) 昭和20年4月14日 早朝無電を傍受ー済州島の飛揚島錨地に仮泊中の海防艦能美、三十一号及び商船一隻撃沈さるー付近にいた四十一号が急行を命ぜられ現場に行っていたが、屋代が五島列島を過ぎた頃戻ってきて、洋上で会合し、以後四十一号とペアを組む。佐世保で四十一号に赴任のため便乗してきた館山砲術学校対空班の渡辺悦男少尉候補生が、迎えのカッターで波に揺られながら移乗して行った。(菅野水測士) 昭和20年4月23日 泗潐山着 AS第三作戦(哨戒任務) 約一週間哨戒して定海に入ると、戦隊は鎮海に移動することになり、四月二十二、三日泗潐山に麾下の海防艦を集結させたが、十七、八隻も集まってきて仲々の賑わいとなった。八十一号に赴任の軍医少尉を送りながら、同班だった同期と久しぶりに会う。呉在港中、選抜試験に合格して水測の高等科練習生として対潜学校に入校を命ぜられた植松和雄水平長が、全乗員に惜しまれつつ他艦に便乗して去って行った。戦隊は、屋代が先頭艦となり、鹿島を先導する嚮導警戒艦の形で黄海南部海域を押し渡り、一旦蛇龍島に落ち着いて朝鮮の哨戒作戦が始まった。屋代はそのまま同行していた船団を門司港外までおくって蛇龍島に引き返すと、次の船団が黄海の中程まで来ていたのを迎えに行って、これも対馬海峡を越えて六連の手前まで無事に送り届けた。船団を護衛していて何時も感じるのは、船長以下輸送船の海員の大変な御苦労。どんなに条件の悪いときでも、護衛がついていてもつかなくとも、敵機と敵潜の跳梁する海域を命じられるままに、黙々として船を進めている。待遇も休養も左程良いようにも思えぬし、その上犠牲になる船も多い。屋代が護衛する船は、何としても敵機、敵潜からこれを守り抜きたい。戦争が終われば海運立国のため直ちに必要になる大事な人達だ。(菅野水測士) -- 2024-05-16 (木) 00:01:12
    • 練習ページでやりなよ。長文の連投は迷惑だよ。 -- 2024-05-16 (木) 00:09:55
      • スミマセン、練習ページがわかりません。では投稿控えます -- 2024-05-16 (木) 00:28:40
    • 昭和20年5月23日  数日哨戒に出ては蛇龍島に戻り、また数日出ては戻りした後、泊地は金糖島水道を経て東へ移り、何時の間にか鹿島は鎮海に行って了った。対馬済州島間などの単調な哨戒が繰り返され、時々Bニ九が一機偵察にきては高空を飛び去るのをみる位で大した変化もないうちに、屋代も泊地を東に移し、五月半ば頃から駕莫洋に入泊することが多くなった。上陸しても何もないところで、お寺へ行ったりまた小学校へ行って卓球台を借りてピンポンをしたり、オルガンをいい加減に弾いたりしているうちに、乗組員は小学校の子供達と仲良くなって、五月二十七日の海軍記念日は屋代が非当直の日で休養がとれるため、合同運動会を開こうということになり、山本甲板士官が出向いて行って時間や競技種目を取り決めてきて、艦では賞品なども用意し乗組員は皆その日を楽しみにしていた。その日(27日)は朝から好い天気で、いそいそと準備をしていると突然鹿島から指令がきた。哨戒中の粟國にPB4Y哨戒機から発射したロケット弾が命中して航行不能に陥っているから、救援に急行せよというもので、小学生には可哀そうだが四十一号と共に直ちに出港することになった。(菅野水測士) 5月27日  現場に着いたのは真夜中だった。月明かりに、漂流している粟國とその周囲を警戒している僚艦の沖縄がみえる。粟國は艦橋から前の部分が折れ曲がって水面下に没している。幸い機械に被害はなく後進が可能なので、四十一号が艦尾にロープをかけて曳き粟國の後進と併せ約三ノットで鎮海を目指した。屋代が前方を警戒しながら大分鎮海に近づいたところに小さな湾があって、そこに入れて一息つき曳船の到着を待つことになる。屋代は御苦労の四十一号を休ませ、翌日粟國が曳船に曳かれて出てゆくまで、終夜終日独り湾口を警戒し続けた。駕莫洋にはこの後、遂に入泊する機会はなかった。(菅野水測士) -- 2024-05-16 (木) 00:25:33
  • 5番艦倉橋と6番艦屋代で11周年。ぱんつのゴムのしわの書き込みも健在でめでたい。 -- 2024-08-14 (水) 05:36:39
  • この浴衣グラの中破…フーッ…な、なんて言うか…その…フフッ…フーッ…フーッ…下品なんでやめときますね -- 2024-10-04 (金) 21:03:44
    • 気持ちは分かる 屋代ちゃんは謎の色気がシュゴイ アリコンとロリコンのちょうど境目ぐらいの…… ウッウッ -- 2024-10-04 (金) 21:31:00

*1 母港ボイスは各艦娘につき3つ割り当てられています。「詳細」ボイスは編成画面の「詳細」ボタンをクリックすることで聞くことが出来るボイスです。母港画面でも聞くことが出来ます。「母港3」ボイスは「母港画面でのクリック」もしくは「母港画面への遷移」でのみ聞くことが出来る、いわゆる「提督お触りボイス」です。編成画面での「詳細」ボタンでは聞くことが出来ません
*2 4つの基本ボイス(昼戦開始・昼戦攻撃・夜戦開始・夜戦攻撃)がありますが、各ボイスはその他の色々な場面でも使われます。各ボイスをどのフェーズ(航空戦/開幕雷撃/先制対潜/昼戦攻撃/各種CI...など)に割り当てるかは艦娘によって異なり、例えば開戦ボイスを攻撃でも使ったり、夜戦攻撃ボイスを昼戦でも使ったりします)
*3 「小破」ボイスの2つ目と戦闘撤退時の「旗艦大破」ボイスは共用化されています
*4 「小破」ボイスの2つ目と戦闘撤退時の「旗艦大破」ボイスは共用化されています
*5 装備ボイスは3ボイスありますが、改修/改造ボイスと共用化されています。また、ボイス3は「改修/改造」「開発」「バケツによる即時修復」「遠征出撃」「アイテム発見」ボイスと共用化されています
*6 道路趣味者の中でも特に廃道を好んで探索・調査をする人のこと。同人誌「日本の廃道」の造語で、「廃れた」を意味する英単語 「obsolete」から。
*7 急降下の途中で目標を変更するのは困難で、森艦長も相手はベテランだと感じたという。
*8 朝顔と屋代に関するエピソードは森艦長の回想録「聖市夜話[http://navgunschl.sblo.jp/category/636161-1.html] 第31話 台湾より離脱北上す その3~7」が詳しい。
*9 2月15日に本莊少佐は正式に艦長に着任。