Lexington

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No.566
566.pngLexington
(レキシントン)
Lexington級
1番艦 正規空母
艦船ステータス(初期値/最大値)
耐久84火力30 / 46
装甲40 / 64雷装0
回避21 / 40対空36 / 72
搭載80対潜0
速力高速索敵40 / 67
射程15 / 70
最大消費量
燃料65弾薬70
搭載装備
27SBD(Yellow Wings)
19SBD(Yellow Wings)
19TBD(Yellow Wings)
15未装備
改造チャート
LexingtonLexington改(Lv40)
図鑑説明
太平洋艦隊所属 USS Lexingtonです。元は戦艦として建造されたの。だから最初からの正式な正規空母はRangerになるわね。南雲機動部隊の真珠湾攻撃の難は逃れ、運命の珊瑚海で日本機動部隊の翔鶴瑞鶴と対決したわ。後悔はない。正々堂々、全力で戦ったの。覚えていて。

※初期値はLvや近代化改修の補正を除いた時の数値であり、改造直後の値とは異なります。
最大値はLv99の時の最大値を指します。

CV:松井暁波、イラストレーター:麻宮騎亜 (クリックするとセリフ一覧が開きます)

CV:松井暁波、イラストレーター:麻宮騎亜*1

定型ボイス一覧?

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時報ボイス一覧?

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季節ボイス一覧?

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ゲームにおいて

アップデート履歴

キャラクター設定について

  • “Lexington and her sister ship, Saratoga” すなわち “レキシントンとその妹のサラ”。
  • 海軍休日時代のアメリカ海軍を代表する正規空母である。アメリカ海軍も、日本海軍も何度も間違えた双子そっくりな姉妹艦Saratogaがいる。
  • 船体を前後で真っ二つにしたような艤装。艦橋の前後に連装砲4基が残っているので改装前の姿がモチーフ。
    • 腰回りの連装砲もカウントすると6基になるが実際は4基である。
    • これらの連装砲塔は1942年3月の真珠湾帰投後の改装で取り外され、28mm四連装機銃に交換されている。
  • 演じている松井暁波は『超音戦士ボーグマン』のアニス・ファームや『ふしぎの海のナディア』のナディア役で有名な鷹森淑乃の実の娘で、特にアニスに関してはキャラクターデザインが同じ麻宮騎亜*2で母娘二代に渡って同じ作家デザインのキャラクターを演じる、という珍しいことになった。

小ネタ

  • レキシントン級航空母艦1番艦。艦番号は「CV-2」。瓜二つの姉妹艦サラトガと共に、第二次世界大戦におけるアメリカ海軍最大の大型航空母艦として知られる。
    • 艦名は米独立戦争の「レキシントンの戦い」(1775年)から。この名前を持つ艦としては5隻目。
      • 本艦の戦没後に就役したエセックス級の1隻(CV-16)が名を継いだ6隻目となり、こちらは博物館船として2024年現在も現存している。
  • 後述の通り元々はレキシントン級巡洋戦艦として就役予定だったが、ワシントン海軍軍縮条約により巡洋戦艦としては建造中止。1番艦レキシントン、3番艦サラトガが空母に改造され、2番艦コンステレーション、4番艦レンジャー以下は解体された。
    • 空母への改造経緯は、日本海軍の天城型巡洋戦艦赤城、加賀型戦艦加賀と共通する。建造中止艦の艦名を新型艦に流用したあたりも。*3

設計・性能について

レキシントン級巡洋戦艦

  • 日本の八八艦隊計画と規模や構成が似通っているためよく比較されるダニエルズプラン、別名三年計画と称されるアメリカ合衆国の一大建艦計画の中で構想された、大型巡洋戦艦。
    • アメリカは低速・重防御の戦艦を好んだことから巡洋戦艦の整備が遅れていたが、各国が次々高速の巡洋戦艦を建造していくうちに追随の必要を感じ、6隻を計画した。
      しかしその設計・性能は確固たるドクトリンに依るものとは到底いえず、列強のものと比較してかなり低い評価を下されている。端的に言えば「巡洋艦を圧倒するための艦」という、巡洋戦艦のコンセプトを突き詰め過ぎた設計。当初設計では七本煙突で、機関の一部はバイタルパートの外に置かれるなど、かなりのキワモノだった。
      • その後ユトランド海戦の情報が伝わり、技術の進歩もあって改設計が進められた結果、最終的には二本煙突まで整理され、それなりにバランスのとれた性能に落ち着く。しかし同時期に計画されていた天城型はおろか、当時の時点で時代遅れ扱いだった金剛型以下の装甲防御は、対艦戦を考えると貧弱そのものであった。
        実際日本海軍は同級をそれほど脅威とみなしていなかったことが判っている(同じ三年計画で構想された大火力・重防御のサウスダコタ級戦艦については非常に警戒しており、紀伊型以降の設計修正に繋がっている)。
    • しかし1922年2月6日、ワシントン海軍軍縮条約が締結され本級は建造中止となってしまう。だが未成艦を含めた戦艦・巡洋戦艦の空母への改装が認められた*4ことから、高速の同級が選ばれ、レキシントンとサラトガが改装されることになった。
    • ちなみにサラトガはレキシントン級巡洋戦艦では3番艦であったが、2番艦のコンステレーションよりも建造が進んでいたために解体を免れた。
    • レキシントン級巡洋戦艦はキャンセル・解体された姉妹にも逸話が多い。
      • 5番艦コンスティテューションは米英戦争における武勲艦である帆走フリゲートの襲名艦として建造されたが、当の先代コンスティテューションはその当時も記念艦としてアメリカ海軍に在籍していた。
        このままでは同じ名前の艦が2隻在籍することとなるため、アメリカ海軍は1917年に先代を「オールド・コンスティテューション」と改名させたのだった。
        が、コンスティテューションの建造がキャンセルされたため改名の意味がなくなり、1925年に結局先代は元のコンスティテューションに再改名されることとなったのである*5
      • 6番艦ユナイテッド・ステーツはこの後ずっと襲名艦が建造中止になったり(CVB-58ユナイテッド・ステーツ)、別の名前と差し替えられる(→CVN-75ハリー・S・トルーマン)など「その名前の艦が就役しない呪いの艦名」の始祖となるのである。

航空母艦として

  • 前述の通り、当初から非常に完成度の高い大型航空母艦として就役。
    • エンクローズドバウや全通甲板、アイランド式の艦橋など、同時期に完成した日本の赤城加賀と比べても遙かに近代的なシルエットを形成していることがわかる。
    • 3万トンを超える巨大な船体は数々の改装を受け入れるキャパシティを十分に有しており、アメリカ航空母艦の技術的発展に大いに寄与することになった。
    • 就役当時の航空機の技術水準と水上艦艇への対策から、同時期の各国空母同様に対艦兵装として8インチ(203mm)砲をアイランドの前後に合計8門搭載していた。この配置は両舷に全門を向けられるため、水上戦闘には向いているが、上構の肥大化につながり航空作業上は好ましくないため一長一短である(まあ砲塔以前にアイランドと煙突がすでに十分デカ……げふんげふん)。
      • これらの8インチ砲は大戦中に撤去され、サラトガは1942年2月の修理時に5インチ連装両用砲塔に交換された。レキシントンも同年3月の小改装で同様の改装を受ける予定だったが、砲の取り付けが間に合わなかったため代わりに28mm4連装機銃を設置、5インチ砲への交換が行われる前に戦没した。
  • 機関には蒸気タービンで発電機を回し、発電した電力を制御器を介してモーターへ送って推進力を得るターボ・エレクトリック方式を採用している。
    • 燃費の向上や軸回転数の細かい調整などが簡単な利点があったこともあり、ターボ・エレクトリック推進は戦艦ニューメキシコ以降軍縮での戦艦建造中断までアメリカ戦艦で採用され続けた。
      1910~20年代にこんな技術をものにできたのも、ひとえに当時のアメリカが電気技術先進国だったからである。
    • ターボ・エレクトリック方式の特色のひとつとして、推進用モーターを逆回転することにより別途後進用ギアを用いる事無く全力で後進が可能となる。レキシントン級は後進全速で30ノット以上を発揮可能であり、実際に試験が行われた実測値である(ヨークタウン級も同じく試験され、17.5ノットを記録)。
      何故こんなことが実際に試験されたのかというと、飛行甲板後部に艦載機が満載された状態に備えて、艦首側から着艦可能とすることが想定された為であり、着艦制動装置も前部飛行甲板に装備された。また、後のエセックス級空母の船体設計時でも後進時の造波抵抗低減を考慮して艦尾形状を艦首と同じように形成していたりする。
      だがしかし、前進状態から着艦可能なほどの後進速力へ加速するのは相当の時間を消費する訳で、実用性があったのかは疑問符がつく。実戦で行う機会はもちろん無かった*6
    • 搭載する電気モーターもその総出力は21万馬力を誇り、最大速力は公試運転でレキシントンは34.59ノット、サラトガは35.6ノットという速力を発揮したとされる。これは第二次世界大戦に参戦した空母では最速である。
    • 定格18万馬力の蒸気タービンで発電機を回すためその総発電量は下手な発電所並で、レキシントンが1929年12月から1930年1月までの1ヶ月の間電力枯渇に陥ったタコマ市に電力を供給し続けたという伝説すら持っている。うおォン 私はまるで艦娘火力発電所だ。
      • 後にアメリカ政府はこの事例を範にとって、有事の電力供給を行う「海に浮かぶ火力発電所」発電船の建造を行った。
        発電船はアメリカ統治時代の沖縄本島でも使用されていた。
  • 格納庫は一段で長さは船体の半分ほど。格納庫は前部エレベーターから始まり後部エレベーターを挟んで船体後部まで続いている。格納庫の長さだけなら1万トンのイギリスの空母ハーミーズ(初代)と同じくらいである。
  • またレキシントン級では後の米空母と異なり格納庫は密閉式を採用している。そのためか珊瑚海海戦ではレキシントンが被雷時の航空燃料の漏洩で格納庫に充満した気化ガスが引火して爆発、致命傷となるという、後の某日本空母と同じ?末路を辿っている。
  • 水中防御は巡洋戦艦時代の設計が引き継がれ、対TNT火薬227kgほどが想定されていたと言われる。後期まで生き延びたサラトガは大戦中の改装でバルジの大型化をして幅が増えており、パナマ運河の通行が出来なくなった。
  • 空母として完成した実艦は、サラトガと瓜二つの大型空母として完成した。あまりにもそっくりなため誤認着艦も頻発したため、飛行甲板艦尾にレキシントンは「LEX」、サラトガは「SARA」という略称の表記が追加されている。参考写真(1932年、ピュージェット・サウンド海軍工廠でのレキシントンとサラトガの空撮)
    • アメリカ海軍ですら、見間違いを頻発するほど瓜二つだった姉妹同士である。相対した日本も両方を見誤ることを頻発していた。そもそも平時である戦前の頃からサラトガの写真を「レキシントン」と紹介して絵葉書を作っていたりしてたぐらいである。開戦後も見間違い報告を頻発している。珊瑚海海戦でレキシントンを沈めた時も「サラトガを撃沈」としている。

艦歴

年表

年表

19211.8マサチューセッツ州クインシーのフォアリバー造船株式会社で巡洋戦艦として起工
19222ワシントン海軍軍縮条約が始まり建造が中断される
7.1ワシントン海軍軍縮条約締結。同艦は改めて航空母艦として建造される事になる
192510.3進水
192712.14竣工
19284.7太平洋艦隊に合流
192912.16-翌年1.16ワシントン州タコマへの電力提供に参加
19377.1-19女性冒険家アメリア・イアハートの遭難捜索に参加
194112.5第12任務部隊を編成、ミッドウェー島への航空機輸送任務に出発
12.7真珠湾攻撃。直ちに真珠湾に向かい南雲機動部隊索敵に従事するも発見できず
12.13真珠湾に帰還。新たに第11任務部隊を編成。ウィルソン・ブラウン中将が司令官となる
12.20マキン島攻撃に向かう第11任務部隊にウエーク島救援に向かう第14任務部隊(空母サラトガ基幹)支援が命じられ同方面に向かう
12.22救援中止となり撤退
19421.23ウエーク島攻撃に向かうが日本潜水艦の奇襲で給油艦を失い撤退
1.31ニューカレドニア方面に向かう船団護衛に出撃
2.1ANZAC部隊に編入、ラバウル空襲に向かう
2.20日本軍に発見され空襲を受けるも撃退。奇襲できなくなったので作戦中止撤退する
3.6増援の第17任務部隊(空母ヨークタウン基幹)が到着。ブラウン提督の指揮下に入る
3.10ラエ・サラモアの日本艦隊を空襲
3.26真珠湾に帰投。対空兵装強化等が行われる
4.3第11任務部隊司令官がオーブリー・フィッチ少将に交代
4.15真珠湾を出撃
5.1第17任務部隊と再合流。今度はフィッチ提督が第17任務部隊のフレッチャー提督の指揮下に入る
5.6珊瑚海海戦(1日目)勃発。ヨークタウン航空隊と共に空母祥鳳を撃沈
5.7珊瑚海海戦(2日目)。МO機動部隊の空襲を受けて損傷、その際漏れ出したガソリンが気化して爆発。これが致命傷となり総員退艦のうえ友軍の魚雷攻撃で自沈処分
  • 1921年(大正10年)1月8日にマサチューセッツ州クインシーのフォアリバー造船株式会社で起工、ワシントン海軍軍縮条約で一時工事が中断され、1922年(大正11年)7月1日に航空母艦(CV-2)に艦種変更、1925年(大正14年)10月3日進水、1927年(昭和2年)12月14日初代艦長アルバート・W・マーシャル大佐の指揮下就役した。
    • 竣役後は太平洋艦隊に配備され、以後沈没するまでの間太平洋艦隊所属で活動し続ける事になる。当時太平洋艦隊の拠点はアメリカ西海岸であり、レキシントンもカリフォルニア州サンペドロを母港として訓練に明け暮れる。
      • 1932年(昭和7年)2月7日(日曜日)、ハリー・E・ヤーネル提督の指揮でレキシントンは妹サラトガと共に演習「フリート・プロブレム13」に参加する。ハワイオアフ島を目標に見立てた攻略作戦の演習であったが、ヤーネル提督は意表を突いて戦艦部隊を下げ、レキシントンら空母部隊のみで第一撃を実施した。総勢152機の艦載機がオアフ島の陸軍航空基地を空襲して一撃で無力化してしまう結果に、約10年後に起こる「真珠湾攻撃」を思わせるものがあったが、アメリカ海軍内の意識変革をもたらすまでにはいかず、この後も戦艦中心の運用編成がなされることになる。
  • 1937年7月にはアメリカの女性探検家「アメリア・イアハート」の遭難捜索に参加している。アメリカ海軍はレキシントンのほかコロラド等が出動し、日本側も遭難海域が当時日本の委任統治領である「南洋諸島」に近い事もあり、第12戦隊*7が捜索に協力する。
  • 1940年、9代目艦長としてフレデリック・C・シャーマン大佐が着任、太平洋戦争はこのシャーマン艦長の下で迎えることになる。
    「テッド」ことシャーマン大佐
    • レキシントンの開戦時の、そして最後の艦長となるシャーマン大佐は「アナポリス1910年組」で同期にはマーク・ミッチャー*8、チャールズ・J・ムーア*9などがいる*10。レキシントン艦長時代の活躍は後述に譲るが、レキシントン沈没後少将に昇進した彼は合衆国艦隊司令長官兼海軍作戦部長アーネスト・キング大将の副参謀長を務めたのち、1943年にはウィリアム・ハルゼー大将のもとで2期下のデウィット・C・ラムゼー少将と共に空母部隊指揮官として活動する。
      • 1943年5月には米海軍の編成に大きな変更があり、ハルゼーが指揮していたソロモン・ニューギニア方面の南太平洋部隊は第3艦隊、中部太平洋を担当するレイモンド・スプルアンス中将率いる中部太平洋部隊は第5艦隊となった。だがこの時期は前線で稼働する空母自体がサラトガとエンタープライズしかなく*11、そのエンタープライズもドック入りして修理する必要があって前線を下がらねばならず、その間英海軍のヴィクトリアスを借用するような状況だった。
        シャーマンはサラトガに乗艦してヴィクトリアスと共闘する。彼女の帰還後、漸く配備されたインディペンデンス級軽空母「プリンストン」*12と共に11月5日、ラバウル空襲を実施して停泊していた第二艦隊に大損害を与えている。
      • この後、米海軍の人事面でひと悶着あり、最終的に
        1:反攻作戦をとる中部太平洋方面の艦隊を第3艦隊、第5艦隊が交互にとる
        2:第5艦隊の空母指揮官を更迭し、マーク・ミッチャーとする*13
        3:第3艦隊の空母指揮官をジョン・S・マケインとする
        となり、長年空母部隊指揮官としてハルゼーの元で活躍したシャーマンは、空母部隊指揮官としての経験ではシャーマンに劣るミッチャーや、そもそも艦隊指揮官の経験すらないマケインの後塵を拝する事になってしまう*14
      • クェゼリンの戦い、トラック島空襲、マリアナ諸島空襲で第58.3任務群を率いたシャーマンは、マリアナ沖海戦こそ転出中であったため未参加だったが、続くレイテ沖海戦では第38.3任務群を率い、因縁あるミッチャーと共に行動する。この時の旗艦は珊瑚海で沈んだレキシントンの名を継ぐエセックス級のレキシントン(CV-16) であった。同海戦では指揮下にあったラバウル空襲以来の戦友プリンストンを失っている。
        1945年に入って1月にはヒ86船団を含む日本艦船の掃討戦、2月の硫黄島の戦い、3月中旬からの沖縄諸島や九州への攻撃、呉軍港空襲と転戦、その間作戦担当が第3艦隊から第5艦隊に戻り、シャーマンの部隊も「第58.3任務群」と名称を変えている。坊ノ岬沖海戦では午後からの攻撃を担当している。また5月にミッチャーの旗艦「バンカー・ヒル」が特攻を受けて大破し、指揮が執れなくなった際にシャーマンが指揮を代行している。
      • 5月27日、ダウンフォール作戦に備えて作戦部隊が再び第5艦隊から第3艦隊となり、この際両艦隊の空母部隊指揮官であるマケインとミッチャーは交代となる。後任には第5艦隊側がシャーマン、第3艦隊側が因縁あるタワーズとなり、シャーマンはついに空母部隊指揮官となるが、8月15日に日本はポツダム宣言を受諾し、戦争は終結した。7月に中将に昇進していたシャーマンは第5艦隊司令長官などを歴任して1947年に大将に昇進のうえ退役、1957年7月27日心臓発作により死去した。

真珠湾攻撃

  • 1941年(昭和16年)12月5日、レキシントンを中核とする第12任務部隊はミッドウェー島に18機のSB2U ビンディケーターと第231海兵飛行群の要員を輸送するため真珠湾を出撃する。7日、ミッドウェイ島の南東約420浬(約640km)地点で日本海軍による真珠湾攻撃を知った第12任務部隊は輸送を中止して直ちに真珠湾に急行する。反転と同時に直ちに索敵機を出して南雲機動部隊の発見に努めるが発見するに至らず、13日に真珠湾に帰還した。
  • 真珠湾攻撃と時をおなじくして、日本軍は太平洋海域全体に攻勢を開始、その中ウエーク島が孤軍奮闘して持ちこたえていた。太平洋艦隊司令長官代理のウィリアム・パイ中将はウェーク島を救援するため、空母機動部隊の投入を決断、レキシントンら第11任務部隊は16日にはウエーク島救援に出動した。これには真珠湾攻撃時に西海岸サンティエゴにいて、攻撃後ただちに出動して15日に到着していた妹サラトガら第14任務部隊も加わっていた。
    2部隊はウエークを空襲する日本軍の拠点ヤルートもしくはマキンへの攻撃を企図して進軍していたが、ウエークへの日本軍の再上陸が報告されるとパイ司令長官代理は空母の損失を恐れて22日に両部隊へ撤退を指示、救援を得られなかったウエーク島は23日に陥落し、レキシントンらは無念のうち真珠湾に帰還した。
    • この二度目のウエーク島攻略戦には、本土に帰還する南雲機動部隊から第二航空戦隊(蒼龍飛龍)が分派されて参加しており、米側が救援を継続していた場合、双方の間で空母同士の海戦が発生していたかもしれない。

南洋海域でのゲリラ戦

  • 年が改まった1942年、早々に妹サラトガが伊6潜水艦の雷撃で損傷し本土に帰還する事態となる。損傷は思いのほか大きく修理に5か月を要することになったが、これが姉妹の今生の別れになるとは、この時は誰も思わなかった。
    • この後、レキシントンはサラトガが編成していた第11任務部隊を継承、指揮官にウィルソン・ブラウン*15中将を迎え、日本軍への反攻戦を戦い抜くことになる。
      • 因みにこの攻撃を成功させた日本海軍は、サラトガをレキシントンと勘違いしていた。
  • 1月27日、第11任務部隊はウエーク島への空襲を企図して出撃するも、随伴していた給油艦ナチェスが出撃早々に伊72潜水艦に撃沈されてしまい、燃料が足りなくなってしまったので作戦中止となってしまう。31日にはニューカレドニアへの輸送船団護衛任務を帯びて出撃、翌2月1日に「ANZAC部隊」部隊への編入が決まる。
    • ANZAC部隊とは第一次世界大戦時に編成されたオーストラリア・ニュージーランド軍団 (Australian and New Zealand Army Corps) のことで、ガリポリの戦いでの勇猛ぶりで有名な軍団だった。ソンムの戦いでもオーストラリア兵団と名を変えていたが大活躍し、「西部戦線で一番強い軍団」と言わしめている。
  • 空母戦力を手に入れたANZAC部隊は、積極的に攻撃をかけていく決断をし、まず最初に日本軍が占領したばかりのラバウルへの空襲を計画する。
    • 2月20日、ラバウルのあるニューカレドニアに接近する第11任務部隊を日本の飛行艇が発見する。直ちにラバウルから一式陸上攻撃機17機が出撃するが、進出したばかりで魚雷の準備が間に合わず、陸攻は爆弾を搭載して出撃していた。更に零戦の護衛も見送られた*16
      • それでも一式陸攻は南西方面での実戦経験を持つ熟練者ばかりであり、隊員らは攻撃の成功を確信していたという。だがレキシントン側も簡単にやられるような弱兵ではなかった。
        レーダーで接近する陸攻隊を確認したレキシントンは直ちにF4F14機を出撃、1435時にまず接近する第二中隊(中川正義大尉指揮)9機を迎撃して全滅させ*17、1500時には第一中隊(飛行隊長伊藤琢蔵少佐指揮)を攻撃、レキシントンへ1発の至近弾、そして被弾した陸攻2機が特攻を試み、1機がレキシントンの5m手前で海面に突入したが、レキシントンに大きな損害はなく、第一中隊も2機を残して壊滅した。
    • この時レキシントン艦上戦闘機隊「VF-3」を指揮して活躍したのが、のちに「サッチ・ウイーブ」を発案して日本海軍戦闘機隊と戦う「ジョン・サッチ*18」少佐であった。また所属の「エドワード・H・オヘア」中尉は数分間で一式陸攻を5機撃墜したと認定され、議会名誉勲章を授与されて二階級特進した。
    • こうして日本側の迎撃を完封した第11任務部隊だが、これにより自隊の位置がばれて奇襲が行えなくなったので、作戦を中止して撤退する。これは日本側の迎撃体制の実情を把握しておらず、さらなる迎撃が予想されたためだった。だが連合国側は同方面への攻撃をあきらめたわけではなく、ハルゼー提督指揮の第8任務部隊(エンタープライズ基幹)などでも同方面へのゲリラ的な攻撃を続けていくことになる。
  • 3月になると、同海域に新設の第17任務部隊(空母ヨークタウン基幹)も加わる。指揮官はフランク・J・フレッチャー少将で後に勇名をはせるが、この時はブラウンの方が先任のため、第17任務部隊はブラウンの指揮下に入る。
    2部隊は改めてラバウル攻撃を企図するが、進撃中の3月8日に日本軍がラエとサラモアに上陸した報告が入り、一転して両方面への攻撃に向かう。
    3月10日、2隻合わせて104機の攻撃隊はオーエンスタンレー山脈を越えて奇襲攻撃を行い、第六水雷戦隊(旗艦夕張)が護衛する日本軍諸艦船に大きな損害*19を与えることに成功する。
    • 米軍の逆襲で大きな損害を受けた南洋部隊(第四艦隊基幹の今区域の担当部隊)は空母戦力の派遣を要請、調整の結果*20インド洋作戦を終えて帰投中の5航戦(空母翔鶴瑞鶴)と祥鳳が計画中のポートモレスビー攻略作戦(МO作戦)に加わることになり、こうしてここに史上初の空母同士による海上決戦「珊瑚海海戦」が勃発することになる。

珊瑚海海戦~誤認出撃と祥鳳沈没~

  • 暗号解読により、МO作戦を把握したアメリカ軍は、補給整備や改修のため真珠湾に帰還していた第11任務部隊に出撃を指示、また体調を崩したブラウン中将に代わり新たにオーブリー・フィッチ*21少将を第11任務部隊の新司令官に任命する。
    • この時の改修でレキシントンは、特徴的であった艦橋及び煙突の前後に背負い式で搭載していた8インチ/55口径砲連装砲4基を撤去している。その跡地には5インチ両用砲を搭載する予定だったが間に合わず、28mm対空機銃を代わりに設置して出撃している。
      • 降ろされた8インチ/55口径砲連装砲は、先に日本潜水艦の攻撃で損傷して本土に帰還したサラトガが、帰還前の応急修理の際に降ろした同砲と共にオアフ島の沿岸砲として利用されることになる。
  • 5月1日、第17任務部隊と合流した第11任務部隊は、フレッチャーの方がフィッチよりも先任であることから、今までとは逆に今度はフレッチャーの指揮下に入る。(以後この2部隊は「第17任務部隊」と表記)
    5月3日、日本軍によるツラギ攻略をしったフレッチャーは翌4日に攻撃隊*22を差し向け、在泊していた駆逐艦菊月らを撃沈する。また補給のため随伴していた給油艦ネオショーを駆逐艦シムスの護衛の下退避させる。
  • 5月7日、互いに位置を認められぬまま接近していた日米双方の空母部隊だったが、最初に動いたのは日本側の五航戦からなる「МO機動部隊」だった。午前7時30分(現地時間、以後時間表記は現地時間で記載)、翔鶴偵察機の2機がアメリカ軍空母、油槽艦、重巡洋艦発見を報告する。原忠一МO機動部隊指揮官は直ちに攻撃隊78機*23が出撃するが、これは誤認情報であり、9時15分ごろに攻撃隊が到着したとき、そこにいたのは米機動部隊から分派して撤退していた給油艦ネオショーと駆逐艦シムスだった。
    • この少し前の8時50分ごろ、随伴する衣笠古鷹の偵察機が、攻撃隊が向かった方向と全く違う位置でサラトガ型航空母艦、つまりレキシントン発見の報告が届く。当初は米機動部隊が分進してると判断していたが、10時35分になって翔鶴偵察機より「発見した空母は油槽船の誤り」と連絡が入る*24
      これにМO機動部隊司令部は驚愕する。このままでは油槽船にかかわるうちに、米機動部隊から攻撃を受ける危険がある。司令部は直ちに攻撃隊へ帰還命令を出すとともに、衣笠、古鷹機が見つけたサラトガ型航空母艦のいる海域に向けて変針する。
      • 攻撃隊のうち、瑞鶴隊は直ちに帰路についたが、翔鶴隊は行きがけの駄賃とばかりにネオショーとシムスを攻撃、シムスが轟沈、ネオショーはアメリカ側記録で直撃8発・至近弾8発の損害を受け、さらに被弾した艦爆1機が体当たりを行った。航行不能となったネオショーは漂流し、5月11日に駆逐艦ヘンレーによって生存者救助と処分がされている。また翔鶴索敵機2機は帰還できずに不時着水し、乗員は駆逐艦有明に救助されている。
  • 一方の第17任務部隊は4時30分に偵察隊を出撃、6時25分には指揮下戦力からクレース提督指揮の第17.3任務部隊*25を編成して日本軍輸送船団攻撃へ向かわせる*26
    • 分離した第17.3任務部隊は結局輸送船団攻撃は果たせなかったが、ラバウル基地航空隊がこれを発見して攻撃、損害はなかったがこれにより、自身に日本の基地航空部隊を引き付ける結果を生み、レキシントンら米機動部隊への脅威を緩和することに貢献した。
  • 8時15分、ヨークタウンの索敵機が「空母2隻、重巡洋艦4隻、全艦ヨークタウンの北西方向にあり」と報告、続いて周囲の索敵機が日本軍水上偵察機1機・雷撃機1機撃墜を報告してきた。日本空母部隊を発見したと考えたフレッチャーはレキシントン、ヨークタウンから計92機の攻撃隊を出撃させる*27。ところが10時12分に地上基地から索敵のため飛来したB-17が「空母1隻、輸送船10、その他艦艇16隻(MO攻略部隊)」を発見し報告、更に帰還したヨークタウン索敵機の報告で「空母2隻、巡洋艦4隻」は「巡洋艦2隻、駆逐艦4隻」の送信ミスによる誤報と判明した。フレッチャーはただち慌てて目標をB-17が発見したМO攻略部隊に変えるよう指示、攻撃隊は11時頃に攻略部隊を発見し、攻撃を開始する。
    • 攻撃は同隊唯一の空母である祥鳳に集中した*28。先陣はレキシントン艦爆隊28機による急降下爆撃だが、祥鳳はこれを全弾回避した。だが続くレキシントン艦攻隊とヨークタウン攻撃隊による波状攻撃はかわし切れず、11時20分までに爆弾13発・魚雷7本が命中、祥鳳は数分後に沈没した。日本にとって最初の空母損失であり、アメリカにとっては日本の主力艦艇を初めて撃沈するという大戦果だった。
      • こうしてまずは祥鳳を撃沈した米側だったが、未発見の敵空母が存在している可能性があり、それから奇襲攻撃を受ける可能性を考え第二次攻撃隊は送らなかった。一方で祥鳳を失った日本側には衝撃が走り、特に攻撃隊に無駄足を踏ませてしまったМO機動部隊はなんとか米空母に一撃を加えるべく、艦爆艦攻のみで薄暮攻撃を実行する。

珊瑚海海戦~薄暮攻撃と切り込み騒動~

  • 13時ごろよりМO機動部隊は攻撃隊の収容を開始するが、収容完了は15時を回る見込み*29だった。その後青葉索敵機から発見した第17任務部隊が北西方向への航行をやめて反転し、こちらとの距離が縮まったという情報が入った。絶好の攻撃の機会だったが攻撃圏内に入るのが18時30分で薄暮出撃となり、帰還が夜となるので危険だった。司令部内でも意見が分かれたが、結局1人乗りで航法に不安のある艦戦は出撃せず、艦爆と艦攻の中でも夜間着艦可能な熟練者のみを選抜して攻撃隊を編成、合わせて27機*30が米空母を目指して出撃した。
    • だがやはりこの攻撃は無謀だった。この頃の第17任務部隊の上空には豪雨を伴う雨雲が発生しており、その中を薄暮攻撃隊が敵艦隊を見つけ出すのは難しかった。一方でレーダーを持つレキシントンらは接近する攻撃隊を見つけ出し、レキシントンから9機、ヨークタウンから11機のF4Fが迎撃に飛びたち、18時10分ごろより交戦を開始する。護衛戦闘機のない薄暮攻撃隊はまず鈍足の艦攻隊が狙われ、8機がまたたくまに撃墜されている。その後日没となり帰還できなくなることを恐れたF4F隊は退却、薄暮攻撃隊も撤退を決断、爆弾魚雷を投下して帰路に就いた。
  • だがここで珍事が起こる。帰路についてから40分が立った頃、攻撃隊は暗闇の中朧気に浮かぶ2隻の空母を確認する。帰還したと思った高橋艦爆隊隊長は「着艦よろしきや」と発光信号を送ると、向こうからも信号が返ってきた。
    これを「着艦よろしい」の信号とみた攻撃隊は編成を解き、それぞれの母艦へと進路をとった。だが近づいてみるとどうも様子がおかしい、だんだん迫る空母のシルエットに巨大な艦橋が見えたことで「翔鶴(瑞鶴)じゃない」と気づいた攻撃隊は慌てて着艦コースから退避する。実は攻撃隊が母艦だと思って近づいたのはヨークタウンとレキシントンら米空母たちだったのだ。
    • どうしてこうなったのかについては諸説あるが、薄暮攻撃隊が暗闇の中帰投するうちに、知らず知らずに自身を迎撃した直掩機部隊と再度でくわし、これを「散り散りになっていた友軍機」と思って合流して彼らがレキシントンらに帰還するのについていってしまった。直掩機部隊側も友軍編隊だと思って共に母艦に戻った。というのが原因のようである。
    • 一方のレキシントンたちは、ちょうど薄暮攻撃隊を迎撃したF4F隊が帰還し、収容作業をしている最中だった。だが、帰還する機数がどうも多く、不審に思っていたところ、急に一部が着艦せずに退避しだした。よく見ると機体に日の丸があり、日本機だとそこで初めて気づいたという。レキシントンは迎撃せずにそのまま逃がしたが、ヨークタウンではいち早く気付いた砲術長が「総員切込みにそなえ」と帆船時代さながらの命令*31を出して反撃、99式艦爆1機を撃墜している。
      • ようやくレキシントンらを見つけた薄暮攻撃隊だがすでに爆弾魚雷は投棄しており、攻撃の手段はなかった。やむなく帰路に就いた攻撃隊は改めてМO機動部隊を見つけ出して帰還するが、米空母との距翔は100浬(約185㎞で鈍足の97式艦攻でも30分で届く)でしかなかった。だが原司令官はすでに12機も艦載機を損失しており、これ以上の夜間攻撃は危険と判断、翌日の攻撃に備えて一時的に退避する。
        一方の米側も退却する攻撃隊をレーダーで追尾し、光点が消えた位置からMO機動部隊の位置を割り出した。レキシントンのシャーマン艦長は駆逐艦による夜間襲撃を意見具申するが却下され、翌日の再戦に備えて距離を取るべく進路を南東に変え、両部隊は翌日の決戦に備えることになる。

珊瑚海海戦~日米空母決戦とレキシントンの沈没~

  • 翌5月8日、日米両空母は黎明より索敵機を出撃させ、相手空母の所在を探った。8時25分、翔鶴索敵機の1機(菅野兼蔵飛曹長機)がレキシントンら米機動部隊を発見し位置を報告してきた。
    だがそれと同時刻、レキシントンの索敵機もМO機動部隊の位置を捕捉して打電、まず8時48分に第17任務部隊がレキシントン43機*32、ヨークタウン39機*33の攻撃隊を出撃させる。МO機動部隊も9時30分に瑞鶴から31機*34、翔鶴から38機*35の攻撃隊が出撃し、4空母ががっぷり組んでの航空戦となった。両者は進撃途上で遭遇するがお互いを無視してそれぞれの母艦を叩くべく進撃を続けた。
    • 10時30分ごろ、ヨークタウン攻撃隊がМO機動部隊を発見、攻撃隊形を組むがこの間に瑞鶴は近くにあったスコールに身を隠したので攻撃隊は翔鶴へ向かう。これに翔鶴直掩隊や岩本徹三一飛曹率いる瑞鶴直掩隊が迎撃、2発を翔鶴に命中させたのみに終わった。
    • 一方レキシントン攻撃隊は悪天候で一部の機が引き返し21機*36に減じていた。だがヨークタウン攻撃隊に気を取られる翔鶴に対して奇襲攻撃を成功させ、4機のSBDが爆弾1発を命中させる。TBDによる雷撃は宮沢武男一飛曹の零戦による体当たりなど、直掩隊の必死の防戦*37もあり、理想的な射点につけず全弾回避された。
      • こうして戦闘力を失った翔鶴は北上して撤退、日本側の空母は瑞鶴のみとなる。
  • 米機動部隊に向かった日本側攻撃隊は帰投中の翔鶴索敵機と合流する。この時菅野機は反転して米機動部隊の位置まで攻撃隊を誘導するが、燃料がギリギリの中でのこの行動は燃料切れ覚悟の行為であり、実際菅野機はこの後帰還しなかった。
    こうした犠牲を経て攻撃隊は11時5分、米機動部隊上空に到着した。
    • 攻撃は瑞鶴隊がヨークタウン、翔鶴隊がレキシントンを狙った。
      当時米機動部隊は第11,17両任務部隊ごとに空母を中心とした輪形陣を敷き、8機のF4F、16機のSBDが上空警戒*38、空母2隻合わせて9機のF4Fが緊急出撃に備えて飛行甲板に待機していた。だがレーダーで日本軍編隊を早期に発見していながら連係ミスで有効な迎撃を行えなかった。
      特にSBD隊は日本の艦上攻撃機の性能を、自軍のTBDと同程度と考えて迎撃態勢を組んでいたため、それよりもはるかに高速の九七艦攻の突入に追従できず、みすみす突破を許してしまった。
    • SBD隊を振り切った攻撃隊のうち、瑞鶴艦攻隊8機(嶋崎重和隊長指揮)は二手に分かれて攻撃を仕掛けるも、まず第二中隊4機は迎撃に駆けつけたF4F2機の攻撃で1機を失い攻撃のタイミングを逸してしまい、目標を切り替えてレキシントン攻撃に向かう。一方第一中隊6機は対空砲火で魚雷投下後に1機撃墜され、魚雷もすべて回避されてしまう。
      続いて江間保*39大尉率いる14機の艦爆隊がヨークタウンを襲い1発が命中し、3発が至近弾(燃料漏れの発生)*40となる。命中した1発は飛行甲板貫通後第四甲板で炸裂、3つの罐室が破壊され危機に瀕するも、応急措置でなんとか24ノット発揮可能となり、戦線から離脱する。
      • 一番狙われたのはレキシントンだった。主に翔鶴隊に狙われた同艦はまず13機の艦攻(翔鶴隊10機と攻撃を逸してレキシントン攻撃に向かった瑞鶴隊3機)の攻撃を受け、4機を対空砲火で撃墜*41するも左舷に魚雷2本が命中、第2,4,6ボイラーが使用不能となり左に7度傾斜、速力も25ノットに減じてしまう。
        次いで19機の翔鶴艦爆隊が高橋赫一少佐の指揮のもと襲来する。迎撃のF4Fも零戦隊に阻まれ失敗し、艦爆隊は爆弾2発命中、5発至近弾の戦果を挙げ、命中のうちの1発は5インチ砲の砲弾誘爆を発生させレキシントンに大爆発が起こり、これを見た日本軍機が「サラトガ撃沈」と報告している。また間違えてるよ…
        こうしてレキシントンに大打撃を与えた翔鶴艦爆隊だが、19機中7機を失ってしまう。この中には攻撃後も上空にとどまり戦果確認を続け、そのまま迎撃機に捕捉されて戦死した高橋隊長機も含まれる。
      • 高橋隊長機については、迎撃に出たF4F搭乗員のウィリアム・N・レオナルド中尉によると、海戦終盤に単独で飛行する隊長識別表示のついた九九艦爆を発見、付近のSBDと共に接近するも退避行動も後部機銃による反撃もしないまま飛行を続けるので、これを撃墜したと証言している。このため高橋隊長機は偵察員の野津特務少尉と共にどこかの段階(攻撃のための突入時か戦果確認のため上空待機を続けていた頃)で両名とも重傷を負っていた可能性を指摘されている。
  • 大爆発を起こしたレキシントンだが、米軍自慢のダメージコントロール能力が発揮され、火災鎮火と傾斜復元に成功した。エレーベーターが故障し動かなくなるも、離発着を妨げるものではなかったので、収容はできなくても艦載機の離発着は続けて行われていた。だが、魚雷命中で発生した燃料系統の損傷で漏れ出したガソリンが気化し、それが艦内に充満して危険な状態となっていった。
    • 12時47分、気化したガソリンが発電機のスパークに引火して大爆発を起こす。やがて爆発は連鎖して状況が悪化しだすが、それでも着艦作業は行われ最終的に36機が収容されている。
      14時42分、二回目の大爆発が起こり事態は急速に悪化、15時27分には格納庫でも爆発が起き航空弾薬なども誘爆しだし、手が付けられなくなる。
      17時7分、シャーマン艦長は総員退艦を指示、周辺の護衛艦艇が生存者を収容し、19時に駆逐艦フェルプスによる魚雷攻撃での自沈が行われ、レキシントンは『当船は本船を放棄する』という気流信号をはためかせながら、19時56分に艦首を下にして転覆するように沈んでいった。
      • レキシントンは第二次世界大戦中の戦功で二つの従軍星章を受章した。1942年(昭和17年)6月16日、本艦を記念し、建造途中だったエセックス級航空母艦の一隻が「レキシントン」 (USS Lexington, CV-16) と改名された。
      • 2018年3月5日、マイクロソフト創業者で探検家のポール・アレンにより、深さ約3200mの海底に眠るレキシントンが発見された。状態は船体から艦首・艦尾の各先端および艦橋が離断し、それぞれ離れて横たわっていなど、船体の損傷は激しいものの、海中での浸食はあまりなく、搭載されていたMk 10 5インチ砲等の火器や艦載機の残骸も良好な状態を保っているそうである。

歴代レキシントン

  • 艦娘となったCV‐2レキシントンはこの名を持つ艦としては4代目である
    • 初代はもともと「Wild Duck」という名の帆船だったが、独立戦争中の1776年3月13日に海事院が購入し、武装搭載などの工事を受けて4月より通商破壊船として運用されていたが、1777年9月19日にイギリス海軍に拿捕されてしまっている。
    • 二代目は1826年6月11日に竣工した帆走スループ船。しばらく沿岸警備についていたが、トリニダート島に派遣されて1819年に同地で亡くなっていた米英戦争「エリー湖の戦い」の英雄「オリバー・H・ペリー*42*43」の遺体引き渡しを受け、亡骸を米本土まで運んだ。1831年にはブラジルに派遣され同地でのアメリカ権益の保護に努める。1840年には補給船となり地中海で活動、1853年に東洋に移動して琉球でオリバー・H・ペリーの弟「マシュー・C・ペリー」率いる東洋艦隊に合流、翌1854年の二度目の黒船来航の1隻となる。1855年に退役。
      • なお、この黒船来航には4代目レキシントンの妹サラトガの3代目も参加している。
    • 三代目は南北戦争さなかの1861年にピッツバーグで建造された民間の木造外輪船を軍が買い取り砲艦として利用した。1865年7月2日退役。
    • 5代目はエセックス級航空母艦カボット(CV-16)を建造中に4代目が沈んだことでその武勲にあやかるということで改名した。タラワ攻略戦以降中部太平洋での反攻作戦に参加し、マーシャル諸島での戦いでは野中五郎少佐率いる一式陸攻隊の攻撃で損傷している。その後はマリアナ沖海戦、台湾沖航空戦、レイテ沖海戦に参加、沖縄戦は修理のため参加していないが呉空襲などの本土爆撃に参加、終戦を迎える。着艦練習艦として1991年まで現役だった。これはエセックス級で最後の退役だった。その後は博物船となり現代にいたる。
      • 因みに1976年公開の映画「ミッドウエイ」及び2001年公開の映画「パールハーバー」にレキシントンは空母役で出演している。ミッドウエイではヨークタウン三姉妹の役を、パールハーバーでは赤城役を演じている。

この艦娘についてのコメント

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  • 建造成果の報告は建造レシピ内にあるコメント欄に、
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*1 CVやイラストレーター加筆時はそれぞれCV・イラストレーターに出典を記載
*2 当時はきくちみちたか名義
*3 天城型巡戦3番艦と4番艦の艦名を重巡高雄愛宕に。レキシントン級巡戦4番艦を新空母Rangerに。コロラド級戦艦3番艦を新型戦艦Washingtonに…など。
*4 勿論、空母の保有制限枠内の中での改装となる。
*5 コンスティテューションは2016年現在でも大補修を経て健在で、アメリカ海軍に在籍・動態保存扱いされている。ちなみに航海が可能な軍艦では現存する世界最古の艦である。
*6 実戦では使われなかったシステムだが、後年製作された映画「トラ!トラ!トラ!」や「ミッドウェイ」などの撮影で赤城や飛龍役の空母が後方から艦載機を発艦出来たのはこのシステムのお陰なので、リアルな戦争映画の製作に寄与した点では評価できる。
*7 司令官宮田義一少将:機雷敷設艦沖島、水上機母艦神威、第28駆逐隊(朝凪、夕凪)
*8 元々はシャーマンの2期上の先輩だったが、素行不良等で退学処分となり、改めて再入学したのでシャーマンと同期になった
*9 スプルアンス提督やミッチャー提督の参謀長として活躍
*10 因みに日本海軍のでの1910年卒業は海兵38期で三川軍一や栗田健男、五藤存知などが同期になる。
*11 エセックス級等が順次竣工しているが未だ慣熟訓練中
*12 この頃の米海軍は第5艦隊に完成した新鋭空母達を配属していて、ハルゼーの元には中々配属されなかった。
*13 事の発端は12月のクェゼリン攻撃で多少の損害があったものの作戦は概ね成功していたにもかかわらず、中央に司令部が戦意不足であるかのような注進が入り、それがハワイの太平洋航空部隊司令官ジャック・タワーズ中将(スプルアンスとは犬猿の仲で、第5艦隊創設時に司令長官の座を狙っていた)の元にも届き、ニミッツに司令官更迭が進言され、スプアンスらの知らぬ間に決定した事である。またその後任の候補としてシャーマンとミッチャーの名が挙がっていたが、この選定についてもタワーズがシャーマンについて出鱈目の評をニミッツに進言し、ミッチャーと決定してしまった。元々ミッドウェー海戦での経緯詳細は此方でで彼も嫌っていたスプルアンスは、これらの一件をタワーズ一派による陰謀ととらえ、その後太平洋艦隊副司令官兼太平洋区域副司令官となったタワーズと作戦をめぐりたびたび論争を巻き起こすことになる
*14 マケインの指揮官就任は彼のボスであったキング作戦部長による人事であった。だがさすがに未経験者をいきなり空母部隊総指揮官に据えるのは無理があり、しばらく経験を積ませるため、本来なら第3艦隊が空母部隊を指揮する作戦であるレイテ島攻略の際、空母部隊の総指揮を特例でミッチャーが執り、マケインはシャーマンと同格の第38.1任務群の指揮官を務めている(もっとも同作戦ではミッチャーの更に上の司令官であるハルゼーが越権的に空母部隊を指揮していたので、ミッチャーの出番はあまりなかったのだが…) 
*15 1902年アナポリス卒業、戦艦カリフォルニア艦長やアナポリス校長を経て、開戦後第11任務部隊指揮官となる。レキシントンや途中で合流した第17任務部隊を指揮して中部太平洋で空母機動部隊によるゲリラ戦を展開して日本軍を翻弄するが体調を崩し、ニミッツ提督(因みにニミッツはアナポリス1905年卒で後輩にあたる)の計らいで前線を退き、内地での勤務を経てルーズベルト大統領の海軍補佐官となる。1944年12月に退役後も引き続き補佐官を務め、トルーマン政権でも同じ職務を務める。1957年1月2日にニューヘイブン海軍病院で亡くなった。74歳没。
*16 一応15日に7機が空母祥鳳によって輸送され、96式艦戦も14機が所在していたが、増槽が届いておらず、米機動部隊までの長距離飛行が出来なかった
*17 爆撃前に2機撃墜、その後対空砲火と空中戦で7機撃墜
*18 1927年アナポリス卒業、1929年にはペンサコラの飛行学校に入学するなど、早くから飛行機乗りの道を歩む。1941年サンディエゴ基地所属の際に空母エンタープライズ所属を命じられるが、基地での飛行訓練継続をハルゼーに直訴して認められ、訓練の後レキシントンの戦闘機隊「VF-3」の隊長となる。珊瑚海海戦で母艦を失ったので残余機を率いてヨークタウンに移動、その後ヨークタウンが南雲機動部隊迎撃に緊急参戦する事になったので、損耗していたヨークタウンの艦載機にヨークタウンの残余機と、真珠湾に待機していたサラトガの艦載機隊も加わり新たな航空隊を編制、サッチはヨークタウン戦闘機隊「VF-5」の指揮官となり、ミッドウェー海戦に参戦、対零戦戦術として編み出した「サッチ・ウイーブ」で零戦隊に少なからぬ損失を与える。海戦後は内地に戻って教官として戦闘機パイロットを教え、レイテ沖海戦では第38任務部隊(指揮官はマーク・ミッチャー中将)の司令部の一人(参謀長アーレイ・バーク代将の補佐官)として参戦している。終戦時はジョン・マケイン提督の幕僚として戦艦ミズーリ上での降伏調印式にも出席している。その後空母「フランクリン・D・ルーズベルト」艦長、対潜水艦部隊(ASW)司令官、海軍作戦部次長、海軍ヨーロッパ方面軍司令官などを務め、大将で引退。1981年4月15日に76歳の誕生日を目前にして死去
*19 所在18隻中、沈没4隻(横浜丸、天洋丸、金剛丸、第二玉丸)、被害9隻(中破:黄海丸、夕凪、朝凪、小破:ちゃいな丸、夕張、追風、聖川丸、津軽、玉丸)、戦死130名、重軽傷245名
*20 当初は修理のためインド洋作戦に未参加だった加賀の出動が検討された
*21 アナポリス1906年卒でフレッチャーとは同期だが、少将進級ではフレッチャーの方が先任だった。元々水雷専攻の士官だったが1929年6月にフロリダ州のペンサコーラ海軍航空基地で飛行士としての訓練を受けてパイロット資格を取り、空母ラングレー艦長を経て1936年4月から3年ほどレキシントンの艦長も務めている。開戦時は第1空母部隊指揮官としてサラトガに将旗を掲げていたが、1942年1月のサラトガ被雷で一時前線を離れ、今回久しぶりに前線に戻ってきた。海戦後はサラトガに再び将旗を戻してガダルカナル攻防戦に参加、1942年9月20日には南太平洋航空軍司令官となり、陸軍、海兵隊、ニュージーランド軍航空部隊も配下に置いて南太平洋における連合軍の作戦活動に大きく貢献した。1944年の夏にワシントンに戻り海軍作戦部航空次長に就任、停戦翌日の1945年8月16日に海軍兵学校長に選ばれ、兵学校初の航空士官出身の兵学校長となる。1947年7月1日にすべての現役勤務から退任し1978年5月22日にメイン州で死去した。
*22 但し出撃したのはヨークタウンのみでレキシントンは不参加
*23 瑞鶴から嶋崎重和少佐率いる37機(零式艦上戦闘機9、九九式艦上爆撃機17、九七式艦上攻撃機11)、翔鶴から高橋赫一少佐率いる41機(零戦9、九九艦爆19、九七艦攻13)
*24 攻撃隊と翔鶴偵察機は9時45分到着後、付近に米空母がいないか捜索を続け、この頃になってようやく見間違いだと判断して報告してきた
*25 重巡洋艦オーストラリア、シカゴ、軽巡洋艦ホバート、駆逐艦パーキンス、ウォーゲ、ファラガットで編成。
*26 第17任務部隊が敗退した場合、水上戦力で敵攻略部隊を撃退するために分離した
*27 内訳はレキシントンから50機(F4Fワイルドキャット機10、 SBDドーントレス急降下爆撃機28、 TBDデバステーター雷撃機12)、ヨークタウンから42機(F4F 8、SBD 24、TBD 10)
*28 航空隊が祥鳳を小型空母ではなく翔鶴型航空母艦と誤認していたことも理由の一つ
*29 艦爆隊がネオシューとシムスを攻撃したため
*30 瑞鶴から艦攻9機・艦爆6機、翔鶴から艦攻6機・艦爆6機
*31 切り込みとは19世紀初頭までの海戦における主流の戦法で、当時は艦砲等の遠射兵器は技術・威力共に主力兵器となるまでには至っておらず、海戦は艦同士が接舷して乗員同士が白兵戦を行うのが主流だった。砲術長の号令は100年以上も記録上は誰も号令していない命令だったという
*32 F4F 9機、SBD 22機、TBD 12機
*33 F4F 6機、SBD 24機、TBD 9機
*34 零式艦戦9機、九七艦攻8機、九九艦爆14機
*35 零式艦戦9機、九七艦攻10機、九九艦爆19機
*36 F4F 6機、SBD 4機、TBD 11機
*37 後の調査ではレキシントンの艦攻隊は不時着水した1機を除いて全機が生還しているので、宮沢機が体当たりしたのは護衛していたF4Fだったと考えられている
*38 SBDはある程度の格闘性能を持つので、重い魚雷を積んでいて鈍重な艦攻に限定した迎撃任務を持たせていた
*39 海兵63期で同期には岡嶋清熊や黒沢丈夫らがいる。その独特な髭面と「江間」という名前、猛訓練を科す部下への厳しさから「閻魔大王」と恐れられた。⇒同時期の彼の写真。後に内地勤務後、第582海軍航空隊の艦爆隊指揮官として赴任した際、瑞鶴時代の彼を知る元隊員から瑞鶴時代の江間の逸話を聞いた隊員一同が震え上がったという逸話ももつ。レイテ沖海戦では第701海軍航空隊に所属、10月24日米機動部隊攻撃に向かう第一攻撃集団で99式艦爆36機を率いて米機動部隊攻撃に向かうも米軍迎撃機の奇襲攻撃を受け乗機が被弾炎上、錐もみ状態となって墜落するも奇跡的に消火に成功、態勢も立て直して帰還する。終戦まで戦い抜き、戦後いくつかの著書を残している
*40 この燃料漏れは修理されたが、給油艦ネオショーを失っていたこともあり、なんとか補給拠点のトンガにたどり着くが重油は既に使い切り、ディーゼル油を使ってなんとか到着するというギリギリの状況だった
*41 翔鶴隊3機、瑞鶴隊1機
*42 本文に触れられている通り、日本に開国を迫ったペリー提督こと「マシュー・C・ペリー」は9歳下の末弟。海軍兵学校卒業後は士官候補生として父が艦長を務めるフリゲート艦「ジェネラル・グリーン」で勤務、その後1813年に始まった米英戦争エリー湖の湖上戦では大佐として参戦して敵艦を全て拿捕する武勲を上げる。1819年のベネズエラ遠征で土着の風土病に疾患して34歳で死亡し、トリニダート島に埋葬されていた。因みにアメリカで「ペリー提督」といえば日本に開国を迫った弟マシューよりも、兄であるオリバーの方が有名で、戦後東京裁判で出廷した石原莞爾が、判事に「戦争犯罪を歴史のどこまでさかのぼって裁くのか」と質問し、「およそ日清日露戦争にまでさかのぼる」との回答を受けると「それならぺルリ(ペリー)提督をあの世から連れてきて裁けばよい。元々鎖国していた日本に略奪的な帝国主義の世界に放り込んだのはアメリカ等の国だ」と言ったのだが、聞いてたアメリカ側はぺルリ提督と言われてもオリバーの方しか分からず、「何故ここにオリバー・ペリーの名が出るんだ?」と訝しんだ。という話もある。
*43 因みにオリバーの孫トーマス・S・ペリーは1898年から1901年までの3年間、画家である妻と3人の娘と共に来日し慶應義塾大学の英文学の教授を務めている。その3人の娘の一人アリスは駐日大使として日本との関係改善に模索する事になる知日派の外交官ジョセフ・グルーに嫁ぐなど、ペリー一族はなにかと日本と関係していくことになる