No.169 | ||||
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![]() | 一式陸攻 | 陸上攻撃機 | ||
装備ステータス | ||||
火力 | 雷装 | +10 | ||
爆装 | +12 | 対空 | +2 | |
対潜 | +2 | 索敵 | +3 | |
命中 | 回避 | |||
戦闘行動半径 | 9 | |||
装備可能艦種 | ||||
駆逐艦 | 軽巡洋艦 | 重巡洋艦 | 戦艦 | |
軽空母 | 正規空母 | 水上機母艦 | 航空戦艦 | |
備考 | ||||
開発不可、改修不可 全ての艦娘に装備不可、基地航空隊にのみ装備可能 任務「主力「陸攻」の調達」達成報酬 2016年3月作戦報酬*1 2016年春イベントE-2甲作戦、E-4甲・乙作戦、E-5突破報酬 2016年夏イベントE-1乙作戦、E-3乙丙作戦突破報酬 2017年夏イベントE-5丙作戦突破報酬 2019年【節分任務群】報酬の節分の豆と交換 | ||||
改修更新 | ||||
九六式陸攻 → 一式陸攻 | ||||
陸上航空基地より発進、敵艦船への対艦攻撃及び敵飛行場等への対地攻撃などを行った 海軍の主力陸上攻撃機です。戦場の制空権を失った大戦後期は大きな犠牲を払いましたが、 本機「一式陸攻」は、まぎれもない海軍基地航空打撃力の中核として奮戦しました。 |
ゲームにおいて 
- 2016年4月25日に九六式陸攻と共にランカー報酬として配布された、艦これ初の陸上攻撃機。雷装と爆装、両方が付いた装備としても初。
- 2016年8月31日に実装された新任務(クォータリー任務)をクリアすることで九六式陸攻と引き換えに入手可能。入手したら必ず下記の方法でロックしておきたい。
- 『「一式陸攻」性能向上型の調達』をクリアすることでで本装備と引き換えに一式陸攻 二二型甲が入手可能に。
- 2021年1月13日アップデートで九六式陸攻から更新で入手可能になった。
- 同日実装された四式重爆 飛龍の改修では、★+6以降から本装備を1個ずつ消費する。
- 同日実装された四式重爆 飛龍の改修では、★+6以降から本装備を1個ずつ消費する。
- 試製景雲(艦偵型)を入手できる単発任務で1つ消費する。
- 艦娘には装備できず、基地航空隊にのみ装備可能。
- 2016年春イベント「開設!基地航空隊」の突破報酬として入手機会があった。
- 詳しい使用方法は基地航空隊を参照。
- 2016年5月3日アップデートでネームド機である一式陸攻(野中隊)が実装された。
- 2016年6月1日アップデートでは一式陸攻 二二型甲が、2016年8月12日アップデートでは一式陸攻 三四型がそれぞれ実装された。
- 2016年夏イベントでも配布されたが、銀河や三四型など上位陸攻の下位報酬として乙丙難易度でのみ。
- 2019年1月22日、プチイベント【節分任務群】の交換アイテムとして登場。演習、出撃任務をこなすことで節分の豆を入手し、本装備と交換することが出来た。詳しくはアイテムページを参照。
- 九六式陸攻と比較し、爆装・雷装+2、対空・索敵・行動半径+1。性能としては単純に完全上位。
- 一方上位機種も存在しており純粋な陸攻としては下から2番目だが、上位機種は全てイベント・任務・ランカー報酬として入手数が限定されており、量産できる陸攻としては最強。
攻撃したいマスへの攻撃可否を分ける行動半径も1マス長いニニ型を除けば全て一式と同じかそれ以下なので、これを揃えればイベントで想定される攻撃用途は概ね満たせる事になる。- 離島棲姫らへの対地攻撃で参照される爆装はニニ・三四と同じで野中隊でも1しか差が無い為、この点においては上位陸攻と遜色ない威力が出せる。
性能比較表(装備最大値/陸攻早見表/テーブルより転送) 
黄色はトップの性能
装備名 | 火力 | 雷装 | 爆装 | 対空 | 対潜 | 索敵 | 命中 | 回避 | 半径 | 制空値 | 攻撃力*2*3 | ボーキ 消費*4 | 射撃回避 | 入手方法 | 改修 | 備考 | 追加 |
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四式重爆 飛龍(熟練) | 14 | 16 | 5 | 5 | 5 | 2 | 5 | 21 | 149.4 | 252 | ◯ | ランキング | - | 編集 | |||
四式重爆 飛龍 | 14 | 15 | 5 | 4 | 4 | 1 | 5 | 21 | 149.4 | 252 | - | ランキング・節分報酬 | ◯ | 編集 | |||
銀河(江草隊) | 15 | 15 | 3 | 4 | 4 | 3 | 7 | 12 | 158.4 | 234 | ◯ | ランキング | - | 編集 | |||
銀河 | 14 | 14 | 3 | 3 | 3 | 1 | 9 | 12 | 149.4 | 234 | - | イベント、ランキング | △ | 編集 | |||
一式陸攻(野中隊) | 12 | 13 | 3 | 2 | 4 | 1 | 9 | 12 | 133.2 | 216 | ◯ | イベント、ランキング | △ | 編集 | |||
一式陸攻 三四型 | 11 | 12 | 4 | 2 | 4 | 1 | 8 | 16 | 126 | 216 | - | 任務、イベント | △ | 編集 | |||
一式陸攻 二二型甲 | 11 | 12 | 3 | 2 | 4 | 10 | 12 | 126 | 216 | - | 任務、イベント、ランキング | △ | 編集 | ||||
一式陸攻 | 10 | 12 | 2 | 2 | 3 | 9 | 8 | 117 | 216 | - | 任務、イベント、ランキング | - | 編集 | ||||
九六式陸攻 | 8 | 10 | 1 | 2 | 2 | 8 | 4 | 100.8 | 180 | - | 開発、任務、イベント、ランキング | ◯ | 編集 | ||||
深山改 | 17 | 19 | 2 | 11 | 6 | 180 | - | イベント、ランキング | △ | 大型陸上機 | 編集 | ||||||
深山 | 16 | 17 | 1 | 10 | 3 | 180 | - | イベント、ランキング | △ | 大型陸上機 | 編集 | ||||||
爆装一式戦 隼III型改(65戦隊) | 3 | 9 | 6 | 1 | 4 | 2 | 5 | 25 | 36 | 72 | ◯ | イベント | ◯ | 編集 | |||
Do 17 Z-2 | 11 | 2 | 5 | 2 | 4 | 8 | 36 | 234 | - | イベント | △ | 編集 | |||||
試製東海 | 2 | 10 | 5 | 8 | 0 | 102.6~145.8 | 162 | - | 任務、イベント | - | 編集 | ||||||
東海(九〇一空) | 2 | 11 | 6 | 1 | 8 | 0 | 109.8~156.6 | 162 | - | イベント | - | 編集 |
小ネタ 
- 元ネタは日本海軍の陸上攻撃機「一式陸上攻撃機一一型」である。開発符号はG4M1、連合国側のコードネームは「Betty(ベティ)」。
- 元海軍搭乗員さん曰く、読みは「イッシキリクコー」ではなく「イチシキリッコー」が正しいらしい。
- 九六式陸上攻撃機の後継機であり、武装強化と航続距離延伸に主眼を置いて開発された。設計主任は九六式陸攻と同じ三菱の本庄季郎技師。
- 連合軍コードネームの「Betty」は、当時命名に携わっていた情報部のある軍曹の彼女の名前だといわれている。一式陸攻の側面銃座のふくらみを見て、彼女の身体的特徴を思った……とかなんとか。
ところでつまりは巨乳なのか巨尻なのか……じゃない、リア充爆発しろ。
構想と開発の経緯
- より強力な大攻・大艇と共に、日本海軍が思い描いた「漸減邀撃作戦*6」の中核を担うはずだった。
- なぜ大型と中型を混ぜて使おうとしたかというと、お金がなかったから。重武装で防弾もしっかりしている大型陸攻は高価になりがちで多く揃えることができないので、ある程度性能を落とした中型陸攻とのハイ・ローミックスで数を補おうとしたのである。
- そして十二試陸攻はインテグラルタンク*7の採用や徹底して無駄を省いたことにより海軍の要求以上の性能で完成。晴れて一式陸上攻撃機として制式採用されることになった。
- ところが、肝心要の大攻の開発に失敗。海軍は本来サブとして使うはずだった中攻を主力として使わざるを得ない事態に陥ってしまう。
そして後世の目で見れば妙にタフな飛行艇が浮いた存在に見えるのである。 - 性能向上に重点を置いて防弾を削ったために、被弾にモロくなってしまい米軍から「ワン・ショット・ライター」「フライング・ジッポー」と呼ばれたとか。詳しくは後述。
- 勿論海軍はこれを無視していたわけではなく、最初の11型はインテグラルタンク前後側面に防弾ゴムを貼っただけだったが航続距離の短縮を嫌って根本的な解決はなかなかせず*9、その後1943年になって航続距離が減るのを覚悟の上で既に生産・新規生産されていた11型の主翼タンク下面に30mm厚の防弾ゴム貼り付けて消火装置*10の設置などを行った仮称13型が前線に送られ、前線からの報告によると被弾に対して一定の効果はあったようだ。22型では防弾面では仮称13型と変わらず、1944年3月に完成した三四型でようやくインテグラルタンクからゴム皮膜の内蔵タンクに変わったものの、後継の陸上爆撃機「銀河」の配備が始まっていたこともあって少数生産に終わっている。
- なおこの型では燃料搭載量は最大から2000lほど減り、航続距離もおおよそ2/3になってしまった。
- そもそも、いくら大攻が控えているとはいえ中攻の防弾をこの程度でもよしとしたのは、いつもの「20mmに対する過信」がよく言われている。
- 「将来20mm機銃が主流になり、それを防げる防弾装備は無理だから、代わりに速度と高高度性能を向上させて被弾を減らす」という思想である。ところが実際には連合軍の主流は12.7mm止まり。結論として、海軍の方針は少々極端すぎたといえる。
- ただし、イギリスやソ連は自国の航空機では20mm機銃を装備しており、12.7mmを大々的に使っているのはアメリカ軍のみである。そもそもアメリカが12.7mmを使い続けたのは彼らの航空ドクトリンが少々特殊だったからである。
簡潔に言うと、「そもそも航空火器に重要なのは火力でも発射速度でもなく命中精度!!よって20mmより12.7mmの方が優秀!!」という感じである。多連装なのも射線を増やすことで命中弾の増加を狙った思惑があったのだ。
- ただし、イギリスやソ連は自国の航空機では20mm機銃を装備しており、12.7mmを大々的に使っているのはアメリカ軍のみである。そもそもアメリカが12.7mmを使い続けたのは彼らの航空ドクトリンが少々特殊だったからである。
- 「将来20mm機銃が主流になり、それを防げる防弾装備は無理だから、代わりに速度と高高度性能を向上させて被弾を減らす」という思想である。ところが実際には連合軍の主流は12.7mm止まり。結論として、海軍の方針は少々極端すぎたといえる。
技術的特徴
- 本機の特徴として、胴体を太い葉巻型としたこと、防御火力の充実を図ったこと、長大な航続距離を持つこと、大型双発機としては異例の運動性を持ったこと、などがある。
- 太い葉巻型の胴体は広く、胴体内に爆弾槽を設けてむき出しだった爆弾や魚雷を収容したり、尾部に銃座を設けることが可能になった。
- 本庄技師は、以前からの風洞実験などで葉巻型の胴体は太くてもそれほど空気抵抗が増さないことに気づいていた。そのため、九六陸攻では尾端にかけて絞り込んでいた胴体をぐっと太くすることにした。結果は良好で、特に空力性能悪化の原因になっていた雷爆装を機体内部に収容できたのは、燃費と速度の向上に役立っている。
- 爆弾槽には覆いが設けられていたが、初期の型では構造複雑による重量増加を嫌って開閉式とされなかった。そのため偵察時は整形のために取り付けたものの、攻撃装備の時は取り外していた。一式陸攻の写真で腹がへこんでいるように見えるのものは、爆弾槽扉を取り外した機体のものである。
- 後期型ではちゃんと開閉式の扉に改められている。ところが、高速で飛行すると「気を許したハマグリのように」徐々に開いてしまう不具合があったとか。
- 九六陸攻が渡洋爆撃で大損害を出したのは防御火力の不足が原因とされ、九六陸攻の火力増強とともに新型陸攻では20mm機銃を最初から搭載することとされた。
- 本命の20mm機銃は尾部銃座に1丁を配置。側面銃座にそれぞれ7.7mm機銃を1丁ずつ、操縦席後ろに後上方銃座を設け7.7mm機銃を1丁。また九六陸攻で廃止された機首銃座を復活させ7.7mm機銃を1丁。合わせて20mm1丁7.7mm4丁という当時の日本軍機としては強力な防御火力を得た。
- 九六陸攻で機首銃座が用いられなかったのは指揮運用のしやすさであった。当時の機長や隊長は偵察将校が担うのが常識で、機首銃座があればその銃手を務めた。機首銃座を廃し、偵察員兼指揮官を胴体中央に持ってくることで指揮運用をしやすくしようとしたのである。
しかしそれは防御火器の死角を生んでしまい、渡洋爆撃では正面から突っ込んでくる敵戦闘機に応戦できないという極めて重大な欠陥が判明した。そのため、新型陸攻では機首銃座を再び設けることになったのである。 - だが機長が機首に行きっぱなしではやはり都合が悪いため、胴体後部に機長席を設けて状況に応じて使い分けられるようにした。
一式陸攻では爆撃手が機首銃手を兼任した。
- 九六陸攻で機首銃座が用いられなかったのは指揮運用のしやすさであった。当時の機長や隊長は偵察将校が担うのが常識で、機首銃座があればその銃手を務めた。機首銃座を廃し、偵察員兼指揮官を胴体中央に持ってくることで指揮運用をしやすくしようとしたのである。
- 防御火力は生産が進むにつれてさらに強化され、最後には後上方銃座は動力銃塔に、側面銃座はブリスタータイプから平窓にしてそれぞれ20mm機銃に換装。機首銃座は動力操作の13mm機銃に換装され、襲い掛かる敵戦闘機に対して強固に抵抗した。一方防弾装備はかなりゆっくりとしており、一一型で既に前後桁と燃料タンク側面に防漏ゴムを装備していて、既存配備の一一型を改修&新規生産の仮称一三型ではタンク下面にも防漏ゴムの追加と消火装置を装備しているが、乗員区間の防弾装甲は無し。二二型でも防弾面では変わらず。大戦終盤辺りから生産された二四丁型よりようやく乗員区間にも防弾装甲が装備され、三四型でもこれを継承する。
- 本命の20mm機銃は尾部銃座に1丁を配置。側面銃座にそれぞれ7.7mm機銃を1丁ずつ、操縦席後ろに後上方銃座を設け7.7mm機銃を1丁。また九六陸攻で廃止された機首銃座を復活させ7.7mm機銃を1丁。合わせて20mm1丁7.7mm4丁という当時の日本軍機としては強力な防御火力を得た。
- 長大な航続距離は前述の漸減邀撃作戦を行ううえで必要とされ求められたものだが、一式陸攻では九六陸攻に引き続き主翼内をインテグラルタンクとすることで実現した。
- 要求された最大航続距離は2600海里≒4815km以上。九六陸攻の4550kmでも大概だが、当時の一般的な双発機をはるかに上回り四発機に匹敵するものであった。
- 必要な燃料搭載量は5000Lを超えると試算されたが、胴体は人間と爆弾ですでにいっぱい。翼内に別組みのタンクを収める従来の方式でも必要量を満たせないと判断した本庄技師は、翼そのものをタンクとすることで解決することにしたのである。
- 当然海軍は懸念を示した。被弾した際の危険性
そこで、シーリングにはなお一層の研究を重ねること、タンクには人が直接入れる点検口を設けることを伝えると、海軍も要求を満たすためなら、とインテグラルタンク採用を認めたのだった。
- 一式陸攻の運動性はひとえに本庄技師の設計の優秀さにある。
機体形状の空力学的洗練に加え、当時の常識より小さくとられた舵面によってよく効く舵になったという。- 重心設定をギリギリまで前方にずらした結果でもあるが、反面着陸時のブレーキ操作で逆立ちの危険があり、着陸時には手空きの搭乗員は後部に移動したという。
- 離陸時にはタキシング中はブレーキ操作で機体が逆立たないように手空きの搭乗員が後部に移動し、いざ離陸となると今度は前方に移動するという、まるで潜水艦のようなバランス調整を行っていたとか。
- 尾輪にステアリングが無く、単尾翼を採用したことでエンジン後方気流を利用した操舵もできなくなり、滑走路へのタキシングが九六陸攻より難しくなったとの評価もある。
- 海軍側の離陸距離600m以下の要求を満たしたSTOL機でもあり、良好な馬力荷重と低い翼面荷重により数字上は空母からの発艦が可能である。え、翼が艦橋にぶつかる……?
???「ウチの出番やね!」 - また本機は最高時速453kmという俊足を誇った。これを実現するために、葉巻型の胴体はもとよりエンジン後方に最大直径を持ってきたエンジンナセル、双発爆撃機としては薄く押さえられた主翼など随所に工夫が施されている。
- 本機の主翼は九六陸攻とほとんど同じサイズだったが、断面形状は改良されたものを用いている。厚さは当時の双爆が15~18%ほど*11であったのに対し12.5%と異例の薄さであった。
- 重心設定をギリギリまで前方にずらした結果でもあるが、反面着陸時のブレーキ操作で逆立ちの危険があり、着陸時には手空きの搭乗員は後部に移動したという。
一式陸攻の四発案は実在したのか?
- 一式陸攻の開発時に四発化案があった、というのはよく語られる話である。以下は「海鷲の航跡」(海空会編、1982年)からの引用。
軍と三菱の第一回一式陸攻試作打ち合わせ会で、
「九六陸攻の性能をさらに向上させる技術は特に見当たらず、馬力増大以外には無かったにもかかわらず、海軍側の出した一式陸攻の試作要求項目は、いたずらに機械としての効率が良いことに偏り、軍用機としての強さが不十分のように思う。それには防弾と消化および機銃性能の強化が必要である。要求項目を満足する機体はできるが、攻撃に対する防備が不十分に思う。特に小柄な機体に長い航続距離の要求は機体のいたるところに燃料タンクがあることになり、被弾すればそこに必ず燃料タンクがある状態になる。この弱点をなくすには四発機にする以外に方法がない。これによって、大きな搭載量と空力性能と兵儀装の要求を満たし、増やした二発の馬力で防弾用鋼板と燃料タンクの防弾と消化装置を運ぶのだ」
と説明した。それに対して和田操空技廠長は、
「用兵については軍が決める。三菱は黙って軍の仕様書どおり双発の爆撃機を作ればよいのだ」
という一言で、重要な意見は議論もされず棄却されたのであった。
- 以上の記述から、一式陸攻の四発架空機やそれに関連する架空戦記が多く出ているわけだが、実はこの話は一式陸攻の開発時にはなかった可能性がある。
- 三菱社内に残る資料にはこの話は十六試中攻「泰山」の開発時のことと記されている。
また横森周信氏の「海軍陸上攻撃機」(サンケイ出版、1979年)でもこの逸話は十六試中攻の時の出来事とされている。本書は本庄技師の回想を多く引用しているが、一式陸攻の開発時にこの話は触れられていない。 - 十六試中攻「泰山」の最初の要求性能は『一式陸攻と機体規模と搭載量は同じで防御火器を強化し防弾タンクを装備、最高速度556km/h最大航続距離7400km以上に向上させ急降下爆撃を可能とする』という一式陸攻をはるかに上回る滅茶苦茶なもので、前任機から大きく向上させることを求められたという点で相似している。したがって、後年になって本庄技師が取り違えた可能性もないとはいえない。
- 三菱社内に残る資料にはこの話は十六試中攻「泰山」の開発時のことと記されている。
- 今後新たな資料が発見されて一式陸攻でも四発機案があったことが証明されるかもしれないが、今のところ、この話は十六試中攻の開発時のみであった可能性が高いといえる。
活躍と終焉
- 一式陸攻の初陣は日中戦争最中の昭和16年8月。零戦と共に成都の航空基地に対する攻撃を行った。この時中国軍の邀撃機は一式陸攻が飛行する高度8000mに達することができず、また基地上空で待ち構えていた戦闘機も先行する零戦によって叩き落され、陸攻隊は損害なしで敵基地に壊滅的被害を与える戦果を挙げた。
- 太平洋戦争においても一式陸攻は多くの戦果をあげている。
- 真珠湾攻撃後の12月8日の昼頃、フィリピンのクラーク飛行場に高雄空と第一航空隊が合同で空爆、さらに高雄空はイバ飛行場にも空爆を行い両飛行場の破壊、及び零戦隊の銃撃戦果と合わせて駐機されていたアメリカ軍の航空機をクラーク飛行場にて48機、イバ飛行場では60機を地上撃破という大戦果を挙げている。なお迎撃に上がってきたP40戦闘機30機は零戦隊と交戦しており、P40側が25機が撃墜され、零戦側は7機の損失であった。
- この空襲で極東アメリカ航空軍は保有していた航空機の過半数を喪失、航空搭乗員や地上基地要員を多数喪ったことで事実上壊滅している。
- 昭和16年12月10日、マレー半島沖で生起した「マレー沖海戦」では九六陸攻と共同で英戦艦「レパルス」「プリンス・オブ・ウェールズ」の2隻を航空攻撃のみで撃沈。航空戦力の有用性を世界に知らしめる結果となった。
- その後も高高度からの爆撃では零戦と共同して被害を抑えつつ戦果をあげている。
しかし対艦攻撃においては、開戦前から予測された通り艦艇の対空砲火が著しく強化されて低空への侵入自体が熾烈なものとなった。珊瑚海海戦の戦訓では「今後雷撃は強襲しかなくなるだろう、高度500mから投下できる魚雷が望まれる」と魚雷の更なる遠距離投下で離脱確率上昇を要望されたほどである。*13小型の艦攻ですら「味方機の損耗と引き換えに刺し違えを図る」様相を呈してきた。ましてや高性能のために防弾を削った陸攻において……。機は対空砲火で次々に失われていき、開戦時の高練度を誇る陸攻隊は見る影もなくなっていった。 - 昭和17年2月には本命の空母機動部隊とも死闘を繰り広げている。ところがこの頃には米軍は既にレーダーを実用化しており、護衛機無しでの攻撃だったこともあり攻撃位置にすらたどり着けない機が続出。機体の喪失はもとより、ベテランの搭乗員も多く失う結果となった。
- 昭和17年8月から11月にかけ、陸攻隊はあっちで爆撃をしてはこっちで雷撃をしまたそっちで補給物資を投下するような忙しい日々を送ったが、日増しに増える損害は累積していき、次第に出せる数も減っていった。
- この3ヶ月で陸攻隊は100機以上を喪失。失われた人材はそう簡単に取り戻せるものではなくこれ以降は再建もままならずほぼ弱体化の一途をたどった。
- さらに戦局が進むと敵戦闘機も高度8000mへ上がってくるようになり、対地爆撃にも影が差し始める。
- 改良型も開発されたものの二型は武装強化、爆弾槽扉の開閉化、翼形状の変更による航続距離の延伸のみで技術的な面から開発には時間が掛かるとして、防弾強化は防漏ゴムと消火器の増設程度となっており、大規模な装甲化に関しては24型丁、つまり桜花搭載母機まで待たなければならない。
- またこの頃は、海軍の方針転換や前線からの陳情で連続して仕様変更が行われ、生産に支障が出ている。
- 結果として零戦も陸攻も消耗し、少数で送り出された攻撃隊は大きな損害を出していったのである。
- 数が揃わなくなり、昼間攻撃が難しくなった後は、夜間攻撃に出撃するようになる。
- 真珠湾攻撃後の12月8日の昼頃、フィリピンのクラーク飛行場に高雄空と第一航空隊が合同で空爆、さらに高雄空はイバ飛行場にも空爆を行い両飛行場の破壊、及び零戦隊の銃撃戦果と合わせて駐機されていたアメリカ軍の航空機をクラーク飛行場にて48機、イバ飛行場では60機を地上撃破という大戦果を挙げている。なお迎撃に上がってきたP40戦闘機30機は零戦隊と交戦しており、P40側が25機が撃墜され、零戦側は7機の損失であった。
- ガダルカナル島を含むソロモン諸島では、ラバウルより陸攻隊が爆撃や雷撃を行ったり輸送、偵察、哨戒も行っている。対艦戦果だけを挙げると、レンネル島沖海戦では九六式陸攻と共に攻撃を行い、重巡シカゴを撃沈、駆逐艦ラ・ヴァレットを大破させることに成功した。また、同様に11月8日、ソロモン諸島ブーゲンビル島のエンプレス・オーガスタ湾沖で軽巡バーミングハム*14を大破させるなどしっかり活躍をみせている
- 昭和18年4月18日、連合艦隊司令長官・山本五十六大将がブーゲンビル島で戦死した「海軍甲事件」で、山本が搭乗中に撃墜された機体として有名であり、数々の戦争映画で山本最期のシーンに本機が登場した。*15
山本が搭乗した一式陸攻の左翼は、新潟県長岡市の山本五十六記念館に展示されている。 - また、昭和19年10月15日台湾沖航空戦で第二十六航空戦隊司令官・有馬正文少将*16が自ら搭乗して自爆突撃を敢行したのも本機である。
- 有馬少将は「戦争は老人から死ぬべきだ」との持論があり、自ら実践して見せたのだが、その思いは通じることはなく、多くの若者が特攻に駆り出されることになる。
- 戦争末期には特攻兵器「桜花」の母機としても使用された。
- 「桜花」とは簡単に言えば人力操舵の巡航ミサイル、紛う事無き「アレ」である。詳しくは各自調べられたし。
- 桜花を扱った作品としては、松本零士作の「音速雷撃隊」とそれを原作とした「ザ・コクピット」が有名。
- 第七二一海軍航空隊、通称「神雷部隊」が桜花特攻部隊としては有名である。詳しくはコチラ。
- ちなみに、桜花唯一の撃沈戦果である駆逐艦マナート・L・エベールを撃沈した土肥三郎中尉の搭乗機を投下した、攻撃第七〇八飛行隊の一式陸攻(三浦北太郎少尉、後日の出撃で戦死)は追撃を振り切り無事生還している。
- 「桜花」とは簡単に言えば人力操舵の巡航ミサイル、紛う事無き「アレ」である。詳しくは各自調べられたし。
- なお、一式陸攻は終戦作業の一環である緑十字飛行に従事した機体のひとつである。
- 緑十字飛行とは、終戦直前から1945年10月に全航空機の飛行禁止が下命されるまで連合軍監視下で行われた飛行の総称である。用いられた機体は白く塗られ、緑色で十字が描かれたことからこの名がついた*17。
- とりわけ、一式陸攻と本機の輸送機型である一式陸上輸送機の2機は、終戦交渉のための交渉団を木更津海軍基地から沖縄の伊江島まで送り届けている。交渉団は伊江島から連合軍機でマニラに向かい、条件交渉のあとは再び伊江島から緑十字飛行を行うこととなった。しかし、一式陸攻は故障のため飛行できず、先行した一式陸上輸送機は燃料切れで静岡県磐田市の海岸に不時着。幸いに代表団は怪我もなく翌日東京に帰着、遅れてやってきた一式陸攻は無事に木更津に帰りついた。この飛行が行われた1945年8月19日が、大日本帝国海軍による最後の公式飛行とされている。
- ちなみに木更津に帰り着いた一式陸攻は9月末に破壊。不時着した輸送機はしばらく海岸に放置されていたものの、はずせる部品をあらかた盗まれた後台風の大波に飲まれて姿を消した。
ところが、2006年に尾翼が、2011年に燃料タンクが発見されちょっとした話題を呼んだ。
- ちなみに木更津に帰り着いた一式陸攻は9月末に破壊。不時着した輸送機はしばらく海岸に放置されていたものの、はずせる部品をあらかた盗まれた後台風の大波に飲まれて姿を消した。
『ワン・ショット・ライター』
- 今現在、一式陸攻の話に「ワンショットライター」や「フライングジッポー」の渾名はもはや定番である。が、この渾名も、戦後付け足されたデマである可能性が大いにある。
- この言い回しは1952年に出版された書籍で既に言及されている。また横森周信氏によれば、ガダルカナル攻防戦のころには「一式ライター」という呼び名が一般にも知られ始めていたとされる。
- ただ、現在残っている米軍のガンカメラ映像では即時炎上する機体は少なく、また一式陸攻のしぶとさを評価するパイロットや司令官もいた。そのため現在ではいくつかの由来が推定されている。
- 米軍パイロットが言い始めた説。
- 関係者が「ゼロ・ファイター」に対して自嘲した「ワン・ライター」が人に伝わる間に変化した説。
- 日本機のイメージを貶めえるためのただの蔑称という説。
- 後世の人間が上記防弾機構の問題から創作したという説。
- なんにせよ、戦争当時から本当にワンショットライターなどと呼ばれていたのかは不明である。
- 損害が大きかったため極めて貧弱だったと言われることもあるが、実際には頑丈だったというアメリカ側の証言もある。
- 陸攻隊の墓場と呼ばれたガダルカナル島などソロモン諸島ではの数は日米互角でありアメリカ側もこの時期は決して楽な戦いをしていなかった。
- 一例を上げれば、昭和17年8月8日、ラバウル航空基地から四空、三沢空の一式陸攻27機(全機雷装済)が台南空の零戦15機の護衛のもと出撃した。途中四空のうち4機が引き返し*1823機となった一式陸攻がガダルカナル島周辺の米海軍艦艇を攻撃するために飛行を続けた。アメリカ側はブーゲンビル島に監視員*19*20により、日本軍の航空隊が向かってきたことを知っていたが、アメリカ海軍艦艇はレーダーの不調により、早期迎撃に失敗しツラギ島*21まで陸攻隊は無傷で侵攻した。しかし、アメリカ海軍のF4F-4戦闘機に襲われ陸攻4機が被撃墜。それでもなお陸攻隊は突撃陣形を作り、低空雷撃を行った。最も被害を受けたのは艦艇からの対空砲火であり、約8機ほどが連続して被撃墜された。さらに1機は尾輪を海面に接触させた為不時着水、もう一機は旋回退避中右翼を海面に接触させてしまい水没という事故も起こしている。攻撃終了後、さらにF4F-4に襲われ4機が被撃墜した。結局のところ、ラバウルに帰還したのは5機であり*22一式陸攻の損害は18機、零戦も1機が自爆とかなり甚大な被害であった。数十人分の席が一度に空いた食堂は寒々としていたという。戦果は輸送艦ジョージ・F・エリオットが魚雷と陸攻の体当たりにより撃沈、駆逐艦ジャーヴィスが大破した。
- ちなみに前日の8月7日に台南空の零戦18機の護衛の元、四空の一式陸攻27機はラバウルより出撃し艦艇に対して爆撃するも戦果無し、もしくは駆逐艦一隻が小破させた。陸攻隊の損害はレーダー誘導された60機の米軍戦闘機の迎撃と、対空砲火により陸攻4機が撃墜され2機が不時着大破した。また、零戦隊も2機が未帰還、坂井三郎一飛曹が頭部に7.62mm弾を被弾し重傷を負った。
- 戦果は小さいものの、雷撃時と違い、迎撃の規模が大きいにも関わらず爆撃時は被害が少ないことが分かる。
- 対日爆撃に投入されたB-29が無視できない損害を出したように迎撃戦闘機や高射砲陣地などで強固に守られた目標に向かっていった攻撃隊はいずれも無傷では済まされなかった。護衛の戦闘機もつけず無策で突っ込ませるなら、米軍の超重爆だろうが、ソ連の襲撃機だろうが、独軍の急降下爆撃機だろうが、大して変わらない。
- ただし防弾を無視しろというわけではなく、当然通常通り運用するのならば、陸軍の100式重爆のように防弾性は存分に効果を発揮できる。あくまでそういった防弾を活きるのは護衛戦闘機が居て初めて機能する。一式陸攻の場合、護衛及び爆撃に徹するのであれば被害は抑えれるということは事実なのだが、やはり防弾機能は重要である。
- また、特に損害が大きかったのが『低高度からの対艦攻撃』に多かったことも注目しておきたい。
- 戦闘機の主兵装が機銃だった当時、それなりの速度の大型爆撃機に対する迎撃法は『後上方または後下方からより多くの弾丸を機体に叩き込む』ものであった。しかし高度8000mを飛行されるとここから上記のような攻撃を仕掛けるのは1万m付近に上昇する必要があり、そうなってくると米軍機でも容易なことではなかった。アメリカ陸軍航空隊ではP-40は言うまでもなく迎撃が困難で、本来迎撃機であったP-38を投入した。P-38は零戦搭乗員からすればペロハチと呼ばれた機体だが、動きが鈍い陸攻、艦爆、艦攻隊員からはかなり厄介な相手として見られていた。無論いくら日本軍でも、艦戦の護衛を付けたので、奇襲を除いてP-38でもそう簡単に手出しはできなかった。
米軍も高々度爆撃をする日本軍多発爆撃機には手を焼いているし、逆にB-17でも落ちるときは落ちた。 - 対して低高度を長時間、『目標に向かってまっすぐに』飛び続けなければならない雷撃は、そもそも非常に危険な任務である。上方や下方からの攻撃は受けにくいものの、高度による制約を受けない敵戦闘機は容赦なく付きまとってくるし、艦船からの対空射撃も非常にやりやすくなる。「活躍と終焉」でも述べたが、小型の艦上攻撃機でさえ著しい犠牲を強いられる雷撃任務に、大型で動きも鈍い多発機を投入するのは非常に無茶なことだが、陸上基地から敵艦船を雷撃する際は長距離飛行することが多かったので、単発機では空母などを使用しない限り到底長距離飛行に適してるとは言い難く、日米でもよく攻撃前後での飛行中に海上で燃料切れを起こし不時着→波に攫われて行方不明ということも多々あったことを考えるとこちらも無茶なことである。これは日本だけに限った話ではなく当時の状況的に見てみると双発爆撃機を雷撃機に転用する事例は多く、アメリカではB-26が、ドイツではJu 88・He111・Do 217の改造機が、イタリアのサヴォイア・マルケッティ SM.79などが大戦中に雷撃任務も行っていた*25。またイギリスもあのデ・ハビランド モスキートの雷撃仕様を製造している。艦上雷撃機がギャグのような不作ばかりだったので艦上機化しようとしたこともある。夜間戦闘機としてのモスキートの前任者であるブリストル ボーファイターも戦闘雷撃機という仕様だった。
- 戦闘機の主兵装が機銃だった当時、それなりの速度の大型爆撃機に対する迎撃法は『後上方または後下方からより多くの弾丸を機体に叩き込む』ものであった。しかし高度8000mを飛行されるとここから上記のような攻撃を仕掛けるのは1万m付近に上昇する必要があり、そうなってくると米軍機でも容易なことではなかった。アメリカ陸軍航空隊ではP-40は言うまでもなく迎撃が困難で、本来迎撃機であったP-38を投入した。P-38は零戦搭乗員からすればペロハチと呼ばれた機体だが、動きが鈍い陸攻、艦爆、艦攻隊員からはかなり厄介な相手として見られていた。無論いくら日本軍でも、艦戦の護衛を付けたので、奇襲を除いてP-38でもそう簡単に手出しはできなかった。
- 米海兵隊のエース、ジョセフ・J・フォス大尉がフライトシム*26を監修した際、一式陸攻を十分な耐久力や防御火力を持つ機体とするように要請した。その理由として彼は「一式陸攻は脆い機体ではなかった」と述べたとされる。
- フォス大尉が乗っていたF4Fでは、高高度を高速で飛ぶ一式陸攻に攻撃をかけられるチャンスは多くないが、それでも一式陸攻がソロモン海で損害を受けたのはF4Fの戦術の変化である。まず一式陸攻も高高度爆撃ばかりではなく、中高度~低高度での爆撃任務もあった。そしてF4F隊は陸攻隊より1000mほど高いところまで上昇したのちに反航戦で接近し、陸攻隊の斜め前上方から急降下して陸攻の頭上から銃撃の一斉射撃を加える、というものであった。上部からの激しい攻撃により陸攻の犠牲が増え、運よく墜落寸前までになった機体も結構あったが、ラバウル~ガダルカナルは片道1000kmと一式陸攻でも航続距離に余裕はなく、中には被弾して燃料が漏れが止まらないのでラバウルまで戻れずに帰路途中で未帰還機も出したりした。
- この点については重装甲を誇るB-29も実は494機の戦闘喪失*27を出しており、その中には42-65218号機*28のように日本軍の迎撃を逃れても被弾により帰路途中で燃料漏れや着陸時の事故、操舵不能により未帰還機を出していることも無視できない。やはりある程度は爆撃機の長距離での飛行を前提として任務の手前、被弾により未帰還になるリスクは付き物なのも考える必要が出てくるだろう。
- 余談だがB-29にも“急所”があった。高々度を長距離飛行するためののっぺりとした胴体に高アスペクト比の細い主翼のため主翼付け根が脆かったのである。さらに与圧キャビンが仇となってここに被弾すると容易に空中分解する恐れがあった。しかもこの主翼付け根の“急所”は日本軍にバレており戦闘機はここを狙ってきたと言う。日本軍は胴体構造を解析したわけではなかったので“圧縮酸素瓶がこのあたりにあるため”と勘違いしていたようだが、クルーにとってみればそこを狙ってくるわけでたまったものではなかっただろう。
- フォス大尉が乗っていたF4Fでは、高高度を高速で飛ぶ一式陸攻に攻撃をかけられるチャンスは多くないが、それでも一式陸攻がソロモン海で損害を受けたのはF4Fの戦術の変化である。まず一式陸攻も高高度爆撃ばかりではなく、中高度~低高度での爆撃任務もあった。そしてF4F隊は陸攻隊より1000mほど高いところまで上昇したのちに反航戦で接近し、陸攻隊の斜め前上方から急降下して陸攻の頭上から銃撃の一斉射撃を加える、というものであった。上部からの激しい攻撃により陸攻の犠牲が増え、運よく墜落寸前までになった機体も結構あったが、ラバウル~ガダルカナルは片道1000kmと一式陸攻でも航続距離に余裕はなく、中には被弾して燃料が漏れが止まらないのでラバウルまで戻れずに帰路途中で未帰還機も出したりした。
一式陸上攻撃機の今
- 一式陸攻は損失率が高く、また残った機体も戦後処理でほとんどが破壊。数機がアメリカに持ち帰られたとみられるものの、完全な形で残っている機体は今現在世界のどこにも存在しない。
- 妖精さんが持っているのは零戦にも搭載されてる九九式二〇粍機銃の旋回機銃版で、尾部銃座に搭載されていたもの。後に後上方、側面にも装備されたのは上で述べたとおり。
- ちなみにこのイラスト、目立った突起の無いつるりとしたエンジンカウリングやブリスター銃座、胴体下面は無塗装仕上げになっているなど一型の特徴をよく捉えている。
垂直尾翼は本来こんなに角ばってないけど。
- ちなみにこのイラスト、目立った突起の無いつるりとしたエンジンカウリングやブリスター銃座、胴体下面は無塗装仕上げになっているなど一型の特徴をよく捉えている。
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