艦娘がプロフィールやセリフとして使用していたり、関連する用語(造語含む)を紹介。
あ行
アイアンボトムサウンド/アイアンボトム・サウンド | |
読み | - |
使っている艦娘 | 夕立、衣笠 |
意味 | ソロモン諸島のサボ島・フロリダ諸島とガダルカナル島の間に位置する海峡。 当地の昔の名前は「サボ海峡」、命名者は16世紀のスペインの探検家メンダーニャ。WikiPedia.ja:アルバロ・デ・メンダーニャ・デ・ネイラ 太平洋戦争中、日米の大消耗戦となったガダルカナル島の戦いやソロモン海戦(第一次・第三次)により多数の艦船、航空機がこの海域に沈んだ。 海底を鋼鉄の残骸が埋め尽くしたことから、戦後誰ともなく「アイアンボトムサウンド(鉄底海峡)」と呼ばれるようになり、現在は当地の正式な名称として置き換わり、絶好のダイビングスポットとして有名となっている。 艦これに登場する艦で挙げられる内でも主人公の「吹雪」を始め「暁」「綾波」「霧島」「比叡」「古鷹」「夕立」「巻雲」「高波」「照月」がここに眠っている。 細かいことだが、自己紹介にて夕立は「アイアンボトム・サウンド」、衣笠は「アイアンボトムサウンド」と呼称(記述)している。 なお、「サウンド」は古代英語を語源とした「海峡」という意味の単語であり、同一スペルだが「音」のサウンドではないので注意しよう。 ついでに言うと、鉄底の材料は外でもない彼女たちの亡骸なので、在りし日の彼女たちからこの名で呼ばれたことはほぼ無い。 参考:http://www.ne.jp/asahi/kkd/yog/gf4_6.htm |
アウトレンジ | |
読み | - |
使っている艦娘 | 瑞鶴、瑞鳳 |
意味 | [射程:短]の敵の攻撃は届かないが[射程:長]のこちらの攻撃は届く距離から先制攻撃を行い戦況を有利に進めよう、といった考え。アウトレンジ戦法。 軍縮条約により米国に数で劣る日本軍が、艦隊決戦を有利に行うために考え出された。 発想は容易だが実行は困難で、特に艦載機による長距離攻撃にはかなりの練度を要した。 長大な航続距離を持つ一式陸攻、米魚雷の4倍以上の最大射程をもつ酸素魚雷、米海軍を上回る砲戦距離を維持できる戦艦群など、多くの兵器がアウトレンジ戦法を主眼として開発された……というのが10年ぐらい前までの定説。 現在では色々と当時の資料が出てきて、「必ずしもアウトレンジの為に開発されたのではない(=結果的にその様に使われたのは認める)」という感じである。 例えば長大な航続力を持つことで有名な零戦は、元々艦隊防空のために長い滞空時間を要求されており、航続力を要求されたものではなかった、などの例がある。 瑞鶴、瑞鳳両名がアウトレンジにこだわるのは、マリアナ沖海戦で数・質・練度の殆どで負けている米軍機動部隊に対し見出した唯一の勝ち目ながら、それすら容易く破られたため。 ただゲームシステム上、互いの砲撃が届く位置での殴り合いになりながら「アウトレンジで決めたいわねっ!」と言うことになるが、それは言わぬが花というものか。 |
赤煉瓦 | |
読み | あかれんが |
使っている艦娘 | 飛龍 |
意味 | 海軍省・海軍軍令部の通称。本庁舎の建物がイギリスから輸入した赤煉瓦づくりだったことに由来する。 所在地は霞が関にあった。*1(場所は現在の厚生労働省・環境省合同庁舎の位置) 戦争末期の山の手空襲で本庁舎は半壊。残った建物も1980年代までに老朽化と狭隘化により取り壊され、海軍時代の建物は残っていない。 また、海軍省地下防空壕筐体の一部は現在の千代田線霞ヶ関駅として使われている。 余談だが、通称”赤煉瓦”と呼ばれる建物は各地に存在するため、話題にするときは相手との連想対象のすれ違いに注意。 海軍関係の建造物では、海軍兵学校や舞鶴赤レンガ倉庫群などがよく赤煉瓦と呼ばれる。 これとは別に、デスクワーク畑ばかりを歩み続けた軍人を「赤煉瓦」と呼称する場合がある。具体例では任期の大半を陸上勤務で過ごした井上成美提督など。対義語は艦隊勤務ばかりを歩み続けた軍人に対する「両舷直」。 |
アレ | |
読み | - |
使っている艦娘 | 北上 伊58 竹 |
意味 | 「人間魚雷回天」九三式三型魚雷の機構を流用して作成された特攻兵器の事。 九三式魚雷の炸薬量490kgに比べ780kgと1.5倍以上も多く、命中すれば輸送船や巡洋艦クラスは1発で撃沈、戦艦や正式空母でも最低大破、撃沈も十分にある破壊力があった。 一方では取り扱いが難しく、訓練中の死者は特攻兵器の中でも最多である。 伊58は2番目に多い4回も回天を搭載した出撃をしており、その中には原子爆弾の輸送を終えた重巡洋艦インディアナポリスの撃沈も含まれる(通常の魚雷攻撃) もし本土決戦が行われていたら、事実上の回天母艦となっていた北上や竹も回天を積んで死出の海路を逝く事になったであろう。 尚、艦これではゴーヤや北上様ばかりが気に病んでしまっているが、終戦直前まで生き残っていた他の艦の中にもアレを装備しろと命令された娘はいる。とてもセンシティブな話題なので、史実を調べるうちに艦これ提督がその情報に偶然出会ったとしても、慌てずそっとしておいてあげましょう。 同じく回天を搭載していた伊47はアレではなく「魚雷より大きい魚雷」と呼んでいる。 |
イージス艦 | |
読み | - かん |
使っている艦娘 | 霧島、妙高など |
意味 | 後世に「イージスシステム」を搭載した軍艦、自衛艦のこと。 冷戦時代において、ソ連の飽和攻撃(90秒でミサイル100発など、敵の迎撃能力の限界を超える程の膨大な一斉攻撃)戦術への対抗策として米国が開発した。*2 人の判断頼りだった従来の防空システムとは違い、コンピュータにより多数のミサイルを同時に迅速に捕捉・迎撃可能。 各国のミサイル防衛計画の一翼を担っているが、非常に高価であること、米国が技術供与を行った国が限られていることなどから、2021年現在配備国は、米国、日本、韓国、スペイン、ノルウェー、オーストラリアの6ヶ国にとどまっている。 海上自衛隊には2021年現在こんごう型4隻(こんごう、きりしま、みょうこう、ちょうかい)あたご型2隻(あたご、あしがら)まや型2隻(まや、はぐろ)の計8隻が配備されている。 よく勘違いされるが、イージス艦とは「イージスシステム」を搭載した艦の総称であり、「航空母艦・巡洋艦・駆逐艦(護衛艦)」のような艦種のひとつではない。*3 例をあげると、「きりしま・みょうこう」はこんごう型ミサイル護衛艦(DDG)であり、こんごう型イージス艦ではない。 イージス艦=駆逐艦と言う勘違いもよくある。確かにこんごう型・あたご型は元になっているのがアーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦と言うのもあるので世界的に見ると駆逐艦だが、アメリカにはちゃんとタイコンデロガ級ミサイル巡洋艦として巡洋艦も存在するのでイージス艦=駆逐艦ではない。*4 余談だが、今でも上記艦だけがミサイル護衛艦と呼ばれている理由は、長射程対空ミサイルを搭載し、艦隊防空(エリアディフェンス)を行うからである。*5 |
一航戦 | |
読み | いっこうせん |
使っている艦娘 | 赤城、加賀 |
意味 | 「赤城」や「加賀」が所属していた最精鋭の空母艦隊「第一航空戦隊」の略称。 艦娘の「加賀」は新人揃いの「五航戦」に対してやたらと辛辣な節が見受けられるのだが、これは後発の五航戦搭乗員を一航戦の搭乗員が新米扱いして見下していたことに由来する。 なお、艦これでは「一航戦=赤城・加賀」のようになっているが、これは開戦からミッドウェー海戦の頃に所属した艦であり、それ以前には龍驤や鳳翔、完成間もない翔鶴が所属していたこともある。ミッドウェーで一・二航戦所属空母が全滅したことで、翔鶴・瑞鶴・瑞鳳で再編成された。後に大鳳や隼鷹も所属し、末期には空母ですらない大和も配備されている。このことから、「沖縄へ向けて大和が特攻したとき、大和は一航戦として出撃した」という説もある。他に天城、葛城、隼鷹らがいたが既に航空機もなく燃料も欠乏していたので出撃は見送られた。 |
井上提督 | |
読み | いのうえていとく |
使っている艦娘 | 比叡、鹿島 |
意味 | 宮城県仙台市出身の海軍軍人である井上成美(いのうえ しげよし)を指す。 塚原二四三と共に日本海軍史上最後に大将に昇進した人物としても知られる。 謹厳実直で「計算尺」に例えられるほど頭が切れる人物であった一方で、歯に衣着せぬ物言いが嫌われたことも少なくない。 ワシントン条約に賛成、対米戦に反対したことから山本五十六・米内光政と共に「海軍三羽烏」と呼ばれた。 航空主兵論の立場から「海軍の空軍化」「基地航空隊の拡充」を唱えた。 開戦時には第四艦隊司令長官として鹿島に座乗、ウェーク島攻略、MO作戦(珊瑚海海戦)に関わった。作戦指揮の巧拙に関して様々な意見を言われている。 海軍兵学校校長に補された時に様々な教育改革を行ったことは評価が高い。 マリアナ沖海戦後、再度海軍中央に呼ばれ終戦工作に奔走した。戦後は元軍人と関わることを嫌い、英語学習塾を開いて生計を立てていた。 陸上勤務が長く、数少ない艦隊勤務中に艦長を務めた比叡のことは殊に気に入っていたらしく「停泊中の比叡が見える位置に引っ越す」「自宅に比叡の絵画を飾る」などしていたそうな。 |
ヴァルハラ | |
読み | - |
使っている艦娘 | 金剛 |
意味 | 金剛は「あの世」のような意味で使用している語。本来は北欧神話の主神「オーディン」の居城で、死せる戦士達の魂が集う場所でもあるためにこうした用法がなされていると見られる。 ヴァルハラに集められた戦士達は朝から日没まで殺し合い、夜は蘇ってオーディンの使いである美女たちの酌を受け酒盛りをするという。 数ある「あの世」でも一等血腥い場所の一つで、ヴァイキングには栄誉でも可憐な乙女に似合う場所ではない。金剛を愛する提督諸氏はそんな場所に彼女を逝かせないように。慢心はダメ、絶対。例え極楽浄土だろうとダメ。 ちなみに何でイギリス生まれの彼女を北欧神話由来の「あの世」に逝かせるのかというと、一応関連性としては20世紀以降のイギリス王室がドイツ起源であることが挙げられる。 ドイツ帝国までのドイツはプロイセン文化の為北欧文化の影響も根強かった*6。 とはいえ、最終的な理由は結局のところ帰国子女≒日本人だから*7ですべて説明がついてしまうというところだろう。 |
ヴィッカース社 | |
読み | - しゃ |
使っている艦娘 | 金剛 |
意味 | かつて英国の重工業を支えた超名門企業。日本で例えるならば三菱的な立ち位置。 金剛や三笠などの名軍艦を建造したほか、機関銃や戦車など様々な軍事兵器の開発・生産を行っていた。 1928年にライバルのアームストロング社*8と合併し、長らく英国の重工業界をリードしていたが、2004年にBAEシステムズ社に買収され、現在ではヴィッカースの名を冠する企業は存在しない。 しかし、機械工学等の分野では「ビッカース硬度(HV)」という名で未だに広く知られている。 同社製の測定器に由来する命名であり、測定に使用するテストピースはダイヤモンド(金剛石)である。 なお、戦艦「金剛」の方が硬度規格制定より先に竣工している。 |
飢えた狼 | |
読み | う - おおかみ |
使っている艦娘 | 足柄 |
意味 | 「まるで飢えた狼のようだ」「美しい艦とはとても言えない」 英国王ジョージ6世の戴冠記念観艦式にゲストとして招かれた「足柄」を評した英国人の一言。 また、「今日私は初めて軍艦を見た。今まで私が見てきたのは客船だった」とも評された。 外洋を長距離航行する巡洋艦のくせに、戦闘能力一辺倒で居住性が低いことを皮肉っていると言われている。 褒め言葉と捉えられなくもないあたりはブリティッシュジョークの妙技か。 実際、日本側は足柄に対するプラスの評価としてこの言葉を捉えたと伝えられている。 なお、これは「植民地を含めた外洋を行動する王立海軍」と「設立以来近海警備を主務としてきた帝国海軍」の違いもある。 なにしろ当時のヨーロッパ海軍の艦長室は貴族の伝統と植民地における外交も担当するため、ホテルのスイートルーム並の豪華な内装を持っていた。 それに対し、日米海軍はそういった配慮が薄いため艦長室であっても実用的な内装であった。 フランス人芸術家などはその機能美を賞賛していたりするので、個人の感性や国民性の違いなのかもしれない。 |
丑三つ時 | |
読み | うしみつどき |
使っている艦娘 | 鬼怒、Colorado改、South Dakota改 |
意味 | 古来から使われていた時刻の言い方の1つ。古来の時刻は1日を12の刻に分割して干支で表していた。最初の子(ね)は深夜23時から1時で、以後2時間ごとに分かれているのだが、1刻を更に4等分して1つ時、2つ時、3つ時、4つ時と表していた。 なので丑三つ時とは深夜2時から2時30分にかけての時間を指している。 昔からこの時刻は「草木も眠るほど」夜の闇が深く、この世とあの世が繋がり幽霊が現れる刻と思われていた、藁人形で相手を呪う「丑の刻参り」がこの時間帯なのもこういう理由で、一番呪いが届きやすいと考えられていたからである。 因みにお昼を「正午」というのも昼11時~13時が午の刻で、その中心の刻なので「正午」と呼んだからである。更に午の刻の前だから「午前」、後を「午後」と呼んで区別したのを現在でも時間帯の区切りの1つとして使われている。 只、注意しなければならないのは、現在と違い、それぞれの刻の間隔は正確ではなく、季節によって大きく変動する。というのも朝6時を表す「正卯」(しょうぼう)と、夕方6時を表す「正酉」(しょうゆう)は日の出・日の入りに合わせているので、季節によって大きく変動するからである。*9 所謂「不定時法」というもので、興味を持たれた方はwikiなどで「不定時法」や「十二時辰」でググってみる事をお勧めする。 |
か行
鎧袖一触 | |
読み | がいしゅういっしょく |
使っている艦娘 | 加賀 |
意味 | 鎧の袖が一瞬触れただけで倒せるというほど、簡単に相手を打ち負かすこと。 一航戦の人間は珊瑚海海戦の戦果を聞いて「妾の子(五航戦)でも勝てたのだから、本妻の子(一航戦)なら鎧袖一触だ」と言ったといわれる。 この言動は、当時連戦連勝を重ねる日本軍に蔓延していた慢心気分「勝利病 Victory Disease」とも無関係では無かったとされている。 |
勝って兜のなんとやら | |
読み | かってかぶとのなんとやら |
使っている艦娘 | 那智・浜風 |
意味 | 略さずに言うと「勝って兜の緒を締めよ」。 日露戦争終結後の聯合艦隊解散式において東郷平八郎長官が読み上げた訓示「聯合艦隊解散之辞」が「古人曰く、勝って兜の緒を締めよと」と締め括られている。 |
カレー | |
読み | - |
使っている艦娘 | 衣笠、伊168など |
意味 | 言わずと知れた国民食であり、日本海軍を代表する料理。 現在海軍とカレーについては、土曜(もしくは金曜)カレーの話*11など多くの事が伝えられているが、実はどうもちがうらしい。 海軍史・海軍料理史研究家で、自身も元海上自衛官*12の高森直史は自身の著書で「昭和35年に半年間所属していた横須賀教育隊で、カレーが食事に出たのは数回だけだった」と述べており、当時週末はカレーという慣習は無かったし、曜日がわからないからカレーはカレンダー替わりだったというのも、聞いたことがないと述べている。 統合幕僚長も務めた河野克俊も水交会*13の機関誌「水交」平成25年新春号において、「物事は誤って伝えられることがあります。卑近な例でありますが、海上自衛隊の金曜日の昼食の献立がカレーライスであるのは海軍以来伝えられてきたのだという向きがありますが、それは事実と異なっております。」と述べている。 河野氏によると、元々は海上自衛隊では土曜日は午後から休みであり、昼食の調理を簡単に済ませる必要があった。そのため簡単に作れるカレーが適していたので土曜日にカレーを出す艦や隊が増えていき、その後週休2日制となったので金曜日にスライドした。と述べている。「手間がかからないから」という単純な理由だったようだ。 では旧海軍では本当に週末(土曜日)にカレーが出ていたのか?というと実はこれも怪しい話らしい。 海軍出身者のなかでも週末にカレーが出ていたという話はなく、実際残っている献立表*14を見てもカレーが毎週出ているわけでもなく、出される曜日も木曜日だったりと必ず週末だった訳でもないようである。 軍事史家の藤田昌雄*15は海軍出身者に聞いたところ週末にカレーを出すという慣習はないと言われ、曜日を忘れないためという話も「海軍にもカレンダーあるんだから、カレーなんか食べなくても曜日わかるよ」と軽く怒られたと証言している。 現在のように固形のルーが一般化したのは戦後の昭和30年代からの話で、戦前はカレー粉自体をスパイス等から作らないといけないので手間がかかる料理だった。週末に在庫処理のために作ったり、半休のため簡単に作れる料理として適していた訳ではない。 …というように、カレーと海軍・自衛隊の関係については定説の見直しが進められている状況である。 現在の海自では各艦ごとの調理員が独自のレシピを作り、その味を競い合い、海軍・海上自衛隊を問わず艦長同士が歓談する際は自艦のカレーの旨さを自慢しあうことが頻繁に行われている。海上自衛隊HPのファミリーページにも各艦のオリジナルカレーレシピが載っているので興味のある提督諸氏は見てみるとよいだろう。 陸軍でも糧食として採用されており、一部の調理員のみがカレーの作り方を知っていた海軍よりも、兵員数に勝り、すべての兵が持ち回りで糧食を担当した(すなわち、全員がカレーの作り方を知っていた)陸軍のほうが国民食化への貢献が大きいとする説もある。またカレーを採用したのも海軍より陸軍の方が早やかったので、猶更食した事のある人は陸軍の方が多かった。 カレーの存在自体は戦前から知られており、明治5年には洋食のレシピ本のなかに作り方の記載があったり。陸軍幼年学校で明治6年に提供されていた記録もあるが、世間一般に知られるようになるのは昭和初期で、上記の高森氏は海軍内でカレーが普及したのは世間の普及と比例した昭和初期ではなかったか?とも推定している。 ※因みに一般家庭の料理として広まったのは戦後である。 因みに戦時中は敵性語としてカレーの名前を自粛、辛味入汁掛飯の名前で出している店もあった。 実は貴重な真水を大量に使うので、軍隊食としては大変贅沢な料理である。*16 ゲームでは一部の艦娘が食事時に様々なカレーを振舞ってくれる。鈴谷や早霜曰く「艦娘の数だけカレーがある」とのことだが、作ってくれない娘も数多いのでまだまだ未知数である。 |
観艦式 | |
読み | かんかんしき |
使っている艦娘 | 足柄 |
意味 | 多くの軍艦を並べて観閲する式のことで、国家の祝典あるいは海軍の記念行事のひとつとして行われる。 艦隊の威容を誇示し、自勢力の士気を高めるとともに、敵勢力に対する示威行為とすることが目的である。 その為、たとえば未だ建造中だった最新鋭重巡那智を参加させるために突貫工事を行い、各種試験を後回しにして引っ張り出したなどの例もある。 現在では、同盟国・友好国との交流や、自国民の海軍への理解を深めることも目的としている。 起源は14世紀のイギリス。フランスとの百年戦争の最中、当時のイングランド国王エドワード3世が観閲したのが始まり。 現在のような形になったのはそれから大分年限が立った1897年(明治30年)。これまたイギリスで当時の女王ヴィクトリアの即位60周年祝賀で行われた際のものが基本になった。 日本における観艦式の起源は1868年(明治元年)に大阪天保山沖で明治天皇を迎えて行われたものであり、1900年(明治33年)の式から「観艦式」という名称が使われた。 当時は明治維新直後で海軍はおろか政府も組織が出来上がっていない中で行われた。当時はお召艦はなく、幼い明治天皇は地上から艦隊を観閲した。 参加艦艇は旗艦「電流丸」*17以下「万里丸」*18、「千歳(せんざい)丸」*19、「華陽丸」*20、「万年丸」*21、「三邦丸」*22の6隻にフランス海軍の「デュプレックス」*23の7隻。 なお、比叡は練習戦艦となってからは艦隊に束縛されない存在であった為、スケジュール調整が容易で観艦式の「御召艦」を何度も任されている。 1933年(昭和8年)の観艦式の実際の映像 → http://www.youtube.com/watch?v=fvnRhsjIzNA 海上自衛隊でも実施しているので、興味のある方は調べてみると良いかもしれない。 ちなみに、某ジャンルの隠語として別の意味でも使われるのだが、詳細は大人の提督諸士のみ「観艦式 隠語」でググられたし。 |
艦隊決戦 | |
読み | かんたいけっせん |
使っている艦娘 | 長門、Z1など |
意味 | 交戦国の主力艦隊同士が正面から激突し、相手戦力を壊滅させるまで戦うこと。「相手の海軍戦力を壊滅させることで継戦能力を奪い、戦争の決定打とする」ことが20世紀前半以前の先進国間の共通認識だった。第二次世界大戦までは艦隊決戦の主力は戦艦とされており、第二次大戦中も各国海軍はこぞって戦艦の建造・整備に傾注した。 日本海軍は日本海海戦での勝利を戦訓に連合艦隊を編成してきており、戦艦のみならず陸上機、駆逐艦、潜水艦までも艦隊決戦用の漸減戦力としていた。 一方、ドイツ海軍は準備不足のまま戦争に突入した為に艦隊決戦が困難になり、通商破壊戦に傾注していく事となる。 マレー沖海戦、ミッドウェー海戦などにおいて航空戦力のみで勝敗が決着したため、戦艦は艦隊決戦の主力から外れ、代わりに空母機動部隊が艦隊決戦の主力となっていく。 |
帰国子女 | |
読み | きこくしじょ |
使っている艦娘 | 金剛 |
意味 | 学齢期頃に長期に外国で生活した後に本国(国籍のある国)へ帰国した者を指す語。 「帰国」と入っていることから、「本国で生まれて外国へ行って帰ってきた者」だけを指すと勘違いしている人も多いようだが、そんなことはなく、外国で生まれて本国へ来た者も含まれる。外国籍として外国で生まれ、本国へ来た後に国籍を変更した場合は「帰化」である。 帝国海軍から発注されて(=日本国籍)英国で生まれ、建造後日本へ来た金剛は帰国子女ということになる。もちろんこれは、擬人化したから「帰国子女」なのであって、帝国海軍が実際の金剛のことを帰国子女と呼んでいたわけではないと思われる。 艦これ実装艦では長らく金剛が唯一の帰国子女であったが、2017年春のイベントでアメリカ生まれの神威が実装された。 |
貴様 | |
読み | きさま |
使っている艦娘 | 那智、初春、Гангут、Nelson |
意味 | 現代ではかなり見下したニュアンスを感じる言葉だが、本来は文字通り「あなた様」を意味する敬称である。 海軍では、兵学校の同期生などが「イーブンな関係」であり「特に親しい間柄」であることを周囲に知らせる意味も含めて「貴様」という言葉を使っていて、可愛がっている部下に対しても使われる場合もあった。 兵学校生徒の友情と団結を歌った軍歌『同期の桜』でも「貴様と俺とは~」と歌われているように、「貴様」を使うことは信頼の証でもあった。 ただ、元々は武士やその子孫の士族が使う言葉で、一般民には元々馴染みのない言葉であった。 それが徴兵制であった戦前戦中に軍隊で広く使われたため、しごかれる対象である徴集兵を呼ぶ言葉というイメージが、この言葉に馴染みがなく本来の意味を知らなかった一般世間に広く流布してしまい、現代のようなニュアンスになったと言われる。 海軍は薩摩閥だったので薩摩弁の「貴様(きさん)」が語源になっているという。ちなみに長州閥を母体とする陸軍では「貴公」を使うことが多い。 ゲームにおいて那智と木曾は戦友を呼ぶような気安さで用いているが、菊月は敵に対する罵倒の意味で使っている。 現代の言葉では「お前(気さくな意味でも、相手をけなす意味でも使われる)」に近いかもしれない。 |
艤装 | |
読み | ぎそう |
使っている艦娘 | 加古、長門など |
意味 | 船の場合、船体を造って進水させた後に機関や兵装、室内外の各種装備などを船体に取り付ける工程・作業のこと、及びここで取り付けた装備のことを指す。 艦これにおいては、艦娘が背中に背負うなどしている兵装・機関のことを「艤装」と呼んでいるようである。 進水直後の艦はいわば「ただ浮くことができる状態」であり、進水の後も数か月~数年かけて艤装が行われる。 艤装が終わることを「竣工」と呼び、その後は造船会社の手を離れ、「就役」する(艦籍に入る)こととなる。 ただ軍の艦船の場合、竣工と共に艦籍に入ることになるため、まとめて「竣工・就役」と呼ばれることもある。 建造工程は「起工(日)」→「進水(日)」→「就役(日)」となり、艦(船)や艦娘も進水日が誕生日となる。 余談だが、軍の事務の手続き上、就役日はある程度まとめられることが多く、同型艦の近い子は就役日が同じだったりする。 |
吉川艦長 | |
読み | きっかわかんちょう |
使っている艦娘 | 夕立改二 |
意味 | 広島県広島市出身の日本軍人、吉川潔(きっかわきよし)氏のこと。 駆逐艦長月の水雷長を始めとして、春風、弥生、山風、江風、大潮、夕立、大波、と駆逐艦長を務め上げた駆逐艦乗り。 第三次ソロモン海戦では日米共に艦隊が混乱する中、春雨共に米艦隊に突っ込んで米艦隊の混乱を拡大させた。 更に米艦隊を通過した後は、反転して今度は単艦で突撃。 砲術長に「どんどん撃て」という海軍には存在しない号令をかけ手当たり次第に撃ちまくり、海戦史に残る大乱闘を引き起こした。 第三次ソロモン海戦後は功績により海軍兵学校の教官職を命じられるが、前線勤務を望み拒否。 後に望みどおり大波の艦長としてソロモン海に帰ってきたが、セント・ジョージ岬海戦にて電探による先制攻撃を受け轟沈。 「艦長が艦と運命を共にするなんて馬鹿げてる」と普段から公言していた吉川艦長が、皮肉にも艦と運命を共にすることとなってしまった。 戦死後、その功績から駆逐艦長としては唯一の二階級特進により少将となった。 海軍兵学校を志望するも身長と胸囲不足により不合格となったため、器械体操と積荷作業で身体を鍛えあげ翌年見事合格を果たしたり(夕立放置時の「もっともっと鍛えなきゃ!」)、第三次ソロモン海戦で行動不能になった夕立をハンモックで帆を張り動かそうとしたり(夕立改二の艤装と小破時の「ハンモックを張ってでも、戦うよ!」)、夕立の台詞や立ち絵の多くに吉川艦長のエピソードが使われている。 |
帰投 | |
読み | きとう |
使っている艦娘 | 多数 |
意味 | 艦船や航空機その他が基地に戻ること。「帰港投錨」の略であり、立派な海軍用語である。 「帰港」とあるように、元々は艦船が港に戻ることを言っていたらしい。 陸軍はこの語を使っていない |
機動部隊 | |
読み | きどうぶたい |
使っている艦娘 | 空母系艦娘多数 |
意味 | 航空母艦を基幹とする、航空打撃力を発揮するための部隊。航空母艦を中心として、これを護衛・支援する戦艦・巡洋艦・駆逐艦等で構成される。 日本海軍の軍隊区分上で編成された部隊であり、艦隊区分での編成である「第一航空艦隊(初代)」やミッドウェー海戦後に再編された「第三艦隊」とは厳密にいえば異なる。軍隊区分のいついてはこちら「軍隊区分」を参照されたし。 陸上の航空部隊では攻撃可能な範囲は基地から一定の距離内に限られるのに対し、機動部隊は遥か遠方の敵勢力範囲まで進出し、空母艦上機による敵陸上基地の攻撃、敵艦隊の撃滅、上陸部隊の支援等を行える。 この戦術に早くから目を付け、研究熱心だったのが他ならぬ日本海軍である。そして研究の末、恐ろしい結論にたどり着く。 「空母と艦載機があれば全ての水上艦を一方的に沈められるし、陸上攻撃でも比類なき破壊力がある。じゃあ空母だけあればいいんじゃね?」 …航空主兵論の誕生である。 第二次大戦前、空母が実用化された当初、航空機はあくまで偵察等の補助戦力と考えられていた。しかし航空機の著しい発達の結果、いざ開戦してみると真珠湾・マレー沖を皮切りに、太平洋戦線は航空機による戦争となったのは歴史が示す通り。 かくして太平洋戦争では日米ともに世界屈指の機動部隊を擁し、機動部隊同士の衝突も度々発生。これは勿論、世界の海戦の最先端をゆく戦いだったのだが、防諜や空母のダメコン、更には搭乗員の育成システムや諸々の生産力に劣る日本は敗北*24*25。ここら辺、ヨーロッパ戦線にて世界初の機甲師団で列強を驚かせたドイツが、最後はソ連の機甲師団に踏み潰された顛末と重なると言える。 戦後はアメリカが砲艦外交の一環として原子力空母による機動部隊を複数展開し、世界最強の海軍として君臨している他、イギリスも軽空母を基幹とした機動部隊を保有。 現在の海上自衛隊についてはDDHを見ると良い。 |
牛缶 | |
読み | ぎゅうかん |
使っている艦娘 | 秋雲、秋月改 |
意味 | 牛肉大和煮の缶詰のこと。 缶詰は保存が効くことから、戦前は軍需が需要の中心であり、特に牛肉大和煮の缶詰(牛缶)は人気が高かった。 なお、運営の中の人ことC2機関が製作した同人誌「こんな日には缶詰あけよ。vol.2」の中で、どう見ても私服の赤城さんにしか見えない「大和煮さん」(牛缶の「缶娘」)が、熱々の白飯と牛缶の組み合わせを大絶賛し、装備換装(おかわり)を要求している。 |
給糧艦 | |
読み | きゅうりょうかん |
使っている艦娘 | 伊58「間宮」、夕張「間宮」 |
意味 | 艦艇や前線基地に食料などを補給する船。給糧艦「間宮」は中に冷蔵庫、食物加工工場などがあり、内部で軍属のプロ職人による羊羹、最中、アイスクリーム、ラムネなどが生産されていたため、艦艇の将兵から大人気であった。帝国海軍の下士官兵にとって給糧艦の護衛任務は艦隊決戦よりも優先されたとか。事実4隻建造された給糧艦「杵崎」型*26は3隻が無事に終戦を迎えている。また人気の給糧艦が撃沈された時は全軍がお通夜状態だったなどという話もある。 余談だが、現在は、給糧艦・給油艦・給炭艦・給兵艦等の機能を併せ持つ補給艦(AOE)「とわだ型」・「ましゅう型」計5隻が就役しており第一海上補給隊として「横須賀・佐世保・舞鶴・呉」の4港に分散配備されている。 ちなみにましゅう型は全長221m・基準13500t・満載25000tと、海上自衛隊ではいずも型に次いで2番めに大きい。 |
夾叉(挟叉) | |
読み | きょうさ |
使っている艦娘 | 那智、大和 |
意味 | こちらが斉射した複数の砲弾が着弾した範囲内(散布界)に敵艦が入っている状態の事。那智などは砲弾が外れた際に言っているが、本来は命中の有無は関係なく前記の状態であれば使用できる。 当時の中~遠距離砲撃は公算射撃と言って、砲弾の散らばる範囲内に敵艦を捕捉して常に夾叉を維持出来れば、いずれは夾叉弾の中から命中を得られるという、いわば確率に則ったものだった。 つまり夾叉したということは「既に標的(敵艦)を砲の散布界に捉えている(≒照準が合っている)」という状態を意味する。なので必ず命中するという訳ではない。 そして夾叉状態を維持するには「目標が針路速度を保持している状態」であることが大前提であり、当然発砲後に相手が変針や急な増減速をしたら散布界から外れてしまう可能性が高くなる。しかし中~遠距離の砲撃戦で頻繁に進路や速度を変えることは、自身の砲撃精度にもモロに影響して命中率の激烈な低下を招くので、日本側はあまり多用しなかった。 だがアメリカ側は状況によっては多用し、アッツ島沖海戦では那智・摩耶による遠距離砲撃に対して米艦隊が回避重視の機動を採ったため、双方戦果・損害があまりなかった*27事例が発生している。 これはスラバヤ沖海戦での酸素魚雷による遠距離雷撃が効果を全く示さなかった事も踏まえ、海軍内での遠距離砲雷撃戦への偏重を改める契機となったと言われている。 結局、砲撃は自身と目標の位置や針路・速度・更には地球の自転や風速等色んなデータを元に目標の未来位置を予測してそこに砲弾を撃ち込むため、当然ながら目標(もしくは自身が)が針路や速度などを変えたら計算は一からやり直しとなる。更に着弾時の水煙と目標の位置から修正を加えて次弾を撃って精度を上げていき、それで漸く夾叉に持ち込むことが殆どなので、更に時間を要する事になる。 因みによく「散布界が小さい=命中精度が高い」と言われる場合があるが一概にそうとは言えない。散布界が狭いと目標が変針すると簡単に散布界から外れてしまうので、かえって当たらない状態になりやすいからである。 |
魚雷 | |
読み | ぎょらい |
使っている艦娘 | 吹雪など他多数 |
意味 | 魚形水雷の略。内蔵動力により水中を自力で進む水雷(水中爆弾)のこと。 喫水下(艦船の水面下の部分)への攻撃は多量の浸水による大被害が期待できる上、水圧により爆圧が拡散せず一点に集中するため、少量の爆薬でも凄まじい破壊力を発揮することができた。 当たれば戦艦でもタダでは済まない強烈な威力ながら、強力な大砲に比べると重量が軽く収まるため、駆逐艦や潜水艦などの小型艦艇に搭載されている事が多い。 水雷戦隊の魚雷による敵主力艦のジャイアントキリングは日本海軍の夢だった。 太平洋戦争当時の魚雷には自動追尾機能はなく、あるのは深度調整と単純なジャイロ誘導程度(なので潜行中の潜水艦への攻撃はほぼ不可能)。ばらけるように何本も一度に撃ち放ち、どれか1本でも当たるのを期待するのが当時の戦法である。もっとも精度の方も伊58が言う「お利口さん」ばかりではなく、真っ直ぐ進んでくれないものも多々あった。 なお昔は「魚雷一本、家一軒」と言われるぐらい高価な代物であったが、それでも魚雷は砲弾と違って再使用可能だったり*28、発射管は砲身と違って摩耗しないなど、費用が安く済むので、貧乏な日本にとってはその小型、破壊力と合わさって都合のいい武器であった。日本が魚雷大国になったのもこれが理由と言われている。 ちなみに、有名すぎて日本海軍魚雷はすべて酸素魚雷と誤解されるが、睦月型や吹雪型、初春型は最初は八年式空気魚雷や九〇式空気魚雷を搭載し、九三式酸素魚雷を初搭載したのは白露型である。初春型は大戦開始期には換装されたと言われている。吹雪型の響や潮は大戦後期に換装した説があるが、それ以外の吹雪型や睦月型は沈んでいるのでもちろん換装されていない。(だから吹雪や叢雲が酸素魚雷などと言うのは本当は間違いである。(吹雪改二?知らない子ですね) 他には航空機用の九一式航空魚雷(短射程で大幅に軽量化)、潜水艦用の九五式酸素魚雷などが当時使用されている。 余談だが、魚雷の開発者はイギリス人技術者でオーストリアのフィウーメに会社を構えていた町工場の経営者ロバート・ホワイトヘッド。オーストリアはこの新兵器に資金を投入するとともにその研究にも力をいれる。その中で研究熱心だったある海軍士官とホワイトヘッドの孫娘が結ばれ、2男5女の子宝に恵まれる。しかし妻は若くして死去。海軍士官は1人の修道女を家庭教師の名目で雇うことにする。彼女の名は「マリア」、海軍士官の名は「ゲオルグ・フォン・トラップ」。後にミュージカル「サウンド・オブ・ミュージック」で有名になるトラップ・ファミリーである。 さらに余談だが、静岡県伊豆の国市には「国指定天然記念物の魚雷」が現存する。これは小学校に寄贈された魚雷に昭和5年に起こった北伊豆地震による地震動が傷となって残ったものである。 |
銀蝿 | |
読み | ぎんばい |
使っている艦娘 | 夕張 |
意味 | 文字通り食べ物に集る蠅のように、艦の烹炊所(ほうすいじょ)や食料庫から食料や嗜好品をちょろまかす行為のこと。 もちろん窃盗罪に当たる犯罪行為なのだが、仮に見つかっても罰直(鉄拳で殴られたりバットで尻をぶっ叩かれたり)で済む事が多く、大事(起訴・法的処罰)になる例は稀であった。 ちょっとやそっとであれば見て見ぬふりをしたり、逆に便宜をはかる主計官も多かったといい、良くも悪くも海軍の伝統文化的な面があった。 中には正式には提供されていないが隠語を用いて大っぴらに要求(ギンバイ)出来る物もあった「麦粉」(味の素-昔の缶には麦の絵があった)「コレハウマイ」(鰹節とゴマのふりかけ)「艦隊入港」(ツマ楊枝-入港すると奥さんとね)等々 ただ、当時の衛生状態を考えるに推奨しかねる行為であったことも事実である。 食料や嗜好品だけではなく、例えばある基地に故障機が不時着したら、その機体を後方に送れば修理可能にもかかわらず「全損」と報告し、部品取り機にしてしまう例なども多くあり、これは部隊ぐるみの銀蝿とも言える。 こういった話は日本だけでなく世界中の軍隊でも似通った話が回想録などで出てくる。 前線で戦う兵士にしてみたら、支給される食料やら物資が不足すれば士気は下がり、部隊や自身の命が危機に晒されるな場合もある。時には味方であっても掠め取って英気を養い、生き残ろうとする行為は半ば黙認するのが各国軍隊では暗黙の決まりで、映画などでもこういった行為(主に食糧調達)はよく見かける事が出来る*29。 まあそれにも限度があって日本軍でも度が過ぎて窃盗まがいになると犯罪であり、軍法会議ものであった。 戦艦陸奥の爆沈の原因として上がる1兵士の放火も、この兵士の窃盗紛いの銀蝿行為に査問委員会が開かれる事になり、自暴自棄になっての放火とされている。 「大空のサムライ」坂井三郎は銀蠅に失敗して士官にどつかれている部下を救うために発砲したことがあるそうな。軍法会議ものの行為だったが、坂井の腕を惜しんだ副長の小園安名によって穏便に処置された。 |
駆逐隊 | |
読み | くちくたい |
使っている艦娘 | 天津風ほか |
意味 | 帝国海軍の艦の編成単位の一つで、2~4隻の駆逐艦で編成される部隊のこと。 駆逐隊1隊=軍艦1隻に相当するものとして扱われ、通常は隊単位で水雷戦隊や航空戦隊に編成された。 性能を揃えるため同型艦で隊を編成するのが普通だが、長期の修理や沈没などで欠員が出た場合には、他の駆逐隊から別型艦が転籍する場合もあった。特に、多くの艦を失った大戦末期には、生き残った艦を寄せ集めて駆逐隊が編成された。 指揮官は「司令」と呼ばれ、通常は大佐か中佐が任命された。 因みに海外の駆逐隊は、アメリカ海軍では「Destroyer Division(通称「DesDiv」)」。イギリス海軍では「Division」。イタリア海軍では「Squadrigilia」と呼ばれ、概ね日本同様基本4隻体制で運用された。 (駆逐隊の一覧については別頁にまとめました。) |
栗田艦隊 | |
読み | くりたかんたい |
使っている艦娘 | 武蔵改二、Gambier Bay |
意味 | 捷号作戦に於いて敵攻略部隊撃滅の任を帯びた第一遊撃部隊(第二艦隊基幹)のうち、第一第二部隊を合わせた部隊の通称で、指揮官の栗田健男中将の名から採られている。 但し第二艦隊司令長官を栗田から指揮を引き継いだ伊藤整一中将時代に行われた天一号作戦(所謂戦艦大和らによる沖縄への海上特攻作戦)でも、部隊名は「第一遊撃部隊」であり、第一遊撃部隊=栗田艦隊という訳ではないので注意が必要。 「空母機動部隊の撃滅」「レイテ島攻略部隊の撃滅」の二目標を掲げた捷一号作戦に於いて、基地航空隊の支援のもと攻略部隊撃滅の役割を担っていたが、燃料の手配の遅延から出撃が遅れ、部隊を二手(別動隊が所謂「西村艦隊」)に分けて進撃するも道中で旗艦愛宕を始め摩耶、武蔵を失い高雄、妙高、長波、朝霜、浜風、清霜を損傷やその護衛などで後退させてしまう。 突入当日の25日には米護送空母部隊の一群と遭遇し、Gambier Bayと護衛の駆逐艦3隻を沈める戦果を挙げるが、煙幕を利用した米艦隊の反撃や艦載機による迎撃で鈴谷、鳥海、筑摩が沈み、熊野、沖波、藤波、野分が損傷やその護衛で後退、栗田艦隊は無視できない損害を受けてしまう。 大戦果を挙げたと誤認していた栗田艦隊は追撃を切り上げて突入を再開するが、12:30頃になって突入を断念し、北方にいるとされた「敵機動部隊」への攻撃を企図して北上を開始する。所謂「栗田ターン」である。 しかし艦隊は会敵出来ず、そのままブルネイに帰着。戦艦と護衛の第十戦隊を残して中小艦艇は第二遊撃部隊(通称志摩艦隊)に移して11月に内地に帰還する。しかし帰路でまたも米潜水艦の攻撃を受け金剛、浦風を失い、志摩艦隊に移動した艦艇はレイテ湾への増援輸送作戦「多号作戦」に参加し多くの艦が沈んでしまう。 本土帰還後、栗田長官は海軍兵学校長に栄転し、第二艦隊司令長官の後任は上記の通り伊藤整一中将となる。この後第二艦隊と伊藤長官は沖縄への海上特攻を実施、悲劇的な結末を迎える事になる。 |
敬礼 | |
読み | けいれい |
使っている艦娘 | 卯月 |
意味 | 読んで字の如く、上官等に対して敬って礼をする事。敬礼に対して返す行為を答礼(とうれい)と言う。 答礼は動作としては敬礼と似ているので一緒のものと混同されるのだが、厳密には違うものである*30。 日本軍では帽子を被っていない時には挙手の敬礼をする事は無く、敬礼の号令が掛かった時はお辞儀をするのだが、軍人では無い者が行っても特に批判されるような事ではない。 「猫招き型」「はるかな型」と称されるような簡略化されたもの*31を紹介する情報媒体もあるが、こういった形は正式なものではない。 海軍が規定している正式の敬礼の形は ①姿勢を正し右手を上げる。 ②右ひじを右斜めに出す。 ③右前腕と掌は一直線に保ち、掌の5指を伸ばす。 ④第三関節を帽子の右前部若しくは右縁にあてる。 ⑤この形で受礼者の目、若しくは受礼目標(軍艦旗など)を注視する。 というものであり、指を曲げたり脇を閉めて肘を前方に突き出すという形を「海軍式敬礼」として規定した事実はない。 敬礼は「上位者への敬意を表す所作」である以上、規定の形を大きく逸脱した形を下位者が敬礼としてするのは「失礼」にあたり、罰勅になりかねない行為である。 こういう説明をした旧軍関係者の方々は、恐らく上位者がした「答礼」を見て勘違いしていると思われる。 また、戦後の映画などで広く知られるようになった「脇を締める挙手の敬礼」は、あくまで戦争末期に一部で流行した敬礼の所作だったようで、「海軍での規定の型」とするのは間違いのようである。*32 実際、残されている海軍軍人が敬礼をしている写真を見ても、山本五十六(生前を知る人物から「敬礼が綺麗だった」と言われている)などが「脇を開き肘を張る」敬礼をしている写真は多数あるが、脇を閉め肘を前に突き出す様な敬礼をしている「実際の海軍軍人」の写真は殆どない。 戦前戦中に作られた戦争映画やニュース映画などの映像作品には軍が協力しているものや、実際の軍人が映っていたりしているが、敬礼を映している場面で脇をしめていたり手首を曲げるような敬礼をしている映像はなく、映りだすのは戦後の娯楽作品からである*33。 何故一部の流行でしかなかった「脇を閉める敬礼」が「海軍の敬礼」としてひろまったのか?恐らく戦争末期に徴兵され、その教育を受けた俳優やスタッフたちが、「これが海軍式敬礼だ」と誤って教えてしまい、それを銀幕で見た客が「かっこいい」と思って日本中に認識を広めてしまったのが一因とも言われている。 あと脇を締める敬礼をする理由に「狭い艦内で脇を広める敬礼は邪魔になるから」というのもあるが、実際には周囲に人が群がる状況でも脇を広げる敬礼をしている写真*34もあり、これも正しくない。 現在でも、この間違いは根強く信じられており、艦これ界隈でもこういった「へんてこな敬礼」を艦娘にさせている二次創作物もあるし、運営自体もアニメ「いつか静かな海で」で主人公らにやらせてしまっている*35。 興味を持たれた方は海軍の敬礼について詳しく紹介したサイトを紹介するので一度閲覧されるのをお勧めする。なお当サイトの製作者は海上自衛隊OBで、その後ドラマ「坂の上の雲」「龍馬伝」や映画「男たちの大和」などで海軍・海事関係の考証に携わっておられる方。かなりの海軍通の方である。 →http://navgunschl.sblo.jp/s/article/39335366.html また陸海軍士官の敬礼を同時に撮影した写真も添付しておく。陸海軍双方の士官の敬礼が、実は殆ど形は変わらない事が一目瞭然である*36。 →https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:The_British_Occupation_of_the_Nicobar_Islands,_1945_SE5438.jpg |
轟沈 | |
読み | ごうちん |
使っている艦娘 | 磯波、羽黒、菊月 |
意味 | 被弾した艦船が短時間(概ね1分半、但し2分、3分、5分説もあり)のうちに沈没することを指し、単に沈没しただけではこの言葉を使用しない。 既にボロボロの状態で進撃しない限り絶対にロストしない仕様の艦これでは、轟沈には当てはまらない。 しかし元々定義が曖昧なこともあり、「華々しく勝利した」「壮絶な最期を遂げた」ことを演出するために轟沈ではない場合もあえて轟沈と表現するケースがよくあり、「軍艦が沈むこと=轟沈」であるという誤解を生んだ。 同じように、「撃沈」という言葉も誤って使われることが多々ある。 「撃沈」とはこちらの攻撃で敵を沈めたという意味で、「敵艦撃沈」とは言っても「味方艦撃沈」とは言わない。 事故や自沈ではなく、戦闘によって沈没したことを表すために「味方が撃沈された」のように受身として使う場合もある。 なお、戦中の映画にそのものズバリ、「轟沈」というタイトルの宣伝映画(インド洋での潜水艦による通商破壊活動を記録したもの)がある。 その映画の主題歌も「轟沈」という名前である。潜水艦乗りの生活をユーモラスに歌った歌で、広く国民に流行した。DAM や JOY SOUNDといった大手のカラオケでも配信されている。 なお、轟沈どころか文字通り大爆発して瞬時に沈む様が「爆沈」と表現されることもあるが、こちらは正式な定義のある用語ではないので念のため。 |
五航戦 | |
読み | ごこうせん |
使っている艦娘 | 加賀、翔鶴、瑞鶴 |
意味 | 「翔鶴」「瑞鶴」により構成された「第五航空戦隊」の略称。 昭和16年10月新編され、猛訓練の末真珠湾作戦に間に合ったことから一航戦などからは新兵扱いされていた。 とはいえ、他国に行けばアグレッサーとして通用するほどの技量を有していたとも言われている。それを新兵扱いできる一航戦マジチート。*37 珊瑚海海戦で米空母「レキシントン」を撃沈するなどの戦果を上げるが、「翔鶴」が大破し「瑞鶴」も艦載機に大被害を出したため、ミッドウェー海戦には参加できなかった。 ミッドウェー海戦後に「翔鶴」「瑞鶴」は第一航空戦隊として再編成され、以降終戦まで五航戦は空席のままだった。 |
さ行
至近弾 | |
読み | しきんだん |
使っている艦娘 | 日向、雪風 |
意味 | 砲弾や爆弾などが直撃せずすぐそばに着弾すること。直撃弾ではないからといって舐めてはいけない。至近で着水した砲弾や爆弾がさく裂すると、その破片が横殴りに散弾銃の様になって船体に襲い掛かり装甲の薄い艦だと側面装甲を突き抜けたり、甲板にいる機銃員などの乗員に襲いかかったりするのである。 至近弾により発生した火災が命取りになった「鈴谷」や、爆撃の至近弾による破孔からの浸水で着底してしまった「日向」など、状況によっては艦に重大な影響を及ぼすほど危険。「隼鷹」はマリアナ沖海戦で至近弾数発の破片が船体を側面から斜め上に抜けて飛行甲板を突き抜け、甲板が大根おろしの様にザラザラになり着艦不可能になってしまっている。 なお、日本海軍の九一式徹甲弾は、敵艦の手前に落ちた至近弾が、そのまま水面下を進んで敵艦の水面下部に直撃することを狙って開発されたものであった。 |
七面鳥 | |
読み | しちめんちょう |
使っている艦娘 | 瑞鶴、大鳳、龍鳳 |
意味 | ここでは未熟な艦載機搭乗員の揶揄。 アメリカにおいては七面鳥は代表的な家禽(家畜として飼われている鳥)であり、野生ではない家禽は容易に撃てることから、簡単に撃ち落とせることを意味するTurkey shoot(七面鳥撃ち)という言葉がアメリカにはある。 マリアナ沖海戦(主な海戦・作戦参照)の頃になると航空機の熟練搭乗員の不足が深刻となり、空母への着艦もできない錬度の低い未熟な搭乗員が多数戦闘への参加を強いられることになる。 これらの艦載機が十分な管制支援を受けた大量の米新型艦載機群に一方的に、それも七面鳥を撃ち落とす簡単な狩りのゲームのように次々と撃墜させられるという意味で、アメリカ側乗員から「マリアナの七面鳥撃ち」と揶揄されることになる。 ただし実際のところ、散々に落とされたのは会敵に失敗してマリアナに引き揚げようとしたところを米軍戦闘機に送り狼されたケースが大半という説もあり、さらに言えば出撃した日本軍機の半数以上は航法を誤って米艦隊と遭遇できなかったどころか、マリアナにも辿り着けずに遭難して未帰還となったという話も……(涙) |
次発装填 | |
読み | じはつそうてん |
使っている艦娘 | 神通 |
意味 | 魚雷発射管に予備の魚雷を装填すること。 大型兵器である魚雷(93式酸素魚雷で一発2700kg)を発射管に装填する作業は十数分~数十分かかることもあり、不確実であった。 だが、日本海軍の初春型駆逐艦以降の艦船は次発装填装置を装備しており、3分半前後で素早く予備の魚雷を装填することができた。 なので、あいつら魚雷撃って逃げやがったもう安心だ、と思ってたら戻ってきて殺られた、なんて例もある(コロンバンガラ沖海戦)。 例えば「陽炎型」などの甲型駆逐艦は四連装発射管2基8門を装備しているが、次発装填装置内の予備魚雷8本と合わせ合計16本の魚雷を連射できる。 しかし、あくまで次発装填装置は予備魚雷を有効活用するためのものであり、用兵側にとっては好位置から雷撃できるチャンスは1度しかない事が多いので、最初から魚雷が発射管に入っておりいつでも使用可能な状態にある事が望ましかった。 実際米駆逐艦は次発装填装置こそないが、5連装の発射管を2基搭載している艦級が多く、1回の斉射量は10本と日本の8本よりも多いので有利だった。 このため現場の艦長たちからは次発装填よりも斉射量の増加が望まれていたらしく、それを受けて船体が大型化していた新鋭駆逐艦島風では五連装発射管3基15射線を搭載し、次発装填装置は装備しなかった*38。 また駆逐艦種の中での優先順位でも、海軍内では新鋭の甲型(朝潮型、陽炎型、夕雲型)に次いで戦力視されていたのは特型駆逐艦で、艦齢では若い白露型より上だった。これは白露型が通常魚雷で一斉射8本に対し、特型が同じ通常魚雷でも一斉射9本であったので、特型の方が即応力が高いと判断されたのが要因の一つとされている*39。 なお潜水艦の場合、2発目は発射管のすぐ後ろに配置されているので素早く装填できる(3発目以降は狭い艦内で動かすので大変な手間がかかるため、1回の戦闘で発射できるのは2発まで)。 |
シフト配置 | |
読み | -しふとはいち |
使っている艦娘 | Z1 |
意味 | 船の動力機関の艦内への配備方法の1つ。初めて近代軍艦に投入したのは1920年代のフランス海軍と言われている(諸説あり)ので少なくともドイツのみの技術ではない。 20世紀に入ってからは船の動力はボイラー(熱で蒸気を作る)-タービン(蒸気で回す)方式が主流であったが、ボイラー室とタービン室の片方でも浸水すると機関がほぼ動かなくなる為、その防御策が課題であった。 シフト配置ではボイラー室とタービン室を2つずつ艦首方向から交互に配置し、1ぺアにつき半分のスクリューを担当させている。2機関のうち片方でも生きている限りは船を動かせるという画期的な配置方法であった。 左右のバランスがやや悪くなって少しクセのある動きになったり、パーツ数が増えコストがかさむといった欠点もあったが、ドイツ軍やアメリカ軍はこれを積極的に採用し艦艇の生存率をかなり上げている。 アメリカ軍に関しては、当時のパナマ運河の通過制限(パナマックス)の影響もある。全幅だけでなく喫水も浅くする必要があったため、純粋な重装甲化を諦め、搦め手で生存性を高めようとしたのである。 日本では防御区画を狭く厚くする為に集中配置方式がとられていたが、大戦末期の松型駆逐艦ではシフト配置を用いている。これも他で手を抜いても簡単に沈まないようにするためのやはり絡め手であった。 ちなみに現代の艦のほとんどはこのシフト配置であるが、当然原子力艦は例外である。 但しシフト配置には複雑化・機関スペースの拡大化・高コスト化といったデメリットもある。よってボイラー室とタービン室を1列で配置する事しかできない駆逐艦などの小型艦には有効だが、戦艦や空母などの大型艦は元々2列以上で配置でき隔壁で隔てる余裕もあるので被雷しても即動力を失うという事態にはなりにくく、メリットよりデメリットが大きい。 シフト配置のマイナス面を一番多く受けた艦としてSouth Dakota級がある。同艦はシフト配置を採用しつつ、前級ノースカロライナ級よりも装甲強化を図ったため全長を15m近く短くした*40ため、従来艦よりも居住区画が少なくなり、更に戦間期の対空兵装増強による乗員増加、ダメコン力を重視する米海軍の伝統で他国の同規模艦艇と比較して乗員がそもそも多い等の要素も加わった結果、居住スペースが全く足りなくなり、乗員の中には居住区で寝起きができずに通路や露天甲板で寝起きする者もいたという。 この他にもIowa級はシフト配置により機関が全長の約半分を占めるほどの長さが必要となり、かつパナマックスも満たす必要があった結果、非常に細長い船体になってしまった。このため高速時の振動問題やらレーダーや対空兵装の増加で重心が上がったための安定性の悪化など別の面での問題も出てきている。 要はどんな事にも利点だけでなく問題点もあるということ。 余談であるが某軍艦の設計が可能なゲームにおいて重要なキーワードの1つでもあり、採用すると耐久性が少し上がるので恩恵を受けている提督も少なくないとか。 |
主砲 | |
読み | しゅほう |
使っている艦娘 | 戦艦等多数 |
意味 | 文字通り主たる大砲、その艦の一番口径の大きい砲の事で、海軍軍縮条約等では主砲の大きさで艦種の区別がなされていた。 8インチ(20.3cm)を越えると戦艦、6.1インチ(15.5cm)を越えると重巡(一等巡洋艦)、5インチ(12.7cm)を越えると軽巡(二等巡洋艦)、それ以下が駆逐艦と分類される。 そこで例外になるのが最上型・利根型重巡洋艦である。最上型と利根型は、当初15.5cm砲搭載の軽巡洋艦として設計されていた。最上型は竣工後に、利根型は建造途中で20,3cm砲に変更されて事実上の重巡となったが、日本海軍の分類上は最期まで二等巡洋艦(軽巡)であった。 軍縮条約下に無かった大淀は1万t級で主砲が15.5cm砲、夕張は駆逐艦程度の排水量でも主砲が14cmなので軽巡(二等巡洋艦)として扱っている。 改装後の赤城や加賀の主砲が20cm砲なのも条約によるものである。 |
巡洋戦艦 | |
読み | じゅんようせんかん |
使っている艦娘 | 比叡、榛名 |
意味 | 装甲巡洋艦から発展した艦種。 優れた高速性と戦艦と同等の火力を有したが、防御面では戦艦に劣った。 英語では『Battle Cruiser』と呼んでいる通り、本来は「戦艦並みの攻撃力を持った巡洋艦」であって、『高速戦艦(=巡洋艦並みの速度が出る戦艦)』とは別物である。 過去の戦艦は、強固な防御力が重荷となり20ノット位の速度しか出せず、使い勝手が悪かった。「なら巡洋艦に、装甲はそのままで戦艦並みの砲を積めば30ノット以上出せて最強じゃね?」と作られたのが『巡洋戦艦(戦闘巡洋艦)』である。 後に機関の技術が発達し、第一次世界大戦頃には戦艦のままでも25ノット以上出すことが出来る『高速戦艦』が登場したため、巡洋戦艦の優位性は薄れていった。その区分から言えば『長門型(ポスト・ユトランド世代)』『大和型(条約明け世代)』も高速戦艦となったりする。 金剛型の紹介文などでは『巡洋戦艦/高速戦艦』と書かれていることがあるが、金剛型は「当初は巡洋戦艦として竣工」→「ユトランド沖海戦の教訓を踏まえ防御力強化をした結果、戦艦に艦種変更」→「更に機関を換装し30ノットを超える高速戦艦となった」という経緯を経ているためどちらでも正しいともいえる。ただ、艦これに登場する金剛型は機関換装を終えた状態と思われるので、巡洋戦艦と呼ぶのは誤りである。 余談だが、『巡洋戦艦』は艦種として存在する一方、『高速戦艦』という艦種はどこの国にも存在しない。所詮通称である。 |
捷一号作戦 | |
読み | しょういちごうさくせん |
使っている艦娘 | 金剛、榛名、藤波 |
意味 | マリアナ沖海戦に敗北し、絶対国防圏が崩壊してしまった日本が、米軍の次なる侵攻に対する迎撃作戦『捷号作戦』の一つ。同作戦は区域によって一号から四号まで作成され、一号はフィリピン方面に米軍が侵攻した場合の作戦である*41。 同作戦では米軍の上陸を①ルソン島本島、②レイテ島 ③ミンダナオ島のどちらかと推定*42し、米軍の本命はミンダナオ島と考えていた。 陸軍はフィリピン防衛に関し、全ての島に戦力を置くのは不可能と考え、主力4個師団をルソン島、上陸の可能性が高いミンダナオ島には2個師団を配置し、レイテ島には1個師団のみ配置していた*43。 海軍側の作戦はフィリピンに「第一航空艦隊」、沖縄などの南西諸島に「第二航空艦隊」の2個基地航空隊を配置し、侵攻する敵空母機動部隊に大打撃を与える。小沢提督率いる「機動部隊本隊」は敵機動部隊を北方まで引き寄せ、その後基地航空隊と協力して敵機動部隊攻撃に加わる。栗田提督率いる「第一遊撃部隊」は、基地航空隊の攻撃で敵機動部隊を殲滅する事で、現地の制空権を確保し、敵攻略部隊を洋上で捕捉し殲滅。敵が既に上陸地点に着いていたなら、上陸開始から2日以内にそこに突入して攻撃殲滅する。第一遊撃部隊(第二艦隊)が本来負っていた機動部隊直衛の任務は北方の第五艦隊(志摩提督指揮)で「第二遊撃部隊」を編成してこれが務めるとした。 この様に本来の捷一号作戦は、現在イメージされるような「小沢艦隊は囮部隊」「上陸部隊の殲滅が海軍の至上任務」とは大きく異なるものであった。 しかし実際は、米軍の上陸前日まで行われていた台湾沖航空戦で、基幹の基地航空隊が大打撃を受けてしまい*44、更にこの航空戦に連合艦隊は小沢艦隊から回復したばかりの機動部隊本隊の航空機を増援として送り込み、捷一号作戦発令時に小沢艦隊の手元にまともな航空戦力がなかった事*45、この回復をする間もなく捷一号作戦が発動した事、この結果が想定よりも少ない100機ほどの航空機でおびき寄せる作戦をしなければならなくなり、それが従来の作戦内容とは異なる、「囮」という面が強調される形になってしまったという訳である。 結局米大艦隊がレイテ湾入り口にあるスルアン島に1隊が上陸占領するまで日本側は気づかなかった事が初動の遅れに繋がり、作戦発動時点で「2日以内のレイテ湾突入」は不可能になった。小沢艦隊や基地航空部隊の航空戦力が想定よりも大幅に下回っている等、作戦成功は不可能という状況だったが連合艦隊はそのまま作戦を決行。結果は昭和天皇をして戦後に「海軍は無謀に海軍を出し、非科学的に戦をして失敗した」と言わしめる大敗北を喫した。 敗因に関して第一遊撃部隊指揮官の栗田提督の湾前反転などを指して批判する論調もあるが、一方で作戦自体が発動時に既に崩壊している事や、小沢艦隊からの重要な電文が他の部隊には一切届かず、栗田の判断に大きく影響を与えた事、突入が期日を大きく超過していて突入は無意味に近かった事等から、擁護論も大きくなっている。 |
水上機 | |
読み | すいじょうき |
使っている艦娘 | 木曾、千歳、千代田、瑞穂、神威、Commandant Teste |
意味 | 水面に浮いて滑走することで離着水が出来る航空機。なかでも、フロートによって機体を支えるフロート水上機を指す。 九八式水上偵察機(夜偵)のように胴体と着水浮力を稼ぐ部分が一体の形態は"飛行艇(Flying boat)"と呼ばれ、水上機とは区別されることが多い。 例えば映画「紅の豚」では、主人公ポルコ・ロッソの愛機が飛行艇、最後に主人公と一騎打ちしたドナルド・カーチスの愛機が水上機である。 空母と違い滑走用の甲板が要らないので、空母以外の直接着艦するスペースのない船でも哨戒・索敵用に搭載可能である。 また、滑走路設営能力に劣っていても波の穏やかな湾があれば基地とすることが可能で迅速に戦力を展開できる。 軍縮条約下、仮想敵国である米国に対し空母戦力に劣る日本海軍は、水上機の開発運用に熱心で、各国の水準を超える高性能機を数多く送り出した。 その一方、水上機は離着水に波の穏やかな水面が必要という制限も抱えており、外洋上で着水・回収するには艦隊を円く航行させて航跡で波を打ち消す事が不可欠だった。この時の事故も多いため、日本海軍は再出撃の多い索敵を空母機に任せ、"艦爆と協働して先制で敵空母の甲板を潰す"為の水上爆撃機を待望するようになる。 なお瑞雲は水上機の最高傑作と言ってよいマルチロール機(多用途機)であり、ゲーム中でも航空機に係る殆どすべてをこなすことが出来る立場にある。*46 (丁字不利率低下のような特殊能力は除く) これらの伝統を引き継いだのか、ヘリコプターが幅を利かせている21世紀の現在でも日本は世界的な水上機大国である。 余談だが、旧海軍では、航空母艦に搭載される航空機を「艦上機」と称して水上機等と区別していたが、艦上機・水上機も含めて艦艇に搭載・運用される機体を総称として「艦載機」と呼んでおり、空母機を水上機と同様に艦載機と呼んでも差し支えない。 |
正規空母 | |
読み | せいきくうぼ |
使っている艦娘 | 祥鳳、瑞鳳 |
意味 | 時代や国によって用法が非常に曖昧な言葉。 現代では概ね、軽空母との対義語という用法になっていて、艦これ世界でもほぼこれを踏襲し「大型・高速の空母」を表す区分になっている。(現代についてはDDHを参照) 第二次大戦期の日本海軍では、正規空母とは「最初から空母として計画/建造された艦」を指す。つまり、艦の大小や能力の多少ではなく、艦の出自・構造によって分類されていたのである。 これに対し「他種の軍艦から改装された空母」は「改装空母」、「軍艦ではない商船などから改装された空母」は「特設空母」に分類されていた*47。 当時の日本海軍の航空母艦の類別は以下の通り(竣工艦のみ) ・正規空母:鳳翔、龍驤、蒼龍、飛龍、翔鶴、瑞鶴、大鳳、雲龍、天城、葛城 ・改装空母:赤城、加賀、祥鳳、瑞鳳、龍鳳、千歳、千代田、信濃 ・特設空母:大鷹、雲鷹、沖鷹、神鷹、海鷹、隼鷹、飛鷹 なお、日本海軍の艦籍には「軽空母」なるものは存在せず、空母黎明期の「若宮」を除き、全通飛行甲板を備えた艦の分類は大小を問わずすべて「航空母艦」であった。 諸外国もほぼ同じであるが、戦艦や巡洋戦艦からの改造は正規空母扱いになったり、飛鷹型のように大きければ正規空母扱いになったり(飛鷹型は飛龍よりも大型)、小型のものは空母として建造されても正規空母でなかったりと、国や時代でグチャグチャである。 |
斉射 | |
使っている艦娘 | 長門、比叡、霧島、妙高、伊勢改、大和 |
読み | せいしゃ |
意味 | 主砲を砲塔ごとにバラバラに撃つのではなく、ある目標に全砲塔で向きや仰俯角などを合わせて一斉に発射すること。着弾観測がしやすいため、その後の照準修正が楽になる。 アメリカなどでは全砲門を一度に発射していたが、1930年代以前の日本海軍では水圧機の問題から片舷ずつ交互に撃っていた(交互射撃)。 最初に斉射の有用性を見出したのはイギリスだが、初めて実戦で斉射を採用したのは日露戦争時の帝国海軍である。 その際に有用性は確かなものと確認され、この戦法を主眼とした革新的な戦艦「ドレッドノート」の開発へと繋がった。 なお旧海軍としては、繰り返しになるが「斉射」とはあくまで複数の砲塔を一斉に射撃することを指し、例えば金剛型では4門の右砲だけを一斉発射しても「斉射」となる。一方で8門全ての砲を一斉発射することを「斉発」と呼んだ。ただし、「斉発」は「斉射」の中の狭い概念にすぎないので、全砲の一斉射撃を「斉射」と呼んでも誤りではない。 砲撃用語上は長らく交互射撃を全砲塔で行うことを「一斉打方」、全ての砲を一斉発射することを「斉発打方」としていたが、昭和12年の「艦砲射撃教範」改訂に伴って「一斉打方」は全ての砲を一斉射撃することに意味が変わり、新たに交互射撃を行う「交互打方」が新設された。 |
潜水母艦 | |
読み | せんすいぼかん |
使っている艦娘 | 迅鯨、長鯨、祥鳳、瑞鳳、大鯨 |
意味 | 潜水艦に物資を補給したり、乗員を休息させたりする為の艦艇。旗艦設備も充実し、潜水戦隊旗艦となることもあった。 後々軽空母に改造できるように設計された潜水母艦もあり、剣崎型(後の祥鳳・瑞鳳)や大鯨がそれに当てはまる。 字面だとややこしいが、要は「潜水艦のための補給母艦」であって、「潜水する母艦」ではないので注意。海外の極一部の艦を除き、大部分は水上艦艇である。 なお、艦これでは似たような言葉として、水上機を積める潜水艦を「潜水空母(潜母)」と称しているが、そもそも帝国海軍に「潜水空母」なる艦種は存在しない。艦これ以外で「潜母」というと「潜水母艦」の略称になるので注意。 |
戦時急造艦 | |
読み | せんじきゅうぞうかん |
使っている艦娘 | 雲龍 |
意味 | 戦時下において、建造期間を可能な限り短縮して建造された艦の事。 急造艦というと粗製乱造のイメージがついて回るが、無駄を省いて合理性を追求した結果、従来型より抗堪性やダメージコントロールに優れている場合が多い。中にはイギリスのコロッサス級空母のように、2000年代まで使用された艦も存在する。 日本では雲龍型空母、改雲龍型空母、松型駆逐艦、秋月型駆逐艦などがこれに該当する。但し雲龍型と秋月型は元々量産を前提に設計された艦では無く、雲龍型では3番艦以降、秋月型では6番艦以降になると量産に対応する為に一部の設計が変更され、工期を短縮する為に簡略化が行われている。 ちなみに、アメリカの「月刊正規空母」エセックス級や「週間護衛空母」カサブランカ級も戦時急造艦の範疇に含まれる。また、米国の場合は戦艦を含めて最初から可能な限り量産に配慮した設計が行われていた。*48どこが急造品だ |
戦闘配食 | |
読み | せんとうはいしょく |
使っている艦娘 | 雲龍改、秋月改 |
意味 | 艦乗組員が戦闘中に食べる食事。この時ばかりは兵卒から艦長まで、同じ食事で済ませて次の戦闘に備える。 具体的には、立ったままでもさっと食べられて、且つ余計な洗い物は出さないよう、一人2,3個のおにぎりが配られる*49。汁物は無し、副食は大抵が沢庵、まれに士気向上の為か牛缶が出たようである*50。 用意するのはもちろん烹炊員(厨房勤務)だが、駆逐艦でも数百個、大型艦なら千を優に超える数を握らなければならない。軍手を塩水に浸して握るのだが、それでも握り終わるころには熱々のコメで手が真っ赤。 その為、熟練した烹炊員の中には2つ合わせた茶碗の中でご飯を転がして、おにぎりを作るものもいたという。 しかも、これを食べる各乗員は殆ど配置を離れられないため、握ると同時に艦内各所のあらゆる所へ食事を届けて回る必要がある。これには烹炊以外も主計科総動員となり、まさに主計の戦争となる。 ミッドウェー海戦の時の霧島では炊き込みご飯のおにぎりが出たとのこと*51、冷蔵肉か大和煮の缶詰かは不明であるが、缶詰の場合は味付けの手間や漬物を省ける利点もあったのだろう。 真珠湾攻撃の時の瑞鶴の食事は、朝食(おにぎり、蒸したベーコン、きんぴらごぼう、味付け昆布、古漬沢庵)、昼食(おにぎり、おでん(牛肉、里芋、大根)、新漬沢庵)、夕食(弁当(内容不明、赤飯か巻寿司か稲荷寿司の可能性が高い)、煮込み(豚肉、馬鈴薯、大根、人参)、梅漬)、夜食(乾パンと、)であった。なお、搭乗員の弁当は出撃時に鉄火巻、卵焼き、煮しめ(大根、人参、松茸)、りんご、紅茶、ビタミン剤、帰投時にビタミン剤、コーヒー牛乳、サイダーであった。*52美味いものが飲めずに戦死したら大変だと往路で飲み物を飲んでしまい、帰路、喉が渇いたままで戻ってきた搭乗員*53もいたそうだ。 搭乗員の弁当には唾液が出やすいように巻きずしや稲荷寿司がよく供された。稲荷寿司や赤飯の缶詰もあったくらいだ。 さらに多忙になったり、荒天時や烹炊所(厨房)が被弾して使用不能になったときは、乾パンにお茶もしくは水という時もある。軍艦商船問わず、船乗りに乾パンは万国共通である。 搭乗員が弁当を所持しえない時や食事の追加として乾パンに梅、昆布、かつお節、チョコレート、塩、砂糖などが入った箱詰めの機上応急食(今でいうレーションのようなもの)*54を弁当代わりにしたそうである。 修羅場になると、そのへんに味方の手足や内臓が転がっている中で、血と油でどろどろになった手で握り飯を食べるというのも、海軍兵のたしなみの一つだった。(陸軍かつ時代は異なるが映画「二〇三高地」で五目飯と思って食べたものが実は…というシーンがある) |
た行
第一遊撃部隊 | |
読み | だいいちゆうげきぶたい |
使っている艦娘 | 武蔵、金剛改二丙 |
意味 | 捷号作戦に於いて編成された軍隊区分での編成の1つ。栗田健男中将が指揮する第二艦隊を基幹戦力として編成された。レイテ沖海戦時は3隊に分かれ、第一部隊と第二部隊は同一航路を進軍し、第三部隊は別動隊として最短航路から進軍、レイテ湾の敵上陸部隊を目指した。レイテ沖海戦後も部隊として存続し、坊の岬沖海戦に参加して壊滅している。詳細は「日本海軍の各隊」や「栗田艦隊」に詳しい。 なお、金剛改二丙で言及されてる「第二部隊」とは第一遊撃部隊主力のうち、金剛が旗艦を務めた第三戦隊を基幹とする部隊で第三戦隊の他に第七戦隊*55、第十戦隊*56と清霜で構成した。一応栗田直率の第一部隊や、別行動をとる第三部隊(通称西村艦隊)とは別の作戦目的を与えられ、個別の指揮官として第三戦隊司令の鈴木義尾中将が充てられている*57が、第一部隊と同航路を続航して行動している事から、「栗田艦隊」と同じ括りとなっている事が殆どである。 |
田中少将 | |
読み | たなかしょうしょう |
使っている艦娘 | 長波 |
意味 | 開戦前~ガ島ドラム缶輸送作戦の頃までの第二水雷戦隊司令官・田中頼三(たなからいぞう)少将の事。ルンガ沖夜戦で駆逐艦8隻で重巡4隻含む艦隊を破ったことで、米国での評価は非常に高い。 反面、当時の日本海軍ではスラバヤ沖海戦で旗艦神通が真っ先に離脱した件や、第三次ソロモン海戦で早潮を旗艦としていた時の強硬揚陸*58、さらに連合艦隊が配備してくれた照月を鼠輸送の最中に喪ってしまう。そして大勝利と謳われるルンガ沖夜戦でも肝心の作戦は失敗しており、旗艦長波 そもそも海軍の作戦方針である鼠輸送自体に批判的だったこともあり、最終的に更迭される。日米という国による違いだけでなく時代、見る人によって評価が驚くほど変わる人物の一人である。 二水戦司令官になる前に、潮、神通、金剛などの艦長を務めた。 |
多聞丸 | |
読み | たもんまる |
使っている艦娘 | 飛龍、五十鈴「山口提督」 |
意味 | 二航戦(第二航空戦隊)司令官の山口多聞少将の事。ミッドウェー海戦において戦死。最期は空母飛龍と運命を共にしたことから飛龍の提督としてのイメージが強いが、軽巡洋艦五十鈴や戦艦時代の伊勢の艦長も務めた。 あまりにも苛烈な訓練を部下に課したために事故が頻発し「人殺し多聞」「気違い多聞」などと散々に言われていたが、真珠湾攻撃で彼の二航戦が航続力不足を理由に外されるという案を聞いた時、「置いて行かれては(厳しい訓練に耐えた)部下に顔向け出来ない」として出撃を訴えている。 戦死の報を聞いた多聞より先輩であった角田覚治少将は「彼の下でなら、喜んで一武将として戦ったのに」とその死を惜しんでいる(皮肉にも多聞の死後二航戦を率いたのは角田である)。同じ様に、伊勢の艦長時代にも「この艦長の元なら死ねる」と部下に慕われたエピソードがある。甲板上に土俵を作ったというエピソードもあって公式四コマでネタにされた 日本の機動部隊の欠点を熟知した将官であり、ミッドウェー海戦では彼に指揮を委ねるべきだったと惜しまれている。この評価は、ミッドウェー海戦中の意見具申に代表されるような戦闘中の閃きよりも、戦闘前から索敵の改善を訴えたり、兵装転換の危険性を実際に調査して把握していた点にある。特筆すべきは、太平洋戦争緒戦における連戦連勝で海軍の主だった将官が「勝ったのだからそれでいい」と結果に慢心(いわゆる勝利病)する中で、山口は勝利しても明らかとなった問題点や失敗はしっかり教訓とした事だった。 アメリカの戦史研究家サミュエル・モリソン*62が編集した『太平洋戦争アメリカ海軍作戦史』に「山口は卓越した司令官であり、山本五十六の後継者候補だったと言われている」と書かれており、敵であるアメリカ軍でも評価されていた事が判る。 でっぷりとした巨漢に相応しい大食漢で馬力は島風並みにはっやーいらしい、少佐時代に同期と2人で料亭に行った際に4人分の料理を注文し、驚いた同期に「俺が三人前食うつもりで注文したんだ」と言って本当に三人前の料理を平らげてしまった事もある。愛妻家としてのエピソードも残り、戦地から妻に送った手紙は約250通にもなるという。 なお、多聞という名は南北朝時代の名将楠木正成の幼名である多聞丸から取られている*63。 |
大本営 | |
読み | だいほんえい |
使っている艦娘 | 大和 |
意味 | 戦時に設置される日本陸海軍の最高統帥機関で、表向きは天皇を中心とする総司令部とされている。しかし、実際は大本営を構成する陸軍の参謀本部と、海軍の軍令部が、それぞれ統帥権を基に作戦をそれぞれで実施していて、陸海軍を統合指揮しているとは言えなかった。 また、内閣総理大臣などの政府関係者は構成員ではなく出席できなかった*64*65ので、戦時の国内外への戦況報道なども軍令部が行っていた。所謂「大本営発表」である。 太平洋戦争最初期では正確な発表が多かったが、珊瑚海海戦の頃から戦果の水増し等の虚偽報道がなされるようになり、今では「信用できない情報」の代名詞にもなっている。 艦これでは開発/運営からのTwitterを「大本営発表」と呼ぶ事もある。 |
第四艦隊事件 | |
読み | だいよんかんたいじけん |
使っている艦娘 | 龍驤 |
意味 | 1935年(昭和10年)9月26日、演習に向かっていた第四艦隊が台風に遭遇。 想定外の大波浪を受け、「初雪」「夕霧」は艦首切断、「睦月」「龍驤」は艦橋圧壊or半壊、他の艦も甲板や船体が歪む(中には切断寸前のものも)など大惨事に。 他の特型駆逐艦や、新鋭艦の最上・大鯨までもが大なり小なり被害を受けたという事実は、当時の海軍を震撼させた。 この事件や前年に起きた水雷艇の転覆事故「友鶴事件」などを機に、当時の艦船の強度不足や構造の脆さも浮き彫りとなり、全面的な補強改修が施されている。 その甲斐あってか、戦中の日本海軍では波浪による重大な事件は起きていない。一方米海軍では台風などで大損害を出してたりする。 なお本件は友鶴事件と共に、科学技術振興機構(JST)のまとめた失敗知識データベース「失敗百選」に選ばれている。(友鶴事件/第四艦隊事件) |
超弩級 | |
読み | ちょうどきゅう |
使っている艦娘 | 扶桑、伊勢 |
意味 | そもそも超弩級の前に、弩級とは「一夜にしてすべての戦艦を旧式化させた」と言われたイギリスの戦艦「ドレッドノート(Dreadnought)」*66に由来する。12インチ主砲10門(但し片舷指向8門)の主砲火力は既存戦艦の倍、さらに速力も当時の戦艦が18ノット程度のところを21ノットも出せるという革命的存在だった。 それまでの艦隊戦は「近づいて小口径砲で砲座を破壊し、大口径砲でとどめを刺す」という戦法が基本であった。 それに対し「遠距離から多数の大口径砲の斉射で倒す」という戦法を主眼としたドレッドノートはまさに革新的な戦艦で、世界を震撼させたのである。 超弩級は弩級を超えている意を持ち、狭義には13.5インチ主砲10門を実現したオライオン級以降を指していう言葉である。 今では「スゴイ」という意味合いで何にでも付く形容詞になったが、本来の意味からは離れてしまった気がしないでもない。 ちなみに、ドレッドノートの登場を受けて、各国がこれを超える戦艦の建造に熱中したために、ドレッドノート自身は早々に陳腐化してしまい、実戦であげた戦果は潜水艦1隻撃沈(しかも体当たり*67)のみというなんとも言えない落ちが付いている。*68 ドレッドノート以前の戦艦は「前弩級」と呼び、有名なところでは三笠やクニャージ・スヴォーロフ、ロイヤル・サブリンなどがある。 なお、「弩」は「ド」の宛て字であるが、「弩」とは飛距離・貫通力に優れた大弓のことであり、その意味をふまえてこの字を選んだものと思われる。 さらに言えば、艦これ公式用語集で「超時空要塞ではありません」と書かれているのは、1983年のアニメ「超時空要塞マクロス」の当初の題名が「超弩級要塞マクロス」だったことからである。*69 |
通商破壊 | |
読み | つうしょうはかい |
使っている艦娘 | Z1 |
意味 | 敵国の商船の撃沈・航路の封鎖等により海運を妨害し、物資の輸送を滞らせること。これへの防御が「海上護衛」。 近代海軍は通商破壊・海上護衛のいずれかあるいは両方のために存在すると言っても過言ではない。これらは旧日本海軍でも研究されたが国力などの関係から正面戦力の整備が優先された。 海軍弱国であるドイツは通商破壊を特に重視しており、Uボートを使用した大規模な通商破壊戦である「大西洋の戦い」が有名なほか、戦艦ビスマルクをはじめとした水上艦も通商破壊に投入された。 |
てー | |
読み | - |
使っている艦娘 | 長門、由良、綾波、雷、川内、香取、呂500、浜波 |
意味 | 「撃て」という掛け声。 「うてー」ではなく「てー」という理由は色々あるが、 (1)「う」は戦場(特に海上)では聞き取りづらい (2)普段から「うてー」と言っていると、「撃つな」と言おうとしたのに「う」で発砲してしまう恐れがある (3)「う」の時点では「撃て」なのか「撃つな」なのか「うーん」なのかわからず、次を待たなければならず、撃つタイミングを逃してしまう なお、実際の射撃指示は現場の指揮官が行うものであり、艦長や司令などは「てー」とは言わない。上官の「右砲戦」「左砲戦」の号令指示が末端まで伝わって、現場の指揮官の「てー」で射撃する。 |
敵艦見ゆ | |
読み | てきかんみ - |
使っている艦娘 | 敷波、名取、大淀 |
意味 | 文字通り「敵艦を発見した」の意。敵艦を発見した際普遍的に使われるが、特に日露戦争で仮装巡洋艦「信濃丸」から発信された電信を指す。 この通信を受けた「三笠」以下連合艦隊が迎撃のため出港した結果何をもたらしたか、提督諸氏はよくご存じだろう。 日本無線史上最も重要な通信のひとつとして知られている。 |
特型駆逐艦 | |
読み | とくがたくちくかん |
使っている艦娘 | 吹雪型、綾波型、暁型 |
意味 | ワシントン条約制限下で設計された、世界中を驚愕させたクラスを超えた駆逐艦、それが吹雪型こと特型駆逐艦である。 全24隻(艦これに出ているのは16隻)が造られ初期型の特I型(10隻)、特I型を少し大型にして主砲を別の物に変更した特II型(通称「綾波型」10隻) そして前2タイプのいいところを残しつつ小型化したのが特III型(通称「暁型」4隻)がある。 艦これでは「吹雪型」「綾波型」「暁型」と区別される事例が多いが、海外などでは特型駆逐艦を総称して「吹雪型」とも呼ばれることが主流であり、「綾波型」「暁型」と類別するのはあまり一般的ではない*70。24隻の特型駆逐艦の中で最後まで生き残ったのは「潮」「響」の2隻であった。 |
トーチ作戦 | |
読み | とーちさくせん |
使っている艦娘 | Tuscaloosa |
意味 | 1942年11月8日より行われた、連合国軍によるモロッコとアルジェリアへの上陸作戦。 6月より始まった独ソ戦で、ソ連よりヨーロッパでの第二戦線の形成*71を要求され、その第一陣として始められたのが北アフリカへの侵攻作戦である本作戦であった。 上陸後、連合国軍はまず在北アフリカのヴィジーフランス軍約20万と相対したが、偶々現地にいたヴィジーフランス軍総司令官ダルラン元帥*72との交渉を経て、カサブランカ沖海戦など一部抵抗はあったものの11日には停戦がなされた。 その後はチェニジアをめぐって連合国軍*73とドイツとの攻防が続き、数では連合国軍が圧倒していたがリビアから撤退してきたエルヴィン・ロンメルの部隊や、ドイツ第5装甲軍の抵抗で大損害を被ってしまう*74。 慌てた連合国軍は次作戦*75用の戦力から一部増援として送り込み、指揮官もフリーデンダール中将が更迭され、アメリカ第1機甲軍団のジョージ・パットン少将が昇格する。 3月以降はパットンのアメリカ第2軍団、バーナード・モントゴメリのイギリス第8軍の迂回戦術でドイツ軍は撤退を重ね、4月には一時的に連合国軍を足止めするもシチリアからチュニジアへの補給線を連合国側が叩くと支えきれなくなり、5月7日連合国軍がチュニジア北部のビゼルトとチュニスを占拠した事が決定打となって北アフリカのドイツ軍は降伏した。 |
○○殿 | |
読み | (人名+)どの |
使っている艦娘 | あきつ丸 |
意味 | 敬称の一つ。 海軍においては名前の後ろに役職をつけて呼ぶ事自体が敬称であるため、相手が目上の場合でも、階級もしくは役職をつけて呼ぶ場合は敬称をつけなかったが、陸軍はたとえひとつでも階級が上なら必ず殿をつけて呼ぶようになっていた。 |
友永隊 | |
読み | ともながたい |
使っている艦娘 | 飛龍 |
意味 | ミッドウェー海戦時の空母「飛龍」艦上攻撃隊を指す。指揮官が友永丈市大尉だったことからこう呼ばれる。 本来、南雲機動部隊の攻撃隊長は淵田美津雄中佐だったが、淵田中佐は盲腸手術のため出撃できず友永大尉が総指揮官の代行も務めている。 ミッドウェー島を爆撃した友永大尉は、爆撃効果不十分という意味の暗号電文「カワ・カワ・カワ」を発信した。この報告もあり、機動部隊では雷爆装転換作業を始めることになる。 その後、ただ一隻残った飛龍から発進した友永隊は、先に発進した小林大尉の艦爆隊に続いてヨークタウンを攻撃、魚雷2本を命中させてこれを大破させた。 ただし、この時友永丈市大尉本人は、燃料タンクに被弾して半分の燃料しか積めない状態の九七式艦攻でそのまま出撃しており、攻撃後ヨークタウン艦橋付近に激突自爆し未帰還(死後2階級特進中佐)となった。もっともこの時の飛龍とヨークタウンの距離は半分の燃料でも十分行き来できるぐらいの距離ではあった。しかし片方にしか燃料を積まないとなると機体バランスが崩れ操縦が難しいものとなるので、そういった面でリスクを負うものであった。 実は友永が飛龍艦攻隊隊長になったのはミッドウェー海戦前であり、真珠湾攻撃から率いていた訳ではない。飛龍艦攻隊を率いていたのは楠美正少佐(友永と入れ替わりに加賀艦攻隊隊長に移動。ミッドウェー海戦で戦死)である。 |
な行
南雲機動部隊 | |
読み | なぐもきどうぶたい |
使っている艦娘 | 赤城、漣 |
意味 | 南雲忠一司令長官が指揮した第一航空艦隊、及びミッドウェー海戦後に再編成された空母機動部隊である第三艦隊の呼称。「赤城」は前者を指している。 第一航空艦隊は、指揮下に一航戦・二航戦・四航戦・五航戦を擁した空母を主力とした世界初の艦隊。このうち一二五各航空戦隊を基幹に、軍隊区分として第三戦隊・第八戦隊・一水戦などが加わり「機動部隊」を構成、これに指揮官の名を冠して「南雲機動部隊」と呼称された。開戦時の旗艦は「赤城」。 ハワイ真珠湾攻撃を皮切りに、ニューギニア方面の南方作戦やセイロン沖海戦・ミッドウェー海戦などを戦い、ミッドウェーで空母4隻を失い壊滅した。 文字通り世界最強の機動部隊であり、撃墜:被撃墜のキルレシオは10:1以上、セイロン沖海戦では艦爆隊の命中率80%以上を叩き出すなど、向かうところ敵なしの最精鋭部隊だった。 その状態から一転してミッドウェーで大敗したために、「慢心」という言葉が強調される要因になり、南雲提督を批判する声が非常に強かったが、 近年の再検証でこれに対する反証が行われており、南雲提督の再評価も進んでいる。批判と反論はかなり広範囲に渡るので、興味のある方は調べてみると良いだろう。 なお、上記のように「南雲機動部隊」というのは実は正式な艦隊ではなく作戦に合わせて各隊が集められた臨時編成であった。そのため訓練や部隊内の指揮統制などに支障が出ていたという話が伝わっている。 正式に戦艦や巡洋艦などの護衛艦艇を擁する艦隊となったのはミッドウェー後に第三艦隊として再編成されてからであった。 第三艦隊は南太平洋海戦を戦った後に、司令長官が南雲中将から小沢治三郎中将に交代し、ここに南雲機動部隊の歴史は終わった。 南雲中将はその後サイパン島の戦いで守備隊の玉砕とともに自決した。戦死後大将。 |
西村艦隊 | |
読み | にしむらかんたい |
使っている艦娘 | 扶桑、時雨、満潮 |
意味 | 1944年10月、捷一号作戦のレイテ湾突入に基づき編成された第二戦隊司令官西村祥治中将を指揮官とする部隊。正式名称は、「第一遊撃部隊第三部隊」。あくまでも第一遊撃部隊指揮官栗田健男中将が率いる第一遊撃部隊指揮下の部隊であり、「機動部隊」や「第二遊撃部隊」のように捷号作戦で編成された戦略単位としての部隊ではないし「西村艦隊」というのは「小沢艦隊」「栗田艦隊」「志摩艦隊」と同様通称で本当に「艦隊」として編成された訳ではない。 第二戦隊所属の戦艦「山城」を旗艦に「扶桑」、第五戦隊と行動を共にしていた重巡洋艦「最上」、栗田艦隊の進む航路の長さの関係から航続力が不安視された駆逐艦「山雲」「満潮」「朝雲」「時雨」の計7隻を擁した。 当初は第三部隊は編成される予定はなかった。ところが作戦が発動し艦隊が最終補給地点であるブルネイに到着すると、連合艦隊が手配しているはずの補給船はなく、栗田がもしもを考えて用意していた補給船2隻がなんとか翌日につくという有様で、これでは予定日(この時点の突入予定日は24日)に突入できない状態だった。 連合艦隊は突入日を一日伸ばして25日としたが、それでも栗田艦隊の行程はギリギリだった。そこで部隊司令部の判断で隊を二手に分け、主力は敵制空圏内に侵入するのが最も遅いが遠回りのパラワン水道を経てサンベルナルジノ海峡を抜ける大回りルートを、速力や航続力に問題のある艦からなる別隊を最短距離だが敵制空圏内に最も早く入るスリガオ海峡ルートを、それぞれ分かれて進撃し、レイテ湾突入の際挟撃作戦をとることにした。その結果選ばれたのが上記の7隻で『西村艦隊』が誕生した。 実は第二戦隊の扶桑姉妹が選ばれたのは低速の問題よりも足手まといの可能性があったからという話もある。 扶桑姉妹が低速で本隊についていくのが無理だというのなら、ほぼ同じ速度である長門も無理だった筈というのが理由。低速というよりも第二戦隊の編成時期9月と前月で、戦隊間の連携訓練すら不足しており*76、それに加えて第一遊撃部隊への合流も10月初頭で12日から始まった台湾沖航空戦の余波で第一遊撃部隊も警戒態勢となったので部隊行動の連携訓練は出来ておらず、新参の第二戦隊は足手まといになる可能性が高かった。その為第二戦隊、同じく所属する戦隊がなく第五戦隊に間借りしているような状態だった最上、そして航続力に難のある白露型、朝潮型の4隻が別隊を組むようにしたとも考えられている。*77 敵戦力の挟撃と分散を任務を帯びた西村艦隊。しかし西村は出航してからずっと予定よりも早いスピードで進撃。そして栗田艦隊から到着遅延の連絡より、西村中将は予定よりも早い時刻に自らの艦隊のみでの夜間突入を判断。スリガオ海峡を北東に抜けてレイテ湾を目指した。何故西村が当初の予定よりも早く進撃したのかについては司令部関係者が全滅しているので謎であるが、ともかく24日22時頃に艦隊はスリガオ海峡付近に侵入した。以後の作戦の経緯は該当箇所を読むべし。 結果、スリガオ海峡に突入して生還した西村艦隊所属艦は「時雨」ただ1隻のみとなった。 日本では勇猛に突入して壊滅した悲劇性などから西村提督への評価は高いが、欧米などでは逆に西村の判断を厳しく批判するものもある。また1947年(終戦後2年)に刊行されたレイテ沖海戦を扱う書籍では恐らく第1号のジェームス・フィールドJr 著「レイテ沖の日本艦隊」の中には、唯一生還した時雨の当時の艦長の証言として「(彼への批判を知ることなく死んだことを指して)西村提督は戦死してよかった」というのを掲載しており、日本国内でも当時西村に対する批判が大きかった事を示唆する記録も残されている。これほどの勇敢な死であるにもかかわらず、戦死後の階級特進がなかった事も、これを証左しているのかも知れない*78。 |
鼠輸送 | |
読み | ねずみゆそう |
使っている艦娘 | 村雨、雷、夕雲 |
意味 | 駆逐艦などの機動性の高い艦艇で(鼠のように夜にコソコソと)前線の島などに物資や人員を輸送すること。 潜水艦の場合は「モグラ輸送」、大発・小発だと「アリ輸送」となる。ちなみに米海軍は「トーキョー・エクスプレス(東京急行)」と呼んでいた。 これは日本軍の輸送艦不足と敵の航空攻撃回避のために行われたやむなしの手段で、これらを含む駆逐艦の多用によって日本軍は多くの駆逐艦をソロモンの攻防で失った。 鼠つながりネタだと、海軍には「鼠上陸」というルールがあり、船内の鼠を1匹捕まえると賞品として上陸許可が1回与えられた。「油虫上陸」もあり、 |
は行
排水量 | |
読み | はいすいりょう |
使っている艦娘 | 木曾など |
意味 | 軍艦の大きさ・武装の規模などを表す単位。 木曾などが「5500トン級」などと言っているのは、この排水トン数のことを言っている。 船の大きさや能力を表す場合、タンカーなどの貨物船なら「どれだけ積めるのか」商船なら「どれだけ稼げるのか」が重要なため容積トン数(甲板から下の船そのものの容積を計算で出した値)で表す。 軍艦の場合は「どれだけの武装をしているか」が重要であり、そのために考え出された単位が排水トン数である。船を水上に浮かべた際に押しのけられる水の重量をトン単位で示した数値で、船全体の重量に等しく、積み荷による重量の変化が少ない軍艦の大きさを表すのに最も適している。 現在では乗組員・弾薬・燃料・水など、計画上搭載できるもの全てを搭載した状態での満載排水量が使われているが、第二次大戦当時は満載排水量から燃料および水の重量を差し引いた状態の基準排水量が主要国で使用された。 …ただし軍事機密の観点から相変わらず現役艦の満載排水量は未公表か誤魔化している国がほとんど。現在でも、日本の護衛艦は計画値は発表されているものの完成した実艦の満載排水量は公表はされていない。 |
八八艦隊 | |
読み | はちはちかんたい |
使っている艦娘 | 長門 |
意味 | 1907年、日露戦争でロシアに勝利した日本海軍が対立が深まっていたアメリカを仮想敵国として定めた国防方針「国防所要兵力」において、主力の戦艦8隻、装甲巡洋艦8隻を編成整備する計画が立案された。これが八八艦隊計画の初期案で、予算不足等の理由で段階的に整備され、1920年に「八八艦隊案」として最終的な計画が纏まった。 この計画は竣工して8年未満の戦艦8隻、巡洋戦艦8隻を中核戦力とし、その他補助艦艇等を整備、8年を超えた主力艦も引き続き準主力として運用する*79という大規模なものだった。 上記のように計画は段階的に承認されており、それぞれの建造計画で承認された艦艇は以下の通りである。 ・大正5年度軍備計画(長門型戦艦:長門、天龍型軽巡艦:天龍、龍田ほか) ・大正6年度計画(長門型戦艦:陸奥、加賀型戦艦:加賀、土佐、天城型巡洋戦艦:天城、赤城、球磨型軽巡洋艦、長良型軽巡洋艦:長良、名取、五十鈴、駆逐艦:峯風型ほか28隻、潜水艇18隻、特務艦ほか) ・大正7年度軍備計画(天城型巡洋戦艦:高雄、愛宕、長良型軽巡洋艦:由良、鬼怒、阿武隈、夕張型軽巡洋艦:夕張、特務艦(後に航空母艦):鳳翔、神風型駆逐艦:神風*80、朝風*81、春風*82ほか駆逐艦27隻、潜水艇48隻、給油艦5隻) ・大正9年度軍備計画(紀伊型戦艦:紀伊、尾張、13号*83、14号*84、8号型巡洋戦艦:8号艦、9号艦、10号艦、11号艦、鳳翔型航空母艦:翔鶴他1隻、川内型軽巡洋艦、神風型駆逐艦:松風*85、旗風*86ほか駆逐艦32隻、潜水艦28隻、砲艦5隻、潜水母艦2隻、掃海艇6隻、給油艦神威ほか) しかしこのような大規模な建艦計画を日本の国力では大きな負担であり、計画終了後の維持費も推定で約6億円と、当時の日本の歳出額の1/3を上回るものであった。 また同時期に米英でもダニエルプランなどの大規模な建艦計画が進められており、軍拡が国家の経済を逼迫していた。このため日米英仏伊の5か国は1921年にワシントン海軍軍縮条約を締結、これにより八八艦隊計画は中止となり、建造中の主力艦は解体もしくは航空母艦への改装となった。但し巡洋艦以下の補助艦艇については引き続き建造されている。 |
八十一号作戦 | |
読み | はちじゅういちごうさくせん |
使っている艦娘 | 白雪、浦波 |
意味 | 時期的には「ケ号作戦」ころ。ラバウル基地を出て、ビスマルク海~ダンピール海峡を通り、ニューギニア島の都市ラエへ向かう輸送作戦。 その途中で米・豪軍の空襲を受けた。別名ビスマルク海海戦、ダンピールの悲劇。海戦といってもほとんど一方的にボコられただけで失敗に終わってしまった。 しかもその失敗は事前に予測できていたのだが「命令だから」の一言のもと強行することに。「白雪」のページにも詳細。 |
おもな参加艦艇:白雪 朝潮 荒潮 時津風 朝雲 浦波 雪風 敷波 他輸送艦8隻 | |
抜錨 | |
読み | ばつびょう |
使っている艦娘 | 天龍、愛宕、鳥海など |
意味 | 錨を上げること。出港・出帆・出撃。英語では"weigh anchor"(米国艦娘の多くが使用)。ちなみに反対語は「投錨(とうびょう)」。 ちなみに海上自衛隊では出港時に「錨を上げて」を慣例として演奏することが多いものの、係留時に実際に錨を使うことは少なくロープだけで係留することが多い。 関連ネタとして、軍事用語ではあるが海軍・海上自衛隊では「港を出る」ことから「出港」と言うが、民間や海上保安庁では「予定された航路に出る」という意味で「出航」という地味に面倒な言葉の違いがあったりする。決められた航路がなく臨機応変な行動をする海軍ならではの用語である。 |
ハリケーン・バウ | |
読み | はりけーん・ばう |
使っている艦娘 | 大鳳 |
意味 | 航空母艦における艦首構造の1つで船体と飛行甲板が一体化している構造を指す。エンクローズド・バウが主流の言われ方で、ハリケーン・バウは実は別名だったりする。 これに対して従来の船体と飛行甲板が分かれていて空間があるのはオープン・バウと呼ばれている。 オープン・バウは構造的に簡単で、従来艦から空母に改装する際などは便利な構造だった。しかし外洋で活動する際は荒海の中を航行する時もあり、その際艦首にぶつかった波が突き出た飛行甲板先端に直撃してこれを破壊する事もあり、その惰弱性が問題となった。 そこで艦首構造を上に伸ばし、飛行甲板と一体化する事で強化し、荒波にも耐えれるようにしたのがエンクローズド・バウで、ハリケーン・バウという別名は「波浪に強い」から採られたものである。 現在では飛行甲板に装甲を施す必要上便利である事と、対放射能・化学兵器防護の観点から機密性が重視されることからどの航空母艦もハリケーン・バウを採用しており、海上自衛隊の4隻のヘリ空母*87でも採用されている。 最初にハリケーン・バウを採用したのはイギリス海軍の航空母艦で鳳翔と同時期に建造された「ハーミーズ」で、以後イギリス海軍では当初より空母として計画された艦には全てハリケーン・バウを採用している。 アメリカ海軍では建造中の巡洋戦艦から改装したレキシントン級航空母艦で初めて採用されたが、以後は戦後フォレスタル級航空母艦で再採用されるまでオープン・バウに戻っている。 日本海軍では採用したのは大鳳だけだが、大鳳以後の建造計画では全ての航空母艦は飛行甲板を装甲化することとしており、ハリケーン・バウも採用する予定だった。 |
ビッグセブン | |
読み | - |
使っている艦娘 | 長門、陸奥、Nelson、Colorado |
意味 | ワシントン海軍軍縮条約によって、日米英の列強が保有が認められた7隻の戦艦の事。いずれの戦艦も、口径16インチ(約40cm)の主砲を搭載しており、当時、世界最強の7大戦艦と呼ばれた。 条約では、完成済みの戦艦は保有が認められ、そうでないものは廃棄される事になっており、会議中に完成艦とされていたのは「長門」とアメリカの「メリーランド」だけであった。 しかし、日本が「陸奥を残せ」とゴネた結果、バランスを取る為にアメリカは廃艦予定だった2隻の建造続行が認められ、イギリスは新たに16インチ砲搭載艦2隻の建造が認められる事となり、戦艦の保有率はかえって日本に不利になってしまう。但しほとんど語られることはないが代わりに戦艦を廃棄しており日本は摂津アメリカはデラウェア級2隻イギリスはサンダラーとキング・ジョージ5世級3隻である。日本はほとんど準ド級アメリカはド級イギリスは超ド級と廃棄戦艦で見れば日本が有利な結果となっている。 この結果を知った山本五十六は「陸奥1隻の為に、米英の戦力を随分と強化してくれたもんだ」と皮肉ったという。 ビッグセブンの内訳は以下の通りである。 *日本:長門型戦艦「長門」、「陸奥」 *アメリカ:コロラド級戦艦「Colorado」、「Maryland」、「ウェストバージニア」 *イギリス:ネルソン級戦艦「Nelson」、「Rodney」 各国のパワーゲームの中で誕生したビッグセブンだが、いざ戦争が始まると戦場の主役は空母機動部隊に奪われてしまい、戦艦としての本分をまっとうできたのは西村艦隊を撃破した「ウェストバージニア」「Maryland」と*88、「Bismarck」と撃ち合った「Rodney」だけであった。*89 なお西村艦隊の基幹となった第二戦隊には長門も配属させる話も出ていたのだが、当時長門が所属していた第一戦隊や捷号作戦に向け訓練をしていた第二艦隊から「今になって長門を引き抜かれたから作戦計画を一から練り直さないといけなくなるからやめてくれ」と猛烈に反対されて沙汰やみとなっている。もしこれが実施されていたら長門vsウエストバージニア、Marylandのビックセブン同士の砲撃戦が実現していたかもしれない。 |
平賀譲/平賀さん | |
読み | ひらがゆずる/ひらが - |
使っている艦娘 | 妙高、夕張 |
意味 | 日本の海軍軍人であり貴族(従三位男爵)、そして艦艇設計士の平賀譲(ひらが ゆずる)氏のこと。軽量な艦体に重武装を備える氏の設計は諸外国からも脅威視され、「夕張」や「妙高型」などの功績から「造船の神様」とも呼ばれる。(ワシントン条約やロンドン条約で、巡洋艦の分類や保有隻数が厳しく規定された一因との説もあるほど) 一方で、頑固で反対意見を一切受け付けない性格から「平賀不譲(ひらが ゆずらず)」と皮肉られたり、その設計思想が(当時は)革新的過ぎて関係各処と『色々とあった』。 (所謂典型的な“斬新なアイデアを具現化する”天才。細かい改修とかウンウンな) なお、後任で特型駆逐艦や高雄型重巡洋艦、最上型軽巡洋艦の設計者である藤本喜久雄とは相当な確執があったと言う。 海軍退職後には以前から教鞭をとっていた東京帝大(現在の東京大学)の13代学長に就任。 東京帝大経済学部内で発生していたイデオロギー紛争を13名の辞職者を伴う形で終結させた「平賀粛学」がよく知られる。 平賀氏は蕎麦が好物だったようで、死ぬ間際にも蕎麦が食いたいと夫人に呟いたそうな。ちなみにその時に食ったのは有名老舗蕎麦屋、2013年2月に火事で燃えた「藪」である。(「夕張」が時報で蕎麦蕎麦と言うのはこれが元ネタ) 設計した主な艦娘:「夕張型」「古鷹型」「妙高型」「川内型」「大和型(監修のみ)」 彼に縁がある艦娘:「山城」「比叡」「島風」 参考>“「かんだやぶそば」出火 1880年創業の老舗 都の歴史的建造物(※外部リンク)” |
砲雷撃戦 | |
読み | ほうらいげきせん |
使っている艦娘 | 睦月、長良、古鷹、大和など他多数 |
意味 | 艦砲と魚雷で戦うことを意味する、実際の用語。明治時代から「砲雷撃」という単語が当時の戦記や軍記でしばしば見られ、太平洋戦争中に日本海軍の将官が「砲雷撃戦」と表記している。*90。 ただし現場で使用されていた、正式な号令・命令ではない。旧海軍において、大砲で戦う場合は「砲戦」、魚雷で戦う場合は「魚雷戦(雷撃戦ではない)」と使い分けるのが正しい用法である。これは、艦の指揮官である「艦長」の指揮下に砲戦を監督する「砲術長」と、魚雷を管轄する「水雷長」が居るため、それぞれに個別に命令しなければならないという規則があったから。こういう現場事情を無視してこれらをまとめた言い回しはアマチュア的な表現である。 魚雷を使用する場合は「魚雷戦用意」と号令をかけ、操式の違う砲戦の場合は「砲戦用意」とは号令をかけず「右砲戦」「左砲戦」と号令をかけるようになっていた。 このページでも取り上げられている映画「太平洋奇跡の作戦キスカ」でも、軽巡木曾で「右砲戦・魚雷戦用意!」と言い分けているのがわかる。 ちなみに潜水艦の場合は「襲撃戦」だとか。 魚雷は魚型水雷の略なので「魚雷戦」は「水雷戦」とも呼ばれることもある、そもそも「水雷戦隊」と呼ばれることから「水雷戦」の方が正しいとの説もある。 余談だが、海上自衛隊での同様の号令は「対水上(対空)(対潜)戦闘用意」という号令になっている。 |
本国艦隊 | |
読み | ほんごくかんたい |
使っている艦娘 | Javelin、Rodney |
意味 | 1902年10月1日に英国沿岸警備を主目的に編成された艦隊。1904年に海峡艦隊*91に名称変更されるが1909年に元に戻っている。 第一次世界大戦が始まると、本国艦隊は大西洋艦隊*92ほかと統合され、大艦隊(グランドフリート)を編成する。 この大艦隊は日本の連合艦隊と異なり、吸収された本国艦隊、大西洋艦隊は廃止され全艦艇が大艦隊の直接指揮下に入っていた*93。この為本国艦隊の名称は一時的に消滅する。 第一次世界大戦後、大艦隊は解散となったが、本国艦隊は復活せずに大西洋艦隊が復活し、主力艦隊として存続した。 だが1931年9月のインヴァ―ゴードン反乱を期に名称を大西洋艦隊から本国艦隊に改称し、そのまま第二次世界大戦を迎える。 戦中は大西洋でのイギリス海軍の主力として活躍。元々本国艦隊の作戦区域は特に区分けされておらず、所属艦艇を柔軟に他海域に投入する事が出来た。 そのため所属艦艇の多くが地中海、遠くは太平洋にまで派遣され、活躍している。 第二次世界大戦後も本国艦隊は存続し、他のNATO諸国と連携して北大西洋をソ連から防衛する役割を果たしていた。 だが1967年に地中海艦隊が解隊、その艦艇および人員が編入されると、その任務は本国周辺だけではなくなった事もあって名称を西方艦隊に変更、伝統ある本国艦隊は消滅した。 |
ま行
松輸送 | |
読み | まつゆそう |
使っている艦娘 | 能美 |
意味 | 1944年前半に日本軍が行った中部太平洋方面への増援部隊輸送作戦のこと。「松船団」と総称される11回の護送船団で運ばれた。 絶対国防圏と位置付けられたマリアナ諸島などの防衛力を強化するために、満州等の戦力物資を輸送するのが目的で、指揮は連合艦隊ではなく創設されたばかりの海上護衛総司令部が実施した。 航路は2経路あり、マリアナ諸島およびカロリン諸島東部への増援については横須賀鎮守府の護衛で太平洋航路*94、カロリン諸島西部への増援については第一海上護衛隊の護衛で台湾航路*95が利用され、前者を「東松船団」、後者を「西松船団」と呼ばれた。 輸送作戦自体は当時の米潜水艦部隊の活動不活発もあり、およそ2か月の作戦期間中の損失は輸送船で参加船舶延べ100隻以上のうち3隻のみ、護衛艦艇の損失は2隻(松風、朝凪)のみだった*96。 特に陸軍将兵を輸送した船舶の損失は無く、サイパン防衛の要であった第43師団主力を無傷で現地まで輸送できた事は陸軍側を歓喜させた*97。 だが米軍の侵攻が目前に迫る状況であり、別船団で輸送していた築城資材が被害を受けて改没してしまったので防衛陣地構築のための資材も時間も不足していた。このためサイパン島を含むマリアナ諸島の防衛は失敗に終わり、市民も巻き込んだ壮絶な戦いとなってしまった。 一方で西松輸送で増強を受けたペリリュー島などカロリン諸島西部は、米軍侵攻まで時間的余裕があったので準備に時間をかけることが出来、特にベリリュ―島では4日で占領する計画だった米軍を2か月以上も足止めする善戦を見せて米軍を大きく苦しめている |
右舷・左舷 | |
読み | みぎげん(うげん)、ひだりげん(さげん) |
使っている艦娘 | 筑摩「みぎげん」、那智「うげん」、鳥海「ひだりげん」など |
意味 | 艦尾から艦首を見て右側と左側を指す用語。 海軍や自衛隊では戦闘中の聞き間違いを防ぐために「みぎげん」「ひだりげん」と呼んでいるが、民間や陸軍では「うげん」「さげん」と呼んでいた・・・と言われることが多いが正確に言えば誤りである。 海軍の文献にはどちらの表記も混在してたりしてややこしい。 これは、海軍で特にルール化されていたわけではなく、現場の慣例的な面が強いために、ぶっちゃけどっちでも良かったからである。 ちなみに、船が港に着いたときは、左舷側を岸壁につける。古代の船には舵はなく、船尾の漕ぎ手のオールを舵のように使っていたが、右ききの人の方が多いため、舵として使うオールは右舷にあった。接岸の際は舵の邪魔にならないように左舷で接岸した。その流れを汲んで旅客機も左側から乗り降りする。 さらにいうと、日本の空母が左舷側に煙突を置かなかったのもこのため。下向き煙突からの排気が岸壁にどさーは大惨事ですな。 因みに英語でも、左舷を港側という意味から「port(ポート)」と呼び、右舷を舵取り板から訛った「starboard(スターボード)」と呼んでいる。なお、英語ではかつては左舷を「larboard(ラーボード)」と言っていたが、スターボードとラーボードが紛らわしいという理由でポートと呼び替えたという、日本と同じような事情がある。 |
や行
山本五十六 | |
読み | やまもといそろく |
使っている艦娘 | 五十鈴 |
意味 | 新潟県長岡市出身の海軍軍人。連合艦隊司令長官。 旧姓高野。大尉時代に絶家となっていた長岡藩家老の家系である山本家*98の養嗣子となる。 少尉候補生の時に装甲巡洋艦「日進」に配属され、日本海海戦に参加。左手人差し指と中指を失い、左大腿部に重傷を負う。 早くから航空機の有用性に着目し、航空主兵を推し進める。 幾度かのアメリカ駐在経験で日米の国力差を実感しており対米戦には反対であったが、対米戦不可避の状況になると真珠湾攻撃を計画、これを実行し大戦果を挙げるが、ミッドウェイ海戦で空母四隻を失い、戦局は膠着状態に陥る。 苦戦が続くなか戦争指揮を続けるが、視察に訪れたブーゲンビル島上空で敵機の襲撃に遭い、戦死。 遺体は陸軍の都城歩兵第23連隊が発見し、本土に送られた。 実際には当時山本五十六が飛行機で視察に訪れることが事前にアメリカに知られており、アメリカ海軍は山本搭乗機であることを知った上で襲撃した、暗殺事件である(日本海軍では「海軍甲事件」と呼ばれた)。 なお、五十六という名前は父・貞吉が56歳の時に生まれたことにより名づけられたもの。 |
四航戦 | |
読み | よんこうせん |
使っている艦娘 | 日向 |
意味 | 空母艦隊「第四航空戦隊」のこと。太平洋戦争初期は空母「龍驤」や「春日丸」が所属していたが、「春日丸」は程なく離れ、替わりに開戦後に竣役した「祥鳳」や「隼鷹」が配属される*99。ミッドウェー海戦の後に2隻は再編された第二航空戦隊に配置換えとなり四航戦は解隊。 その後1944年に航空戦艦「日向(旗艦)」「伊勢」で世界にも類を見ない航空戦艦を軸にした航空戦隊として再編成される。この時の所属は空母機動部隊である第三艦隊だった。 マリアナ沖海戦後、大損害を受けた二航戦は解隊となり、生還した「隼鷹」は「龍鳳」と共に古巣の四航戦に配属となったが、台湾沖航空戦で再編した航空隊を提供したため、直後に発生したレイテ沖海戦には航空機がない為「隼鷹」「龍鳳」は参加できず、「伊勢」「日向」が戦艦として参加した。このため4隻揃って作戦行動を共にしたことはない*100。 その後北号作戦などにも参加したが、航空戦艦の2隻は実戦で航空機を運用しておらず、太平洋戦争末期には軽巡「大淀」が所属するなど航空戦隊というよりは戦艦戦隊でありアメリカ軍もフィリピン戦線の懸念材料として執拗に追い回し続けた。 捷一号作戦で機動部隊が壊滅したため、作戦後四航戦は第二艦隊に編入されている。 連合艦隊が壊滅状態に陥った日本海軍は南西方面にて各地を駆けずり回っていたこの戦隊に対し、戦略資源を満載し日本本土へ帰還させる「北号作戦(主な海戦・作戦を参照)」を発動した。 司令官の松田千秋少将は標的艦「摂津」航空戦艦へ改造前の「日向」戦艦「大和」などの艦長を務めた歴戦の司令である。 彼が「摂津」艦長時に研鑽した爆撃回避法により、解隊されるまで日向・伊勢は爆撃によって命中弾・至近弾は受けたものの、遂に魚雷を受ける事は無かった。 彼のおかげで「伊勢」「日向」は艦これにおいて高回避・幸運艦として設定されたと言っても過言ではない。 四航戦は北号作戦終了後の45年3月に「日向」「伊勢」を浮き砲台に、「大淀」を練習艦とすることが決定したため解隊された。 なお、この四航戦に配属されるはずだったのが、第六三四航空隊である。 |
ら行
ラムネ | |
読み | らむね |
使っている艦娘 | 大和、最上 |
意味 | ここでは清涼飲料水の方のラムネを指す。日本海軍では消火設備として搭載していた炭酸ガス発生装置を転用してラムネを製造していたという。 シロップを混ぜた水に炭酸ガスを注入すれば簡単に出来るため、多くの艦艇で作成され、中には専用のラムネ製造機を搭載した艦もあった。嗜好品もそれほどなかった時代、甘くて清涼感のあるラムネは艦隊勤務で疲れた将兵には人気の飲物であった。 また炭酸水は普通の水よりも腐りにくく、保存性が高かったので飲料水として搭載するには好都合だったという事情もある。 ラムネについて言及している大和には艦中央付近にラムネ製造所があり、各分隊から交代で手伝いの人員を出してラムネを製造していた。普段は暑くても水を好きなだけ飲むことも出来ない下っ端の兵たちも、この当番の時はラムネを好きなだけ飲めたそうで、当番に当たるのを待ちわびていたそうな。 ラムネの人気は海軍だけではなく、陸軍でも人気だった。第一次世界大戦で青島に立て籠るドイツ軍と交戦した際、ドイツ軍が残していった泡の出る飲物を見た兵士たちが「ラムネだ!」と思って我先に飲んだら、実はそれはシャンパンで、兵士たちはべろんべろんに酔ってしまったという話もある。 駆逐艦のような設備のない小型艦には |
連合艦隊 | |
読み | れんごうかんたい |
使っている艦娘 | 長門、雪風、大淀 |
意味 | 2個以上の艦隊で編成された、日本海軍の主力艦隊。当時の表記は「聯合艦隊」 日清戦争開戦の6日後、主力艦で構成された常備艦隊と、老朽艦などで構成された警備艦隊(西海艦隊と改称)をもって連合艦隊とした。 以後、日露戦争などの戦時や演習の際臨時に編成されていたが、大正12年(1923年)以降常設となった。また、連合艦隊の司令部は主力の戦艦で構成される第一艦隊の司令部が兼務していたが、対米戦が間近に迫り、艦隊が増設されて連合艦隊の規模が拡大し、兼務する事が出来なくなったので昭和16年に第一艦隊司令部が独立し、連合艦隊は第一戦隊ほか直轄部隊のみを直接指揮する形になっている。 当時の海軍士官を目指す若者たちにとって戦艦の艦長と連合艦隊司令長官になる事が夢であり目標だった。例えば米内光政が連合艦隊司令長官になって僅か2か月余りで海軍大臣に請われた際、彼は相当渋り、結局大臣にならざるを得なくなると、同期*101から「せっかく長官になれたのに……心中お察しするね」という意味の手紙をもらうと「僕の気持ちを分かってくれたのは君だけだ!」という、相当悔しがる手紙を出している。*102 海上自衛隊でも同様の編成方式をとり「自衛艦隊」*103が昭和29年(1954年)に編成された。 艦娘の同名艦では「ゆきかぜ」「あきづき(初代)」がその旗艦を務めている。なお、自衛艦隊司令部の陸上移転に伴い旗艦制度は昭和38年(1963年)に廃止された。 自衛艦隊の直下には「護衛艦隊」が昭和36年(1961年)から常設されており、艦これ実装艦の跡目ではむらくもが護衛艦隊旗艦に就任している。 しかし、防衛計画の見直しにより平成19年(2007年)をもって護衛艦隊旗艦は護衛艦隊直轄艦に名称変更、その直轄艦制度も平成22年(2010年)に廃止された。またなり損ねました……姉様…… なお、聯合艦隊の英訳は、現在はアメリカで使われていた"Combined Fleet"とするのが通例で、艦これの起動画面にも"Combined Fleet Girls Collection"と書かれているが、当時は"General Fleet"(略してGF)と訳していた。これは師匠であるイギリス海軍の戦時編成"Grand Fleet"と同じ略称にするためである。 |
ロクマル | |
読み | - |
使っている艦娘 | 日向改 |
意味 | 「修理してもロクマルは載めないぞ」:後世の護衛艦「ひゅうが」搭載の対潜ヘリ「SH-60K」のこと(ただし、日本でロクマルと言うと陸上自衛隊の「UH-60J(ブラックホーク)」、海上自衛隊の「SH-60J」「SH-60K」のすべての機体のことを指す。ついでに世界でロクマルと言うとシーホークも含む「UH-60」の派生型すべての機体のことを指す。)。 原型初飛行からすでに30年以上経過している旧式であるが、 勿論、姉妹である「いせ」や「22DDH」改め「いずも 航空戦艦「日向」のエレベーターサイズでも収納可能なので、やろうと思えば運用できる……かもしれない。 自衛隊いわく、(対潜は)単縦でも余裕wwwとのこと。 |
わ行
ワシントン海軍軍縮条約 | |
読み | - かいぐんぐんしゅくじょうやく |
使っている艦娘 | 吹雪、妙高 |
意味 | 1922年(大正11年)、当時の海軍五大国(英・米・日・仏・伊)によって調印された世界最初の軍縮条約である。 世界的な建艦競争・軍備拡張による、国家予算に影響を与えるほどの莫大な軍事費増大に歯止めをかけるべく、主力艦の装備・保有の制限(と要塞建設の禁止)を施した。 内容としては、 ①基準排水量によって*104、各国の主力艦、空母の保有総トン数を英米:63万5千t*105、日:38万1千t*106、仏伊:23万5千t*107とする。巡洋艦の制限は無し。 ②1艦あたりの基準排水量は主力艦3万5千t、航空母艦2万7千t*108、巡洋艦は1万t以下とする。 ③備砲は主力艦16インチ以下*109、航空母艦は8インチ以下*110、巡洋艦は5インチ以上8インチ以下とする。 である。 この会議は、文官(政治家)よりも各国軍部の発言権が大きく、それらを元にすり合わせを行ったため厳密性に欠け、全ての海軍力を包括する軍縮条約にならなかった。 このため、この条約による制限の少ない巡洋艦・空母以下の補助艦艇の建艦競争に発展してしまった*111。軍縮とはいったい何だったのか…… また本会議の際、約20年間に渡って更新され満期時期を迎えた「日英同盟」は更新されず、新たに太平洋方面に利害を持つ日・米・英・仏による「四カ国条約」が締結された*112。 1930年(昭和5年)、高度な政治的判断が必要との反省から、今回は政治家によって妥協点を探り、さらに艦種毎に厳しい条件を課した「ロンドン海軍軍縮条約」が調印される*113。 主な内容は、 ①空母を戦艦と同じ制限枠に含める。 ②巡洋艦の下限排水量を1850トンとして「カテゴリーa」(備砲は6.1インチより大きく8インチ以下)と「カテゴリーb」(備砲は5.1インチより大きく6.1インチ以下)に分けて保有トン数を制限した*114。 ③駆逐艦は備砲は5.1インチ以下。排水量は600トンを超え1850トン以下*115。 すると今度は、「数で劣るなら質で補うしかない」と、小型艦艇に制限ギリギリの無茶な設計を施して…… という軍縮条約下での日本海軍艦艇の小話はよく知られているが、実は米国はじめ他国でも似たようなことをやらかしていたりする*116。 この軍縮条約の影響を受けた艦娘たちは多い…というか、条約期に建造された艦艇は日本だけにとどまらず世界中の艦艇が影響を受けており、この時期に計画・建造された艦艇は「条約型戦艦・巡洋艦」と呼ばれている。 例:「赤城」「加賀」「龍驤」「吹雪型(特型)」「妙高型」「最上型」「長門型」「ネルソン級」「コロラド級」「サラトガ級」「ヨークタウン級」etc |
ワシ | |
読み | - わし |
使っている艦娘 | Conte di Cavour、日進 |
意味 | 日本語の一人称代名詞のひとつ。漢字では「私」「儂」と書く。 「わたくし」の省略形で、主に西日本を中心に用いられる文法。小説など創作物では老人や武士の一人称としてよく使われる。 現代では男性(しかも高齢の方)が使う一人称代名詞というイメージだが、元々は女性が親しい相手に対して用いていたもの。今でも一部地域では女性が使っている場所もある(高齢の方々ではあるが…)。 なのでConte di Cavourが使っているのもあながち間違いではない...が、どうして一人称だけ「ワシ」を使うのかは謎。他では「~じゃん」や「にゃ~」など、見た目にあった年相応の喋り口調を使っているのだが… |
英字
ABDA艦隊 | |
読み | えーびーでぃーえーかんたい |
使っている艦娘 | Perth改、De Ruyter改、Houston改 |
意味 | 1942年1月15日、南方に侵攻を開始した日本軍に対し、同地に自領や植民地等多くの権益を持つオーストラリア(Australia)、イギリス(British)、オランダ(Dutch )、アメリカ(America)、の4カ国が、対日軍事作戦のためアーチボルド・ウェーヴェル大将(イギリス)を総司令官として多国籍コマンドABDA司令部(米英蘭豪司令部)を発足させた。 アメリカ海軍アジア艦隊司令長官のトーマス・C・ハート大将がABDA司令部指揮下の部隊としてこの方面に展開していた艦隊や艦艇でABDA艦隊を編成させ、オランダ海軍のカレル・ドールマン少将を司令に任命した。戦力としてはアメリカ(重巡1、軽巡3、駆逐艦18)が最大。 急遽編成されたため艦隊共通信号を作る時間も余裕も無く、意思疎通も難しく*117、日本軍の侵攻に有効な反撃をすることができなかった。 それでもドールマン少将は積極的な迎撃戦を実施し、日本海軍をてこずらせたが、スラバヤ沖海戦で艦隊は壊滅し、ドールマン提督も戦死する。 生き残った艦艇もバタビヤ沖海戦などで殲滅され艦隊は消滅、実働戦力を失ったABDA司令部も1942年2月25日に解体された。 |
DDH | |
読み | でぃーでぃーえいち |
使っている艦娘 | 伊勢改、日向改、最上 |
意味 | 後世のヘリコプター搭載護衛艦の艦種記号。通常の護衛艦よりヘリコプターの運用能力に優れている。 搭載したヘリは主に対潜哨戒・戦闘や輸送・救難にあたる。 余談になるが、いずも型の就役で「空母だろ!!」「護衛艦です!!」などと飛び交っているが、現代における航空母艦の定義とは、赤城・加賀等の黎明期の空母除き、全通甲板を持ち、艦載機(固定翼機・ヘリコプター・垂直離着陸機)を運用(離着艦・整備・格納・管制等)出来る艦船の事を指す。更に大きく分けると正規空母と軽空母に分けられ、 正規空母は固定翼機、つまり自力で甲板を滑走し離着艦が出来る航空機を運用できる空母の事を指す。(それに伴いカタパルトやアレスティング・ワイヤ、必要に応じてアングルドデッキなどを備えている) 軽空母は垂直離着陸機やヘリコプターを運用できる空母の事を指す。(大抵の場合はスキージャンプ台を備えている艦船が多い。) ヘリ空母は軽空母の狭義の一つとされ、ヘリコプターのみを運用する空母の事を指す。しかし、全通甲板を備える艦船は垂直離着陸機の運用や強襲揚陸艦とされることが多いので、純粋なヘリ空母は珍しい。(海上自衛隊のひゅうが型・いずも型の他にはイギリスの「クイーン・エリザベス級」等) したがってひゅうが型・いずも型は世界的に見れば軽空母(ヘリ空母)になる。 しかし、自衛隊としては、全て護衛艦としているので、「空母だろ!!」「護衛艦です!!」のような言い合いは無意味である。 そもそも自衛艦の中の戦闘艦艇全てが護衛艦(DD)と呼ばれているのは、日本国そのものを他国の脅威から守る(護衛する)、艦隊を他国のミサイル・潜水艦等から守る(護衛する)、と言った意味合いから第二次大戦中の駆逐艦の主な役割である、船団・艦隊護衛と言う役割と同じところから来ているので護衛艦としている。よってDDHやDDGのDDが直接に艦種としての駆逐艦を表しているわけでは無いので間違いのないように。 そもそも現代は、航空機と潜水艦の時代ということもあり艦種と言うものが曖昧になっており、大きさではなく用途や任務により分けられている所が多い。 |
MO作戦 | |
読み | えむおーさくせん |
使っている艦娘 | 翔鶴 |
意味 | オーストラリアとアメリカを分断し、オーストラリアを孤立化させる「米豪分断作戦」の一環で、ニューギニア島南東岸にあるポートモレスビーを奇襲攻略するのを目的とした作戦の事。ニューギニア島は東西に山脈が連なり、陸路から攻略するのは困難であったため、海路からこれを攻略する事になり、南洋部隊(第四艦隊基幹)が担当した。 当初は護衛の空母は祥鳳のみで、護衛戦力も第六水雷戦隊などの小艦艇のみであったが、3月にラエ、サラモアに対して米機動部隊が奇襲攻撃を行った事で護衛戦力が不安視され、当初は修理中の加賀、後にインド洋作戦から帰投中の五航戦(翔鶴、瑞鶴)が参加する事になった。 更に4月になると日本海軍全体が第二段作戦第一期兵力部署に移行したことで第五戦隊の一部や第六戦隊も増強されている。 こうして発動したMO作戦だが、日本軍侵攻の情報を得ていたアメリカ海軍が空母レキシントン、ヨークタウンの2隻を擁する機動部隊で待ち構え、人類史上初の空母vs空母の海戦「珊瑚海海戦」が行われる事になる。 この海戦で日本側は空母1隻を沈めるも、祥鳳を失い翔鶴も損傷した結果、ポートモレスビー攻略を中止し、翔鶴や瑞鶴は損害から次のミッドウェ―攻略作戦には不参加となり、同作戦敗北の要因の一つとなった。 |
Scapa Flow | |
読み | スカパフロー |
使っている艦娘 | Washington |
意味 | スコットランドのオークニー諸島にある入り江で、島々で覆われ細い水路で外海とつながっている事から外部からの侵入を防ぎやすい天然の良港として、第一次世界大戦から第二次世界大戦にかけイギリス海軍の根拠地として利用された。日本海軍で言う桂島泊地に該当するような場所。 史上最大の戦艦同士の海戦と言われる第一次世界大戦の「ユトランド海戦」でもイギリス主力艦隊はここを拠点として出撃している。 また大戦後にドイツ帝国海軍の艦艇約70隻が同地に集められたが、講話内容で艦艇の引き渡しがあった事に当時のドイツ艦隊司令官が拒絶して全艦に自沈を指示、50隻以上の艦艇が自沈する「スカパフローの悲劇」が起こっている。 第二次世界大戦でも主力の拠点として利用されたが、1939年10月にギュンター・プリーンが指揮するU47潜水艦の侵入を許し、戦艦「ロイヤル・オーク」が撃沈されたりしている。更にその3日後にはドイツ空軍の空襲で戦艦「アイアン・デューク」が大破している。 拠点としては1957年まで使われたが現在は使用されていない。 大英帝国海軍の拠点だが、イギリス艦娘は一人も触れず、アメリカ艦娘であるWashingtonが触れているのは、彼女は竣工から一年ほどは大西洋で大英帝国海軍と行動を共にし、スカパフローを拠点としていたからだと思われる。 |
Taffy3 | |
読み | たふぃーすりー |
使っている艦娘 | Samuel B.Roberts、Johnston |
意味 | レイテ沖海戦に参加したアメリカ海軍第7艦隊所属の第77任務部隊第4群第3集団の通称。 第77任務部隊はレイテ上陸部隊を支援する第7艦隊の中核部隊であり、複数の群で構成していた。レイテ沖海戦冒頭で愛宕、摩耶を沈めた米潜水艦ダーター、デイスの所属する第1群、スリガオ海峡で西村艦隊を壊滅させた戦艦部隊である第2群(通称オルテンドルフ艦隊)等があり、、第4群は後方から航空支援を行う護送空母18隻と駆逐艦、護衛駆逐艦からなる護衛艦艇を擁する部隊。そして第3集団はその中で護送空母6隻、駆逐艦3隻、護衛駆逐艦4隻で編成された部隊だった。 1944年10月25日早朝、レイテ湾口周辺海域を航行していたタフィ3は、突如日本海軍の水上艦隊の第一遊撃部隊主力、通称「栗田艦隊」と遭遇し交戦状態に突入してしまう。(何故後方支援部隊でしかないタフィ3と栗田艦隊が遭遇してしまったのかについてはGambier Bayのページに詳細がある) 紙装甲に鈍足、艦載機も僅か20数機でしかない護送空母と、数隻の小型艦艇しかないタフィ3、対して栗田艦隊は戦艦大和、長門といった強力な艦艇が20隻以上もいる大艦隊。普通に考えればタフィ3など瞬時に壊滅させられてしまう筈だった。しかし彼らは栗田艦隊から逃げつつも必死に応戦。護衛艦艇は煙幕を張って栗田艦隊の目を奪い、不意を衝いて雷撃を仕掛けたり、艦載機も爆弾が無ければ機銃を浴びせかけて妨害するなど必死になって攻撃。結局栗田艦隊はタフィ3相手に大損害*118を受け、これを壊滅する事が出来なかった*119。 しかしタフィ3も護送空母Gambier Bayと護衛艦艇のJohnston、Hoel、Samuel B.Robertsの4隻を失う犠牲を払っている。 更に海戦後にはこの戦いで日本海軍が初めて行った「神風特別攻撃」で護送空母St.Loも失っている。 こうして大損害を被ったタフィ3だが、その激闘により指揮官のクリフトン・スプレイグ少将は海軍十字勲章*120を受賞した他、所属各艦艇も殊勲部隊章など数多くの勲章を得ている。更に現在でもアメリカ海軍では士官学校で教えられている。 |
Task Force | |
読み | たすくふぉーす |
使っている艦娘 | Atlanta、Hornet |
意味 | 「任務部隊」と訳される軍隊の編成単位。文字通り任務に対応する部隊編成として行われており、同様の概念を帝国海軍では「軍隊区分」と呼んでいた。*121 複数の軍種に跨る場合は「統合任務部隊(Joint Task Force)」、多国籍の場合は「合同任務部隊(Combined Task Force)」となる。 |
Uボート | |
読み | うー(独語読み)/ゆー(英語読み)- |
使っている艦娘 | 伊8、U-511 |
意味 | 第一次・第二次世界大戦で欧州の海で暴れ回ったドイツの潜水艦の総称。Uボートとはドイツ語で潜水艦を意味する「ウンター・ゼー・ボート(Unterseeboot)」の略語。一般的には「ユーボート」と呼ばれるが、ドイツ語の発音では「ウーボート」と呼ぶ。 ドイツ語以外でUボートと言った場合大抵ドイツの、特に両世界大戦期の潜水艦を指すが、ドイツでは時代や国を問わずあらゆる潜水艦をUボートと呼ぶ。 欧州近海で敵の補給線を破壊する通商破壊戦が主な任務なため、太平洋を主戦域とする伊号潜水艦と比較すると小型。第二次世界大戦では連合国の商船3000隻以上を海の藻屑に変え、さらには戦艦2隻、空母2隻を撃沈するなどの戦果を上げている。 また、ドイツの高い科学力に裏付けされた高精度な電子装備や新兵器を装備しているため他国の潜水艦と比べて戦闘能力が高いと言える。(例:音響誘導魚雷、電波吸収材など)*122 英国首相ウィンストン・チャーチル曰く「第二次世界大戦で私が真に恐れたのはUボートだけである」。 だが大戦後期には連合国側の対潜戦術・装備の発達によってUボートの被害は大きくなり、1131隻中849隻が撃沈されている。 |
VLS | |
読み | ぶいえるえす |
使っている艦娘 | 日向改 |
意味 | 後世のミサイル発射装置。「Vertical Launching System」の頭文字で、日本語では垂直発射装置などと言われる。 ミサイルを垂直方向に立てて並べる形で搭載するため甲板上のスペースを有効活用出来、また発射装置がそのままミサイル弾薬庫を兼ねるので、次弾装填の必要があった従来の発射装置よりも圧倒的な連続発射が可能。 世界で初めて採用したのはソビエト海軍の「キーロフ型」。現代は「ひゅうが型」護衛艦を始め、「むらさめ型」、米海軍の「アーレイ・バーク級」、仏海軍の「シャルル・ド・ゴール」など、多くの艦がこの系統の発射装置を装備している。 なおVLSはその殆どが甲板に埋め込まれる形で搭載されるものであり、甲板上で見られるのは発射口の蓋だけ。*123 初期の頃のこんごう型のMk.41 VLSには3セルほど魚雷の次発装填装置に値するミサイル洋上装填用のクレーンが搭載されていたが、結局次発装填装置と同じような末路をたどり廃止され、ミサイル搭載分に充てられた、と言われているが実際の所どうなっているかは定かで無い。*124なお、あたご型では当初から搭載されておらず、はじめからミサイル搭載に充てられている。 |