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烈風発動機関連

  • 実は開発サイドが最初に提案していた発動機であるハ43*1を積んだ機体は、要求には及ばないまでも『誉』搭載機よりかなり高い性能を示した。そのため最初からこっちを積んでいれば……という声は多い。
    「奇跡の発動機」と称されたとはいえ『誉』に期待しすぎるからこんなことになる、という者もいる。
    • しかし烈風の開発が始まった頃はまだハ43は試作中であり、完成したのは烈風の開発打ち切りが決まる直前だったのも事実である。
      対する『誉』は既に地上試験をパスしており、実用時期の点で大きなアドバンテージがあった。
  • 烈風は確かに『誉』の不調で大幅に開発期間が伸びてしまった。そして前線の『誉』は故障を頻発し部隊から顰蹙を買った。
    しかし、ハ43もその搭載予定機の開発スケジュールを狂わせているのである。震電が発動機故障で本格的な性能試験をできないまま終戦を迎えたのはもちろん、陸軍のキ83は排気タービンよりもハ43に手を焼いたといわれている。
    • 試作機はともかく量産された『誉』は品質がよくなく、特に烈風の試作機に使われたロットに至っては空気取り入れ口の整形不良まで起きている有り様だったとされる。
      これは『誉』の量産開始と生産ラインの拡大(=非熟練工員の大量導入)が重なった結果、品質管理能力が悪化したことによるものであって、この時期の日本製発動機全体の問題だった。
    • そしてハ43も陸軍の試作機のぶんを借りてきて載せた状況であった上、試作の『誉』とほぼ同じ内容の初期不良に見まわれるなど、『誉』と比べてきわめて優秀というわけではなかった。「どうせ量産を始めれば中島飛行機の『誉』と同じようになる」という海軍技官や小福田少佐の話は説得力がある。
      加えて『誉』といえども、疾風を装備し実戦稼働率100%を誇った陸軍の飛行第104戦隊や同じく在隊稼働率100%を維持した飛行第47戦隊のような例もあり、同時に各種不具合に対する改良も進められていた事もまた事実である。
      • ただ、堀越氏は著書の中で「ハ43に対して海軍から特にアクションがなかったので海軍向けはできていなかった」としており、いくらか割り引いて考える必要はある。それでも1945年に入ってから発動機の量産「準備」を始めるようではいくらなんでも遅すぎるのだが……
    • そして『誉』もハ43も、その生産拠点が1944年末から1945年初頭にかけての空襲によって壊滅したため、大量生産が難しくなる点は同じである。
    • なおハ43の改良型にはフルカン継手過給器を備えたものがあったが、結局はあきらめて普通の一段三速過給器にシフトしてしまった。
      ちなみにハ43は最初から排気タービン過給器、つまりターボチャージャーの使用を考慮して設計されている。
  • 烈風のエンジン選定課程については、元設計主任が自著のなかで酷評したこともあって様々な議論が交わされている。
    • しかし試作要求が出された昭和17年の時点で連合国では既に2,000馬力級の航空エンジンとそれを載せる艦上戦闘機の開発が進行中だった以上、それに対抗する機種を可能なかぎり速やかに開発することは当然求められることだった。
      すなわち、実用化時期の見通しの立たないハ43ではなく既に実用の目処のついた『誉』を海軍が選択したのは、当然の判断であるということができる。
      • 「試作段階のエンジンを新型機に組み合わせるなどもってのほかである」という評もある。
        一般に機体よりエンジンのほうが開発に時間を要し、実用化にはさらに手間と時間をかけねばならなかったからだ。
    • とはいえ海軍としても当時存在したエンジンをすべて考慮したうえでの『誉』選択なのであって、他のエンジンでは何かしら不足があると判断されたのだ。それを後世から批判するのはフェアとは言いがたいだろう。

雷電小ネタ試作

  • 元ネタは、帝国海軍の局地戦闘機「雷電」(J2M)。連合軍によるコードネームは「Jack」。
    • イラストの機体は、推力式単排気管装備、胴体上面のそぎ落としが無いことから二一型と思われる。垂直尾翼の2つのマークは撃墜数で、撃墜または撃破2機を示す(八重桜が撃墜、一重桜が撃破)。
  • 支那事変において、高々度を高速で飛来する爆撃機による爆撃の被害に悩まされた海軍は、艦戦だけではなく、海軍独自の陸上基地から発進する拠点防衛用の局地戦闘機を開発することを決断した。
  • 昭和14年、三菱へ一社特命の形で十四試局地戦闘機の開発が発注される。設計主務者は零戦の堀越二郎技師である*2
    • これまで海軍の戦闘機が航続距離と運動性を重視していたのとは異なり、海軍はこの局地戦闘機に求めたのは敵爆撃機が飛行している高度に短時間で到達する上昇力と、敵爆撃機に追い付く速力、そして一瞬のチャンスに敵爆撃機へ致命傷を与え得る火力の三つであった。
    • 高い上昇力と高速性を実現するため、エンジンは当時日本で最大馬力だった「火星」*3を選択した。
      • 火星は本来大型機向けに設計されたもので、大直径の割に低馬力だったので*4、空気抵抗を可能な限り減少させるため、プロペラシャフトを延長して機首を絞り込み中央部が最も太くなる紡錘形の胴体を採用した。
      • なお堀越技師はアツタの搭載も考えていたらしい。液冷エンジンは多気筒化やボア・アップによる高性能化が容易で、断面積が小さいため高速機に向いていると考えたのである。
        しかし航空本部は、液冷は経験が浅いため信頼性と取り扱いに難があるとして火星を指定した。後の状況を見れば、この判断は正しかったと言えるだろう。
    • また対爆撃機用の高火力を得るために、従来の7.7ミリ機銃に加えて20ミリ機銃を2丁搭載することにした。
      • この組み合わせは十二試艦戦と同じだが、両方とも当初の目的は敵攻撃機の阻止だったから当然といえば当然である。
        なお雷電は、後に20ミリ機銃を4丁に増やしている。
      • ちなみに零戦と違い、最初から搭乗員背後に8ミリ厚の防弾鋼板を搭載することになっていた。
    • ちなみに、同時期に陸軍が中島に発注したキ-44、二式単発単座戦闘機『鍾馗』は同じように一〇〇式重爆撃機『呑龍』のエンジンを搭載したが、無駄な部分はスパッと落とした構造で『雷電』と同程度の性能を発揮している。
「雷電」開発史
  • 雷電の開発遅延の主原因が振動問題だった、というのは知れたところだが、実は設計を始める前に既に遅れが出ているのだった。
    • 本来昭和13年に内示される予定だったものが昭和14年になったのは先述した通りだが、正式な計画要求書の交付はそれから7ヶ月後の昭和15年4月である。零戦のそれが5ヶ月、烈風が3ヶ月だったことと比べれば、十分な時間的ロスと言えた。
    • 陸上基地からの迎撃戦のみに目的を絞った、局地戦闘機として初めての機だったから、海軍としても細部決定に手間取ったのだろう、と一般にいわれている。
  • 十四試局地戦闘機(J2M1)の一号機は昭和17年2月に完成した。安定性、操縦性は良好だったものの、視界不良、引込脚、VDMプロペラの不調などいくつか問題点が指摘され、また速度と上昇力が要求性能に届いていなかった。
    • 速度と上昇力の不足は馬力不足が原因と考えられ、発動機を性能を向上させた火星二三型*5に換装した十四試局戦改に開発を移行することとなった。
  • 十四試局戦改(J2M2)の一号機は製作中のJ2M1を改造して10月に完成。もくろみ通り、最高速度は322kt、上昇力は高度6000mまで5分38秒に改善された。
    • ところが、飛行試験が始まると最大出力発揮時に激しい振動が発生する問題が発覚した。原因はプロペラの剛性不足による共振現象で、プロペラ減速比の変更とプロペラを剛性の高いものに取り替えることで問題ないところまで低減している。
      • ちなみに、火星二三型では冷却能力不足のため、強制冷却ファンが直結式から遊星歯車を使った増速式に変更されており、振動の原因はそこにもあったのではないか、という意見がある。また、新たに取り付けられた水メタノール噴射装置の具合も良くなく、故障や振動の原因になっていたらしい。
    • この振動問題の対処により開発が遅れ、十四試局地戦闘機が「雷電」として制式採用されるのは昭和18年も後半に入ってから*6だった。また、引込脚の設計が不十分でそれを原因とした殉職事故もあり、開発遅延を助長した。
    • なお、J2M1で指摘された視界不良は、座席位置をずらし、風防を上方と下方に拡大、平面ガラスの採用部分を増やすことで対処した。効きが不足していたフラップも、補助翼を削って幅を500ミリ増し、動作角を増やすことで解決している。排気管は推力式として増速を狙い、不調の多かった電気式のプロペラピッチ変更機構は従来の油圧式に交換した。
    • 一一型として量産された機体は、滑油冷却機の空気取入口がカウリング内から外に変更されている。また生産途中から翼内燃料タンクに自動消火装置が装備された。
  • 20ミリ機銃を4丁に増やす武装強化案がJ2M2の初飛行直後に提案されており、これは雷電二一型(J2M3)として実った。
    • 具体的には、胴体の7.7ミリ機銃を廃止、従来の20ミリ機銃の外側に左右1丁ずつ20ミリ機銃を増設した*7。また、これまでドラム給弾だったものをベルト給弾に切り替えたことで、携行弾数が倍増した。
    • 他、胴体内タンクの防漏化、搭載可能爆弾を60kg2発まで増大、風防正面に70ミリ厚の防弾ガラス装着などが実施され、重量増に伴って主脚と主翼の強化が行われた。
  • 海軍は雷電の高高度性能で迎撃に十分足りると判断したが、実際に襲来したB-29編隊の高度は8000mを超え*8、偵察型F-13に至っては13000mに達した。
    雷電一一型、二一型では迎撃が不可能に近い*9と知った海軍は、排気タービン過給器を搭載した雷電の製作を命令。これが雷電三二型(J2M4)である。
    • 三菱による試作機は二一型を改造して2機が完成、また空技廠による簡易改造型が一一型から1機、三一型又は三三型から1機が完成した。
    • テストの結果、重量バランスが大幅に悪化し、機首が重く使い物にならないと判断された。高高度性能が若干向上*10したようだが、タービンやエンジンの不具合が多く、302空で実戦投入された後もほとんど役に立たなかったらしい。
      • 後に第二一航空廠で、13機の二一型に排気タービン過給器が搭載されたが、こちらも使い物にならず後にタービンを撤去されてしまった。
    • なお雷電三二型では更なる視界改善策が実施されている。風防の高さをさらに50ミリ増し、幅を80ミリ増やし、さらにカウリング後端から風防までの胴体上部を斜めにそぎ落としたもので、視界は改善されたものの抵抗が相当増えてしまった。
  • 雷電三二型がものにならなかったのを受けて、発動機を従来方式の性能強化版、火星二六甲型に換装したのが雷電三三型(J2M5)である。
    • 火星二六甲型は、離昇出力は1800馬力と変わらないものの、過給器を大型化して全開高度を引き上げたものである。排気タービン搭載エンジンには敵わないものの、それでもかなり高高度性能が改善された。
    • 二一型の発動機を火星二六甲型に換装した雷電二三型(J2M7)も試作されたが、量産はされなかった。
  • ところが、火星二六甲型はすぐには数がそろわない。やむを得ず二一型に視界改善策を施して、雷電三一型(J2M6)として生産を継続した。
    • 風防の大型化と胴体上部のそぎ落としのみ実施し、そのほかの部分は二一型のままである。
      視界改善は抵抗増加と引き換えで、発動機がそのままだったため性能低下、生産は少数で打ち切られている。
  • ちなみに、三二型以外の機種は搭載機銃4丁をすべて九九式二号に換装したサブタイプがあり、形式に甲またはaを付加された。ほとんどは量産されず、少数にとどまっている。
    • また302空で独自改造された斜め銃搭載機、332空で試験運用された五式30ミリ機銃搭載機がある。
      前者は照準がつけられず、また重量増で運動性が悪化したため後に撤去。後者は装弾と発射速度、反動に難があり、戦果を挙げるには至らなかった。
  • 雷電は三菱で476機、高座工廠と日本建鉄の分を合わせて約560機が製造された。各型の生産数は以下の通りである。
    • 一一型:155機
    • 二一型:330~360機
    • 三三型:30~40機
    • 三一型:数十機
    • 原型機、試作機:数十機
  • 陸軍でも雷電を採用する計画があったとされ、キ65の案のひとつとして雷電の陸軍仕様の採用が検討されたと言われる。
    • ただし、例によって陸海軍の縦割り行政はここにも影を落としている。海軍の飛行機はスロットルを前に押すとエンジンの回転数が上がるものであったが、陸軍機はこの逆、つまりスロットルを引くと加速する仕様だったのである*11。つまり、陸軍用に仕様を変更するか、さもなくば機種転換訓練を繰り返したとしても、現場の混乱は避けられなかったであろう。
      • スロットルの操作方法が逆だったのは導入機材が関係しているとも言われる。海軍航空隊はイギリスに範を取った。一方、フランスに範を取った陸軍は、当時のフランス式の「引いて加速」方式を採用した。
        一式戦以降の陸軍機のスロットルの操作は海軍機と同じ操作方法にしたとされる。
    • さらに加えるなら、鍾馗の戦力化は、少なくとも雷電よりははるかに順調に進んでおり、多少運動性が良いこと以外に目覚ましいものがない雷電を陸軍が採用するという、この計画そのものに疑問符が付いていた。


  • 零戦に乗り慣れた古手のパイロットには着陸が難しく、幾人もの死者が出て殺人機の異名がついた。雷電国を滅ぼす、国破れて銀河ありと嘯くパイロットもいた。もっとも若手パイロットはうまく扱えたのであるが。
    • これは雷電の失速速度付近の安定性が悪く、失速に入る前触れがない、失速してしまえば回復できない特性にある。これは、着陸の際高めに進入して、エンジン出力を絞り失速気味に3点同時接地する空母への着艦方法に慣れているベテランほど相性が悪く、危険極まりなかった。また、キャノピー前付近の胴体が一番太く、断面も円に近かった為、操縦席からの前下方視界が悪いのも拍車をかけた。
      • ただし、3点着地こそ日本海軍以外では狂気の沙汰であった。横索式空母の着艦方法はアレスティングワイヤーをフックにひっかけて“落す”ものである。このため空母への着艦は『制御された墜落』とも言われる。
      • 前方視界の悪さは後に地上滑走中に死亡事故の主原因になったために改善策が講じられた……が、抵抗増加を忍んでの対策であった。
    • 陸軍式に、滑走路に低く進入して主車輪を接地してブレーキ、尾輪接地の方法なら問題なく着陸できるため、海軍式の着陸に慣れていない若手のほうがうまく扱えたのであるが、この方法だと空母へ着艦できないという問題があった。もっとも、雷電自体は艦載するつもりはなかったので雷電で三点着陸ができなくても無問題だったのだが。
  • ただ、電気式の引込脚の不調やエンジントラブルによる胴体着陸などで機体が失われてしまうケースもかなり多かった。
    • これらのトラブルは終戦まで完全に押さえ込むことができず、雷電が不評を買う原因の一つとなってしまった。


  • 烈風が当初は十六試艦上戦闘機として発注されるはずが、三菱の開発スタッフが十四試局地戦闘機の開発と零戦の空中分解事故対策や改良型の開発で余裕がなかったため、一年先送りになった経緯がある。雷電の評価が芳しくなかったこともあって、「もしも雷電開発を中止して烈風を優先していれば」「十四試局戦は他所にやらせて三菱は次期艦戦をやらせていれば」とする見解もあるが、これは結果論である。
    そもそも、一般的には「零戦の後継機は烈風」とされるが、雷電もまた零戦の後継機と目されていたという意外な一面があったのである。
    • もっとも十六試艦戦の発注先送りは、この時点で有望な小型大馬力エンジンがまだなかったという根本的な問題もあったためであり、十四試局戦だけが理由ではない。そもそも、小型大馬力エンジンがなかったから雷電はあえて大型の火星エンジンを積んだのである。
  • 太平洋戦争開戦と前後して、海軍は空母艦載機隊よりも基地航空隊を重視するようになっており、その意味では局地戦闘機もまた海軍の次期主力戦闘機の一角だったのだ。
    • そして雷電の存在は、零戦の延命にも影を落としていた。
      零戦五二型のエンジンを金星に換装しようとする改良案が「雷電の生産が始まったので、三菱はそちらを優先させる」ために却下され*12、零戦そのものも大幅に減産しようとした*13。雷電が、基地航空隊の零戦にとって代わるべき存在とみなされていたためである。
      • しかし雷電の生産は捗らず、量産化後も不具合に悩まされたため、この目算はあえなく崩れ去り、零戦の増産と改良型の開発促進を再び命じる事態になった。さらに堀越技師を含む主要メンバーは過労で倒れてしまう*14
        そして、エンジンを金星に換装した零戦六四型は烈風同様に戦争には間に合わなかった。
  • 実用化が遅れたため米軍機と比較して特別高性能とも言えず、また当時紫電改の実用試験が始まっていたこともあり生産は少数であった。
    • 紫電改こと紫電二一型の最高速度は雷電二一型と比較して40km/h近く高速で、また紫電改のほうがはるかに運動性が高かった。そこに目を奪われた航空本部は、昭和19年3月に乙戦として紫電改を大量生産し三菱での雷電生産を取りやめる決定をしたのである。
    • ところが、紫電改は上昇力が劣り、局戦としては雷電の方が適していた。また搭載発動機である誉や空戦フラップなどの不具合で実用化が遅れてしまった。さらに紫電改は烈風に代わる零戦の後継機として、制空戦闘機として使われたため純粋な局地戦闘機は雷電しかなく、数を減らされながらも終戦まで雷電の生産が続けられることになったのである。
  • なお雷電は、B-29にもっとも善戦した海軍機だといわれることもある。
    日本では紫電改の影に隠れがちだが、世界的には陸軍の二式単戦『鍾馗』と並んでB-29キラーとして名高い。
    • 厚木海軍飛行場所属の第三〇二航空隊の雷電隊は日本の部隊の中でB-29に対し最も多くの戦果を上げた。
      これは雷電の性能だけではなく、雷電隊の赤松貞明中尉の若手搭乗員に対する熱心な指導による部隊全体の練度向上のおかげでもある。


  • 本機の操縦者として名を馳せるのが、海軍航空隊きっての古豪・赤松貞明(あかまつ さだあき、1910~80)である。
    • あだ名は「松っちゃん」。
    • 酒豪・女好き・喧嘩好きと、海軍航空隊指折りの大問題児(ベテランエース)
      どれだけ古株かと言うと、零戦虎徹・岩本徹三が34期生で、赤松は17期生という辺りで、お察しいただこう。*15
      空母勤務時代は赤城加賀龍驤でその腕を鳴らした。
    • 特に女好きで有名で、後輩の岩井勉も「あんなに堂々と女遊びやるので笑うしかなかったです」と述懐したとか。
    • 武芸百般で、荒くれだらけの航空隊にあってその典型のような人物であったが、実戦においては理論派とも言える戦い方で戦果を上げていった。
      部下には、敵の攻撃に真正面からぶつかる軽挙を戒め、敵航空編隊の端から切り崩す戦法から、数の優位性を生み出すよう徹底して指導し、合理的に戦闘を進めなければいけない事を常に強調していた。
      赤松が古豪にもかかわらず、雷電の性能を十二分に発揮できたのも、豪快な性格に反して論理的に雷電の特性を分析・把握していたからと言われる。
      赤松からすると、長く零戦の性能に甘え切って雷電の特性を理解しないベテランたちが情けなかったらしい。
      もっとも後述するが、赤松自身は海軍航空隊でもチートレベルの操縦者であることも付随しておく……。
    • 自称“撃墜王の中の撃墜王”と大言も憚らず、自己申告では「350機を撃墜した!!」と常に自慢していた。
      • ただ、公式記録では30機前後と10分の1。それでも太平洋側の戦闘機乗りとしては間違いなくエース級である。
      • しかし、そのような奔放な言葉とは裏腹に、実際の戦闘では「編隊同士でカバーし合い、味方の被害を極力抑える」戦法を第一としていた。個々の戦闘技術に依存し「攻撃的だが、味方の被撃墜率も高い」という当時の日本海軍の戦法を忌避する考えを述べている*16
    • そういった大言も実力に裏打ちされたもので、零戦に搭乗していた時はともかく、図鑑説明にあるように「対戦闘機としてドッグファイトに不向き」なハズの雷電を駆って、戦闘機P-51ムスタング、F6Fヘルキャットを格闘戦で撃墜する戦果を挙げている。わけがわからないよ……。
      • 板井氏は、『雷電でヘルキャット渡り合えるパイロットは、後にも先にも赤松中尉以外にはいない』と脱帽気味の言葉を残している。
      • 特に、彼の大胆さ・操縦技術を伝える有名なエピソードとして、米陸軍のP-51(ムスタング)75機の群れに零戦1機で突っ込み、1機撃墜して帰ってきた(しかもちゃんと米軍側に記録あり)というから、とんでもない腕前である*17
    • 生涯飛行時間6000時間、被撃墜回数0、被弾4発。
      良くも悪くも破天荒な「海軍航空隊の名物男」であり、支那事変から太平洋戦争終戦まで、一パイロットとして、そして後進への優れた指導者として第一線で活躍し続け、戦時の航空隊の行く末を見届けた生き証人。
      • 公人としての評価は甲乙分かれる人物だが、おおよそこの破天荒であけすけな性質から多くの関係者から慕われた好漢でもある。坂井三郎は自伝で彼を何度か紹介し、そのたび「良い先輩でした」と称賛している。
      • 戦後も存命で、高知県で酒屋を営みつつ、漁業連やかつての仲間たちと小型の飛行艇を乗り回して余生を過ごしたという。晩年は酒好きが祟ってアルコール中毒に陥り、気管を患って69歳でこの世を去った。
    • 日本ニュース第254號1945年(昭和20年)7月1日公開の放送にて、生前の中尉が撮影されている。※You Tube映像


  • アメリカに全く同じ名前の、しかも性格まで似ている戦闘機がいた*18のは秘密だ。その名前を受け継いだ機体*19は中東で大活躍して有名になった。
  • この装備が実装される前から、暁型が二隻集合して雷電というネタがあった。知っているのか雷電!

大和小ネタ改定案

大和の小ネタを短くしたいためBismarckのページを参考に大雑把に分けてみた。
元の文章内容は基本的に変更していないが以下の変更点がある
一、文章の並び替え
二、regionで閉じられていた表の開示(regionの解除)
三、一部文章内容の修正・分割 例:「トラックでの大和の任務~」以降の文章の分割


現在regionで閉じられている部分については明確な基準にそって畳んだわけではないが
戦艦大和の小話的な物を拾い上げ、戦艦大和の性能などに関してはを畳みたいと考えている。


軍艦に詳しくない人でも名前くらいなら知っているであろう、日本海軍の隠し玉にして世界最大の超弩級戦艦大和型の1番艦

設計や武装など

基準排水量65,000トン、満載排水量72,809トンの超大型戦艦である。

  • 基準排水量及び満載排水量そして搭載主砲の口径で戦後ギネスブックに認定。最近の本には載ってないけど。


    大和型の性能諸元(施工時)
    主要目
    全長263m
    水線長256m
    最大幅38.9m
    排水量(基準)65,000t
    排水量(公試)69,100t
    排水量(満載)72,809t
    航続距離16kt/7200海里
    軸馬力15万馬力(計画)15万3553馬力(公試)16万8000馬力(過負荷全力)
    速力27kt
    主要兵装
    主砲45口径46cm3連装砲3基9門
    副砲15.5cm3連装砲4基12門
    高角砲12.7連装砲6基12門
    機銃25mm3連装8基24挺
    機銃13mm連装2基4挺
    飛行機九五式水上偵察機4機
    参考文献
    「戦艦「大和」永遠なれ!YAMATO Forever!」 著者:原 勝洋 発行:KKベストセラーズ 2005/12/26
    「究極の戦艦大和」 著者:「丸」編集部 発行:潮書房光人社 2007/8/19
    「戦艦大和のしくみ」 著者:矢吹 明紀/南波 健一郎/市ヶ谷 ハジメ 発行:新星出版社 2012/8/5

  • 当時日本海軍の保有していた主力艦は扶桑型、伊勢型、長門型などの老朽艦しか無く各国の新鋭戦艦に対抗するには不十分であったため、マル三計画で戦艦2隻(大和、武蔵)、マル四計画でも戦艦2隻(信濃、一一一号艦)計4隻の新戦艦の新造が最も古い巡洋戦艦金剛型4隻を代替するために計画された。
    しかし実際に完成したのは大和・武蔵、航空母艦へ改装された信濃の三隻で、四番艦に相当する「第一一一号艦」は手を付け始めたところで解体、伊勢姉妹の航空戦艦化の資材に流用された。
    更にマル五計画では改大和型戦艦1隻*20、超大和型戦艦2隻*21と行った改良型も計画されており、日本海軍は大和型を次世代戦艦のスタンダードとして量産しようとしていたのが伺える。
  • 艦首が非常に高くなっているようにイメージされることも多いが、艦首乾舷は中央部とほとんど変わらない。
    艦首に向けてせり上がっているように見えるのは、1番砲塔の付近の甲板を凹ませて砲塔の搭載位置を低くし、重心を下げる工夫をしたためである。この形状は「大和坂」とよばれた。
    全体に乾舷は高く、良好な凌波性・安定性と膨大な予備浮力を生み出した。
  • 艦体の設計に関して「良くも悪くも重巡洋艦の拡大型」とは、設計に関わった牧野茂氏の談である。
  • 『大艦巨砲主義の極致』とは言われるものの、性能に比してコンパクトな作りになっている。全長は263mで全長だけならアメリカのアイオワ級の270.43mのほうが長い*22のだが、
    アイオワ級は全領域で日本の新戦艦を上回る性能*23とパナマックス*24を実現させるため艦の全長を大きくしたので、全長だけで単純な比較はできない。
    しかし、元々艦型が小さい方が防御上有利であるため*25大和型には可能な限り艦体を小さくすることが求められており、技術者たちが最も苦心したのは如何に小さい艦型で軍令部の要求通り*26の艦を造れるかという事であった。
    最終的には技術者陣の苦心の結果、大和は全長263m 水線長256m*27 基準排水量65,000tと18インチ砲艦としては小さな艦として完成した。


    大和型戦艦計画案の推移(概略)
    計画符号全長(m)最大幅(m)吃水(m)公試排水量(t)速力馬力航続距離(kt/海里)
    A-14029441.210.469,50031kt200,00018kt/8,000
    A-140A27740.468,00030kt208,00018kt/9,200
    A-140G27337.765,88328kt140,00018kt/8,000
    A-140F324638.961,00027kt135,00016kt/4,900
    A-140F525365,20027kt16kt/7,200
    最終案25668,20027kt150,00016kt/7,200
    *28*29
    *30

    • 当初30kt以上とした軍令部だったが大和型を30ktとした案では艦型が大きくなり過ぎる他、航続距離が短くなるといった問題があっただけでは無く、
      米国の新戦艦が24kt~25kt程度と考えられていたため、大和型を30ktとした場合のデメリットとメリットを比較して最終的には27ktとした上で、艦型の縮小と航続距離の増大を図ったA-140F5が採用される事となった。
      しかし、試験も兼ねて1万馬力の大型ディーゼル機関を搭載していた潜水艦母艦大鯨では、ディーゼル機関の故障が相次いだだけでなく計画出力の6割程度すら出ない事が判明したため、
      急遽大和型ではディーゼルとタービンの併用を改めタービンのみを搭載する最終案が決定された。*31
      また、当時日本では毎平方センチ辺り30キロの蒸気圧、350度の加熱蒸気の使用も試みられていたが、大和型では機関の信頼性と耐久性を重視して、蒸気圧25キロ、加熱蒸気325度と低く抑えることとなった。*32
    • 機関定格出力は15万3553馬力と翔鶴型空母に一歩譲るが、過負荷最大出力は他の追随を許さぬ16万8000馬力で帝国海軍史上最強。*33姉妹艦の武蔵をもってしてもここまでの出力は出せなかった。*34
      • 「武蔵は機関の搭載こそ完了していたものの、缶とタービンをつなぐ高圧蒸気管や、その他の重要な配管類が突貫工事となってしまったため、大和より配管の精度が落ち、機関出力も落ちていた」とする説が一般的である。
      • ちなみに大和と同じタービンを2基搭載した初春型駆逐艦の子日が過負荷全力で4万7000馬力、白露型駆逐艦の江風が4万7001馬力を記録している。つまり、最大で1基2万3500馬力程度を出せるタービンであり、これを8基搭載しているのだから、限界まで回せば18万8800馬力程度は出せる可能性がある。実際、朝日放送の「よみがえる戦艦大和」内で、元乗組員が「現在29.3ノット」との艦内放送を聞いたと証言している。当初計画は20万馬力で30~31ノットというものだから、18万馬力以上出ていれば、29ノット台という数字が出ても不思議ではない。
    • 軍令部の当初要求では30ノット以上であり、当初案には主要防御区画短縮と水上機運用を重視して、英国のネルソン級戦艦と同じく、主砲塔3基を全て前部に搭載するプランもあった*35。大和型計画時は戦艦・巡洋艦の水上爆撃機を一斉に発進させ、空母の攻撃力を補う考えがあったからである。こうした、大型水上艦搭載水上機を攻撃任務に転用する考え方の延長上に航空戦艦伊勢型があり、大和型戦艦も完成後に水上爆撃機瑞雲を16機搭載できないかと真剣に検討されたが、レイテ沖海戦などにより実現していない。
    • 計画速力は27ノット*36で、ゲーム内の「低速」扱い軍艦としては最速。実際には大和が、昭和17年6月22日に佐田岬沖の公試で28.5ノットを記録し*37、武蔵も公試時に過負荷全力で28.1ノットと計画以上の速力も計測している。これはゲーム内で「高速」扱いの正規空母加賀(28.3ノット)、軽空母祥鳳&瑞鳳(28ノット)に匹敵する。レイテ沖海戦前も「大和型は重巡と一緒に夜戦しても問題ない速力だから、艦隊旗艦にしてくれ」と栗田艦隊司令部が連合艦隊に要望を出すなど、現場では低速とは思われていなかったようだ。大和型が「低速」扱いなのは、ゲームバランス的な観点からと思われる。高速扱いだと、なんと燃費が悪いことくらいしかデメリットが無くなってしまう。
      • 柱島沖は水深が100メートル以下であり、公試海面としては浅すぎることも、公試速力が低めになる一因である。
        一般に吃水の10-15倍程度の水深がなければ、海底からの反射波の影響を受けるとされ、高い速度を記録したのは水深の深い佐多岬沖・速吸瀬戸での試験である。
    • 主砲も、用兵側の要望で50口径があげられていたが、建造当時の日本の技術・設備的に難しいので45口径となった。詳細は砲のページで。
    • 副砲として15.5cm三連装砲、軽巡時代の最上主砲に使われたものを流用した。こちらも詳細は砲のページで。
  • バルバス・バウを装備した艦として有名だがその内部にパッシブソナー(零式水中聴音機)を内蔵していた。現在のイージス艦等では珍しくない配置だが当時のそれも対潜を意識していない筈の戦艦としては中々斬新な設計でもあった。
    • また大和型には竣工時には爆雷が装備されていた。*38武蔵の沈没時の証言(小川豊 左舷増設一二番機銃配置)でも艦尾のジブクレーン付近より飛びこんだ時に爆雷投下台があったというものがあり、大和武蔵ともに昭和17年に九五式爆雷10個装備していた模様である。*39
      バウソナーを設置していた事も併せれば当初は一応とはいえ対潜能力も持っていたという事になる。
  • 戦艦の集中防御区画は自分の主砲弾が直撃しても耐えられるように作るため、潜水艦の魚雷を食らっても乗組員が気付かない*40という超重装甲だった。流石大和だ、何とも無いぜ
  • 大和型の缶・機械は、全て独立した水密区画に配置された。シフト配置*41のではなかったが、大型魚雷が命中しても内側の缶室・機械室への浸水は考えづらく、例え外側のボイラー6基が浸水で全滅したとしても内側の6基だけで15ktの速力を維持する事が出来るようになっており防備は極めて強固だった。
    • 一方で、缶室・機械室一つ一つは狭隘になり、温度が上がりやすく作業環境が悪化した。このため部隊からは缶室・機械室への冷房装置の設置が要望されている。
  • 改装で副砲を2基取り払い、その分対空装備を多量に追加した。その改装型は大和改として実装されている。

日本海軍きっての隠し玉であり、その性能は最高レベルの軍事機密として秘匿されていた。*42
その秘匿ぶりは議会を騙し予算を架空の陽炎型・伊号潜の建造予算や比叡蒼龍の改装予算に紛れ込ませていたほど。

  • 当然のように陸軍にも秘密、海軍内でも主砲の制式名を「四〇糎(センチ)」にする等、多くの海軍人も真のスペックを知らなかった。
  • 無論、当時の国民にもその存在を知らされることは無かった。そのため国民の間では「帝国海軍の象徴と言えば長門陸奥」というのが一般的であった。
  • 以上の理由に加え、後述するように図面等も終戦時に米軍の手に渡らぬよう大半が破棄されたため、大和型戦艦は現在のような知名度にもかかわらず、資料の少ない軍艦となっている。
    • ただし最近(といっても数年前)、全てではないものの相当量の設計図面が発見された。廃棄するには忍びないだかの理由で技師がこっそり持ちだしていたらしい。

折角最強の戦艦として就役したのに、当の日本海軍が「空母機動部隊こそ主力、戦艦はサブ」を立証してしまった、戦歴は色々悲しい艦。

戦歴
  • 大和が参加した作戦はミッドウェー作戦、カ号作戦(支援)*43、戌一号作戦、渾作戦*44、あ号作戦、捷一号作戦、天一号作戦である。
  • トラックでの大和の任務はカ号作戦支援、南太平洋方面の作戦支援、全作戦支援と転々としていた
    • 実際には小ネタの大和ホテルを参照
  • 1943年12月25日午前5時20分ごろ、陸軍独立混成第一連隊主力の輸送任務中にトラック島北方に差し掛かった時に米潜水艦スケートから雷撃を受ける。魚雷1本命中、この時に第三砲塔火薬庫と後部機関室に約3000tの浸水、この結果第三砲塔は使用不可能になり、1/3の戦闘力が失われる。
    魚雷の命中で装甲が一瞬1mほど艦内部に押し込まれ、その後元に位置に戻り、表面上何の被害も無いように見えたが、実際には装甲結合部のリベットが全て切断されており、そこから浸水していた。
    たった1本の魚雷で重要区画(バイタルパート)に浸水してしまうという設計上の問題が実戦にて証明されてしまった。*45*46
  • 時折「日本戦艦中、航空攻撃で撃沈された唯一の艦型」ということで過小評価されることがあるが、
    推定雷撃20本、爆弾17発、至近弾20発以上という軍艦史上最多にして空前絶後の大損害を受けてなお浮いており、襲い来る敵機を道連れにし続けた妹(武蔵)
    戦艦1隻、軽巡1隻、駆逐艦8隻の艦隊に対し空母11隻、艦載機386機の波状攻撃による攻撃を受けて(命中魚雷10本 爆弾5発*47)沈んだので、決して簡単にやられたわけではない。
    ……ろくに海戦参加もできず戦果も挙げられずに消えていったとはいえ、ちょっと彼女らへの評価としては辛すぎるのではなかろうか。
    • ただし艦隊の上空に到達して攻撃に参加したのは309機。また各飛行中隊の戦闘詳報での出撃数は計367機となっていて、
      その中から大和を直接攻撃したのは117機「急降下爆撃機37機 戦闘機15機 戦闘爆撃機5機 雷撃機60機」である。*48
      米軍の損失は戦闘全体を通して13機の喪失(被撃墜5機*49、原因不明墜落1機*50、帰投後修理断念による廃棄5機、2機が不時着水)。
      日本側の記録では*51敵機撃墜19機以上、撃破数十機としており、その内大和の戦果は3機撃墜20機撃破とされている。*52
      損傷した機体は52機(廃棄5機含む)にも登るので、いかに大和以下の艦隊の対空砲火が激しかったかが分かる。
    • 天一号作戦に於ける大和への左舷集中攻撃説は、日本軍の戦闘詳報に掲載された大和の被害図で、被雷数10本中9本が左舷に命中したと記載されている事から広まったものだが、
      米軍機の報告では魚雷投下数59本中35本が命中、内14本が右舷に命中したと記録されており、実際の被雷数とは別と考えても、米軍機は右舷にもまとまった攻撃を行っていた事が分かる。
      戦史研究家の原勝洋は著書で『「大和」は左舷を計画的かつ集中的に狙われたとの通説を生んだ日本側記録は、書き換えなくてはならない』と述べている。*53
    • 強固な防備は実戦でも証明され、大和・武蔵とも多数の魚雷が命中した後も、沈没の瞬間まで行足を失っていない。
    • 大和への攻撃に参加したある米軍パイロットは後に「まるで島の要塞を攻撃しているかと思った」と語っている。

スペックに比して動かす負担もゲームと同様で高負担。

  • 一隻建造するだけで一個艦隊を余裕でぶっちぎる予算が吹っ飛ぶ。動かすとさらに燃料が消し飛ぶ。
  • 動かさなければ問題ないかと思いきや、弾薬庫内の適温維持などに主機を動かす必要があるため、結局吹っ飛ぶ。
  • ゲーム内の資源消費で水雷戦隊1個分が大和1隻分になっているのは実物と大体同じ量。ネタにされるボーキサイトの女王と違って現実でこうである。
お金の話
  • 建造費は当時の価格で1億4287万円と言われている。これは現在に換算すると4000億円ほど、大体「ひゅうが」「あたご」で3隻、米軍のズムウォルト級駆逐艦1.2隻分となる。さすがにニミッツ級原子力空母はさらに高い(7000億円前後)
  • これだけだと大した事がない額にも見えるが、1940年当時の日本のGDPは2014億ドル(1990年priceドル)である。同一価値換算で比較が出来る1990年当時の日本のGDPが3.1兆ドル。となれば1940年当時の経済規模は現在の15分の1程度と計算できる。
  • 早い話、当時の日本が大和建造のために費やした負担は、今の日本が米軍の1空母打撃群に準ずる戦力を丸々揃えるよりも大きい。しかも建造してたのは大和だけではない。
  • とは言えゲームと違う実物の大和は他の戦艦と比べてもそこまで燃費が違う訳でもない点には注意。むしろ、16ノットで10000海里の航続距離*54というのはかなり優秀なものである。19ノット相当では、大和は8,221海里、金剛型は8,300海里程度。搭載燃料はどちらもほぼ同等の6300~6400tだったりする。現実の大和型戦艦は、その巨大さを考えれば通常航海なら世界屈指の低燃費艦でもあった。

大和大学校

  • 砲術士官達は大和の中で砲術の勉強会を開いており、彼らからは「大和大学校」*55と呼ばれていた。
    (連合艦隊旗艦が武蔵に移り、連合艦隊司令長官がいなくなったため気の緩んだ乗組員の姿を見て、松田千秋艦長*56
    礁内出勤、運動訓練、主砲射撃訓練や士官を集めての兵稘演習を行ったのが始まり。)

大和ホテル

  • 旗艦業務以外にする事は無く、当時の日本海軍が保有する最大のトラック泊地に投錨していた事もあり戦況が悪化するまでは定期的に夏島への上陸が許され、内地からの便りも滞りなく届き、新鮮な青果物も豊富に供給され、月に1、2回は甲板上に設けられた特設の劇場で映画の上演が行われるなど、ガダルカナルを巡る凄烈な戦いが行われている中にも関わらず大和以下の戦艦部隊は安穏とした日々を送っていた。このため陸軍将校からは「贅沢ですね」と皮肉を言われ、同じ海軍の人間からも「こんな贅沢で戦に勝てるのか?」と非難されていたという。
    • お陰でついた仇名は、満州の主要都市に点在した満鉄傘下の高級ホテル「ヤマトホテル」と引っ掛けた「大和ホテル」。
  • 「居住性が帝国海軍艦の中では破格の高さ」*57だったことも大和がホテルと呼ばれた一因だったが、停泊してる間ただ居住するためのホテルと化していた訳ではなく、
    旗艦業務の他に入浴サービスの提供や陸奥と共に出動部隊に米・麦の補充の他、燃料供給や軍需部の仕事も請け負い出動部隊からは給糧艦とも呼ばれていた。
    • もっとも、冷房設置などの居住性向上は最上型から行われており大和型に限った話ではない。
  • 平穏時では士官食堂では軍楽隊の演奏がついていたが、これは艦内放送で全艦に中継され、下士官兵も食事には音楽付きである。
    贅沢の極みのように言われているが、大艦隊の旗艦には軍隊儀礼および広報活動上軍楽隊の乗艦は必須であり、その技量維持のためには演奏機会が必要なため、食事時に演奏を行っているのである。
  • 大和ホテルの逸話は比較的有名であるが、ホテル以外にも燃料搭載量を生かした泊地の貯蔵タンク代わりとして活用されていた。貯蔵タンクも足りず、代わりのタンカーも足りないという状況で、大和を含む戦艦部隊は泊地の貯蔵タンクとして日々活躍していたのである。ただし、燃料に余裕のある戦艦から駆逐艦等への給油を前提とした運用は特段おかしなことではなく、ごく普通にアメリカなども行っている。

受け継がれる大和の技術

  • 終戦直後、図面などの物的資料は大半が処分されてしまったが、技術者達と彼らが持つノウハウだけは確実に残された。
    事実、戦後いち早く復興の旗手になったのは造船業界であり、外国からの発注が相次いだ。その理由は「日本には大和型戦艦を造った高い技術力があるからだ」というものだった。
    特に大和建造で培った西島式工数管理法やブロック工法による大型船建造のノウハウは、その後も長らくマンモスタンカー建造などに役だっている。
    大和・武蔵は沈んだが、その技術は継承され、さらに発展を遂げたのであった。
    • 更には、大和を設計した技術者達は、日本初の南極観測船「宗谷」の大改造に関わることになる。
      なお、この宗谷はあの雪風に匹敵する強運を戦前から戦後まで持っているが、ぶっちゃけ書ききれないので詳しくは外部リンクのWikipediaにて。
    • 大和型で培った技術力はもちろん造船以外の分野でも大いに役立った。一例をあげると、戦後復興の象徴・東京オリンピックに先立って「東洋一のホテルを」と建設された
      「ホテルニューオータニ東京」最上階の回転レストランには大和主砲塔を回転させる特殊車輪技術が導入された。
      直径45mの巨大構造体を、コップになみなみと注がれた水が一滴もこぼれない程スムーズに回転させる技術は世界を驚かせた。
      ……のだが、技術者曰く「大和型の主砲より軽いんだし余裕余裕」とのこと。アレと比べれば、確かに大概のものは軽いだろうが……。なお、開業50年を経て現役である。

大和の名

過去の大和
  • 艦名の由来「大和国」はかつて平城京を有した日本の中心だった場所であると共に、扶桑に並ぶ日本そのものを示す代名詞でもある。
  • なお、戦艦大和は大和の名を持つ艦としては二代目で、初代は海軍黎明期の葛城型スループ艦二番艦。
    日清・日露戦争に従軍し、測量艦を経て1935年に除籍された後司法省に譲渡され、浦賀で少年刑務所の施設となっていた。
    最終的に解体されたのは1950年。名を継いだ二代目の方が先に逝ってしまったわけである。
    • 測量艦時代の1926年、二年前に当たる1924年に日本海にて発見された海底山脈の精密測量を実施し、この山脈を大和堆と命名した。
      この発見により、今まで一様に深い海だと思われていた日本海が実は起伏に富む海である事が明らかとなったのである。
    • 何気に武蔵とは初代の頃から姉妹艦。ここの姉妹のようである。
    • 初代大和の初代艦長を務めたのは、東郷平八郎中佐(当時)。
  • もちろん「大和」の名前は彼女が最後であるが、実は一度復活しかけたことがある。
    • 3代目南極観測船として建造されていた砕氷艦の艦名を公募したところ、折りしも宇宙戦艦ヤマトブームもあり、日本人で初めて南極に到達した白瀬矗陸軍中尉が命名した「大和雪原」にちなんだ「やまと」が得票第1位となった。
      しかし砕氷艦を運用するのは海上自衛隊。「やまと」の名前を易々と使えるはずもなく、最終的に戦後白瀬中尉を記念して名づけられた「白瀬氷河」に因んだ「しらせ」という艦名で決着した。

その他の小ネタ

  • 艦内神社は大和国一之宮の大神神社(奈良県桜井市)ではなく、同名の大和神社(奈良県天理市)からいただいている。ただし、読みは「おおやまとじんじゃ」である*58
    • この神社の祭神の一柱には天皇家に連なるとされる太陽の女神、天照大御神がいる。
      イラストレーターのしずま氏いわく、大和のデザインのモチーフにこの女神もあるとのこと。
  • 時報では7時に朝食、12時に昼食、20時に夕食と言っているが、航海中の夏期日課では朝食、昼食、夕食はそれぞれ
    6時15分、11時45分、17時30分、冬季日課では7時、11時45分、17時、碇泊中の夕食は夏期日課では16時15分、冬季日課では15時45分であった。
    • どうして夕食、特に碇泊中がこんなに早いのかといえば、半舷上陸(正しくは入湯上陸)は夕食後となっていたからである。
      乗組員は所属艦船が家という扱いであったのである。

概要

一部艦娘の改造には、アイテム「改装設計図」が必要となる。
2014/07/16現在、改装設計図が必要な艦娘は下記の4隻

入手方法

「改装設計図」は、アイテム一覧から勲章を選択し、使用するをクリック、
「改装設計図に交換」を選ぶことで交換することができる。
この際、「改装設計図」1つに対し勲章が4つ消費される。

改装前後のステータス

  • Bismarck級戦艦:Bismarck zwei
    No名前改造Lv耐久装甲回避火力雷装対空対潜索敵運(初期/最大)搭載速力射程スロット    燃料弾薬燃+弾備考   
    172Bismarck改309493699305805210/?16高速495115210
    173Bismarck zwei50+9694729706205220/8216高速4105135240
  • 利根型航空巡洋艦:利根改二, 筑摩改二
    No名前        改造Lv耐久装甲回避火力雷装対空対潜索敵運(初期/最大)搭載速力射程スロット    燃料弾薬燃+弾備考   
    63b利根改2556777976797907910/?16高速44565110
    64b筑摩改2556777976797907910/?16高速44565110
    188利根改二70+59797977828209015/6918高速4(2,2,9,5)5065115航巡
    189筑摩改二70+58797977838309014/6718高速4(2,2,9,5)5065115航巡
  • 龍鳳型軽空母:龍鳳
    No名前        改造Lv耐久装甲回避火力雷装対空対潜索敵運(初期/最大)搭載速力射程スロット   燃料弾薬燃+弾備考   
    184大鯨-3937391503604820/598低速3(2,3,3)351045潜水母艦
    185龍鳳25+3938492004806420/?31低速3(18,7,6)353570軽空母
    190龍鳳改504857623206207424/7945低速4(21,9,9,6)354075軽空母

終戦前の長門

  • 動けぬ長門から航海長が消え、航海科の士官は前年12月末に着任したばかりの兵科4期の予備士官の高島少尉が一人っきりで航海士を務めていた。
    燃料が使えず、隼鷹から異動してきた艦長の渋谷清見大佐が岸壁に石炭だきのボイラを設置してくれと依頼したくらいだ。
    2月、長門は横須賀鎮守府の警備艦となり、6月には特殊警備艦に艦種変更となる。
    • 特殊警備艦とは、洋上行動を完全に諦めて浮き砲台としてのみの運用が考慮された、戦艦の成れの果てであった。
      副砲の全てと機銃の大半、電探、主砲方位盤、カタパルト、探照灯など装備品の大半を撤去された。
    • 榛名も相当数の兵装が撤去されており、兵装が比較的まともに残っていたのは伊勢日向くらいであった。
      しかし航海用の艤装までも撤去されたのは、当時生き残っていた戦艦4隻のうちでも長門のみである。→戦後撮られたカラー映像(2:00-4:10)
    • 1945年5月、渋谷艦長は少将に昇進して長門を退艦し、次の艦長は応召(予備役になって再度招集された)の大塚幹少将であった。4年前の連合艦隊旗艦の艦長が予備役士官になったのである。
      7月18日に米空母「エセックス」「シャングリラ」「ベロー・ウッド」「ランドルフ」搭載機の攻撃を受け、爆弾3発が命中して艦橋が破損、大塚艦長、副長兼砲術長の樋口大佐以下が戦死し、
      艦の指揮は先任士官で発令所長の奥田少佐がとることになる。
      • 7月末、奥田少佐の指揮で擬装のために煙突頂部や後部マストは切断され、長門と岸壁の間に黒く塗った板が張られ、その姿はあまりに無惨だった。被弾した艦橋は修理もされず、
        12.7cm連装高角砲91式高射装置も全て撤去されたという。
    • 後任艦長に発令されたのは、球磨や大鷹の艦長を務めた杉野修一大佐、日露戦争時旅順港閉塞作戦で犠牲になった軍神として有名な広瀬中佐と共に戦死した杉野兵曹長の長男であった。
      結果的に、戦艦長門が米軍に接収される前の最後の日本人の艦長となった。
      • ところがこの段階で杉野大佐は旅順におり、転勤すら困難な状態だったので、艦長代理として池内正方少将が着任した。千歳の初代艦長などを務めて退役し、
        応召して輸送艦の艦長を歴任したのち、少将に昇進して、北海道、樺太地区の軍需工場の監督官になったが、病気となりその後休養中であったが、歴代艦長に数えられていない幻の艦長である。その状態で長門は終戦を迎えたのであった。
        結局、杉野艦長が着任したのは終戦後であった。

速吸ができるまで

1934年、神戸の川崎造船所で東亜丸というタンカーが建造された。構造上は3年前に建造された富士山丸と同じ、全長152m、全幅19.8m、深さ11.3m、総トン数約10000t、航海速力15ノット、最高速力18ノットの当時としては大型高速タンカーで、洋上で艦隊に給油できる設備を持ち、複数の異なる種類の油を荷役できるようになっていた。また、前部に貨物室が設けられ、平時には絹糸を運搬していたが、有事には補給物資が搭載できるようになっていた。
川崎型油槽船と呼ばれた彼女らは、性能の優秀さ、そして戦時の艦隊給油艦として必要なため、1940年建造の神国丸まで12隻が建造され、この内7隻が真珠湾攻撃の補給部隊に参加している。
川崎型油槽船の性能の高さに、略同設計のタンカーが他社でも建造され、相生の播磨造船所(現在のジャパンマリンユナイテッド)でもあかつき丸、あけぼの丸、そしてエンジンをディーゼルからタービンに変更した黒潮丸が建造されている。
この黒潮丸の設計をベースとして、風早型給油艦になってゆき、高速給油艦は本来の目的である空母に改造されてゆくのである。

一方、種々雑多な商船の設計を統一しようと、1937年以降、標準船の設計が進められていたが、大型タンカーは川崎型油槽船が事実上の標準船になっていたので、1941年に大型標準油槽船(TL型)として設計されたが、全く建造されず、元ネタの方の川崎型油槽船が1943年に久栄丸として建造されている。建造に時間を要していたのは脇で大鳳が建造されていたからであった。
太平洋戦争開戦で標準化をさらに進めるために、第一次戦時標準大型油槽船(1TL型)が播磨造船所で設計された。一部の曲線を直線にした設計になったが、18ノットの最高速力は維持されており、より簡易化した設計で最高速力も15ノットに低下した第二次戦時標準大型油槽船(2TL型)の建造が始まった後も艦隊給油艦として必要なために建造が続き、大戦中に18隻が完成*59、1隻は全通飛行甲板を装備して完成直前までこぎつけるも(特TL型)空母と間違えられ、空襲を受けて着底、1隻が建造中止状態で終戦直後機雷に触れて沈没、3隻が戦後建造を再開して完成している。

ヒ船団って何?

1943年、門司~シンガポール*60直航の高速タンカー船団が設定され、ヒ船団と呼称された。ヒの後に出航順に二桁の数字(奇数がシンガポール行き、偶数がシンガポール発)が付けられているが、実際には出航しなかった空番の船団もある。直航高速タンカー船団ではあるが、高雄やマニラに寄港することがしょっちゅうであり、船団速力も航海速力9ノットと低速船でも加入できる状態であったが、低速船はボルネオ島のミリへ向かうミ船団、継承するミリ~シンガポール間のミシ船団を設定することになり、ヒ船団は高速化される。
ヒ71船団ということはシンガポール行きの36番目に企画された船団ということであり、対潜艦艇の少なさを補うために順次大船団化されていて、このヒ71船団は速吸を含むタンカー6隻、陸軍特殊船2隻、客船・貨物船7隻、護衛艦艇13隻(空母1隻)の計28隻というヒ船団の中でも最大規模の編成となっており、全ての船が最高速力15ノット以上で揃えられていた。

初風小ネタ追加

歴代艦長
 初代  高橋亀四郎 中佐 (海兵49期、第4駆逐隊司令としてスリガオ沖海戦で戦死) 
 二代  岡 三知夫 中佐 (海兵50期、大戦を生き抜き、1979年、78歳で逝去)
 三代  渡辺 保正 中佐 (海兵49期、第1駆逐隊司令として1943年12月18日戦死)
 四代  芦田 部一 中佐 (海兵50期、ブーゲンビル島沖海戦で艦とともに戦死) 

戦歴を見れば一目瞭然、初風は雪風が一緒だと勝利に恵まれ、雪風がいないと負け戦になる。ガダルカナルで損傷した時も雪風はいなかった。
妙高姉さんに首もがれた時も雪風は別の艦の護衛任務で不在だった。*1最大の味方がなぜ公式四コマでトラウマ発生装置となったのか謎である。

ブーゲンビル島沖海戦で敵艦からの砲撃を避けている内に隊列から脱落し、「妙高」と衝突、艦首を切断し航行不能となった。
その後、31ノット・バークことアーレイ・バーク大佐!*2率いる第45駆逐群の集中砲火を浴びて沈没した。
一緒に撤退した艦がいるわけでなく、芦田艦長以下乗組員260名総員戦死。
さて、ブーゲンビル島沖海戦の翌朝、妙高は艦首部左舷に異様な物体をぶら下げていた。激突で引きちぎられた初風の鉄甲板である。
スマートな妙高型だけに、貴婦人のネックレスにボロ雑巾がぶら下がっているようだったとか。
羽黒の田原兵曹の言葉を借りれば「初風の額の皮だよ」。なんてこった、初風の遺品がこれだけだなんて。

戦後、沈没前に転属して退艦した元乗組員は20名に満たず、初霜の小ネタを賑わしたオール駆逐艦便りにも初風の記事はなかった。
乗組員の多くが戦死したですら戦友会があるというのに。この有様に最後の航海長だった岩崎大尉の未亡人が遺族や数少ない生き残りと連絡を取り、
呉の海軍墓地に慰霊碑を建立したのは1989年の事だった。に遅れること3年、に遅れること4年、
すぐ下の妹を含む17駆逐隊に遅れること7年であった。

ある時津風乗組員のその後

沈没時の先任将校兼水雷長であった川口源兵衛大尉は、翌年伊44(未実装)潜水艦長に就任する。1945年2月、硫黄島上陸支援艦隊を攻撃するために、伊368、伊370(ともに未実装)とともに、
回天4基を搭載して出撃した。艦内から乗り込める回天は2基のみで、残り2基は浮上して発進せざるを得ない。2月27日、硫黄島近海80kmまで接近したものの、
47時間にも渡る対潜攻撃の前に、浮上、接近を試みれば戦果なく、被撃沈確実と考えた川口艦長は独断で伊44を撤退させた。時津風の無理な作戦は嫌だという中破時セリフにはこういう思いが含まれているに違いない。
3月11日、伊44は呉に帰投したものの、川口大尉は更迭され、老朽化著しく、練習艦代用だった伊157兼伊158(先代のゴーヤ)の潜水艦長に左遷させられた。
艦長が交代した伊44は、続く沖縄戦に出撃するものの、未帰還となってしまった。
そのまま終戦を迎えた川口少佐(5月昇進)は、潜水艦で酸素を取り扱っていたこともあり、戦後、兵学校同期(66期)とともに、大陽酸素(現在は東洋酸素、日本酸素と合併し大陽日酸)を創業する。

訪欧艦隊

不運な艦暦ではあったが、全く活躍できなかったといえばそうでもなく、1913年11月に開催された第8回観艦式では天皇陛下が座乗する御召艦を務めたり、
1921年の皇太子(後の昭和天皇)ヨーロッパ巡遊の際に編成された第三艦隊の御召艦に、小栗孝三郎中将座乗の旗艦でもある供奉艦には妹の鹿島が指定され、
彼女らの生まれ故郷であるイギリスまで足を伸ばしている。
現在のお召し列車の供奉車は随員が乗るだけだが、石炭炊き故に、補給時に粉塵がさながらPM2.5の如く飛び散るので、殿下に移乗してもらう必要があったのである。
香取艦長は漢那憲和大佐、鹿島艦長は小山武大佐と、兵学校27期の同期が務めたのであるが、漢那大佐は初の沖縄県出身の兵学校出身者であり、
補給のために与那原港に寄港した際は地元出身のヒーローのお国入りとばかりに多数の見物客が集まった。
これが昭和天皇の最初で最後の沖縄訪問となったのである。
漢那大佐は帰国後、扶桑伊勢艦長を経て少将に昇進したが、2年後、予備役編入となり、皇太子をして「なぜ、そんなに早く予備役になるのか」*61
と言わせしめた逸材であった。
その後、1927年に衆議院議員選挙に打って出て当選し、5期務めている。
9月初旬、日本領海に入った時、殿下は耳をふさぎ、目をつぶり、口をふさいだとのことである。&color(Silver){周囲に遠慮せざるを得ないってことなんだろう。
物を言えば、戦争に突き進まなかったかもしれないのに。};

岩井小隊

  • 支那事変から大戦終戦まで戦い抜き、最後まで被弾しなかった無傷の「ゼロファイターゴッド」、岩井勉氏が所属する部隊という設定と思われる。
    岩井氏は大戦時に瑞鳳瑞鶴に乗組、航空母艦の戦闘機エースパイロットとして活躍した。
    彼は下士官*62~准士官*63~特務士官*64であり、史実では「岩井隊」と呼ばれる飛行隊は存在しない。
    「付岩井小隊」という表現はこの事実に基づくものであろう。
    • 支那事変では岩井機含む零戦一一型13機が重慶爆撃の護衛として出撃、27機を撃墜する大戦果をあげる。
      これが零戦の初陣であり、同時に零戦の初戦果となった。この戦闘で岩井機も2機を撃墜する戦果をあげている。
    • 1942年11月、空母瑞鳳の戦闘機隊に転属。
      ガダルカナル島撤退援護やラエ陸軍輸送船団の護衛、い号作戦でのガダルカナル島、オロ湾、ポートモレスビーの攻撃など、多くの作戦で死闘を繰り広げた。
      その活躍と操縦技術から「ゼロファイターゴッド」との異名でも呼ばれていた。
    • 1944年8月に第六〇一海軍航空隊戦闘第一六一飛行隊へ異動。
      • 入手時の機種転換任務で零戦52型丙(六〇一空)を必要とするのはこのためと考えられる。もっとも、実際の使用機は52型、52型甲の可能性が高い。
    • 飛行隊長は翔鶴飛鷹で活躍した小林保平大尉、この装備は小林隊(付岩井小隊)と言えるかもしれない。
      レイテ沖海戦では、10月24日に瑞鶴発艦後に敵戦闘機群の奇襲を受け、これを回避するものの瑞鶴から離れてしまい、主隊と分離してルソン島に不時着する。
      使える機体をかき集めたために、小林大尉機はエンジン不調で瑞鶴に戻り、翌日の迎撃戦に参加し、燃料が尽きて不時着水、初月に拾われるが、
      北方に逃げる小沢艦隊の殿を引き受け、デュ・ボース少将の巡洋艦部隊と交戦して沈没、小林大尉も同様に不時着水して救出された搭乗員同様、初月と運命をともにした。

海域MAP上の表示マス一覧表(練習用)

画像通称名解説
画像スタート地点その海域におけるスタート地点を表示する。
イベントや一部のマップにおいては複数のスタート地点が存在する場合があり、編成やギミック解除などにより出撃のスタート位置が変化することもある。
また、過去のイベントではギミック解除により新たなスタート地点が出現するという演出もあった。
画像戦闘マス
夜戦マス
通常戦もしくは開幕夜戦があることを表示する。
対潜戦闘が主体のときや鬼や姫といった強力な敵が登場する場合は、戦闘前にマップ上に敵艦のエフェクトが発生することが多い。
また戦闘回避や能動分岐も、その出撃において未通過の場合は戦闘マスとして表示される。
画像ボス戦マス
画像航空戦マス
画像空襲戦マス
画像戦闘回避マス
能動分岐
戦闘回避もしくは能動分岐を通過した際に表示される。
通過前の状態では戦闘マスとして表示されているが戦闘は発生しない。(沖ノ島海域でのみ、通過する際のルートによって戦闘マスへと変化する。)
能動分岐の場合は行き先をクリックで選択できる。能動分岐の項目が詳しい。
画像資材マス
揚陸地点
資材の獲得があること、あるいは揚陸地点を表示する。
資材マスの場合、獲得できる物は場所によって固定されている。(資源の獲得量は一定のパターンからランダムで、ドラム缶大発動艇によって獲得量が増える海域もある。)
揚陸地点の場合、すぐ隣に緑の旗が立っており、到達したときに揚陸エフェクトが発生する。揚陸地点関連について詳しくは輸送揚陸ゲージを参照。
画像渦潮マス
画像航空偵察マス
画像ゴール地点(母港)
画像空白マス(ボスマスとスタート/ゴール地点除く)一度も到達していないマスは空白で表示される。

*1 『金星』を18気筒化したもの。離昇2200馬力を目指した。
*2 実は昭和13年、海軍は中島と三菱に開発を打診している。中島が余裕なしとして辞退し、三菱の戦闘機設計チームも十二試艦戦の量産準備中だったために、先延ばしにされることになった。
*3 三菱の空冷星形複列14気筒発動機。なお当時は制式採用前で、十三試ヘ号改と呼称した。
*4 十四試局戦に搭載された火星一三型は離昇出力1460馬力、サイズと世代の近いライト R-2600-1は1600馬力である。ただし火星のほうが270kgほど軽量なのでP/Wでは勝る。よく比較対象にされるP&W R-2800は18気筒なので火星が劣るのは当たり前。
*5 離昇1850馬力
*6 一説によれば昭和19年10月まで遅れた。
*7 ただし、一一型の20ミリ機銃が九九式二号銃だったのに対して増設されたのは銃身の短い一号銃である。
*8 初期の高高度精密爆撃時
*9 高度10000m付近では浮いているだけで精いっぱいで反復攻撃は不可能、またここまで上昇するのに30分近く要した。
*10 高度9200mで315kt、高度10000mまで19分30秒
*11 現代の航空機は、スロットルを前に押すと加速するように統一されている。
*12 金星に換装した場合、航続距離が大幅に減り、自重が100kgほど増える割に最高速度がそれほど増えないと試算されたためでもある。
*13 海軍の方針としては、三菱での零戦量産を打ち切り雷電と烈風量産に集中させ、中島飛行機で空母向けの零戦生産を小規模で継続するつもりであった。
*14 この為零戦の改良は一式陸攻の本庄李郎技師が担当し、本庄が担当するはずだった一六試陸攻は高橋己治朗技師の担当となった。三二型の主翼が他の機と明らかに違うのは、本庄が改設計を行った結果である。
*15 大空のサムライ・坂井三郎は36期生。岩本・坂井の両雄ともベテランだが、そのさらに倍近いの年季を積んでいる。松ちゃんの元上司で三四三空司令の源田実が一年だけ先輩という程度である。
*16 ちなみに赤松氏はあまり知らなかったのだろうか、陸軍では赤松の考え方の方が大勢を占めていて公式化されている。詳細は三式戦 飛燕の項で。
*17 もっともこれは、「大群対1機だと大群側は互いの射線が気になって不用意に撃てない」という心理的盲点を突いたからできた技でもある。
*18 P-47 サンダーボルト
*19 A-10 サンダーボルトII
*20 七九七号艦 46cm砲搭載
*21 七九八号艦、七九九号艦 両艦共に51cm砲を搭載
*22 ちなみに、全長だけでいうと戦艦大和は全長269m強の豪華客船タイタニック号よりも小さいことになる。
*23 当時、米国でも18インチ砲47口径砲が試作されており、アイオワ級に9門搭載する計画もあったが、大和型を16インチ砲艦と考えていたため、不要と考えられた。
*24 パナマ運河を通過できる船舶規格の最大上限のこと。パナマ運河の幅は約33mのためこれを超える艦はパナマ運河の通峡が困難となり、大西洋から太平洋に出る場合は南米をぐるりと迂回しなければならなくなる。
*25 非防御区画が少なくなるため
*26 主砲18インチ(46cm)8門以上 副砲15.5cm三連装砲4基or20cm連装砲4基 速力30kt以上 防御 主砲弾(18インチ砲)に対して20,000km~35,000kmでの命中に耐える 航続距離 18ktで8,000海里
*27 公試状態で浮かんでいるときに側面から艦を見た時の長さ
*28 A-140では3連装3基を全て前部甲板に集中配置
*29 A-140G ディーゼル:70,000 タービン:70,000の併用型
*30 A-140F3、5 ディーゼル:60,000 タービン:75,000の併用型
*31 一度搭載した機関を換装しようと考えた場合機関室を取り囲む分厚い甲鈑を一度切り開かなくてはならないため、工期が長期間に及ぶ事に加え、今後改善される可能性があったとしてもそれでは大和型の竣工が遅れるだけであり、現状の頻繁に故障を起こす信頼性の低いディーゼル機関は主力艦たる戦艦に搭載するには不適格とされた。
*32 同型の艦本式ロ号ボイラーを搭載した比叡では蒸気圧22キロ、加熱蒸気300度となっているため、それよりも高圧・高温の大和型ではエネルギー効率自体は僅かではあるが上昇している
*33 大和と同じタービンを搭載した初春型駆逐艦のタービンが2万1000馬力で、それを8基搭載したことから16万8000馬力を発揮した。
*34 武蔵は公試で16万6520馬力を記録。こちらは15万馬力で運用した。
*35 なお利根型が主砲前部集中しているが、これは水上機を運用するためである。ネルソン級は主砲前部集中に起因するトラブルが多発しており、大和型がこの配置を採用しなかったのは結果論としてよかった
*36 また、航続距離、燃費、艦の小型化のためにタービンとディーゼルの混合搭載案まであった、今で言うCODAS艦であるが、試作としてディーゼルエンジンを搭載した潜水母艦大鯨は、期待した出力を出せなかった
*37 終末運転公試でも最大28.33ノットを記録
*38 出典元 KKベストセラーズ 戦艦大和建造秘録 「第2章 大和建造の記録 軽荷重心公試時重量調査表」P418
*39 出典元 双葉社 戦艦武蔵の最後「戦艦武蔵のメカニズム考察」 P95
*40 艦橋最上部の乗員が揺らされて負傷した
*41 戦艦などの大型艦でシフト配置をした場合バイタルパートが長くなるだけであり、小型艦のように生残性の向上は見込めない。
*42 軍縮条約脱退などで日本が新型戦艦の建造を計画していること自体は諸外国に知られていた。
*43 第二次ソロモン海戦では支援艦隊として出撃し夜戦での敵機動部隊の追撃が試みられたが距離、燃料、索敵結果から途中で作戦を断念し帰投
*44 あ号作戦のため中止
*45 元々支持構造の脆弱性は射撃実験の段階で発覚しており、若干の強化が施されたものの不十分だった
*46 出典元 KKベストセラーズ 戦艦大和建造秘録 「第3章 戦艦大和の生涯 米潜魚雷1本を喫す」P460
*47 出典元 アジア歴史資料センター リファレンスコードC08030566400 『昭和20年4月6日~昭20年4月7日 軍艦大和戦闘詳報』
*48 出典元 KKベストセラーズ 真相・戦艦大和ノ最後 原勝洋 第7章「大和を攻撃した米海軍百十七機」P158
*49 第1波で「ベニントン」搭載VB-82のSB2C-4Eが1機、「ホーネット�」搭載VT-17のTBM-3が1機、「ベローウッド」搭載VT-30のTBM-3(爆装)が1機。第2波で「バンカーヒル」搭載VT-84のTBM-3が1機。第3波で「イントレピッド」搭載VB-10のSB2C-4Eが1機。
*50 第一次攻撃隊の往路で「バンカーヒル」搭載VF-84のF4U-1Dが突如錐もみ状態に陥り、そのまま海面へと激突。
*51 出典元 アジア歴史資料センター レファレンスコード C08030103200 昭和20年年2月1日~昭和20年4月10日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報 (3
*52 出典元 アジア歴史資料センター レファレンスコード C08030566400 「昭和20年4月6日~昭20年4月7日 軍艦大和戦闘詳報」
*53 出典元 KKベストセラーズ 真相・戦艦大和ノ最後 原勝洋 第11章「必殺の一撃は「大和」右舷への魚雷四本」P201
*54 航続距離過大とされ重油搭載量は計画時の6300tから5300tへ減らされ空いた燃料タンクは予備浮力とされた。
*55 海軍大学校は大学ではないので、艦長を学長でなく校長と呼んでいた
*56 猪瀬直樹の「昭和十六年夏の敗戦」にも登場する、その後標的艦摂津?日向の館長を経て着任、後に第四航空戦隊司令官で艦これではお馴染み
*57 兵員居住区の1人当たりの床面積が長門の2.6に対して大和は3.2
*58 双方の神社は鉄道で3駅しか離れていない、山の辺の道のハイキングコースでもあり、間には巻向遺跡もある
*59 この内戦争を生き抜いたのは東亜丸と橋立丸の2隻だけであった
*60 大戦中は昭南と呼んだ、また、華僑が使用していたのか星港ということもある
*61 しかも、3番で卒業した恩賜組である
*62 ~1943年3月
*63 1943年4月~1944年10月
*64 1944年11月~1945年8月
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