No.150 | ||||
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秋刀魚の缶詰 | 戦闘糧食 | |||
装備ステータス | ||||
火力 | 雷装 | |||
爆装 | 対空 | |||
対潜 | 索敵 | |||
命中 | 回避 | |||
射程 | ||||
装備可能艦種 | ||||
駆逐艦 | 軽巡洋艦 | 重巡洋艦 | 戦艦 | |
軽空母 | 正規空母 | 水上機母艦 | 航空戦艦 | |
備考 | ||||
開発不可、改修不可 期間限定秋刀魚祭りにて「秋刀魚」7尾と交換で入手可能 期間限定【食べ物】ミニイベントの任務報酬 任務「精鋭「二七駆」、回避運動は気をつけて!」(x2,選択報酬) | ||||
旬の水揚げされたばかりの新鮮な秋刀魚を使った蒲焼の缶詰です。 脂が乗った秋刀魚を炭火焼で丁寧に仕上げたその味は、そのままでも美味しいですが、 おにぎりと一緒に食すれば美味しさ倍増です。 (戦闘糧食と一緒に発動すると効果倍増です。発動すると消滅します) |
ゲームにおいて 
- 2015年10月9日のアップデートで実装。
- 戦闘糧食と同じく補強増設で追加した補強装備スロットにも装備可能。
- 発動した場合、本人はcond値+12で仲間はcond値+8~+10。戦闘糧食に比べておすそ分けの効果が大きいのが特徴。
- 戦闘糧食と一緒に使う(同じ艦に装備する必要あり)ことで本人はcond値+21、仲間はcond値+17~+20と効果がおよそ2倍になる。
とはいえスロット2つを使う必要があることや、この装備自体の入手可能数に限りがあることを考えると、雰囲気重視の仕様であろうか。
- 戦闘糧食と一緒に使う(同じ艦に装備する必要あり)ことで本人はcond値+21、仲間はcond値+17~+20と効果がおよそ2倍になる。
- 今後の実装次第では二度と入手できなくなる可能性がありえるため、図鑑とアイテム欄埋めで最低1個入手しておくのもいいかもしれない。
- 2016年10月21日に開始された鎮守府秋刀魚祭り2016では秋刀魚7尾と交換で入手可能だった。
- 2017年9月29日に開始された鎮守府秋刀魚祭り2017では秋刀魚7尾と交換で入手可能だった。
- 2018年10月10日に開始された鎮守府秋刀魚祭り2018では秋刀魚7尾と交換で入手可能だった。
- 2019年10月25日に開始された鎮守府「秋刀魚&鰯」祭りでは秋刀魚7尾と交換で入手可能だった。
毎年恒例になりつつあるサンマ漁で入手できるため、取り逃したら1年待っておこう- 2020年10月16日に実装された任務「精鋭「二七駆」、回避運動は気をつけて!」では選択報酬で本装備2つが入手可能だった。
- 2018年5月15日開始の【食べ物】ミニイベントでこれを必要とする任務、報酬とする任務が実装された。
- イベント限定で可能な料理「和定食膳」で必要な素材の一つがこの缶詰でこの料理が任務の達成に必要だった。
小ネタ 
いで大船を乗り出して われは拾わん海の富
いで軍艦に乗り組みて われは護らん海の国 文部省唱歌『われは海の子』
- イラストのレッテルの文字は以下の通り。
品名:秋刀魚蒲焼
内容量:四三二瓦(432g)
納入年月:昭和一六年一二月(1941年12月)
製造者:鎮守府間宮 明石工廠
納入者:鎮守府罐詰株式会社- 実際に、間宮は缶詰製造設備も持っていたらしい。
- 缶詰とは金属缶に食材と水や調味液を詰め、密封して加圧加熱殺菌したもの。*1
- 日本において初めて缶詰が作られたのは明治4年(1871年)であり、フランス人指導のもと長崎県でオイルサーディン*2の缶詰が試作された。
本格的な生産としては明治10年(1877年)にアメリカ人指導のもと製造されたサケの缶詰が初めてである。
このサケ缶が製造された10月10日を日本缶詰協会は「缶詰の日」として制定している。丁度秋刀魚イベント開始の次の日である。- 蒲焼きは主に魚を醤油、酒、砂糖、味醂などで作った濃厚なタレにつけて焼く調理法(照り焼きの一種)。
- 普通蒲焼きといえば鰻が主に使われるが、缶詰では鰯や秋刀魚など安価な魚が主役になる。但し少数ながら鰻や穴子といった高級な魚の蒲焼き缶も存在する。
- 大正から昭和初期にかけて活躍した歌人の斎藤茂吉は鰻が大好物で、戦争で鰻が貴重品になると予期して当時高級品だった鰻の蒲焼き缶を大量に買い占めて戦時中大切に食べていたという逸話がある。息子の斎藤宗吉こと、どくとるマンボウ北杜夫先生にも、終戦直後同居時に時々いかにも惜しそうにもったいぶって一片を分けてくれたそう。*3
- ただ信田缶詰
によると秋刀魚の蒲焼き缶が初めて製品化されたのは昭和22年(1947年)の戦後であり、レッテルの日付と矛盾する。
上記の通り鰻の蒲焼き缶は戦時中存在していたので、もしかしたら秋刀魚も少量軍需用として存在していたかもしれないが、一度焼いてからタレを付ける手間がかかるため味の似たような大和煮の缶詰が殆どを占めていたと考えられる。スマホや深夜アニメがある世界なのであんまりツッコむことも無いと思うが…
- 蒲焼きは主に魚を醤油、酒、砂糖、味醂などで作った濃厚なタレにつけて焼く調理法(照り焼きの一種)。
- 日本において初めて缶詰が作られたのは明治4年(1871年)であり、フランス人指導のもと長崎県でオイルサーディン*2の缶詰が試作された。
- 長期保存がきき、調理の手間がいらない缶詰は、帝国陸海軍も大いに活用していた。
- どのぐらい長持ちするかというと、2015年7月に香川県で発見された昭和19年製造の赤飯の缶詰17個が、中身に全く異常がなかったほど。(検査の結果、若干変質はしていたものの、細菌などは検出されず。)
缶が錆びなければ非常に長い間保存できる。勿論風味は劣化するが
ちなみにこの赤飯の缶詰は、海軍所属だった水兵が両親への手土産として故郷の小豆島にこっそり持ち帰っていたものらしい。
- どのぐらい長持ちするかというと、2015年7月に香川県で発見された昭和19年製造の赤飯の缶詰17個が、中身に全く異常がなかったほど。(検査の結果、若干変質はしていたものの、細菌などは検出されず。)
- その種類は多岐にわたる。赤飯、五目飯、いなり寿司、餅などの主食系や、牛缶、コンビーフ、鯨缶、鮭缶、鯖缶、ウナギやイワシや秋刀魚の味付け缶などの副食物系、ミカン缶、桃缶、パイン缶、みつ豆缶などの甘味嗜好品系、タケノコや松茸など*4の各種野菜の水煮缶など、あらゆる種類の缶詰が海軍で用いられていた。
- と言っても、水上艦艇では中々お目にかかれない種類のものもある。乗員たちがよく目にするのは、酒保で販売されているフルーツ缶各種や、戦闘糧食で配られる牛缶や鯨缶などである。響の松茸カレーのように調理材料として使用されることは多いが、そういう缶詰は口に入れどあまり表に出てこない。
- ではそれ以外の缶詰がどこで使われるのかというと、潜水艦や航空隊にそれから陸戦隊などが主。
潜水艦に積み込まれた生鮮食料品は大体1週間で無くなり、それ以降は延々と缶詰の食事が続くことになる。
なので出撃前の潜水艦は通路その他、積めるところにはすべてびっちりと缶詰の木箱が積み込まれ、乗員はそれを踏んづけて歩かねばならない。食糧を踏むのは多少気が引けたという。
また、潜水艦は緊急時の急速潜航や爆雷攻撃などで艦の釣り合いが崩れ、水中で45度を超える大傾斜を起こすことがある。すると乗員たちや缶詰の大群や便所の中身までもがまとめて艦の中を雪崩落ち、それはそれは言語に絶することになったという。- 毎日毎日缶詰の連続なので、乗員たちもいい加減ウンザリして食欲が落ちてゆく。
なので乗員たちは日持ちのする生の玉ねぎを持参ないしギンバイしておき、各自オニオンスライスにして醤油や味噌で食べていたりもしていた。私物の鰹節もあれば言うことなし。
たかがオニオンスライスではあるが、生鮮食料品に飢えた乗員たちにとってはこの上なき美味だったという。
- 毎日毎日缶詰の連続なので、乗員たちもいい加減ウンザリして食欲が落ちてゆく。
- また、航空隊では搭乗員たちの長時間飛行の際に弁当として使われていた。予め缶詰ごと湯煎しておき、上空で開ければ温かい食事にありつけるというわけだ。
- さらに、水上艦艇では大事なギンバイ対象品であり、一種の通貨というかつまりはちょっとしたワイロの種でもあった。
- 缶詰を保有するのは主計科であり、その主計科の使う調理用スチームや真水や冷蔵庫などを管轄するのは機関科。タカられるのは当たり前だった。
内容としてはこうだ。機関科の古参下士官兵の胸先三寸、調理の時間にスチームのバルブを開けなかったりポンプを作動させなかったり冷蔵庫のカギを開けなかったりする。
アワを食った主計兵が駆けつけてきても「どうも蒸気の上がりが悪い」「ポンプの具合が悪くてねえ」「担当者がいないからカギがどこにあるやら」などとトボける。
厚かましいのになると「我が軍艦赤城も腹が減ったとよ。うん、缶詰を幾つかと砂糖の幾斤かを食わせりゃ直るかもしんねえ」とド直球のタカリすらあったとか。
主計兵も古参になると心得たもので、サッと缶詰その他を持参すれば効果覿面、ものの3秒もせずに突然機械の具合が良くなったりカギが見つかったりする。
あまりに機関兵が悪どいように見えるが、当の主計兵は主計兵で、いつも缶詰どころか食材の上等部位だけ使った豪華な特別食と洒落込んだりしているので、お互い様でもあった。*5
- 缶詰を保有するのは主計科であり、その主計科の使う調理用スチームや真水や冷蔵庫などを管轄するのは機関科。タカられるのは当たり前だった。
- ではそれ以外の缶詰がどこで使われるのかというと、潜水艦や航空隊にそれから陸戦隊などが主。
- と言っても、水上艦艇では中々お目にかかれない種類のものもある。乗員たちがよく目にするのは、酒保で販売されているフルーツ缶各種や、戦闘糧食で配られる牛缶や鯨缶などである。響の松茸カレーのように調理材料として使用されることは多いが、そういう缶詰は口に入れどあまり表に出てこない。
- また、日本海軍で「秋刀魚」というと、魚の秋刀魚そのものよりも「猫さんま」の方が馴染みがあるかもしれない。
すなわち、生粋の水雷屋にして伝説の「大名士」*6、有地十五郎海軍中将のアダ名である。
たいそう立派な口ひげを生やしていたのだが、後ろから見るとまるで猫が焦げた秋刀魚を咥えてるようだったからである。- その妙なアダ名にふさわしく、ご当人の奇行・迷言の数々は駆逐艦乗り野郎の気質を体現するものとして長く語り継がれている。
- たとえば第一水雷戦隊司令官として夕張座乗の時のこと、上陸に浮かれるあまり一隻の駆逐艦が停泊場所を間違えた。
と、有地司令官から間髪入れず発光信号が飛んだ。「穴チガイ、ヤリナオセ」
ちなみに当時の一水戦の編成は第22駆逐隊、第23駆逐隊、第30駆逐隊なので、これを言われたのは睦月型の誰か*7である。
このほか酔って褌一丁で踊り回る、水雷学校校長時には卒業式の訓示で芸者遊びの秘訣を説いて周囲を唖然とさせるなど、エピソードは枚挙にいとまがない。 - 変人であると同時に理論派で精緻な作戦指揮能力に定評があり、なおかつ真っ向唐竹割り型の捨て身の戦術を得意とする猛将でもあった。
神通の項目にある山城相手の「逆落し戦法」のチキンレースと「ヒヤヒヤサセルジャナイカイナ」も、猫さんま二水戦司令官の時の逸話である。
「駆逐艦乗りは出世しない。良くて大佐で予備役」が常識の中で、異例の海軍中将まで出世したことがその非凡さを裏付ける。 - しかし強硬な対米戦争反対派で、開戦論が海軍内外でも盛り上がる中「戦ったら必ず負ける」と主張し続けたことが上層部から疎まれ、開戦前に現役を退くこととなった。
昭和22年、65歳で没。その言葉の通りに日本が大惨敗を喫し、何よりも愛した水雷戦隊が跡形なく潰え去った2年後であった。
- たとえば第一水雷戦隊司令官として夕張座乗の時のこと、上陸に浮かれるあまり一隻の駆逐艦が停泊場所を間違えた。
- その妙なアダ名にふさわしく、ご当人の奇行・迷言の数々は駆逐艦乗り野郎の気質を体現するものとして長く語り継がれている。
- ところで、秋刀魚にかぎらず、漁と海軍、そして釣りと海軍は切っても切れない縁がある。
- 北方の洋上、採れたての鮭やマス、カニなどを現地で缶詰に加工する海上缶詰工場ともいうべきなのが漁業工船。いわゆる「蟹工船」もその一種。
「敵艦見ユ」の信濃丸*8や第一回ブラジル移民船笠戸丸*9、旧病院船博愛丸*10など、錚々たる面々がボロ船と成り下がって余生を過ごす職場であった。
ところが彼女たちは漁獲のために相当きわどい行動をするため、よく領海侵犯の疑いでソビエトの監視艇に捕まったりしていた。
そんな彼女たちを守るために警備の任に就いていたのが第1駆逐隊*11などの海軍駆逐隊だった。
ソ連警備艇へ睨みをきかせるばかりでなく、「何某丸が捕まった」と聞くや駆けつけてソ連当局と交渉、乃至場合によっては隙を見てかっさらってくるのが仕事である。
小林多喜二の『蟹工船』での警備駆逐艦はぼろくそな書かれようだが、漁業の保護もまた、当時の海軍の大事な仕事だったのである。- しかしながら、漁業保護に駆逐艦を使うのは燃費上いかにも不経済であり、駆逐艦自体の構造も北方警備向きにはなっていないので乗員の苦労も並大抵ではなかった。
そこで後年、漁業警備向きの軍艦として専用の「海防艦」が設計建造された。占守型及び択捉型海防艦がそれである。
低速小型ながら暖房・解氷設備は充実、耐氷・復元性に優れ、さらに艦首に菊の御紋章をいただく「軍艦」としソ連艦威圧の効果も充分と、行き届いた設計だった。*12
のちに船団護衛用として大量に建造された海防艦群の設計母体となったのも彼女たちであった。
ところが占守型や択捉型も太平洋戦争開戦後船団護衛に南方へ放り込まれるようになると、北方用の彼女たちはその構造が仇となって大変暑苦しく、乗員を悩ませたという。
- しかしながら、漁業保護に駆逐艦を使うのは燃費上いかにも不経済であり、駆逐艦自体の構造も北方警備向きにはなっていないので乗員の苦労も並大抵ではなかった。
- また、爆雷戦訓練で魚群がいそうなところを見計らって爆雷を投下、気絶して浮いてきた魚を拾うという「爆雷漁」も海軍ならではだった。
これに関しては中でも特に、近場に良質な漁場の多い呉鎮守府所属の駆逐艦の得意技だったという。*13
爆雷が魚群に近すぎると身が崩れて味が落ち、かといって遠いと気絶しただけですぐ逃げてしまうので、結構難しかったらしい。案外実戦的な訓練と言えるかもしれない。- 当然ながら今
も昔
も違法行為である。
…が、旧漁業法では漁業取締が海軍の仕事だったので違法も密漁も無きに等しい有様だった。
- 古い時代には、水雷艇が調子に乗って高松沖かどこかでやってしまい漁業組合が激怒、香川県知事から呉鎮守府長官に抗議が行くという大騒動になったこともある、らしい。
- 中でも最大級の戦果を挙げたのは夕立だろう。
昭和14年、別府湾外で爆雷戦訓練を実施したところ、浮くわ浮くわ、なんと鯛150匹(!)の大戦果。
刺身にはじまり煮物、焼物、潮汁と、2日間にわたって全乗員が心ゆくまで鯛尽くしの料理を堪能したとか。
また別の日も海面が真っ白になるぐらいのイワシの大群を手に入れ、やはり2日間にわたって天ぷらで楽しんだという。
さすが稀代の武勲艦、こういう場合でも大戦果に恵まれるようだ。*14 - 陸奥爆沈事件の際には最上が図らずしてこの爆雷漁をやる形になり、瀬戸内の大鯛を実に50匹も手に入れた。
どういう経緯だったかは最上改の項目を参照のこと。陸奥轟沈が鯛50匹の漁獲を産んだのだった。割りに合わねぇ…… - 漁師たちも心得たもので、爆雷戦訓練で出港するとすぐさま察知して、ぞろぞろと安全距離を保ちつつ艦隊のあとをついてきたという。
訓練中は遠巻きに様子を見守り、終了して艦隊が立ち去った途端一斉に殺到して魚を拾うのである。
このため周囲に漁船が待っている場合、大漁でも全部は拾い上げず、ある程度を残しておくのが水雷屋のエチケットだったという。 - また、部下の「溺者救助訓練中」の報に「鈴木という名の者はいるか」、「活きの良いものを送れ」と返すが上官の嗜みらしい。
- 当然ながら今
- 当時、明治5年の太政官布告を踏まえ、軍服を着て傘をさすことと並んで、軍艦の艦上での釣りは禁止という建前だったが、実際は黙認の形、それどころか従軍記者に艦の上級士官が釣りで一杯引っかけている姿を描写されているような本を大本営が検閲を通して市井に流通させる有様。
それはそうだろう、司令官や艦長たちだって、規則に忠実に禁止禁止と取り締まるよりは、釣果のおすそ分けで一杯やるほうが好きに決まっているからである。
しかも軍艦の周囲は艦から出る残飯が一種の撒き餌のような効果を発揮し、自然に魚が集まる。これを活用しない手はなかった。- 昭和15年、別府に入港した戦艦長門では、航海科分隊長小野崎誠少佐が浴衣がけで夜釣りを楽しんでいた。イカがバケツ一杯釣れたという。
すると上の方から「おぉい、釣れるかい?」という声がしたので「ウン、釣れる」と返事してよく見たら、声の主は連合艦隊司令長官山本五十六中将その人だった。
さすがに困惑して士官室でどうしようか相談してみた小野崎少佐だったが、砲術長や航海長、暗号長たちは至って暢気なもので
「大丈夫だよ、そんなに気になるなら司令部にイカの差し入れをしろよ」
「なあに、そりゃ長官喜ばれますよ。すぐコックを起こして、司令部でもイカの刺身で一本つけさせましょう」といった具合だった。
もちろんその後おとがめなどは一切なく、連合艦隊司令部一同、おすそ分けの新鮮なイカの刺身で一杯楽しんでお終いだったようだ。*15 - むしろ積極的に艦上での釣りを奨励した人としては、秋津洲や利根の艦長として知られる黛治夫大佐などがいる。
乗員の慰安としての意味以上に、釣りをしていれば自然と潮流や天候などの海上感覚を体感的に学ぶことができ、見張りの訓練にもなるからである。
少なくとも艦内にこもって将棋やブリッジをやっているよりはずっと役に立つとの判断からだった。
他にも利根では、真珠湾出撃前に水偵の妖精さんたちがタラバガニ釣りに精を出したとか(戦果50パイ)*16、呉軍港空襲で至近弾により浮いた魚を目当てに近在の漁師たちが小舟で利根周辺へ群がって漁獲したとか、とかく利根は妙に釣りと縁がある艦でもあった。 - また黛大佐は秋津洲艦長時代にも、自分たちが釣りを楽しむだけでなく、敵機の爆撃を利用した漁法で大いに戦果を上げていた。
まず例の「秋津洲流戦場航海術」でさくっとB-17の爆撃を躱すや、すかさず「救助艇用意、捕虜は残らず連れて来い」と命令する。
爆弾落下地点まで力漕したカッターが色とりどりの魚を満載して帰ってくると、とりあえず秋津洲神社に供えさせ、5分ほどしてから「神様が「奉納品はよく見た、生臭くなるからお前らが食べろ」と言っている」と回収、日が高いうちから「酒保開け」を命じた。
乗員一同はB-17からの恵みの刺し身を肴にしょっちゅう大宴会を開き、大いに士気が高まったという。
ちなみに魚はアゴ鯛、犬さわら、ヒラアジなどで、特にアゴ鯛は真鯛よりも味が良い逸品だったとか。*17 - 北方海域で行動中の響でも警戒の合間を縫って釣りの許可が出た。
北方は魚介類の宝庫だけあって、タラやカレイが面白いようにかかり、30分で15~20匹は釣れたという。毎食タラの刺し身が食膳を賑わした。*18
のみならず煙突の廻りにロープを張り巡らして干物作りまでやり始め、響は干されたタラやカレイの干物で満艦飾となった。
しかし残念ながらその後の対空戦闘で、せっかくのこの満艦飾の干物たちは滅茶苦茶になってしまったという。*19 - ところで北方海域では昭和19年、曙も沢庵のエサで釣りにチャレンジし、やはりタラが大漁であった。
しかしいざ刺身にしようとしたところサナダムシが寄生しているのを発見。仕方がないので干物づくりに路線変更した。
ところが来る日も来る日も濃霧で干物は乾くどころか日増しに悪臭を放つようになり、結局泣く泣く全部捨てる羽目になったという。相変わらず巡り合わせの悪い艦である。
代わりと言ってはなんだが、台風一過の秋晴れの朝、伊豆諸島沖などでは、新鮮なトビウオたちが曙の甲板上に落ちていることもあった。
曙の航行に驚いて飛び上がったか、飛んでいる最中に目測を誤って曙へ墜落したかしたらしい。
心得た水兵たちは総員起こし前にこっそり起き出し、秋の栗拾いならぬトビウオ拾いに精を出したとか。
これぞまさに駆逐艦曙御自らによる釣り、もしくは漁と言えるかもしれない。限定グラの釣り人姿は伊達ではないのである。*20 - 前述の北洋のヌシ、第一駆逐隊神風レベルになると、釣りはやるのが当たり前。おまけに「新鮮なタラは身が柔らかくて不味い」と身には目もくれない。
タラの長い腸を取り出し裏返してヒダをよく洗い、2~3ミリに切って野菜と一緒にすき焼きにする「タラのすき焼き」を賞味していたという。
「コリコリとしてちょっとオツなものであるが、あまり食べると精力がつき過ぎる」そうだ。
他にも北洋警備のヒマ潰しに、占守島へ上陸して人を知らないイワナをしこたま釣り上げたりしていた。野犬がいるので拳銃を携帯しつつの釣りだったそうだが。 - 江田島の海軍兵学校沖は一種の禁漁区のようなもので、クロダイやウナギの大物がうようよしていた。
軽巡大井や廃艦平戸などの兵学校練習艦ではその役目を存分に活用し、夜な夜なこっそり釣り糸を垂れて釣果を得ていた。
胴回り10センチもあるような大ウナギが多い時では1晩に1人で5~6匹も釣れたという。
このウナギたちは、ギンバイ料理の手並みも鮮やかにすぐさま焼きたての蒲焼きとなり、密かに賞味されていた。*21 - 釣り針や釣り糸を使わないタコ採りなどもあった。
酷暑日課と言って、真夏のあまりに暑い時間帯は訓練を中止し水泳などに充てられていたが、この時が狙い目。
海中の岩の穴や隙間など、いかにもタコがいそうな場所へグッと握りこぶしを入れると、驚いたタコは手にしがみついてくる。
あとはそのまま浮き上がって戦果にするだけ。哀れなタコは刺し身にされてその晩の酒の肴になる。雷の乗員たちは盛んにこれをやっていたという。*22
- 昭和15年、別府に入港した戦艦長門では、航海科分隊長小野崎誠少佐が浴衣がけで夜釣りを楽しんでいた。イカがバケツ一杯釣れたという。
- 北方の洋上、採れたての鮭やマス、カニなどを現地で缶詰に加工する海上缶詰工場ともいうべきなのが漁業工船。いわゆる「蟹工船」もその一種。
- こういった伝統は現代の海上自衛隊にも受け継がれている。「F作業」がそれである。
作業とはいっても何の事はない、航海中の無聊を慰めるための釣りの許可である。
この時ばかりは護衛艦変じて「漁船さみだれ丸」や「イカ釣り船さざなみ丸」と化す(今は無き編成である「地方隊」所属艦がイカ釣り船とか揶揄されていたのも推して知るべし。大湊港とかな!)。
領海内でやると密漁行為になってしまうため、領海外でしかやらない、ということになっている。それが守られているかどうかは神のみぞ知る(因みに領海線は陸岸から12マイル*23。艦にもよるが護衛艦の見張り台から水平線までの距離がおおよそ6~7マイルなので、その約2倍の距離である。近いと思うか遠いと思うかは人によるが)。
そのほか真偽のほどは不明だが、「航海長か艦長が釣竿持ち込んでたら(艦が)漁場を通過ないし漂泊すると思え」という暗黙の了解めいた言い伝えがあるトカないトカ。
いつぞやのミサイル発射事件では日本海に展開したBMD即時待機中のイージス艦の乗員が陸揚げし忘れた釣竿を活用したという噂まで・・・・・・。
- 他方、帝国海軍では徴用された本職の漁船たちも働いていた。黒潮部隊こと「特設監視艇」がそれである。
外海航行可能な大型漁船を乗員もろとも徴用し、機銃や無線や電探若干と艇長以下海軍軍人数名を乗せて出来上がり。
彼女たちは太平洋上に展開して敵艦隊や敵編隊への警戒の任にあたっていた。
中でもドーリットル空襲部隊を発見した第23日東丸などが有名である。無論第23日東丸も乗員全員が戦死した。- 彼女たちの運命はまことに悲惨だった。ちょっと武装したからといっても漁船のことである。敵に歯が立つわけがない。
敵を発見し「敵見ゆ、地点◯◯」と打電した時が最期。その一報だけを残し消息を絶つのが常だった。
戦争末期には敵も対策をとるようになり、発見次第哨戒機の翼端で無電アンテナ線を切断してから沈めるようになったので、最期の一報すら発せないで沈む例も多かった。
徴用されたその瞬間に死が確定したようなものであり、人知れず洋上にぽつりと浮いて死のやって来る瞬間を待ち続ける、過酷な任務だった。
徴用された407隻の内、約300隻余り(!)が戦没したという。
- 彼女たちの運命はまことに悲惨だった。ちょっと武装したからといっても漁船のことである。敵に歯が立つわけがない。
- 余談ではあるが艦これの運営メンバーは缶詰の同人誌を3冊出版している。
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