練習ページ/44
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護衛空母大鷹
- 戦局の悪化と長期化に伴い、資源地帯と本土を結ぶ輸送ルートの維持が一層重要になってきたことで、遅まきながら日本でも船団護衛を専門とする海上護衛総隊が発足した。それに伴い大鷹も貴重な空母戦力として連合艦隊から除かれ、総隊に転出する。
- 精鋭パイロットが失われ、前線での航空作戦が困難になり航空機輸送の必要が少なくなったので護衛に使ってもよい、と回ってきたのである。
大井篤参謀は大鷹以下4隻の航空母艦を不渡り手形、栄養不良児と酷評している。
性能が不満だったのではなく、どの艦も航空機運搬のため飛行甲板が改造されていて半年以上の長期復旧工事が必要だったり、
はなはだしくは機関が故障だらけで大修理しないと航行すらおぼつかない艦*1すらいることが判明したからであった。
この事は、それまで楽しそうに運用方法を考えていた参謀達を大いに落胆させたという。
ちなみに大鷹は修理のため12月21日から入渠する予定であった。*2
- また同隊の航空参謀の江口英二は、護衛する艦艇の数は不足し海軍の対潜兵器は旧式で特設空母の護衛どころの話ではなく、特設空母の搭載機の対潜能力は不十分であり、当時の海上護衛総隊への配属はあまり歓迎できなかったと語っている。
- ただし、潜水艦にとって艦載機は対抗手段のない天敵であり、潜望鏡深度でも爆撃を受ければ重大な損傷を負う。
制空権さえ取っていれば低速な飛行船ですら脅威である。*3
旧型対潜装備しかないため撃沈記録はそうそうないが、艦載機が飛んでいる間潜水艦は動きを止めざるを得ず潜望鏡深度に上がることも許されなかった。
随伴した輸送艦や海防艦の被害を見ると護衛空母随伴時は夜間に集中している。*4
- なお、真っ昼間に神鷹の搭載機が警戒している中をあきつ丸が雷撃された例もあったり
- 本来は連合軍護衛空母と同じように陸上基地からの航空援護が届かない航路で使用する予定であった。しかし、大鷹達護衛空母が船団護衛に投入されたのは、戦況の悪化によりその航路が閉鎖され、日本の陸上基地に囲まれたいわば内海航路しかなくなったころであった。
- 開戦直後から陸上からの援護が届く航路では、陸軍と海軍の両方の基地航空隊による船団直衛が行われていた。*5
- アメリカ側からは日本の失敗と評価されている。*6また日本側からも、当の護衛空母の雲鷹から基地航空隊を増備し、護衛空母は廃止すべきだと進言されていた。
- それでも廃止されたのは航空機用燃料が尽きた1944年あたりである。
一定の効力はある、と上層部や現場からは認識する声もあったからだ。
- 昭和18年12月の転出から内地にて、搭載機たる931空の97艦攻と訓練を積みながら待機する大鷹に、初の護衛任務が下命された。
- 5月3日、ヒ61船団の護衛戦力として合同、シンガポールまで同行し、無事任務を終えた。帰りのヒ62船団に同行するかたちで本土に戻り、6月帰着。
- 翌7月、今度はマニラまでの輸送船団に同行、8月3日に佐世保に戻る。
- 息つく暇なく6日には再び佐世保を出航、これが最後の航海となった。
- 最後となったのがヒ71船団の護衛である。
- この船団は数少ない大型タンカーや速吸それに、陸軍ご自慢の陸軍特殊船が含まれた大船団であり、護衛も大鷹以下、駆逐艦藤波、夕凪、朝風に海防艦9隻と当時用意できる最高の戦力であった。しかし……
- 8月18日22時28分、夜間のため航空機の活動はできず悪天候と視界不良で船団の隊形維持が困難な状況の中、大鷹はルソン島の北西でアメリカ海軍潜水艦ラッシャーの雷撃を受け、右舷後部のガソリンタンク付近に一本が命中、高さ300mもの火柱が上がり大火災が発生した。
さらに弾薬庫も誘爆、22時40分には左舷ガソリンタンクも爆発。全艦手のつけようのない火の海と化し、僅か8分後に沈没していった。
船団僚艦の目撃証言によれば、暗闇の中で文字通りの「火の玉」と化していたという。優秀な豪華客船として生まれるはずだった船のあまりにも無残な最期であった。
- 激しい雨が降る悪天候の夜間であり沈没まで急速だったため、乗員747名のうち助かったのは137名に過ぎなかった。さらには多数の便乗者も乗っていたが、その総数および犠牲者数は不明である。
学業を終え勇躍赴任途中の少尉候補生200名以上が全滅した*7のを含め、大鷹の犠牲者の総数は1千名を遥かに超えるとみられている。
- 荒れ模様の暗い海上に投げ出された生存者たちからは「ここは御国を何百里……」と軍歌「戦友」の弱々しい合唱が流れていた。
深夜の海上を、か細く陰鬱な歌声を頼りに三々五々漂流する暗澹たる気持ち。生存者のひとりは戦後、この光景を何度も夢に見たという。
- 頼みの大鷹の轟沈に動転したヒ71船団はパニック状態に陥り、船団解散・全速単独航行命令が出され四方八方に四散。しかし、これが裏目に出た。
各船が散り散りになったことで護衛の手が届かなくなり、各個撃破されることになってしまったのである。
帝亜丸撃沈、能代丸被雷大破、阿波丸被雷大破、玉津丸轟沈、帝洋丸轟沈、そして速吸も撃沈。
帝亜丸は2,654名、玉津丸に至っては乗船者の99%の4,755名が犠牲になるという、海難史上指折りの大惨劇となった。
- ヒ71船団は結局、最終的に5隻が撃沈される大損害を被り、さらに海防艦3隻が8月22日マニラ帰投時に沈没。
一個旅団相当の約7,000人もの陸軍将兵が戦わずして死亡し、一個連隊相当の約3,000名の将兵は救助されたものの食料も武器も失って戦力喪失。
さらに1万トン以上にのぼる兵器、弾薬、食料も海没と、ダンピールの悲劇を上回る惨憺たる結果となった。
- また、乗船していた陸軍第26師団は兵力、兵器、弾薬、食料の多くを失いつつも、決戦兵力としてその後のレイテ島の戦いに投入され、米軍上陸部隊と激突し潰滅した。
投入兵力13,778名のうち、戦後帰還できたのは将校1名、兵22名の計23名のみ。師団長以下ほぼ全員がレイテ島の露と消えた。
沈むも地獄、進むも地獄。どこにも救いなどない、悲運の船団であった。
- 以後も商船改装空母を用いた海上護衛任務は続くが、最終的に5隻中4隻が潜水艦攻撃によって沈没するという結果になってしまった。いづれも艦載機が発艦できない夜間に狙われた結果である。