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1940年12月の建造開始より、1年10ヶ月近くを要し、この年1月に伊6でSaratogaに魚雷を命中させた稲葉通宗少佐が艤装委員長として5月中旬に着任した。
夏、艦内神社の御神体を艤装委員長が伊勢神宮に行くと雷雨に降られ、神官からは「御神体を受けられるとき、雨が振りますと必ず幸運が一緒にお供すると古くから言われています」と言われ、公試ではなんの支障もなく順調に終了したため、「横須賀工廠でこんなに順調に出来上がったのは初めて」と工廠の担当部員に言われた。その後の豪運を予想される展開である。
9月30日、竣工し、海軍艦籍に入った。呉へ回航して2ヶ月間の訓練に入り、12月1日、伊34、伊35とともに、第1潜水戦隊第15潜水隊を編成することになる。
12月18日、南方へ出撃する日が来た。岸壁を離れたとき、マスト高々と掲げられた旗には「南無八幡大菩薩」と墨痕鮮やかに書かれていたのであった。末期にはこういう行為は散見されるが、1942年では珍しい。
12月28日、通商破壊の夢を見てトラックへ到着したものの、下された指令はガダルカナル島への輸送任務、しかもノウハウはブーゲンビル島で帰投してきた潜水艦に聞けといういい加減極まりないものであった。その日のうちにトラックを出港し31日にショートランドへ到着。翌1月1日、先に任務についていた伊31がガダルカナルから帰投し、ノウハウを聞いてショートランドを出てガダルカナルへ向かった。
3日夕刻、ガダルカナルへ到着すると、まだ上空に哨戒機がいるはずなのに、深度がどんどん上昇してゆく。ついには上甲板が水面上に出てしまった。機銃では如何ともしがたいが、せめて一太刀とハッチを開けたら、外はほの暗く、哨戒機もいなかった。上昇していったのは、珊瑚礁に乗り上げ、滑り下りるならぬ、滑り上がっていったのだ。伊36の最初の幸運であった。副食、弾薬、医薬品(米はドラム缶に詰めて上甲板上に置かれていた)を揚陸し、病人を便乗させ、5日朝、ショートランドに帰投した。
6日、再度出港し、8日夕方ガダルカナル着、食料弾薬を揚陸し、10日朝にショートランドへ帰投した。戻ってくると、ラバウルまで戻ってこいと司令部は言う。今度はニューギニア島東部が危ういというわけで、ニューギニアへ輸送作戦をしろというのだ。11日にラバウルへ戻って、14日に出港、16日にブナへ到着し、18日に帰投、さらに二回、ブナへ輸送任務を行った。
2月14日、四度目の輸送任務の行き先はラエであった。一年前、台南空の戦闘機隊が大活躍したラエが最早最前線になっていた。*1ラエで揚陸した後、日付が17日に変わった直後、魚雷艇を一隻、さらにもう一艇発見した。急遽深度100mまで潜り、さらに進路を180度変える。魚雷艇は爆雷攻撃をしてきたが、2艇とも明後日の方向に透過していった。どうやら高速すぎて潜水艦の位置を見誤ったらしい。二度目の幸運である。19日にラバウルに帰投すると翌20日にもう一度ラエへ向かい出港、22日夜にラエに到着し、24日朝にラバウルへ帰投、これで輸送任務も終了というわけで翌25日朝にラバウルを出港して27日にトラックに入港、3月2日に出港して、7日に横須賀に入港した。
乗組員は休養のために熱海の温泉旅館(佐世保の潜水艦は嬉野温泉、呉の潜水艦は近くに温泉がないので別府温泉に行っていた。舞鶴?どこだっんだろうね?ろーちゃん。宮津かねえ?)に籠もり、艦のほうは修繕と整備を行い、4月6日午後、横須賀を出港してトラックへ向かった。ところがメインエンジンに不具合があったため、出港時には蓄電池の充電がほぼ放電状態であった。そんな時に限って洋上へ出ると関東南方に低気圧があった。(さすがに4月なので台風ではないだろう。)艦首を風に向け、嵐が収まるまで微速前進で待つしかなかった。どうして潜水しなかったのかって?航走して充電している余裕が少なかったのだ。7日朝、向きを変えて伊豆七島の近くに行き島影に入って潜水すれば低気圧もやり過ごせる、移動中に充電も可能じゃないか、と考えて移動を始めたが、視界があまりなく、島に乗り上げてしまう危険性を考えて、速度を落とした。その刹那、開放されていた艦橋のハッチからどっと大波が入ってきた。潜航には成功したものの、両舷のエンジンが海水をかぶってともに使用不能になっていた。前部、後部のメインタンクの燃料を放出して、浮力を稼ぐことにした。8日朝になって、波はようやくおさまったが、位置を測定してみると銚子の東80カイリだという。波と黒潮によって36時間でそこまで流されていたのだ。伊36なだけに。
左舷のエンジンは使用不能のままであったが、折れたピストンロッドを取り除いて減軸運転で動かせる右舷エンジンのみで9ノットしか出せず、翌9日朝、ようやく横須賀へ入港したのであった。いつの時代も海軍にとって、敵は敵国のみならず、自然もまた大敵なのである。
5月13日、北方部隊に編入され、横須賀をを出て呉に向かう。もちろん輸送任務である。運貨筒の牽引試験を行うが、不成功に終わる。
6月7日、呉を出港し、山風のような悲劇を回避するためもあって、関門海峡から日本海、宗谷海峡、オホーツク海を経由して、13日に幌筵に到着した。
15日、キスカへ向け幌筵を出発、霧が凄まじく位置もつかめず、先行する潜水艦からの電文も入ってこなかった。何よりも霧中で電探射撃を食らうのが怖いので、昼間(夏至前後の北方なので18時間はある。)は水中消音器を用いながら、最微速の2.5ノットでキスカへ向かい、日没後浮上して反転し、敵がいないと判明している元来たコースを3時間戻り、また反転して3時間キスカへ水上航走して電池を充電していた。
23日、伊7の悲報が飛び込んできた。21日にキスカに到着し、物資陸揚げしようとした直前に敵の砲撃を受けて、一弾が艦橋に命中し、潜水艦長や隊司令ら5名が戦死するものの、潜航に支障のない損害だったので、先任将校の指揮で沈座して難を逃れ、敵が去ったことを確認してから浮上し、物資の揚陸も完了した。23日夜、水上23ノットの速力で強行突破して脱出しようと出発するも、駆逐艦3隻に待ち伏せされて一弾が司令塔に、また、別の一弾が原則に命中して潜航不能になってしまった。14センチ砲で対抗するものの、霧の暗夜、どこに敵がいるのかわかない状態である。先任将校と機関長も戦死し、14センチ砲も破壊されたため、指揮を取った砲術長が反転し座礁させて生存者43名は陸上部隊に収容された。なお、艦体は翌24日にキスカ守備隊によって処分された。伊24、伊31、伊9に続く4隻目の喪失であった。
これを受けて24日早朝、潜水艦での輸送を中止する電文が発せられて進路反転、25日に幌筵に到着した。そう、水上艦で撤退させようという作戦が決定したのである。
7月2日、幌筵を出発し、撤退部隊の支援紹介任務に出撃した。キスカと遠く離れたアムトチカ島の北方なので、交戦の可能性もない気楽なものだったが、今度はいつまで経っても任務終了の電文が来ない。一度第一水雷戦隊が引き揚げても潜水艦部隊は張り付いたまま、再度の出撃、突入、帰投を聞いて、幌筵に戻ったのは8月4日であった。そして8月10日、横須賀に入港した。
メインエンジンの修理に長引き、横須賀を出港したのは9月8日であった。
だが、両飛行兵曹長は戻ってこなかった。
同じニューブリテン島である。
艦長交代、そして回天を搭載することになる。